2024/11/24 - 2024/11/24
17位(同エリア34件中)
さっくんさん
ツアー初日は午前はバビロン、午後はカルバラー。初日から歴史の超重要案件が立て続けです。私の数少ない脳の回路がショート寸前で火花が散りそうです。なんとか、なんとか、伝わる様に書いたつもりですが、足りない部分、解り辛い部分は各自補完してくださいませ。本当に重要ポイントです。此処テストに出ます!(嘘)
※)此処ではイラクの旅行記を挙げ、文中では、自分の素直な感想を述べたい為、絶賛していますが、一方現在イラクのバグダッド以北は未だ退避勧告が出されており、残念ながら未だとても推奨出来る旅先ではありません。
また私の帰国直後シリア情勢が急変しました。イラクは多くの部分でシリアと国境線で隣接しており、またアサド大統領やヒズボラ、イラン等が所属するシーア派の人口も多いです。
この事から今後のイラクの情勢は、今後のシリア情勢に大きな影響を受ける可能性が高いです。この様な旅行記を挙げた上、心苦しいですが、もし、もし、それでもと言う旅人さんは情勢を見極めて。ご安全に!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 団体旅行
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いよいよツアー初日です。先ずは何が何でも朝食会場。全く事前情報無く泊まったホテルでしたがなんと四つ星ホテル。朝食会場も広々、種類も豊富です。
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ツアーには食事代は含まれませんので朝食はガッツリ食べていきましょう(笑)
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出発してすぐ、私は車を止めてしまいました。だって、アラジンのランプです。中東あるあるのモニュメントですが、千夜一夜物語の本場で見るアラジンのランプは感慨深いものがあります。
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此処はフィルドス広場です。今となってはロータリーの中心には何もありません。以前は無名戦士の墓がありましたが、サダム・フセイン氏がそれを撤去し自らの銅像を建てました。
それを罪状をでっち上げ侵略してきたアメリカが破壊するシーンを誇張して報道し、自らのプロバガンダとして使用したのは有名なシーンなので覚えている人も多い事でしょう。 -
パレスティナ・ホテルとシェラトン・イシュタールはバグダッドでも有名なホテルです。パレスティナ・ホテルではアメリカ軍の誤射により5人の記者の命が奪われました。
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広場脇にはラマダン17モスクが聳えます。
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此方はタフリール広場。バグダッドの中心的広場ですが、一方デモ等でも頻繁に使われる広場であり、広場の中央には1958年に起こった王制を打倒したイラク革命に因んで建てられた抑圧などをテーマとした記念碑が建てられています。
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記念碑の真横には重武装のピックアップトラックが常駐しています。(町中にいます。)
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広場はかなり奥まで広がっています。これからも整備が続く様子でした。
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普段では平和そのものですが22年にもデモが過激化して死傷者が出る事件も起きている事から、現在でも選挙が近い様な日には近づかない事が賢明かもしれません。
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さて、車はバグダッドを離れ南に進みヒッラと言う街を目指します。今回旅を依頼したRJTRAVELさんはドバイとマラケシュに店舗を持つ国際的にツアーを催行する旅行会社で、特にイラク等一般の旅人が訪問し辛い地域を得意とた旅行会社ですが、普通に日本のツアーも催行しています。
今回初めてのお付き合いとなりましたがとても信頼出来るツアー会社でした。危険度情報が高く、日本の旅行社はツアーの催行を行っていない。でも行きたい!でも独力では不安。と言うケースには非常に心強い存在です。
方面によって異なりますが、各方面に毎月1回グループツアーを催行する中プライベートツアーも催行しています。グループツアーは安いのが魅力ですが、元々集団行動が苦手な上、今回の場合、イラクを攻撃した側がグループ内に存在したら、私は刃傷沙汰を起こしかねないのでプライベート・ツアーを選んでいます(笑) -
そして到着です。バビロンの城門ことイシュタル門。まさかメソポタミア文明の遺跡がこうも色鮮やかに現存している筈は無く、イシュタル門周辺の発掘を元にドイツのベルガモン博物館にて復元されたイシュタル門が展示されていますが、そのレプリカが本場であるこの地に建つイシュタル門だと言う事です。
遺跡としては意表をつく彩色ですが、遺跡=無彩色と言うのは間違いで、我々が色落ちした後の遺跡ばかり見てきたからそう錯覚してしまうのです。実際はカラフルだったと言われていおり、何故イシュタル門が青と解ったかも、何故青が使われたのかも判明しているとの事です。 -
バビロンの遺跡とは全く関係無い事ですが、バビロンの城門と言えば、レインボーの名曲が脳裏でガンガン鳴ってしまうのはリッチー・ブラックモア・ファンだから許して欲しい。「バビロンの城門」でのギター・ソロは大好きなリッチーのギターソロでも一番好きなソロです。
バビロンの城門
https://youtu.be/SH43BU6DSm0?si=Moql9bfjmTzJo9Og -
此方はバビロンに描かれた地図。説明を聞きながら、読みながら円形の内部を見つめれば、聞いた様な地名が幾つも浮き上がります。なる程…。
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古代バビロンの想像図です。寺院とジグラッドは対の存在で繋がっているそうです。と言う事は、画面中央やや右の段々状のピラミッドがあった部分こそ、バベルの塔があった場所でしょうか?
ロデムやポセイドン、ロプロスもいたのでしょうか?いや、それを言うならバビル2世です。でも、どちらも想像域での話です。
バビル2世
https://youtu.be/fsRGoxS-nSk?si=XjUP28o46QOKwmUy -
イラクの観光地図がありました。この期に及んでもっと長いツアーを選びたかったと思います。イラクは結構見所充実しています。特に歴史好きにはたまらないポイントが目白押しです。本当この様な状況にあるのが勿体無さ過ぎです。
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此方は当時から残る大通り跡です。メソポタミア文明の道路や建築の特徴は、現在の様にセメント(コンクリート)やアスファルトでは無くタールを使用していた事で、その痕跡が現在でも確認できます。
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それにしてもこの遺跡、とてもメソポタミア文明時代から残っている遺跡とは思えない保存状態です。あり得ない…と思っていたら、なんとサダム・フセイン氏が復元したものなのだそうです。勿論元から残された遺構を元に上部が復元された部分となります。これは遺跡をそのままの状態で保護すべきか?それとも現在に伝わりやすい様に復元するか?意見は分かれるところだと思います。
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遺跡の壁を良く見れば、元からあった部分と復元された部分が解りやすい程解ります。それにしてもハラッパー遺跡等に比べれば、例え下の部分だけであったとしても、良く現在まで良く残されたものだと思います。
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またしてもバビロンの城門。嗚呼再び脳裏にはバビロンの城門が…。
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此方は確か玉座だった筈です。
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此方は制作時、職人達が残した碑文が現在でも残されています。
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此方は復元時、現在の職人が残した碑文です。こんな部分までしっかり復元しています。翻訳したら〇〇参上!とかじゃ無い事を心から祈ります。
現在でも建物を建てた職人さんが見えない場所に碑を刻む習慣が日本にもありますね。ええ私も職人ではありませんが、刻んだ経験あります。さっくん参上!大反省です。 -
さて、いざ学校の七不思議、いや世界の七不思議のひとつバビロンの空中庭園があったとされる場所を見にその場所へ向かうとします。(但し世界の七不思議の中で唯一場所の確定していない不思議であり、確定している訳では無い。)
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空中庭園はバビロンの遺跡より一回り高い位置にありました。
「空中庭園と言う事は、空の上に浮かんでいるのですか?」
と言うボケには
「な訳ねぇだろ!」
と突っ込まずにはいられません。ギリシャ語を訳す段階で「吊り下げられた。」と言う言葉が「空中」に訳されてしまった為です。 -
そう考えてみると見る見るうちに想像が膨らんできませんか?吊り下げられた。つまり階段状に築かれた庭園のそれぞれの段に、蔓植物や蔦植物が植栽され、まるで吊り下げられる様にその葉が段から溢れて生い茂っているその姿を。
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もしこの空想が真実だったとするならば、空中庭園は非常に現実的な庭園だったとは思いませんか?現代なら階段状の植栽なら幾らでもあります。しかし紀元前ではどうやってこの階段状の庭園に水を引くのか?それが問題で、それを解決したからこそ世界の七不思議に選ばれる程著名となったのでしょう。
パキスタンのシャーラマール庭園やペルーのマチュピチュでも、現在でもその水利の方法が未判明な遺跡は幾つもあります。古代でも驚くべき方法で庭園に水を引いていたに違いありません。 -
シャーラマール庭園はムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妻ムムターズ・マハルに贈ったものですが、空中庭園も新バビロニア帝国の王、ネブカドネザル2世が望郷の念に悲しむ妻アミュティスの為に贈ったと言います。
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イチオシ
そんな空中庭園の向こうの小高い丘の上に、何やら厳つい宮殿が建っています。なんと故サダム・フセイン氏が残した宮殿の廃墟だとの事。彼は歴代の独裁者の例にもれず、自己顕示欲が相当強い人物だった様ですが、こうした独裁者は得てしてその国の英雄を自分に当てはめるのが通例です。
プーチンともロシアの昔の偉人を自分に例えたりしています。フセイン氏もこの空中庭園を見渡せる場所に自らの宮殿を築くと言う事は、現在のイラクをバビロンに例え、自分を空中庭園を築いたネブカドネザル2世になぞらせたのでしょう。
いや、もっと深い意味もあったのかもしれません。この王、空中庭園より更に歴史を揺るがす出来事を残しています。そう旧約聖書にもその名を轟かせるユダ王国の滅亡、そしてバビロンの捕囚です。それを知った時、ゾクリとしました。
バビロンの捕囚、即ちユダ王国を滅亡させたネブカドネザル2世に自分を重ねるサダム・フセイン氏。それを知ったならユダヤ人が反感を抱いたとしても不思議ではありません。
そして現在ユダヤ人はアメリカを動かすだけの力を有しています。
当初はクゥエートをイラクの侵攻から守る為の戦いが、やがてフセイン氏の排除が主目的へと変遷しました。
そして大量破壊兵器所持の嫌疑と言う、余りにも強引な侵攻、そして同士の殺害。その裏で蠢いていた思惑は…。
此処でポイント!
バビロンの補修を行ったのはサダム・フセイン
バビロンの捕囚を行ったのはネブカドネザル2世です。
此処テストに出ます。(嘘) -
只、この地で人類初の文明であるメソポタミア文明が興った事は、イラクの多くの人が誇りに思っている事です。それはイラクのビザにも冒頭にWelcome to Mesopotamiaと記されている事からも明白です。
バビロンは人類初の文明が興った地のメソポタミアの中で、人類最大の都市となった遺跡です。 -
さて、バビロニアと言えばハンムラビ王が有名です。ハンムラビ王と言えば
「目には目を!歯には歯を!」
と言う言葉(法律)が有名ですがこれ程勘違いされている言葉(法律)は無いと思います。 -
残虐な法律と捉える人が多いかもしれませんが本当にそうでしょうか?家々言え、私は違法性阻却事由でも無い限り、極めて妥当な判断だと思いますし、ハンムラビは人の習性と言うものをとても良く理解した人物だと褒め称えたいくらいです。
テロとの戦いによる先進国の過剰な報復攻撃、ネタによるパレスティナに於けるホロコースト。半沢直樹も同様、ネットの大バッシング…。人は時として怒りに我を忘れたり、政治家なら更にそれを悪用して、報復と称し10倍返ししてしまう習性があるのです。偽善者の掲げる正義と言う名の大義名分程厄介にして恐ろしいものは無いのです。
例なら幾らでも転がっていますが、野暮になるから止めましょう(笑) -
だからこそ「目には目を!歯には歯を!」
なのです。人の習性である過剰な報復を抑える為に編み出された法律であり、決して残酷な刑では無いのです。目をやられたなら、目以上を奪ってはいけませんよ!と言う意味なのです。
これ、先進国の権力者共には耳をかっぽじって聞いて欲しい。此処、テストに出るぞ!
あ!年末になってフジテレビが俄然面白い事になって来ましたね!テレビ持ってないけど(笑)
ホリエモン!
「目には目を!」
の時到来ですよ!
くたばれ!オールドメディア! -
バビロンに残るライオン像。当時は此処にもライオンは住んでいたそうです。ライオンが人を押し倒し伸し掛かっています。
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寺院に続く大通り。
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寺院跡。ここが寺院跡と言う事は、この寺院から続く先には神殿即ちジグラッドがあった筈であり、そのジグラッドこそバベルの塔なのでしょうか?
ならば建設者に問いたい。貴方のせいで私はクルアンを読む事が出来ません。イラクの人々とも自由にお喋り出来ません!貴方、何て事しでかしたんですか!
人間が神の領域に届く様な塔を築こうとした為、神が怒り、人の伝達能力を奪った為、それまで一つの言語で話していた人々は、多くの言語に分けられ、意思疎通が出来なくなったと言う伝説が残りました。
ノアの方舟を筆頭に、此処メソポタミア文明で生まれた神話の数々は、ネブカドネザル2世によるユダ王国の滅亡、そしてバビロンの捕囚と言うネガティブな接触ではあったものの、ユダヤ人に多大な影響を与え、それらの世界観は旧約聖書として編纂される事になります。
そしてその旧約聖書はユダヤ教に留まらず、キリスト教、そしてイスラームと言う世界的宗教を産んだ事で、今や世界中が共有する物語となっています。
今、その原点に立っていると思うと、ゾクリとする様な面持ちです。 -
寺院とジグラッドを繋ぐ大通りは神聖な道だけあって聖獣の姿が壁に数多く描かれていました。
え?
「解り辛いんじゃボケー!」
と言う声が聞こえてきました。合点招致! -
フォトショップいじってみました。ちょっとは解りやすくなったかと思います。(お願いだからもう突っ込まんどいて!)
細かくは忘れてしまいましたが、尾は〇〇で胴が△△で手足が□□で頭は××ってやつです。 -
セメントの代わりに使われたタールの跡が解りやすく残されています。
さてバビロン遺跡を巡りながら二人の重要人物が登場しました。しかし実はこの二人、同じバビロンと言う地では共通していますが、千年以上も時を隔てた、全く異なる帝国の人物なのです。
メソポタミア文明は他の文明とは異なり様々な文明が入れ代わり立ち代わり、そしてその範囲も広大なので、非常に覚えるのが厄介な文明です。(それだけに学び甲斐もある。)此処バビロンだけでも十分過ぎる程厄介なので、此処で超簡単に纏めておきます。 -
紀元前19世紀に第一王朝が建国され、紀元前18世紀にハンムラビ王が古代バビロニア帝国を興しました。しかし彼の息子の時代には衰退し,以降、アッシリア、カッシート、エラム人等の支配を受けます。
バビロニアが再び盛り返したのは紀元前609年、新バビロニア帝国が興ってからとなります。この時代にネブカドネザル2世の下、空中庭園やイシュタル門が築かれ、バビロンの捕囚が起こりました。
新バビロニア帝国崩壊後アケメネス朝ペルシャのキュロス2世が捕囚されていたユダヤ人を解放。ダレイオス1世がペルセポリスを築き、バビロンは冬の離宮となりました。クセルクセス1世の時、バビロンの反乱発生、同王がバビロンを攻撃。バビロンの栄華の時代は終わりを遂げます。
紀元前331年アレキサンダー大王の遠征、バビロンに入城、その足でアケメネス朝ペルシャはアレキサンダー大王により滅ぼされました。紀元前323年、中央アジア迄遠征したアレキサンダー大王は、此処バビロンにて死去。
その後セレコウス朝シリア、ササン朝ペルシャ等様々な勢力がこの地を征服しましたが、首都に選ばれる事は無く、時代と共に廃れ、8世紀イスラームがササン朝を撃破し此処へ到達した時には、バビロンは砂漠に埋もれつつあったと言います。
そしてサダム・フセイン氏の復元迄バビロンは砂漠の中で深い眠りにつくのです。 -
イチオシ
イシュタル門に戻って来ました。此処で起こったバビロンの捕囚は、やがてエルサレムに舞台を移し、そこから三つの宗教の壮大な物語と繋がっていきます。
バビロンを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャは、昔訪れたペルセポリスと対の宮殿となり、そのアケメネスペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王の遠征はヘレニズム文化をタキシラへ齎し、其処で仏教徒と出逢い。その結果仏像が生まれた事をパキスタンの旅で学びました。
更に彼の旅は東を目指し、半年前訪れたタジキスタンのホジャンドで其処が嘗てアレキサンドリア・エスハテと大王が名付けた街である事を知りました。そしてその帰り、彼は此処バビロンで永眠する事になるのです。
たった一つの遺跡を巡っただけなのに、あらゆる過去の旅とリンクし、そして更なる旅へと繋がっていくのでしょう?全く離れた旅先なのに、点と線が繋がっていく、そのリンクした瞬間が、私はゾクリとする程旅の醍醐味を感じます。
遺跡は空想を発展させる装置だと私は思います。今回の訪問でも様々な空想を働かせて楽しむ事が出来ました。 -
ユーフラテス川を渡ります。チグリス川と共にメソポタミア文明を育んだ大切な川です。この母なる川があったお陰で、メソポタミア文明のみならず、ユダヤ、キリスト教、イスラームが生まれたとさえ言えるかもしれません。
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いっぱい頭を使って空想して、足を使って歩き倒し、疲れた体にスープが染み入ります。
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ケバブです。大好物です。中央アジアではシシャリクと呼んでおりました。日本でケバブと言うとトルコ式が出てきます。
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カルバラーに到着しました。私は此処で大きなミスを犯していました。今回の旅、サーマッラーに気が行き過ぎて、ツアーと言う事もあって此処カルバラーと続くナジャフを甘く見過ぎていました。
幾つか聖地を訪れると言う事は知っていました。只、アラブ人の名前は同姓が多く、ツアーの行程を読んだ当初は数多くいる聖人の一人だろうぐらいに感じていました。(イスラーム好きを自称する者としては大失格です!)
旅をしないと脳が働かない私は現地に到着した休み時間に漸く検索を開始。翌日のナジャフ、そして今日訪れたカルバラーに眠る聖人、そして此処カルバラーで起こった悲劇の全貌を知り、余りの驚愕にスマホを落としてしまいました。
旅をする度に感じます。自分が如何に井の中の蛙かと言う事を。と同時に目前に広がる未知なる世界に驚愕し、狼狽えながらも、初めて触れた知識に打ち震える様な快感を感じる。そんな瞬間が私は好きだ。だから旅は良い。 -
昨年、私はサウジアラビアのアル・マディーナ(メディナ)を旅し、其処で預言者ムハンマドから4代続く正統カリフ時代を学びました。その四代目の座を巡って争った結果、ウマイヤ朝とシーア派が分裂するに至ります。
イスラーム史を大河ドラマとするならば、第一章が前回の旅。そして此処はその第二章の開幕の地と言って良い程の重要な場所だったのです。自分が何と言うおバカであるか思い知ると同時に、図らずしてちょうど一年を置いてイスラームの歴史に重要な場所に訪問する事が叶った事に「呼ばれた」様な感覚に陥りました。「しっかり学べ」と。
何はともあれ、そうと解った以上、襟を正して参拝しなければなりません。ゾクリと感じながらイマーム・フサインの霊廟に向かいます。
アル・マディーナ
https://4travel.jp/travelogue/11878255 -
ムハンマドの死後、イスラームをカリフと呼ばれる者達がイスラームを率いていきました。ムハンマドの近親の者達です。一代目のカリフにはムハンマドを一として三番目にムスリムとなったアブー・バクル。(ムハンマドの妻ハーディージャを入れると四番目)彼の死後その後を継いだのはウマル。このカリフの時、イスラームはビザンティン、サーサーン朝ペルシャを破り大躍進を遂げました。
そして続いた第三代ウスマン。彼の出自はウマイヤ家出身の男であり、ウマイヤ家は元々マッカに属し、元とは言えばメディナのムハンマドを迫害していた立場でしたが、いち早くムハンマド側、つまりイスラームに帰依した男でもありました。 -
アラブ社会や遊牧民社会の間では。この部族、或いは氏族と言う単位は現在でも国と言う単位より時に重要になる程根強いものがあり、中東や遊牧民社会を理解する事に欠かせない要素になってきます。
此処でもムハンマドが属したハーシム家とウスマンが属したウマイヤ家との確執は重要なポイントとなってきます。日本で言うなら源氏と平家に例えると理解しやすいと思いますし、これをそのまま源氏=スンニ派、平家=シーア派と捉えても良いと思います。 -
さてカリフの地位をウスマンが継いだ事によりパワーバランスがウマイヤ家に傾いたとも言えます。これは日本の鎌倉時代に例えるなら源氏の血統が三代で途絶え、その後を平家の血筋の北条が執権した様な体制になった様なものです。
いや、鎌倉幕府の場合は、源氏の血統が途絶えた事により、幾つかの衝突はあったものの、長引く事はありませんでした。しかしイスラームではムハンマドが所属したハーシム家と、マッカのウマイヤ家は両立していましたから、殊更厄介です。
ウスマンは文筆に長け、クルアンを編纂する功績はあったものの、ウマイヤ家を優遇し過ぎ、ハーシム家、その他勢力から大きな反発を受けました。
前回のアル・マディーナの旅で塹壕の戦いの戦跡を見学した際、其処には5つのお堂がありましたが、其処には三代目ウスマンの名だけがありません。同じく預言者のモスク界隈にも各カリフの名を冠したモスクが建ちますがウスマンのだけはありません。私はそれを大きな謎と書きましたが、どうやらこのウマイヤ家出身と言う事が影響しているのでは無いかと思われます。 -
そしてそのウマイヤ家出身の三代ウスマンが暗殺され亡くなった時、大きく事が動き出しました。今までその重要な位置にいた割にスルーされてきたかの様な男。ムハンマド夫婦の次にムスリムとなった男にして、ムハンマドと同じハーシム家出身、且つムハンマドの娘ファティマの夫であるアリー・ビン・アビ・タリブ。彼が満を持して四代目カリフに就任します。しかしそれに待ったをかけた人物がいました。
二代目カリフ・アブー・バクルの娘にしてムハンマドの未亡人アイーシャがウスマン暗殺の黒幕こそアリーだと宣言し彼に戦いを挑みました。これをアイーシャがラクダに乗って戦った事から駱駝の戦いと呼びますが、アリーはすんでのところでこれを撃退しました。 -
しかし一難去ってまた一難。今度はウマイヤ家のムアーウィアがシリアにて自分こそ正当カリフであるとして4代目カリフを自称する事となります。当然アリーと激突し、アリー優勢で事が運びますが、ウマイヤ家側の兵卒が槍先にクルアンを掲げ、クルアンによる裁定を求めた為、ムスリムはこれを攻撃出来ず、アリーは講和を受け入れざる得なくなりました。
しかしこれに納得がいかないアリー派の中の好戦的な一派がこの講和に強く反発、ハワリージュ派として分離するだけに留まらず、あろう事かアリーを暗殺してしまうのでした。 -
ある意味棚から牡丹餅と言う形になったウマイヤのムアーウイアは4代目正統カリフをそのまま継続しますが、これに対しアリーを支持していた者は当然これに反発します。
故アリーを初代イマーム、彼の子であるハッサンを二代目イマーム、その弟であるフサインを三代名イマームに掲げ、ウマイヤ家と真っ向から対立する事になるのです。この時こそがシーア派の誕生であり、シーア派はそれ以前のカリフを認めず、アリーの直系こそが正当と考えます。 -
その後ムアーウイアは、世襲はしない事を条件にアリーの息子ハッサンにカリフの座を諦めさせました。(その後ハッサンは亡くなりますが、ウマイヤ家による暗殺によるものとの見解が有力です。)
そんな中ウマイヤ家は講和条約を反故にして自分の息子ヤズィードに後を継がせます。(イスラーム初の世襲王朝ウマイヤ朝の誕生)
当然シーア派そしてアリーの子息であり3代目イマームのフセインは納得がいく筈ありません。しかしながらその時点でウマイヤ家とシーア派の間では軍事的に大き過ぎる程差がついていました。 -
イチオシ
こうした中大きな悲劇が此処カルバラーで起こりました。勝利者のウマイヤ家側から見ればカルバラーの戦いと言うことになりますが、ウマイヤ家が送った兵士3千人に対しフサインを護衛していた兵士は僅か72人。その結果は戦いと言うよりは虐殺に近いものでした。
ウマイヤ側はフサインが挙兵したと記していますが、人数から推測してフサイン側は戦いでは無く、講和など話し合いのつもりだったのでは無いでしょうか?然しながら結果として彼等は全員此処で命を落とし、人はこれをカルバラーの悲劇と呼びました。
シーア派ではこの悲しみ、彼等の痛みを忘れない為、ヒジュラ歴ムハッラム月の10日にアーシューラーと呼ばれる行事を行います。(刃物とか針とか使っている検索してはいけない。のページにも出てくる奇祭のひとつ。見るのは自己責任で)
余談となりますが、先に源氏と北条の逸話を例えに使いましたが、その北条氏の場合にも似た様な出来事が起こっています。新しく源氏に変わり執権の職に就いた北条氏にとって、古来から源氏に仕えた重鎮は目の上のたん瘤でした。だから梶原景時を始め、多くの古来の重鎮達が粛清されました。そんな重鎮のひとり、畠山重忠も嫌疑をかけられ一所懸命と鎌倉へ申し開きに向かう途中、北条氏にこれを謀反と捉えられ、現在の二俣川に於いて、虐殺に近い形で誅されました。
この戦いも北条氏から見れば反乱でしたが、畠山氏は一所懸命の心持ちでした。因みに当時の北条市の圧倒的武力差は「万騎が原」と言う相鉄線の駅名ともなっています。どの時代、その世界に於いても、権力争いはむごたらしく、みっともないものです。
更に余談ですが、畠山氏は名門だったので、お家断絶は逃れました。そしてその子孫が、来る源氏の政権、室町幕府の三管領畠山氏に繋がります。 -
イチオシ
ムハンマドの直系を殺害したこの事件は、スンニ派の中でも非難の声があがりました。ウマイヤ朝は東はインドから西はアフリカ、果てはイベリア半島も領有する程巨大な帝国に成長しましたが、一方アラブ人優勢な待遇はイスラームの平等の精神に反するとの反発が相次いだ事、そしてこのムハンマドの直系殺しへの反発等が度重なり弱体化そしてアッバース朝の時代へと変わっていきます。
アッバース朝は万民平等であった事からウマイヤ朝がアラブ帝国であったのに対し、真の意味でのイスラーム帝国に成長したとされています。さて、このアッバース朝を率いたアッバース家、出自を紐解いてみればハーシム家なのです。因果応と言うべきか?なんか歴史のカタルシスを感じます。
日本でも源氏が建てた鎌倉幕府を平家出身の北条が取り仕切っている事への反発が、源氏出身である足利室町への原動力になったと言う捉え方もあります。
スンニ派とシーア派の分裂。こうして眺めてみると、ウマイヤ家とハーシム家の戦いであり、そしてアル・マディーナとマッカの戦いであるとも言えます。 -
こう歴史を紐解いて見ると、世界の歴史は何処も同じ様な構図の下紡がれて来た事を実感します。その背景には、自らのお家、そして子孫の繁栄を願う切実な想いと、それ故に殺め合う醜さが同居しています。
かのカースト制度と言う愚かしい差別制度も、太古の昔、インドを統治したアーリア人が、自らの子孫の安泰を願うばかりに取り組めた制度が発端でした。
ある意味、人類の歴史を学ぶと言う事は、人の業の深さを思い知ると言う事なのかもしれません。
因みに余談となりますが、その後ハーシム家は近代に於いても歴史に翻弄され続けます。第一次大戦滅びる寸前のオスマン帝国を前にしてアラブは独立を目指します。そんな雄の中にハーシム家の面々もいました。そんな中そんなハーシム家に軍事顧問として登場したのがあのアラビアのロレンスです。
しかしロレンスは兎も角、その上司のイギリスが余りに糞過ぎました。ハーシム家に独立を約束させておきながら、ユダヤ人にも同じアラブ人のサウード家にも同じ様な約束をしていたのです。(これが俗に言う三枚舌外交)
結果上手い所は一枚上手だったサウード家に持っていかれてしまいました。これが現在のサウジアラビアです。ユダヤ人がどうなったかは一目瞭然、さていったいムハンマドの血を引くハーシム家はどうなってしまったのでしょう?
その答はヨルダン・ハシミテ王国となります。 -
さて話題をカルバラーに戻しましょう。カルバラーは先に述べたカルバラーの悲劇が起こった場所であり、シーア派目線で言えば、自分達がイマームとして崇める人物が虐殺された場所にもなります。
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此処にはカルバラーの悲劇の際、シーア派を率いた三代目イマームのフサイン・イブン・アリーが眠っています。フサインは先に述べた四代目カリフにしてシーア派では初代イマームのアリーとムハンマドの娘ファティマとの間の子供であり、二代目イマームハッサンの弟です。入り口のムカルナスと言い、その内装に圧倒されっぱなしです。
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この内部まではスマホでのみ撮影可ですが(カメラは預けなければいけない海外あるあるの謎仕様)霊廟のある部屋は撮影厳禁です。
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霊廟内は写真は厳禁ですが異教徒も入る事は出来ます。静かなどよめきと言いましょうか?ウーハーで重低音を響かせた様な…。大勢が静かに発した経文が、うねりの様に響き渡ると言おうか…。物凄い迫力を感じました。
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内部が美し過ぎて、始終首をグルグル動かして観察したせいで、モスクを出る頃にはビートたけしさんの様になってしまいました。
(決してコマネチはしていない!) -
それにしても…イスファハーン、アルハンブラ、美しいムカルナスはこれ迄見てきましたが、それらに勝るとも劣らない素晴らし過ぎるムカルナス。これがイラクにあっただなんて…。イスラーム好きはこれ見ずには死ねないわぁ…。
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イチオシ
世界に跨るイスラーム建築の多様性は、私を旅に導く大きな原動力となっています。
イスラーム建築は「イスラーム建築はこうあるべし!」的な高圧的な押し付けがましい部分がありません。(勿論最低限のルールはあります。)故にイスラーム建築は現地の環境や美意識と融合して、様々なスタイルのイスラーム建築が生まれました。
過酷な環境のサハラ砂漠では、ガルダイアやジェンネのモスクに代表される、実に独特な形状のモスクが建てられ、その独創的なスタイルは、ガウディを始め、ヨーロッパの建築家に大きなインスパイアを与えました。
ガルダイア
https://4travel.jp/travelogue/11780026
ジェンネ
https://4travel.jp/travelogue/11207385
中国では、まるで中華寺院の様な木造のモスク、東南アジアでは、高温多雨な気候に適応した、庇の長い三角屋根のモスクが建てられました。
西安
https://4travel.jp/travelogue/11769635
マラッカ
https://4travel.jp/travelogue/11784518
コンスタンティノープルを陥落させたオスマントルコはアヤ・ソフィアの芸術性を追い求めた結果、オスマン様式の独特なスタイルのモスクを編み出し、トルコを始め、バルカン半島等、旧オスマントルコ領で、それらのモスクを見る事が出来ます。
イスタンブール
https://4travel.jp/travelogue/11785215
インドでは、イスラームとインドの美意識が融合した結果、グラマラスな玉ねぎ状のドームが編み出され、それは本家アラビアに逆輸入され、今日では、イスラームのシンボル的存在となりました。
アグラー
https://4travel.jp/travelogue/11769594
此処イラクのシーア派モスクは、ペルシャ様式の青を基調とした緻密な装飾に特徴を持ちます。
エスファハーン
https://4travel.jp/travelogue/11784892
私は昨年、念願の預言者のモスクを訪れ、「見るべきものは、見た。」的なカタルシスを感じましたが、この霊廟を見て、あっさりそれを撤回せねばなりません。未だ見ぬイスラームの美意識は世界の何処で私を待ち受けているのでしょう?
「それを見つけずにして、私は死ねましぇ~ん!」
私が平知盛の様に「見るべきものは見た。」心境に到れるには、まだまだ旅が必要の様です。 -
そしてその対面にはもうひとつの霊廟、フサインの異母兄弟アル・アッバス廟が控えます。
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三代目イマームのフサインの異母兄弟であるアル・アッバスはカルバラーの悲劇の中最後まで兄に寄り添い兄を守り続けました。
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カルバラーの悲劇に散った二人の兄弟は、今も数多くの信者に囲まれながら、寄り添う様に眠っています。
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シーア派にとって、明日訪れる4代目カリフにしてシーア派の初代イマームであるアリーが眠るナジャフとカルバラーの悲劇が起こり三代目フサインと彼の異母兄弟アッバスが眠るカルバラーは、マッカ、アル・マディーナに次ぐ重要な聖地です。
(二代目ハッサンはアル・マディーナのアル・バキー墓地に眠っています。) -
さて、アル・アッバス廟を参拝しましょう。
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兄の霊廟となんら劣らない見事なムカルナスが出迎えてくれます。
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内装もまた、うっとりします。
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ギラギラしているのに、大勢の人がいるのに、何故か心落ち着くスペースなのです。とても不思議な事に感じます。他の宗教施設でこんな感情を抱いた事はありません。確かに静謐な日本寺院は心落ち着きますが、それは観光客とかいない状態での事。これだけざわついているのに、この霊廟にはそれを打ち消してしまう力がある様な気がするのです。私だけでしょうか?
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霊廟内を覗かせて頂きました。
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イチオシ
ムカルナスもそうですが、霊廟内の天井も圧倒されるんです。中に入るともう…。なんて言い表したら良いのでしょうか?(←語彙力)静謐なるどよめきもそうですが、相乗効果で宙に浮いてしまうかの様な錯覚に陥ります。
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さて、こうシーア派よりの目線でイスラームを考え、シーア派のモスクを訪れてしまうと、善悪に偏りが出てきてしまう恐れがあります。両者は共にイスラーム、全く同じクルアンを聖典とするムスリムに変わりはありません。
スンニ派はムハンマドの言行に重きを置き、シーア派はムハンマドの血筋に重きを置いたと言う違いです。北斗の拳風に表せば、二つの宗派はムハンマドへの愛故に袂を分けたと言っても良いのではないでしょうか? -
シーア派を国教とする国はイランのみですが、一方シーア派国内で多数を占める国は、アゼルバイジャン、バ-レーン、レバノン等結構多いです。イエメンや此処イラクでは両者の数が拮抗しています。
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イラクには、拮抗するスンニ派とシーア派の宗派間のいがみ合いに加え、更にクルド人との民族問題を抱えています。更に先に述べた、放牧民や中東では、国以上に氏族や属する宗教に重きを置く風習が根強い地でもあります。
そんな中で国を纏め上げていく事は非常に困難な事です。ですからこうした文化を持つ国を纏め上げるには強烈なカリスマ性を持つ男がそのカリスマでもって各氏族を統率する必要がありました。 -
イチオシ
歴史的にもジンギス・ハーンそしてティムール等強烈なカリスマ性を持った男達が出現しました。ある意味サダム・フセイン氏もまた、そんな男の一人だったのかもしれません。勿論強烈なカリスマを持つと言う事は強烈なアンチをも生むと言う事です。是非があって当然です。
例えそれであっても、イラクの人々が彼を判断するなら兎も角、他所の国が暴力を以てそれを裁くと言う事は、余りに野蛮な行為であり非難されて当然の行為です。 -
イスラーム文化や放牧民の文化は長い歴史の中で培ってきた彼らなりの政治があります。紀元前から共和制を取って来た国々とは全く違った環境で生きてきた者達です。
それを自分達の思想こそが正しいと暴力を以て他所の国の指導者を殺害する。その結果アフガニスタンはどうなりましたか?此処イラクはどうなりましたか?
環境が人類に与える影響は計り知れないものがあります。イスラームは豚を食べません。どうしてでしょう?
イスラームの母胎となったユダヤ教は、それ以上に反芻する動物しか食べません。反芻する動物とは、胃に一旦食物を貯め、それを口に戻し、再度噛む事で、他の動物が食べられない植物を食べる事を可能にした事で、生存競争を生き延びて来た動物です。
つまり、反芻動物と人間は食物に於いて競合する事が無いと言う事です。イスラームやユダヤは砂漠に生きる民。農業に適さない砂漠に於いて、食料事情は切実な問題です。美味であろうと、栄養価が高かろうと、飼育に人間と競合する食料が必要な家畜である豚を飼育する事はリスキーな事だったのです。
更に牛や羊は、荷役や皮革、毛、乳と食肉以外にも様々な用途で人類に貢献しますが、豚は食肉以外に用途がありません。つまり、砂漠や乾燥帯と言う食料に乏しい地域では、豚は飼育に適さない動物なのです。ユダヤやイスラームでは食料政策を宗教に組み込み、人々が地域に適さない家畜の飼育を制御していた事が解ります。
この様に、細かい事柄でさえ、その地域の環境は、その地域の宗教や政治、文化に影響を与え、彼等は長い年月を経て、その環境に適合する手段を編み出しました。それらを踏まえずその土地に介入し、自らが気に食わない事を唐突に排除したとしても、それが機能しない事は明白な理です。
(因みに現在のムスリム達は、そんな難しい事を考えて豚肉を食べない訳ではありません。先祖代々食べ無い食べものだから食べ無いのです。日本人が「貴方は何故犬を食べ無いのですか?」と聞かれたら「えぇ~?」ってな事となるでしょうが、それと一緒です。) -
中東から北アフリカに拡がるイスラーム圏の国々を見渡せば良く解ります。サウジアラビア、USE、ヨルダンにモロッコ…。下手に民主化した国より古来よりの王制を置く国の方がずっと安定した国の運営を行っています。
地域にはその地域で培ってきた歴史があり、文化があります。勿論政治だって同じなのです。それは他者に押し付けられるものではあってはなりません。互いに自立し、干渉せず、レスペクトを持つ。それが大人の付き合い方と言うものではありませんか?
民主主義、資本主義、反捕鯨、ヴィーガン?ポリコレ?は?はいはい解ったから、やりたいなら自分だけでおやりなさい!
欧米よ!早く大人になりなさい! -
イチオシ
アメリカは無実の罪で侵攻された上、更にアメリカの被害を被ったと言えます。シリア内紛の時、アメリカが見境なく現地の武装勢力に軍事援助した事がきっかけで急激に力をつけてしまった軍事組織、人呼んでISです。(アメリカは同様の手段でアフガニスタンではアルカイダを育ててしまいました。学べよ!)ISはアメリカ侵攻から復興に励むイラクに侵入し国の大半を占拠してしまいました。
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イラクがこれにどれだけの被害を被った事か?イラク政府は必死に抵抗し、2017年モースルに立て籠るISを掃討し、ISとの紛争に勝利しました。とは言えその残党は今もイラクに分散し、その脅威が消えた訳ではありません。
更にこれらの経緯は遠い我が国には正確に伝わらず、結果イラク=ISみたいな大きな勘違いも生まれてしまった事は本当に哀しいです。 -
でも、勇気を出してみて本当に良かったと思います。目の前に広がる風景は私が見た本物のイラクです。大勢の人が集まっています。子供連れも数多くいます。みんな平和そうです。
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確かに強烈なカリスマ、サダム・フセイン氏が去って、タカが外れてしまった結果、スンニ派とシーア派のぶつかり合いが激化し、此処を始めとしたシーア派のモスクが攻撃対象とされた事もありました。
しかし今、イラクは着々と復興に向けて努力しているのが犇々と伝わってきます。人心は豊かで外国から訪れた私を持て成してくれる余裕があります。本当にこの国が順調に復帰してくれる事を願って止みません。 -
これからシーア派の霊廟を幾つか訪れますが、これらの霊廟には幾つかの共通点とルールがあります。何処の霊廟も寺院前の大通り、即ち表参道の入り口から数回ボディチェックを受ける必要があります。先に述べた様にこれ迄数回スンニ派の攻撃対象となったからです。尚この辺りからスマホでの撮影を推奨します。
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何度かのボディチェックの後、いざ霊廟内に入る段階でカメラと靴を預ける必要があります。(バグダッドのアル・カディミヤ霊廟では煙草及びライターも預ける必要がありました。)これ以降もスマホでの撮影は大丈夫ですが、霊廟がある部屋だけは撮影は厳禁です。
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ホテルに戻ったのですが、ツアーには夕食がついていないので結局また食を求めて外出します。聖の隣には俗が寄り添ってあるもの。それが私の旅の経験則。ならもう一度夜も参拝しようと言う事でまた往き来た道を引き返しました。
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ボディチェックを受ける度に、ボルテージが上がっていきます。
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表参道の両脇には数々の商店が軒を連ねています。世界中旅してきましたが、この光景だけは宗教を問わず共通していると感じます。聖と俗は、決して相反するものでは無く、寄り添いあうものなのです。
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あれ?入り口間近迄きてしまいましたが、飲食店が見つかりません。
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う~ん、問題の飲食店は結局見当たりませんでした。まさか霊廟の周囲は飲食店がダメなのかなぁ?いや、そんな事はあり得ません。絶対に無い!(←自分に言い聞かせる)
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気を取り直していざ入場です。
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今回はカメラと靴を預けず外観のみの参拝にしました。
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イチオシ
何度見ても美しいムカルナスです。
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夜の二つの霊廟の連絡路を歩きました。動画は此方から
https://youtu.be/A1qLAyDpw3E?si=MIL6jagjk5CWrXSv -
夜が更けても参拝に訪れる人は一向に減らず、寧ろ増えた様に見受けます。子供連れも沢山います。
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前を向いても、振り返っても、黄金に輝く一つのドームと二つのミナレットが輝いています。
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アル・アッバス霊廟を通り過ぎてすぐ、やっと飲食店街を発見しました。
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此方のお店にお世話になります。話しかけられてもアラビア語は解りませんし、相手も英語が通じません。メニューを貰ってもアラビア語は読めませんしアラビア数字だから値段さえ解りません。偶像がダメなので写真もありません(←これは嘘たまたま写真が無かっただけ)
まぁこうしたお店でメニューに種類が豊富な訳がありません。要は鳥か牛か羊かって事です。…多分。 -
で…出てきたものは?お兄さん大正解です。羊のケバブです。大当たりです。本日も夕食はケバブです。美味しかった!
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大満足の一日でした。と言うより、紀元前の午前中、イスラーム創世記の午後と、余りにも歴史的重要な場面に遭遇し、ゾクリとしっぱなしでした。重要過ぎて、ついていくのがやっとです。しっかり学ぶ事は出来たかな?私。
そんなこんなで頭がグルグル状態の中、帰りはアジア人が珍しいのか前を歩いていた少女が何度も何度も振り返ってはガン見してくるのですが、その少女の可愛らしい事と言ったら、こっちも笑顔で手を振ったり、彼女に夢中になっている内に、曲がり角一つ間違えて~♪
危うく出川になりそうでした。
ヤバいよ!ヤバいよ!
余りの充実の一日に興奮し過ぎて、夜しか眠れそうにありません。
最後迄ご覧になってくださり、ありがとうございました。
そして、この一年、私の旅行記を応援してくれて本当にありがとうございます。
来年も宜しくお願いします。
良いお年を!そして来年も良い旅を!
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