fmi(ふみ)さんへのコメント一覧全41件
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鎌倉アルプス?。。。昔の”天園ハイキングコース”かしら?
☆北鎌倉から建長寺の横を上って自然路を通るのがずっと昔の学生時代の合同ハイキングコースでしたが。。。同じかな❓最近は随分賑やかに若い人たちが散歩(デート)!
☆建長寺や円覚寺はいつも人が多いので、結局山を歩くのが一番の健康スタイルとやせ我慢出来ました。春には瑞泉寺の横に出るのが楽しみで、結局は移管料は押しはりしてなかった気がする。~合掌~ -
多摩湖
fmi(ふみ)さん、こんばんは。
子供の頃、私は西武線沿線に住んでいたことがあり、両親がよく多摩湖に連れて行ってくれました。ユネスコ村にはよく行きましたが、西武遊園地にはあまり行った記憶がなく…お金がかかるから、だったのかも知れません。
とても懐かしい風景ですが、こんなにきれいな紅葉が見られるとは知りませんでした。
山口線は、当時は確かミニSL(?)が走っていて乗ったこともあるような…記憶があります。
先述のように私は西武線沿線に住んでいたので、自然に西武ファンになりました。あの頃の西武は強かった…しかし、森監督が優勝を逃した年に、堤オーナーが放った「(来年も監督を)やりたかったら、おやりなさい」みたいな言葉を放ったときには、その口調もあって「ここまで言うのか」と心が冷える思いになりました(森さんも「なかなか」の人物かとは思いますが)。堤氏は、fmiさんが書かれたように傲岸不遜な人物だった…のでしょうね。
鉄道会社は独裁者や皇帝が発生しやすい…いわれてみればそうですね。東急、それにJRにも。鉄道本体に加えて周辺の開発など巨額の資金が動くというのもその原因の一つなのかな、と思ったりしました。
DecoRE: 多摩湖
Deco様、お久しぶりです。
いつも私の主観ばかりの拙稿をお読みいただき、大変恐縮しております。
野球については、私は親の代からの読売巨人ファンですは、オーナーを観ますと、読売も大概で、とても他所の事は言えた義理ではありません。
鉄道会社は仰る通り、不動産、沿線開発の利権が絡むうえ同族経営が多く、私はそれも含め「皇帝」と称しました。昭和の時代が特にそうでしたが、沿線人口がどこも減少している現在では、持ち株会社に移行し古い体質を脱却しつつあるようです。一方で、JR各社のような「令和の政商」とも言える民僚経営者が出現しているのは懸念します。
「やりたければどうぞ」は私もニュースで見ました。学生の時でした。当時オピニオン雑誌でも相当批判されました。
私は巨人ファンですが、ナベツネは嫌いでした。G党は長嶋シンパと川上シンパに分かれています。就職活動していて、マスコミ人(テレビ新聞雑誌問わず)の横柄さに驚きました。私は地方公務員、それも広報にいた時にもマスコミの応対をしましたが、上から下まで傲慢勝つ純粋、そうじゃない人もいましたが、嫌気がしました、正直。
今は何と言ってもIT長者がNPBのオーナーになっているケースが目立ちます。時代の流れでしょう。
私は鉄道が好きですが、同時にファンも含めて、今の鉄道は利用者ではなく株主のほうしか向いていないのではと時折感じます。
西武山口線も車両がもうじき更新されます。
まとまりませんが、今後とも私の紀行文を宜しくお願いします。2025年12月12日14時08分 返信する -
多摩湖畔を走った思い出がある。
fmi(ふみ)さん、
今晩は。
これはまた珍しい湖畔の紅葉と満々とした水の貯水池を懐かしく拝見しました。
<名勝の給水塔>もまったく変わらない様子。
私が昭和30年代半ばの高校生の頃、毎年、(多摩湖線に乘った記憶ももう薄れてしまったが)多摩湖畔まで出向いて、全校マラソンで走らされた体験を思い出しました。
1-3年の生徒1200名(男900、女300)が、男女別々にいっせいにスタートし、?kmかを走ったのです。
男子はバスケ部が上位をとり、私の野球部は短距離ならまだしも、長距離ではようやく50番内に入れたぐらいでした。
家内の学校も似たような事をやっていたそうで、長距離の得意だった家内はトップテンに入ったとか、学校は違いますが、家内の方が成績が良かったようです。
写真を拝見しつつ、まだ西武球団もドームも無かったなと思ったものです。
それではまた。
jijidaruma
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<振武隊の飯能戦争>の余話
fmi(ふみ)さん、
今晩は。
双子のブライザッハの町の旅行記にお立ち寄り頂き、ありがとうございました。
さて、fmi(ふみ)さんの飯能、青梅(私の故郷)の旅行記をじっくり読ませて頂きました。いずれの探訪記も詳細で、かつて地元の人間であった者にも新鮮でした。
最初に読んだ飯能は姉夫婦が能仁寺(のうにんじ)傍に住んでいましたので、懐かしく拝見しました。
意外に紅葉の季節に訪れたことが無いので、まことに興味深いものでした。
また、文中に飯能戦争の事が出てきましたので、その余話として、ここにご紹介させて頂きます。
以下に出て来る西分村(現青梅市)名主・浜中良亮(はまなかりょうすけ)は、父の姉が嫁した浜中家でして、かつて調べたことがありました。
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浜中良亮は天保7年(1836年)に西分村に生まれた。漢籍を西川練造に、詩書を植村蘆州に学んだ後、平田派国学の門に入った。
明治維新時は西分村の名主をつとめ、優れた民政家として知られる。武州青梅地方の維新期の政治・文化に少なからぬ足跡を印していった。
<振武隊の飯能戦争と浜中良亮>
彰義隊脱退者で結成した振武隊(陸軍調役・渋沢成一郎が頭取)は、彰義隊が上野の戦いで敗れた後、彰義隊の生き残りを吸収し、1500人の規模となって再挙を図った。
奥多摩の御岳山に立てこもり勢力挽回を計画したのであるが、西分村(現青梅市)名主・浜中良亮(はまなかりょうすけ)と、黒沢村(現青梅市)名主の柳内才次郎が、青梅地方の地の利に適さぬことを説明し、御岳山籠城を断念させた。
この為、振武隊は飯能を本拠にして、最後の抵抗を試みた。世に云う飯能戦争は慶応4年(1868年)5月23日、交戦一日にして、官軍3500人の猛攻に壊滅した。
この事は青梅が戦禍から助かった代わりに、飯能は振武隊の立てこもった古刹能仁寺をはじめ町内ことごとく灰烬に帰してしまった。
(武蔵書房刊「多摩・・風土とその歴史」(昭和44年初版)と、同社刊「草の根の維新」(昭和57年初版・著者は桜沢一昭氏)
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日本人名大辞典+Plusの解説
浜中良亮(はまなかりょうすけ)は幕末~明治時代の名主。
天保(てんぽう)3年(1832年)生まれ。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)西分村の人。
戊辰(ぼしん)戦争で幕府軍が青梅(おうめ)を拠点にしようとした際,兵糧米不足を理由に撤退させ,青梅を兵火からまもった。明治6年神奈川県第十三大区長。明治34年(1901年)死去。70歳。通称は五郎右衛門。号は恭斎。
大日本人名辞書には
慶応四年幕府の脱徒青梅に拠らんとし之を近傍の豪家に告ぐ曰く、青梅を以て会津侯の城下となすべし、軍備己に整い軍資の蓄え己に二千余両に及べりと、良亮以為らく此の小額の金を以て軍資となすの烏合の衆何ぞ官軍に抗するを得んと乃ち述べて曰く、此の地糧米に乏し江戸川越の運搬を扼せられる時は、大兵の食に乏しきを来さん、公等之に策ありや」と「賊大いに驚き、青梅の不便を唱へ飯能に去る。
青梅の地兵燹を免れたるもの実に(浜中五郎左衛門)良亮の機智に由る」云々。
と書かれているようです。
参考資料:多摩周辺 奇談と伝説、青梅市史史料集第46号(浜中良亮)
それではまた。
jijidaruma -
西宮のこと
fmi 様
今日は!
fmi様は関東在住とお見受けしました。しかし、旅行記を遡りますと西宮の記事が沢山出て来て不思議に思ったのですが、小学生の頃は門戸厄神にお住まいだったのですね。それならば私とご近所です。中津浜線を南下すると甲子園球場の横に出ますが、その辺りが私の拙宅ですから10㎞も離れていません。阪急今津線車内で顔を合わせていたかもしれないです。
私はずっと西宮在住で学校も関学です。根っからの「宮っ子」といえると思っていますが、大震災を契機にfmi様在住の頃とは大きく変りました。「西宮球場はどこえいった!」と慨嘆されておられますが、まさに北口辺りは風景が一変しましたし、呼名までマスコミは『ニシキタ』と変更しました。ただし、我々地元民は「北口のあの改札口で待合せ」の様に『キタグチ』を使用しております。
居住地が旅行記に登場するのは嬉しいものです。六甲山・関学・神戸女学院まではそこそこ知名度はあっても場所まで知る人は少ないでしょう。西国街道・神呪寺・廣田神社・門戸厄神・仁川・171号線は畿内では知られているが、東光寺・上ヶ原・甲東・百けん樋に至っては誰も知らないと思います。西宮市は10年連続で「近畿地方で一番住みたい都市」に選ばれています。手前味噌の自慢になりますが、西宮は本当に気候風土に恵まれた住みやすい場所です。
毎年帰郷され、西宮のPRをお願いします。
ソウルの旅人
Re: 西宮のこと
. ソウルの旅人様、
いつも拙稿をご覧いただき、またご評価いただき、大変感謝しております。
私は小学生時代の3年間ほど、父親の仕事の関係で西宮市の門戸厄神駅近くに住んでおりました。ちょうど、西宮北口がまだ平面交差の時代でした。国道171号線の陸橋のそばに自宅がありました。
小学生時代の多感な時期でもあり、家族でよく行った甲山や武庫川、甲子園の阪神パークや宝塚ファミリーランドのことをよく覚えています。仁川の渓谷で泳いだこともありました。
関西学院ご出身なのですか。甲山の麓にある関学キャンパスには、小学生時代の遠足や図工の写生でよく行きました。
中津浜線という名称も懐かしいです、西宮中央病院でイナイチと交差する大きな道路ですね。
西宮は「涼宮ハルヒ」の舞台になったため、結構細かい場所もファンの間では有名になっているそうで、今も「聖地巡礼」の対象になっています。甲山の「みくるま池」や「広田神社の新池」、そして関学や甲風園も原作者ゆかり巡礼対象だそうです。
阪神大震災後、まだ阪急が全線復旧していない時にも訪れたことがあります。通った甲東小学校も見慣れた住宅地も被災していたことに愕然としました。
西宮の街はそれから見違えるように復興しました。また、子供の頃よく見ていた市内をくまなく流れる用水路(百軒樋用水や上ヶ原用水)が見違えるような清流になったことも驚きました。
ソウルの旅人様の、韓国旅行記、楽しく拝見させて頂いております。今後ともよろしくお願いします。有難うございました。2025年11月30日16時46分 返信するRe: 西宮のこと 追加
fmi 様
コメントありがとうございます。
西宮のことになると色々話がしたくなって恐縮ですが、もう少しお付き合い下さい。甲山森林公園のみくるま池や廣田神社横の変哲ない新池が聖地になっているのですか。驚きです。阪神パーク、宝塚ファミリーランドもなくなりました。我家の近所ですが、阪神パークは「ららぽーと甲子園」です。
西宮は東西の道路は超発展していますが、南北の道路は殆ど途中で途切れます。中津浜線は甲子園浜から宝塚まで連続している珍しい道です。
私のフォートラベル初期の投稿ですが、西宮を扱った二編があります。fmi様の投稿と重なる訪問箇所も多いです。宜しかったら拝見願います。
失礼いたしました。
ソウルの旅人
2025年11月30日17時30分 返信する -
自分の趣味分野は、⇒海洋、港湾+艦船の研究、並びに富士山の眺望です!
fmiさん
初めまして!
自分の趣味分野は、⇒海洋、港湾+艦船の研究、並びに富士山の眺望です!
私は旧清水市(現在は静岡市・清水区)に生まれ育ち、大学時代の東京での
生活から地元にアイ・ターンして、清水港~三保の松原~富士山・日本平の
眺望を毎日眺めて過ごしました。
以前は週に1~2回清水港へ行き、また近くの三保海岸への釣り行きでは、岸辺
から100mの投げ釣りで、タイ、アジ、キス、タコ、マゴチ、アナゴなど魚種
も豊富でいろんな釣り楽しみました。しかし体力の衰えとともに、今ではまさに
若い頃を回想する「老人と海」の心境です!
貴旅行記を拝見して、ガントリー・クレーンの画像から以前海外のクルーズ旅行
での上海、大連、釜山、コペンハーゲン、ヘルシンキ、ストックホルム、タリン、
サンク・トペテルブルク港などハブ港湾としての「港湾設備と埠頭の数とスケール
規模」では、日本は立ち遅れている感は否めません!
港湾としての優位性は、海洋に面していること、バックヤード、流通網の充実性
などですが、ガントリークレーンなどの設備は特定の港にのみしか設置されていま
せん。
ところで、昭和の時代に父親は清水港で、港湾の荷役作業のk組の親方(海運業
のS社所属)を担い、清水・次郎長また神戸・山口組の様な存在でした!
当時は我が家を料亭代わりに、荒くれ男に料理と酒をふるまい、母は大変だった
と思います!
そして沖合いに停泊する貨物船から、冲仲士がダルマ船に輸入物資を積み、ガント
リー・クレーン、クレーンに積替えて、最寄りのJR東海道本線を利用して全国各地
へ転送しました。
また日活のアクション映画華やかな頃、深夜に清水・日の出ふ頭~興津の倉庫街で
よくガンアクションの追撃が演じられたものです。
長男の通っていた高校の文化祭では、クラスの出しもので「マイケル・ジャクソン
のスリラー」を演ずるため、興津の埠頭で夜間練習したことが思い出深い高校生活
だったと本人が云っておりました!
自分は、「海洋と港湾の研究」さらに「艦船のプラモ模型からクルージング旅行」
へと、興味を惹かれ、旅行記で自分の趣味分野の情報を発信しています!
またの再訪と情報交換を!
風まかせの旅人 風 魔Re: 自分の趣味分野は、⇒海洋、港湾+艦船の研究、並びに富士山の眺望です!
. 風 魔 様、はじめまして。fmiと申します。
私の旅行記をご覧いただき誠にありがとうございます。私の場合、鉄道、特に貨物列車を趣味にしており、そこから船舶や航空、そして海外の貨物輸送へと趣味の範囲が広がっていきました。
ご出身が旧清水市とのことですが、清水と言えば、私は次郎長よりも、鈴与グループというわが国有数の港湾運送・物流業を営む企業の創始者、鈴木興平氏の出身地であることと、「はごろもフーズ」の本拠地としての印象が強いです。
風魔様の静岡を詳細に解説された旅行記も、是非とも読ませていただきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。2025年11月14日15時59分 返信する -
詳しい旅行記、参考になります
fmi(ふみ)さん、横浜のコンテナふ頭の旅行記拝読しました。すごく詳しく参考になりました。fmiさんはそのスジの業界関係者なのでしょうか。
コンテナふ頭、これまで釜山や香港などでチラ見しましたが、コンテナの積み方が何段にも高く積み上げられ日本とは違うダイナミックさを感じました。地震のあるなしも関係しているのでしょうか。
先日アメリカをドライブ旅行してきたのですが、驚いたのがアメリカ大陸の内部にまで船用のコンテナが二段積みで鉄道輸送されていることでした。すごく長い編成で、1kmは確実にあるだろうと思われる長さです。
アメリカの広大な砂漠を長編成でヘビのようにくねくねと動くコンテナ列車は壮観でした。そんな列車がひっきりなしに運行されているのです。
日本の港湾では船用のコンテナを陸に上げるとその後の運搬はトレーラーのみで鉄道に積めないのが弱点ですね。鉄道用のコンテナはガラパゴス仕様で、どうしても鉄道で運ぶ必要がある荷物は船用のコンテナから鉄道用コンテナに「人力で」積み替えているというウワサを聞いたことがあります。
日本のコンテナふ頭をいくら大型化したところで、その先の運送方法を考えないとフン詰まり状態は解消できないのではないかと思います。
https://4travel.jp/travelogue/12013173
↑の旅行記にコンテナ列車の動画も張り付けています。ONEのコンテナも映っています。
くわRe: 詳しい旅行記、参考になります
くわさん様、はじめまして、fmiと申します。私の旅行記をご覧いただき、誠に有難うございます。
コンテナの積み方については本文に誤りがありましたので修正しました。東京や横浜のコンテナふ頭では4段ほど積み重ねていました。
米国の鉄道に詳しい友人がいました、「ダブルスタックカー」の画像も見せてもらったことがあります。くわさん様の画像も閲覧させていただきました。
私は鉄道、特に貨物輸が趣味で、ほぼライフワーク化しており、その過程でコンテナ輸送や海運なども調べてきました。ご指摘の通り、我が国はトレーラーによる道路輸送が主です。道路の場合、いくらか制限が緩和されたルートがあり、そこをコンテナトレーラーは往来するようです。
鉄道の場合、我が国ではいわゆるクンロクコンテナ(背高コンテナ)を輸送する際に、上辺の部分が建築限界を超えてしまうという問題があり、区間を限って運行してはいますが、中々定着しません。荷役機械もリーチスタッカーの台数が少ない問題もあります。低床式貨車も何種か試作してますが、台車の製造、維持コストが高く、量産が進まない現状があります。
私は米国にはまだ行ったことがありませんが、韓国やドイツのコンテナ列車やコンテナターミナルは実際に写真も撮っています。背高コンテナを積んだ貨車が20両以上連なる姿は羨ましいと感じました。ただ、韓国の釜山もシンガポールもそこから国内へ輸送する分より、中継港としての機能が大きいです。
私は物流関連のアルバイトはしたことはありますが、本業は元々地方公務員でした。現在も国際交流関係の団体で理事を勤めさせて頂いてます。
今後とも私の旅行記を宜しくお願いいします。
2025年11月02日08時32分 返信する -
そーなんだ。
fmi(ふみ)さん、今日は。
最近、仕事の関係で東武線に乗るように為り、そして日比谷線にも時々乗る様に為りました。
そこで「あれ?、日比谷線の電車、短くね~っ?。」と感じてました。
20m化したんですね、謎が解けました。(笑)
半蔵門線と接続前には、業平橋駅に地上ホームを作り、朝夕のラッシュ時に業平橋駅発着の列車が設定されてました。
北千住から日比谷線、業平橋から押上駅乗り換えの浅草線、浅草駅から銀座線乗り換えには、運賃割引が設定されていて、どのコースを通っても同額でした。
半蔵門線が接続されてから、割引運賃は廃止され、業平橋地上ホームも廃止されて、現在はスカイツリーが建ってます。
牛田駅付近は、大カーブが有るので全ての列車が減速で進行するので撮影はしやすいけど、建物が周りを囲んでいるので場所に恵まれないかと・・・。
堀切駅の跨線橋と、荒川の築堤からがお勧めです。
墨水。 -
足尾から日光へ
fmi 様
fmiさんこんばんは、Fidelioです。
私自身久々の投稿となりましたが、信州と湘南の旅行記へのいいねをありがとうございました!
今回はわたらせ渓谷鐵道で足尾まで行き、そこから日光へ出られたということで、まさに3年前の秋に私が足尾・日光へ出かけたとき(fmiさんからいいねとコメントをいただいた旅行記です)と同じルート。沿線の景色や足尾の写真を拝見しながら、当時私が見たこと感じたことを振り返っておりました。
足尾鉱毒事件はまさに近代日本産業の影と言える部分ですが、国力増強・経済発展を推し進めたい政府・古河財閥と、ただひたすら自分たちの生活環境を守りたいと強く願う渡良瀬川流域住民、顕著な双方の対立の影響が長きにわたって続いているというのが、端的な私の認識です。
私個人的には、ある出来事・事象に関して言葉に表して意見を述べる場面では、客観性と主観性、どちらも欠かすことができないものと考えております。1つの「客観的」な事象に対して、多種多様な「主観的」な意見があることで、それだけ多角的に物事を捉えることができ、理解を深めることができるからです。
以前拝見した宗吾義民伝・成田闘争の旅行記もそうですが、fmiさんは事実を客観的に非常に分かりやすく整理されたうえで、熱い血潮の通った実に人間味溢れる感想も兼ね備えていらっしゃいますので、読んでいてこちらも充実感を覚えます。これぞ「旅行記」なのではないでしょうか!
私の旅行記は毎度テキトー節が炸裂しているので、トライ&エラーを繰り返しながらこうした実のこもったものも時折書ければな、と思っています(^^;。
それにしても紅葉が本当にキレイですね!輪王寺は行ったことがあるものの逍遥園はないんですよね。日本の秋という感じがして素晴らしいです。あとスペーシアXも羨ましい…
またいろいろと旅行記読ませてください。
今後ともよろしくお願いいたします!
Fidelio
RE: 足尾から日光へ
Fidelio様
再び、私の旅行記をご覧くださり有難うございました。fmiと申します。
私は現在、仕事も半ば引退し、地域の活動を行っており、その中には政治関係の活動も含まれます(地元で役人として勤めていた以上、避けて通れません)。
肉親を失った後、いろいろバタバタとしており、また活動も忙しかったことから、数か月ほど旅行記執筆から遠のいていました。
実は、例の「佐倉宗吾」の記事を書いた後、日頃お世話になっている大学教授(外科医)より、「惣五郎史観のみではなく堀田史観というものもあるはずだ、それも書かなくてはフェアではない」という意見を頂き、至極もっともだと考えました。
一方的な主義のみに肩入れしていけば、世の中は割れてしまいます。それを地元でも体験しましたし、何よりも2年前の「7.8事件」をはじめ実際に世の中に騒動として現れてきています。それは避けたいと常に考えていました。大和西大寺にこの12月に行きましたので、あの事件も記事にするつもりです。
今回の足尾から日光に抜けるルートは2回目になります。実はもっと足尾滞在の時間をとりたかったのですが。足尾事件は有名な事件ですが、私としては田中正造と我が北総の津田仙との関係、そのバックボーンとなったキリスト教、というものにシンパシーを感じました。今後はそちらも詳しく調べてみたいと思います。
紅葉の撮影方法にはコツがあります、私は広報マンの時代にそれを会得しました。
拙稿をご愛読いただき感謝しております。今後ともよろしくお願いします。2024年12月10日22時58分 返信する



