1. ホーム
  2. 国内旅行
  3. 東海地方
  4. 愛知県
  5. 美浜
  6. 美浜 観光
  7. 織田信孝の墓
  8. クチコミ詳細
美浜×
旅行ガイド
観光
グルメ
ショッピング
交通
ホテル
航空券
旅行記
織田信孝の墓 施設情報・クチコミに戻る

切腹し臓物を投げつける

  • 3.5
  • 旅行時期:2015/04(約9年前)
bluejaysさん

by bluejaysさん(男性)

美浜 クチコミ:7件

織田信孝は、信長の次男信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低いため三男にされたと言われる。だが信孝は外見・気性が信長に似ており、同い年で愚鈍な兄信雄強い対抗意識を抱いた。
1568年、信長が伊勢を平定すると、信孝は神戸具盛の養子となり、具盛隠居後は神戸氏の当主となり神戸信孝と称した。

本能寺の変のときは堺にいたが、わずかの手勢しかなかったため独自の行動をとることができず、羽柴秀吉軍に合流し、名目上の総大将として山崎の戦いで父の仇を討った。にもかかわらず、清洲会議では秀吉に巧妙に立ち回られてしまい、織田家の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役になり、岐阜城主となる。
だが信孝は約束を違え、三法師を岐阜城から出さなかったため、秀吉に戦う口実を与えてしまう。秀吉に城を囲まれると、母と娘と三法師を引き渡して和睦に応じた。1583年に柴田勝家が挙兵すると、信孝もそれに呼応して挙兵したが、勝家が自害すると後ろ盾を失い、秀吉に降伏した。
信雄は織田家を自分のものにするため、信孝を大御堂寺に送り切腹を申しつけた。その際、怒りのあまり臓物を投げつけたという言い伝えがあり、血痕らしきものがついた掛軸が隣の安養寺に残されているが、医学的見地からはそのようなことは不可能だとされている。

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
人混みの少なさ:
4.0
見ごたえ:
3.5

クチコミ投稿日:2015/06/17

いいね!:0

利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する

PAGE TOP