2021/07/11 - 2021/07/11
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しにあの旅人さん
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「奈良の古代仏教遺跡」の加守廃寺の項に、えっ!ということが書かれていました。
「大津皇子の遺骸は、初めは本薬師寺の地に埋葬されたが、大来皇女の別の歌に、二上山に改葬されたことを記しているのも、それに関連するものと思われる。」
著者の小笠原は「本薬師寺の地に埋葬された」とする根拠を書いていないのですが、古代遺跡発掘の専門家が言うのですから、本薬師寺に行けば何か分かるかもしれないと思い、行ってきました。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸」をご覧下さい。
https://4travel.jp/travelogue/11668009
今回はとくに下記にお世話になりました。
「奈良の古代仏教遺跡」小笠原好彦・吉川弘文館
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
本薬師寺(もと・やくしじ)の位置です。
建立が開始されたときの天武天皇の飛鳥宮より約直線2.8km、完成したときの持統天皇の藤原宮より1.1kmです。藤原京の内部、右京八条三坊だそうです。 -
遺跡内の説明板。よくまとまっているので、全文書き起こします。漢数字は洋数字に書き換えました。
★「特別史跡 本薬師寺跡(もとやくしじあと)
昭和27年3月29日指定
本薬師寺は、「日本書紀」によると天武9(680)年に天武天皇が皇后(持統天皇)の病平癒を祈念して発願された寺です。寺の建立が開始された時期は不明ですが、天武天皇崩御後の持統2(688)年(「日本書紀」)に行われた仏事にはすくなくとも堂塔の一部が完成していたと考えられます。その後、持統11(697)年(「日本書紀」)に開眼会が開かれ、翌年の文武2(698)年(「続日本紀」)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
寺域は藤原京右京8条3坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い養老2(718)年に平城京右京6条2坊に移転したことが「薬師寺長和縁起」によって知ることができます。「中右記」によると、寺が移転した後も平安時代中期まで伽藍の存在が確認できます。また、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになりました。伽藍は、中心に金堂、その前面、左右対称に東・西塔を配置し南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付くいわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものです。
発掘調査は1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行われ、貴重な成果が得られました。金堂・東塔・西塔は基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである一方、中門・回廊は、規模・構造ともに異なることが明らかになりました。伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、さらに遅れて西塔の順に行われたことが分かりました。また中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西3坊坊間路検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。従来は堂塔の位置関係や礎石配置が平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明しました。以上のように、白鳳時代を代表する遺跡として本薬師寺の占める位置は極めて大きいものといえます。
橿原市教育委員会★ -
案内板の伽藍配置図です。
日本書紀、続日本紀の該当する記事は下記の通り。
薬師寺建立の発願。
書紀天武9年(680年)11月12日、
★12日、皇后が病気になられた。皇后のために誓願をたて、薬師寺を建立することとなり、百人の僧を得度させたところ、病気は平癒された。★
別にたいした病気ではなかったみたいです。
天武天皇崩御後の持統2(688)年(「日本書紀」)に行われた仏事
持統2年1月8日、
★8日、無遮大会(かぎりなき・おがみ)を薬師寺で行った。★
いつ建築が実際に始まったかは不明ですが、このときまでに堂宇の一部が出来ていたことになります。金堂ということです。
持統元年(687年)10月3日に刑死した大津皇子の怨霊を鎮撫するために建設を始めたというのを思いつきましたが、3ヵ月ちょっとではできません。時間的に不可能です。680年以降かなり早い時期に建設は始まっていたはず。
持統11(697)年(「日本書紀」)に開眼会が開かれ
持統11年(697年)7月29日、
★29日、公卿百(まえつきみ・つかさつかさ)は祈願の仏像の開眼式を、薬師寺で行った。★
文武2(698)年(「続日本紀」)に伽藍はほぼ完成した
続日本紀文武2年冬10月4日、
★薬師寺の造営がほぼ終わったので、僧たちに詔をくだしその寺に住まわせた。★ -
東京国立博物館デジタルライブラリー「薬師寺縁起」より。
案内板に、「平城京遷都に伴い養老2(718)年に平城京右京6条2坊に移転したことが『薬師寺長和縁起』によって知ることができます。」とありました。
「薬師寺縁起」の一部です。最初の2行は「奈良の都平城京において、皇女飯高天皇(ひだかの・てんのう)に譲位した太上天皇は、養老2年、伽藍を平城京に移した」
じゃ、ないかと思います。2行をここまで意訳するのに、By妻と2人で30分かかった。
「飯高天皇」というのは氷高内親王つまり元正天皇。太上天皇というのはその母、元明天皇です。養老2年(718年)では、天皇は元正、太上天皇は元明ですから、内容はあっています。
この時代、天皇の名前は「飯高」でも「氷高」でも、「ひだか」とよめればいいと、適当なのですね。
2行目「姫帝治十四年」とあります。「女帝」を「姫帝(きてい)」というのは、初めて知りました。かわいい。「ひめのみかど」と読んでいいのなら、もっとかわいい。美人で独身だった元正天皇にはぴったりです。
奈良の薬師寺は「東西三町南北四町。東限堀川、西限三方大路、北限五条大路、南限六条大路」だそうです。広いのか狭いのか、よく分かりません、ああ、そうですか。
説明板を見る限り、大津皇子の最初のお墓がここにあったという記述はありません。 -
梅雨だというのに、この日もいい天気。
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奈良では、案内板には英語の他に、必ず韓国語と中国語がありました。大仏や法隆寺などのメインな観光地はともかく、こんなオタク的な遺跡に興味があるお隣2カ国の観光客がいるのですかね。
目的地はすぐに見つかりました。でも駐車場がありません。
道路脇にちょっと、と思ったのですが、やたらに駐車禁止という札がぶら下がっていました。
畝傍御陵前駅の駐車場に駐めろという立て看まである。ウロウロしていたら、出てきたご近所の方に睨まれました。駅まで行って車をとめて、歩いてきました。10分くらいです。
ここは水田にホテイアオイを植える名所で、8月~9月に最盛期を迎えるそうです。それを見に来る観光客と地元がもめているのでしょうか。駐車避けたほうが無難 by しにあの旅人さん本薬師寺跡 名所・史跡
-
ホテイアオイと一緒に、大伴旅人の歌碑がありました。
-
拡大、色調補正しましたが、はっきり読めない。
★忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため★ 3-334
△わすれ草を私は紐につける。香具山が懐かしい。あの故郷を忘れようとして。△ 中西訳万葉集。
この歌は旅人が大宰帥として太宰府にいたときに詠まれた歌です。だから香具山が懐かしいと言っております。 -
史跡を見て回ります。1時間ほどいましたが、私たち2人だけでした。
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小さな広場がありました。右端がさっきの案内版です。
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林の奥に大きな石が見えました。
-
金堂の礎石だそうです。
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案内板はなし。
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礎石は金堂以外に東西の塔跡も残っているそうですが、見落とし。
そのほかの遺跡も水田の下に残っているらしい。 -
この位置です。
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金堂跡には小さなお堂がありました。
本薬師寺と関係あるものかどうか、分かりませんでした。 -
周囲も回ってみましたが、一面の水田です。
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畝傍山。直線1kmです。
-
小さな石碑までこまめにあたりました。何か説明板がないか。
-
大津皇子にかかわりがありそうな説明、案内板は見つけられませんでした。お得意の妄説をどうひねくり回しても、どうにもなりません。
「ない」ということが分かっただけでも収穫、ということで引き上げることにしました。
暑かった!
小笠原以外にも、文献上の根拠はなしに、本薬師寺に大津の墓があったという古代ブログを見たことがあります。
でもここに大津皇子の殯宮があったというのはかなり疑問。
「最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。」
と案内板にありました。
持統元年(687年)10月3日に大津皇子が刑死したとき金堂の建設は始まっていたから、この地域はそのときすでに造成済みということになります。縦横の道路がビシッと造成され、現代の大都市郊外の、売り出し前の大規模分譲住宅造成地みたいな感じだったはず。
昔も今も同じ、畝傍山の山裾まで直線1km、耳成まで2.1km、香具山まで1.5km、周囲は丘らしきものは何もない真っ平らな地形です。鳥谷口古墳、加守廃寺とは全く違って、明るくて、陰がない。しかも人工的な造成地。こいうところにポコンと殯宮を造るものですかね。
一書に曰く、
奈良県あたりは、好き勝手に新築の家を建てることが出来ないそうです。ちょっと掘れば、歴史的価値があるものが出てくるから。
ここ掘れワンワン。
花咲かじじいは、奈良のお話らしい。
そんなあ!と、話半分に聞いておりました。
商店街の中の道を進んでいき、左折しますと、最初こそいくらか建物があるものの、すぐに田園風景が広がっております。
車で、ものの2分も進んだかと思うと、道から半島みたいに田んぼに延びている、殺風景な林があります。
グーグル先生は、ここだと。
えー?本薬師寺だよね。お寺では?伽藍とか、塔とかないの?
無意識に期待しておりましたが、
ない。ありません。なんにもありません。
半島の入口に一軒家があり、そばに石碑がありました。その家は、なにやら金魚やさんみたい。大和郡山は、たしか金魚の産地でした。ここもそうなのか。
そう思っておりましたら、金魚ではなくホテイアオイなんですって。金魚鉢に入れる水草ですね。
なんでも小学生が植えて、育てて、有名らしいです。が、コロナなので、今年は栽培中止だそうです。へー。棒読み。
どうでもいい感満杯。
ひどい人間だと思いますね。今となっては。
いたいけな少年少女の仕事を否定するかのような、この言動、許せません!
が、その時は、本薬師寺探しで、頭いっぱいですから。
第一、金魚飼ってないからホテイアオイに用事ないし。
ダイヤモンドも、砂漠で飢え死にしそうな人間には、ただの石ころですからね。
無知と無関心は親の敵ですわね。
ということで、本薬師寺よりもホテイアオイの説明板の方が目立つところでしたよ。
そして、肝心の本薬師寺なのですが、まさかね。
個人のお宅のお庭先にございました。
ホテイアオイ屋さんを曲がって、半島に入ります、そのとっさきの林のなかにそれはございました。
林を横に進むと、水田に突っ込みます。この水田こそが、ホテイアオイの栽培地です。
ホテイアオイには興味がないので無視。林に入りますが、思わずのけぞる感じ。
いいの?入って。個人のお宅ではないですか? -
ちょっと奥には、布団も干してあるし。洗濯物も干してあります。
石がゴロゴロありますが、母の実家の庭には、巨石がおいてありまして、子供のころの私は、それによくよじ登って、エベレスト登頂!のつもりでおりましたがその庭みたいです。
すごいですね! -
このゴロゴロが、本薬師寺なのですよ。礎石ですってよ。
持統天皇の病気を治すために、天武天皇が建てさせたのですよ。
持統天皇の石!あ、ちょっと違うけど。まあ、その時代ね。
こんなにゴロゴロしてるってことは、触ってもいい。叩いても、何なら、蹴っ飛ばしてもいい?
ほんとーに無造作に、邪魔くさそうにゴロゴロしております。
いいのか、これで。なんとか文化財ではないんかい?
文化財保護しなくて委員会?
そこに愛は、、と、太地真央といっしょに言いたくなりましたよ。
これが奈良。
ここ掘れ、ワンワンで、ナニか出てきたら、建築中止だそうですが、歴史的遺物は、迷惑がられている?
すごいなあ。奈良って。歴史的遺物に囲まれて生活しているのね。
アズマエビスの我が方では、東京湾で遭難した人の櫛が、太平洋側に流れ着いたなんて、たぶんウソをウソでも信じた振りで祀ってるのに。
入口の側に古びたお堂がありましたが、この三日前の大雨でこうなったのか、以前からか、痛んでいましたし、なにやら張ってある新聞の切り抜きもきれぎれです。
それを苦労して読みますと、この地方の新聞らしいです。そして司馬遼太郎が、散歩でここに来たというエッセイでした。
のんびりした田園で、本薬師寺に相応しいと書いてありました。
なるほど、この景色を司馬遼太郎は、そういうふうに書くのね。と、見回しました。
時が景色も変えたのでしょう。
そう感じたのは、ホテイアオイが咲いていなかったせいかもしれません。
コロナが景色を変えたのです。
にっくきコロナめ。
コロナの一日も早い終息を!
そして子供達が、またホテイアオイを栽培できますように!
司馬遼太郎が褒めた、のどやかな田園風景が再び見られますように!
By妻
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この旅行記へのコメント (7)
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- 前日光さん 2021/10/03 23:58:20
- 礎石が民家に隣接!
- こんばんは、しにあさん。
「本薬師寺跡」とは、またシブイ所に向かわれたようで。
自分の家を造ろうと思って工事していると、ザックザクと遺跡が。。。(^^;)
奈良のあるある話ですね。
すると、長屋王の屋敷跡は今スーパー(でしたっけ?)の入り口近くに、石碑だけがありますが、あれなんてどうだったのでしょう?
掘っていたらどうもそうじゃね?となって、でも長屋王だから、反逆者だし。。。ま、いっかってなったのでしょうか?
それにしても、あの天武天皇が持統天皇の病平癒のために建立した本薬師寺でしょ?
民家隣接の状態で礎石が転がってていいんでしょうか!
一つ一つ保護していたらキリがないわい!とウヤムヤにして、オウチを建てちゃったの?
うーーん( ̄∇ ̄)、なんてこった!
ところで本日は10月3日、大津皇子が刑死した日ですね。
でも新暦ですから、実際の10月3日って、今の10月25日くらい?
こうして大津くんのことを話題にしている日が、10月3日(新暦だけど)ってことに因縁を感じます。
コロナでなければ、この辺りにはホテイアオイが咲いているのだとか、あれ、きれいですよね!せめてあの薄紫の花が咲いていてほしかったな、なんて思ったりして。
せっかく訪れたのに、この本薬師寺跡に大津皇子の痕跡を探し出すことはできませんでしたか。
しにあさんにしては珍しく、妄想発揮の機会も、なんとか大津と結びつけることもできませんでしたか。
残念ですが、調査にはそういうこともままあるのですねぇ。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/04 06:03:30
- Re: 礎石が民家に隣接!
- そうでした、持統元年10月3日、運命の日でしたね。前日光さんの計算間違いなく、西暦では686年10月25日です。
10月3日、この日に大津の皇子の話をするなんて、本当に因縁ですね。気がつきませんでした。
本薬師寺はシブかったですね。シブすぎた感じです。橿原市も、本薬師寺まんじゅうを売れとは言いませんが、もうちょっとなんとかしてほしかった。
歴史ロマンの塊みたいな石ですが、ごろごろ。
荒城の月ではなくて、詩情もない。でもこういうところが、奈良旅のいいところかもしれません。そっちの想像力で勝手に旅をしろ、と言われているのでしょう。
長屋王の屋敷跡はナラ・ミナーレとかいう複合商業施設です。遺跡が出てきたのに、かいつまんで建物を建ててしまった。それでそのあと、中に入ったデパートだかなんだかがふたつも潰れたという話です。
私なら、日本三大怨霊の跡地なんかに絶対に建物を建てません。
私たちは中に入らなかった。前日光さんもいらっしゃるなら、お浄めの塩を忘れずに。
今回は空振りでした。大谷くんじゃないので、毎回ホームランというわけにはいきません。
それも、また、旅。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/05 12:15:41
- Re: 礎石が民家に隣接!
- 大手町に将門の首塚があります。あのあたりは外資系企業の巣ですが、首塚に背を向けて座ることはしないそうです。
-
- kummingさん 2021/10/03 10:49:33
- フィールドノート♪
- しにあさん、by妻さん、こんにちは♪
遺跡巡りの面白い処は、あるいは困った事は、行ってみると何もない事。田んぼ、道路、ただの原っぱ♪ とはしにあさんのお言葉ですが、私たちはその“何もない処”から語られる、正史にない歴史を楽しませて頂くという、特権を享受しております。
歴史の影に埋もれた悲運の人々を浮かび上がらせる凄技についてはもちろん、もう一つ忘れてはならないのが、場所を比定(というのですか?)する、推理してご自分たちの脚で特定する、その過程、熱意には、毎度恐れ入るばかり(°_°)
振り返って、昌福寺=夏見廃寺(このシリーズを象徴する?)、大宇陀の阿紀神社(手水舎の小川端にかけられた真っ白な手拭きから、朝晩心を砕いて下さる方がいらっしゃる)、天武チルドレンを追って文弥麻呂の宇陀市史跡整備(お墓への道しるべと手書きの案内)、壬申の乱の激戦地、藤古川、不破関、村国連男依を祀る村上神社、草壁皇子所縁の東明神古墳と嶋の宮、文武天皇陵墓中尾山古墳、などなど…。
遡ればもっと以前から、しにあさんby妻さんのこの現地ルポシリーズは始まっていますが、大体、駐車場が狭い、とか、近くになくてたくさん歩いた、とか車が通れる?道なき道を進んだり、目的地に辿り着けるのか?という処から帆走して、その先に開けた光景を、共に清い心で迎える、という展開を堪能♪
そんな中で、このフィールドノートは、比較的“たぶんこうだったんじゃない”劇場から漏れてしまいそうな、どぜうがいなかった編?
本薬師寺跡も奈良という掘れば遺跡にぶつかる!という遺跡群でなければきっと、もっと大切に指定保存公開、されるのかもしれませんが、そうなって観光地化して失われるものもある、と思うと、このまま“好きもの、マニアの聖地”的な在り方があってもよろしいのでは。
ブログ毎に丁寧な地図で訪れた場所を教えて頂き、地図音痴ながら懸命に確認させてもらっていますm(_ _)m この全体像、しにあさんby妻さんのフィールドワークを網羅するような地図、見てみたい♪(←独り言です、気にしないでね!)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/04 05:26:59
- Re: フィールドノート♪
- 私たちの縦の旅の目的をしっかり読み取っていただいて、嬉しい限りです。これからもリキを入れて、旅を続けます。
フィールドノートは、おっしゃるとおり、どぜうがいなかったシリーズです。いたらもう、舞上がって、えらい騒ぎになっております。いなければいないで、淡々とそれをレポートするのもまた面白いかな。
これは実は、コロナで中止したFD2の旅で、イエジからフォーリニョへの、コンラッド夫人と幼いFD 2の旅を辿ろうと思った時の手法です。山頂の古城、教会などを順番にあたって行って、 2人の旅の足跡が何かあればよし、何もなくてもそれを淡々と記録する。うまくいってもいかなくても、その過程を書けばいいんじゃないか。旅って、こういうものですよね。だからフィールドノート。
旅の記録って、まとまらなくてもいいんです。
その過程で、阿紀神社の禊の白い手拭いや、文弥麻呂のみちしるべみたいなもの出会えれば、ラッキー!
縦の旅つまり歴史の旅は、あるシナリオがなくてはできません。そのシナリオを書くのが私の受け持ちで、その場の感想を書くのがBy妻、という役割分担ができつつあります。
kummingさんの最新ブログも同じ方針ですね。凹んだやかん(きゅうす?)が印象的でした。そういう書き手の印象を並べていく。でも、これって、当たり前。
要は、印象をどんなふうに切り取ってくるかですね。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/10/04 05:43:13
- Re: フィールドノート♪
- 前日光さんからのご指摘がありました。10月3日って、大津の皇子の命日でした。持統元年686年10月3日です。
- kummingさん からの返信 2021/10/04 08:42:18
- あの世とのご縁かも?
- おはようございます♪
まじですか? 前日光さんのご指摘、すごいっ(°_°)
(新旧暦はおいといて)これって何か因縁、縁を感じてしまいませんか?
「何か知らんけど、地上でおれっちの事で、わいわい騒いでるみたいやで~」と、あっちの世界(あの世、黄泉の世界)で話題になってて、持統、天武、大津、大来、草壁君などなど、このシリーズ登場の方々から注目されているのかもしれません!あの世との縁を繋ぎ、寝た子を起こす、しにあさんby妻さんの熱意、効果は絶大です♪
出来る事ならもう一度、乞う、FDIIの蘇りを^o^
ご指摘頂いた、急須→やかん、は後ほど訂正しておきます~
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