2002/01/12 - 2002/01/13
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jijidarumaさん
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【2002.01.12.~13.懐かしの横浜:定年を前にかつて短い間横浜に住んだ事を思い、横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家などを見て回った】
1泊(土・日)して歩いた横浜は、もう馴染みのない異国の町のように思えて、ちょっと戸惑った小旅行でした。
この日以外にも、会社の仲間や夫婦で中華街に出かけたし、長女の結婚式で横浜のホテルを利用したこともあるが、デジカメを持っていない頃で、また、カメラ持参で様々な被写体を撮る習慣も無かったから、アルバムに旅行などの写真が少ないのだ。
たまたま、2003.12.14.~15.還暦祝いと退職祝を千葉・ホテル ザ・マンハッタンに1泊して、ホテルニューオオタニ幕張のレストランで御祝いを催した写真を見つけ、この年のアルバムを見ていたら、アルバムの初めの方に1年前に行った横浜の小旅行の写真に出くわした。
それで横浜の小旅行にドイツの赴任、帰国などの写真を付け加えて、私共の家族史の1頁にした。
写真は懐かしの横浜:横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家など。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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イチオシ
我が家の人形の一つにドイツ・ゴスラーで滞在したホテルで催されていた骨董市で購入した、年代物の人形がある。
横浜人形の家にどんな人形があるかと訪れたのだが、ゴスラーで購入した人形によく似た人形もあって、興味深いものだった。
<横浜人形の家>
〒231-0023 横浜市中区山下町 18番地
TEL:045-671-9361
開館時間 : 午前9時30分~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
当時の館長が、かの有名な旅行家・作家の兼高かおるさん(2019年1月5日、90歳で逝去)だったのは、この写真で思い出した。
写真は2002.01.12.~13.懐かしの横浜:横浜人形の家横浜人形の家 美術館・博物館
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イチオシ
天気の良い日で、写真も良く撮れているのが嬉しい。
写真は2002.01.12.~13.懐かしの横浜:横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家など氷川丸 名所・史跡
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<横浜 マンダリンホテル>
神奈川県横浜市中区野毛4-170
Tel:045-243-3131
3星・全128室。
日ノ出町駅から徒歩3分に位置し、野毛山公園に近い横浜マンダリンホテルに泊まったが、アルバムに貼られた冊子のみが残り、残念にも写真は全く無しで、これでは何の記憶も感慨も無い。
写真は2002.01.12.~13.懐かしの横浜:横浜マンダリンホテルに泊まった。横浜マンダリンホテル 宿・ホテル
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写真は2002.01.12.~13.懐かしの横浜:横浜マンダリンホテルの冊子
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さて、横浜というと、短い間の横浜生活(初めての社宅)の事が浮かんでくる。
1浪、1留して、まともな学生より2年遅く卒業し、1968年、総合商社に入社した。
入社試験は大学ごとのグループで、常識・英語だけでの試験があり、面接は無かったと思う。志望者は多かったが、同じ大学から10名が合格した。
元々、私は当時流行りのように希望者の多かった新聞記者志望の一人であったから、商社の試験はやさしかった。
この年の入社同期は80名ほどだった。
2年目の1969年9月、26歳で同郷・小中同窓の家内と、安かった大学の校友会館で結婚式をあげた。同期では早い結婚だった。
新婚旅行(9月24日~28日)は小田原、下呂、飛騨高山でした。
式前の8月には新婚生活をスタートしていた。青梅線の中神(なかがみ)駅から徒歩2,3分と近く、線路際に建っていた平屋のアパートは3室だけの小さな建物でした。部屋は真ん中の2号室、当時の立川飛行場の飛行機が発する騒音よりも電車の音の方が大きかったものでした。
新婚家庭を大学の格闘技の同期や後輩が訪れて、あまりに狭いのにビックリしていた。もっとも彼らの下宿よりはまだましのはずだったが・・・。
私が席を外した機会に、3期下の後輩で超まじめな男が家内に<あのコワイ先輩とよく結婚されましたね>と、真面目に聞いたそうだ。家内は返事に困ったという。
4.5畳と3畳の2間と台所、トイレは皆こぢんまりとした感じ・・・玄関を入ると、すぐ裏の家との境にある塀が見えた・・・、お風呂が無かった!から、近くの銭湯に歩いて行った。
そんなアパートだったが、確か月の家賃は1万円、ストライキもあった商社低賃金時代で、私の月給は4万円だった。家内の実家は青梅夜具地の機織り工場を営んでいたので、家内はその手伝いに行き、月1万円のお給料を頂いてきた。
青梅線の中神から立川に出て、中央線に乗り替え東京駅・大手町まで1時間半の通勤をしていた。学生時代は2時間の通学時間だったので、30分短くなったことを単純に喜んだものだ。
写真は昭和44(1969年)9月24日~28日:新婚旅行・高山飛騨路 -
その年の12月、青梅線路際の中神のアパートはひょんなことで、4ヶ月で引っ越しました。
たまたま会社の先輩がアメリカのLAに赴任することとなり、先輩の間借り先の後釜に紹介され、小金井の東京農工大近くにあった個人住宅の外階段付きの2階に間借りしたのです。
御主人の息子さん一家が居住できるように2世帯住宅の家でしたので、L字型に6畳2間、台所、トイレがあり、よくできた2階でした。それで1年7ヶ月間も、お世話になった。
この2階も風呂の設備はなく、小金井駅近くの銭湯まで歩いた覚えがあります。
この間に武蔵野日赤病院で長女が生まれていたから、寒い冬の頃は大変でした。
1971年7月、初めて社宅の抽選に当選!し、横浜市西区の浅間台(せんげんだい)社宅に入れたのでした。小金井の間借りは近々に結婚するという同期がまた私の後釜となった。
浅間台社宅は社宅としては小さいもので、入居した3階建ての2階201号室は6畳2間、台所とトイレ、それに風呂がありました。これはとても嬉しかった。
写真は1971年7月横浜・浅間台社宅・・・坂の上に見える浅間台社宅、近くの公園など遊ぶ長女浅間神社例大祭 祭り・イベント
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・・・がもう少し広い社宅の入居を望み、浅間台社宅も1971年12月、半年ほどで千葉県の松戸市・北小金にあった借り上げ社宅に引っ越してしまったから、短い間の横浜生活となった。
北小金社宅は4階建て(当時の建築基準では5階以上にはエレべ―ターの設置義務があった)の4階407号室に住みました。浅間台社宅よりも3倍の住人が居りましたが、総じて若い層で、私共の4期ぐらい上までの方々がおり、中には海外からの帰国者もおりました。
北小金社宅の部屋には6畳2間の和室、4.5畳の洋間、台所、トイレ、お風呂があった。
先輩から中古のカラーTVをもらい、今まで使用していた白黒TVは寮住まいの弟に下げ渡したものです。
次女がこの時期に生まれた。次女は青梅の実家近くの近藤医院で出産し、長女をその間、家内や私の実家に預けることになった。
1974年1月、ドイツに財経駐在員として赴任するまで、東京都下での間借り生活、横浜の社宅、松戸の社宅と、広さを求めて首都圏を転々としていた。
我が家の家財道具も少なく、身軽であったのだろう。
(つい引っ越しを数えてみたら、家族帯同で11回、単身生活で9回となり、国内海外での転居・引っ越しは総計20回であった)
写真は1971年7月横浜・浅間台社宅生活、休日は横浜港に遊びに行った。
1971年8月8日、青梅市市制20周年記念花火大会の日に合わせて、青梅の実家を訪れた写真(父と弟妹と共に家族で)も残る。 -
当時、海外派遣される者には通常、海外要員試験に合格することが求められた。
勿論、例外もあって、合格しなくても派遣されるケースもあった。同期でも営業の大手取引先の息子さんがコネで入社し、早々と米国に派遣されていた。
(私の前任者もそうであった。彼は某大手証券会社の社長さんの娘婿で、駐在地で重宝がられていたゴルフという特技を持っていた。その特技は様々な点で長所であった。個人的には面倒見の良い方で、私自身、大変世話になった)
商社に入ったからには、私も将来は海外に出てみたいと思った。
海外要員試験は年に春秋2度実施され、輸出、輸入、受渡、運輸保険、審査、財務、経理など、多岐に渡った実務に関したペーパー試験があり、200点満点で140点以上を(A)、120点以上139点までを(B)とされた。それに英検1級は(A)、2級は(B)の資格取得試験が課せられた。
合格者は(A)と(A)はもちろん、どちらか(A)と(B)でもOKでした。
入社4年目(29歳)を4月に迎える私もそろそろ頑張らねばと思い、海外要員試験を以下のように受験し、なんとか良き結果を得た。
1972年3月4日(土)に行われた第19回海外要員試験(ペーパー試験)を受験した。結果は142点で(A)ランクを取得した。
語学が苦手でしたが、何とかしようと、1972年7月16日(日)に松戸1中会場で実施された英検2級試験を受験した。幸いにも8月21日に合格書が届き、ホッとした。これで英検資格は(B)ランクを取ったので、合格ライン(A)と(B)に達したことになる。
1973年2月22日(木)9:15、人事担当常務の部屋に合格者3名が呼ばれ、常務より海外要員試験の合格証を授与された。その後、人事広報で合格者名が各フロアーに貼りだされた。
授与式に出席した3名は1965年入社食糧部1名、1968年入社経理部総合経理課の私、海外経理課にいた同期の2名でした。
資格を得たので、次の派遣にお呼びがかかると思った。それも3期上の先輩がマニラ支店に財経駐在員として派遣される内示が出たが、健康診断で肺に影が見えたという事で、急きょ私が代役に指名された。パスポート取得などに手続きしようと慌てたのだが、別の病院で先輩が再検すると、胸の影は無かった。それで話は元に戻った。
その事があって、次は私だと確信した。
財経駐在員派遣者リストを見ると、アメリカのLA、ドイツのハンブルクの方々が帰国時期に達しているように思った。どちらかになると予想していたが、ハンブルク支店が減員1名、デュッセルドルフ本社が増員1名という事があって、私がその増員に指名された。
1973年10月4日(木)、総括室長(経理本部内の人事を担当)に呼ばれ、ドイツのデュッセルドルフ本社派遣についての内示を受けた。
10月20日頃に辞令をだし、11月末には出発する予定だからと言われた。
10月29日(月)、経理部長よりドイツのデュッセルドルフ本社に異動する辞令を受けた。
翌日から、あれよあれという感じで、渡航準備に入った。
まずは海外人事課、渡航課、渋谷の日赤病院で健康診断、渡航用の写真、抄本、住民票の用意、ドイツのビザを申請、日赤にて再検(尿酸値、血圧140-96と高め・・・総括室長から注意あり)を受ける。
海外経理課にてドイツ社について研修を受ける。
休日に、五日市の母方の叔父、叔母にドイツ駐在の事を報告、11月から12月にかけて社内、友人たちの送別会多し。
写真は1972年(昭和47年)3月29日松戸市・北小金の社宅の洋間で遊ぶ長女 -
イチオシ
1974年1月19日、ドイツに赴任。
ドイツ赴任のこの日は当然ながら朝から大忙しでバタバタした。
電車で有楽町まで行き、早めの夕食を読売会館B1Fにあった中国料理「小洞天」で両親姉弟妹と共に食べた。何を両親などと話したのか、初の海外、飛行機に乗るのも初めて!だったから、緊張していた覚えだけがあって、会話の内容が頭に残っていない。この店はいまだに健在である。
当時、成田空港は無く、海外赴任は羽田空港を利用していた。
赴任・帰国便は家族も含めて、ビジネスクラスを利用できた。私は初めての搭乗手続きでファーストクラスのカウンターを使ってしまった。カウンターのJalの女性はにこやかに手続きをしてくれた。ファーストクラスのお客はそういたわけでもないだろうが、カウンター前は誰もいなかったので、あがっていた私はファーストクラスの案内板が目に入っていなかったようだ。
羽田空港では会社の上司、同僚、学生時代の友人、家族・親族が万歳三唱!で見送ってくれた。何時までそうした事をしていたのか?自分が先輩、同期、後輩などを見送る時もあったが、もう覚えていない。
ともあれ、かつての海外駐在者を見送るのに万歳三唱!がつきものだった。
そんな時代でもあった。
家内の家族、親族は数も多く、バスを1台調達して羽田空港まで来たと、後で聞かされた。「東京は西の果て」、青梅の人々には一大事であったかもしれない。
赴任したら、親の病気、葬式(私の場合も第1回目の駐在中に義父が亡くなった)を理由に、誰も帰国しなかったから、まさに一大事であった。
自費帰国は高額だし、それ以上に業務上でも一番若い新人にとっては仕事を抜けるのは難しいことだった。
1974年1月19日ドイツ赴任:
羽田 JAL411・LV21:50 =>1月20日 コペンハーゲン AR05:55、LH13・LV15:00 =>Düsseldorf =>AR16:10、
写真は1974年1月19日、ドイツに赴任する日、青梅市の実家の前で一家4人で写真を撮った。30歳の私の髪は真っ黒である。 -
大学の格闘技の部は海外志向が強かったようです。
私がドイツ・デュッセルドルフに駐在中に、チューリッヒ(電気)、デュッセルドルフ(総合商社)、ロンドン(総合商社)、パリ(証券)、ニューヨーク(航空)などの各地に後輩たちが赴任するようになった。
ミュンヘンとザルツブルクの中間にあった観光地、プリーン・ゲーテ語学校時代の写真がある。
体力派の私(大学の教養課程のドイツ語は可、可だった)は一番下のコースを選び、2ヶ月間のドイツ語を学んだ。その勉強は、実際の実務に入ると全く歯が立たず、外部からの電話をとるのが恐怖であった。大学生の家庭教師をお願いしつつ、何とか格好がつくまで3年を要した。
もっとも、財経駐在員の先輩方はその職制上、公的文書や公認会計士が作成する正式決算書もすべて独文だから、これを理解せざるを得ない立場にあった。従い、通常4~6ヶ月間、ゲーテ学校で学んだらしい。
背景はわからないものの、私の場合は「業務引継ぎを早め、前任者を早く帰国させよ」といった本社指示があったので、私は2ヶ月と短く、割を食ったことになる。
写真は1974.02.02.~03.29.Prienプリーン・ゲーテ語学校時代:授業中のクラスメートたち ・・・医者志望のチェコ人、ホテル業務志望のタイ人、皆さんとても真剣でしたが、私は眠そうにしている。 -
1974年7月11日、家族呼び寄せ:
羽田JAL405・LV22:30 =>7月12日 コペンハーゲンAR06:55、SK611・LV09:45=>デュッセルドルフAR11:00。
1974年7月11日、家内と娘たちは母や兄弟姉妹、親族の見送りを受けて羽田を出発した。
娘達は母達と別れるのを嫌がり、搭乗する時間が迫るも駄々をこねたという。
家内も生まれて初めての飛行機に乗り、4歳と2歳の小さな娘2人を連れて、重い重いお土産(採りたての新鮮な野菜など)を持参した。
コペンハーゲン空港まで迎えに来てくれたら良かったのにと、あとあとまで家内に言われてしまった。新人だけに、「チョッとコペンまで出迎えに行きたいのですが」とは言い出せなかったのだ。
この時の次女(1歳半)は、赴任後6ヶ月弱で家族呼び寄せが許可され、1974年7月12日、デュッセルドルフ空港に家族を出迎えたら、私の顔を忘れていて、大泣きされてしまった。
写真は1974.07.11.家族ドイツ呼び寄せ、羽田空港。
1974.08.31.免許のない時期で、近郊のWildparkビルドパークにお出かけした。 -
ドイツで設営したのは、デュッセルドルフの南のビルク地域でした。日本の化学メーカーの駐在員の方が住んでいたのを日本人倶楽部の張り紙で見つけて、此処を選んだ。
殆ど日本人が住んでいない地域でしたが、むしろその方が良かったでしょう。
3階建ての3階にはデュッセルドルフ大学(後にフライブルク大学の教授)の講師の方と家内と同じ年の奥様と二人が住んでました。2階に私共家族が住み、1階にC&Aという企業にお勤めの一家(奥様と子供3人)が住んでいました。皆さんはとても親切で、ドイツ生活の初めにあたって、種々教えて頂きました。
私共の2階は寝室が3つ、暖炉付きの大きな居間とちょっとしたベランダ、浴室とトイレ、玄関の小間、大きな台所と食料の保管庫、地下には広い倉庫もありました。日本の社宅からやってきた私共には、誠に恵まれたものでした。
写真は1974.06.21.Düsseldorf・Planetenstrasseプラネテン通りに住居を設営した。1974.09.01.ケルンの大聖堂をバックに、隣町のヴッパータルの動物園に娘達と行った時、自宅近くには広大な公園がある(4歳と2歳の娘たち) -
1978年11月1日にDüsseldorf・オーバーカッセルのライン川沿いのKaiser-Friedrich-Ringに引っ越しした。
既におよそ5年の駐在期間が過ぎたが、帰国の内示が無かった。
娘達二人の日本人学校への通学を考慮し、学校のあるオーバーカッセル地区に転居先を見つけた。
ところが、この年のクリスマスカードで、赴任時の上司に帰国意向を伝えた所、なんと翌年正月早々に帰国のありがたい内示が出た。
写真は1979.02.02.転居(引越しの手伝い)でお世話になったドイツ語の家庭教師(デュッセルドルフ大学生)Herr Rufルーフとその友人のHerr Ottoオットーさん達を夕食に招いた。食後の一時をシュークリーム(Windbeutel mit Creme)を提供して好評だった。 -
1979年6月15日朝9時、デュッセルドルフ市内、Hofgartenホーフガルテン傍の信号で事故は起こりました。帰国の辞令も既に出ていて、帰国する8月11日の2ヶ月前のことでした。ハインリッヒ・ハイネ・アレーの道を右手に切れる信号前に数台が停まり、信号が変わるのを待っていたのですが、最後尾の私のOpel Rekord L 2000CC Automatikオペル レコルド オートマチック(D-EP534)にドイツ人(鉄鋼卸商の営業マン)の大きなアウディ車が突っ込んできました。
走ってくる車がミラー越しに見えたので、ハンドルに力を入れ、防御姿勢を取りました。ベルトもしていたので、衝撃で前に飛び出る事もありませんでしたが、さすがの衝撃でブレーキペダルから足が外れ、前のルノー車に玉つきをしてしまいました。私のオペル車は追突の衝撃でトランクがヘシャゲテ、後輪に食い込んでしまい、もう車は動く事も出来ません。全損・オシャカになってしまいました。
ハイネ・アレーの道は市電も通る町の中心にも近い道でオーバーカッセル地区から通勤している何人かの日本人が電車内にもいて、窓からのぞいていました。無残な車にビックリされた事でしょう。朝の格好の話題を提供してしまったようです。
この日朝早く、デュッセルドルフ空港に会社の帰国家族を見送ってから、私の家族を家におろし、それからの出勤途上でした。
この朝は小雨で道路が濡れていました。アウディ車は殆どブレーキを踏む間もなく、突っ込んできた様子で、前方不注意は明らかでした。私が玉突きしたのはフランスの副領事(ご年配の女性)の車でした。事故を見ていたタクシーが警察に連絡し、あっという間に警察車両が来て、交通規制を行い、状況を調べ始めます。三者とも目に見えた怪我もなく、元気に見えたのは幸いでした。
追突、玉突きした当事者は皆緊張したまま、名刺のやり取りを行い、自動車保険の会社・番号などを提示し、相互に確認したのです。私の車は個人用でしたが、仏独ともに領事館・会社の車であったので、弁護士の交渉もやりやすかったようです。約10万km走ったオペル車は全損になりましたが、私の方は幸いにも首の鞭打ち程度で、それも軽微に済みました。ほんとに不幸中の幸いでした。
今、当時のアルバムにある写真・オフィスで首輪をつけた自分の姿を見ると、やはり珍妙な格好で仕事をこなしている。
事故処理は私が帰国してからも続き、1980年3月26日の手紙が最後で決着した。
最終決定の保険求償、慰謝料などの合計額DM7,640(約80万円)は満足のいくものだった。
私にとっては10万km走ったオペルの捨て値ともなる車代が、追突事故に巻き込まれたお蔭で、事故というマイナスも十分に補うものだったと言えた。
しかも、ドイツの労災の適用も認められたのです。
帰国を1ヶ月後に控え、土産の購入にKönigsallee(王様の小道)通称ケーに行った。当時のデュッセルドルフのケーの通りは美しかった。
写真は1979.07.07.DüsseldorfデュッセルドルフのKönigsalleeケーにて -
1979年8月10日 日本帰国 :
Düsseldorf JAL432・LV10:50 =>8月11日成田 AR15:20、
初めての成田空港(開港は1978年5月20日)に降りたった。
青梅から成田空港は遠かったが、ありがたいことに父母達の出迎えを受けた。
5年7ヶ月ぶりの日本は懐かしく、親族と久々に会えて嬉しかった。
この間、甥や姪も増えた。
8月13日(月)東京本社に出社し、担当専務、本部長等に御挨拶し、関係者にお土産を贈った。
所が大いに焦ったのは、ドイツから日本に向かう飛行機が飛んでいる間に、私の所属が帰国の配慮をしてくれた出身部隊の経理本部から、財務本部の財務部資金課になっていた。
ドイツ経験者の取締役財務本部長がいわゆるドイツ派の若手がいないから、引っ張ったと聞いた。成田空港に出迎えてくれた後輩に知らされて、びっくり。
全く存じ上げない財務部の幹部や配属された資金課の皆さんに何を贈ったらよいか、頭が痛かったが、日曜日1日、大わらわで決めた。ともあれ、お土産の数が増えたから、自分用のものから振り替えることとなってしまった。
出社翌日から22日まで休暇を取り、14日青梅の実家に帰国挨拶、航空貨物便、第一次船便受け取り、青梅の親戚の倉庫に預けておいた家具の引き取り、娘達の地元小学校の手続き、日本の運転免許に切り替え申請、
23日(木)出社し、人事で旅費精算、定期券、健康保険証、給与仮払いを受ける。
ドイツへ挨拶状送付、地元の銀行に口座開設、マツダのカペラ購入、第二次船便到着、日本の関係者に帰国挨拶状送付、様々な帰国歓迎会などなど、いろいろと一気に片付けねばならない事も多かった。
娘達は9月1日(土)から登校開始。
この夏は千葉県柏市の北柏にあった社宅生活(A-103号)から始まった。
写真は1979.08.11.ドイツ・デュッセルドルフ駐在から、初めての成田空港(開港は1978年5月20日)に帰国し、父母達の出迎えを受けた。 -
帰国後、財務部資金課に慣れて、東京本社の資金繰りを担当、その後、銀行折衝もやり、仕事も面白かったのだが、丁度2年経った頃、またドイツ駐在の話が出た。
現地法人の社長はドイツ経験が無い方で、彼から海外担当副社長に駐在期間も数年経過して、帰国待ちの先輩(8期上の)の後任として、ドイツ経験者である私の名前が上申されたという。<副社長の御声がかりだから、断れんよ!>”と上司にアドバイスされ、承諾したのでした。
ただ、この時は生意気にも翌春には中学生になる長女の高校受験もあり、受験時期に合わせた3年3ヶ月の駐在期間の約束手形(駐在期間明示証)をもらった。
1982年2月26日、ドイツに赴任した。
1982年2月26日ドイツ再赴任:
成田 JAL403・LV21:30 =>2月27日 AMS AR06:15、HN(KLM Cityhopper)423・LV10:20 =>Düsseldorf AR11:20
(赴任の際、コペンハーゲン若しくはハンブルク経由でない違うルートを選んだ。アムステルダム・スキポール空港経由で珍しいプロペラ機(KLM Cityhopper :低空飛行ゆえ、眼下のオランダの野原が見える)に搭乗したいと思ったからだ。
所が、JALからHN(KLM Cityhopper)に乗る際に荷物が自動的に積まれず、改めてカウンターで再度手続きが必要との事で、時間がかかってしまった。先の便HN421・LV07:55に乗れず、次の便になってしまった。赴任初日から出迎えの社長さんたちに迷惑をかけてしまったのだ)
家族は1ヶ月後の3月27日にドイツに到着し、飛行場にも近い、設営済みのDüsseldorf・Unterrathウンターラートの住居でドイツ生活を開始した。
1982年3月26日家族呼び寄せ:
成田 JAL403・LV21:30 =>3月27日 AMS AR06:15、HN(KLM Cityhopper)421・LV07:55 =>Düsseldorf AR08:45
ともあれ、日本に帰国して新居を購入したのが1980年12月でしたから、1年ちょっとで家をそのままにして、ドイツに赴任したわけだ。
写真は1982.04.04.第二回のDüsseldorf 市内で -
慣れたドイツは最初の1年にトラブルが発生して、その対応で多忙に過ごした。
余裕の出た2年目から帰国まで、娘達も大きくなったので、ドイツや周辺国の旅に好んで出かけた。
写真は1983年4月1日~4日、東西分離時代のベルリン旅行 :ブランデンブルク門などで -
写真は1985.01.05.家族が帰国するので送別会をして頂いた。お世話になったFrau Van de Straatファン・デ・シュトラートさん(オランダ系ドイツ人と思われた彼女はヘビースモーカーでした)の御招待(16時~21時)。
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写真は1985.01.05.お世話になったFrau Van de Straatファン・デ・シュトラートさんの御自宅はきれいにされていた。娘達はとても興味深かった様子だった。
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写真は1985.01.10.家族が帰国するので送別会をして頂いた。お世話になったFrau Janssenヤンセンさんご夫妻にも御招待(19時~23時:オイル フォンデユ)されたが、御客を迎える、ドイツ人の家は実に美しい。
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写真は1985.01.15.家内の帰国前に、旧市街「Tante Annaアンナ小母さんのワインハウス」で夕食会、たいへんお世話になった皆さんを御招待(18時45分~21時半)したのだ。
<Weinhaus Tante Annaワインハウス・タンテ・アンナ>
デュッセルドルフの旧市街にある、この店は20世紀初め、人気者の女将に因んで、名前を“アンナ小母さんのワインハウス”としたそうだ。
古くは1593年、イエズス会修道院の礼拝堂として、建造されたと云う。
店内には1000年の歴史を感じさせる黒く古びた花崗岩の柱がみられ、300年の年月を経たアンティークの家具で飾られた、落ち着いた雰囲気をもつ家庭的料理とワインの店です。
店内は17世紀初頭のニュールンベルグ風タイル張りに飾られた立派な暖炉の前の特等席でした。
どっしりした樫の木製のテーブルに座り、辺りを眺めると金の飾りのある格天井、真鍮の大きな飾り皿、古い大砲、巨大な乗馬靴、鎧の胸当て、黒ずんでしまった連帯旗等、ユニークで、統一性の無い品々が並び、この部屋を古き時代に誘うように飾られている。
1985年1月19日 家族は長女の高校受験の準備の為、早期に日本帰国:
Düsseldorf AF763・LV09:10 =>Paris AR10:15、AF270・LV12:20
=>1月20日 成田 AR10:30、 -
1985年5月31日 日本帰国 :
Düsseldorf AF763・LV09:10 =>Paris
AR10:15、AF274・LV12:20 =>6月1日 成田 AR14:10、
写真は1985.05.31.AFでパリ経由で日本に帰国。デュッセルドルフ空港で皆さんの見送りを受けた。
もうドイツには来れないかと思っていたが、定年退職後、始めたのは「ドイツ感傷旅行」と称した旅だった。 -
それから何十年後、久しぶりになる2015年11月26日(木)にホテルニューグランドに1泊し、翌日、かつての浅間台社宅跡を訪ねてみた。
<横浜:ホテルニューグランド>
〒231-8520 神奈川県横浜市中区山下町10番地
元町中華街駅 1番出口から徒歩で約1分。JR石川町駅から徒歩で約15分。
TEL : 045-681-1841(代)
タワー館プレミアみなとみらいビューツイン(禁煙)
朝食付21,600円(サービス料、消費税込み)
参考写真はHotel New Grand Yokohamaの外観(2009年)ホテルニューグランド 宿・ホテル
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2015年11月26日(木)にホテルニューグランドに1泊し、
小・中学校時代の友人Mさんと会食した。
*パノラミックレストラン【ル・ノルマンディ】
オータムフェア フレンチディナーコース
期 間:2015年11月1日(日)~12月11日(金)
時 間:17:30~21:00(L.O. 20:00)
【 Menu -¥11,340- 】
・アミューズ
・野菜と一緒にノワール・ド・ビゴールの生ハムとイカのポワレ
・キャベツとポワローのキッシュ、フォワグラ添え、ソースペリグー
・お薦めの魚料理 シェフスタイル 又は
食いしん坊の一皿、ニ種類のビーフ盛り合わせ
・林檎のタルト、バニラアイス添え
・コーヒーと小菓子
写真は11月26日(木)にホテルニューグランド:パノラミックレストラン【ル・ノルマンディ】でMさんと御一緒した夕食 -
因みにMさんは現在横浜在住である。
私共のドイツ駐在に少し先行して、20代後半にご主人に合流するべくアメリカに渡った。ご主人はアメリカ・サンディエゴに工場があった日本の大手電機メーカーの駐在員でした。
若い当時はドイツとアメリカで手紙のやり取りをしていたが、お互いの異動が続くうちに音信が途絶えていた。その後もNY勤務となった御主人と共にアメリカ生活も長い。残念なことに、そのご主人も数年前に亡くなられてしまった。
写真は2015年11月27日(金)ホテルニューグランド:ホテルから見る港の朝景色 -
Mさんから聞いて驚いた昔話:
1)我が家の隣にMさんの叔母さん宅があった。彼女の小さい頃、Mさんの母上とよく叔母さん宅にお邪魔したことがあり、その際、母上は私の母とも知り合ったと云う。
Mさんが長じてからの事だが、母上が『その頃、あなたと同じ年のjijidarumaさんに乳を飲ませたことがあるよ』とおっしゃったと云う。
Mさんは何となく恥ずかしくて、今まで内緒にしていたと言われた。
(じゃー私とMさんは乳兄妹になるわけか・・・と笑った)
2)Mさんの母上は私の父の小学校時代の教え子であったと言う。
父は師範学校を出て、そこの小学校に新米教師で赴任し、昭和5年から14年まで長い期間を勤めたから、Mさんの母上の姉妹、親戚の子供たちも皆、父の教え子になるらしい。
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写真は2015年11月27日(金)ホテルニューグランド:ホテルから見る横浜マリンタワーの景色横浜マリンタワー 名所・史跡
-
翌11月27日(金)は、良い機会なので、その昔、お世話になった横浜・西区の浅間台にあった社宅跡を見に行きました。
社宅跡や周辺も昔の面影は少しも見出せませんでしたが、唯一港の方向に社宅から毎日見ていた東京ガスの丸い大きなガス棟を見つけることが出来ました。
社宅跡は今は立派な個人住宅地になっていた。
写真は横浜市西区浅間台・20代の頃、初めての社宅が横浜の西口にありました。 -
会社が社宅制度の充実よりも、社員の住宅取得推進策に転換した為、社宅跡は不動産業者に住宅用地に売却したのだ。
写真は横浜市西区浅間台・この周辺も様変わりしてしまった。 -
浅間台の社宅から、横浜駅西口までは、写真に見るような急勾配の石段や坂を下りていき、ラッシュの電車に乗って東京まで通勤していた。
従い、帰り道は、登りなのでさらにキツイ、夏場は汗びっしょりで帰宅となった。
家に風呂があることの有難味を大いに感じたものだ。
写真は横浜市西区浅間台・この急坂を上り下りするのは大変でした。 -
急坂と言えば、乳母車に乗っていた長女がこの坂で落ちて、家内は大慌てで、近所の家に飛び込み「お砂糖」を少々分けて頂き、長女の膨れたあたりに「つばで砂糖を溶かして塗り付けた」(子供たちが小さい頃、遊んでいてよくたん瘤を作りましたが、この緊急処置はよく効いた)という。
幸い脹れも引き、大事にならずホッとしたそうです。
写真は横浜市西区浅間台・乳母車に乗っていた長女がこの坂で落ちて、家内は大慌て。
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以上、横浜がらみの小旅行にドイツ往復の話など、我が家の年表を片手に
思い出しつつ、小史を書いてみた。
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