2025/06/15 - 2025/06/15
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箱根のポーラ美術館で、同館開館以来初となるフィンセント・ファン・ゴッホをテーマとした展覧会「ゴッホ・インパクト─生成する情熱」展が開催中です。雨の中ですが箱根まで行ってきました。今年から来年にかけて、日本ではフィンセント・ファン・ゴッホをテーマにした大規模展覧会がいくつか開催されます。本展はゴッホの作品自体は、ポーラ美術館所有の3点+国内の数点と少ないですが、彼が芸術家たちに与えた影響の歴史を振り返るとともに、現代を生きるわたしたちにとって、ゴッホがいかなる価値を持ち得るのかを検証するものとなっています。展覧会は一部を除き、写真撮影Okでした。写真多くなったので2部に分割します。
なお作品の解説は同HPより参照しています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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雨で、箱根付近はかなりの霧でした。
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展示の前半は、ポーラ美術館のコレクションを中心に、ゴッホの名作を楽しめます。
ポーラ美術館 美術館・博物館
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フィンセント・ファン・ゴッホ 「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」1888年 ポーラ美術館
1888年2月、ファン・ゴッホは南仏プロヴァンスのローヌ河畔のアルルに到着しました。アルルはローマ時代からの歴史ある町で、市街には遺跡が多く残されています。ファン・ゴッホは、明るい陽光に満ちた南仏を、日本のあざやかな浮世絵の世界に重ね合わせ、憧れの日本のような場所と考えていました。彼は、ラマルティーヌ広場に面した「黄色い家」で、パリからやって来たゴーガンと約2ヵ月間生活をともにしますが、耳切り事件によって二人の共同生活は幕を閉じます。アルルに滞在した約15ヵ月間で、ゴッホは約200点の油彩画を制作しました。「ここの自然は並はずれて美しい。いたるところ完璧だ。空の穹窿と見事なブルー、太陽の輝きは硫黄が燃える青白い炎の色だ」。本作品は、アルル到着後まもなく制作されました。ヴィゲラ運河のグレーズ橋はアルルの南に位置していました。ゴッホは橋と土手の黄色、空と運河の水面の青色に加え、橋上の人物や奥に広がる低木材、ボート、洗濯女たち、水面の煌きなどにアクセントとして赤を用いています。 -
ポール・セザンヌ「プロヴァンスの風景」1879-1882年 ポーラ美術館
本作品では、セザンヌの故郷、自然豊かな南仏プロヴァンスの陽光に満ちた青い空、山の斜面に建つ家、緑の木々などが、あざやかな色彩で描かれています。画面中央の家には、プロヴァンスで「マス」と呼ばれる、モルタル塗りの壁と赤く平らな瓦葺き屋根といったこの地域の農家に典型的な建築様式がみられます。また、この辺りの家は南に建てられ、家の周りには、強風を防ぐための木々が植えられています。セザンヌは、緑の木々を、画面全体の統一的な構成をめざした長方形のタッチの積み重ねによって描いています。 -
イチオシ
ポール・ゴーギャン「アリスカンの並木道、アルル」 1888年 SOMPO美術館
「アリスカンの並木路、アルル」は、ゴーギャンがアルル到着後、すぐに着手した作品。古代ローマ遺跡「アリスカン」の石棺が並んでいます。SOMPO美術館 美術館・博物館
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フィンセント・ファン・ゴッホ「紡ぎ車をくる女」1883-84年 和泉市久保惣記念美術館
本作では、壁を背に正面を向いて紡ぎ車を回し、糸を繰る女性を描いています。暗い室内を照らす窓からのかすかな外光を捉え、紡ぎ車と一体となった女性の動きを浮かび上がらせています。
ゴッホは、画家になることを目指した二十代の後半、ひたむきに働く人間の強さや純真さに美しさを見出し、労働者や農民の生活を主題とした絵を多く描きました。当時のゴッホは研究のため、ミレーの素描やリトグラフを数多く模写しています。本作はオランダ南部のヌエネンで制作していた頃のものです。
※本展での撮影ではありません。久保惣記念美術館 美術館・博物館
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フィンセント・ファン・ゴッホ「機を織る人とベビーチェアの子供」1884年 和泉市久保惣記念美術館
この作品は、古い機織り機を前にして、梭という横糸を通す道具を手に、職人が作業をしています。その側にはベビーチェアが置かれ、その中に座っている赤ん坊が作業の様子をながめています。農夫や職人たちの働く姿をその環境とともにとらえた、和泉市久保惣記念美術館が収蔵する3点のゴッホ作品のうちの1点。
※本展での撮影ではありません。 -
イチオシ
フィンセント・ファン・ゴッホ「座る農婦」1883-84年 諸橋近代美術館
ジャン=フランソワ・ミレーの影響を受けたゴッホは、1884-85年頃にかけて、農民をモデルにした作品を多く残しています。本作はそのうちの一点。
厳しい表情でこちらをじっと見つめる農婦の姿。固く結んだ手やその面持ちからは、絵のモデルになっていることへの緊張感が感じられます。暗い色調でまとめられた重々しい画面からは、決して楽ではない農民生活が窺えます。諸橋近代美術館 美術館・博物館
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クロード・モネ「エトルタの夕焼け」1885年 ポーラ美術館
ノルマンディーの英仏海峡に面した漁村エトルタの海岸を描いた作品。石灰層の巨大な絶壁の「アモンの断崖」や「アヴァルの門」などは景勝地として知られています。「アヴァルの門」の近くには、モーリス・ルブランの小説「怪盗アルセーヌ・ルパン」シリーズの『奇巌城』(L’aiguille Creuse)のモデルとなった岩、エギユ(針)島があります。モネはエトルタに1883年の1-2月に滞在して以降、1886年まで毎年訪れています。本作品では、エトルタのカジノのテラスから見た、夕陽の残照に赤く染まる水平線近くに垂れこめた雲と空、そしてアヴァルの門の前景の浜辺に3艘の舟を配し、日の終わりの一瞬の風景の輝きと静けさを描きとめています。モネは、逆光を受けた断崖と、夕焼けに赤く染まる空の色の変化と雲の流れをすばやく描き止めています。浜辺に打ち上げられた3艘の船は、どこかもの悲しく、ロマンティックな旅情を誘います。 -
ジョルジュ・スーラ「グランカンの干潮」1885年 ポーラ美術館
大きさの異なる3隻の帆船が、画面の中にさまざまな角度で配されています。中央の遠景の船は正面観で、右側のものは側面観で、そして潮の満干で浜辺に取り残された左側のもっとも大きいものは斜めの軸を強く意識しながら描かれています。こうした画面の構成は、安定した調和をもたらす黄金分割に基づいており、作品全体を覆う綿密な点描の効果と相まって、英仏海峡を臨むノルマンディー地方の小村であるグランカンの情景に、厳格な性格を与えています。 著名な化学者であり、色彩の研究にも力を尽くしたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則について』(1839年)をはじめとする著作を研究したスーラの大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1884-1886年、シカゴ美術館)が話題を呼んだのは、最後の印象派展となった第8回印象派展でした。光学、そして色彩理論による科学的な視座から印象派の技法を再検討し、乗り越えようとしたスーラの作品を、美術批評家フェリックス・フェネオンが「新印象派」と命名したのは、同年に開催された第2回アンデパンダン展でのことです。この展覧会に《グランド・ジャット島の日曜日の午後》とともに出品されたのが本作品であり、額縁の装飾も含めた絵画制作を実践していたスーラによる、点描の縁取りが施されています。 -
ポール・シニャック「エトルタの夕焼け」1885年 ポーラ美術館
海を愛したシニャックは、ヨットを自分自身で操縦してヨーロッパ各地の港に赴き、数多くの海や港の風景を描きました。彼は、生涯に30艘を越えるヨットを購入しています。フリシンゲンは、オランダの港湾都市。シニャックは、1896年、自由美学展の開幕とエミール・ヴェルハーレン主催の晩餐に出席するため、友人の画家レイセルベルヘとともにブリュッセルに行きました。その際、彼は、アントウェルペン、ブリシンゲン、フェーレ、ロッテルダム、デン・ハーグ、アムステルダム、ドルトレヒト、フォーレンダムなどのオランダの都市を訪れました。本作品は、紫、青、緑といった寒色系の繊細な色彩を用いた点描で、港の眺めと停泊する船を描き出しています。ほぼ同じ構図で、バラ色の色調で描かれた作品も残されています。 -
林忠正編『パリ・イリュストレ』誌 no. 45&46合併号「特集:日本」1886年5月号 ポーラ美術館
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歌川広重「冨士三十六景」1858年(安政5)ポーラ美術館
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歌川広重「冨士三十六景 東都隅田堤」1858年(安政5)
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歌川広重「冨士三十六景 東海堂左り不二」1858年(安政5)
富士市吉原の風景です。昔。この近くに勤務しており、毎日、通った道ですが当然、風景は異なります。 -
フィンセント・ファン・ゴッホ「草むら」1889年 ポーラ美術館
ファン・ゴッホは、アルルでのゴーガンとの共同生活と耳切り事件ののち、サン=レミのサン=ポール精神療養院に入院しました。彼は何度か発作を起こしましたが、病気が小康状態のときには制作を行いました。彼は病室の窓から見える風景や庭の草花や木々、病院近くのオリーヴ園、糸杉のある風景などを描いています。1889年4月、彼はこの病院の庭で見たと思われる草花を主題にし、数点の作品を制作しています。
ゴッホはそれら数点の作品で、空も地平線もない、草花の広がる光景のみを描いていますが、この《草むら》は、そのなかでもとりわけ草の茂みを大きくクローズアップしてとらえている。彼は大地に根を張るこの草むらを、あざやかな緑、黄緑を用い、力強い線条のタッチで描いています。自然の風景の細部を見つめる観察態度には日本美術の影響も指摘されていますが、きわめて地面に近い視点から描かれた本作品は、奥行感が欠如し、平面的な画面になっています。 -
ポール・ゴーギャン「異国のエヴァ」1890-94年 ポーラ美術館
ゴーギャンは、幼少期をペルーで過ごし、船員生活を経験し、カリブ海に浮かぶ小アンティル諸島のマルティニク島にしばらく滞在しています。アルルでのゴッホとの悲劇的な共同生活の後、ゴーギャンは西欧の近代化の波のおよばない、文明化されていない世界に憧れを抱き、南国に向かう決意を固めます。本作品は、おそらくタヒチに渡る1891年以前に、1889年のパリ万国博覧会に展示されていた東洋や中東の美術に影響を受けてゴーギャンが創り上げた創造の南国の風景です。ゴーガンは、エデンの園を自分がこれから向かう南国として表現し、エヴァの容貌を母アリーヌの写真にもとづいて描いています。 -
ポール・ゴーギャン「白いテーブルクロス」1886年 ポーラ美術館
ゴーギャンが、はじめてブルターニュの小さな村ポン=タヴェンを訪れたのは1886年7月です。アヴェン河口のポン=タヴェンは、かつては14基の水車と15軒の家しかない静かな村だったそうです。1860年代よりアメリカ人の画家たちが集まっていましたが、素朴な地方として注目され、訪れる人々が増えていきました。ゴーギャンは、家賃、食事込みで月60フランという良心的なグロアネクの下宿屋で絵画制作に打ち込みました。彼の周りには若い芸術家たちが集まり、この地は芸術家村となりました。芸術家たちは8月15日の聖母マリアの被昇天祭の祝祭日の慣習として、グロアネク夫人に作品を贈ることにしていました。白いテーブルクロスの上のワインデカンタ、ブルターニュの伝統的な水差し、さくらんぼ入りの器を描いた本作品も、ゴーギャンがこの慣習に習い、宿屋のために制作し贈ったものです。1892-1893年にポン=タヴェンに滞在したスイス人画家クーノ・アミエは、グロアネクの宿屋でこの作品を見た感想を残しています。「白い布の上に置かれた鉢のなかのさくらんぼ。何の気取りもない全き単純さ、それは不思議に透き通っており、そこには魔法のような輝きがあった」。 -
ポール・セザンヌ「ラム酒の瓶のある静物」1890年頃 ポーラ美術館
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リシャルト・ロラント・ホルスト『ファン・ゴッホ展』(1892年)カタログ表紙 1892年SOMPO美術館
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フィンセント・ファン・ゴッホ「アザミの花」1890年 ポーラ美術館
本作品は、ゴッホ晩年の1890年6月16日または17日に、ガシェ医師の家でモティーフを見つけて描いた数点の野花の静物画のうちの1点。
テーブルや花瓶を区切る輪郭線は、日本の浮世絵版画の影響を感じさせます。外側に広がるアザミの鋸歯状の葉や麦穂、花瓶の同心円状のタッチや背景にみられる垂直と水平方向に交差したタッチは、ゴッホの線と色彩、画肌の効果の追究の成果を示しています。 -
アンリ・マティス「オリーブの木のある散歩道」1905年 ポーラ美術館
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アルベール・マルケ「冬の太陽、パリ」1904年 ポーラ美術館
「マルケは、このセーヌの眺めを描きたいばかりに、河岸のアパートを探して、そして生涯その窓からセーヌばかり描いていたんですよ」と、マルケ夫人は語ったといいます。事実、マルケはセーヌ河に架かるポン・ヌフや、セーヌ河の向こうに見えるパリの街並みを生涯にわたって描きつづけました。この作品が制作された1904年には、マルケは名画の模写をおこなうため、国立美術学校のモロー教室でともに学んだマティスやマンギャンと連れ立って、しばしばルーヴル美術館を訪れています。ルーヴルは、この時期のマルケにとって、もっとも馴染みの深い場所のひとつでした。そしてこの作品に描かれているのは、セーヌ右岸にある建物、おそらくルーヴル美術館のセーヌ河に面した部分から西方を眺めた冬のパリです。アンヴァリッドのドームの遥か彼方からは、やがて沈みゆく緑色の太陽が橙色の光線を放っています。その黄昏の陽光によって今にも融けだしてしまいそうな画面手前の並木は、画家が高い建物の上階の窓からこの作品を描いたことを暗示しています。 -
ジョルジュ・ブラック「レスタックの家」1907年 ポーラ美術館
1906年10月から1907年の2月まで、ブラックは友人の画家フリエスと南仏プロヴァンスのマルセイユの北西の港町レスタックで過ごしました。それは、彼が尊敬していたセザンヌが1870年代と80年代にこのレスタックに滞在し、風景画を描いたからです。20世紀前半にレスタックは、セザンヌの影響を受けた画家たちのセザンヌ巡礼の地となり、数多くの画家たちがこの地を訪れました。レスタックには、19世紀初頭から港と漁場の周りに村が形成され、造船所が造られました。1885-1906年には、造船業・化学・鉱業で発展し、多くの工場が建設されます。レスタックの町を高台から見下ろした風景を描いたこの作品の、画面右に木立、左に街並みを描く構図にセザンヌの影響がみられるますが、あざやかな色彩や力強い筆使い、うねるような線には、1905年のサロン・ドートンヌで目にしたフォーヴィスムの影響が明らかです。 -
モーリス・ド・ヴラマンク「画家の父の」1904-05年頃 ポーラ美術館
ヴラマンクは、パリで音楽家の両親のもとに生まれましたが、幼い頃に母方の祖母が住むル・ヴェジネに引っ越し、祖母が歿するまでその地に住みました。ブーローニュの森、サン=クルー、ヴェルサイユ、サン=ジェルマン=アン=レーなどに囲まれた田舎の暮らしは、彼に大きな影響を与えました。1901年にパリのベルネーム=ジュヌ画廊で開催されたファン・ゴッホの回顧展で目にした、色彩と筆致の強烈な生命観に影響を受けたヴラマンクは、本作品をあざやかな色彩と力強い筆致で描いています。
※本展での撮影ではありません。 -
エドヴァルド・ムンク「犬のいる自画像」1925-26年頃 ポーラ美術館
1916年、ムンクは首都クリスティアニア(現在のオスロ)の郊外エーケリーに広大な土地を購入しました。山小屋風のアトリエと大型作品用の野外アトリエを建て、制作に励んだこの地は、彼の終の棲家となりました。精神の病から他人に対し疑い深いところを見せていたムンクですが、エーケリーでは犬と馬を飼い、よく世話をしました。庭の柵のなかで放し飼いにされた数匹の犬に餌を与えるムンクの写真も残っています。 ムンクは最晩年の《柱時計とベッドのあいだの自画像》(1940-1943年、ムンク美術館蔵)に代表される数多くの自画像を残していますが、本作品の逆光を効果的に利用した人物描写、そして濃紺を基調にした暗い室内に射しこむ光をあざやかな黄で強調した色づかいなどが、《夢遊病者の自画像》(1923-1924年、ムンク美術館蔵)に連なる作品であることを示しています。窓から射しこむ強い光を横顔に受けたため、表情が判然としないムンクと2匹の犬は、微妙な距離を保って向かい合っています。犬たちは飼い主であるムンクに近づこうとしつつも警戒しているかのようです。それは作者自身の心の奥底に棲みついた不信や強迫観念を象徴しているようにも感じられます。 -
エーリッヒ・ヘッケル「木彫のある静物」1913年 広島県立美術館
広島県立美術館 美術館・博物館
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『白樺』第1巻第1号(復刻版)他1910年(明治43)4月 ポーラ美術館日本で初めてのゴッホ・ブームが巻き起こったのは戦前のことです。『白樺』をはじめとする雑誌などに掲載された白黒の複製図版を通じてゴッホに対する理解が深められたものの、実際の作品そのものを鑑賞できた者は当時、ほとんどいませんでした。
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『白樺』 第3巻第11号(復刻版)「附録ヴィンツェン卜・ヴァン・ゴオホ」1912年(大正元)11月号 ポーラ美術館
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オーギュスト・ロダン「ナタリー・ド・ゴルベフの肖像」1905年頃 ポーラ美術館
ロダンは、若い頃より家族、友人など身近な人々の肖像彫刻を制作しています。肖像彫刻の場合、写真などの二次的資料では生命力が欠けるとして、常にモデルにポーズをとらせました。1900年以前には、ロダンは女性の肖像彫刻を制作したことはありませんでしたが、1900年にアルマ広場で開催された展覧会以降、肖像彫刻制作の注文が殺到しました。 大理石の女性の肖像が多いのは、この《ナタリー・ド・ゴルベフの肖像》にみられるように、大理石の肌理と光沢が、女性のすべらかな肌や衣服のやわらかな襞を表現するのに適していたからです。ロダンは大理石の彫りを多くの石彫り工に任せていましたが、本作品はロダンの助手を務めていたアントワーヌ・ブールデルが彫ったものです。 ナタリー・ド・ゴルベフ(1879-1941)は、ロシア出身でヴィクトール・ド・ゴルベフ伯爵(1879-1945)の夫人。ヴィクトールはインドシナ美術の研究者で、ハノイの極東学院の教授を務めた人物です。ナタリーは文筆家であり、ドナテッラ・クロスという名で翻訳も手がけた才媛で、イタリア人の作家・詩人のガブリエーレ・ダヌンツィオ(1863-1938)と恋愛関係にありました。自分の胸像を見たナタリーがロダンに書き送った次のような言葉からは、彼女がその出来栄えに満足し、ロダンに賞讃と感謝の念を抱いていたことがうかがえます。「私をもとにしてこのような胸像をつくってくださったのだ、という自惚れを押し殺すように苦労しなければなりません」。「あなたが私をもとにつくってくださった、所有しているのが今でも夢のような、この理想的な肖像にふさわしい人になるよう、できる限り努力するつもりです」。 -
オーギュスト・ロダン「カレーの市民(第二試作)」1885年 鋳造年:1977年 ポーラ美術館
1900年のパリ万国博覧会に際し、アルマ広場のパヴィリオンにおいてロダンの大回顧展が開催され、《カレーの市民》を含む彫刻168点や、デッサンと写真約50点が出品されました。この展覧会でロダンは批評家たちの注目を集め、世界中から注文が殺到することとなりました。 《カレーの市民》とよばれる群像彫刻は、イギリスとフランスが対立した百年戦争における、ある英雄たちの物語が主題となっていますすが、この物語についてロダンは中世後期の歴史学者、ジャン・フロワサールの『年代記』をよりどころとしました。1347年、フランス北部のカレー市を包囲した英国王エドワード3世は、この市の6人の名士が人質となり、城塞の鍵を渡すならば包囲を解こうと提案しました。この時、ユスタッシュ・ド・サン=ピエールほか6人が死を覚悟してエドワード3世の陣営に赴きましたが、命を奪われることなく解放されました。フランス人の勇敢さとイギリス人の寛大さを象徴するこの伝説的な話をカレー市は記念碑の主題に選び、1884年にロダンに制作を依頼しました。 1895年、カレー市のリシュリュー広場に設置された《カレーの市民》は、1884年の第一試作と1885年の第二試作を経て実現されましたが、本作品は後者の第二試作にあたります。第一試作についてロダンは、「自らすすんで犠牲になろうとするこれら6人の登場人物の全体が、集合的な感情の力を持っているのです」と述べ、凱旋門のような高い台座の上に6人の英雄を配する構成としましたが、第二試作で彼は、犠牲となる人々の英雄性よりはむしろ、運命に対する諦念や絶望、一瞬の躊躇を強く表現しました。さらに、6体それぞれが台座ごと独立し、それらを組み合わせてひとつの作品とする独創的な構成を試みています。ただしポーラ美術館収蔵の6体のうち、ジャン・ド・フィエンヌの像だけは組み合わせるように作られたものではなく、後で制作されたと思われるヴァリアント(異作)であるため、台座の形が異なっています。記念碑となるような群像の構成は、伝統的なピラミッド型でなければならないとする当時の慣習に反し、台座を低くし群像の高さをそろえたことなどが批判の的となったため、結局この第二試作は完成作として実現することはありませんでしたが、ロダンが強く意図しました、死を覚悟した人間の重々しい歩みの姿は、そのまま完成作へと引き継がれました。完成作の石膏像は、1889年にパリのジョルジュ・プティ画廊で開催されたロダンとモネの二人展において、はじめて披露されています。 第二試作は、ロダン美術館の許可のもと12作品が鋳造されました。 -
岸田劉生「夕陽」1912年(明治45)京都国立近代美術館
岸田劉生らがゴッホにインスパイアされ、新しい表現を紡いでいきます。京都国立近代美術館 美術館・博物館
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岸田劉生「自画像」1912年(明治45)東京都現代美術館
東京都現代美術館 美術館・博物館
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岸田劉生「外套着たる自画像」1912年(明治45)京都国立近代美術館
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岸田劉生「自画像」1914年(大正3) ポーラ美術館
岸田劉生は、白馬会葵橋研究所で学んだのち、後期印象派の影響を受けた作品をフュウザン会に発表しましたが、まもなくデューラーなど北方ルネサンスに傾倒し、濃密な写実表現へと向かい草土社を結成、さらに晩年は東洋の美を追求します。この作品は後期印象派からデューラーへと関心を移しっつある時期に描かれた、多数の自画像の一枚です。 -
木村荘八「祖母と子猫」1912年(明治45)東京都現代美術館
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木村荘八「虎の門付近」1912年(明治45)東京国立近代美術館
東京国立近代美術館 美術館・博物館
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鈴木金平「有楽町附近」1913年(大正2)東京国立近代美術館
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川上涼花「鉄路」1912年(明治45)東京国立近代美術館
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川上涼花「植物園風景」1913年(大正2)東京国立近代美術館
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萬鐵五郎「田園風景」1912年(明治45/大正元)頃 神奈川県立近代美術館
神奈川県立近代美術館別館 美術館・博物館
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萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃 東京国立近代美術館
萬鉄五郎は岩手県生まれ。1903年上京、早稲田中学に学ぶかたわら白馬会第二研究所で素描を学び、07年東京美術学校西洋画科入学。12年フュウザン会に参加。14-16年には帰郷して制作に専念し、17年日本美術家協会展に出品。19年病気療養のため神奈川県茅ケ崎に転居。日本画の制作もはじめ、のちに南画研究にも関心を示しました。22年春陽会の設立に参加。 -
萬鐵五郎「木蔭の村」1918年(大正7) ポーラ美術館
岩手県に生まれた萬鐵五郎は、大下藤次郎の『水彩画の栞』を手本に絵画を独学した後、18歳で上京し、1907年(明治40)、東京美術学校へ入学しました。卒業制作の《裸体美人》(1912年、東京国立近代美術館)は、自ら「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と語ったように、ポスト印象派やフォーヴィスムの影響を示す記念碑的な作品です。 1910年(明治43)に創刊された文芸雑誌『白樺』は、同時代のヨーロッパのさまざまな芸術運動を紹介し、芸術を志す若者たちを覚醒させました。図版や記事を通して目にするフランスのフォーヴィスム、キュビスム、ドイツ表現主義などの動きは萬の心をとらえ、1912年(大正元)、彼は岸田劉生らとともに新しい傾向の芸術をめざしフュウザン会を結成しました。この会は1年で解散しましたが、若い画家への影響力は絶大でした。 本作品は、萬が関心を示した画家のなかでもとくにドイツ表現主義の画家カンディンスキーの影響、とりわけ初期のムルナウ風景画を思わせる描写が印象的です。故郷の岩手・土沢を思わせる木々と家並みのモティーフをはじめ、躍動感あふれた筆致、強烈な色彩など、萬が新しい表現を獲得したことを感じさせます。故郷の岩手・土沢を思わせる木々のあいだの集落は、暖かな色彩と相まってのどかな雰囲気を漂わせますが、手前に見える赤と青のアーモンド形の奇妙な物体は、観者に不安な感じを与えます。 本作品の制作年は、ほぼ同じ構図の《木の間から見下した町》(岩手県立美術館)に大正7年と記されていることから、1918年(大正7)の作とされています。この頃制作に没頭していた萬は、心身ともに疲労の極限に達し、転地療養のため翌1919年(大正8)には神奈川県茅ヶ崎市に移り住みます。以後、亡くなるまでの8年間はこの温暖な海沿いの町で暮らし、制作を続けました。 -
萬鐵五郎「盛夏風景」1918年(大正7) ポーラ美術館
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小林徳三郎「鯵」1924年(大正13)神奈川県立近代美術館
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イチオシ
ポール・セザンヌ「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893-1894年 ポーラ美術館
本作品でもセザンヌがもたらした革新がみられます。ここにはそれまでの絵画にみられるような確固とした土台の上に積み上げられ、固定された構図はありません。左端の山のように盛り上がる布によって斜面が強調された机の上で、果物は皿から転がり落ちています。画面中央では、存在感を放つ砂糖壺が傾斜した机の支点を押さえ込むことで均衡をはかっています。果物は画面からこぼれ落ちそうな危うさを残しながら、重力に従うのではなく計算された構図によって、かろうじてその場所にとどまっています。本作品は、絵画が目に見える世界の忠実な再現ではなく、人工的な構築物であることを思い起こさせます。 -
ポール・セザンヌ「オーヴェール=シュル=オワーズの藁葺きの家」1872-1873年 ポーラ美術館
パリの北西30km、緑に包まれた静かなオワーズ河畔のオーヴェール=シュル=オワーズには、多くの芸術家たちが訪れています。1850年代には、コローやドーミエらがこの地で制作、ドービニーはコローのすすめでアトリエを構えた。1872年には精神科医ガシェが妻の病気療養のためこの地に移住し、セザンヌ、ピサロ、ギヨマン、ルノワール、シスレーらが彼の家を訪問しています。セザンヌは、1872年にピサロが住むポントワーズを訪れ、ポントワーズ周辺やオーヴェールで一緒に制作し、明るい色彩を用いるようになります。1873年から翌年はじめにかけては、家族とともにオーヴェールに滞在しました。セザンヌはガシェの家で制作したり、彼に作品を購入してもらうなど、親しく交流していました。本作品では、画面に奥行きを与える曲がり道、正面の藁葺き屋根の家と周囲の集落、葉を落とした木々が、落ち着いた色調で描かれています。 -
カミーユ・ピサロ「エヌリー街道の眺め」1879年 ポーラ美術館
ポントワーズから隣村エヌリーに続く道の風景。1864年に鉄道が敷設されたポントワーズは、パリの人々の行楽地となりました。ピサロは、1866年から1882年まで、ポントワーズとその周辺で約300点の油彩画を制作しました。ポントワーズとエヌリーの間には約3.5kmにわたって森が広がっています。緑豊かな風景を描いた本作品で、ピサロは微妙な諧調の色彩のタッチをさまざまな方向に置き重ねることにより、大気や風の揺らぎを感じさせる情緒豊かな画面を創り上げています。
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2025.2 開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺―百花繚乱 御所ゆかりの絵画―」
2025/02/01~
上野・御徒町
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異端の奇才―ビアズリーとTHE CAVE DE OYSTER
2025/02/15~
丸の内・大手町・八重洲
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2025.3 西洋絵画、どこから見るか?―ルネサンスから印象派まで サンディエゴ美術館 vs 国立西洋美術館
2025/03/15~
上野・御徒町
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2025.3 ラムセス大王展 ファラオたちの黄金
2025/03/15~
豊洲
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2025.3 ミロ展
2025/03/15~
上野・御徒町
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2025.3 横浜美術館リニューアルオープン記念展 おかえり、ヨコハマ(1)
2025/03/29~
横浜
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2025.3 横浜美術館リニューアルオープン記念展 おかえり、ヨコハマ(2)
2025/03/29~
横浜
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2025.3 ミステリー・オブ・ツタンカーメン~体感型古代エジプト展(1)
2025/03/29~
横浜
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2025.3 ミステリー・オブ・ツタンカーメン~体感型古代エジプト展(2)
2025/03/29~
横浜
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2025.4 西洋絵画、どこから見るか?―ルネサンスから印象派まで サンディエゴ美術館 vs 国立西洋美術館...
2025/04/13~
上野・御徒町
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2025.4 ヒルマ・アフ・クリント展(1)
2025/04/13~
丸の内・大手町・八重洲
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2025.4 ヒルマ・アフ・クリント展(2)
2025/04/13~
丸の内・大手町・八重洲
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2025.4 ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト(1)古代エジプト人の謎を解け!
2025/04/29~
静岡市(葵区・駿河区)
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2025.4 ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト(2)ファラオの実像を解明せよ
2025/04/29~
静岡市(葵区・駿河区)
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2025.4 ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト(3)死後の世界の門をたたけ!
2025/04/29~
静岡市(葵区・駿河区)
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2025.4 カラーズ ― 色の秘密にせまる 印象派から現代アートへ
2025/05/04~
仙石原
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2025.5 ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠
2025/05/31~
丸の内・大手町・八重洲
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2025.5 浮世絵現代(1)
2025/05/31~
上野・御徒町
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2025.5 浮世絵現代(2)
2025/05/31~
上野・御徒町
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2025.5 特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」「五大浮世絵師展」
2025/05/31~
上野・御徒町
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2025.6 ゴッホ・インパクト―生成する情熱(1)
2025/06/15~
仙石原
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2025.6 ゴッホ・インパクト―生成する情熱(2)
2025/06/15~
仙石原
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2025.7 これからの風景 世界と出会いなおす6のテーマ
2025/07/06~
静岡市(葵区・駿河区)
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2025.7 特別展「氷河期展 〜人類が見た4万年前の世界〜」
2025/07/26~
上野・御徒町
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2025.7 クリムト・アライブ
2025/07/26~
日本橋
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甥っ子とミステリー・オブ・ツタンカーメンへ
2025/08/30~
横浜
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2025.9 ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢、特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」
2025/09/20~
上野・御徒町
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