2025/07/06 - 2025/07/06
98位(同エリア1648件中)
+mo2さん
静岡県立美術館で7月5日から始まった「これからの風景 世界と出会いなおす6のテーマ」へ行ってきました。
HPより~
当館の収集の柱である風景画・風景表現のコレクションを、いま私たちを取り巻く身近な問題にも接続する6つのテーマ(記憶/鑑賞/観光/場所/環境/対話)で捉えなおします。そのうち「鑑賞」をテーマとする章では、触図(触って分かる図や絵)や音声ガイドなどを手がかりに、視覚以外の感覚を通して風景画を鑑賞する方法を提案します。風景画は、時代や立場を越えた多様な他者のまなざしを通して、世界と出会いなおすきっかけを、これからも与えてくれるでしょう。美術館を出たら、夏がもっとあざやかになる。-そんな風景との出会いが待っています。
展覧会では、一部の作品を除き写真撮影OKでした。
※作品解説は、静岡県立美術館HPより参照しています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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10時に車検を出しに行った後、代車で静岡県立美術館へ。07月05日(土)~09月23日(火)まで開催の本展、開幕2日目ですが、かなり空いていました。
静岡県立美術館 美術館・博物館
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まずは、1階エントランスにある名品コーナーから
柳原義達「道標・鳩」1973-1979(昭和48-54)
道標とは彼の「みちしるべ」として、作者の歩んだ道に目標をつけて作者の人生に置き換えているとの意であり、いってみれば作者の自画像です。そこには「自然に内在する量の移動、量と量とのひしめき、そんな自然のもつ不思議な法則をたてや横に組み合わせる」(『孤独なる彫刻』(1985、筑摩書房 pp. 199-200))、彫刻家でなければできない喜びがあると作者はいいます。さらに作者は続けて「私が生と死の運命にたたされているように、仕事のなかに生を求めてめぐり廻り、私が生きている不思議さを仕事の中に刻みたい。大自然のなかにいる鳥が、雨や、風や、嵐や、喜び、かなしみ、の運命にいるように。」 -
岡鹿之助「観測所」 1951年
小高い丘に立つ観測所の建物を中心に、造成中のような周囲の風景を横長の画面に構成的に描きます。画面に上下方向の動きを与えている観測所の塔、前景の透視図法的に並ぶ木立、横方向ではゆるやかに弧を描く丘の輪郭線や、大地に置かれた木材、これら画面を構成する線には曲線が反復して用いられます。絵具を混色せず用い、かすらせることによって濃淡を生み出す作者独自の褐色を基調とした点描法と、緊密な構図とが相俟って、理知的で理想化された風景画となっています。岡鹿之助は知性的、主知的な立場での制作を以て成功した、日本では稀有な芸術家であり、《観測所》は彼の風景画の中にあっても典型的な作例であるというべきです。 -
リチャード・ウィルソン「リン・ナントルからスノードンを望む」1765 -67年頃
本作はウェールズ北部にある、リン・ナントル湖の東端から西方を望んだ眺めです。画面の正面奥にはイ・ウィッドファと呼ばれるスノードンの山頂、その下方にはクログウィン・イ・ガレグという名の小山が見え、中景左方にはミニッド・モアーの斜面、右方には尖った頂をもつ山並みが続いています。画面下方の澄み渡ったリン・ナントルの湖面は、これらの山並みをくっきりと映し出し、構図に対称性を与えています。英国最高の自然景といわれたこの眺めは、明確に整えられた構図とウィルソン特有の蒼白い光によって、壮大と静謐を獲得している。
1750年からイタリアに長く滞在したウィルソンは、古典的風景画を学び、特にクロード・ロランから大きな影響を受けた。本作においても、画面の両側に数本の木々を配してその間に深い空間を作り出し、観者の視線を遠方の山並みでうけとめるという構図にクロードの影響の名残りが見られる。 しかし、前景で釣糸を垂れる人物たちは、神話的、キリスト教的意味を担うことなく、クロード芸術からの脱却をはかったウェールズの風景画にのどかな雰囲気を加えています。
同構図、同サイズの作品が、リヴァプールのウォーカー・アート・ギャラリーとノッティンガム城に所蔵されています。 -
本展では、“風景の美術館”として知られる静岡県立美術館の名品約170点が公開されています。環境問題やオーバーツーリズムなど、今日的な話題にも引き寄せたテーマによって風景画、風景表現が紹介されています。
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イチオシ
第1章 記憶―心にふりつもる風景
歌川広重「東海道五拾三次 ( 保永堂版 ) : 蒲原 夜之雪」1833 ( 天保4 )年頃
「日本橋」から「三条大橋」までの宿場を舞台に、旅に関わる風物、人物を自然の景観のなかに抒情豊かに描いたこの《東海道五十三次》55枚のシリーズは、若き広重がのこした傑作として、また浮世絵風景版画の代表作としてよく知られています。 -
レンブラント・ファン・レイン「三本の木」1643年
アムステルダム郊外のディーメルデイク付近の風景と言われます。激しく雲が動く大空を背景に、三本の樹木が荘厳に佇立し、雲間から洩れる光の筋(ドライポイントによる)がこれと均衡をとっています。左方の水辺には漁夫が、右方の繁みには密会中の男女が潜み、小高い所では画家がスケッチをし、家畜が処々にたむろしています。言わば大自然の根源的な生命力に対する讃歌ですが、前年に没した妻サスキアへの鎮魂歌という趣もあります。本図のステートは1点のみで、アムステルダム、ベルリン、ボストン、サンクト・ペテルブルグ、ロンドンその他、著名美術館に収蔵されています。 -
ジョン・コンスタブル「ハムステッド・ヒースの木立、日没」1821年
1816年に父親の遺産を相続し、さらに富裕な妻と結婚したことにより、コンスタブルは経済的安定を獲得しました。1819年、コンスタブルは、二人目の子供を身篭った妻と虚弱な長男の体を気遣い、空気の良いロンドン郊外のハムステッドに移り住みました。ハムステッドの風景に魅了された彼は、以後しばしば同地の風景を描きました。
本作は、1821年10月31日に同地で描かれた、二つの風景画のうちの一つとされます。同年の11月3日に、コンスタブルは友人に宛てて次のような手紙を書き送っています。「10月末日は本当に素晴らしかった。眺めるばかりで絵を描くことができないほどだった。妻は私といっしょに美しいヒースの上を半日中歩いた。私は夕方の光景を二つ描いた。」本作と同じ日に描かれたもう一つの作品は、ニュー・へイヴンのイェール・センターに所蔵されています。
コンスタブルは、ターナー、ゲインズバラと並び、イギリスの最も偉大な風景画家の一人に数えられますが、構想画として制作された大きな完成作よりも、むしろ戸外での新鮮な印象を描きとめた油彩のスケッチが後に評価され、フランスの印象派にも影響を与えました。 -
杉戸洋「川へはいっちゃいけない」2015年
開幕2日目にもかかわらず、とんでもなく空いています。写真を撮ったり、じっくり眺めたり楽しみました。 -
狩野探幽「瀟湘八景」1662-74年(寛文2 - 延宝2 )
晩年期にあたる探幽行年書き時代の作。伝統画題である瀟湘八景(中国洞庭湖周辺の風光を描く画題)を各幅に描き分けています。洗練された筆墨によって絹地8幅に描かれた本格的な作品であり、山形・鶴岡藩主の酒井家に伝来しました。「山市晴嵐」や「洞庭秋月」は、探幽の独創による構図と目されます。使用印を各幅変え、「探幽法印書」「探幽法印筆」「探幽法印図之」「探幽法印作」と、落款の書式を変化させている点も興味深い。 -
ヤーコブ・ファン・ライスダール「小屋と木立のある田舎道」1670年代
田舎道は、森林、海浜、河川、砂丘、滝などとともに、ヤーコブ・ファン・ライスダールがしばしば取り上げた主題でした。その一例であるこの晩年作の特徴は、ヤーコブが彼自身のパノラマ的景観から広大な空を引出し、スケール・ダウンした小屋や木立を中景に配列したことでしょう。開け放たれた前景の後方に立ち並ぶ木立は、蛇行する小道を辿って行き着く風車のある地平線と呼応し、無限の距離をつくりだしています。距離を表すこういった手法は、決して伝統的であったとは言い難く、画面の片側を斜面で対角線状に切り取ったピーテル・ブリューゲルやアダム・エルスハイマー、枠組みを利用して深々とした空間をつくりだしたクロード・ロランの手法とも異なっています。1650年代のヤーコブによって追及されたモニュメンタリティは、もはやまったく見て取れません。空の美しい青と対照的な地面の暗褐色は、黄金色に輝く丈高の木の葉群を浮き立たせると同時に、ヤコブの抑制のきいた色使いの妙を伝えています。 -
ヤン・ファン・ホイエン「レーネン、ライン河越しの眺め」1648年
ユトレヒト州にあるレーネンの町を、ライン河越しに西側から眺めたホイエンの1648年の作品。中央に聳えているシルエットは、聖クネラ教会の尖塔で、その左手にはボヘミアの冬王、フレデリック五世(1596-1632)の宮殿と風車をのせた胸壁が見られます。左方の丘の斜面には、もう一つ別の風車が立っています。前景に浮かぶ渡し舟には、馬車の窓から顔を出している貴族らしき乗客、釣人、従者、馬などが乗り込んでいます。右手の岸には牛と漁師の姿が見られる。梯子に昇った男は、魚を捕らえるための大きな円形の罠を小舟に運びこもうとしています。上方の空には灰色と白色の雲が大きく広がり、雲間には美しい青空がのぞいています。小さな鳥は白由に飛び回っています。
レーネンはライン河Iの北岸の丘陵地帯に形成された町で、1442年から1531年にかけて建設された聖クネラ教会の塔は、ネーデルランドで最も高い優美な建築物として広く知られていました。この町の眺めは、17世紀オランダの画家たちによって好んで取り上げられた主題で、ホイエンの他にも、サーンレダム、セーへルス、レンブラント、サロモンとヤーコブの両ロイスダール、カイプ、コニンクなどが取り組んでいました。こうした状況を考えると、レーネンの眺めを描き慣れていたホイエンにも、同時代の画家たちに対する競争心が宿っていたのかもしれません。 -
パウル・ブリル「エルミニアと羊飼いのいる風景」1620年頃
パウル・ブリルは、ローマで活躍したフランドルの風景画家。ブリルの後期様式を示すこの作品は、1581年に出版されたタッソの叙事詩『解放されたエルサレム』中の一挿話に、主題を求めています。サラセンの女王エルミニアは、愛するキリスト教の騎士を探すため、鎧で武装し戦場のエルサレムを脱出します。翌朝彼女は、ヨルダン河の岸辺で羊飼いの親子と出会い、平和で幸福な牧歌的生活の喜びを聴くことになります。 -
ガスパール・デュゲ「サビーニの山羊飼」1669-71年
ガスパール・デュゲは、ローマ生まれでローマ育ちのフランス人画家。姉が高名な画家二コラ・プッサンと結婚したため、義理の兄となったプッサンに師事し、画業に進みます。自ら、ガスパール・プッサンと名乗ることもあります。非常な人気を博し、教皇インノケンティウス10世や、コロンナ家等からの注文も受けていました。作品にローマ周辺の野山、殊にティヴォリ近郊が描かれることでも知られます。
本作品では、画面右側中景に、古代の遺構らしい建物が描かれています。画面左手前の山羊飼いが、18世紀当時の服装ではなく、古代ローマ人のようなトゥニカと思われるものをまとっています。今日の日本に住む者の目で見ると、一見では分からないのですが、当時この作品を見る人々であれば、デュゲがここで行なった「古代」を連想させる工夫を、すぐに了解出来たでしょう。
とはいえ、ここに描かれたローマ北東の山岳地帯は、クロード・ロランの作品に見るような、穏やかで牧歌的な風景というより、もう少し実際の土の香りを感じさせるようなもののようです。 -
ユベール・ロベール「ユピテル神殿、ナポリ近郊ポッツォーリ」1761年
1760年春、ユベール・ロベールは、美術愛好家ジャン=クロード・リシャール・サン=ノンや画家ジャン=オノレ・フラゴナールとともに南イタリア旅行に出かけました。本作の舞台となったのは、ナポリの西に位置する古代の港湾都市ポッツォーリに残るマケルムです。マケルムとは、主に食料品を扱った、古代ローマの市場またはその建物を指します。古代ローマ時代にプテオリと呼ばれたこの町の市場は、フラウィウス朝時代(1世紀)に建設されました。長らくこの場所はセラピス神殿と誤認されてきました。それは古代エジプトの神セラピスの彫像が発掘されたためで、ユベール・ロベールらよりも10年前にこの町を訪れた版画家シャルル=二コラ・コシャンも、1754年に出版した『ヘルクラネウムの古代に関する観察』において、セラピスに捧げられた神殿と記しています。
ユベール・ロベールは本作で、実景を元に創作を加えました。マケルムの構造は、16本の柱を持つ円堂を中央にして、その周囲の矩形を円柱で取り囲み、さらにその外側に店舗が入った小部屋が並ぶという造りです。本作では、円柱と店舗の小部屋とが混合され、さらに当時すでに消失していた円堂が再現されています。考古学的な正確さを目指すよりも、豊かな想像を取り混ぜ、当代の人物を添景に優雅な情趣で古代の遺跡を描き出す手法が発揮されています。なお、本作とほぼ同様の構図が、後にサン=ノンの著作に図版として挿入されました。 -
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ「嵐の海」1740年頃
ヴェルネが「難破船」という主題に着手した正確な年はわかりませんが、この主題との繋がりを説明するには、彼が17世紀のローマでながらく活動していたことを想い起こせば十分でしょう。当時のローマは国際的な美術交流の中心であり、この都市に移り住んでいたパウル・ブリル、クロードロラン、ピーテル・ファン・ラールなどは、ヴェルネ以前にこの主題を取りあげていたからです。本作は18世紀の作品らしく、現実と空想を織り混ぜ構成されたもので、中景に配された円筒形の建築物はローマ市内にあるチェチーリア・メッテオの墓であり、遠方の岸辺はナポリ湾の眺めを連想させます。現存するヴェルネの他の作品が実例となるように、本作も2点ないしは4点で構成された連作の一つだったかもしれません。彼は一日の時間をいくつかのタブローで描き分けるという17世紀以来の伝統にしたがっていましたが、そのやり方はもっと思い切りのよいもので、たんに朝夕の光の効果を対比させるのではなく、「静けさ」と「猛々しさ」を、つまり黄金色の日没の光に浸された長閑な風景と、難破船を飲み込もうとする嵐の海景を対比させたのです。無慈悲な自然の猛威を見せつけ、人間の悲劇的な最期を想像させる「難破船」は、18世紀後半に美の対立概念となっていた崇高に通じるモティーフと見られていました。 -
フランソワ・ブーシェ「水車のある風景」1764年
のどかで喧噪のない田舎での営みに、生きる苦しみは感じ取れません。腰をかがめ汚れ物を洗っている洗濯女がいますが、彼女たちの労働から重苦しい雰囲気は放たれていません。画面全体を満たしているのは、田舎の静けさと安らぎに他ならない。愉しく生きるために必要なものがすべて揃っている小さな世界、都会であくせく働く人たちが羨むような悦楽の世界です。
ブーシェは1740年代から洗濯女に関心を抱いていて、幾度も風景画に描き込んでいる。時には対をなす2作品に洗濯女と釣りをする女をそれぞれ配している。ブーシェは、洗濯女の労働と、釣りをする女の遊びとを対比させているのではなく、戸外での洗濯も釣りと同じく、気晴らしとなる営みと考えていたのだろう。ブーシェが描こうとしていたのは、人々をやさしく包み込む自然であり、古代以来ヨーロッパ文学の世界を流れる「心地よき場所locus amoenus」という考え方につらなるものであった。 -
ヨーハン=バルトールト・ヨンキント「オンフルール近郊の街道」1866年
1855年から5年間にわたるオランダ滞在は、ヨンキントにフランスへの強い執着を意識させる結果となりました。彼はオランダ風景画の伝統を根底にもちながら、革新的な同行を示す同時代のフランス絵画に引き寄せられていたといえるでしょう。1860年代は印象派にとって、その芸術の確立期にあたります。ヨンキントはバルビゾン派の画家たち、ブーダン、モネなど印象派の形成に重要な役割を果たした画家たちと、この時期頻繁に交流しています。彼らは、本作に描かれているオンフルールやル・アーブル、サンタドレス、トルーヴィルなどに集まり、外光の下で画架を並べ制作しました。その中で伝統的な構図法や戸外制作の技術に通じていたヨンキントは、常に指導的な役割を果たしていました。モネはヨンキントについて「真の師」と呼ぶことをはばかりませんでした。
セーヌ河畔の港町オンフルールに通じる街道を描いた本作では、後の印象派のような大胆さは表われていないものの、軽快な運びで積み重ねるように置かれた筆触が透明感のある色調と調和し、明るい光や大気、葉群のざわめきを巧みに表現しています。彼は制作地を印象派と共有し、光を強く意識した技法の点においても印象派の先駆けとなったといえます。 -
イチオシ
クロード・モネ「ルーアンのセーヌ川」1872年
普仏戦争を避けて滞在していたイギリスからオランダを経由して帰ったモネは、1871年12月よりセーヌ河畔の町、アルジャントゥイユに居を構えました。同時期にル・アーブルやルーアンなど近隣の風景を描いています。
ルーアンはル・アーブルとパリのちょうど中間に位置し、パリの外港として発展した町です。ここで船から下ろされた荷物が陸路パリまで送られ、パリの市場を豊かに満たしていました。本作には一隻の帆船から荷物が運び出される情景が描かれており、当時の活気ある港の様子を伝えています。帆船の背後には、家々の間に大聖堂の尖塔がそびえ、右方にはサント・カトリーヌのなだらかな丘を望むことができます。この大聖堂については後年、モネがそのファザードを連作にしています。
明るい色調の絵具を薄く塗った空や水には、多くの塗り残しが見られ、自由な筆触とともに画面上に新鮮な効果を与えています。本作が制作された1872年は、第一回印象派展出品作で「印象派」の命名のもととなった《印象、日の出》が制作された年と重なり、これらの作品からは印象派確立期の革新的な息吹きを感じとることができマスター。 -
ハイム・スーチン「カーニュ風景」1923年
リトアニアの貧しいユダヤ人の家庭に生まれたスーチンは、1913年パリに出て、モンパルナスでモディリアーニやパスキンらと親交を結んだ後、画商の援助を得て南仏のカーニュに滞在しました。社会的な訓練のない彼は、自分の作品を発表することを病的に恐れていました。しかし、この《カーニュ風景》が好例となるように、自然と建物がゆがみ崩れる狂気の作風は、1930年代のアメリカで大きな反響を巻き起こすことになりました。 -
イチオシ
ラファエル・コラン「想い」1904年
木陰で想いにふける白衣の女を、緑に照りはえる陽光が優しく包む、詩的情緒に富んだ作品です。明るい色彩が切れ味のいい筆致に盛られて爽やかに賑わう点はマネの弟子であったベルト・モリゾの作風を偲ばせます。とりわけ画面にただよう光の描写は印象派的です。もっともここには、印象派の開発した純色の並置や補色対比は見られず、光は印象派のように純粋な視覚体験に徹する手段ではなく、通俗的な夢想を盛りたてる要因に留まっています。それがコランの折衷性であり、同時に大衆的な人気を博した理由でした。 -
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「40のガラス版画 : 小さな羊飼い 第1版」1921年出版
風景を描くことの多かったバルビゾン派の画家たちは、19世紀の半ば頃に発明されたばかりの写真術に興味を持っており、このガラス版画の技法も彼らを中心として用いられました。特にシャン=バティスト=カミーユ・コローはこの技法を愛し、66点もの作品を生み出しました。《40のガラス版画》にはコローをはじめとして、この技法での制作を試みたシャルル=フランソワ・ドービニーやジャン=フランソワ・ミレー、ウージェーヌ・ドラクロワ、テオドール・ルソーの作品が含まれています。 -
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「40のガラス版画 : ホラティウスの庭」1921年出版
1921年にパリのサゴ出版社のモーリス・ル・ガレはガラス版画のポートフォリオを出版するために、ガラスの原版から紙に焼き付けを行ないました。それらの原板は画家たちの没後、フランス北西部の町アラスの写真家M.キュヴェリエのもとに残されていたものです。ポートフォリオは150部の限定出版であったが、静岡県立美術館所蔵のものには103番目のナンバーがつけられています。 -
シャルル=フランソワ・ドービニー「40のガラス版画 : 山羊飼いの少女」1921年出版
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イチオシ
ジャン=フランソワ・ミレー「バルビゾン近郊の羊飼いと羊たち」1865-68年頃
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サミュエル・パーマー「ケント州、アンダーリヴァーのホップ畑」1833-34年頃
本作が制作されたとき、パーマーはショーラムに住んでおり、数年後にはウェールズに移る時期にあたります。
テンペラと油彩の混合技法による本作は、空の部分を除き細かい点描で仕上げられています。これにより茶色や黄色、緑に彩られた木々や畑は光輝くような効果を見せ、実り豊かなホップ畑の様子が巧みに表現されています。画面左手前には馬に乗る人物を先頭にして複数の人物群が描かれています。他に人気のないホップ畑を辿るこの人物群は、エルサレムに向かうキリストを想起させるという指摘もあるとおり、本作は単に身近な風景を描写したという以上の幻想的な雰囲気をもっており、ショーラム期のパーマーの特徴をよく示すものです。 -
ケル=グザヴィエ・ルーセル「風景 : 風景の中の赤いドレスの女」1900年頃
晩年のルーセルは、ニンフ(精霊)の現れる森や浴女たちの戯れる泉など、神話的な風景を好んで描きました。彼は、重さを感じさせないはかなげな量塊表現と、こまやかで震えるような筆致を用い、この世ならぬかろやかさや、精妙な光の調子などを見事に表現しています。本作は、セザンヌやルオーの評価をもたらした近代フランスの大画商ヴォラールの企画による版画集のために制作されました。 -
入江波光「草園の朝」1926年
木僅でしょうか、枝先の白い可憐な花にそっと手をのばす若い子守りと、乳母車のかたわらで無心に遊ぶ、白いエプロンをつけた幼い女の子。そして、そのふたりをつつむ草木の繁茂する草園。それぞれのモティーフが、乳白色の微妙な色調のうちにゆらめき、そして輝いて、まさに朝露のおりた静かな草園に憩う母子の安らぎと小さな幸福が、清爽な詩情のうちに表現されています。 本作品の大きな特徴である、画面にあふれるやわらかな色と光の表現は、既に1920(大正9)年の《彼岸》の頃より認められ、そして1922(同11)年から翌年にかけてのヨーロッパ遊学におけるイタリア絵画との出会いによって結実した手法ですが、それはまた皮相なロマンティシズムでは語ることのできない、波光独特の構想画の世界であることに留意したい。また、画面下辺部に重心をおいたその縦長の構図も、一連の波光作品の中で、高く評価される点です。 -
脇田和「作品」制作年不詳
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川内倫子「Untitled」2021年
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中川八郎「松原」1902年頃
背景の木々の描写には、彼が不同舎で学んだ鉛筆によるデッサンの跡が見られます。それとは、対照的に前景の砂浜には光の表現が見られます。画家初期の代表作。 -
児島虎次郎「酒津の庭(水蓮)」1924-28年頃
1913(大正2)年、児島は結婚し酒津の大原別邸(無為村荘)で暮らします。翌々年には園内にアトリエを新築し酒津定住を決意しました。本作は日記の「画室前に金魚池をつくるために今日から石工が来た」(大正13年7月5日〉、「午後、池の睡蓮を描く。爽涼の風に少し気力を回復した」(同年9月6日)などの記述に関連するかもしれませんが、没する前年にも金魚池の睡蓮写生の記事があります。いずれにせよ、大作でないだけに作者の本領が出た、晩年のフォーヴ調をよく示す佳品と言ってよいでしょう。第一次渡欧後の児島は、主観的描写を求めて次第に筆致を粗放にし、この絵の赤と緑の補色対比に見るような、フォーヴ調の絢爛たる色彩効果を求めていきます。しかし金魚池の方形という建築的要素が色彩の乱舞を抑制し、後景の樹林と淡い色調で関連づけられているのは、アカデミックな均衡を重視する彼らしい描法となっています。 -
福田平八郎「雪庭」1958年
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徳岡神泉「雨」1964年
神泉は、自己との精神的融和をめざした対象(モティーフ)の徹底した観察・写生を終生追求し、「装飾性」と「叙情性」の伝統の強い花鳥画の世界に、「抽象性」と「象徴性」と言うべき新しい要素(エレメント)をもたらした画家として知られています。
すなわち、神泉の画業は、≪椿≫や≪蓮≫(いずれも1922・大正11年頃)にみられるように、京派のやわらかな写生技法に宋元画の厳格な写実性を加味し、対象(モティーフ)の見事なまでの質感表現をめざした作品から、《菖蒲》(1939・昭和14年)を契機に、簡潔でかつ絶対的な構図(コンポジション)のうちに対象(モティーフ)を単純化しつつとらえることによって、その本質を表出しようとする画面へと、大きく展開しています。「雨」と題された本図は、まさに後者の、ひとつの帰結を示す作品です。
どんよりと低くたれこめる空をうつしたような池の面と苔むした大小ふたつの飛石-この限定され、払切りつめられた対象(モティーフ)間の緊張関係をうち破るかのように、降り出したばかりの雨滴が、静かに白い波紋を広げてゆく光景が描かれています。
しかしながら本図で最も注目すべきは、神泉が饒舌な道具立を一切排し、ごく身近な自然の景のうちに、緊迫した「刻(とき)」- 一瞬の時の移ろい-を明確に表現している点です。その意味で本図は、「動」と「静」、「天」と「地」と言う対照的な俳優達が織り成す心理劇(ドラマ)とも、みることもできます。 -
第2章 鑑賞―さわる風景、きく風景
クロード・ロラン「笛を吹く人物のいる牧歌的風景」1630年代後半
クロード・ロランはフランスの画家、本名クロード・ジュレ。「ロラン」は「ロレーヌの人」という意味の通り名です。1617年頃にローマに、さらにナポリまで赴き、風景画家のゴッフレード・ワルスに師事したらしい。その後、ローマやナンシー等での修行時代を経て、ローマに定住し、制作を続けました。古典的な端整さのある理想風景画で、高い評価を受けていました。
彼の活動した時代、絵画作品が成立するためには、何らかの主題を持つ必要がありました。神話やキリスト教、歴史的な逸話等、立派な題材が描かれているということが、絵を発注する人々にとっても、重要だったのです。そこで彼の描く風景画の多くにも、主題を表すための人物が登場するのですが、画家にとっては風景そのものが大事だったため、人物像は、画面の中で相対的に小さくしか扱われません。
本作品の場合、キリスト教や神話に基づく、特定の主題は設定されていません。だが、「世知辛い俗世から離れた、牧歌的な暮らし」という理想を表すために、牧人や山羊、牛が描き込まれている。画面左のやや奥に、円筒形の遺構と思われる建築があるのは、それが理想郷としての古代を強く連想させるからでしょう。 -
ジャン=ジョゼフ=グザビエ・ビドー「山の見える牧歌的風景」1790年代
ビドーの風景画様式と芸術観が形成されたのは、1785年から5年に及んだ第一回目のイタリア滞在中でした。浅瀬を渡る牛の群れ、量感のある葉群をつけた木立、遠方の山なみなどを組合わせた本作品は、新古典主義時代のフランスで賞賛された17世紀の古典的風景画、とくにクロード・ロランの牧歌的風景画を想い起こさせます。戸外で観察した自然の諸部分をアトリエで再構成したビドーらしい風景画の作例です。 -
ギュスターヴ・クールベ「ピュイ・ノワールの渓流」1865年
ピュイ・ノワールはクールベの出身地であるオルナンに近い峡谷です。目の前のものを、見たままに描き出そうとした「レアリスト」クールベは、故郷周辺の身近な風景をしばしば題材として採用しています。澄んだ空気がまぶしい光を投げかけるフランシュ=コンテ地方の風景は、彼の風景画制作を考えるときに必ず立ち返らなければならない地点です。
美術史上では、バルビゾン派と印象派を架橋する位置にあるクールベですが、彼の関心はうつろいやすい自然の様相をカンヴァス上に写しとろうとしました、印象派の画家たちのものとは異なっていました。周囲の強い光の中でより一層暗さが強調されている森は、同じくオルナン周辺にある洞窟を描いた作品と、閉じた暗い空間の描写という点に共通性が認められ、これらの作品にはある種の寓意が秘められていることが指摘されています。また、岩の表面や葉群、渓流の水しぶきなどの表現には、パレットナイフが用いられ、独創的です。 -
「テキスタイル」制作、展示監修:庄司はるか 2025年
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第3章 観光―見出された風景
歌川広重「不二三十六景 東都駿河台」1852年 -
黒川翠山「御厨の残雪」制作年不詳
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和田英作「日本平望嶽台」1939年
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ジュリアン・オピー「「日本八景より」国道三百号線から眺める富士山と雛菊」2007年
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大下藤次郎「田子の浦」1902年
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茨木猪之吉「初夏の常念岳」1935年
静岡県富士郡岩松村岩本(現富士市)に生まれます。浅井忠に学び、小山正太郎の不同舎に入ります。第1回文展に《深山の夏》入選。1909(明治42)年、小島烏水らの南アルプス横断に参加した、アルピニストでもありました。1936(昭和11)年、足立源一郎、丸山晩霞、吉田博らとともに日本山岳画協会を設立。穂高岳にて消息を絶つ。本作は、この画家の現存する油彩画として希少です。登山口から見た北アルプス・常念岳の描写は、茨木の山への素朴な愛情を感じさせます。山岳画家による、安曇野風景画の原型とも言える作品です。 -
吉田博「上高地の春」1927年
南安曇郡安曇村の上高地徳沢園の南側、梓川辺より前穂高岳、同北尾根、茶臼山を描く。雪庇崩壊を見て取れる稜線、残雪に未だ埋まった渓谷、緑を成し始める前景の草原等が細やかな筆触で描写されています。俗麈を離れた静寂な風景画を得意とした作者の作風をよく示すと共に、第8回帝展出品作として、堅実な写実という当時の官展風景画の主傾向もまたよく表しています。更に作者は後に日本山岳画協会を結成した事からも知られるように、アルピニストとして山岳を客観的かつ克明に観察する眼を持った人でした。画中の季節感や寂寞感に日本人の伝統的で調和的な自然感、あるいは自然と自己の一体化・同一視といった感覚を多少残しながらも、本作品の厳しい山容や天候急変を予想させる大気の表現には、作者自らが明治期の水彩画興隆の中で、あるいは渡欧帰朝者としての発表活動の中で、その変革に関わってきた近代的な風景画の成立と山水からの訣別、自然と対峙し分析しようとする自己の存在を前提とした新しい自然観への移行が、見事に語られています。 -
小泉癸巳男「冬の猿橋」1938-41年
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武内鶴之助「紀州瀞峡」制作年不詳
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中澤弘光「風景(秋の湖畔)」1919年
曾山幸彦に学んだイタリア式のデッサンと、堀江正章に学んだ人物の描写や明るい色調、また黒田清輝の影響などにより、中澤の作品には屋外の明るい景色の中に大きく人物を配したものが多く、宗教的・文学的主題が主流を占めています。一方で、京都、奈良、日光、ヨーロッパなど、旅行のスケッチをもとにした風景を、外光派の明るい色調で描いた作品も残しています。この作品もそうした風景画の一点で、大きさや仕上げの状態から、展覧会出品を考えて制作されたものと思われます。
中澤の風景画は、少し上から見下ろす角度で広く視野をとり、パノラマ的に景色が広がる構図が多く見られる。本作においても、前景に大きく3本の樹を配して遠景に雪を頂く連山を望み、湖面の広がりを強調している。描かれた景観から、日光の中禅寺湖と白根山を描いたものと考えられるが、陽光による影を補色によって強く描き出し、外光派の本領を発揮しています。 -
鹿子木孟郎「紀州勝浦」1910年
デッサン、構図ともに作者の安定した力量を感じさせる佳品。穏やかで優雅なトーンを基調としつつ、随所にみられる鮮やかな紫や緑が印象的です。
海岸や渓流の岩場の風景というモチーフは、作者晩年の昭和時代に多く描かれた重厚な風景画に連なるものです。また、小山正太郎の不同舎における自然風景描写の修練によって作者の画技が磨かれたことを思い起こさせます。 -
金山平三「千曲川(信濃路の春)」1956-64年
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児島善三郎「箱根」1937年頃
晩秋から初冬にかけての、箱根峠より望む芦の湖の景色を描いた作品。手前から順に、樹木の茂った丘、湖水、旧御用邸跡の半島、大きく誇張された山腹が、平行な層をなす色面として配列され、右端の湖畔には瀟洒な洋館を2棟添えています。枯草色の山は太い描線で形態の力動性を強調され、青、緑、白で塗り重ねられた動的な空と静的な青く透明感のある湖面がその効果を高めています。樹木等の細部は大胆に省略され、点線に還元されて画面に統一的なリズムと装飾的な効果を与えています。この様式化された作調には、縦書の漢字によるサインが暗示するように、児島の言う「日本人の油絵」への追求が示されています。「雄大な感じをなんとか画に表わしたいと思い、思い切った表現を試みた」とする児島の率直な自然観照とその表現、日本の古典の咀嚼とが、本図を質の高い風景画にしています。この作品には同一構図の作品(三重県立美術館蔵)が存在しますが、様式化の度合から推して、制作年代で本館蔵のものが先行すると考えられます。 -
須田国太郎「筆石村」1938年
須田の風景画では、つねに近景と遠景の二元的対立が作画のコンセプトになっています。前景は動きを孕んだ闇であり、後景には光を浴びた静止的な対象構成があります。丹後半島の乗原から筆石村の棚田を俯敢した本作でも、前方では影をかぶって赤茶色の泥が流れ、かなたには整合的に構成された、明るい家並と山並みが遠望されています。1937(昭和12)年12月に須田は北丹後に旅し、小書や寒風を冒して25号の写生画≪時雨(筆石村)≫を描いた。当館所蔵の80号は、翌年2月から4月にかけて画室で再構成され、第3回京都市展に出品されたものです。両作ともモティーフ構成は同じですが、本図では雨の方向が反転し、中景の家並がさらに整えられ、かつ画面は横長に延び、右下に向う25号の写生画の方向とは逆に、右上への方向線をきわだてます。こうして悠遠な自然のうねりが巧みに捉えられていくのです。ところで近景と遠景の二元的対峠という制作の手法は、作者が自己と描かれるべき対象との間に、ストイックな距離の意識を前提していたことを示しています。一方日本的な伝統からすれば、自然対象は情緒的・直観的に、つまり一元的に作者と融和する筈のものでした。謡曲趣味に秀で、水墨画もよくした須田は、明らかに直観的な対象把握の資質を有していましたが、彼の研究課題であり続けた西欧のリアリズムは、描く自己と描写対象との、一定の距離を介した対峠を原則としていました。したがって対象に肉薄するために、須田の二つながら秀でた理知と情緒とが、制作に際して緊張に充ちた葛藤を始めます。そして、その文化史的な意味さえ荷う葛藤の深さが、同時に須田芸術の深さになっています。なお1996(平成8)年に静岡県立美術館で、本作の解明を通じて須田芸術の意味を問う、「検証・須田国太郎の“筆石村”」展が開催されました。 -
田村一男「北越大雪」1976年
画面はモノクロームの色面に近いが、僅かに見分けられる家屋や樹木、山襞などが風景の基本構造を定め、縦に長い画型を白の顔料が幾重にも塗りこめるという形で、場面は堅固に構成されています。白は多様な色調を帯び、同時に日本画顔科(水晶沫など)が油彩と混用されて、穏和な画肌を保っています。50歳を過ぎての初の渡欧後、改めて日本の風土性を自覚した作者は、「日本の自然は、何かね、向こうからも自分の方からも両方から歩みよっていって、ふれあって感じあうことができるんですがね。だから日本でも穂高なんかはきらいです。自然の暖かさというより形だけが先に来るような気がしてね」(1959・昭和34年)と述べています。かようにこの絵も、山並みの形態と客観的に対峠するのではなく、寂しく暖かい情感にみちた日本の風土の感触を描きとった作品で、第62回光風会展に出品されました。類作に同題のセントラル美術館個展出品作(1974・昭和49年)があります。 -
鳥海青児「壁の修理」1959年頃
1958(昭和33)年6月、作者は三度目のヨーロッパ旅行を中断して沖縄へ行き、暫く絶えていた風景画の恰好のモティーフを得っました。「沖縄は、気候の関係か、建物に、石が多いのです。民家の壁に亀裂が入ってそれが修理してあるのが、とても面白く、それだけで立派なモティーフになります。そのまま、ひとつのアブストラクトなのです。色は、ぼくの感じた色。これは、みたとたんきまってしまうのです。」(『芸術新潮』1959・昭和34年9月)
沖縄の家並を描いた二、三ある同種の作品のうち、本作は抽象的な完成度が最も高く、厚く塗りこめられた色面は、さながら壁を修理する職人が即物的に実感したであろう、量感と物質感に溢れています。それは「みたとたん」、触れたとたんに「きまってしまう」、日本流の直観的・情緒的な対象把握の美しい証例であるとともに、装飾的な構成とくすんだ色調を促す、底の深い精神性にも結びつきます。本作の20余年も前に作者は、「一体日本に、油絵風景画が発達し得るものか。はたして日本の自然が油絵の素材として生かされ得るものか」と懐疑しました。この作品は、後年の作者が日本固有の風土性をあくなく精神化することによって、それを油彩の素材となすにいたった苦闘を証すものです。 -
第4章 場所―名前のない風景
小林清親「海運橋 ( 第一銀行雪中 )」1876年
前年に架け替えられた石造の海運橋が画面手前と奥をつなぎ、橋向こうには第一国立銀行がそびえます。明治5年に竣工したこの建物は、2階までの洋風のつくりの上に和風の建築を載せる和洋折衷の様式でしたが、画中では下層の洋風部分が見えず、その豪壮な全貌は示されていません。薄暗い空を背景に雪をかぶる姿は、しっとりとした冬景色の中に案外なじんで見えます。藍色の空を飛ぶ三羽の鳥も、建物の新旧に関心はなかろう。派手な色彩によって開化の風物を強調する開化錦絵とは明らかに異なる情感であり、それは一連の「東京名所図」に共通する特徴といえます。前景に番傘をさした後ろ姿の女性を配して鮮やかな赤を添えるのは、《東京新大橋雨中図》と共通する手法。番傘に「銀座」「岸田」との文字が読めますが、これは清親とも親交のあった岸田吟香(劉生の父)が銀座に構えた目薬や文具を扱う店の宣伝とみられ、やはり開化のイメージが読み取れます。女性は、開化を象徴する建築と江戸以来の情緒が両立する風景に歩み入りつつ、自らも新旧両方の世界を体現しています。 -
野田哲也「Diary:Jan.3rd’82.toIzumi」1982年
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野田哲也「Diary : Sept. 22nd ‘87, in Kikkodai, Kashiwa-shi」1987年
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ピエール=エティエンヌ=テオドール・ルソー「ジュラ地方、草葺き屋根の家」1834年頃
この小品に描かれているのは、スイスとの国境に近いジュラ地方の山村風景と言われています。若い頃からルソーは、画材を背負いフランス各地の山野を巡り歩き、名もない片田舎の風景を好んで描いていました。乾いた地面の広がり、急勾配の草葺き屋根、不規則な形をみせる山々は、ルソーの心を強く捉えたのでしょう。画家の関心は、変化と起伏にとんだ現実の眺めにあり、過去の風景画家たちが魅了された古代神話の世界からは完全に遠ざかっています。近年ではオーヴェルニュ地方(フランス中南部)の山村風景とする意見も提出されています。 -
イチオシ
ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「メリ街道、ラ・フェルテ=ス=ジュアール付近」1862年
メリはパリの東方60キロほどのところにあるセーヌ・エ・マルヌ県の小村です。コローは1862年以来、何度かここで制作しています。本作が発表された1863年は、厳しすぎるサロン審査への抗議が強まり、これに対応して落選者展が開催された年にあたります。コローはこのときの厳しい審査にも関わらず、本作と合わせ、サロンに2点出品しています。それでも小品であることから、審査員からは習作とみなされ、必ずしもよい評価を受けませんでした。しかし一般の美術愛好家には好まれ、購入の申し出が重なったため、コローは本作と同構図の作品をもう1点制作しています。 街道沿いの家や樹木、道を歩く人物に見られる秩序立って落ち着いた構成は、コローの初期風景画の特徴です。一方、風に揺れる銀灰色の落群は、詩情豊かな風景画として人気を博することになる後期の風景表現を窺わせます。光や大気のうつろいを巧みに捉え、農村の日常生活を描いた本作のような風景画は、バルビゾン派からさらに印象派の画家たちに継承されていきます。 -
カール・ドービニー「川岸の風景」1885年
作家はバルビゾン派の画家ドービニーの長男。幼少期より父から絵画の手ほどきを受けました。最晩年に制作された本作が描かれた場所は不明ですが、川辺の描写などから、オワーズ河畔と推測されます。父が所有するアトリエ舟のボタン号でともによく訪れ、その制作風景を目の当たりにした場所の一つでもあります。色彩の明暗(空や川/木立)、タッチの強弱(樹木/街並み)などの対比効果を特徴とし、19世紀後半に多様な展開を見せたフランス風景表現の優品の一つです。 -
吉田博「街道」1901-03年
街道沿いの宿場と思わしき民家を、青葉茂れる樹木と木漏れ日とともに描いています。特に右の樹木と民家の精緻なタッチには作者の作風がよく表れています。 -
東城鉦太郎「山家の春」1910年
山間の村に訪れた早春の風景を描きます。遠景の雄大な山並から中景の丘陵を経て近景の人家に至るまで実在感のある堅実な空間把握がなされています。細部に着目すればかなりの略筆ですが、安定した構図によって説得力のある画面となっているといえます。また、抑制の効いた色彩表現は、冷涼な山村に訪れた春の空気感を現実的に表現しています。
東城鉦太郎は川村清雄門下。明治美術会、巴会で活躍したほか、日露戦争の海戦図やパノラマ館の絵画などを手がけたことでも知られます。とくに日本海海戦の三笠艦橋を描いた図は著名。歴史教科書の挿図としてもよく用いられたため、東城を知らなくともその絵は見知っているという方も多いでしょう。 -
安井曽太郎「森の中」1911-13年
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曽宮一念「芝浦埋立地」1913年
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曽宮一念「風景」1920年頃
作者は東京日本橋に生まれ、東京美術学校で藤島武二に師事。学友の日本画家・井上恒也と親交して、田子浦など静岡県下で写生を重ねました。1920(大正9)年より新宿下落合に住みますが、この作品はその周辺を写実的に描いたもので、鋭く伸びやかな線と、青と赤茶のハーモニーが印象的です。その後はいわゆる日本的フォーヴの手法により、風物を大胆に描き出しました。1944(昭和19)年静岡県吉原に疎開し、翌年より101歳で没するまで富士宮市で制作を続けました。 -
栗原忠二「武蔵野」1930年代
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小絲源太郎「春雪」1953年
雪の東京田園調布駅前の並木路を描いた作品。横長の画面の対角線構図の中に、漸次小さく遠くなる並木、雪道、雪曇りの空、駅舎と、点景としての人影等を収めています。微妙な色相の相違を見せる濁色調の色が線の抑揚の少ない直截的な筆触によって用いられ、雪曇りの雰囲気をよく伝えています。この作品は、作者自身のアトリエがある身近な街に降り積もった雪に感ずる感興を制作のきっかけとしています。作者の戦後の風景画は作者自身が四季折々に田園や都市の景観の中で発見した季節感-本図の場合には春の雪特有の湿気の多さ-に対する感動を率直に表わそうとするものであり、描かれた風景はそれによってある固有の場所であることから観者にも親しい日常的な場面へと変容します。情緒的な日本の風土、風物を油彩画技法で見事に表現した本作品を始めとする昭和28年度の風景諸作に対し、日本芸術院賞が贈られています。本図は作者の師藤島武二に対して指摘される「近代日本洋画の2つの使命、油彩としての性能と特色の発揮、日本人の芸術としての独自性の発揮」を継承し具現しているとも言えます。 -
和田三造「風景」1947年
敗戦直後の東京風景か。後年の和田特有の明るいフォーヴ調の作。とりわけ空の澄明な色調が美しい。 -
小栗哲郎「夕陽」1934年
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北川民次「山村初春(高草山風景)」1941年
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中川雄太郎「版画作品集1: 興津川畔」1932年
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中川雄太郎「版画作品集1: ごみすて場」1932年
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中川雄太郎「版画作品集3: 工場へ行く道」1933年頃
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中川雄太郎「版画作品集2: ( 風景 )」制作年不詳
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第5章 環境―地球を想像する風景
石川直樹「Mt. Fuji #55」2008年 -
石川直樹「Mt. Fuji #41」2008年
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小林猶治郎「崖」1924年
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小林猶治郎「山峡」1930年頃
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平塚運一「ニコライ堂」1925年
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松江泰治「ALPS 18443」2012年
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山本森之助「海岸」1912-14年頃
長崎に生まれる。明治29(1896)年に天真道場に入門、引続き東京美術学校西洋画科に入学しました。同35年には白馬会会員となり、38年、白馬会第10回展で白馬会賞受賞。その後も、文展で受賞を重ね、明治45年には中沢弘光らと光風会の結成に参加しました。本作は、その作風から大正初年頃の作と考えられ、画面には陽光を受けて輝く水面が巧みな色彩で表現されています。白馬会系作家の得意とした外光表現が遺憾なく発揮された作です。 -
小絲源太郎「東海」1975年
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平塚運一「伊豆梅林」1933年
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野田好子「海辺」1953年
《海辺》は、初期作の一つ。当時の現代美術を席巻していたシュールレアリスムの影響を色濃く反映しており、以降の野田作品の幻想性の出発点をうかがわせる作品です。 -
マックス・エルンスト「博物誌」1926年
《博物誌》は石や木の表面を鉛筆などでこすり、その凹凸を写しとるフロッタージュの作品をコロタイプ印刷したもので、エルンストがドイツを離れ、パリでシュルレアリスムの芸術家たちと交流していた時期に制作されました。個々の作品の題名は言葉あそびのように作り出され、図と組み合わされています。シリーズにはハンス・アルプによる序文がついています。
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