2021/07/11 - 2021/07/11
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しにあの旅人さん
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更新記録:2021/09/22:骨蔵器の写真のあと、火葬の起源について。
名張の夏見廃寺展示館に展示されていた「薬師寺縁起」の複製品です。
詳しくは恐縮ですが、
「六国史の旅 飛鳥の姉弟14 大来皇女夏目廃寺」
https://4travel.jp/travelogue/11690369
をごらんください。
このときは大津皇子の記事の現代語訳が見つかりませんでした。私は漢文など読めないのですが、文字の意味だけをとってかなり適当に現代語訳にしました。その後下記の「奈良の古代仏教遺跡」に完全な訳を見つけましたが、それほどひどい間違いはなかったので、厚かましくも再掲します。
大津皇子 持統天皇4年正月大津皇子を拘禁して自害させた。(書紀では持統元年)
伝承によると、大津皇子は世を嫌って不多神(ふたかみ)山に籠もった。
誣告により掃寺(かでら?)に7日間閉じ込められた。
皇子は悪龍となり雲に上り毒を吐き、天下が静まらなかった。
朝廷はこれを憂いた。
義淵僧正は皇子の平生の師である。
(以降お坊さんがどうしてか修円にかわり、また悪龍が悪霊に変身))
勅命により修円が祈ったが悪霊はまだ収まらない。
修円は一字千金を呼ぶ(意味不明)
悪霊は成仏した。皇子のために龍峯寺を建てた。葛下郡にある。掃守寺がこれである。
この「掃守寺」に行ってきました。
このシリーズは、六国史の旅ともいえない小旅行の断片、あるいは空振りに終わった遺跡や神社めぐりのノートです。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸」をご覧下さい。
https://4travel.jp/travelogue/11668009
今回はとくに下記にお世話になりました。
「奈良の古代仏教遺跡」小笠原好彦・吉川弘文館
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
大来大津姉弟をたずねる旅で、二上山や鳥谷口古墳を地図で調べていたとき、近くに「加守廃寺跡」というのを見つけました。
「掃守寺」と「加守寺」同じみたい。当時は読みが同じなら適当に漢字を当てていました。
「葛下郡」というのはどこだろう、調べたら、「かつげぐん」と読み、古代大和国にあった郡で、現葛城市の大部分。
加守廃寺跡の住所は「奈良県葛城市加守1060」
わっ!「皇子のために龍峯寺を建てた。葛下郡にある。掃守寺がこれである」モロじゃないですか!
「薬師寺縁起」によれば、名張の昌福寺は名目上天武天皇を弔うことになっていますが、こちらは正面から大津皇子鎮魂のお寺となっています。2021年7月の奈良旅の目玉となりました。
夏見廃寺のようなものを期待して、つまり2匹目のドジョウを狙って、やってまいりました。 -
車載ナビは初めからお手上げ。当てにしてないよ、近鉄南大阪線の二上神社前駅まで連れてってね。近くでグーグルさんに切り替え。皆様ご存知、彼(女?)の道幅無視、道路状態無視に怯えつつ、坂道を二上山めがけて駆け上がりました。それほどひどくはなかった。やがて行き止まり。しかし小路のその先に、建物がありました。
念のため歩いて道路状況を確認、車幅ギリギリながら途中まで砂利道、上りきったら平地がある。
一書に曰く、
本当に、廃寺で、何にも無くて、集落の公民館になっているような建物でした。
今回グーグルさんは、よく働いて、案外な簡単さで案内していただきました。ということは、周辺をうろつくことがなかったので、いまいちこの近辺の雰囲気がつかめていないですが。
迷うということも、なかなか大切なことなのですね。
静かな住宅と畑の間の道。
昭和というか、もしかしたら大正っぽい路で、自動車を考えていない、せいぜいが自転車、牛車くらいしか考えていない感じの道です。こういう道は先細りが多いですから、By夫は車から降りて、車が通れるか、見に行きました。
こういうとき、私に行けと言わないのは、彼の美徳の一つです。
ま、たいていわたしは、助手席で、何やらかにやら抱え込んでいて、車から出るとなると、まずその整理から始めるので、自分が行った方が早いってこともありますがね。
なにやらかにやらっていうのはですね。車中で食べる食料、飲料。途中のメモをとる筆記類、地図。etc.これが膝に山積みされております。
見に行ったby夫が、戻ってきて、大丈夫上れるというのですが、本当かなあ?
上っちゃいました。が、これは昔からある路ではないね。無理に造ったかんじです。
By妻 -
上りきったあたりから見下ろしています。
-
坂道を登り切った四天王堂の前の草地。四駆ならUターン問題ありません。
一書に曰く、
上りきると、案外な広さの空間です。藤棚があって、ベンチもささやかながらあります。ここら辺が公民館ぽいのです。
建物も、お堂というには、大きいし、分教場には小さいし。
建物としては白壁だし良い感じなんですが。
悪くはないのに、なんだろう、索漠としております。藤の咲く頃に来たら、違う印象かもしれません。
広場は、草刈りはしてありました。
こういう手入れのために、トラクターとか通さなくてはならなかったのでしょう。それで、路を広げたのではないか。
割合最近まで、背負子に草刈り鎌で、人が手作業でやっていたのではないかな。
By妻
ドローンの回転空撮を2種類。 -
高度5メートル。
https://youtu.be/smYTHdP0ImI -
10メートルくらい。もうちょっと上げたかったのですが、安いトーイドロンですから、制御不能になって沼にボチャンが怖かったので、このくらいで我慢。
一書に曰く、
緑が深いです。この森を歩いて行くと、どこかで、あの大阪のおばちゃんが笑いさざめいていた、あの広場に着くのかしらん?
あの二上山と、この二上山と、同じ山とは思えません。
なんだか、21世紀とは思えない空気です。
四天王堂から、今にも薩摩絣の坊主頭の少年が、なにか?と姿を現しそうです。
空気が停滞しているわけでは、決してないのだけれど、令和の今、2020年代の今とはとても思えない。
ああ、そうだ!「千と千尋」の最初みたい。
ここに夜までいたら、、、森にずんずん入って行ったら、、、21世紀にもどって来れないかもしれません。
By妻
https://youtu.be/YE24CX4JDbI -
正面の四天王堂。
-
ごらんのように新しい建物です。内部には仏像が安置されていました。詳細不明です。
-
現場の説明板。書き起こしておきます。漢数字は洋数字に変えてあります。
★県指定 史跡
加守廃寺(かもりはいじ)
平成7年3月22日指定
加守廃寺は二上山麓の尾根を挟む形で南北に分かれて立地しており、それぞれ北遺跡・南遺跡と呼称されている。
奈良時代の「掃守寺」と関連するものと推定されるが、創建当時の建物は全て失われていて往時の伽藍を推定する手がかりは、わずかに北遺跡に残された土壇跡のみであった。
発掘調査の結果、北遺跡では塔とそれを取り囲む回廊が検出され、塔基壇の規模は薬師寺のものに匹敵することが明らかになった。また、南遺跡では水田下より長六角堂を検出した。通常知られる多角堂は、正六角形ないしは正八角形であるが、この遺跡は細長い六角堂で、他に類例を見ない特殊な形である。また出土した瓦類には葡萄唐草紋(ぶどうからくさもん)の軒平(のきひら)瓦や、8世紀中頃の平城宮系の軒瓦が含まれていて、奈良時代の建立であることを示している。
この遺跡は二上山山麓の古代寺院を知る上において極めて重要な遺跡のひとつである。
平成9年3月
奈良県教育委員会★ -
出典:葛城市歴史博物館展示パネル。
北遺跡、南遺跡の位置関係です。今回行ったのは「長六角堂」と書かれている南遺跡です。 -
出典:葛城市歴史博物館展示パネル。
説明板にある「長六角堂基壇」発掘写真です。
写真奥の建物が四天王堂。西から東を見ております。四天王堂と向かい合う方が正面です。西側の階段がはっきり残っているのは、裏側であまり使われなかった。
南北は3間、他は2間。発っている方の身長から推定すると1間は3mくらいでしょうか。長辺約10m、短辺7mくらいの細長い六角形のようです。 -
四天王堂の向こうの空き地がそれだと思います。今は埋め戻されてなにもありません。
-
加守廃寺には、現在はこれだけしかありません。
-
周囲は二上山麓の深い森です。
-
東は少し開けており、ドローンからの空撮では町並みが写っておりました。
手前が加守の家並み。農家と言うより、別荘のような家が多かった。遠くは香芝市でしょう。 -
一書に曰く、
四天王堂の周りを歩いてみると、普通の家の裏手みたいで、なあんだ、これっきりか。
と、丈高い雑草の壁に切れ目があるのを発見。
分け入ってみると、雑草の衝立の向こうには、池があるではありませんか!
知らなかったなあ、見えなかった!
不思議な水の色の池です。堂池というようです。
池と沼の違いってなんでしょうか。この池は、沼って感じです。淀んでいて色も暗く、水もどろーんとしていて。
なんか出てきそう。
ぐるっと探検。したかったけれど、やめ!
と申しますのも、旅行前に町田育ちの友人に
「子供の時は、学校に行くのに路を歩いていくと、マムシがうじゃうじゃいてね、蹴飛ばしながら歩いたもんよ。」というお言葉を賜りました。ウヒャア。(町田は、今や繁華街です。)
その言葉が、脳裏に鮮明に浮かびました。
ぐるっと池の周りの散策は、やめ!やめ!絶対やめ!
ほんまに、この池からは、竜が出てそうでした。
それにしても、雑草でこの池を隠しているのは、なにか意味があるのでしょうか。
路を上ってきて、一度に、四天王堂、藤棚、そして、この池が見えたら、どんなにスケールの大きな、のどかな良い景色になったことでしょうか。
ぜひこの池は、公開してください。
By妻 -
藤棚があり、ベンチがありました。一応、観光客のことも考えているらしい。しかしどの観光ガイドにこのお寺が載っているのかな。
大津皇子の鎮魂の寺であった、目に見える痕跡は、なし。
夏目廃寺のようには整備されておりません。2匹目のドジョウは残念ながらいなかった。 -
ここで援軍登場。
「奈良の古代仏教遺跡」
以下僭越ながら敬称を略させていただきます。
著者の小笠原好彦は奈良文化財研究所の主任研究官、滋賀大学教授などを歴任された考古学者で、専門は古代瓦のようです。
小笠原は南遺跡の長六角堂に注目しています。
「奈良時代に構築された多角形の八角円堂は、氏寺の金堂とは異なり、特定の個人の霊魂を弔う建物、すなわち廟として構築されたものであった」
その例として、法隆寺東院の夢殿などをあげています。
斑鳩宮は厩戸皇子(聖徳太子)の宮殿でした。したがって皇子の霊を慰めるための建物ということでしょう。あるいは、
日本書紀皇極2年(643年)11月1日、
★山背大兄王は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。そして妃や子弟らをつれて隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略)巨瀬徳太臣(こせの・とこだの・おみ)らは斑鳩宮を焼き、灰の中に骨を見て、王は死んだものと思い、囲みを解いて退却した。★
このあと、山背大兄王は斑鳩寺に戻り、内戦を避けるために一族そろって自決しました。
斑鳩宮は焼失し、荒廃しました。東院はその跡地に行信が建てたものです。
したがって夢殿は、より直接には、非業の死を遂げた山背大兄王の鎮魂の仏堂となります。
小笠原の結論です。
「このことは、加守廃寺で検出された長六角堂基壇も、「薬師寺縁起」に記すように、二上山に埋葬された大津皇子を弔うために、新たに構築した可能性が少なくないように思われる。」
やった!
薬師寺縁起の掃守寺は加守寺だったのです。 -
當麻寺曼荼羅厨子。国宝です。撮影禁止なので當麻寺カタログより。
-
同じ厨子ですが、こちらは葛城市歴史博物館展示の厨子写真。
曼荼羅本体は、縦394,8cm、横396.8cm。 -
厨子写真に添えられていた説明文。
全文書き起こします。
「加守廃寺
『正倉院文書』に登場する「掃守寺」と考えられている。これまでに計5回の発掘調査がおこなわれ、尾根を隔てて北と南に200m離れて伽藍が展開することが明らかになっている。
現在、四天王堂と呼ばれる小堂の西側で、南北に長い六角形の建物基壇が見つかった。基壇場には、長六角形の平面形をもつ建物が建っていたと考えられている。その平面形は、當麻寺の當麻曼荼羅阿をおさめた厨子の形を想起させ、長六角堂についても、織仏を掲げる建物であった可能性が指摘されている。
塔跡は、通称「トンタニ」と呼ばれる谷間地の中央付近にある。
長六角堂は8世紀初頭~中頃、塔は8世紀中頃の完成と考えられている。」
大体長辺10m、短辺7mくらいの長六角堂でありました。曼荼羅厨子の奥行きを深くしたようなものということです。
當麻寺の曼荼羅が縦394.8cm、横396.8cmですから、加守寺の織仏は同じくらいの大きさだったかもしれません。
長六角堂の建立年代は早くて8世紀初頭。
大来皇女の昌福寺(夏見廃寺)金堂の建立は694年と分かっております。その後10年~20年ということです。大来の死は702年、おそらく彼女はこの六角堂の建立を知りません。
大津皇子、未知の真墓?
小笠原によれば、
「長六角堂にしたのは二上山上に造られた大津皇子の墓を意識し、正面が東であることを明示したものだったと推測されるのである。」
しかし二上山上の大津皇子の墓とされるものは、信頼性に乏しく、現在は鳥谷口古墳が真墓とされております。
このあたりは恐縮ですが「六国史の旅 飛鳥の姉弟3 大津皇子二上山」
https://4travel.jp/travelogue/11671641
をごらんください。
しかし鳥谷口古墳は長六角堂のほぼ真南になります。長六角堂を皇子の鎮魂の堂とすると、ここも真墓ではない。
長六角堂が東を正面にするのは考古学的事実、この建物を建立した8世紀初頭の人々は、真墓がどこにあるかは知っていた。 -
長六角堂の西はすぐ二上山麓です。
-
四天王堂を仮に長六角堂と見立てると、二上山をこういうふうに見ることになります。
なにかの理由で、西を礼拝する東に正面をもってきたのです。 -
小笠原の説を少し修正し「二上“山中”に造られた大津皇子の墓を意識し、正面が東であることを明示したものだった」とするならば、長六角堂の西に未発見の大津皇子の真墓があることになります。
-
これは下記に述べる葛城市歴史博物館が、2016年9月17日から11月27日に開催した展覧会「葛城市古寺探訪」にある加守廃寺の地図です。
四天王堂の西、加守火葬墓と記された位置で、1945年、金銅製の骨蔵器が偶然発見されました。
この件、記事全文書き起こします。
「加守火葬墓の金銅製骨蔵器
昭和20年(1945)、加守廃寺南遺跡の長六角堂のある地点から、二上山への尾根を西に登った松林のなかで偶然、金銅製の骨蔵器が、地下10センチメートルから掘り出されました。骨蔵器の埋葬された場所に、盛り土などの外表施設はなかったとされています。
骨蔵器の大きさは、高さ16センチメートル、最大径20センチメートル。その内部に、九分目ほどの火葬骨が納められていました。墓誌や碑文はともなっていないため、被葬者の氏名などは判明していません。しかし、加守廃寺(南遺跡)近くに墓域を設けていることから、被葬者はこの寺院と関係のある人物である可能性が想定できます。加守廃寺の造営主体である掃部氏一族の誰か、あるいは寺院の僧侶といった被葬者が、想像されます。」
一書に曰く、
飛鳥時代のお葬式って、どんなだったのだろう。一度土葬にして、何年か後、お骨だけを取り出して、本葬にするらしいとまでは、知っております。
が、本葬に当たって、お骨は、誰が拾うのでしょうか。
沖縄あたりだと、長男とか決まっているそうです。
家の跡取りが、お骨をきれいに洗うらしいです。ということは、お骨に、変化した肉体の欠片がこびりついてたりするってことです。
持統天皇が、草壁皇子の遺体に化粧をしたそうですが、なぜだろうと考えていました。
そして、考えついたのは、持統天皇は、草壁皇子をツタンカーメンにしたかったのではないかということ。
人間が生存をやめると、単なる脂肪とタンパク質の塊になって、刻一刻腐敗してゆく存在になるわけです。
その変化してゆく様を、持統天皇は、何回も何回も見てきた。その時代の人は、それが当然で、仕方ないと思っていたことが、彼女、持統天皇には耐えられなかった。ましてや、愛する、たぶん生涯で一番愛した人である息子が腐敗してゆく様は、見たくなかったでしょう。そこで、それを見ないですむように、仮面をつけさせた。真っ白な厚い化粧は、ある程度までは、脂肪とタンパク質の変化を隠したことでしょうから。
けれど、完全ではなかったのです。そこで、彼女は、自分自身は火葬を選んだのではないか。
加守廃寺の近くで発見された骨蔵器は、いったい誰のお骨を納めたものだったのでしょう。
大津皇子は、火葬だったのでしょうか。
だとしたら?
だとしたら、大発見です。
ワクワクが止まりません。
By妻 -
現在は東京国立博物館に重文として保管されているようです。貴重なものであるということです。
その後この件についてはなにも研究がされていません。大津皇子に関連させる学説はないようです。
火葬の起源。
もし大津皇子の遺骸が火葬されたとすると、690年前後に火葬の風習が日本にあったかが問題になります。
天皇で最初に火葬されたのは持統天皇。
続日本紀慶雲4年(707年)冬11月12日、
★(持統天皇の)遺体はその日、飛鳥の岡で火葬にした。★
その前、700年には、僧道照が遺言により火葬されました。
続日本紀文武天皇4年(700年)3月(日付不明、道照の死は3月10日)、
★弟子達は遺言の教えに従って、栗原(高市郡明日香村栗原-訳注)で火葬にした。天下の火葬はこれから始まった。★
しかし「火葬の歴史」
http://kanrishikai.sakura.ne.jp/files/kasou_history.pdf
によると、
「昭和31年に同志社大学の森浩一教授が大阪府堺市内にある陶器千塚古墳の火葬遺跡であるカマド塚などを発掘、紀元 600 年前後 には、朝鮮半島から渡来した陶器工人の間で火葬が行われたことを示す窯形火葬墳墓を発見したため、火葬の 起源が100年ほど遡ったことになる。」
持統天皇の火葬の時、「二品の新田部親王を御竈(みかまど)を造る司に任じ・・・」とあります。御竈は火葬するための施設です。
竈とは土を焼き固めたもの、あるいは陶製だと思われるのですが、陶器工人の葬儀風習がそのまま採用されているのです。つまりこの風習は100年引き継がれていた。
道照の火葬の約10年前です。大津皇子の火葬もありえるかと思います。 -
葛城市立歴史博物館。
奈良県葛城市忍海250-1
博物館パンフレットより。
今回は葛城市立歴史博物館で貴重な資料を手に入れました。
館長さんが加守廃寺の展示コーナーまで案内して下さいました。
「雑草がひどくかったでしょう」とおっしゃったので、ドローン撮影の写真を見せました。
きれいに草が刈ってあったのです。いつもはこんなものではないらしい。だれかが加守廃寺を見守っているのです。葛城市歴史博物館 美術館・博物館
-
加守廃寺から発掘された土器です。
-
塼(せん)、レンガです。加守廃寺の長六角堂基壇には一面に敷きつめてあったそうです。
-
墨書土器。「寺」と書いてあるらしい。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2021/09/23 00:04:53
- 調査発掘の旅!
- しにあさん&by妻さん、こんばんは。
今回は、特にby妻さんの琴線に触れる発見が多々あったようですね。
加守廃寺が掃守寺と同一と分かったときの興奮は、たとえ前もってそうじゃないのかな?と思っていたとしても、この上ないものだったことでしょう!
それにしても「四天王堂」の近くの池(@_@)
あのどよんと濁った池の感じは、東出雲にある「黄泉比良坂」の脇の池と同じようですよ。
あの世とこの世の境目に、濁った禍々しい感じの池がありました!
何かいるに違いないというby妻さんと同じ感想を、私も出雲の地で持ちました。
出雲の場合は、やっぱり大蛇が連想されますが、その池は小さかったので、せいぜい蛇くらいのレベルでしたが。
でもよどんだ空気が辺りに立ちこめていて、最初に行った2006年(だったような?)頃は、本当に誰一人いなくて不気味でした。
なぜかそこに私は三度も行っていますが、だんだんと整備されて観光客さえ来るようになり。。。今や普通の、神話を巡る聖地になってしまいました。
この加守廃寺の池も、もっと分かりやすくした方がいいですね。
こういったおどろな雰囲気が漂う所は、大津皇子事件にさらなる陰影を与えるでしょうから。
ところで私は今まで、二上山上にあるお墓が大津皇子の墓であると信じて疑いませんでしたが、しにあさんのこの一連の古代史シリーズによって、宮内庁の言うところの天皇家のお墓はあまり信用できないのだなと思うようになりました。
で、そういう調査系のことは、私はどうも向いてないようなので、そちらはしにあさんやby妻さんにお任せして、もっぱら妄想に走ることを専門としたいと思います(^^;)
そうなると気になるのが、金銅製骨蔵器 です。
昭和20年に、地下10センチメートルから発見されたとか。
これが古代の物だと言うことは、証明されているのですよね?
だとしたら、その中の火葬骨はいったい誰なのか?
二上山、しかも加守廃寺の近くで発見されたというのであれば、すぐに短絡的に大津か?と思ってしまいそうです。
古代人は、火葬というものに対して拒否感が強かったことでしょう。
人間は元来大地と繋がった存在だから、死後は大地に戻るという発想は自然だと思います。
しかし持統天皇でしたら、新しい考えを取り入れて、私が死んだら存在のすべてを消してしまって!未練たらしく時間をかけて大地に吸い込まれて行くよりは、焼かれて煙となって天上に昇る方がいいわと言ったかも。
大津はどうだったでしょう?
もし火葬という風習が一般化していれば、彼も積極的にその方向に従ったと思うのですが、火葬がいつ頃から始まったのかというのは、なかなか難しいところですね?
という風に言い出すとキリがありませんので、この辺にしたいと思います。
しにあ流「種々の文献や現地調査から出来事を類推し、ホントはこうだったんじゃないかという事実を導き出す手法」は、毎度感心させられっぱなしです。
今後も多くの「こうだったんじゃないか劇場」に期待しております(^_^)v
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/23 12:35:23
- Re: 調査発掘の旅!
- このシリーズはフィールドノートとしたくらいで、さらっと現場調査記録にしようと思ったのですが、小笠原氏の本やら、葛城市博物館の金銅壺などが出てきて、そうもいかなくなりました。
骨蔵器は、詳しいことはわかりません。しかし東博が重文として保管し、複製まで作られているので、古代のものではあるでしょう。
加守寺が廃寺となるは、早くて9世紀前半だそうです。したがって、この骨蔵器も下限そのくらいのものだということです。
長六角堂の北、北遺跡には薬師寺の塔に匹敵する立派な塔があったそうです。8世紀半ばに作られて9世紀初めまではあったらしい。
加守寺は掃守氏の氏寺と考えられているそうです。この一族は古代ではあまり有名な一族ではなくて、そんなマイナーな一族が大きなお寺を長く維持できたとは思えません。
なんかで、一時期バブっていたのかな。
結局詳しいことはわからないのです。ただ小笠原説とこの壺を結びつけて考えた学者は、まだいないみたい。誰かやってくれませんかね。証明できれば、博士論文クラスだと思うのですが。
出てきたところがわずか10センチの土の下で、周りに土盛りなどがなかったといのが、なんか作為っぽい。
このへんが、学者が研究しない原因かもしれません。
二上山てっぺんの土盛りが大津皇子陵ではないのは確実と思います。あそこに山城があったのは間違いなく、もし仮に陵があったとしても、蹴散らされて今は何も残っていないでしょう。砦の見張り台の土台というのが、合理的。
ロマンのかけらもありません。
大津くんが祟ったという話が当時あってもおかしくない。祟る霊を焼いて祟りを断つ、という発想が当時あったとしたら、大津皇子を火葬する理由になるのですが。
ただ持統さんという人はものすごく合理的な人で、祟りなど恐れていなかったと思うのですが。
自分の遺体だって、火葬して、キレイさっぱりパーよ、っていう人ですからね。
唐舶来の白粉を愛用していたくらいで、新しいもの好きみたいだし。
あの沼は本当に不気味ったらしい。好きではありません。どこかでみた感じだなと思いましたが、黄泉比良坂か、そんな感じでした。気色悪い沼でした。
あそこが今や、神女が出没する神話の聖地になったのですか。おどろおどろしいところがいいので、「意味ないじゃん」という感じです。
神女は私の造語で、歴女からの類推。「しんじょ」「かみじょ」読み方はまだ決まっていません。神話が大好きなキャピキャピの娘さん。出雲には特に多い。縁結びの本場だから。
-
- kummingさん 2021/09/21 22:33:00
- スクープ⁈
- しにあさん、by 妻さん、こんばんは。(あ、by夫さんby妻さん、と言うべき?)
もしかしたら、特大スクープになりかねない新説♪
地図上に見つけた加守廃寺が掃守寺と見切り、現地では大津皇子の鎮魂の寺であった目に見える証拠はなかった、にもかかわらず、そこに小笠原氏著「奈良の古代仏教遺跡」という救世主が現れた⁉
何だか出来過ぎ?な気がしないでもない、ですが、ココ、と見定め二匹目のどじょうを狙ったしにあさんの熱意が呼び寄せた、ご縁、かと存じます。
加守廃寺で検出された長六角形基壇も、二上山に埋葬された大津皇子を弔う為に、新たに構築した可能性が少なくない。薬師寺縁起に記された掃守寺=加守寺、だった。
ここまでは、しにあさんの推理、どんぴしゃり!
あとは、寺の向きと、大津皇子のお墓とみなされる方向が、合致しない、という事ですか?
金銅製骨蔵器、(今の骨壺みたいなもの?)復元されたものを見る限り、相当高貴な方のものではないか、と見受けられますが。
問題は、持統天皇が日本初の火葬だった、という説をひっくり返せる新たな証拠、どこかに眠っているかもしれません⁉
私の理解力不足ですが、六角形の建物基壇場に建っていた六角形の平面形を持つ建物のその平面形が、當麻曼荼羅を納めた厨子の形を想起させる、ってどういう事⁇
ドローン撮も堂に入って、BGMも素敵ですねぇ(^^♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/22 10:57:58
- Re: スクープ⁈
- 火葬の起源について、本文骨蔵器の写真の後に、解説を入れました。この件、一応調べてああったのですが、煩雑になるので省いておりました。しかし持統天皇の火葬は有名な話ですから、元に戻しました。
當麻寺の當麻曼荼羅を納めた厨子と長六角堂が似ている件ですが、この話をここですべきか、このずーと後の大和国寺社参り當麻寺でやるべきか迷ったのですが、當麻寺でやります。當麻寺はあんまり書くことないし。どっちかがどっちかに影響を受けた、のではないかという筋書き。
今回は2匹目のドジョウを逃して残念。夏目廃寺みたいなのがあると思ったのです。その代わり骨壷が出てきたので、まあいいか、という感じです。
本来はこのブログ、骨壷の話はなかったのです。さア、これでアップしようかと思って、なんとなく葛城歴史博物館のカタログを見ていたら、見つけちゃったのです。で、全文書き直し。
飛鳥の次は葛木もありかな、と思って、博物館で資料を買い漁ってきました。先の話なので、読んでいなかったのです。
最近、関連する博物館には必ず行くようにしています。損したことない。いつもびっくりするような掘り出し物がいっぱいです。
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