taktak99さんのクチコミ(10ページ)全4,412件
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
富山市の総曲輪(ソガワ)エリアにある商業施設。
総曲輪のアーケード街に面していて、利用し易い場所にある。
飲食店、コーヒーショップ、ベーカリー、菓子屋等がある。
テイクアウトに対応している店舗が多い。
路面電車の停留所にも近い。- 旅行時期
- 2022年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- お買い得度:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- 品揃え:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
500系新幹線の特別版。
アニメ新世紀エヴァンゲリオンの世界を新幹線で表現している。
500系の内装の元々の色合いがエヴァンゲリオンぽかったから、コストが抑えられるという事で、コラボに至ったらしい。
500系新幹線はこだま先頭車両となってしまったので、TYPE EVAもこだまに。- 旅行時期
- 2022年04月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 乗り場へのアクセス:
- 4.0
- 車窓:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
久原城は、大村氏が築いた城。
大村氏発祥の城とされる。
平安時代に、藤原純友の孫の直澄が朝廷から彼杵・高来・藤津の三郡を賜り、994年、大村に下向して寺島に上がり、久原城に入って大村氏を名乗ったという。
500年後の大村氏15代純治の頃、大村館もしくは好武城に移った。
大村氏は後に三城城を築いてそこを本拠とした後、江戸幕府開府直前に玖島城本拠を移し、明治を迎える。
大村氏は平安時代から大村の地を領有していた事を誇る家柄だが、発祥は不明な部分が多く、祖とされる藤原直澄が実在した人物だったのか、と疑問を投げ掛ける研究者もいる。後の大村氏が家譜を作るにあたってありもしない人物やありもしない城をでっち上げたのでは、と。
そんな事から、久原城は大村氏の本拠ではなく、大村館もしくは好武城を本拠とした大村氏の出城の一つに過ぎなかった、という説もある。
いずれにせよ、現在城跡とされる地は民家になっており、遺構は無い。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
玖島城は、大村湾に突き出した半島に築かれた平山城。
大村氏は鎌倉時代より地頭として大村地方を領有してきた。
1587年、時の領主であった大村純忠は、豊臣秀吉の九州征伐の際に嫡子喜前を秀吉軍に参陣させ、領土を安堵された。
喜前は秀吉による朝鮮出兵にも参陣し、慶長の役の順天城の戦いでは、喜前を含む日本軍の五大名が3倍以上の兵力を有する明・朝鮮軍を撃退する活躍振りを見せた。
1598年の秀吉死後、喜前は政情不安に備えて新城を築く事を決める。三方が海に面していた順天城を参考にして城地を選び、玖島城を築き、翌年には三城城から居を移した。
江戸時代になってからも大村氏は転封される事無く2万7000石の大名として明治維新まで存続し、玖島城はその藩庁として使用された。
1871年に廃城となり、建造物は破却される。
1884年、本丸跡に大村氏歴代を祀る大村神社が建立された。
1992年には板敷櫓が再建されている。
神社の敷地の整備の序に城跡としても整備してある、といった感じで、板敷櫓辺りから見上げると物凄い城跡の様に思えてしまうが、中に入るとひたすら神社、といった感じ。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
大村線上にあり、大村市の主要駅。
市の主要駅であるものの、駅ビルといった洒落た施設は無く、駅舎があるだけ。
店もコンビニがある程度。
駅前は一応ロータリーが設けられ、タクシーを利用出来る。
バス停は少し離れた場所に位置する。- 旅行時期
- 2022年04月
- 施設の快適度:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
石田城は、江戸時代末期に築かれた福江藩主五島氏の城。
江戸時代に完成した日本式の城としては、最後とされる。
1614年、五島氏の当時の居城であった江川城が焼失すると、藩庁は石田陣屋に移された。
五島氏は新城の築城を幕府に再三申請したが、許可が下りず、城持大名にも拘わらず200年に亘って陣屋で政務を執った。
幕末の1849年、異国船を監視して海上防衛に備えるとの目的で、第10代藩主五島盛成の代に築城が認められる。
経費削減の観点から、全く新しい場所に城を築くのではなく、それまでの石田陣屋の地に築き直す、という手段を選んだ。
財政難や、海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、富江藩等からの資金援助もあって、1863年に第11代藩主盛徳の代で漸く完成した。
しかし、それから僅か4年後に明治を迎え、役目を終える。
明治になると、三方を海に面していた城は、周囲の埋め立てにより海に面しなくなってしまった。
現在、本丸跡に長崎県立五島高等学校、北の丸跡に五島観光歴史資料館や五島市立図書館、五島市福江文化会館が建てられ、往時の姿を今に伝えるのは二の丸跡の五島氏庭園のみとなっている。
五島氏庭園は現在国の名勝に指定されている。
また、庭園に面する屋敷(隠居所)も見所。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月07日
総合評価:4.0
五島列島にある船のターミナル。
ここが五島列島に於ける主要ターミナル、という事になるらしい。
土産物販売店がいくつかあり、出発前の最後の最後の買い物で重宝する。
観光案内所もある。
食堂も一応あるので、食事も可能。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日
総合評価:4.0
長崎・五島列島間の移動はいくつかあるらしいが、自分は高速船ジェットフォイルを利用。
高速船の名の通り、本当に船なのか、と疑ってしまう爆速で海を移動し、あっという間に到着。
帰りも高速船を利用したので、あっという間長崎に戻られた。
よって、長崎から日帰り旅行も可能。
ただ、席は全席指定なので、特に朝は早めにチケットを購入する必要がある。- 旅行時期
- 2022年04月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 乗り場へのアクセス:
- 4.0
- 車窓:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日
総合評価:4.0
五島列島へ向かう際に利用。
使い勝手は、この手の船のターミナルとしては普通で、生まれて初めて船に乗る、という場合でない限り何とか利用可能。
自分が利用した前日は時化により殆どの便が運休となってしまい、乗る予定だった者がその対応にあたふたしていた。
自分が利用した日は全便が通常運航で、問題無かったが、五島列島で宿泊する、日帰り旅行する、という場合は注意が必要かも。
ホテルの予約を取った日に島まで行けない、日帰りのつもりで島に立ち寄ったのに帰れない、なんて事も有り得そう。- 旅行時期
- 2022年04月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 乗り場へのアクセス:
- 4.0
- 車窓:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日
総合評価:4.0
観光丸は、長崎港に停泊していた帆船。
幕末にオランダから入手した江戸幕府初の木造外車式蒸気式のコルベットとの事。
勝海舟らが練習船として使っていた船だったという。
現在のは当時のものではなく、元の設計図と模型をベースにして復元したもの。
よく復元したな、と思う。
船本来の機能美を感じさせる。- 旅行時期
- 2022年04月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 乗り場へのアクセス:
- 4.0
- 車窓:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日
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投稿日 2024年04月06日
総合評価:4.0
諫早陣屋は、長年諫早氏の居城であった高城城の代わりとして築かれた陣屋。
諫早氏は、江戸時代前から高城城(諫早城)を居城としていたが、17世紀末期になると、老朽化が著しい城の維持が財政上困難となった。
その為城を廃し、その東麓に陣屋を新たに築き、移り住んだ。
諫早氏は陣屋を居としたまま明治を迎える。
廃藩置県後、諫早氏が陣屋を学校用地として寄付。陣屋内の建物は学校に転用されたが、後に校舎を新築する際、ほぼ解体された。
現在、陣屋跡は長崎県立諫早高等学校・附属中学校の構内になっており、遺構として御書院と庭園が残るのみとなっている。
陣屋跡を訪ねたい、という観光客の声が多く挙がったからか、御書院と庭園直通の出入り口が学校の裏側に設けられた。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日
総合評価:4.0
高城城は、西郷尚善によって築かれた丘城。
後に龍造寺氏の居城となるが、江戸時代初期の当主が病により江戸への参勤交代が重荷だった為、大名の地位を捨てて佐賀・鍋島家の国家老となる。この時に龍造寺氏から諫早氏へと改姓。
諫早氏は高城城を居城とし続けたが、17世紀末期には財政難に陥り城を維持出来なくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居を移す。これに伴い、城は廃された。
財政難により城を維持出来なくなった、との事だが、標高50メートルにも満たない丘に築かれた土塁の城なので、維持するのに莫大な費用が掛かるとは思えない。
新たに築いた陣屋では広大で維持費が掛かるであろう庭園を設けているのを見ると、城の維持費が重荷になったというより、元は大名だったとはいえ国家老の身分で城を持ち続けるのは内外的によろしくないと判断し、財政難を口実に城から陣屋に移った、というのが実際のところではないか。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年04月06日