切腹し臓物を投げつける
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- 旅行時期:2015/04(約9年前)
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by bluejaysさん(男性)
美浜 クチコミ:7件
織田信孝は、信長の次男信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低いため三男にされたと言われる。だが信孝は外見・気性が信長に似ており、同い年で愚鈍な兄信雄強い対抗意識を抱いた。
1568年、信長が伊勢を平定すると、信孝は神戸具盛の養子となり、具盛隠居後は神戸氏の当主となり神戸信孝と称した。
本能寺の変のときは堺にいたが、わずかの手勢しかなかったため独自の行動をとることができず、羽柴秀吉軍に合流し、名目上の総大将として山崎の戦いで父の仇を討った。にもかかわらず、清洲会議では秀吉に巧妙に立ち回られてしまい、織田家の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役になり、岐阜城主となる。
だが信孝は約束を違え、三法師を岐阜城から出さなかったため、秀吉に戦う口実を与えてしまう。秀吉に城を囲まれると、母と娘と三法師を引き渡して和睦に応じた。1583年に柴田勝家が挙兵すると、信孝もそれに呼応して挙兵したが、勝家が自害すると後ろ盾を失い、秀吉に降伏した。
信雄は織田家を自分のものにするため、信孝を大御堂寺に送り切腹を申しつけた。その際、怒りのあまり臓物を投げつけたという言い伝えがあり、血痕らしきものがついた掛軸が隣の安養寺に残されているが、医学的見地からはそのようなことは不可能だとされている。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2015/06/17
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