明智光秀の城
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- 旅行時期:2015/06(約10年前)
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by bluejaysさん(男性)
福知山 クチコミ:1件
小笠原頼勝が、八幡山に横山城を築いたのが始まり。頼勝は後に塩見氏を名乗った。頼勝の子頼氏は、横山大膳と名乗った。
横山城は1579年、明智光秀によって落城し、頼氏の子塩見信房は自害した。光秀は城を近世城郭へと修築し、この地を福智山と改名した。和泉式部の歌「丹波なる吹風(ふくち)の山のもみじ葉は散らぬ先より散るかとぞおもう」に因んでいるという。
福知山城には光秀の従弟明智秀満が入ったが、彼は本能寺の変の後は安土城に入り、福知山城にはその父が城代を務めていた。1582年、豊臣秀吉は福知山城を落とすと、秀満の父を捕らえ処刑した。明智氏の福知山支配は、3年で終わった。
その後は秀吉の甥豊臣秀勝、北政所の叔父杉原家次、そして小野木重勝が城主となった。小野木重勝は関ヶ原の戦いで西軍に属し、東軍の細川幽斎が立て篭もる田辺城を攻めた。劣勢の幽斎はどうにか和議にこぎつけたが、関ヶ原で西軍が壊滅すると、細川忠興は福知山城を攻め、小野木重勝を切腹に追い込んだ。
その後は有馬豊氏が入部し、現在のような城郭と城下町を完成させた。1621年に岡部長盛、1624年に稲葉紀通が入部するが、紀通は1648年宮津藩の京極高広と争いを起こし、改易を命じられ自殺した。俗説では、紀通が宮津藩に鰤を注文したことからトラブルとなったと伝わる。1649年に松平忠房、1669年に朽木稙昌が入部し、明治まで続いた。福智山が福知山に改められたのは、1728年のことである。
安土城の石段に多くの石仏が使用されているのは広く知られているが、福知山城も今なお、石垣に宝篋印塔・五輪塔・石仏・笠塔婆などの転用石をおよそ500点用いているのが見てとれる。これは日本の城の中でも最多と考えられ、相当数の寺院や墓所を破壊して石材を調達したことがわかる。神仏を敬わない信長の性格を光秀が嫌悪したという俗説は、意味をなさない。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/06/15
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