2021/07/10 - 2021/07/10
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しにあの旅人さん
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奈良の薬師寺に龍王社、若宮社という、大津皇子を祀る神社があると、いろいろな古代ブログに書いてあります。
薬師寺のホームページには、境内マップには記載されていますが、このお社の説明はありません。
行ってみました。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸」をご覧下さい。
https://4travel.jp/travelogue/11668009
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
南門を入り、白鳳伽藍を正面に見て右に回ります。
遠くに小さなお堂。 -
左は東院堂です。
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東院堂と龍王社。
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龍王社は東院堂の右にひっそりと建つ小さなお社です。
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薬師寺パンフレットより。趣のある案内図です。
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薬師寺の南東の隅、薬師寺でも目立たない一画です。
角度によっては木立の陰で見えません。 -
立て直しはされているでしょうが、現在の社殿は古いものではありません。
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説明板はありません。これだけです。
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社殿正面の紋です。
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輪宝紋の一種、真言宗輪宝紋に近いと思います。薬師寺は法相宗です。何故真言宗の紋がついているのかな。
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このお社の由来については一切説明無し。寺務所に聞いてみたかったのですが、この日は時間切れ。
後日薬師寺に電話で確認したところ、「龍王社は大津皇子を祀る神社ではない」というお答えでした。
薬師寺には、鎌倉時代に造られたという大津皇子木像が伝承されていました。現在は奈良国立博物館に保管されています。昨年奈良博に行ったとき確認しましたが、現在のところ公開する予定はないそうです。
その像がここに安置されていたのかと聞いたところ、「奈良博に委託される前に龍王社におお祀りされていたことはない」
ただし「古い時代は分からない」ということでした。
龍王社と大津皇子を関連づけるいくつかのブログを再度確認しましたが、その文献上の根拠は明示されていませんでした。
「龍王社 大津皇子」でググると、いくつかヒットします
私の知る限り唯一の例外は、
「奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第1夜 ~古代ミステリー紀行-薬師寺建立の謎と悲劇の皇子」
https://nara.jr-central.co.jp/event/mini/_pdf/140423.pdf
多田一臣(二松学舎大学特別招聘教授)による講演記録です。そのなかに、
「(龍王社は)正式な名前は大津龍王社、大津宮と呼ばれたと『奈良六大寺大観 薬師寺』に出ています。つまり大津皇子を祀っているのです。」13ページ。
とあります。「奈良六大寺大観 薬師寺」は2000年に刊行された本です。原文には、準拠する古文献が引用されていると思いますが、確認しておりません。町の図書館で取り寄せてもらって、結果あらためて報告します。中古でも6744円もする本ですから、とても買えない。 -
龍王社そのものついて調べてみました。奈良文化財研究所の研究レポートに下記の記述がありました。
「現在東院堂の南に建つ龍王社社殿はもと西方の竜王山にあり,明治維新時に境内へ移されたものである。この社殿は天文14年 (1545)に上棟され,元亀2年 (1571),天正8年 (1581),寛永5年 (1628)などと再三の修造をへている。」
この論文の準拠文献は、
「龍王社社殿野棟木,内外陣境扉の墨書銘及び 『沿革紀要』,『薬師寺志』による。」
となっています。
建立が天文14年 (1545年)ですので、大津皇子と直接関連づけることは難しいでしょう。
この奈良文化財研究所のレポートのURLは下記です。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8115/1/BN02304963_2_004_015.pdf
ググッたらいきなり「第II章 薬師寺の歴史」に飛んでしまい、奈文研のどのレポートなのか分かりません。14ページです。
同じページに、「薬師寺絵図・部分」として、元禄12年(1699)の「薬師寺現前諸伽藍井神社覚」が掲載されています。そのなかに、現薬師寺の西、現大池近く、現在の西波天神のあたりに、「龍王」らしき社殿が描かれています。これが龍王山の「龍王社」ではないかと思います。
龍王は雨の神様です。日照りの時は龍王を拝みます。薬師寺では現在でも毎年7月26日に龍王社祭として、この神社で五穀豊穣を祈るお祀りが行われているそうです。
「薬師寺日記」
http://nara-yakushiji.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-d017.html -
南門を入って龍王社の反対側に若宮社があります。
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手水舎の向こうです。
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こちらも奥まっていて目立ちません。
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鎌倉時代の創建、重文です。
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「若宮」とは、非業の死をとげた人で、祟り神になる怨霊を祀り、その怒りを静めるために造られることがあります。
すわ大津皇子か、と思いましたが、薬師寺の寺務所によると、祀られているのは「松音大明神」、大津皇子とは関係ないそうです。
「松音大明神」そのものも詳細分かりませんでした。
若宮社も、いくつかのブログで大津皇子を祀ると書いてありますが、根拠文献が明示されていません。「若宮」は祟り神をまつるということからの類推かと思われます。
たしかに「薬師寺縁起」には、大津皇子が悪龍、あるいは悪霊になって祟ったと書いてあるので、それを根拠にこの若宮社を大津皇子に関連づけるのは、龍王社よりは可能性があると思います。
「薬師寺縁起」が書かれたのは1015年、これを根拠に、鎌倉時代に若宮社を建立したというのは、年代的にはありえます。
しかし直接それを結びつける文献にはたどりつけませんでした。 -
正式には「薬師寺休岡若宮社」といい、1949年の解体修理時の写真が残っています。
よくもまあ、このときまで無事に残っていたものだと思うくらいの状態です。
著作権で画像は貼れませんので、奈良県立図書情報館のリンク先をご覧になってください。
https://opacsvr01.library.pref.nara.jp/custom/htmls/pages/normal/M-03-07.html
その後も何度か修理されたようで、現在はこのような立派な社殿です。 -
右後方より。
-
「薬師寺縁起」の大津皇子が悪龍になって祟ったという記述が若宮社と結びつき、それが龍神を祀る龍王社とごちゃ混ぜになり、結果的に龍王社は大津皇子を鎮めるお社だという伝承になったのではないか。
やっと大津皇子に、かろうじてたどり着けたか。
薬師寺に行けば大津皇子と龍王社を結ぶナニかがゴロゴロしていると、勇んで来たのですが、結果的には「ない」
そこで何かないかとネットを探しまくったのです。そこで出てきた結論も「ない」
今回は残念ながら空振り三振です。最後の1球はバットにかすったけれどそのままキャッチャーミット、という感じです。
といってもこのまま帰るしにあ夫婦ではない。何か、ないか。
龍王社の手前右に石碑がある。 -
讃良(さらら)椿。
持統天皇つまり菟野皇女の諱(いみな)のひとつが鵜野讃良。 -
中央の椿は樹齢300年だそうです。
-
椿は生長の遅い木ですが、300年ということはないな、もうちょっと若い。
その右の石碑に「讃良椿」とありました。 -
隣には「吉祥椿」というのもありました。
「遊心六中記」
https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201801030000/
というブログの2018/01/03の記事によれば、これは遣隋使1400年を記念して造られた石碑だそうです。
遣隋使1400年の話は、薬師寺の寺務所はご存知ありませんでした。
出典として「讃良椿と日光月光」というブログがリンクされていましたが、現在はリンクが切れております。
2007年に遣隋使1400年記念というイベントを大阪市が行っています。その一環ということでしょう。遣隋使と鵜野讃良皇女あるいは持統天皇というのが、直接繋がりません。それはいいとして。
根拠はともかく、大津皇子鎮魂のお社といわれている龍王社の近く、直線10mほどに「讃良」の文字。
大津皇子は持統天皇に謀殺されたというのは、少なからぬ歴史学者に支持されている説です。
この石碑を建てた方は、それを知って建てたのか。
大津皇子があの世からこの石碑を見たら、同様に持統天皇も、「えっ~~~」と驚くにちがいない。「近すぎない?」
あるいはもはや、恩讐の彼方に、ということでしょうか。
一書に曰く、
龍王社は、薬師寺に入ってすぐの所にありますが、普通の観光客は、わざわざは行かないところです。なんといっても主役の金堂や講堂を拝見して、ブラ~リと、あたりの雰囲気を楽しみ、散策などをいたしますと、見つけるモノですね。
風景の一部です。
そこへ、わざわざ参りました。大津皇子恋しさのあまりでございますよ。
行ってみましたら、清々しく新しく、「こりゃ、違うわ。」と思いましたが、ま、古くなりすぎで、建て直しかも。
希望を持ちまして、周囲を徘徊いたします。
この日は、土曜だったか日曜だったか、午後もかなり遅くなりまして、入場、いや入園、いやなんて言うのでしょうか、薬師寺に入りまして、もう観光客はいないと思っておりましたら、いつも私どもが入る朝一番より多いくらい。
やっぱりそうでしょう。普通のエレガントな人々は、お昼近くに家を出て、どこかで御飯食べて、のんびり美しい日本の美を愛でに薬師寺へ。という感じですよね。
これが正しい日本の神社仏閣の楽しみ方ではないでしょうか。
なのに、我々ときたら、朝は、ホテルのレストランが開いたら、一番に食べ、そそくさと外出。お寺がまだ開門していないときから、門の前で足踏みして待って居る。おかしい。
ぜったいおかしいです。
でありますから、他の皆様のように、散策という優雅さはなく、徘徊ということになるわけでございますね。
目的のために走り回るわけですが、今回は、目的と言ったって、大津皇子のナニかを探すのですから、これは、もはやシャーロック・ホームズ。
科捜研の女に依頼して、指紋を採ってもらいたいところでございます。
沢口靖子が如何に有能だろうが、相棒のおかっぱ頭のおじさんが如何に右京に忠実であろうと、出ないものは出ない。
せいぜい、傍らに讃良椿という名の、ちょっと歳ふった椿が植えてあるのを発見したくらい。
どうせなら大来皇女椿でしょ?
どこまでも持統さんは、大津皇子を見張らずにはいられないのかしら?
そもそも、いったいだれが、ここに大津皇子が祀られていると言ったのでしょう?
通説だそうですよ。通説って、なんじゃ?ですわね。
噂を信じちゃいけないよ~でした。
それにしても、この龍王社の清々しさ、明るさは、大津皇子にぴったりではありました。
大津くんは、祟ったりしませんて。
明朗爽やか、賢い青年だったのだもの。
By妻
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旅行記グループ
六国史の旅 大津皇子フィールドノート
この旅行記へのコメント (4)
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- kummingさん 2021/10/14 09:02:55
- もしやこうだったんじゃ?
- たぶんこうだったんじゃ?→もしやこうだったんじゃ?→ぜひこうであってほしい!の願いもむなしく、せいぜい見つかったのは、讃良椿と書かれた石碑…。
そこらに転がってる石ころで、一千年の歴史を語るしにあさんご夫妻の面目躍如?
薬師寺の龍王社、若宮社が大津皇子を祀る神社、と関連付けるいくつかのブログをもとに、ここを訪れられたと。ただし、文献上の根拠のないブログ。しにあさんでも、こういう怪しげなモノに心くすぐられる事が?
例外としてあげられている、奈良6大寺大観 薬師寺を調べての続報に期待したい♪
大津皇子鎮魂のお社と言われている龍王社の近く、直線距離10mにある石碑に、「讃良椿」、の文字?って事は、たとえ現時点では「ただの通説」でも、何かこの場所と「悲劇の大津皇子」を関連付けたい!という強い意志が感じられませんか? 通説を信じてここを訪れ、この石碑の「讃良」という文字を見たら、誰だって「やっぱりね~、こんな処まで讃良、持統天皇は大津を見張っているのね!」と思うはず…。そんな名前の椿をわざわざココに植えたのはだあれ?
『奈良大がナイトレッスン古代ミステリー 薬師寺建立の謎と悲劇の皇子』url 飛んで、ざっと(あくまでも、ざっと、です)みましたが、これが、面白い!『懐風藻』に大津皇子評して、「すこぶる放蕩にして法度に拘らない」→勝手気まま、自分の思うままに振舞って、規則に縛られない、とあり、天武天皇は、「創業は易く、守勢は難し」と、王権を確立したら安泰にして行こう、と考え、ならばトップには英雄型より体制維持型、勝手気ままに振る舞い規則なんてお構いなしの大津より、平凡な草壁が周りの補佐を受けて行う方が適している。草壁君の立太子と共に、律令制定、法令発布の命令を出している事を鑑みても、法によってきちんと秩序を守って行こう!と志したのでは?
と、書いてありました。私にとって、大津皇子のキャラ、イメージが変わる説(笑)
皇位継承順位は持統天皇1人で変えられるものではない、とも。
フィールドノートで、これまでにどれだけの現地リサーチをなさって来たのか、の一端を垣間見させて頂き、改めて、頭の下がる思いでございますm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/14 17:07:28
- Re: もしやこうだったんじゃ?
- 「讃良椿」の石碑はビックリぽんでした。行ってみるとこういう面白いものにぶつかります。
この石碑を建てた方のブログへのリンクが切れていたのは残念。なんで建てかのかな。
龍王社を大津皇子と結びつけるブログでは、龍王社は元々もっと東の現観音池があった所にあって、鎌倉時代に現在地に移ってきたというのがありました。というと東院堂と同じなんです。東院堂も同じように鎌倉時代に移ってきたのです。
東院堂は長屋王の妃で、長屋王の変で自殺に追い込まれた吉備内親王が発願したものです。怨念ですよ~。それと大津龍王社、讃良椿、ぞくっとしませんか。
石碑を建てた人は、私がよからぬシナリオを描いたのと同じようなことを考えたのかもしれませんね。
「何かこの場所と「悲劇の大津皇子」を関連付けたい!という強い意志が感じられませんか?」kummingさんに激しく同意。
遣隋使云々は世を忍ぶ仮のお話。
東院堂をここに移設したときは今と違って南面していました。つまり大津龍王社を見下ろしているわけ。吉備内親王は持統天皇のお孫さん、ばあちゃんを守らねば! という意思を感じるという筋書き。
当初、何かこじつける材料があれば、こういうシナリオを考えていたのであります。
全部、ぱあ。残念でした。
潔く尻尾を巻いて退散でした。
-
- 前日光さん 2021/10/13 23:42:02
- 薬師寺に。。。(O_O)
- こんばんは、しにあさん。
薬師寺の南門、入ってすぐの場所に「龍王社」があったのですねぇ。
これは気づきませんでした!
しかも、そこから十メートルほどの所に「讃良椿」と書かれた石碑!
ぬぬっ!と思いますよね!
大津もシツコイ(*_*)と思ったかも。
いい加減にしてくれ、持統=鵜野讃良よ、我を抹殺しただけでは気が済まず、死後もずっとつきまとう気か(^^;)
どうせならこの椿に「大来椿」と名付けてくれればいいのに。
薬師寺の西に「龍王山」があるとのことですが、私は数年前の「山辺の道歩き」で、途中夏草に隠れた標識を見そこない、この龍王山に迷い込んでしまったのです!
時間にすると一時間ぐらいのロスで、真夏の暑さで熱中症寸前となりました(~_~;)
その時の旅行記は、以下です。
https://4travel.jp/travelogue/10809488#bbs
考えようによっては、大津に呼ばれたのかも(^◇^;)
それにしても薬師寺では、大津に結びつく痕跡は見られませんでしたか。
好きな寺なので、大津と関連があれば、なおうれしいのですが。
しにあさんご夫妻の調査徘徊旅、たまには空振りの時もおありのようで。^^;
でも今までの調査妄想等々、論文として出版できるのではないかと。
けっこう期待しております(^_^)v
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/14 07:01:15
- Re: 薬師寺に。。。(O_O)
- 龍王山遭難寸前記、しばらく前と、今回の大和寺社参りの参考の2回、読んでおります。
ご苦労様でした。
龍王山には龍王神社らしきものがいくつかあるようです。こっちの方が本場みたい。
この山辺の路を見下ろす龍王山は立派なお山ですが、薬師寺西には山なんてないですよね。もし現在の西波天神社のあたりとすると、こんもりした丘程度。
大池のほとりにあります。この大池は万葉集にも「勝間田池」とかいう名前で出てくるそうで、古いため池らしい。16世紀に雨乞いの龍神様を祀るお宮を作ったんじゃないでしょうか。
それを明治維新後に現在地に移したというのが、事実のようです。
なんとも散文的でロマンがない。
事実は必ずしも面白くないのです。
薬師寺再訪(再々○訪?)の際は、龍王社、若宮社と一緒にお参りください。龍王社となりの東院堂はそこそこ参拝者もありましたが、こちらには誰もきませんでした。
讃良椿はびっくりしました。偶然の発見でした。「ウッソー!」という感じでしたね。
当初、元薬師寺に大津さんの鎮魂の何かがあって、それが薬師寺に移ったというシナリオでしたから、「讃良椿」の石碑を見つけたときは色めき立ちましたが、詳しく調べたら、石碑は新しいし、全部パアー。
歴史の旅というのは、事前に何かシナリオがないと成立しませんが、今回ほど当てが外れたことはありません。
それも、また、おもしろい。
東院堂は吉備内親王の建立、根拠はなくても大津由来の龍王社、讃良椿、とくれば、因縁話が山ほどできそうです。
新しい奈良観光の目玉、にはなりません。
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