2025/11/17 - 2025/11/17
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fmi(ふみ)さん
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. 今回の目的は、今まで行ったことのなかった埼玉、飯能の宮沢湖に行くこと。いつの間にかムーミンのテーマパークみたいなのも出来ていたが、とにかく紅葉の時期が一番よさそうなので、紅葉が進むこの時期に行ってきた。
また、飯能市では能仁寺が紅葉の名所と聞いたので、夏に行ってきたのだが、もう一度その寺にも寄ることにした。
結果は、宮沢湖、それ以上に能仁寺の紅葉が見事だった。ちょうど見ごろ。行って正解だった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝、西武池袋線、飯能行き急行車内。
結構タイトな乗り換えだったが、予想以上にスムーズに乗り継げた。これなら10時にはメッツァビレッジに到着できそうだ。西武池袋線 乗り物
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飯能駅でメッツァビレッジ行きバスにぎりぎりで間に合った。40分間隔の本数なので助かった。
10時前にメッツァビレッジに到着。目指す宮沢湖はメッツァビレッジというテーマパークの一部になってしまってる感じだ。飯能からメッツァへ by fmi(ふみ)さん路線バス (西武バス) 乗り物
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バス乗り場にある案内所兼待合所。トイレもある。
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メッツァビレッジのバス乗り場。付近には立体駐車場もある。車での来場を前提にした場所だが、飯能からは直行バスが運行され、東飯能や川越からも無料送迎バスが出ている。
画像に写っているが、観光バス利用の団体旅行も多い。
営業開始時間に差し掛かってることもあり、バスからは次々と乗客が降りてくる。私が乗車したバスも、座席は全て埋まっていた。
平日だが来場者は多く、人気が高い所の模様。 -
バス乗り場や駐車場からビレッジまでのやや長めの道を通り抜けると、さっそく施設が何棟か現れた。
飯能駅からここまで直線距離で2.5kmある。八高線の東飯能と高麗川の中間点にあり、途中で峠を越えている。ムーミンバレーパーク テーマパーク
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メッツァビレッジ。宮沢湖畔に施設が広がる。
「メッツァ」は、バス乗り場から近いエリアで入場無料の「メッツァビレッジ」と、その奥にある入場有料エリアである「ムーミンバレーパーク」の二つに分かれる。
ムーミンを主題にしたテーマパークで、フィンランド以外では世界初。有料エリアは入場料が4000円前後と高いので、モミジと宮沢湖を見に来た私は有料ゾーンには行かず、湖畔を散策することにした。
無料エリアには多くのレストランやカフェ、ショップが立ち並び、湖が一望できる展望エリアやドッグランなどもある。メッツァビレッジ ショッピングモール
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大きなレストラン棟「バイキングホール」
このあたりの標高は123m。ちなみに飯能駅前の標高は103m。ハンバーグの時間 メッツァビレッジ店 グルメ・レストラン
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紅葉の樹々の先にある建物は、「ハイパ^ミュージアム飯能」。
建物の中に入る場合は1000円くらいする入場料を支払う。 -
イチオシ
ミュージアムやレストラン棟がある広場の先に、目指す宮沢湖の湖畔が広がる。
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湖畔沿いに北へ(堰堤のある方向)へ行く。
ドッグランなどがある。 -
宮沢湖
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宮沢湖その2
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宮沢湖の堰堤。
宮沢湖は飯能市内にあり、堰堤で見てわかる通り、アースダムの建設によって貯水している人造湖である。
昭和6年に当時の入間郡北部の灌漑用水の貯水池として建設が始まり、昭和16年にダムが完成、入間川の上流からトンネルで導水(人力手彫りだったらしい)してここに貯水、現在も灌漑用水池として利用されている。
昭和30年代に入ると大きな転機を迎え、宮沢湖周辺を西武鉄道が観光開発し、ゴルフ場や「レイクサイド宮沢湖」、温泉施設などが建設され、観光地化した。
21世紀初頭、長らく西武を支配した堤一族が不祥事で失脚すると、西武の株式騒動が起きる。外資系のいわゆるハゲタカファンドによる敵対買収と急速な合理化により、西武鉄道は大きく揺れ動くが、その一環だろう、この宮沢湖の観光施設も2009年までに温泉施設を除き、営業終了してしまう。 -
イチオシ
堰堤から見た湖と、メッツァビレッジの施設。
西武堤一族の栄華の夢の跡地は、しばらく空き地になっていたが、2015年頃にさる投資会社が、ここに「ムーミン」を主題にしたテーマパークを建設することを発表、そして、2018年にまず無料のパブリックゾーン「メッツァビレッジ」をオープン、翌年に有料区画のムーミンバレーを開業し現在に至る。 -
そんな地上げ屋とか株屋とかハゲタカどもの抗争劇に翻弄される中でも、この湖の紅葉は毎年変わらなかったことだろう。湖は静かにたたずんでいる。
今回の旅行の目的はそんなギラギラした投資家(闘士家?)たちの夢の跡を見るのが目的ではない。ただ、毎年訪れる秋の錦秋を見に来ただけである。
飯能は、この後廻る龍仁寺なども、明治、戊辰戦争の舞台となった場所でもあり、まさに兵どもの夢の跡を無視し、毎年変わらぬ秋の美しさを観るだけである。 -
湖の堰堤から下流を見下ろす。確かにアースダムだ。
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堰堤から北東方向を望む。堰堤のすぐ先は日高市であり、遠くに高麗川の清掃工場が見える。宮沢湖は高麗川水系であり、そのちょっと南から入間川水系になっている。
堰堤の標高は120mちょっと。能仁寺境内と大体同じで飯能河原より30m高い。有名な高麗川巾着田へはここから直線距離で2kmくらい。ハイキングコースが出てるが遠回りだ。 -
いったん戻りメッツァビレッジに来た。
ノルディックス グルメ・レストラン
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メッツァビレッジの裏にちょっとした展望所があり、施設を一望できる。
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紅葉が奇麗だ。
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丘の上に温泉施設が建っている。
宮沢湖温泉 喜楽里 別邸 温泉
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イチオシ
湖のたもとに降りてきた。
ボート乗り場。夏には営業する。宮沢湖 自然・景勝地
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メッツァビレッジを後にする。
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バスがちょうど来たので、これで飯能駅までいったん出る。
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飯能駅前に到着、バスを乗り継ぎ、飯能市内の紅葉の名所、能仁寺へ向かう。
飯能駅 駅
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能仁寺に到着。駐車場周辺から紅葉の並木、背景に天覧山が見える。
何年か前に、天覧山や巾着田へ紅葉シーズンの時に行ったことがあるその時の記録は、
https://4travel.jp/travelogue/10962128 -
県道からのぼってくる参道も紅葉並木。
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参道、灯篭が並ぶ
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鐘楼とモミジ。
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中雀門から不動堂への坂。紅葉が見事。
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能仁寺境内。
1501年に地元の武将が名僧を迎え庵をここに建立したのが始まりと言われる。その後、徳川家庇護の寺院となり、宝永から元禄の時期に伽藍が完成し今日の姿になったようである。
しかし、明治維新の時に大きな歴史の渦に翻弄される。能仁寺 (能仁寺庭園) 寺・神社・教会
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イチオシ
明治の名財界人、渋沢栄一という、1万円札の肖像で有名な人がいるが、この渋沢のいとこに、渋沢成一郎という人物がいる。この男、戊辰戦争のさい、幕府側である彰義隊の一員になっており、上野の戦いで敗残した彰義隊士数百名を連れて、飯能に立てこもり、ここ能仁寺を本陣として官軍に抵抗した。
慶応四年5月末には飯能の町内で両軍は戦闘になり、飯能の街もここ能仁寺も戦火で焼け落ちてしまった。大体4つの寺社と200戸が焼失したと言われる。
闘いは幕府側は終始劣勢であり、渋沢率いる残党は敗走、会津、箱館と転戦していくことになる。
明治維新での戦いの一つであるが、特にここでの戦いは「飯能戦争」と呼ばれる。
戊辰戦争と言われる一連の戦いだが、既に、慶応四年3月半ばには、幕臣側の勝海舟と政府軍側の西郷隆盛の間で交渉が成立し、江戸城は官軍側に明け渡され、将軍徳川慶喜も官軍側に恭順し、4月には江戸を出て水戸での謹慎生活に入っていた。
新選組や彰義隊の残党と江戸後期の大飢饉では無責任な政策を行い領民を見殺しにした東北諸藩は飽くまでも官軍に抵抗したが、最初から彼らに大義は無かったのである。特に東北諸藩には大義はない! 領民は迷惑を被っただけでなく、賊側と見なされ、薩長罰政権による東北への冷遇となり、果てには昭和初期の飢饉をきっかけに対外進出や戦争の遠因の一つとなる。満州へ移民した農民は、東北出身者も多いのだ。 -
戊辰戦争で焼け落ちた能仁寺は、その後昭和11年にまず本堂が再建され、その後も再建は続き、昭和51年以降次々と建物伽藍の再建が進んでいく。
飯能市はもともと林業の街で、特に大火の多かった江戸時代は入間川や高麗川の水運を利用した材木輸送で栄えた。その江戸期は旗本領や天領が入り組んだ地域だったようで、そういった事情もここが戊辰戦争の一戦場となった理由ではないかと推測する。
既に大正の時代には現在の西武鉄道が池袋と飯能の間を開業、昭和29年には市政を施行する。
池袋までラッシュ時でも西武鉄道で1時間前後と遠くはないため、丘陵地形ながら新興住宅地も建設された。 -
能仁寺開山堂と紅葉
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紅葉
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本堂と紅葉
ここは6月にもアジサイを観に訪れた。その時の旅行記。
https://4travel.jp/travelogue/11990354 -
境内
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紅葉風景
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紅葉
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イチオシ
駅に戻るとする。
山門の紅葉 -
能仁寺山門
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山門から飯能中央公園をのぞむ
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飯能中央公園から見た、能仁寺と天覧山
天覧山 中央公園 公園・植物園
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飯能中央公園周辺
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飯能河原まで降りてきた
橋本屋 グルメ・レストラン
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錦秋の飯能河原
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イチオシ
飯能河原
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飯能河原
入間川は飯能市中心部で谷から台地に出るが、S字上に屈曲しており、河原と崖を形成している。
飯能市中心から徒歩10分程度と近いので、市民の憩いの場となっている。
飯能市中心部は台地の上にあり、この河原より10mほど高い。 -
飯能河原のシンボル、割岩橋をのぞむ
割岩橋 名所・史跡
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市街地から河原を見下ろす
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遠くに秩父連峰
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飯能河原から10分前後歩くと、飯能駅が見えてきた。
一応バスもある。飯能駅 駅
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飯能駅。池袋行き準急が待っていた。これで小手指まで行き、小手指で東急直通Fライナーに乗り換える。
西武池袋線は、池袋からくる電車は、全て飯能駅止まりで、秩父へ行く場合は乗り換える。
都心から1時間程度であり、本数も日中は池袋行きか地下鉄直通(池袋は必ず通る)が10分ごとに出ているので便利。
特急は1時間毎。
急行が主だが、その急行も、所沢までは各駅に停車する。
初めて宮沢湖へ行ったが、それ以上に、能仁寺の紅葉が予想外に見事だった。紅葉を満喫し飯能を後にする。 おわり。西武池袋線 乗り物
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この旅行記へのコメント (2)
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- jijidarumaさん 2025/12/04 01:17:06
- <振武隊の飯能戦争>の余話
- fmi(ふみ)さん、
今晩は。
双子のブライザッハの町の旅行記にお立ち寄り頂き、ありがとうございました。
さて、fmi(ふみ)さんの飯能、青梅(私の故郷)の旅行記をじっくり読ませて頂きました。いずれの探訪記も詳細で、かつて地元の人間であった者にも新鮮でした。
最初に読んだ飯能は姉夫婦が能仁寺(のうにんじ)傍に住んでいましたので、懐かしく拝見しました。
意外に紅葉の季節に訪れたことが無いので、まことに興味深いものでした。
また、文中に飯能戦争の事が出てきましたので、その余話として、ここにご紹介させて頂きます。
以下に出て来る西分村(現青梅市)名主・浜中良亮(はまなかりょうすけ)は、父の姉が嫁した浜中家でして、かつて調べたことがありました。
・・・・・
浜中良亮は天保7年(1836年)に西分村に生まれた。漢籍を西川練造に、詩書を植村蘆州に学んだ後、平田派国学の門に入った。
明治維新時は西分村の名主をつとめ、優れた民政家として知られる。武州青梅地方の維新期の政治・文化に少なからぬ足跡を印していった。
<振武隊の飯能戦争と浜中良亮>
彰義隊脱退者で結成した振武隊(陸軍調役・渋沢成一郎が頭取)は、彰義隊が上野の戦いで敗れた後、彰義隊の生き残りを吸収し、1500人の規模となって再挙を図った。
奥多摩の御岳山に立てこもり勢力挽回を計画したのであるが、西分村(現青梅市)名主・浜中良亮(はまなかりょうすけ)と、黒沢村(現青梅市)名主の柳内才次郎が、青梅地方の地の利に適さぬことを説明し、御岳山籠城を断念させた。
この為、振武隊は飯能を本拠にして、最後の抵抗を試みた。世に云う飯能戦争は慶応4年(1868年)5月23日、交戦一日にして、官軍3500人の猛攻に壊滅した。
この事は青梅が戦禍から助かった代わりに、飯能は振武隊の立てこもった古刹能仁寺をはじめ町内ことごとく灰烬に帰してしまった。
(武蔵書房刊「多摩・・風土とその歴史」(昭和44年初版)と、同社刊「草の根の維新」(昭和57年初版・著者は桜沢一昭氏)
・・・・・
日本人名大辞典+Plusの解説
浜中良亮(はまなかりょうすけ)は幕末~明治時代の名主。
天保(てんぽう)3年(1832年)生まれ。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)西分村の人。
戊辰(ぼしん)戦争で幕府軍が青梅(おうめ)を拠点にしようとした際,兵糧米不足を理由に撤退させ,青梅を兵火からまもった。明治6年神奈川県第十三大区長。明治34年(1901年)死去。70歳。通称は五郎右衛門。号は恭斎。
大日本人名辞書には
慶応四年幕府の脱徒青梅に拠らんとし之を近傍の豪家に告ぐ曰く、青梅を以て会津侯の城下となすべし、軍備己に整い軍資の蓄え己に二千余両に及べりと、良亮以為らく此の小額の金を以て軍資となすの烏合の衆何ぞ官軍に抗するを得んと乃ち述べて曰く、此の地糧米に乏し江戸川越の運搬を扼せられる時は、大兵の食に乏しきを来さん、公等之に策ありや」と「賊大いに驚き、青梅の不便を唱へ飯能に去る。
青梅の地兵燹を免れたるもの実に(浜中五郎左衛門)良亮の機智に由る」云々。
と書かれているようです。
参考資料:多摩周辺 奇談と伝説、青梅市史史料集第46号(浜中良亮)
それではまた。
jijidaruma
- fmi(ふみ)さん からの返信 2025/12/06 15:15:17
- RE: <振武隊の飯能戦争>の余話
- jijidaruma様
初めまして、まずは私の拙稿をご評価いただき、有難うございます。
幕末の青梅と飯能に、そのような歴史があり、聡明な人物がいたことは初めて知りました。
郷土史について詳細にご説明頂き、大変感謝しております。
我が下総佐倉も、戊辰戦争ではどっちつかずの対応の結果、明治初期は新政府から冷遇された経緯があります。
jijidaruma様がご旅行されたドイツは好きな国で、私も若いころに2回ほど訪問したことがあります。
今後とも私の旅行記を宜しくお願いいたします。
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