しにあの旅人さんへのコメント一覧(20ページ)全511件
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たぬきや総本舗「狸庵」
おたぬきさまたち勢揃い、壮観な眺めです♪
賞味期限問題を抱えてお忙しい中、どうしてもこの「たぬきさんたち」でブログ一個!書きたくなられたお気持ち、お察し致します^ ^
『今日、陶器たぬきといえば信楽、と言われるほど日本中に信楽狸を浸透させた第一人者、「狸庵」の初代藤原さん、信楽狸の元祖。修行中に、いわゆる狸の腹鼓を目撃し、後に日本一大きい土瓶制作依頼を受け、夢で「狸を作りなさい」とのお告げを受け、陶製狸の置物作りに専念する事に。昭和天皇が信楽行幸の際、沿道に旗持ち狸を並べ、
天皇が「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽の狸をみれば」と詠われた歌のマスコミ報道をきっかけに全国的に大流行する事になった。』(←google りました♪)
たぬきのうどん屋さんには入られなかったのですか?メニュー一覧見たかったですね~
千畳敷のくだりの意味が分かりません?!?(平らに広がった地形、とか?)
聖武天皇の引っ越し好き、強迫観念越えて、やはり常軌を逸し狂気じみている(°_°)
金魚鉢の中でああだこうだ(叔母さんと甥っ子とか、近親相姦的な、近親婚とか)やってたから~の弊害、遺伝的問題があった、という様な説はどこぞにありませんか?
↑と、尋ねようと待っていての番外編(笑)
完全にスカされた観(-。-;Re: たぬきや総本舗「狸庵」
おはようございます。
昭和天皇が出てくるとは。シガラキのタヌキも奥が深かったのですね。知らなかった。昭和さんは聖武さんの子孫ですから、いいのではないでしょうか。
そーいうことは知らず、ただタヌキに感心したタヌキ街道でした。昭和さんと同じ、久しぶり、童心に帰って気持ちよく驚きました。
その割には、千畳敷がどうのと、邪心がありありという声もちらほら。
とにかく、一度、ついででいいので通ってみてください、タヌキ街道。
タヌキのうどん屋に入らなかったのは、失敗。入ってタヌキうどんの写真を撮れば、それだけで愉快なブログ1本書けた。
古代天皇の近親婚の話、多分研究している方はいると思いますが、あまり愉快な話ではないので、突っ込まないことにしています。By妻が言っていた、右も左も似たような顔立ち、という不気味な世界だとは思います。
賞味期限を心配するほどネタがいっぱいというのは、嬉しい話です。この時期は畑も暇だし雑草も意地悪しないし、ネタのブログ化に鋭意励んでおります。2021年12月17日05時50分 返信する -
元正天皇は美人だった!
こんにちは、しにあの旅人さん。
タイトルの旅行記、六国史旅を楽しく拝見で~す。 この聖武天皇の時代はいいですね、胸がわくわく・どきどきする私です。 ややもすると女性は歴史からは脇役かもしれませんが・・・・・、この時代はどうしてどうして。 私は元正天皇も、(吉備内親王だけでなく)興味ある人物です。 このお方は美人?、確か私も以前の何らかの資料で見た記憶があります。(美人が故に一生独身だった) そして聖武天皇を補佐する強力な政治力の持ち主だった。 そんな印象をを持っている私です。
それともうひとつ、我が岐阜県の自慢を紹介させてください。 我が家より車で40分程西にある養老公園(養老町)です。(3年前に紅葉を見ていました) ここは717年.9月に元正天皇さんが御幸され、美泉を浴びられたところです。 この地の養老名が先だったか、717年の養老改年が先かは定かではありませんが。 いずれにしても、我が岐阜県にも、元正天皇のゆかりの地となり今も息づいております。
素敵な旅行記をありがとうございます。
ryuji
Re: 元正天皇は美人だった!
元正さん美人説は漫画も含めあちこちに出てきます。大元はこのブログに書いた、続日本紀霊亀元年(715年)9月2日の記事です。「婉孌」だそうですよ。どうしても色っぽいという印象ですが、私の漢字理解力がヨコシマなせいです。
聖武天皇は、二十歳くらい年上のこの伯母さんに憧れていたのではないかと。続日本紀は行間に、なんとなくそういうふうに思わせるような書き方をしております。これも私のヨコシマな読み方かな。
元正さんはあまり旅行が好きではなかったようです。その元正さんがわざわざ行幸されているという養老町、さぞ美しい町でありましょう。「美泉」というのは温泉ですね。
養老改元だけじゃつまらない。美貌の天皇が温泉に入ったとか、地元に何か伝承でもあるのでしょうか。ほっておけない話です。
今年の7月に大垣を通りました。近くですね、知らなかった。2021年12月14日06時06分 返信する -
娘さんは「きゃつきゃつ」と元気( ̄∇ ̄)
昔も今もこれだけは変わらない。
なんだか諸行無常を感じてしまいました!
ホントは喜ぶべきこと?なのでしょうが。
こんばんは、しにあさん&by妻さん
気まぐれ聖武は、恭仁京の完成を待たずに飽きちゃったんですかぁー(?_?)
常識や理屈で、この時期の聖武の心理を説明するのは不可能ですねぇ。
それにしても、大寒のさなか、原っぱに幔幕を張り巡らしただけのところで儀式?とは、お勤めとは言え、貴族様たちはたいへんでしたね。
主君の気まぐれにつき合うのも、いい加減嫌になったことでしょうよ。
話は変わりますが、家持の「いぶせき」歌は恭仁京で詠まれています。
久方の 雨の降る日を ただひとり 山辺に居れば いぶせかりけり
恭仁京は山の中で、しかも雨が降り続いていたようです。
鬱々と気がふさいだというのも無理はないですね。
紀郎女という女性(既婚)からの歌に応えて詠んだものだそうです。
でもなぜか紀郎女の歌は、万葉集には載っていないとか。
家持は、女性から気合いの入った思いを打ち明けられると、どうも気力が失せるタイプのように見受けられます。
笠郎女という人が、家持に激しい恋の歌を送ってきますが、それに応えた家持の歌は、みんな気力を削がれた感じのものばかりです。
家持の歌で傑作と言われる物は叙景歌であったり、自然の事象に己の孤独や孤愁を重ねたものが多いようです。
恋に対しても、完全燃焼できないタイプなんですね。
こういうどこかに虚ろさを抱えていたところが、聖武とリンクするのです。
家持は案外聖武と気が合ったかもですね。
家持が出てきたので、つい家持の話になってしまいましたが、聖武に振り回された周囲の人々は大変だったでしょうね。
何も知らない娘たちだけが「きゃつきゃつ」と笑い、堀辰雄もこの無邪気な明るさに心が慰められたのでしょうか?
私は逆だったのではないかと思ってしまうのですが(^_^)
前日光Re: 娘さんは「きゃつきゃつ」と元気( ̄∇ ̄)
紀郎女の歌4-769、教えていただいて有り難うございます。
4-762では女郎の名を小鹿と書いています。なんで家持は紀郎女の本当のファーストネームを知っていたんだ? うーん、2人はあやしい。
でも764の返歌なんて、紀女郎をからかっているみたい。どうなんだろう、この2人。
そもそも紀郎女って、年上の人妻ではないですか。
バルザックの「谷間の百合」みたいなものか。
前後に坂上大嬢に家持が送ったラブレターいっぱいありました。のちの奥さんですよね。まあ、家持さんも、万葉集に妻へのラブレターをいけしゃあしゃあと載っけるなんて、ああ、恥ずかしい。
いずれも家持が恭仁京にいた頃の歌で、事前にしっていたら、もっとおもしろく出来たのにと、ちょっと残念。
太宰府に行ってきました。大伴旅人の妻の死後、太宰府には妹の坂上郎女が行っています。そのころ旅人には、ご存知のように、児島という現地妻がおりました。郎女さん、お兄さんになんか皮肉みたいなこと言ってませんか。
「妻が死んで哀しいとか言っているわりには、お兄さんも結構やるわね」というようなこと。そういう歌があったら教えて下さい。
「旅人@九州」というのが、今回の九州旅行のテーマです。
黒の瀬戸、隼人と並んで、太宰府が旅人旅のメインでした。小物を片付けてから、リキを入れて旅人をやるつもりです。
2021年12月12日20時58分 返信する -
恭仁京跡地VR構想♪
しにあさんy妻さん、長旅のお疲れも癒えぬ間に、寸暇を惜しむブログ制作、恐れ入ります♪
上空10mのドローンから~、西の内裏の天皇目線から~、などなどあらゆる視点からの写真と懇切丁寧な解説にも恐れ入り(°_°)
が、しか~し、二次元解説(地図、説明)をどんなに脳裏に刻んで挑んでも、三次元(現実世界の道、建物、内部構造など)に置き換える能力が甚だしく欠けているわたくしには、
猫に小判でございますm(_ _)m 平たく言えば、方向音痴!?なので恭仁京の立体画像がイメージ出来ません(-。-;
だからといって、今流行りの、メガネをかけてその地に立てば、あたかも現実に在るかの如き立体映像が立ち現れる!?とかいうVRとかいう技術を用いては、しにあさんの「その地に立ち、時代の風を、かほりを感じながら、脳裏にイメージ心に心象を思い浮かべる」というかけがえのない体験の対極、の行為になりますね。
3択問題、迷わず樹木希林さんを選ぶ→破天荒な連れ合いにどこまでも寄り添う、という解釈になるのですか?それだと自分のセリフイメージとかけ離れてしまいます(笑)
さてここで、5択問題です♪
あなたは旅のお供、ライオン、牛、馬、猿、犬、と共に旅立ちます。旅の途上でやむにやまれぬ理由で、1人づつお別れ(手放す)しなければなりません(TT) あなたはどの順番でお別れしますか?(お断り)5択の一つが、犬、だったかどうか?
毎度、ブログに無関係なカキコでございますm(_ _)mRe: 恭仁京跡地VR構想♪
5択問題。私は最初にライオンを手放す。食費がかかりそう。最後は馬かな。乗って楽できる。By妻は牛は最後まで取っておく。可愛いから。
このブログはもともと1本で、長すぎるので分割しました。字が多い上に、写真が50枚超えたら皆さん迷惑。前編を忘れないうちにと、連続させました。
九州でたっぷりネタを仕入れてきましたから、前のやつをがんばって仕上げております。月3本を4本か5本にしようと努力中です。じゃないと九州ネタが古くなっちゃう。
次の紫香楽は、現地の案内板に3Dイラストがありましたので、使わせてもらいます。恭仁京も近くのくにのみや学習館が開いていれば復元模型があったらしい。2度とも閉まっていました。コロナだからしゃあない、というところです。
VRなどというものが出てきたら困ります。動画の大先輩pedaruさんがそのうち何かやるかもしれません。
私の場合、「時代の風とかほり」を文章と下手な写真で紡ぎ出すように頑張る。
写真といえば、今回の九州旅行で、アクションカメラというものを使いました。要するに頑丈な小型カメラを2mの長い棒の先につけて、iphone でリモートコントロールしながら写真を撮るというシロモノです。簡易ドローン、一応俯瞰写真が撮れます。そのうち出します。2021年12月12日06時35分 返信する -
元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
いつもの事ですが、しにあさんのブログ内容や写真、動画へのコメントから逸脱しがちな、我田引水的なカキコでございますm(_ _)m
740~45年の僅かの間に3度ものお引越し(*_*)挙句平城京に戻る!この破天荒さの理由は古代史の謎だそうで? 前日光さん、しにあさん説の先人たちの怨みを一身に引き受け、虚しさと罪悪感、強迫観念に引き裂かれた狂気?のなせる業かもしれませぬ。
話は遡って、藤原京→平城京遷都の表向き理由は3つある様ですが、私的オシは不比等が例によって己が血統を天皇家に残す、外戚としての地位固めの為、首皇子の皇位継承を公にする場、としての平城京、豪族貴族の影響を除いて政治改革を進める為の遷都、を文武天皇時代に画策主導した!(私利私欲、利益誘導、ですが、←ココまでとこの後↓は名宰相、というテーマで、繋がっている事に(笑)
聖武天皇の最側近は橘諸兄、でしたっけ?歴史上にいた名君を補佐する参謀、事実上の最高権力者、政策立案し政治を動かした名宰相(中国史の太公望、周公旦、管仲、呂不韋、晏子みたいな←日本史の例が思い付けずm(_ _)m)としては、常識から大きく逸れた主君の気紛れ、気の病を、何とか止める手立ては無かったのでしょうか?
遷都のたびに課される重税、労役に荒廃したであろう人民の暮らし、心を思うと、天皇の暴走を阻止出来なかった政治家に“喝!“
10万円÷2=5万円+クーポン+800億円(°_°)とか、選挙の度に耳に心地よいキャッチコピー、スローガン掲げて、何兆、数千億の予算を付けて、その結果を一切検証せず、一体私たちの税金は何処へ?(TT)現代にも待たれる名宰相♪
私が平城宮跡のブログ書いてる時に見つけた、「大極殿に使われた発掘されたレンガの数2400個と実際に使われた12000個の差、9600個は遷都して恭仁京でリサイクルされて
た」説、ほんとだったのですね。
元明天皇は持統さんの姉妹?って事は、草壁君は叔母さんと結婚?聖武天皇も光明子と、叔母さんですね(-。-; 光明子はあの不比等と橘三千代の娘です、菩薩観音であろうはずはない!
ドローン撮動画も楽しく拝見しております♪ 加えて、ドローン携えてなくても、こちらのシリーズで日本史へ誘われ、注意喚起(若い女性、ではありませんが(ーー;)、興味を惹き起こされて、忘れていた古代史の学び直し^ ^という稀有な機会をくださったしにあさん、by妻さんに、今更ながら感謝^o^
長々とお邪魔しましたm(._.)m消えた時の用心に、コピーしておこう♪Re: 元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
レンガが恭仁京でリサイクルされていたのですか。どこだろう。大極殿の前あたりだと、今の小学校ですかね。掘り返すわけにはいかないし、建て替えの時が楽しみ。
歴史散歩の旅に皆さんを引き込みつつあるらしく、満足々。石ころひとつあればいいので、この旅は安上がりなのです。
あの時代は同母兄妹以外は結婚okでしたから、伯母甥なんてめずらしくもありません。したがって、By妻によれば、皆さんよく似ていたはず。右を見ても左を見てもそっくり、なんてかなり不気味です。
聖武さんはこのあと、支離滅裂というか、ひっちゃかめっちゃか。多分精神的におかしかったんでしょう。続日本紀の詳細な記録があるので、だれか専門のお医者さんが診察してくれませんかね。
でも奈良に戻ってからは直ったみたい。
ついていくお役人も大変で、あきらかにサボタージュしている。
九州では、久留米は2度とおりました。薔薇をもった美魔女を探しましたが、遭遇できず。
2日3日あたりの福岡は寒かった。あのあたりはあんなに寒いところでしたっけ。
福岡空港のお店で、寄せ鍋の素をいっぱい買ってきました。福岡県人はあんなにおいしいものを毎日たべているのですか。2021年12月09日07時09分 返信するRe: 元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
平城宮跡大極殿の前面に築かれたレンガの積まれた巨大な壁の中で、発掘されたレンガ数<元々の使用された数、から残り9600個は恭仁京遷都で利用された?説があるそうです。
で、しにあさんも、運んで組み立てた!と書かれているので、そうなんだ!と結論。
えんれんな元正太政天皇と聖武天皇も叔母さんと甥っ子?近すぎる距離感? ココんとこ、更なる掘り下げが期待される♪
身内の不幸は11/27深夜でした。久留米を通られたのですか?2度も(*_*) あ~、連絡手段を講じておけば、何とかなったのでは(TT) 久留米を通る!と知らせて頂けていたら? 返す返すも無念、でございますT_T 自分の無作為が悔やまれます。
逃した魚は大きかった~
冬場は週に一度のノンアルデー、以外、毎夜ほぼ、鍋♪(←手抜き、とも)2021年12月09日09時36分 返信する -
改めまして。。。
しにあさん&by妻さん。
同じ事は二度と書けないものですが、なんとか思い出すようにします。
要するに聖武天皇のことばかり書いたような気が。。。
聖武天皇は、確かに元祖4トラベラーかもしれませんが、彼の場合はうれしくてそこに出かけるのではなく、何か脅迫観念みたいなものに突き動かされていたように思います。
国分寺や国分尼寺を建て、大仏を造立しても、どこかに満たされないものがあって。。
多くの恨みを抱いてこの世を去った人々の怨念が、彼に集中的に取り憑いているのではないかと。
精神がズタズタだったので、伊勢巡行の途中で恭仁京に遷都してしまうなんていうことになったのでしょう。わがまま・気まぐれというよりは、狂気が混じっていたのではないかと。
そして光明子ですが、私もしにあさんと同感で、この人は慈母観音のようではなかったと思っています。
だって父はあの腹黒い不比等ですし、母は上代切っての女傑である橘三千代ですからね。
この策略に長けた夫婦の娘光明子、うーーん、聖武は逃げ場がありませんねぇ。
平城京から逃れ、恭仁京や紫香楽宮等々を彷徨ってみても、心は虚ろで。
なんともこの天皇はかわいそうでなりません。
元正女帝は美女だったそうで。
草壁の第一皇女ですよね?
元明女帝の娘で持統の孫?
しかも祖母の持統と母の元明は姉妹。
血が濃いですよねぇ。
草壁って、あんなに頼りなさそうなのに美しい娘を残したのですね。
「氷高」っていう名前がいいですよね!
氷のごとき高貴な美しさを、名前から連想してしまいます。
元明も元正も在位期間は10年にもなりませんが、古代史に燦然と輝く二人です。
とりとめがなくなってきました。
恭仁京跡の道を行く小学生たち、聖武が苦悩に満ちて佇んだかもしれない宮跡に、彼らの声が響いて、しにあさんの飛ばすドローンに反応する小学生の母たち(まだ若い(^_-)、それを冷ややかに眺めるby妻さんの視線が、聖武のおぼつかない眼差しと上空でリンクしたかもしれませんね( ・∀・)
前日光Re: 改めまして。。。
よくやるんですよね、せっかく書いた文章がパア。私はiPadのメモで下書きします。こいつは自動的にセーブしてくれるので、全面パアはなんとか防げます。
聖武天皇強迫観念説は全く同意です。恭仁京の後、紫香楽宮、甲賀寺と回って、この人が元祖ヒッキーであることを確信しました。何かを怖がって、狭いところに引きこもりたかった。
第1稿はできているので、強迫観念ヒッキー説を補強します。
「心は虚で彷徨った」というのは正確だと思います。続日本紀の作者が言いたかったのは、そのことかもしれません。そう思ってみると、そう読める箇所がいくつもある。
このあと触れますが、続日本紀の空白を埋めるような歌が万葉集にあります。例によって、万葉集家持陰謀説がまた登場します。晩年の家持は、聖武天皇にどういう気持ちを抱いていたのかな。
元正天皇は生涯独身で美女でした。「薬師寺縁起」では、女帝のことを「姫帝」、「きてい」と書いています。ひめのみかど、元正天皇にはぴったりです。ただ私は、聖武天皇と元正太政天皇の距離を疑っております。天皇と太政天皇の関係には近すぎる。続日本紀はしつこく書いています。作者は何を言いたいのか。
途中番外のなんちゃら紀行が2編入りますが、8回の予定です。九州でしこたまネタを仕入れてきました。がんばらないと九州ネタが腐っちゃう。2021年12月08日08時18分 返信するRe: 改めまして。。。
聖武天皇と元正太政天皇についての少女コミック版は、残念ながら見かけませんが、元正天皇(というか氷高)と長屋王、不比等のならありますよ。
今はたぶん作家活動をされていないと思うのですが、秋田書房からコミックスが出ている「長岡良子」さんという方がおります。
その人の「古代幻想ロマンシリーズ」に「天(そら)ゆく月船(ふね)」というのがあります。
これがまた妄想をそそられる作品でして。
幼くして父(草壁)を亡くした氷高は、父を美化していて、子どもの頃に出会った不比等(氷高から見たら大人の男性)に、潜在的に憧れを抱いておりました。
年頃になって長屋王に言い寄られますが、どこかで彼を拒絶してしまい。。。
後になってその原因が不比等に対する思いだったことに気づくというお話です。
長岡さんの絵は、正統派少女漫画のそれで、大変に美しく、氷高は殊に美しく描かれております。
また不比等も魅力的なイケメンとして描かれていて。
この漫画を読んで、私は不比等に対する見方が変わったのでした。
不比等を主人公とした「眉月の誓い」というのも、なかなか素晴らしい作品です(^_^)v
前日光2021年12月08日16時19分 返信する -
姉妹で同じ男性に嫁いだからこそ・・・
しにあの旅人様
旅行記表紙の二上山にウットリです。
太田皇女と菟野皇女は同母姉妹ですし小さい頃はきっととても仲が良かったでしょう。
でも結婚して子供が生まれると誰よりも近い間柄なぶん、対抗心も相当だったと思います。
漫画『天上の虹』を読んでのイメージになってしまうのですが、菟野よりも太田のほうが女性としては愛されていたんじゃないかと。
余計に姉が憎くなるでしょうし、その子供たちも可愛がれないと思います。
しにあの旅人さんが仰るように、天武にとって菟野は戦友であって愛おしむ存在ではなかったのだろうなと思います。
それにしても大津が亡くなったのが24歳頃だとすると、どこかに落とし胤が居てもおかしくないとは思います。
彼の血がどこかで生き残っていることを願わずにはいられません。
聖武天皇時代の服はあんなに煌びやかになったんですね!
技術が一気に進歩したのかな。Re: 姉妹で同じ男性に嫁いだからこそ・・・
おはようございます。
大来大津の姉弟は日本書紀でも私にはいちばん感動的なお話です。万葉集や懐風藻とも連動しているので、面白さ100倍です。
太田、菟野の姉妹は、この時代子供の頃は一緒に暮らしたはず。2人で天武さんに嫁いでからは、あまり仲がいいとは思えない。
「天上の虹」に2人が出てくるのですか。少女コミックまでは手が回らないので、見ておりません。
菟野さんは、その後の日本書紀や続日本紀を読むと、すごい人物のようです。壬申の乱や、古代律令国家は、基本は菟野さんつまり持統天皇のアイデアで、天武天皇はそれを実行したのではないかな、って思ったりします。
菟野さんは天武さんにとって、あまり可愛げのある女ではなかった見たい。
大津皇子には子供がいたという話が後世できたようですが、信頼性は低いようです。
残念。2021年11月21日06時00分 返信する -
未練……
奈良六大寺大観、4.7kg、古本でも¥6744するという、例の本、(美人さんしかいないらしい!)しにあさんとこの図書館で、とうとう手にされたのですね。
薬師寺縁起の「大津皇子が悪龍になって祟った」という記述が、「若宮」は祟り神を祀る事から若宮社と結びつき、大津皇子を祀るという類推がなされた。それが龍神を祀る龍王社とごちゃまぜになり、結果的に龍王社は大津皇子を鎮めるお社だ、という伝承になったのでは? という事でした。
『明らかではないが~らしい、定かではないがしかし~必ずしも不自然ではなかったと思われる』まるで官僚の霞ヶ関文学?かのようなもってまわった、まどろこしさ、ですが、竜王山の神社に(薬師寺に)大津皇子と伝えられた木像が安置され、大津龍王社、大津宮と呼ばれていた。多田教授も、しにあさんに負けず劣らず、この説への思い入れ相当深い、熱いモノを感じます。
今節、発掘調査や新たに見つかった文献などによる、歴史の再確認、書き換えもあるある、ではありませんか?遠からぬ将来、お二人の熱い思い、未練?を裏付ける証拠物件が発掘されるやもしれませぬ!?
美男美女の定義は時処変われば~、でございますが、寄せられた眉間と切れ長の目元は憂いを、今流行りのアヒル口はこの世へのやるせない想いを感じる、気品溢れる皇子像。大津皇子像が存在している事に驚き、嬉しく拝見♪
きっと悪霊になって祟るタイプじゃない!と思います。Re: 未練……
さすが多田教授、根拠はしっかりしていました。
ただ結論は、多田教授は「だから大津皇子由来だ」と断言。
大観と奈文研レポートは、「じゃないかな~」と歯切れが悪い。
両方とも、なんとか竜王社は大津皇子であってほしい、というロマンですね。
分かる、実によくわかります。
私たちなんて、本心は、絶対そうなんだと、思っていますからね。
でもまあ、しゃーない。専門の研究者がそういうんだからと、とりあえず空振りです。
kummingさんおっしゃる通り、なんか、文献とか、発掘調査とか、新しく出て来ないかな、という今日この頃。
諦めていない、歯切れ悪し。
文献と考古学的事実に矛盾しなければ何を言ってもいいというのが、私たちのスタンスですが、矛盾していなくはないし、しているような、というのが一番困ります。
木像の写真をつくづく眺めました。皇子の木像があることは知っていました。40センチない小さなものだとは知らなかった。こういう悲しげな表情の像というのは他に知りません。大津皇子の物語にぴったりなのですよね。
奈良博に保管されています。公開の予定はないそうです。けち!
いろいろ古代ロマンに遊ばせてもらった、重い本でした。
美人の司書さんに返してきました。2021年11月20日05時58分 返信する -
猿丸神社
しにあさん&by妻さん、こんにちは(^-^)
16日に話題の「三県境」に行ったのはいいのですが、その後また体調不良で、夕べ辺りからやっと調子が戻ってきました。
夜遅くまで起きていると相棒殿がいろいろと宣うので、コメントが書けませんでした。
さて南山城禅定寺も面白そうですね!
でも現在の私の体調ですと、どこに行くのも難しそうです。
県内に少し行っただけでも、調子が悪くなるというのは困ったことです。
しにあさんの旅行記を拝読して、マニアックスポットの気分を味わうのが現在の楽しみです。
さて「猿丸神社」ですが、人麻呂とは関係がないのでしょうか?
その辺り一帯の地名が猿丸なので、猿丸神社というだけなのでしょうか?
とても気になります。
ところで実は栃木県の旧今市市(現日光市)には「人丸神社」というのが、二カ所もあります。
そのうちの一つを訪ねた旅行記がこちらです。
↓
https://4travel.jp/travelogue/10196498
この周辺には、岩崎観音というこれまた不思議スポットがあります。
「猿丸」とか「人丸」とか、人麻呂と関係があるのでしょうか?
気になって仕方ありません。
by妻さんと同じように、私も「猿丸神社」なんて見かけたら「寄ってよ!」と言うに違いありません。
感覚的な所が似ているなと、旅行記を拝読する度に思います。
しにあさん、この時もby妻さんの意見を無視するのかと思いきや、帰りにやっぱり立ち寄りましたね!
さすがです!(^^)!
これからも奥様の意見は尊重すべし!ですよ。
面白い発見があるに違いありません(^_^)v
前日光