2020/06/01 - 2020/06/01
5位(同エリア149件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記251冊
- クチコミ253件
- Q&A回答18件
- 303,202アクセス
- フォロワー77人
むかーしムカシ、日本昔話常田富士雄のイントネーションで。
旅行日は最近のある日です。理由はあとで。
更新記録
2020年11月5日:モスクワのホテルのシーツの話、荻須高徳画伯のエピソード追加。大砲によじ登る子供の写真(18枚目)の後です。
断捨離を始めました。まず写真。すると、1974年の紙焼きとネガが出てきました。横浜から船、列車、飛行機を乗り継いでシベリア横断、モスクワ、また列車で北欧からパリに行く、10日間の旅でした。
紙焼きはスキャン、ネガはカメラのキタムラに頼んでDVDに焼いてもらいました。
オリジナルはさっさと焼却、とはいかず、そのまま引き出しに。
「なんでも見てやろう」という本がありました。1969年出版、若き日の小田実の、海外旅行の体験記です。この本を読んで、外国に出て行った若い日本人がたくさんいました。旅行だったり、そのまま外国に居着いてしまったり。
私もその一人でありました。目的地はパリ。
当時、ヨーロッパ行きの最も安い手段は、シベリア経由。ヘルシンキまでの片道切符。たしか11万円だったと思います。1974年の大卒平均初任給は78,700円だそうです。船、列車、飛行機、モスクワでのホテル代、全部込みです。ヘルシンキからは、別途手配の鉄道でした。
長期滞在のつもりでしたから、帰りの切符はなし。
現在、日本の青年達は、旅行でも仕事でも、外国に出たがらないそうです。こればかりは信じられない。私たちは、どこでもいいから外に出たかった。ここ以外のどこかに行ってみたいと、熱望していたのであります。「なんでも見てやろう」それだけでした。
74年というと、もはや考古学的レベルの旅行記だと思います。
そこに行きたくなるような旅行記、というのが4Travelのブログの趣旨だそうです。フェデリーコ2世やヤマトタケルというような旅行記より、よほど旅情を誘うのではないでしょうか。
コロナ騒ぎの影響で、過去の旅のブログが多くなっております。楽しい、面白い旅行ばかりです。ところが、4トラのシステムだと、昔の旅行をそのまま旅行日にすると、ブログの先頭に出てきません。ブログの数が多いと、自分でもどこにあるか分からなくなるとおっしゃっていたトラベラーもいました。かと言って更新日順に並べると、今度は単純な誤字訂正でも先頭になります。投稿日順にブログを表示できないのです。よって今回は表題に年を明記し、旅行日は最近のある日といたします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 船 飛行機
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
1974年2月13日、横浜から、ソ連船ハバロフスク号に乗りました。ソヴィエト連邦などという国がまだあったのです。
ボート甲板に並んでいるのが、私たちのツアーです。総勢11人でした。中央が私メであります。当時、ソ連を個人で旅行するのは難しく、専門の旅行会社が手配するツアーしかありませんでした。
友達が横浜まで見送りに来てくれました。このなかに、海外旅行の経験者はなし。まだそういう時代でした。そのうちのだれかが撮ってくれたのが、この写真です。 -
顔にハート印をつける必要は、本当のところもはやありません。みなさん、現在御年70をこえております。でも一応、個人情報なので。右から3人目が私。左から3人目が後日私の妻となります。By妻の若き日です。
まさか後にこういうことになるとは思いもせずに、高校仲間の女ボス(女の子抱いている人)に招集を受けて、見送りに行った私です。運命って!
By妻 -
ロシア語ですね。ハバロフスク、船名です。
ナホトカ航路という、横浜とナホトカを結ぶ航路でした。ハバロフスク号、バイカル号の2隻が就航しておりました。3隻めもあったようですが、私のときは2隻でした。
今気づきましたが、「K」の下にぶら下がっているのは、洗濯物、ジーパンじゃないかな。 -
当時、体重52キロの私メであります。現在23キロ増、この面影ありません。
-
「青春の旅人」という感じがしませんか。
ハバロフスク号は5000トンくらいの船でした。
乗客は定員300人ということでしたが、この時の乗客は全部あわせて50人くらいでした。2月、オフシーズン真っ盛りです。
ナホトカまで2泊3日。横浜から太平洋岸を北上、津軽海峡を抜けて、日本海を横断します。
私の船室は4人部屋でした。丸い舷窓がありました。打ちつける波の音がうるさかったので、船の喫水線に近い安い船室だったのです。
東京湾を出るとかなり揺れました。
ツアーのメンバーには、原子力潜水艦とあだ名がついた人もいました。横浜を出たら、ナホトカまでベッドに潜って出てこない。ひどい船酔いでした。
「あー、しんど、飛行機にすればよかった」とずっと唸っておりました。
私は船酔いなし、食事は全部レストランでおいしくいただきました。ロシア人のボーイに給仕された、いわゆる洋食というやつは、生まれて初めての経験でした。
ナホトカ航路は1991年、ソ連の崩壊とともに廃止されました。 -
2月15日ナホトカ港着岸直前です。
海が凍っているのを見るのは初めてでした。 -
生まれて初めて見る外国でした。港の建物が、日本にはない妙な緑に塗られていました。写真の色よりもっと鮮やかで濃い緑でした。
田舎の駅のような寂しい風景でした。これが今後の私のソ連への印象を決定づけました。
共産主義は正義。と、信じていた日本人が、当時はどさっといました。68年〜70年の大学紛争からまだ4年でした。私みたいなノンポリ(もはや、死語)にも、ソ連はなにやらキラキラしたものでした。
その共産主義本家のソ連、極東窓口のナホトカのこのみすぼらしさは、「おいおいおい、話ちがわない?」と思わせるものが十分ありました。
写真の画質について。
今回は3種類の写真を使っています。映像の経年変化の参考までに。
上の写真は現像後46年のネガをDVDに焼いたもの。ネガは箱に入っておりました。 -
同じ写真ですが、アルバムに貼っていたもの。こういう退色が激しいものはアルバムです。
このネガはハーフサイズというやつでした。銀塩フィルムそのものが珍しい今日日、ハーフサイズなどというのは、正倉院御物クラスの時代物でしょう。
普通の35ミリフィルムは36枚撮りですが、倍の72枚撮影可能。フィルム代は節約できますが、その分紙焼きのプリント代は倍になるので、騙されたような気もします。
ネガを見るか、ネガ原寸大の棒焼きから、必要なコマだけを指定してプリントするという手間のかかる使い方をします。絵が写っていればいいというビンボー人向けのカメラでした。
今回カメラのキタムラというところに頼みました。
35ミリフィルム1本をDVDに焼くと、500円ということでした。
ハーフサイズで、しかも46年前のネガということで、店員さんは引き受けたくない気ありあり。
「店頭ではできないので、工場送りになり、時間がかります」OK、急ぎません。
「工場に送ってもできないと言われることもあります」そのときはしょうがない。絵が写っていれば画質は問わない。
店員さんこのネガよりずっと年下。この方の母上がネガと同い年くらいかな。
結果は、1週間ほどでできあがり。お値段はさすがに500円とはいかず、税込み2310円。ご立派、このお値段で、46年前の貴重な写真が復元できれば大変ありがたい。
横浜出航の2枚は、紙焼きですが、40年以上封筒に入っていたものです。丁寧に保存していたものは、やはりいい状態でした。
ナホトカからは寝台列車でハバロフスクに向かいました。ほぼ1昼夜でした。車窓は真っ白な雪の原野が延々と続き、飽きました。
掘立小屋のような粗末な農家が所々にありました。貧しい風景でした。 -
2月15日ハバロフスク着。
列車を降りて、空港に向かうまで数時間の市内観光がありました。
インツーリストという、ソ連の国営旅行エイジェントのガイドがつきました。ガイド兼見張りですね。
ソ連は共産主義国家、秘密主義と外国人への猜疑心で凝り固まった国でした。外国人旅行者は原則スパイという前提で、見張りがつくのです。
当時から日本人は、外国では人畜無害でした。私たちのツアーメンバーには、スパイなどという気の利いた人物はいません、見れば分かりますが、向こうの規則だからしかたがない。 -
右がガイドさん。左は同じツアーのメンバー。とにかく手の早い、訂正マメな方で、美人とみるとあっという間に仲良くなっていました。
こういう美人ならもっと近々と見張ってもらいたかった。
ハバロフスクからは飛行機でモスクワ。ソ連の国内線ですが、8時間も飛びました。国内線が8時間というのは、さすがユーラシア大陸のほとんどを占める国です。 -
2月17日モスクワに着きました。空港到着詳細まったく記憶になし。
証拠写真がこれ。この葱坊主教会、なんと言ったか。
モスクワは2泊しました。
空港でインツーリストのガイドさん兼見張りの美人にピックアップしてもらって、市内案内のあと、ホテルまで連れて行ってもらいました。 -
左隅の青色はネガの変色です。
市内引き回しで最初に連れて行かれたのが、なんとか宇宙センター。人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げたロケットのレプリカ。1957年打ち上げでしたから、1974年ではまだ記憶に新しいころです。どーだすごいだろう、よく見ろ、とソ連としては言いたいところ。
でも1969年にはアメリカが月にアポロを送り込んでいましたから、案外小さいロケットだなあと思ったのをおぼえています。 -
次がモスクワ大学。
なんにもおぼえていない。 -
モスクワでは、このマメなイケメン君と同一行動が多かった。私が写っている写真は彼が撮ってくれました。
場所はモスクワ大学、だと思う。 -
ツアー全員の記念写真。1名足りませんが、上記イケメン君が撮っています。
真ん中のガイド兼見張りさんは、ハバロフスク以上の美人でした。当時ソ連を旅行した連中の共通意見、ソ連は国威にかけて英語のできる美人をインツーリストのガイドに採用している。
ツアー出発の前日、銀座のどこだかにあった旅行代理店に、参加者全員が呼び集められました。事前説明会。現在では、よっぽどの秘境ツアーでもないかぎり、事前説明などはないでしょう。
開始劈頭、「このなかで海外旅行の経験のある方いますか?」
男性が手をあげました。
「あなたに、横浜の埠頭で、飛行機、ホテルのバウチャーを渡しますから、持って行って下さい」
彼は「えっ!」でしたが、有無を言わせずツアーリーダーに任命。安いギリギリのツアーですから、ツアーコンダクターなどという贅沢なものはいません。ナホトカ、ハバロフスク、モスクワに着いたら、迎えのインツーリストの係員に渡せばいい。あとはむこうがやる。
旅行の注意がありました。
〇警官、軍人の写真は撮るな。
これはまあ、今でも国によってはあります。
〇フィンランドとの国境を列車で越えるとき、窓の外の景色を撮るな。
私は、ソ連側の景色を撮るなという意味だと思いました。あとでこれでドキッとすることがありました。
〇ストッキングをガイドにプレゼントすると喜ばれて、待遇が変わる。話には聞いていましたが、アホかと思って私は聞き流し。
ところが、特設ツアーリーダーは、本当にモスクワであの美人さんにプレゼントしていました。ひょっとしてあれは、旅行代理店からバウチャーと一緒に渡されたのかな。なにやら袋を渡していた女性メンバーもいた。到着後すぐに贈呈は終わったので、待遇が良くなったかかどうかは不明。良くなったとしたら、貢ぎ物なしの私は便乗したことになります。
〇トイレットペーパーの質が悪いので驚くな。
これ本当。段ボールみたいでした。 -
最後がクレムリン。たしかモスクワ川越しのクレムリンです。
-
ここでみなさん写真を撮りあいました。右側の頭だけ写っているのが私たちのバス。
-
クレムリン近くの公園に並べてあった大砲によじ登るガキ。どこでも子供は大人しくできません。
モスクワの写真はこれで全部。まさかそれから46年後4トラに旅行記を書くとは夢にも思っていませんでした。写真たりません。
これまで日本で洋式のホテルなるものに泊まったことがなかったのです。旅館なら経験あり。玄関で靴を脱いで、寝るのは布団。
モスクワのホテルが初体験でした。靴のまま部屋に入るのに抵抗あった。ベッドには豪華だけど薄い布きれが1枚かかっているだけでした。暖房はしっかり効いてはいましたが、これで寝るのは寒いんじゃないかなと思いました。ベッドカバーなるものの存在を知らず、これを掛け布団と誤認、毛布とシーツがピシッと巻き込んであるとは思わなかった。試行錯誤の上、これに気づき、無事寝ることができました。
「これが西洋のベッドか!」と感心したものであります。1974年という時代のせいか、私が遅れていただけなのか。
何人かのツアー仲間も同じ体験をしたらしく、私1人ではなかった。少し安心。部屋の戸棚に毛布を見つけ、巻き込んだシーツと毛布の上に横になり、毛布をベッドカバーに被せて寝たお利口さんがいました。
私は家ではベッドでしたが、ベッドと称する簀子付きの木の枠に布団を置いただけだったのです。
泊まったホテルはモスクワでも高級なホテルでした。安いツアーでしたが、ソ連としてはメンツにかけていいホテルにしたのでしょう。
2020年11月5日追加。
「私のパリ、パリの私 荻須高徳の回想」(東京新聞出版局)で画伯がこう書いているのをBy妻からおそわりました。
1927年10月、パリに着いた最初の日です。ホテルに行きます。
「場所はラテン区の学生街、クリュニー博物館近くの小さいホテルでした。部屋は暖房なし、ベッドに大きいタオルほどのレース布がかかっているので、それにもぐってみましたが寒くて眠れません。きっちり巻き込んだ毛布をはねてそのなかにもぐりこむことさえ、知らなかったのです」
やったー、荻須画伯でさえ知らなかったんだ!私が知らなくて当然。
ただ画伯の時は1927年、私の場合は1974年、いいわけにはならないかな。
画伯の最初のホテルは、私の最初のホテルの近くです。昔からあのあたりは、若い貧乏旅行者が最初に落ち着くところだったようです。
翌日はまる1日自由時間でした。ガイドも見張りもなし。
モスクワをほっつき歩いたはずですが、記憶になし。地下鉄だけはよくおぼえています。
ロシア語でおぼえていったのは、
ダー=Yes
ニエット=No
スパシーボ=ありがとう
これ以上は、相手の返事が分からないので無駄です。「こんにちは」もおぼえたのですが、なにやら長くてとっさに発音できませんでした。笑顔で代行しました。
地下鉄に乗るときは、スモレンスカヤに行きたい。
ドアが開く、ニコっ、進行方向を指さして、
「スモレンスカヤ、ダー?」
中の乗客が「ダー」なら乗る。「ニエット」乗らない。これ以上は何を言われても分かりません。
町を少し歩こうと思って、ホテルの最寄り駅のひとつ手前で降りました。最寄り駅が目印です。通行人の若い男性に地図も見せて、「〇☆●X△(最寄り駅の名、忘れました)、ダー?」
ところが彼は、今降りたばかりの地下鉄の駅に連れて行きます。そこで地下鉄に乗って次で降りろ、ということでしょう。あとについて行きました。曲がり角でずっと見ています。いなくなったらまた元にもどろうと思っていたのですが、私が階段を降りるまでずっと見守ってくれました。しかたがないのでまた地下鉄に乗りました。
迷惑でしたが、親切は身にしみました。
その夜、カフェのようなところでビールを飲んでいました。すると白人の男が絡んでくるのです。英語は通じません。なに言っているか分かりませんが、絡んでくるのは分かります。
そこに2人の東洋系の顔立ちの若い男性2人が割って入りました。2人は絡んでいた男をあっという間に店から追い出してしまったのです。1人は2メール近い身長の大男。すごい迫力でした。
その後2人と英語で話しました。モンゴル人だと自己紹介。「日本人ですね」見れば見当つくそうです。
大男は医学部の学生で、数年後卒業したらモンゴルに帰る。もう1人は機械工学をやっていて、私の安バカチョンに興味津々でした。かれもカメラを持っていましたが、あんな小さなレンズのカメラを見たことがありません。ソ連製かな。
値段を聞くので、ドルに換算して伝えました。カメラは当時の日本で安い方から数えてすぐというしろものでした。1974年では1ドル300円でした。ドルにするとメチャ安です。非常に驚いていました。性能の割には驚異的に安いということらしい。機械工学の学生ですから、目の前のカメラのコスパはよく分かったのでしょう。
カフェを一緒に出たら、道路の前後に気を配っていました。さっきのやつがまだいるかもしれないと思ったのですね。私のホテルは目の前でした。
それでモンゴル人を好きなのね。命の恩人?
By妻 -
19日、例の美人ガイドさんの案内で、モスクワのなんとか駅から列車に乗り、レニングラード経由フィンランドのヘルシンキに向かいました。ヘルシンキに着いたのは翌日午後3時ごろでしたから、夜モスクワ発の寝台列車だと思います。
これは途中の駅で散歩。停車時間がやたらに長かった。レニングラードからは単線だったのかもしれない。
現在は、レニングラードはサント・ペテル・ブルグと名が変わっております。ソ連崩壊後、ロシア帝国時代の旧名に戻りました。
20日、レニングラードを過ぎてしばらく、フィンランド国境に近づきました。列車はソ連の車両でした。
コンパートメントから、10人くらいの乗客が通路に出てきて、なにやら歌を口ずさみはじめました。そのうちの1人に英語で聞いてみたら、シベリウスのフィンランディアの1節だそうです。
その若い男は、列車の床をドンドンと踏みならしながら、
「ここは、俺たちの土地だ」と言いました。まだソ連領内です。
「カレリアだ」他の男が言いました。
これかあ、と私は思いました。
五木寛之の短編「霧のカレリア」で、フィランド女性アノイが、主人公冬木に語る祖国の悲劇です。フィンランドはスエーデンとロシアに挟まれ、
「繰り返された戦争がローラーみたいに国土の上を行ったり来たりしたの」アノイの言葉です。
フィランド人の魂の地といわれるカレリアは18世紀に帝政ロシアに奪われたのです。
第2次大戦ではフィンランドはドイツと組んでソ連と戦いました。帝政ロシアに奪われた国土を取り戻すのが目的だったのです。しかし、負けました。
3億ドルの賠償金の支払いと、ソ連との国境地帯のフィンランド領カレリアの割譲が科せられました。そこには沢山のフィンランド人が住んでいました。彼らは選択を迫られました。
引用です。
「このままカレリアに止まってソ連人になるか、それとも先祖伝来の土地を捨て、フィンランド人として引揚げていくか。ソ連を選んで止まれば、土地も資産も家も、みんな守れたわけよ。だけど結果ははっきりしていた。カレリアの人々は一人残らず祖国を選んだの。彼らは全てを捨て、裸でフィンランドへ引揚げてきたんだわ」
引用終わり。
そのとき車掌が私たちの客車に入ってきました。
フィンランド人の合唱はひときわ高くなりました。車掌は検札にきたのでしょうが、おびえたようにきょろきょろ辺りを見回しながら、何もしないで通り過ぎました。
列車はソ連側の検問所に停まりました。プラットフォームもなにもありません。入管の係官が車内でパスポートチェックです。国境警備隊だか警察だか、車外には銃を肩にしたこわそうなお兄さんが等間隔で立っていました。車両の下を覗いていました。そのうち天井を歩く足音。不法出国を警戒しているのです。当時一般ソ連人には国外旅行は禁止されておりました。
しばらくして列車は動き出します。
フィンランド人がなにやら叫んだので、国境を通過したと分かりました。
「写真を撮ろう!」と私は言いました。ソ連領内の国境の写真はダメと聞いておりました。が、フィンランドに入ればいいじゃないか。
「やめろ、鉄砲玉が飛んでくるぞ!」列車には、私たち以外の日本人も乗っていたのです。ベテランの旅行者だったのでしょう。
へたりました。あわててカメラをしまいました。
「やつらは、国境にカメラを向けたら、そこがフィンランドでも、本当に撃ってくる」
私は、これが最初の海外旅行で、ましてや陸続きの国境などというものは見たことがありません。
「これが外国かあ」としみじみ思いました。「共産主義国家というものは、とんでもないモノだな」
日本人は平和ぼけしていると思いました。ぼけは46年間進行しているようです。
フィンランド側の国境検問は、パスポートチェックはあったでしょうが、何もおぼえていません。 -
20日ヘルシンキ到着。
写真はヘルシンキのどこだか不明。交通整理のお巡りさんです。
このツアーはヘルシンキ解散です。みなさん、ここからは別々の旅になるのです。到着後すぐに数人がグループを離れました。残った連中は8日間も一緒に旅をするとさすがに同志という感じになります。駅の構内でしばし別れを惜しんで、元気でね、ということになったとき、
「この人、これから何も決まっていないんだって」だれかが叫びました。
この人とは、旅行中、なぜかずっと長靴、傘1本、小さなリュックサック一つという、一見魚河岸のお兄さん風の若い男性でした。25才くらいかな。
いろいろ聞いてみると、片道切符でヘルシンキまで来たけれど、その後の予定なし。お金もあまり持っていない。なんの目的でここに来たか、本人もよく説明できない。私はこれまで彼と話したことはありませんでした。
さあ、どうしよう、みんなで相談しました。ご本人は、のんびり、ぼーっと立っていました。
誰だか覚えていませんが、
「僕が、日本大使館に連れて行こう」という人がでてきました。多分、特設ツアーリーダーをやらされた方じゃあないかな。彼は土地勘があったのかもしれない。
今調べてみると、中央駅から日本大使館まで1キロ、歩いて10分ちょっとのところです。私は今の今まで大使館の場所すら知りませんでした。大使館はそうそう引っ越ししないので、多分当時も同じ場所でしょう。
さいわいその日は水曜日で時間も午後4時前でした。大使館は開いているはず。
男気がある方がツアーメンバーでよかった。
その後この長靴氏はどうなったか分かりませんが、無事日本に帰れたと思います。
数人がホテルを日本から予約済みでしたからいなくなり、残った5,6人は「じゃあね、ここでお別れ」
とはいうものの、全員ホテルのあてはなし。私も宿無しの口です。
駅のホテル案内所にゾロゾロと行きました。駅近くのホテルを紹介してもらって、そこにまとまって宿泊。全員海外旅行初めてです。8日間も一緒にいた仲間がいるのは心強い。
翌朝には、心強い仲間はみんなそれぞれの目的地に旅立ちました。これからは1人です。私はどういうわけか、ヘルシンキに2泊しました。何のために2泊もしたのかなあ。思い出せません。
心強かったはずなのに、その後各々がどこに行ったか全然知らないし、覚えていないそうです。
半世紀近く前のことですからね。皆さんお元気ですか。
By妻 -
これは、写真のネガの順番ではヘルシンキ。トラックの横断幕の「KUNSKAP」というのはスエーデン語らしい。そもそもなんなのだろう、この写真は。
21日、ヘルシンキで何をしたか、記憶になし。多分町を歩きながらこんな風景を眺めていたのではないか。なんといっても、見るもの全部初めてなのです。 -
22日、ヘルシンキを列車で離れて、Turku着。
これは多分Turkuの港。背後の港に氷が浮いています。でもこの写真、だれに撮ってもらったのかな。もう一人旅なのですが。
ここからはフェリーでストックホルムに向かいました。この夜は船内で1泊です。ビンボー旅でしたから、ラウンジのソファーでごろ寝しました。
船内で、はじめてスエーデンのオープンサンド、スモールゴスを食べました。ビールに合いました。デンマークのビール、ツボルグがうまかった。
スモールゴスですが、私は「スモレスボガード」と覚えていたのですが、これだと該当なし。By妻が調べたら、「スモールゴス」ではないかと。「スモーブロー」「スモーガスボード」など、似たような名の料理がありますが、けっきょくどれだか分からない。
食い物、飲み物をおぼえているくらいですから、ヘルシンキを出てからは、とくに変わった旅ではありませんでした。
ストックホルム1泊。まったく記憶になし。
「記憶になし」「覚えていない」「どれだか分からない」ばっかりの旅行記ですね。政治家の国会答弁か。
By妻 -
ストックホルムからコペンハーゲン、スカンジナヴィア半島を南下する鉄道の旅でした。
-
2月のスカンジナヴィア半島なんて雪で真っ白だと思っていましたが、そうでもなかった。
-
ソ連とはまったく違う風景でした。
-
でも気温は低かった。線路の向こうの湖は凍っているようです。
-
ストックホルム-コペンハーゲン間は海峡をフェリーで渡ります。
-
乗っている船が出て行くので、スエーデンということです。
-
学生の団体旅行と同じ車両でした。大変おもしろい、賑やかな連中と一緒でした。
-
24日コペンハーゲン着。
ヘルシンキ以降、写真に写っているのは何か、特定するのに苦労しましたが、これは簡単。王宮の衛兵交代式です。衛兵さんの制服が今と46年前と全く同じでした。 -
この衛兵さんの息子かお孫さんが、今頃また衛兵をやっているかもしれません。
ヘルシンキからは、平和ぼけの日本人でも安全で快適な旅でした。このころの西ヨーロッパは、今よりはるかにのんびりしていました。
日本大使館のなかには、ホテルを取り損ねた旅行者を、入口のホールに泊めさせるところもありました。それががらっと変わったのは、1974年9月、日本赤軍の3人が、在ハーグフランス大使館を占拠して、フランス大使など11人を人質にした事件です。
これ以降、各地の日本大使館は警備を厳重にしました。パレスティナゲリラのテロも頻発しはじめました。
私みたいなノーテンキが、ボーッと旅行できる、最後の季節だったのかもしれません。
24日コペンハーゲン泊。
日本赤軍は、青春する若者の敵だったわけね。
By妻 -
25日、コペンハーゲン発列車でパリへ。
同日パリ着。
Gare du Nord(北駅)に列車は着いて、タクシーに、
「32,rue Saint Jacques 5em arrondisment, s’il vous plait」5区サン・ジャック通り32番地にお願いします、と行き先を告げたら、
「Oui, Monsieur」はい!
通じた!
フランス語は、一応日常会話は何とかなると思っていました。でも相手は語学教材。生身のフランス人と実用で話したのは、これがはじめて。飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。
フランス暮らし初日が幸先よく始まりました。
とか言ってますけど、ここからも波瀾万丈で、途中で私まで巻き込まれて。
こんな回顧ができるようになったのは、現在の生活が平和だからでしょうか。
今は亡き父母にも読ませてあげたかったです。特に母は心配しても心に秘めている人だったから、この珍道中を読んで安心させてあげたかった。
でもまあ、途中で私が合流したことで、ずいぶん安心したみたいですけどね。ハハハ。
By妻
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
むか~しムカシ、青春があったとさ
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-1 1974年シベリア横断パリ行き
2020/06/01~
シベリア
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-2 1974年フランスおおらかな日々
2020/06/02~
ブザンソン
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-3 1975年若さと馬鹿さのモロッコ旅
2020/06/03~
マラケシュ
-
むか-しムカシ、青春があったとさ-4 1975年スイスイミフの旅
2020/06/04~
その他の都市
-
むかーしムカシ、青春があったとさ-5 1984年イベリア半島一周幕営旅行・上
2020/06/05~
アルガルヴェ地方
-
むか-しムカシ、青春があったとさ-6 1984年イベリア半島一周幕営旅行・下
2020/06/06~
トレド
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (28)
-
- hot chocolateさん 2021/10/18 13:28:16
- 1974年シベリア横断パリ行き
- しにあの旅人さま
こんにちは。
ご無沙汰しています。
「むかーしムカシ、青春があったとさ-1 1974年シベリア横断パリ行き」の旅行記にお邪魔しています。
1974年当時、個人で外国に行くってすごい決断のいる時期ですよね。
費用もかかるし、・・・
外国に行くということは、憧れでした。
「80日間世界1周」のテーマ曲、「Around the World」も夢があって好きでした。
5000トンの船で、横浜から2月の日本海を横切ってナホトカまで、さぞかし大変な航海だったでしょうね・・・
まだ海外旅行が一般的ではなかった頃、鹿児島から5000トンの船で奄美諸島を旅しました。
奄美、徳之島、沖永良部などの離島も当時はマイナーでした。(今も?)
外海に出ると波は高くなり、船酔いも大変で、食事にも行けませんでした。
でも、離島に魅せられ2年連続で行ってしまいました。
若かったなぁ。
>片道切符でヘルシンキまで来たけれど、その後の予定なし。お金もあまり持っていない。なんの目的でここに来たか、
なんのために、ヘルシンキまで行ったのでしょうね・・・
目的もなく、お金もあまり持っていないって、信じられません。
フィルム時代の写真をここまで再生し、旅行記を作り上げたのはご立派。
私はネガは袋に入ったまま、どこかにしまいこんであります。
続きも楽しみにしています。
hot chocolate
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/18 16:54:23
- Re: 1974年シベリア横断パリ行き
- 外国に行く決断も何も、とにかく出てしまいました。若さというのは恐ろしいもので、先のこと何も考えずに実行でした。今やれといわれたら、やりません。このシリーズは全部そういう無鉄砲な若さと馬鹿さの旅の記録です。
旅そのもは、楽しいだけで、つらいとか大変とか思ったことはありません。とにかく無謀な若さなのです。初めての外国ですから、見るもの全部面白いのです。いってみれば、子供のような真っ白な感受性、でしょうか。
今はもう、ああいう新鮮な驚きはありませんね。
片道切符でヘルシンキまで来た人、その後の消息はないのですが、彼も若かったし、なんとかなったと思います。
ツアーの皆さん、確固たる目的があったのかな、強いていえば、外国に出ることそのもが目的だったのではないでしょうか。目的は走りながら考える。
古い写真、ネガは、By妻が整理しておいてくれたので、なんとか今まで持っていました。
By妻はこのシリーズのもう少し先で出てきます。
古い写真を使った旅行記も面白いものです。4トラの皆さん、旅行に出られないので、古い旅行記をバンバンupしています。
ネガの入った袋を探し出して、センチメンタル・ジャーニーをやってみませんか。
-
- yoshiboさん 2020/12/12 12:00:12
- シベリア経由
- 初めまして、
私も50年前に、同じコースでユーロッパへ行き、友人と2ヶ月過ごしました。一番安い運賃でしたので船は船底の窓が無い舳先の部屋でした。ハバロフスクの空港で大学教授が荷物と一緒に秤に乗って失笑を買ってました。まだまだ海外旅行が一般的で無かったのでしょうね。モスクワの赤の広場でソフィアローレンの「向日葵」のロケーションに出くわしました。私の横を通りましたが気が付かず、見物人の「ソフィヤ、ソフィヤ」の声で気付きました。8mmカメラで撮って来ました。またスイスでアイガー北壁が見えるYHに泊まってましたが、丁度日本人が北壁に挑戦しているところでした。帰りのナホトカから横浜への船でこの人たちと出会いサインを頂きました。これを大事に保管してましたが、現在何処に有るか不明です。
ポルトガルのドライバー、興味深く拝見させて頂きました。来年家内といきたいと思って参考にさせて頂きます。
今後ともよろしくお願いいたします。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/13 05:01:39
- Re: シベリア経由
- おはようございます。
コメントありがとうございます。
50年前とは、上には上がいらっしゃる。海外旅行に行ったら本が書ける時代でした。古き良き時代でした。懐かしいと思うのはトシとったシルシです。
ポルトガルにいらっしゃるとか、もう変わっていて、私の話はあまり参考にならないでしょうが、旅情を育むにはいいかもしれません。確か、アイルランドはヨーロッパの田舎だそうですが、ポルトガルも当時はまさにそのとおりでした。
ご無事の旅行をお祈りします。
-
- ノスタルジアさん 2020/10/23 08:44:03
- たくさんのいいね
- 有難うございます。これからもよろしくお願いします。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/24 06:49:56
- Re: たくさんのいいね
- こちらこそ。荒野シリーズまだまだ未読があります。興味深い旅行記で、楽しませていただきます。
-
- アニさん 2020/10/22 18:41:17
- 懐かしいシベリア鉄道の旅
- 初めまして、しにあの旅人さん。
「1974年シベリア横断パリ行き」楽しく読ませていただきました。それにしても真冬のシベリアとは凄いですね。
私は1979年9月(当時21歳)出航で横浜ナホトカ航路とシベリア鉄道(途中イルクーツク泊、モスクワ2泊)でフィンランドのヘルシンキまでモスパックで行きました。
ヨーロッパはヒッチとユールレイパスで周遊(モロッコ含む)しイギリスに少し滞在。飛行機でニューヨークに行きアメリカはバスで周遊しました。
同じくコロナ禍に放浪記として昔を思い出しながら、放浪記を書き始めていたところです。
本当に46年前のことなのに写真付きで詳しい旅行記なのでビックリしました。
モロッコ編も楽しみに読ませていただきます。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/23 10:17:58
- Re: 懐かしいシベリア鉄道の旅
- コメントありがとうございます。
4年後だとどのくらい違うでしょうか、これからお書きになる旅行記が楽しみです。私の場合は放浪記というほど冒険チックな話ではなく、途中から女房連れとなりました。
写真はBy妻が整理しておいてくれたので、なんとか残っておりました。
コロナ騒ぎで皆さんの旅行記ストックが底をついたようで、つなぎに読んでください。
- アニさん からの返信 2022/12/22 19:09:27
- RE: Re: 懐かしいシベリア鉄道の旅
- しにあの旅人さま
ご無沙汰しております。お陰様でやっと出版出来ました。下記のアマゾンkindleストアから無料キャンペーン(25日まで)ですので、ダウンロードしてお読み頂けます。
265日間世界一周放浪の旅 前編:シベリア鉄道~欧州ヒッチハイク編: あなたも43年前にタイムスリップ!ネットもスマホもない超アナログ時代の世界19ヶ国放浪記 https://www.amazon.co.jp/dp/B0BQC2HT97?ref_=cm_sw_r_apin_dp_3FSM31GC7AN20N5SHKYY
> コメントありがとうございます。
> 4年後だとどのくらい違うでしょうか、これからお書きになる旅行記が楽しみです。私の場合は放浪記というほど冒険チックな話ではなく、途中から女房連れとなりました。
> 写真はBy妻が整理しておいてくれたので、なんとか残っておりました。
> コロナ騒ぎで皆さんの旅行記ストックが底をついたようで、つなぎに読んでください。
-
- olive kenjiさん 2020/10/12 21:00:15
- 書きたいことが多すぎて困っています
- しにあの旅人さま 初めまして いいねありがとうございました。
どの様な方か旅行記を開いたら、びっくりぽん。これ私の旅行記じゃないのと勘違いする。よく見たら同じ時代の同じ雰囲気、写真までセピア色に変色しているではありませんか。オーマイガッド、1年違いで同じような旅行をなさっていたのですね。
写真をデジタルに変える作業もほとんど同じ。私は最初はキタムラでDVDに焼き付けてもらいましたが、別に写真が鮮明になっている訳でもないし、ご料金も高いので、次からはスマホで上から一枚一枚撮ることにしました。でも光が反射したり、キチンと収まらなかったりでしたが、最後はどうでもいいや状態で根気よく複写しました。
ホント懐かしすぎるぐらい類似体験旅行です。
少し違うのは、私の場合ナホトカ号が深夜に着き、そのまま列車に乗ったので、目を覚ました時はシベリアの原野でした。すごく興奮した覚えがあります。
余りにも懐かしいので、沢山書きたいのですが抜粋します。
見送りに来てくれた女性が将来の伴侶になるとは感動的ですね。まるで映画バックトーザフユチャーのような未来を予測したような展開です。
ちなみに、私を見送りに来てくれたカップルはその後結婚しましたが離婚しました。
唯、1年後にフランスで再会するのも不思議で。すでに出来ていたのかな~
ヘルシンキで何しに来たのか分からない男も不思議ですね。
皆で大使館へ連れて行ったくだりは、笑っちゃいました。
こーいう人がツアーに一人混じっていると、大変なんですよね。
最後に、yamayuriさんヘのコメントが最高でした。
妻が若くてびっくり。惚れ直すという感じです・・・感銘しました。
初めて知り合いましたが、これからもよろしくお願い申し上げます。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/13 08:36:36
- Re: 書きたいことが多すぎて困っています
- コメントありがとうございます。
私も驚きました。同じような時期に同じような旅をされた方がいたとは。しかも私たちもこの後モロッコなのです。
74年の旅だと流石の4トラでも一番古いだろうと思ったのですが、上には上がいました。
コロナの後遺症で、古い旅の記録に皆さん熱心です。それぞれの思いがこもっていて、面白いものばかりです。
olive kenjiさんのまだ未読の旅行記があります。楽しませていただきます。
-
- チーママ散歩さん 2020/10/12 13:01:43
- こんにちは⭐︎しにあの旅人さん
- しにあの旅人さん こんにちは
沢山のいいねとフォローありがとうございます。
ご連絡遅くなり申し訳ありません。
以前私も、昔のタイへ行った時の旅行記を作成したことがあります。
ついつい「むか~しムカシ、青春があったとさ」と始まる面白いタイトルにつられ 思い出深い旅行記を拝見させていただきました。
私も留学は夢だったので本当にうらやましい限りです。
語学って興味のある内容の方が使えるし、覚える速さが違うというのは同感です。
でも・・・私には4か月でフランス語をマスターはできるかわかりませんが(^_-)-☆
空っぽなので入るのは入るのですが・・・KEEPしておく力がどうも弱くなってきたお年頃でございます。(#^.^#)
文化の違い 外観にこだわらない車の話など・・・
楽しく読ませていただいております。
たくさんの旅行記を出されているのでまた お邪魔させていただきます。
私もフォローさせてください。
今後ともよろしくお願いします。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/12 14:41:53
- Re: こんにちは、しにあの旅人さん
- コメントありがとうございます。
4トラのブログを書くようになってからは、だいたいシナリオを考えて、それに合わせて写真を撮ります。ところが46年前ですから、そんなことは夢にも思わず、おまけに何が写っているのか、自分でも覚えていない。褪色はするし、傷はついているし、見る方にとっては「え!」という代物であります。考古学的興味を持って読んでいただければ幸いです。
チーママ散歩さんのように、合成とイラストが使えたらよかったのにと思いました。Windows10のおまけのペイントで、似たようなことができるらしい。やってみた。とてもチーママ散歩さんのレベルにははるかに及びませんが、なんとか絵は重なったようです。
登場人物に吹き出しをつけて、セリフを言わせることもできるみたい。そのうちやってみます。やりすぎると、マンガになりますが。
いい刺激をいただきました。
-
- alchemistさん 2020/10/11 21:43:37
- ハーフサイズのカメラ
- オリンパスペンですね。
懐かしい。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/12 14:49:01
- Re: ハーフサイズのカメラ
- そういえば、そんな名前のカメラだったような。ハーフサイズの特権で、もっといっぱい撮っておけばよかったなと思いました。プリントしたらお金がかかると、心配しておりました。ネガのままほっておけば、よかったのでした。後の祭りです。
-
- mistralさん 2020/10/10 19:43:19
- かつて、青年は海を渡って。
- しにあの旅人さん
こんばんは。
このような楽しく懐かしい旅行記をアップされていたんですね。
遡れば奥さまとの出会いの頃を辿る旅行記でもあったわけですね。
1974年当時、私はフランスに数ヶ月滞在していました。
そこを遡ると、友人はしにあの旅人さんと同じシベリア鉄道経由で
ロンドンを目指し、個人宅に滞在して家事を手伝いながら語学教室へ。
その事はご両親には内緒での旅立ちで、後で大騒ぎとなりました。
私も74年の前にもドイツなど数カ国をツアーで巡ってました。
当時の若者は (もしかしたら一部かも?) 青春をこんな風に送り
その後、普通のオトナになっていったのでしょう。
そして、長い時が経過した後に、かつての若者、
今となっては年老いてますが (それは私のことです)
いまだに青春時代のごとく旅の空をいつも夢見ているのでしょうか?
この旅行記を拝見して、いいなあ、奥様が保存して下さっていて!
と羨ましかったです。
私はもう随分前に、処分してしまいましたもの。
モスクワの赤の広場にある玉ねぎ寺院、聖ワシリイ大聖堂ですよね。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/11 06:57:42
- Re: かつて、青年は海を渡って。
- 1964年に外貨の交換が自由化されて、海外旅行が自由にできるようになりました。でもこの頃の海外旅行なんて、体験記を本にしたら売れるという時代でしたね。男の子は小田実、女の子は兼高かおるに憧れたものでした。
1974年では、もうそんな時代ではありませんでした。でも皆さん、ワクワクしながら外国に行ったと思います。今は、もうあのワクワク感はないな。こっちがトシとって、感受性が鈍くなったかも。
74年のパリはいかがでしたか?
数ヶ月というと、旅行というより、住んだということです。あの頃外国暮らしをした若者は、多分、普通の大人にはなりません。特にそれがパリだと、やばい。パリで青春時代を過ごした人は、必ずパリに戻ってくると言います。
私たちも、最後の海外旅行は、パリでの長期滞在と決めています。
- mistralさん からの返信 2020/10/11 14:26:45
- Re: かつて、青年は海を渡って。
- しにあの旅人さん
旅行記を拝見して、後で自身の旅を振り返ってみました。
次のブザンソンでのご滞在のことも拝見しましたので。
それで、しにあの旅人さんのコメントを改めて読みますと
そのままでお応えせずにいるには失礼にあたる
ような気になりました。
正確には73年でした。
滞在したのは3ヶ月ほど。
目的は、語学研修がまず第一番でした。
当時アテネフランセに通学していて、その流れで日仏学院
で主催するフランス語の研修旅行に参加しました。
研修先は幾つかあり、パリ、ボルドー、他幾つかの
かねてからの地名を見知っていたところではなく
Pau 大学を選びました。
不思議ですが、なんだか呼ばれたような感覚ですね。
そこで1ヶ月ほどの滞在、もちろん授業をとりました。
オーディオ&ヴィジュアルなどの授業もあり
それらはアテネフランセで受けていたものの方が
進んでいたような記憶があります。
少人数での授業で、滞在先も民宿で
当時は仏語の能力もアップした事と思いますが、
その後は普通のおばさんになったため、ブラッシュアップ
する機会はないまま、今にいたります。
研修終了後、知り合いになった方のお一人と南仏やイタリア、
別の方とスペインを、更に帰国のフライトまでをパリに滞在。
ですのでパリでヤバいほどの刺激?影響?を受けるには
いたりませんでした。
むしろポーから南仏を巡った折の
mistralの吹く一帯を、旅した体験がいまだにこころにずっと
残っています。
巡礼道を歩きたいと思ったのも、そのあたりに原点が
あるような気がしています。
mistral
-
- kana Mさん 2020/10/03 01:17:04
- この旅行記は一見の価値ありですね!
- 私の生まれるちょっと前だなぁ、と思ってその頃の時代の空気も伝わりつつとてもフランクなおもしろい旅行記ですね。奥様のコメントにクスッと笑ってしまったりしながらじっくり拝見しました。以前の旅の写真、他の場所や何かあればぜひ見たいです。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/04 06:30:15
- Re: この旅行記は一見の価値ありですね!
- コメントありがとうございます。
お生まれになる前ですか。月日は団体で過ぎ去っていくのを感じます。
この頃の海外旅行は今とちょっと違っていまして、海外旅行初体験の、ややおトシの方の、団体旅行最盛期始まりだと思います。個人でフラッと旅行というのは少なかった。ちょっと観光ルートを外れると、日本人旅行者はおりませんでした。
「ムカシは良かった」という年寄りのグチっぽいものが、あと4回ほど続きます。
-
- 前日光さん 2020/10/02 23:36:28
- 実は昔のソヴェト映画も好きでして。。。
- こんばんは、しにあの旅人さん。
1,960年代中頃のソヴェトは、文豪の作品を映画化したものが多くて。
実は高校時代、同じクラスの女の子と、あの大長編の「戦争と平和」を見てすっかりハマってしまい、映画のサントラ盤はもちろん、ついに「ロシア語のすすめ」なんていう岩波だったかの本まで買う始末。
英語の「H」の発音はロシア語では「N」だとか、「R」は「P」だとか、「N」がひっくり返ったような文字があるとか。。。
苗字が男性は「ボルコンスキー」、「ロストフ」「ベズーホフ」だと、女性は「ボルコンスカヤ」、「ロストワ」、「ベズーホワ」だとか、名前と苗字の間には、たとえば「アンドレイ・ニコラーェヴィッチ・ボルコンスキー」と言った場合の「ニコラーェヴィチ」は、彼の父の「ニコライ」という名前を間に入れて「ニコライの息子アンドレイ・ボルコンスキー」となるとか。。。
あの4時間近く続いた映画を、前編も後編も4回ぐらい見ました。
勉強よりは映画、それもソヴェトの文芸路線ものという変な女子高生だったんです。
ロシア語の、あのボソボソと呟くような響きが好きで(ロシアは寒すぎて口を開けたくないんだろうなとは想像がつくものの)。
でも断っておきますが、私もノンポリでしたよ。
あの時代、学生ならロシア文学読まなくちゃという雰囲気はありましたが、私はミーハーなので映画に夢中になっていただけで、思想的なものには興味ありませんでした。
アンドレイ・ボルコンスキーの、暗い哲学的なまなざしにすっかり参ってしまっただけなんです。
ヘップバーン大好きですが、「戦争と平和」に関しては、絶対にソ連版でなければダメ!と今でも思っています。
14歳のリュドミラ・サベーリエワ扮するナターシャが、初めて現れる場面、黄色いドレスを来て笑いながらドアを開けて入ってきた時、4年後に18歳になったリュドミラが舞踏会でアンドレイと踊る場面、もう書き出したらキリがありません!
1974年のソヴェトの寒々しい風景と、映画の華やかな舞踏会のシーンとの落差に驚きつつ、当時の共産圏やフィンランドからスウェーデンの様子など、貴重な写真の数々、拝見できてうれしかったです。
興奮のあまり、自分の思い出ばかり書いてしまいました。
呆れないで、これからもお付き合いくださいませm(_ _)m
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/03 06:43:00
- Re: 実は昔のソヴェト映画も好きでして。。。
- おはようございます。
ソ連製「戦争と平和」私もみました。日本では2部作ですが、本当は4部作で、私の記憶では4部作なのです。後年フランスで見たのかもかもしれない。遥か彼方から稲妻型に大砲が並んでいて、それがドドドって順番に火を吹く場面を覚えています。すごいスケールでした。
たしか撮影に長い時間をかけて、肝心のナターシャが最初は天使のように可愛かったのですが、だんだん普通の娘さんに育ってしまって、監督が困ったというような話を聞いたことがあります。
私はロシア文学が苦手でして、登場人物の名前が覚えられない。なんか、状況に応じて呼び名が変わるんじゃないでしたっけ。愛称とか、正式名称とかいうのかな。あと、重い。
学生時代、「ドストエフスキーのなんとかに出てくるだろう」とかいうような話についていけないと困るので、「罪と罰」やら読みましたけどね。半分以上行くのは稀。吉本隆明は最初の10ページだから、それよりはマシでしたが。
ロシア語といえば、昔のアエロフロートの翼の上に「HE」というのがよく書いてあった。大体端っこの方なので、ここに乗るなの「NO」じゃないかと思っています。
2年前アエロフロートではエアバスだったので、「HE」はなかった。英語でした。
青春シリーズ頑張ってBy妻と推敲しています。次もまた波乱万丈、捧腹絶倒、でもないか。
-
- cokemomoさん 2020/10/01 15:55:27
- 続きが楽しみ。花の都では恋の花も咲くのですね!?
- シニアの旅人さん、こんにちは。
半世紀近く前の旅行の記録、すばらしいですね。
田舎の小学校に上がる頃の私にはソ連もモンゴルもヨーロッパも全部お伽話の世界と同じだったんじゃないかしら。
その頃に出かけておられたシニアの旅人さんの旅行をこうして拝見し辿ることができるなんて、すごい世の中になった!!
まず船でナホトカに行かれたんですね。シベリアの果ての寂しい港の景色が寒々しいこと。フィンランド国境近くで車内に沸き起こったフィンランディアの歌にはなんだかジーンとしてしまいました。とても貴重な経験ですよね。
2月といえばまだまだ極寒でしょうに、みなさんが随分と薄着に思えます。振り返ってみればダウンコートなんてつい最近ですよね。
パリの街並みやそこでの生活のご様子など続きを拝見するのが楽しみです。そして奥様の登場はさらに楽しみです。奥様の述懐部分のファンでもありますゆえ♫
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/01 16:51:21
- Re: 続きが楽しみ。花の都では恋の花も咲くのですね!?
- コメントありがとうございます。
わずか10日足らずの旅行なのですが、その後の旅行ではあり得ないような出来事を経験しました。若いということは何も怖くなく、何も失うものがないので、大胆だったと思います。
このあとBy妻とのモロッコ旅行やイベリア半島一周旅行などが出てくるのですが、この時しかこんな旅行はできなかったと意見が一致しました。
しばらくお付き合いください。
-
- picotabiさん 2020/10/01 15:04:15
- カメラのキタムラ ぐっじょぶ
- しにあの旅人さん こんにちは。すごいモノ読ませていただきました。
>「記憶になし」「覚えていない」「どれだか分からない」ばっかりの旅行記ですね。
そんなことありません!! よく覚えてるものだなぁと。素晴らしいです。
自分がちゃんとモスクワに観光目的で行く前に、「犬が星見た」というソ連時代のロシア旅行をつづった本を読んだのです。昭和44年6月に横浜港を発っているのでこちらの記事の5年前?の話。まさにその紀行の様子が可視化されたようなお写真。カメラのキタムラ ぐっじょぶです! 奥様とはこのご旅行で仲良くなられたっていうのにはこちらも感激しました。このあとどうなるんだろう??? 続きがとっても楽しみです。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/01 16:09:58
- Re: カメラのキタムラ ぐっじょぶ
- コメントありがとうございます。
粗筋をざっと書いてBy妻に読んでももらい、感想を聞いているうちに細部を思い出しました。つじつまの合わないところもありますが、まあいいということで。
このシリーズはこれを入れて5本なのですが、書いているうちに、やっと自分の青春の総決算ができたという感じがします。
コロナ引きこもりでこれを書く気になったので、極めて些細ですが、人間万事塞翁が馬であります。
3本目のモロッコからBy妻も登場します。
写真を整理していたのはBy妻です。私はこういう細かいことはいい加減で、彼女なしには昔の記憶など、とっくに雲散霧消です。
しばらくお付き合いください。
-
- yamayuri2001さん 2020/10/01 14:42:00
- しにあの旅人さん、初めまして。
- 素敵な思い出の旅行記ですね!
それにしても、この時代に旧ソビエト連邦船籍の船で
ヨーロッパへ行かれるなんて・・・
凄い選択ですね。
当時、横浜港から出港していたんですね。
その当時の写真をきちんと整理なさって、とても面白い旅行記に
仕上がっていますね。
海外に出ることが出来ない今、こんな風に思い出の扉を開いてみるのは
とっても素敵だと思います。
私も ルフトハンザで出発したヨーロッパ一周の
旅行記を書きたいけれど、写真はどこだったかな?
と、まずは、探さなくてはなりません。
昔の自分と対面するのは、ちょっと恥ずかしいような
不思議な気持ちですね!
yamayuri2001
- しにあの旅人さん からの返信 2020/10/01 16:33:03
- Re: しにあの旅人さん、初めまして。
- こんにちは。これからもよろしくお願いします。
写真を整理していたのはBy妻です。彼女が作った古いアルバムを見つけた時、これを書こうとおもいました。
いつものブログ通り二人三脚です。
思い出の旅行記は、思い出そのもが大事です。写真にとらわれずに、記憶を文章になさるといいと思います。写真はあればいい、くらいです。
コロナ引きこもりの有効利用をはかりましょう。
思い出のヨーロッパ一周旅行、ぜひ読みたい。
このあとBy妻とのモロッコ旅行なのですが、写真が1枚もありません。区切りに地図を入れたら、中身はともかく、体裁は整いました。
「昔の自分と対面する」そうですね。かなり恥ずかしかった。特に最後はイベリア半島一周なのですが、これに出てくる自分がスマートでびっくり。By妻が若くてきれいでびっくり。惚れ直すという感じです。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
シベリア(ロシア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ むか~しムカシ、青春があったとさ
28
32