konomiさんのクチコミ(52ページ)全2,320件
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投稿日 2015年05月27日
総合評価:5.0
玉堂(オクタン)はまたの名を弘文館(ホンムンガン)と言い、昌徳宮の闕内各司という官吏が仕事をする合同庁舎のようなところにある行政機関及び研究機関。
世祖が廃した集賢殿の代わりに、第9第国王成宗によって設立されました。
新しい政治方針や、政策が、李朝朝鮮の根幹たる儒教の思想に反しないか、歴史的に前例があるか・・・というような王や官僚たちの問いに対して古典、歴史、儒教の知識を持って応じる役目を担っていました。
官員は全部文官であり、全員経筵(キョンヨン)の官職を兼任。
王宮書庫の図書を管理し、宮中の文書・経書の管理作成、儒学の研究も行いました。
経筵とは経書・史書の進講、王道の論講に関する任務を管掌する官職ですが、王と重臣たちとの会議なり勉強会・・・という意味合いも持っています。
ちなみに、昌慶宮(チャンギョングン)では崇文堂が経筵の場でした。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 施設の快適度:
- 5.0
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旧璿源殿 (ソンウォンジョン) 昌徳宮の祭祀を執り行う殿閣
投稿日 2015年05月27日
総合評価:5.0
昌徳宮の中には旧璿源殿と新璿源殿と2つの璿源殿(ソンウォンジョン)がありますが、古い方の建物は闕内各司の北に、新しい方は秘苑の北西にあります。
旧璿源殿は歴代の王の御真(オジン)を奉って祭祀を執り行う神聖な所。
御真とは亡くなった歴代の王を讃えるための肖像画です。
儒教でも人間の死を肉体と魂の分離と考えます。
王族が崩御されるとご遺体は梓宮(棺)に入れ、殯殿(もがりどの)に祭ってから5ヵ月後に山陵(墓)に埋めました。
また、天と地に散らばる魂帛のために神主(位牌)が作られ、これは宮中の魂殿に祀って3年喪を執り行った後、宗廟に移しました。
山陵は肉身に対して、宗廟は魂帛に対して、それぞれ祭祀を行い、璿源殿は王の人柄を慕って祭祀を行うものです。
このうち、璿源殿は聖子神孫と国家を称え、王室の正統性を示すために重要な所なので、宮廷の中に作りました。
1656年(孝宗7)に慶徳宮から移建して昌徳宮の璿源殿としたが、日本占領時代の1921年に新璿源殿が後苑の奥深い所に建立され、御真もここに移したので、闕内各司周辺は廃墟となりました。
旧璿源殿は現存しますが、付属建物はこの時になくなり、2005年になって復元されました。前面の左右にある陳設廳と内察堂は新たに建てられたものです。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月21日
総合評価:5.0
もともとは昌徳宮の王の寝殿で、王はここで生活を送っていましたが、元々の執務室である宣政殿がたびたび国葬のための魂殿(遺体を安置する場所)として使われたので、寝殿であった熙政堂が執務室の機能をするようになったのだそうです。
仁政殿は対外的な昌徳宮の象徴で、大造殿と熙政堂は王が生活し、多くの時間を費やした本当の意味での王宮と言えるかもしれません。
元々の名称は崇文堂でしたが、1496年(燕山2)に熙政堂と名称が変わりました。
近代になると熈政殿は応接室として使われ、今でもに応接セットが残されています。
今の熙政堂は、1917年に火災で焼失したものを1920年に景福宮にあった康寧殿を移して建てられたそうです。
国宝東闕圖に描かれた熙政堂は石柱の上に建てた優雅で淡白な高床式建物で、今の姿とは全く違います。南に描かれている斉政閣(チェジョンガク)も今はもうありません。
ここは純祖(23代王)の息子で憲宗(24代王)の父である孝明世子が崩御した所でもあります 。
利発さや端麗な容姿、学究熱心なところが祖父である正祖(第22代王)に似ていたと伝えられる人です。
父の純祖時代に19歳で摂政を務めるなど、若さに似合わない才能を発揮し、外戚である安東金氏の勢力と対抗して、王権を強める斬新な人事や、改革政治を行いました。
王位につくことなく、22歳の若さで夭折したのは本当に惜しいことです。
この事件に関しては陰謀説もあるようですが、定かではありません。
現在 宝物第815号に指定されています。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月22日
総合評価:5.0
昌徳宮にある仁政殿の隣の美しい渋い青い瓦屋根の建物。
王の執務室であり会議室。ここで王が指示を出し、高位職の臣下を集めて朝の朝廷会議、業務報告、国政セミナーなど、各種会議を行いました。
創建当時は朝啓廳という名前でしたが、1461年(世祖7)に「民に施す政治をしなければならない」と言う意味の宣政殿と名称を変えたそうです。
何度も火災で焼失しましたが、1647年(仁祖25)に再建され現在に至っています。
室内は床に座って政務が執れるようになっていて、「日月五峰図」も他の宮殿に比較すると背丈が低くなっています。
絵を背景にして王が座り、その左右は文官と武官の席。王と臣下の論議の記録は史官が行い朝鮮王朝実録としてまとめられました。
現存する宮殿の中で唯一青い瓦屋根をもっていますが、青い瓦は価格が高いため、身分の高い人しか使うことが出来ませんでした。
韓国大統領官邸の「青瓦台(チョンワデ:청와대)」もこれを参考に作られたのだとか。
朝鮮時代の後期には隣の熈政殿(フィジョンジョン:희)전)が事実上執務室になったため、宣政殿はそれほど使われなくなったそうです。
仁政門から続く屋根付きの通路の複道閣は李朝後期に加えられたものです。
写真に撮るには、これがちょっと邪魔(笑)- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 5.0
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歓慶殿(ファンギョンジョン) 第11代王の中宗が崩御した殿閣
投稿日 2015年05月22日
総合評価:5.0
昌徳宮にある歓慶殿は1484(成宗15)年に建立され、文禄・慶長の役で焼失し、1616(光海君8)年に再建。
その後も火災と再建を繰り返した、王が実際に生活していた殿閣です。
第11代王の中宗(チュンジョン1488~1544、在位1506~1544)はここで崩御されました。・・・ということは、「チャングム」はここで医師として看病していたのかなぁ。
建物の規模は正面7間、側面4間。
王の寝所ではありますが、王妃の寝殿である通明殿に比べ規模が小さいのが特徴。
夜な夜な後宮にお渡りになるので、ここで過ごすことはあまりなかったということでしょうか??
そういえば中宗は李朝朝鮮の王の中で一番の子だくさんでしたっけ(笑)
第12代国王仁宗、第13代明宗、孝恵公主、貞順翁主など九男十一女。
端敬・章敬・文定の3人の妃の他に8人の側室がいたそうです。
その後は第25代王の哲宗の代に至るまで、主に棺の安置場所(魂殿)として使用されたそうです。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
-
投稿日 2015年05月23日
総合評価:5.0
昌慶宮にある、大小の接見行事が行われたところ。
ここで科挙(クァゴ)に合格した人々を称賛して、王が宴を催しました。
階段を上がると、膳がしつらえてあり、宴の様子を伺い知ることができます。
正面3間、側面3間の平屋の建物。柱のみで構成された開放的な建築様式が特徴。
内部の4個の扁額には陶淵明(中国東晋・宋代の詩人 「帰去来辞」を詠んだ)の詩が書かれています。
五言絶句の形式の詩は四季の妙味を詠んだもので、各季節の方向に合わせ掛けられている。
春水満四沢 (東−春の水はすべての池に満ち)
夏雲多奇峰 (南−夏の雲は奇峰に多く)
秋月揚明輝 (西−秋の月は空高く明るく輝き)
冬嶺秀孤松 (北−冬の嶺に生うる松は美しい)
広い庭では各種の公演が開かれたとのこと。このとき涵仁亭は観覧席となりました。
第9代王の成宗の母、仁粋大妃(インステビ)も王室の女人たちのためにここで演戯を施したそう。
仁粋大妃 = 昭恵王后(ヘソワンフ)は朝鮮王朝が最も波乱に満ち、最も陰謀がうごめいていた時代に、影の権力者として君臨した女性です。
そういう人だから女性のための宴を開くこともできたのでしょう。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月23日
総合評価:5.0
外殿と内殿の空間を連結する通路にある門。賓陽門の内側は王のプライベートな空間であったため、王の家族や特別な用務を除いて出入りが厳しくコントロールされていたそうです。
日本統治時代には撤去されたが、1984年に始まった昌慶宮発掘作業をもとに1986年再建されました。
王は天の意思に従い政治を行う、とされていますが、賓陽には天、または隆盛にみちびくという意味が込められています。
扁額は内殿の側にかかっていて、正殿である明政殿に続きます。
王はこの門をくぐり、政治の場、明政殿に向かったのですね。
この賓陽門には、大小の入口がありますが、大きな方は王が、小さな方は臣下が使用したそうです。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月24日
総合評価:3.5
尚瑞院は李氏朝鮮において玉璽・符牌・節鉞の管理を担当した官衙。
進善門から中に入り、粛章門に向かって右手の行閣の一部が尚瑞院に充てられているのすが、今はがらんどうです。
以前はきちんとした形態をなしていたのでしょうが、現在の様子は玉璽を管理するような部署があったとは思えません。
符牌とは銅,金,銀,竹,木,帛(きぬ),紙などで作られた政府発酵の証明証のようなものです。徴発,駅伝,旅行,貿易,城門出入などの際に用いられました。
節(セツ)は一定の身分のひとがそこにいることを示す旗指物。
鉞(エツ)は軍隊における刑罰権(つまり指揮に従わない将士を軍令違反として処断する権限)を王から与えられたしるし。
つまりは身分証と証明証を発行する部署・・・ということでしょうか。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.0
-
投稿日 2015年05月24日
総合評価:4.0
大変複雑な配置の闕内各司の中の建物群のひとつ。
養志堂の西側やや南 玉堂から北側にあたります。
璿源殿に入る門(衍慶門)を通り過ぎて西に歩くと奥に憶昔楼があります。
このとき、突き当りの門を出ると 闕内各司の西部分に行く橋。
日本語ガイドのコースからは外れているし、迷路のようなので、見つけるのは大変。
幾分緑色のかかった立派な屋根瓦で、2階に上る階段がありましたが、上に上がることはできません。
憶昔楼というのは杜甫の七言古詩「憶昔」からその名を取ったようです。憶昔開元全盛日 ・・・で始まるその詩の概要は、
思い起こせばその昔は天下泰平で、食べ物に困ることもなく宮廷も天下の人々も皆仲が良く、平和が100年続いていた。なのに今は 洛陽の宮殿は消失し世の中は荒れ放題。平和が再び訪れるよう、我が皇帝に中興の業を達成すべく働いてほしい。
臣下から皇帝にあてる進言でもある詩。
王の臣下が働く闕内各司の建物ににふさわしい名ですね。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 4.0
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投稿日 2015年05月25日
総合評価:5.0
複道閣は、実際に行ってみないとわかりませんが、閣という名が与えてはあるものの、実は宣政門と宣政殿を繋いでいる渡り廊下です。
楼閣や殿閣をつなぐ通路を「復道」と言ったり、「閣道」と言ったりしますが、この2つの言葉が混じって殿閣でもないのに「複道閣」という名になったのでしょうか?
昌徳宮の創建時には無かったもので、李氏朝鮮時代の後期になって、宣政殿が死んだ王や后の位牌を祀る魂殿として使われた時に供えられました。
(宣政殿は本来は、王の会議室兼政務室です。お住まいになるところではありません。)
宮中で位牌を祀る期間は3年。その後は宗廟に移されて祀られます。
位牌は亡くなった方の魂が宿るとされていますから、大切に扱う必要があったのですね。
儒教では人間の死を肉体と魂の分離と解釈します。
王や王妃が崩御されたときは、その御遺体は梓宮と呼ばれる棺に入れ、天と地に散らばる魂帛(コンハク)のために神主(位牌)が作られます。
梓宮は殯殿(もがりどの)に祭ってから5ヵ月後に山陵(墓)に埋めて、位牌は魂殿に祀ってから3年喪を執り行った後に、宗廟に移して祭りました。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月25日
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八角七層石塔(パルガッチルチュンソッタッ) 昌慶宮にある宝物第1119号
投稿日 2015年05月25日
総合評価:4.0
八角七層石塔(パルガッチルチュンソッタッ)は中国宋様式の平面八角形七層の石塔で高麗中期には朝鮮でもこの形式の塔は多数作られましたが、この塔は1470(成宗元)年に中国で作られたもの。
昌慶宮の大春塘池のほとりに建っています。
日本統治時代の1911年、昌慶宮に李王家博物館を建立する際、商人から購入して設置されたもので、古くから朝鮮にあったものではありませんが、今では宝物大1119号に指定されています。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 4.0
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投稿日 2015年05月26日
総合評価:4.0
誠正閣と樂善斎の間、今では後苑に続く広い道になっているあたりにはは、元は皇太子の居所である重煕堂がありました。情調 6年(1782年) 建立
この承華楼はその重煕堂の建物の一部。
東宮とも呼ばれたこの一帯には以前は多くの建物がありましたが、重煕堂は1891年(高宗28)になくなり、重煕堂と繋がった六角形の建物である三三窩、その横の七分序と承華樓だけが残っています。
これらは互いに廊下で繋がっており、書庫と図書室として使用されていました。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.0
-
投稿日 2015年05月26日
総合評価:4.0
検書庁は闕内各司(クォルネカッサ)と呼ばれる王を補佐する臣下たちが働いていた、いわば合同庁舎のようなところにある建物。
錦川の西、内閣(奎章閣)と奉謨堂の間に建っています。
日帝強制占領時、この一帯の建物は図書館として機能が変わり、所蔵図書を京城帝国大学図書館に移した後、奎章閣と奉謨堂等、すべての建物が取り払われて道路と芝生に変わってしまいました。
他の官庁もこの時一緒に取り払われて、その跡地に倉庫兼剣道場などが建てられたそうです。
現在の建物は1991~2005年に修復したもの。
そのさい、もともとあった宮中の文書・経書の管理作成。儒学の経籍の研究。王の諮問に応じる仕事をしていた大酉齋、春秋館、藝文館、承文館などの建物は復元されなかったようです。
検書庁という名前も李朝時代のものではありません。
もともとあった建物を総じて検書庁とつけたのかもしれません。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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南山韓屋マウル 三角洞都片手李承業家屋 大工の棟梁 李承業が建てた家屋
投稿日 2015年05月26日
総合評価:5.0
南山韓屋マウルにある19世紀後半、1890年代に作られた韓屋。
三角洞都片手李承業家屋(サムガッドン トピョンス イ・スンオプ カオク)は韓屋エリアに入ってすぐ右にある建物です。
李承業は景福宮の重建工事に参加した都片手(大工の棟梁)で、腕によりをかけて作った私邸です。
現在は、母屋(アンチェ)、別館(ピョルチェ)、中間のみが残されていますが、当時は全8棟の建物で構成された大邸宅でした。
李承業は一介の棟梁だったのに、本来ならばヤンバン(両班)以外には許されなかった建築技法と装飾仕様が施されているところに特徴があります。
瓦屋根などは貴族階級の特権だったはずなのですが、作られたのが李朝末期のことゆえ、かなり戒律が緩んでいたのかもしれません。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月24日
総合評価:5.0
1848年に憲宗が、祖母であり当時の大王王妃であった純元王后(スンウォンワンフ)の住まいとして、建立した建物。昌徳宮にあります。
憲宗最愛の側室である慶嬪の住まい錫福軒(ソクポクホン)に隣り合っています。
王は毎日朝夕、安否伺いのために尊属の住まいを尋ねる習わしだったので、先王たちの未亡人は王の住まいの近くに居を構えるのが一般的でした。当時内殿最高の地位にある純元王妃の住まいをここに作ったということは、憲宗がそれまでの王の住まいではなく、慶嬪とともに錫福軒に住む意思表示をしたともいえるでしょう。
純元王妃としては、このような質素な館に住まうのは不本意であったかもしれません。
何しろ権力欲の強い方でしたから。
いずれにせよ、1年余りで1849年に憲宗が若干22歳で逝去すると、純元王妃は次の25代王、哲宗の摂政になり、この館をさっさと引き払って、本来の快適な住まいに戻ったようですが。
ここはまた朝鮮の最後の皇女として日本統治時代に対馬の宗家に嫁いだ徳恵翁主の最後の住まいでした。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月26日
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投稿日 2015年05月26日
総合評価:5.0
現在はタプコル公園となっている曹渓宗円覚寺があった場所に建つ石塔で、1467年(世祖13年)の創建。
大理石製で高さは12m。3層の基壇と10層の塔身を持ち、塔身には人物や草花、龍や獅子などの文様が陽刻されています。
何しろ、酸性雨から守るためか、ガラスのケースに入っていてタプコル公園内でも、一番目を引きます。
円覚寺は1504年、仏教排斥に熱心だった第10代国王燕山君によって廃され、なんとそこに妓楼を建て、音楽を管轄する掌楽院を移転し、妓生をはべらせて遊びまくったのだそうです。
燕山君の悪行に関しては数々のエピソードがありますが、全く罰当たりですね~~。
その後、建物はすべて散逸し、現在残っているのはこの塔だけです。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月26日
総合評価:5.0
南山韓屋マウルにある建物のなかで、もっとも見ごたえがある家屋だと思います。
祭基洞(チェギドン) 海豊府院君(へプンブウォングン)尹澤栄(ユン・テギョン)斎室(カオク)・・・・ハングルが全くダメなので、発音するのも大変です(笑)
ここで、映画「清風明月」「酔画仙」「スキャンダル」の撮影が行われたそうです。
残念ながら見たことがないのでDVDを借りねば・・・(笑)
第27代王の純宗の舅、海豊府院君・尹沢栄(ユン・テギョン)が娘の純貞孝皇后が昌徳宮に入る際に建てたもの。
一般住宅とは異なり、純宗がここで祭祀を行えるよう、特別に祠堂(斎室)を設けた家屋です。
尹沢栄は自分の娘が純宗の妃になれたことを常にご先祖様に感謝しながら過ごしたのだとか。
韓国では珍しい「元」字形の韓屋で、上に祠堂、その下に本棟。
本棟は高い柱に梁が五列で、前の棟は梁が三列。非常に格の高い家屋です。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2015年05月26日
総合評価:5.0
1890年代に作られた、三清洞五衛将金春永家屋 (サムチョンドン オウィジャン キム・チュニョンカオク)
・・・なんだか舌をかみそうな名前ですね。
元は鍾路区、三清洞にあった韓屋で、朝鮮時代の終わりに五衛将を務めた金春永が暮らし、孫の金鴻基の代まで使用されました。
南山韓屋マウルにある韓屋の中では最も小さい家屋ですが、一番好きな建物です。
ここに保存されているのは母屋(アンチェ)と男性用の住居(サランチェ)ですが、特に母屋の方はまるで今でも誰かが生活しているかのように展示されています。
お布団までありました(笑)
小さいながら庭も美しかったです。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0





















































































































