両国旅行記(ブログ) 一覧に戻る
毎年末、この時期なると必ずと言っていいほど取り上げられる「忠臣蔵」ですが、最近は時代の流れかもしれませんが、昔に比べそのニュースや歌舞伎などで、取り上げられる頻度が少なくなったような気がします。たまたま、テレビのリモコンの電源ボタンを押したところ、高輪の「泉岳寺」で行われている「赤穂義士」の「義士祭」の模様がテレビで放映されていました。それを見て、「泉岳寺」までの「赤穂義士」が歩いた道とゆかりの地、せっかく巡るからにはその周辺の名所・旧跡も合わせて訪ねてみることにしました。<br />吉良邸へ討ち入り後の引き上げルートは、「泉岳寺」にある「赤穂義士資料館」の資料によると<br />「回向院前 」⇒「一ツ目河岸」⇒「 深川」⇒「御船蔵通り」⇒「永代橋」⇒「 霊岸島」⇒「稲荷橋 」⇒ 「鉄砲州」⇒「木挽町」⇒「汐留橋」⇒「金杉橋」⇒「芝口」⇒「高輪泉岳寺」<br />となります。このルートに沿って「赤穂義士」の足跡を辿ってみました。「赤穂義士」は、「両国」から「泉岳寺」まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩きました。それも戦支度の鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったといわれています。「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。わずか11kmの道のりですが、事前にネット等で「赤穂義士」に関する情報を調べたところ、色々な発見がありました。とてもではありませんが、一日では回ることはできないので、地域をいくつかに分けてリポートしていきたいと思います。第1回目は、泉岳寺への義の道のりの出発点である「吉良邸」のある両国界隈を中心に回りました。また、墨田区は意外と歴史的な名所・旧跡の高札も多いので合わせて回ってみました。<br /><br />《両国付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡<br />①「芥川龍之介生育の地」⇒②「本所松坂町跡石碑」⇒③「芥川龍之介文学碑」⇒④★「吉良邸跡(本所松坂町公園)」⇒⑤★「飯澄稲荷」⇒⑥★「吉良邸正門跡」⇒⑦「本因坊屋敷跡」⇒⑧★「前原伊助宅跡」⇒⑨★「吉良邸裏門跡」⇒⑩「江東義塾跡」⇒⑪「尺振八の共立学舎跡」⇒⑫「勝海舟生誕の地記念碑」(両国公園)⇒⑬「小林一茶旧居跡」⇒⑭「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」⇒⑮★「二之橋」⇒⑯★「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)⇒⑰「江島杉山神社」⇒⑱★「一之橋」⇒⑲★「討ち入りそば跡」⇒⑳「元町跡」⇒?「与兵衛鮨発祥の地」⇒?★「赤穂浪士休息の地」⇒?「旧両国橋・広小路跡」⇒?「石尊垢離場跡」⇒?「片葉の葦」⇒?「駒留橋跡」⇒?「藤代町跡」⇒?★「大高源吾句碑」⇒?★「両国橋」⇒?★「回向院」<br /><br />当日は、自宅から電車を乗り継ぎJR総武本線「両国駅」に降り立ちました。JR総武本線「両国駅」の東口改札を出ると斜め右手に、両国らしく、また、ワクワクさせるような「横綱横丁」の看板のあるゲートがあります。「横綱横丁」をくぐり、150mほど進むと「国道14号線」(京葉道路)に突き当たります。その手前の左側に「芥川龍之介生育の地」の碑があります。<br /><br />《「芥川龍之介生育の地」の説明板》<br />「芥川龍之介」は、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、現在の中央区明石町である東京市京橋区入船町8丁目1番地に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む「新原敏三」と「ふく」の長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので「龍之介」と命名されたと言われます。生後7ヶ月で生母「ふく」の病のため、当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄、「芥川道章」に引き取られ、その後13歳の時、芥川家の養子となりました。明治43年(1910年)に19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、「芥川龍之介生育の地」として、「芥川龍之介」の作家人生に大きな影響を与えました。「芥川龍之介」は、大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して「夏目漱石」に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」、「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」の死後の昭和10年(1935年)に、当時文芸春秋社長であった「菊池寛」が、亡友「芥川龍之介」の名を記念し文学の発展をねらい「芥川龍之介賞」を創設したのは有名な話です。また、「芥川龍之介生誕の地」である東京都中央区明石町10-11(聖路加国際大学付近)には、「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。「聖ルカ通り」から「聖路加国際大学」を回り込むようにして進むと、「聖ルカ礼拝堂」の手前の歩道の右側にあります。これも何かの縁かもしれませんが、赤穂藩の上屋敷であった場所に「浅野家内匠頭邸跡」の碑も建立されていました。<br /><br />《「本所松坂町跡石碑」》<br />「芥川龍之介生誕の地」から見て、「国道14号線」(京葉道路)の反対側の斜め右手にある石碑が「本所松坂町跡石碑」です。右側には歩道橋そして左側には横断歩道があります。足に自信のある方は、歩道橋を使った方が速く行くことができますが、私は横断歩道を渡りました。「芥川龍之介生誕の地」から徒歩3分170mほどのところにあります。「本所松坂町跡石碑」は、昭和7年(1932年)に建立されました。現在の設置場所の町名は、「両国」でこれは昭和4年(1929年)に行われた区画整理による町名の変更によるものです。「本所松坂町公園」などの地名は残っていますが、「松坂町」の名が消えてしまうのを惜しまれて建てられたそうです。赤穂浪士の討ち入りで一躍脚光を浴びた「本所松坂町」の名がなくなってしまうのは寂しいものですよね。しかし、それを「本所松坂町跡石碑」に残した人々の努力と地元への相は相当なものだったでしょうね。<br /><br />《「芥川龍之介文学碑」》<br />「本所松坂町跡石碑」から先ほどの横断歩道まで戻ると角に「八百屋」(マートヤオケン)があります。そこを右折し70mほど進むと、右手に「墨田区立両国小学校」があり、その角の植え込みに「芥川龍之介文学碑」があります。「芥川龍之介文学碑」は、「両国小学校」の創立百十五周年を記念して平成2年(1990年)に、文化都市づくりの一環として建立されました。場所は、出身校である「両国小学校」(当時は江東尋常小学校と呼ばれてました)の敷地の角です。「芥川龍之介文学碑」には、「芥川龍之介」の自署と設置場所が「両国小学校」ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれています。「芥川龍之介」は、東京の下町で育ち、江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に通い、「赤穂義士」が最初に立ち寄った「回向院」の境内で遊んだそうです。ただし、「赤穂義士」は入門を拒絶されましたが。「芥川龍之介」の子供時代の愛読書は「西遊記」や「水滸伝」だったといわれています。私も子供の頃に、映画館で見た「西遊記」や「水滸伝」は、ワクワクさせ想像をかきたてるものでした。「杜子春」は「鈴木三重吉」が創刊した童話・童謡雑誌「赤い鳥」の20年7月号に発表された中国・唐代の伝奇小説を下敷きにし、仙人になろうとしてなり得なかった男の数奇な運命を平易な文章で描かれています。現在でも中学校の国語教科書によく採用されているそうです。大学在学中に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、翌年、短編集「羅生門」を刊行し、若くして文壇に華々しく登場しましたが、35歳で自ら命を絶ってしまいました。確か、「羅生門」も国語の教科書に載っていた記憶があります。<br /><br />《★「吉良邸跡(本所松坂町公園)」》<br />「芥川龍之介文学碑」から「両国小学校」沿いに60mほど進むと右手に二つ目の角があります。そこを右折し50mほど進むと右手に「吉良邸跡」(本所松坂町公園)があります。「吉良邸跡」は、「忠臣蔵」で知られる「吉良上野介義央」の江戸上屋敷跡です。かつて「吉良上野介」はこの一帯に、東西に「733間」(約134m)、「南北」に34間(約63m)、坪数2,550坪(約8,400㎡)もある広大な屋敷を構えていたそうです。現在の「本所松坂町公園」の面積は、97.56㎡なので、86分の1の規模しかありません。それを考えるといかに広大であったか想像できます。「吉良上野介」が「近藤登之介」の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701年)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703年)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。「吉良邸」は、最初は「鍛冶橋」にありましたが、元禄11年(1698年)の「元禄の大火」で焼失し、その後呉服橋で再建しました。そして、江戸城「松の廊下」での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の「本所松坂町」に移っていたのです。「吉良邸跡」の往時を偲ぶ高家を表す海鼠壁長屋門を模した塀と門に囲まれ、「吉良上野介」の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」や「供養碑」が残されています。また、公園内にある「松坂稲荷大明神」は、江戸時代はじめに「御竹蔵」の水門内に鎮座した「兼春稲荷」で、討ち入り以後に「吉良邸跡」へ地所清めのために遷座したものだそうです。「本所松坂町公園」、は昭和9年(1935年)に、当地で赤穂義士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同昭和9年(1935年)3月に、京都に寄付しました。当時ここは「本所松坂町」と呼ばれていたので、現在は「本所松坂町公園」という名称になっています。<br /><br />《★「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」》<br />道路を隔て「吉良邸跡(本所松坂町公園)」の目の前にあるのが「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板です。この場所は、「葛飾北斎」の養父である、「中島伊勢」の住居跡だったといわれています。「飯澄稲荷」は、本所松坂町と吉良邸の屋敷神・地域神として祀られているそうです。説明板等はありませんでしたので、残念ながら詳しく分かりませんでした。<br />「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板によると、「中島伊勢」の住居は、「赤穂事件」の後に、町人に払い下げられた「本所松坂町」となったこの辺りにありました。「中島伊勢」は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763年)にのちに「葛飾北斎」となる「時太郎」を養子とします。「葛飾北斎」の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も「北斎」は中島姓を名乗っていることから、「中島伊勢」の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、「北斎」の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、「鏡師中島伊勢」に嫁いでいるとしています。ちなみに、「鏡師」とは、鏡をつくる人、また、鏡をみがく人のことを言います。「中島伊勢」も芸術家でしょうから「葛飾北斎」の作品に影響を与えているのでしょうか。<br /><br />《★「吉良邸正門跡」》<br />「飯澄稲荷」から「両国小学校」方面へ戻り右折すると、20mほど先の右手に「吉良邸正門跡」の説明板があります。「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸正門跡」があります。「吉良邸正門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「赤穂浪士の討ち入り」は、元禄15年(1702年)12月14日、寅の刻(午前4時)の7つ鐘を聞いた後、「大石内蔵助」以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。「赤穂浪士」は「正門」、「裏門」の二手に分かれて、大声を上げながら、百人以上の大勢で討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、「早水富士左衛門」らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し出口を固めたため、飛び出すことも出来なかったといわれています。「吉良邸」の「正門」は、「吉良邸」の東側、「両国小学校側」にありました。「正門」は、「裏門」に比べてかなり頑丈にできていたので、梯子を門の屋根にかけてのぼり、その後、屋敷内に縄梯子を利用して降りて門を開けたといわれています。「大石内蔵助」が指揮をとり、23人が「正門」から斬りこみました。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。<br /><br />《「本因坊屋敷跡」》<br />「吉良邸正門跡」から30mほど進むと、「本因坊屋敷跡」の説明板は、「パイオニアINN」ビルの角にあります。ここに「本因坊家」の屋敷があった場所です。囲碁の名門の「本因坊家」の開祖は、「日海」(一世本因坊算砂)で、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の三人に仕えました。そして、「本因坊家」は、「道策」、「丈和」、「秀和」、「秀策」など数々の名棋手を輩出してきました。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667年)この場所が屋敷となりました。江戸時代には、「本因坊家」、「安井家」、「井上家」、「林家」の「囲碁四家元」がありましたが、「本因坊家」は、筆頭の地位にあったそうです。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとしてその名が残っています。「本因坊家」の墓は、3世の「道悦」までは京都の「寂光寺」に葬られていますが、四世の「道策」から21世の「秀哉」まで歴代本因坊は「本妙寺」に葬られています。「本妙寺」は、豊島区巣鴨にあるので、一度訪れてみたいと思います。<br /><br />《★「前原伊助宅跡」》<br />「前原伊助宅跡」は、「本因坊屋敷跡」から「隅田川」方面に130mほど進むと道路の右手にあります。「吉良邸」に向かい吉良邸敷地の南側にあるのが「前原伊助宅跡」です。「赤穂義士」47士の1人である「前原伊助」が「米屋五兵衛」と称して本所相生町の吉良邸裏門脇に店を開業していました。同居の「神崎与五郎」とともに「吉良邸」への出入りなどの「吉良邸」の動向を探っていたそうです。ちなみに「前原伊助」は、赤穂藩が改易となり浪人直後から「吉良邸」に程近い日本橋富沢町で古着屋を開業し、「吉良上野介」が屋敷替えを命じられ本所に移ったときには店を「吉良邸裏門」そばの本所相生町に移し、呉服店を開き探索すします。のちに、「神崎与五郎」が麻布谷町で開いていた店(米穀商)と合同して探索を続け情報の収集に大いに貢献しました。そして、「前原伊助宅跡」は討入りの最終集合場所の一つとなったそうです。現在でいう諜報部員の役割を果たしていたのですね。<br /><br />《★「吉良邸裏門跡」》<br />「前原伊助宅跡」の説明板の先の角を右折し、60mほど進むと「吉良邸裏門跡」と「江東義塾跡」があります。「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸裏門跡」があります。「吉良邸裏門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「吉良邸」の「裏門」は、「吉良邸」の西側、「回向院」側にありました。「赤穂義士」の吉良邸討入りでは、「裏門」が重要な舞台となりました。というのは、「裏門」は「表門」とくらべて頑丈ではなかったため、大槌を使い、門を壊して討ち入ったといわれています。「大石良雄内蔵助」を総大将とした47士の中で、裏門攻撃の大将を務めたのは「大石良雄内蔵助」の嫡男、「大石主税良金」でした。「裏門」から24名の義士が突入を図りました。赤穂浪士は協力して、気づかれないように情報収集し、「裏門」から攻略するのがベストの選択をした訳ですね。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。<br /><br />《「江東義塾跡」》<br />「吉良邸裏門跡」の斜め左手の露地に「江東義塾跡」があります。文豪「夏目漱石」は、明治19年(1886年)から約1年間教師をしていた「私立学校江東義塾」は、この辺りにあり、併設の宿舎に住んでいました。今は居酒屋の壁に「江東義塾跡」の説明板が設置されており、面影は全くありません。当時「夏目漱石」は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師していたので、「漱石ゆかりの地」の一つのようです。ここで教師をするようになってから、「夏目漱石」はさらに学業に励み、ほとんどの教科で首席をとりました。説明板に、次のようなことも書かれていました。「夏目漱石」は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は5円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後2時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。<br /><br />《「尺振八の共立学舎跡」》<br />「吉良邸裏門跡」と「江東義塾跡」から戻るような感じで、「吉良邸跡(本所松坂町公園)」の前を通ると突き当りが「両国小学校」になります。「両国小学校」を回り込むように、突き当りを右折し、すぐ左折し、80m先の角を左折し10mほど進むと、「両国小学校」の敷地内に「尺振八の共立学舎跡」の説明板があります。「両国小学校」のフェンスの内側の目立たない場所にありますので見逃さないようにしてください。<br />「尺振八」は、下総高岡藩の医師の子として生まれ、「中浜万次郎」や英学者「西吉十郎」らから英語を学び、文久元年(1861年)からは「福沢諭吉」もいた幕府外国方に通弁(通訳)として勤めました。3年間にわたり幕府の遣外使節に通訳として、幕府の文久3年(1863年)の遣欧使節団、慶応3年(1867年)の遣米使節団と二度の使節団に随行しました。明治に入り大蔵省翻訳局に出仕し、明治5年(1872)年には、大蔵省翻訳局長となりました。しかし、明治8年(1869年)に退官し、明治3年(1870年)7月に相生町に設立した英語塾「共立学舎」の教育に専念しました。アメリカへ一緒に同行した「福沢諭吉」は、「慶応義塾」を開設しました。「共立学舎」は寄宿制英語塾でしたが、英語だけにとどまらず、漢字教育も行った洋漢兼学のバランスのとれた私塾であったために開塾後わずか半年で100名を越える生徒数を誇りました。やはり、ヨーロッパとアメリカに行き、西洋文明を自分の目で見て、体験したのが後の人生を大きく変えたのでしょうね。<br /><br />《「勝海舟生誕の地記念碑」(両国公園)》<br />「尺振八の共立学舎跡」のある「両国小学校」に隣接して、「両国公園」があり、徒歩で70mほどのところに「勝海舟生誕の地記念碑」があります。「勝海舟」は、文政6年(1823年)1月30日、ここ本所亀沢の父の実家である男谷家に生まれ、「山岡鉄舟」、「高橋泥舟」とともに「幕末の三舟」と呼ばれていました。「勝海舟」は、「佐久間象山」に師事し、蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学びました。ちなみに、「佐久間象山」は、信濃国(現在の長野県)松代藩士で、幕末の天才と呼ばれた人物です。洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもち、当時の日本最高の知識人と言われていました。「佐久間象山」は、神田お玉ヶ池付近に塾を開き、松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務め、嘉永4年(1851年)に、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に「佐久間象山塾」を開きました。何と門下生には、「吉田松陰」、「勝海舟」、「坂本龍馬」、「橋本佐内」、「山本覚馬」ら明治維新に貢献した俊才たちがずらりと並んでいます。そして、「海舟」は号で、佐久間象山直筆の書『海舟書屋』からとったものです。「勝海舟」は、安政7年(1860年)1月に、咸臨丸艦長として邦人の手による初の太平洋横断の快挙をなしとげました。慶応4年(1868年)3月には、高輪の薩摩藩邸において「西郷隆盛」と会見し、江戸城無血開城に成功し、江戸市民を戦禍から救いました。明治政府にも重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となりました。もし、「勝海舟」がいなかったら江戸の街は戦場と化し、今の東京はなかったかもしれませんね。<br /><br />《「小林一茶旧居跡」》<br />「勝海舟生誕の地記念碑」のある「両国公園」を出て、左方向に150mほど進むと都道463号線(清澄通り)になりますので、そこを右折し60mほど進むと信号(表示名「二之橋北詰」)があります。そこを左折し道路の反対側に渡ります。渡り終えたら右折して60mほど進むと、首都高速7号小松川線の手前の緑地に「小林一茶旧居跡」の説明板が設置されています。その道路の反対側には、「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」と「二之橋跡」の説明板があります。「小林一茶」は文化元年(1804年)に、それまで住んでいた「本所五ッ目大島」(現在の江東区大島)から「本所相生町」の借家に転居してきました。そして、足掛け5年住んだこの借家は一番安定した、心休まるすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は再び弟子や後援者の家を転々と泊まり歩くことになってしまいました。ちなみに、「小林一茶」は、宝暦13 年(1763年)年5月に、柏原宿(現在の長野県信濃町)で農家の長男として生まれました。「小林一茶」は、15歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となりました。私の高校時代の教科書にも掲載された「我と来て 遊べや親の ない雀」の句など人々に愛される独特な句風でした。<br /><br />《「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」》<br />都道463号線(清澄通り)を挟み「小林一茶旧居跡」の反対側に、あります。「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」と「二之橋跡」の説明板があります。軍鶏なべ屋「五鉄」は、「鬼平犯科帳」で「長谷川平蔵」と密偵の連絡場所として登場します。「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は堅川」とこの辺りだと推定されます。「鬼平」とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏 の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいながら食べるのは夏の快楽であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。<br /><br />《★「二之橋跡」》<br />「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」のすぐ目と鼻の先に「二之橋跡」の説明板と現在の「二之橋」があります。「二之橋」の歴史を遡ると、万治二年(1659年)に「竪川」が開削されると五つの橋が架けられました。隅田川に近いほうから「一之橋」から「五之橋」と名付けられました。「二之橋」は、そのニツ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどあったそうです。そして、関東大震災により被災した震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製アーチ橋として架橋され、現在の「二之橋」が架けられたのは平成10年(1998年)です。古くは江戸時代からその名は知られています。火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」には、「二つ目橋」という名前でたびたび登場します。また、「堀部安兵衛宅」に集結していた「赤穂義士」らは、道場を出発した後に、この橋を渡って「吉良邸」へ向かったと言われています。<br /><br />《★「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)》<br />「二之橋」を渡り、90mほど進むと信号(表示名「本所二之橋南詰」)がありますので、左折して横断歩道を渡ります。渡り終えたら左方向に戻るような感じで、一つ目の角を右折します。530mほど道なりに進むと、右手に「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)があり、その中に「堀部安兵衛道場跡」の説明板があります。「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)は、昭和52年(1977年)4月1日に開園された児童公園です。私が、訪れた日には、近所の先生に先導された20名近い幼稚園児が、すべり台やウンテイがついたコンビネーション遊具やブランコ、スプリング遊具で楽しそうに遊んでいました。また、公園の土広場では、近所の老人たちがゲートボールを楽しむ姿を目にすることができました。また、公園内には桜の大木が植栽されており、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには満開の花を咲かせるそうです。ちなみに、「立川第二児童遊園」が何故「安兵衛公園」と呼ばれているのかは、公園内に設置されている「忠臣蔵討ち入り出発の地ー吉良邸を目指すー」と題した説明板にその由来が書かれていました。説明板には、「吉良邸討ち入り集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。ここから堀部安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年12月14日寅の刻。明け方には打ち取りの合図が鳴り響く。吉良邸まではわずかな距離だが、松の廊下事件から1年と9か月、ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったに違いない。」と書かれていました。討ち入り当夜に赤穂義士の終結場所となった堀部安兵衛道場があり、行装を整え出撃して行った場所であったことから通称「安兵衛公園」の名前が付けられました。ちなみに、「堀部安兵衛」は「長江長左衛門」と名前を変え、林町五丁目に住んでいたそうです。また、道路を挟み東の徳右衛門町1丁目には「杉野十平次」が「杉野九一右衛門」と名前を変え、長十郎店一軒を借り住んでいた所でもあります。<br /><br />《「江島杉山神社」》<br />「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)を出て左方向に進むとすぐに一つ目の角が左手にあります。そこを左折し40mほど進むと信号があります。そこを右折して、1000mほど道なりに進むと右手に「江島杉山神社」の「石鳥居」があります。<br />「江島杉山神社」は、墨田区千歳にある神社で、神奈川県藤沢市「江島神社」の「弁財天」の御分霊を祀っています。また、その弁財天を深く信仰した「杉山和一」を併せて祀っています。「江島杉山神社」の歴史を紐解いてみると、「杉山和一」は三重県津市の武家の生まれでしたが、幼少期に病により失明し、身を立てるために鍼術を志しました。江戸の「山瀬琢一」に入門しましたが、技術が向上せず師の下を破門されてしまいます。しかし、目の不自由な自分が生きるために何かを成さねばならぬと江ノ島弁天の岩屋に籠り、七日七夜の参籠をしました。満願の日に、外に出ると大きな石に躓いてしまいましたが、何か手に刺さる物があり探ってみると、筒状になった椎の葉に松葉が包まれていました。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」と開眼しました。こうして、現在の鍼治療の主流である管鍼術が誕生しました。躓いた石は「福石」として本社「江島神社」に祀られています。その後京都の「入江豊明」の下で更に鍼術を学び、江戸で開業すると、その噂は瞬く間に広まり、鍼の名人として有名になりました。この「杉山和一」の名声を聞いた5代将軍「徳川綱吉」が、「杉山和一」を「扶持検校」として召し抱え、日夜自身の治療にあたらせました。「杉山和一」は、寛文10年(1670年)1月に、61歳で盲人最高位の役職に就き「鍼治講習所」を開きました。「鍼治講習所」においては、「杉山和一」は、多くの弟子に鍼・按摩技術を教育し職業の確立を進めた世界初の盲人教育の場でした。元禄5年(1692年)5月9日に5代将軍「徳川綱吉」から総検校に任ぜられました。元禄6年(1693年)6月18日に5代将軍「徳川綱吉」から、本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり、翌元禄7年(1694年)には荘厳な「社殿」が建立されました。震災戦災により二つの社殿は焼失しましたが、昭和27年(1952年)に合祀し「江島杉山神社」となりました。「杉山検校」の墓は立川の「弥勒寺」にあります。ちなみに、「検校」とは、盲人の役職である盲官の最高位の名称で、また、盲人の自治的互助組織を当道座と呼び、その最高位は「総検校」と呼ばれました。「総検校」は、音楽の演奏や作曲で活躍する者、鍼灸・按摩の技術が優れたものが選ばれることが多かったそうです。<br />それでは、さっそく参拝したいと思います。ここで、注意しておきたいのが、西側の「石鳥居」からが正式な「表参道」です。私も当日に最初に「安兵衛公園」へ行ったので、間違えて南側の「石鳥居」の参道から入ってしまいました。どうりで正面に「社殿」がなかったはずです。それなので、西側の「石鳥居」から入りなおしました。「江島杉山神社」と記された社号碑が「石鳥居」の前にあります。その手前には、手前には「杉山和一記念館」と「杉山鍼按治療所」かかれた看板があります。「杉山和一記念館」は、平成28年(2016年)に、「社務所」があった場所に「社務所」兼「杉山和一資料館」が完成したものです。<br />そして、「参道」を進むと、「参道」が交差するあたりに「二之鳥居」があり、右手に「杉山検校」の石碑があります。私も初めてみましたが、大変めずらしい点字の石碑で、一説には、世界に一つしかない「点字の石碑」だといわれています。この石碑は、大正15年(1926年)に、「杉山和一」に正五位が追贈されたことを記念して建立されたものです。<br />次に、「二之鳥居」を潜ると右手に「手水舎」があります。さらに、「手水舎」の裏手には、「銭洗所」と「銭洗弁財天」、「美玉洗」があります。まず、手前にあるのが、「銭洗所」で、その奥には平成26年(2014ね)に安置された「銭洗弁財天像」があります。さらに奥には、「授与所」で授与される「勾玉」を洗う「美玉洗」もありました。「美玉洗」のところには、説明板があり、「美玉洗 授与所でお頒している 勾玉をお水で清め 美と長命を祈り 御守りにしてお持ちください」と書かれていました。<br />また、後戻りして、南側の「石鳥居」をくぐると「弁天池」があり「太鼓橋」を架かっていました。「太鼓橋」の手前から見る「社殿」は、なかなか風情があって印象的でした。「弁天池」と「太鼓橋」は綺麗に整備されていて、何と「太鼓橋」は渡ることもできます。本当に小さな池ですが、「太鼓橋」から見る風景は、心と目を癒されました。「弁天池」の一画には墨田区内最重量の「力石」もありました。文化12年(1815年)に奉納された「力石」で、九拾三貫(約349kg)と刻まれていました。<br />そして、「太鼓橋」を渡ると正面には、「社殿」があります。昭和27年(1952年)の再建の際に、「江島神社」と境内社「杉山神社」が合祀されました。「社殿」の前の右手には、説明板があり、御神徳として、福徳円満、芸能上達、学業成就、そして、「杉山和一」を祀るせいか、他の寺社では見られない「鍼灸按学術上達」の御利益があるのが興味深かったです。<br />「社殿」の右手奥には境内社である「杉多稲荷神社」があります。朱色の「鳥居」の奥には小さな祠と小さな神狐像がありました。<br />「弁天池」の奥にあるのが、ミステリーゾーンの「岩屋」です。ただの洞窟かと思いきやこれが予想外でした。まず、奥に続くのが「岩屋」への道の入口に、寛政8年(1796年)の銘が刻まれた「いわやみちの碑」がありました。現在の「岩屋」は、慶応2年(1866年)に造立され、昭和39年(1964年)に破損していた「岩屋」を修復整備したものです。「岩屋」の内部には「杉山検校像」、「宗像三女神」、「人頭蛇身の宇賀神像」が祀られていました。まず、正面に祀られているのが、柔和で優しい表情をしている「杉山和一検校」の石像です。「杉山和一検校」の石像の右手には、「宗像三女神」の像があります。「宗像三女神」は、「宗像大社」(福岡県宗像市)を総本社として各地に祀られている女神たちのことです。向かって右にあるのが「多紀理比売命」、中央にあるのが「市杵島比売命」、左にあるが「多岐津比売命」です。「岩屋」内は薄暗く、「宗像三女神」も少々劣化しているので見分けにくいかもしれません。「杉山和一検校」の石像の右手には、人頭蛇身となった「宇賀神」の石像があります。そして、それぞれの像の前には、最初はこよりかお線香化と思いましたが、小さな蛇の置物が多数置かれていました。帰り際に「社務所」に立ち寄ってみると、「社務所」で頒布しているもので、参拝者が願い事を込めて「岩屋」に奉納するものだということでした。<br /><br />《★「一之橋」》<br />「江島杉山神社」の「一の橋通り」側にある「石鳥居」を出て、右方向に100mほど進むと「首都高速7号小松川線」が見えます。その下をくぐり「一之橋」を渡ると右手の緑地の中に「一之橋」の説明板があります。<br />「一之橋」は、両国二丁目と千歳一丁目を結ぶ橋で、「隅田川」と「中川」を東西につなぐ「堅川」に架かり、「隅田川」から一番目の橋なので、「一之橋」と呼ばれています。「赤穂義士」が吉良邸討ち入りの後、「泉岳寺」に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。「両国橋」の東詰で休息した「赤穂義士」一行は、「泉岳寺」に向かって引き揚げを開始しました。また、火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」にも「一ツ目橋」として登場する由緒正しき、歴史的には価値のある名橋です。<br />「一之橋」の歴史を紐解いてみると、江戸幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削しました。そして、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。また、排水路は「隅田川」に対し縦・横に開削されました。「一之橋」は、万治2年(1659年)に、「堅川」の開削と同時に架けられ、「隅田川」から入って「一ツ目の橋」と呼ばれ、長さ十三間、幅二間半ほどありました。この当時は、「堅川」の両岸には全国から江戸に水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び「一之橋」を行き交う人々も大変多く、大いに賑わったそうです。そして、大正12年(1923年)の関東大震災により被災し、震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製桁橋として新たに架橋されました。現在の「一之橋」は、昭和54年(1979年)に完成し、長さが36.90m、幅が15.00mあります。「一之橋」の上部を首都高速7号小松川線が横切り、すぐ西側に「竪川水門」があります。<br /><br />《★「討ち入りそば跡」》<br />「一之橋」の説明板のところに信号(表示名「一之橋北詰」)があります。左折して横断歩道を渡ると左手に道路があります。そこを左折すると、二軒目の右手にある民家の付近が「討ち入りそば跡」らしいということです。吉良邸討ち入りの前夜に、討ち入り前の縁起をかついで、ひそかに江戸市中のそば屋に集まり、赤穂義士47人がそば屋に勢揃いし、そばを食べたとされる場所が「討ち入りそば跡」です。しかし、それが本当かどうかの真相は明らかではなく、食したべたものが「そば」なのか「うどん」かも不明のエピソードです。<br />調べてみると、両国のそば屋「楠屋十兵衛」に集結した説を唱える「泉岳寺書上」という古文書と赤穂義士でただ一人残った「寺坂信行」が「赤穂事件」後に記した「寺坂信行筆記」などがありました。<br />前者の「泉岳寺書上」は、結論から言うと偽書だそうです。確かに、討ち入りという大事の前に、47人もの大人数が一か所に集まると人目につき、吉良側の間者に不穏な動きがあるのを知られてしまい、討ち入りは成功しなかったでしょう。それと当日の元禄15年(1702年)12月14日は、「赤穂義士」たちは人目を避けるために、実際には本所林町五丁目の「堀部安兵衛宅」、本所三つ目横町の「杉野十平次宅」、本所二つ目相生町三丁目の「前原伊助・神崎与五郎宅」の三ヵ所に分散して集結していたそうです。ただし、「寺坂信行筆記」によれば、「吉田忠左衛門」、息子の「吉田沢右衛門」、「原惣右衛門」ら6~7人が両国矢ノ倉米沢町にある「堀部弥兵衛宅」で供応を受けたあと、両国橋向川岸町の茶屋「亀田屋」に立ち寄り、そば切りなどを食べたのは、事実だということです。そして八つ時(午前二時)前に「堀部弥兵衛宅」へ集まったという内容があり、それが討ち入りそばの話のもとになったのかもしれないですね。私の私見ですが、人形浄瑠璃や歌舞伎でこの「赤穂義士」の仇討ち事件を演目に取り上げるうちに脚色されて、このようなエピソードが盛り込まれていったのかもしれませんね。ちなみに、この赤穂義士の仇討ち事件を題材 にした「仮名手本忠臣蔵」は、寛延元年(1748年)に、大阪の道頓堀にある「竹本座」での人形浄瑠璃の初演以来、興行して不入りのことがなかったほど盛況だったそうです。<br />「そば」と言えばもう一人忘れてはならないのが、宝蔵流の槍や剣術は神陰流の達人である「杉野十平次」です。赤穂藩が改易になって以降は、江戸に潜伏し、江戸では赤穂義士の会合と集合場所に使われた剣術道場を構えたり、夜鳴きそば屋に扮して吉良邸の情報を探っていました。「杉野十平次」は、吉良邸の門番にそばを大盛りに、あるいは、酒を振る舞ってだきこみ、そして、水をくませてくれなどとうまいことを言って邸内に潜入し、諜報活動を続けたそうです。屋号は、大きな的に矢が当たっている図柄にして、「当たり屋十助」としました。また、ここにも逸話があります。「杉野十平次」が、ある日流して歩いていると夜稽古をしている槍術の名人「俵星玄蕃」と出会います。「俵星玄蕃」は「杉野十平次」の様子を見ただけで、武士と見抜きました。そして、「俵星玄蕃」の道場に招き入れられ交流が始まりました。「俵星玄蕃」は、槍で突いた俵を放り投げて積み上げるという「俵突き」という技で有名ですが、もとより俵星玄蕃については、後年に講釈師の創作した逸話とされています。ここでも「忠臣蔵」が脚色され、いかに人気があったかが推測できますね。<br /><br />《「元町跡」》<br />「討ち入りそば跡」から「一の橋通り」を両国駅方面に150mほど進むと、三つ目の角の左手に「元町跡」の説明板があります。「元町跡」は、現在の 両国一丁目あたりで、この一帯で最初に拓かれた町屋なので「元町」といいます。町?は四つに分かれ、総坪数は3263坪でした。寛文11年(1671年)の寛文図には「回向院門前」に「ちゃや」、竪川沿いに「ざいもく」とあり、門前町として賑わっていたことがうかがわれます。また、10万人を超える死者が眠る「回向院」には、墓参のため、身分や年齢を問わず、多くの人々が訪れ、「両国橋」から「回向院」に向かう通りは、「回向院利参道」としておおいに賑わっていたそうです。<br /><br />《「与兵衛鮨発祥の地」》<br />「元町跡」の説明板がある同じ区画、40mほど先の左手に「与兵衛鮨発祥の地」の説明板があります。<br />「与兵衛鮨発祥の地」には、握り鮨を発明したともいわれる「与兵衛鮨」という店の発祥と「にぎり鮨」の発祥に関しての説明板が設置されていました。かつて「すし」と言えば 上方風の「押しずし」が主流でした。蔵前の札差「板倉屋」の手代だった「華屋与兵衛」は、道楽中に覚えた味から握りの「こはだ鮨」を考案し、それを岡持ちに入れて夜の繁華街を売り歩くと、新鮮なネタをその場で握る鮨の味が江戸っ子に受けて飛ぶように売れました。やがて屋台を出し、ついには「与兵衛鮨」という店を構えるようになりました。残念ながら「与兵衛鮨」は昭和5年(1930年)に廃業しました。ちなみに、江戸前でとれるネタが使われた江戸前の握りずしのシャリは現在のものより2倍ほど大きく、粕酢の影響で赤みがかかっていたそうです。そして、現在は人気のネタであるマグロは、江戸時代においては、価値の安い魚である下魚とされていました。江戸湾近海でよく獲れており、保存方法が発達しておらず傷みやすいことから値段の安い魚だったようです。マグロを鮨で食べるようになったのも江戸時代です。安く仕入れたマグロを醤油につけておき、鮨にしたところ大ヒット。こうしてマグロの鮨が誕生したそうです。<br /><br />《★「赤穂浪士休息の地」》<br />「与兵衛鮨発祥の地」の説明板のすぐ先にある角を右折し、「両国橋」方面に90mほど進むと「赤穂浪士休息の地」、「旧両国橋・広小路跡」、「石尊垢離場跡」の3つの「説明板」が隣接しています。<br />元禄15年(1702年)12月14日に「本所松坂町」(現墨田区両国3丁目) の「吉良邸」に討ち入って本懐を遂げた赤穂浪士の一行が、主君である「浅野内匠頭」の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う「赤穂事件」で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。「赤穂浪士」が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった「広小路」です。この辺りには忠臣蔵関連の跡地等がいろいろあります。案内板がなければここが「赤穂浪士休息の地」と分かりませんが、忠臣蔵のファンにとっては、聖地の内の一つであり、たまらないのではと思いました。その後、一ツ目通りを引き上げる途中で「乳熊屋味噌店」に立ち寄りました。ここでは、甘酒の接待を受けて休息したのちに、永代橋を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。ちなみに、「ちくま味噌店」の初代「竹口作兵衛」が赤穂義士の「大高源吾」と同じ俳人「室井其角」の門人であったことから、討入り本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞ってその労をねぎらったと伝えられています。勝利の美酒ならぬ勝利の甘酒ですね。当日は、雪も降っていましたし、甘酒粥で赤穂浪士たちの心も体もさぞかし暖まったことでしょうね。<br /><br />《「旧両国橋・広小路跡」》<br />「両国橋」の両側には、「火除け地」としての「広小路」が設けられ、江戸随一の繁華街となりました。「旧両国橋」は現在の「両国橋」の下流約50mの所に架かっていました。完成は万治2年(1659年)12月です。明暦3年(1657年)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架けました。「両国橋」は、「武蔵」と「下総の国」を結ぶ橋なので、「両国橋」と呼ばれました。「両国橋」の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、何と遠くは常陸の筑波山まで見えたそうです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には「火除け地」としての「広小路」が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」(両国側)と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。そして寛保2年(1742年)の調査では1日に2万人以上が「両国橋」を往来したとされています。また、東側の広小路には、赤穂浪士休息の場所があり、広小路と赤穂浪士の説明板があります。<br /><br />《「石尊垢離場跡」》<br />「石尊」とは、神奈川県伊勢原市にある「大山」のことで、標高1,252mの山で、気軽に登れるので江戸中期に「大山詣」は大変人気がありました。「大山」の山頂の「阿夫利神社」は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。「大山詣」に出かける前に、両国橋東詰の袂の「石尊垢離場」で水垢離を行い、「奉納大山石尊大権現」と書かれた納太刀を持って出かけたそうです。「石尊垢離場」では、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子…」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したそうです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。ちなみに、水垢離とは、神仏に祈願する時、冷水を浴びて汚れを除き心身を清浄にすることです。やはり、、神仏に祈願する時は、このような神聖な儀式が大切なのですね。<br /><br />《「片葉の葦」》<br />「赤穂浪士休息の地」、「旧両国橋・広小路跡」、「石尊垢離場跡」の3つの「説明板」から「両国橋」方面に40mほど進むと、「片葉の葦」、「駒留橋跡」、「藤代町跡」の3つの「説明板」が並んでいました。<br />「片葉の葦」は説明板によると、「駒留橋」が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、「片葉の葦」と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹きこみ方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議のひとつとされていました。しかし、この葦には悲しくも恐ろしい物語が語り継がれています。本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。<br /><br />《「駒留橋跡」》<br />「駒留橋跡」は説明板によると、「駒留橋」は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ2間半(約4,5m)、幅2間(約5,4m)の小さな石の橋で、「藤代町」と「東両国広小路」を結んでいました。その堀の幅はもっとも広いところが4間(約7,2m)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。「本所七不思議」の一つである「片葉の葦」が生えていたので、別名、「片葉堀」といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所だったそうです。ちなみに、「本所七不思議」の一つである「片葉の葦」には、悲しく、恐ろしい物語があります。本所横網町の長屋にならずものの留蔵という者が住んでいました。亀沢町に住む「お駒」という美しい娘に惚れ、しつこく付け回すが、相手にされませんでした。ある日、「留蔵」は、「駒止橋」でお駒を待ち伏せし、懐にした合口で、背後から、袈裟懸けに切りつけて殺してしまいました。恐ろしいことに、「お駒」の死骸の手足を切断し、堀に蹴りこみ沈めたという。それ以降、その堀に生える葦の葉は片方にしか生えなかったというものです。今でいう「バラバラ殺人事件」ですね。<br /><br />《「藤代町跡」》<br />「藤代町跡」は説明板によると、かつてこの辺りにあった町名です。その由来は、享保年間に麹町に住んでいた「毛利藤左衛門」は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀25000坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれているそうです。「回向院」や「向島」に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所だったようです。残念ながら「藤代町跡」の説明板付近には面影を残すものは何一つありませんでした。<br /><br />《★「大高源吾句碑」》<br />「片葉の葦」、「駒留橋跡」、「藤代町跡」の3つの「説明板」から30mほど進むと、「両国橋」の袂に「両国橋児童遊園」があり、「大高源吾句碑」は国道14号(京葉道路)沿いにあります。<br />「大高源吾句碑」は、昭和3年(1928年)に建立されました。「吉良邸」への討入り当日に、赤穂義士の1人である「大高源五」の知人が近所で年忘れ句会を開いていました。その中の1人に、「松尾芭蕉」の弟子である「宝井其角」がいました。「宝井其角」が句を詠むと、目的を遂げた「大高源五」がその場で返句したといわれています。「大高源吾句碑」には、「大高源五」と「宝井其角」が詠んだ句が刻まれています。「宝井其角」が「我が物と 思えば軽し 笠の雪」と句を詠むと「大高源五」は、「日の恩や、忽ち砕く、厚氷」と返したそうです。「宝井其角」が詠んだ句意は「自分のためと思えば、苦労も負担に感じない。」で、「大高源五」が詠んだ句意は、「太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷が、たちまち融けました。」で要は、赤穂の浪士一同は、お蔭さまで本懐をとげて、積年の恨みを、すっかり晴らすことができたということです。「大高源五」は俳人でお茶も嗜むことから、「吉良上野介義央」の在宅の日の情報を、「吉良上野介義央」のお茶の師匠でもある「山田宗偏」から入手しました。同志の「前原伊助」のように、「大高源五」も情報取集にあたっていたのですね。<br /><br />《★「両国橋」》<br />東京都墨田区(東側)と東京都中央区(西側)の間を流れる「隅田川」(旧「大川」)に架る橋が「両国橋」で、「隅田川」では「千住大橋」に次いで、2番目に架橋された橋です。貞享3年(1686年)に「利根川」東遷で「武蔵国と下総国境」が変更されるまでは、現在の墨田区側が「下総国」という地名で、二つの国をつなぐ橋だったので「両国橋」という名前が生まれました。当時の江戸幕府は、防御的な意味合いで「隅田川」の橋は「千住大橋」を除いて架橋が許されませんでしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で、橋がないことで多くの人が逃げ場を失い多数の死者が出たということから両国橋が架けられたそうです。当初は「大橋」が正式名で、「両国橋」は俗称でしたが、元禄6年(1693年)に、「隅田川」の3番目の橋として「新大橋」が架橋されたため、「両国橋」が正式名になったそうです。現在の橋は、昭和5年(1930年)に関東大震災からの帝都復興で東京市が架橋した橋です。長支間の鈑桁橋で架設当時は、言問橋や大阪市の天満橋とともに「三大ゲルバー橋」の一つと言われ威容を誇りました。構造形式は、3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で「橋長」は164.5m、「幅員」は24.0mです。<br />「赤穂義士」は討ち入り後、この当時の隅田川には、「両国橋」、「新大橋」、「永代橋」の橋があり、「泉岳寺」へはいずれかの橋を渡らなければなりませんでした。前方から上杉家、後方から津軽家の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」へ向かって南下した。また、「両国橋」が近道でしたが、毎月1日と15日は、御禮日で江戸在府の大名、旗本は総登城するのが慣例であり遠回りの「永代橋」へ向かいました。<br /><br />《★「回向院」》<br />「両国橋」から280mほど、国道14号(京葉道路)沿いに戻ると右手に「回向院」の正門があります。<br />討ち入りが終了した元禄15年12月15日午前6時、「吉良上野介」の首級を取った「赤穂義士」は、「吉良邸裏門」から引き揚げ、隣接する無縁寺である「回向院」にひと時の休息と待機を求めました。しかし、「回向院」は、返り血に濡れた「赤穂義士」の境内への立ち入りを拒絶しました。そのため「両国橋」東詰へ移動し、小休止を取ることにしたそうです。<br />「回向院」は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、「諸総山無縁寺回向院」と呼ばれています。そして、「回向院」の理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」で、江戸時代から変わることなく引き継がれています。なぜ、それは何故かと言うと、「回向院」が開かれた明暦3年(1657年)に、江戸では、「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。そのようなことから無縁寺とも呼ばれている訳です。江戸は火事が多い街で、人口の増加による家屋の密集、冬場に吹く「からっ風」がその要因に挙げられます。その中でも明暦の大火は「振袖火事」でその名が知られています。そして、当時の将軍「徳川家綱」は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸にある現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが「回向院」の歴史の始まりです。<br />では、「回向院」の「山門」を潜ります。「回向院」の「正門」は、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。「正門」の「扁額」と「寺号碑」に注目してください。扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「?向院」と表記されています。<br />次が、「力塚の碑」が参道を進むと右手にあります。「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。<br />更に進むと「塩地蔵」があります。「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。<br />次に、「鳥居清長顕彰碑」です平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。「鳥居清長」は、江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。<br />更に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」です。「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。その他の見どころである、「水子塚」、「千体地蔵尊」、「馬頭観世音菩薩像」、「オットセイ供養塔」、「猫塚」など多数あります。<br /><br />これで両国付近での「赤穂義士」を巡る散策は終了しました。「赤穂義士」ゆかりの地や近辺に点在する名所・旧跡も合わせて、ゆっくり回

泉岳寺への義の道のり~赤穂義士の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡り~第1回目【両国付近】

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2023/12/25 - 2023/12/25

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2023/12/25

  • 東京メトロ日比谷線(09:01出発)⇒秋葉原駅乗換⇒JR総武本線「両国駅」(09:29到着)

  • JR総武本線「両国駅」東口から芥川龍之介生育の地へ

この旅行記スケジュールを元に

毎年末、この時期なると必ずと言っていいほど取り上げられる「忠臣蔵」ですが、最近は時代の流れかもしれませんが、昔に比べそのニュースや歌舞伎などで、取り上げられる頻度が少なくなったような気がします。たまたま、テレビのリモコンの電源ボタンを押したところ、高輪の「泉岳寺」で行われている「赤穂義士」の「義士祭」の模様がテレビで放映されていました。それを見て、「泉岳寺」までの「赤穂義士」が歩いた道とゆかりの地、せっかく巡るからにはその周辺の名所・旧跡も合わせて訪ねてみることにしました。
吉良邸へ討ち入り後の引き上げルートは、「泉岳寺」にある「赤穂義士資料館」の資料によると
「回向院前 」⇒「一ツ目河岸」⇒「 深川」⇒「御船蔵通り」⇒「永代橋」⇒「 霊岸島」⇒「稲荷橋 」⇒ 「鉄砲州」⇒「木挽町」⇒「汐留橋」⇒「金杉橋」⇒「芝口」⇒「高輪泉岳寺」
となります。このルートに沿って「赤穂義士」の足跡を辿ってみました。「赤穂義士」は、「両国」から「泉岳寺」まで約11kmの雪道を3時間弱という驚異的なスピードで歩きました。それも戦支度の鎖帷子等着込み、その他武器、武具で 約12kg以上あったといわれています。「間新六」が「札の辻」まで来たとき、前にバッタリ倒れ込んでしまいました。その時父の「間喜兵衛」が 「ここまで来たのではないか、もう少しだ、不甲斐ない奴だ。」と叱咤激励したところ、その一言に奮起して、しばらくして 立ち上がり「泉岳寺」まで歩いたといわれています。わずか11kmの道のりですが、事前にネット等で「赤穂義士」に関する情報を調べたところ、色々な発見がありました。とてもではありませんが、一日では回ることはできないので、地域をいくつかに分けてリポートしていきたいと思います。第1回目は、泉岳寺への義の道のりの出発点である「吉良邸」のある両国界隈を中心に回りました。また、墨田区は意外と歴史的な名所・旧跡の高札も多いので合わせて回ってみました。

《両国付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡
①「芥川龍之介生育の地」⇒②「本所松坂町跡石碑」⇒③「芥川龍之介文学碑」⇒④★「吉良邸跡(本所松坂町公園)」⇒⑤★「飯澄稲荷」⇒⑥★「吉良邸正門跡」⇒⑦「本因坊屋敷跡」⇒⑧★「前原伊助宅跡」⇒⑨★「吉良邸裏門跡」⇒⑩「江東義塾跡」⇒⑪「尺振八の共立学舎跡」⇒⑫「勝海舟生誕の地記念碑」(両国公園)⇒⑬「小林一茶旧居跡」⇒⑭「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」⇒⑮★「二之橋」⇒⑯★「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)⇒⑰「江島杉山神社」⇒⑱★「一之橋」⇒⑲★「討ち入りそば跡」⇒⑳「元町跡」⇒?「与兵衛鮨発祥の地」⇒?★「赤穂浪士休息の地」⇒?「旧両国橋・広小路跡」⇒?「石尊垢離場跡」⇒?「片葉の葦」⇒?「駒留橋跡」⇒?「藤代町跡」⇒?★「大高源吾句碑」⇒?★「両国橋」⇒?★「回向院」

当日は、自宅から電車を乗り継ぎJR総武本線「両国駅」に降り立ちました。JR総武本線「両国駅」の東口改札を出ると斜め右手に、両国らしく、また、ワクワクさせるような「横綱横丁」の看板のあるゲートがあります。「横綱横丁」をくぐり、150mほど進むと「国道14号線」(京葉道路)に突き当たります。その手前の左側に「芥川龍之介生育の地」の碑があります。

《「芥川龍之介生育の地」の説明板》
「芥川龍之介」は、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」は、明治25年(1892年)3月1日に、現在の中央区明石町である東京市京橋区入船町8丁目1番地に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む「新原敏三」と「ふく」の長男として生まれました。辰年辰の刻に生まれたので「龍之介」と命名されたと言われます。生後7ヶ月で生母「ふく」の病のため、当時本所区小泉町15番地に住んでいた「ふく」の長兄、「芥川道章」に引き取られ、その後13歳の時、芥川家の養子となりました。明治43年(1910年)に19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、「芥川龍之介生育の地」として、「芥川龍之介」の作家人生に大きな影響を与えました。「芥川龍之介」は、大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して「夏目漱石」に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」、「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。「芥川龍之介」の死後の昭和10年(1935年)に、当時文芸春秋社長であった「菊池寛」が、亡友「芥川龍之介」の名を記念し文学の発展をねらい「芥川龍之介賞」を創設したのは有名な話です。また、「芥川龍之介生誕の地」である東京都中央区明石町10-11(聖路加国際大学付近)には、「芥川龍之介生誕の地」の説明板があります。「聖ルカ通り」から「聖路加国際大学」を回り込むようにして進むと、「聖ルカ礼拝堂」の手前の歩道の右側にあります。これも何かの縁かもしれませんが、赤穂藩の上屋敷であった場所に「浅野家内匠頭邸跡」の碑も建立されていました。

《「本所松坂町跡石碑」》
「芥川龍之介生誕の地」から見て、「国道14号線」(京葉道路)の反対側の斜め右手にある石碑が「本所松坂町跡石碑」です。右側には歩道橋そして左側には横断歩道があります。足に自信のある方は、歩道橋を使った方が速く行くことができますが、私は横断歩道を渡りました。「芥川龍之介生誕の地」から徒歩3分170mほどのところにあります。「本所松坂町跡石碑」は、昭和7年(1932年)に建立されました。現在の設置場所の町名は、「両国」でこれは昭和4年(1929年)に行われた区画整理による町名の変更によるものです。「本所松坂町公園」などの地名は残っていますが、「松坂町」の名が消えてしまうのを惜しまれて建てられたそうです。赤穂浪士の討ち入りで一躍脚光を浴びた「本所松坂町」の名がなくなってしまうのは寂しいものですよね。しかし、それを「本所松坂町跡石碑」に残した人々の努力と地元への相は相当なものだったでしょうね。

《「芥川龍之介文学碑」》
「本所松坂町跡石碑」から先ほどの横断歩道まで戻ると角に「八百屋」(マートヤオケン)があります。そこを右折し70mほど進むと、右手に「墨田区立両国小学校」があり、その角の植え込みに「芥川龍之介文学碑」があります。「芥川龍之介文学碑」は、「両国小学校」の創立百十五周年を記念して平成2年(1990年)に、文化都市づくりの一環として建立されました。場所は、出身校である「両国小学校」(当時は江東尋常小学校と呼ばれてました)の敷地の角です。「芥川龍之介文学碑」には、「芥川龍之介」の自署と設置場所が「両国小学校」ということから児童文学の「杜子春」の一節が刻まれています。「芥川龍之介」は、東京の下町で育ち、江東尋常小学校(現在の墨田区立両国小学校)に通い、「赤穂義士」が最初に立ち寄った「回向院」の境内で遊んだそうです。ただし、「赤穂義士」は入門を拒絶されましたが。「芥川龍之介」の子供時代の愛読書は「西遊記」や「水滸伝」だったといわれています。私も子供の頃に、映画館で見た「西遊記」や「水滸伝」は、ワクワクさせ想像をかきたてるものでした。「杜子春」は「鈴木三重吉」が創刊した童話・童謡雑誌「赤い鳥」の20年7月号に発表された中国・唐代の伝奇小説を下敷きにし、仙人になろうとしてなり得なかった男の数奇な運命を平易な文章で描かれています。現在でも中学校の国語教科書によく採用されているそうです。大学在学中に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、翌年、短編集「羅生門」を刊行し、若くして文壇に華々しく登場しましたが、35歳で自ら命を絶ってしまいました。確か、「羅生門」も国語の教科書に載っていた記憶があります。

《★「吉良邸跡(本所松坂町公園)」》
「芥川龍之介文学碑」から「両国小学校」沿いに60mほど進むと右手に二つ目の角があります。そこを右折し50mほど進むと右手に「吉良邸跡」(本所松坂町公園)があります。「吉良邸跡」は、「忠臣蔵」で知られる「吉良上野介義央」の江戸上屋敷跡です。かつて「吉良上野介」はこの一帯に、東西に「733間」(約134m)、「南北」に34間(約63m)、坪数2,550坪(約8,400㎡)もある広大な屋敷を構えていたそうです。現在の「本所松坂町公園」の面積は、97.56㎡なので、86分の1の規模しかありません。それを考えるといかに広大であったか想像できます。「吉良上野介」が「近藤登之介」の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701年)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703年)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。「吉良邸」は、最初は「鍛冶橋」にありましたが、元禄11年(1698年)の「元禄の大火」で焼失し、その後呉服橋で再建しました。そして、江戸城「松の廊下」での殺傷事件の後で、呉服橋の吉良邸を召し上げられて、江戸郊外の「本所松坂町」に移っていたのです。「吉良邸跡」の往時を偲ぶ高家を表す海鼠壁長屋門を模した塀と門に囲まれ、「吉良上野介」の首を洗ったとされる「首洗いの井戸」や「供養碑」が残されています。また、公園内にある「松坂稲荷大明神」は、江戸時代はじめに「御竹蔵」の水門内に鎮座した「兼春稲荷」で、討ち入り以後に「吉良邸跡」へ地所清めのために遷座したものだそうです。「本所松坂町公園」、は昭和9年(1935年)に、当地で赤穂義士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入し、同昭和9年(1935年)3月に、京都に寄付しました。当時ここは「本所松坂町」と呼ばれていたので、現在は「本所松坂町公園」という名称になっています。

《★「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」》
道路を隔て「吉良邸跡(本所松坂町公園)」の目の前にあるのが「飯澄稲荷」と「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板です。この場所は、「葛飾北斎」の養父である、「中島伊勢」の住居跡だったといわれています。「飯澄稲荷」は、本所松坂町と吉良邸の屋敷神・地域神として祀られているそうです。説明板等はありませんでしたので、残念ながら詳しく分かりませんでした。
「鏡師中島伊勢住居跡」の説明板によると、「中島伊勢」の住居は、「赤穂事件」の後に、町人に払い下げられた「本所松坂町」となったこの辺りにありました。「中島伊勢」は、幕府用達の鏡師で、宝暦13年(1763年)にのちに「葛飾北斎」となる「時太郎」を養子とします。「葛飾北斎」の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は養子縁組を破談とし、実子に家督を譲りますが、その後も「北斎」は中島姓を名乗っていることから、「中島伊勢」の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、「北斎」の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、「鏡師中島伊勢」に嫁いでいるとしています。ちなみに、「鏡師」とは、鏡をつくる人、また、鏡をみがく人のことを言います。「中島伊勢」も芸術家でしょうから「葛飾北斎」の作品に影響を与えているのでしょうか。

《★「吉良邸正門跡」》
「飯澄稲荷」から「両国小学校」方面へ戻り右折すると、20mほど先の右手に「吉良邸正門跡」の説明板があります。「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸正門跡」があります。「吉良邸正門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「赤穂浪士の討ち入り」は、元禄15年(1702年)12月14日、寅の刻(午前4時)の7つ鐘を聞いた後、「大石内蔵助」以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。「赤穂浪士」は「正門」、「裏門」の二手に分かれて、大声を上げながら、百人以上の大勢で討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、「早水富士左衛門」らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し出口を固めたため、飛び出すことも出来なかったといわれています。「吉良邸」の「正門」は、「吉良邸」の東側、「両国小学校側」にありました。「正門」は、「裏門」に比べてかなり頑丈にできていたので、梯子を門の屋根にかけてのぼり、その後、屋敷内に縄梯子を利用して降りて門を開けたといわれています。「大石内蔵助」が指揮をとり、23人が「正門」から斬りこみました。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。

《「本因坊屋敷跡」》
「吉良邸正門跡」から30mほど進むと、「本因坊屋敷跡」の説明板は、「パイオニアINN」ビルの角にあります。ここに「本因坊家」の屋敷があった場所です。囲碁の名門の「本因坊家」の開祖は、「日海」(一世本因坊算砂)で、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の三人に仕えました。そして、「本因坊家」は、「道策」、「丈和」、「秀和」、「秀策」など数々の名棋手を輩出してきました。もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたためその代地として寛文7年(1667年)この場所が屋敷となりました。江戸時代には、「本因坊家」、「安井家」、「井上家」、「林家」の「囲碁四家元」がありましたが、「本因坊家」は、筆頭の地位にあったそうです。現在は、実力制で争われるタイトルの1つとしてその名が残っています。「本因坊家」の墓は、3世の「道悦」までは京都の「寂光寺」に葬られていますが、四世の「道策」から21世の「秀哉」まで歴代本因坊は「本妙寺」に葬られています。「本妙寺」は、豊島区巣鴨にあるので、一度訪れてみたいと思います。

《★「前原伊助宅跡」》
「前原伊助宅跡」は、「本因坊屋敷跡」から「隅田川」方面に130mほど進むと道路の右手にあります。「吉良邸」に向かい吉良邸敷地の南側にあるのが「前原伊助宅跡」です。「赤穂義士」47士の1人である「前原伊助」が「米屋五兵衛」と称して本所相生町の吉良邸裏門脇に店を開業していました。同居の「神崎与五郎」とともに「吉良邸」への出入りなどの「吉良邸」の動向を探っていたそうです。ちなみに「前原伊助」は、赤穂藩が改易となり浪人直後から「吉良邸」に程近い日本橋富沢町で古着屋を開業し、「吉良上野介」が屋敷替えを命じられ本所に移ったときには店を「吉良邸裏門」そばの本所相生町に移し、呉服店を開き探索すします。のちに、「神崎与五郎」が麻布谷町で開いていた店(米穀商)と合同して探索を続け情報の収集に大いに貢献しました。そして、「前原伊助宅跡」は討入りの最終集合場所の一つとなったそうです。現在でいう諜報部員の役割を果たしていたのですね。

《★「吉良邸裏門跡」》
「前原伊助宅跡」の説明板の先の角を右折し、60mほど進むと「吉良邸裏門跡」と「江東義塾跡」があります。「本所松坂町公園」にある「吉良邸跡」ばかりでなく、付近には、「吉良邸裏門跡」があります。「吉良邸裏門跡」には、現在、マンションの前に「ぶらり両国街かど展実行委員会」が建てた説明板が設置されています。「吉良邸」の「裏門」は、「吉良邸」の西側、「回向院」側にありました。「赤穂義士」の吉良邸討入りでは、「裏門」が重要な舞台となりました。というのは、「裏門」は「表門」とくらべて頑丈ではなかったため、大槌を使い、門を壊して討ち入ったといわれています。「大石良雄内蔵助」を総大将とした47士の中で、裏門攻撃の大将を務めたのは「大石良雄内蔵助」の嫡男、「大石主税良金」でした。「裏門」から24名の義士が突入を図りました。赤穂浪士は協力して、気づかれないように情報収集し、「裏門」から攻略するのがベストの選択をした訳ですね。ちなみに、「塀」を乗り越えればいいのではと思う方もいるかも知れませんが、実は、「吉良邸」の東・南・西の三方向には2階建ての長屋を兼ねた塀があり、現在のビルでは3階の高さに相当する「高さ」が6.6メートルもあったそうです。

《「江東義塾跡」》
「吉良邸裏門跡」の斜め左手の露地に「江東義塾跡」があります。文豪「夏目漱石」は、明治19年(1886年)から約1年間教師をしていた「私立学校江東義塾」は、この辺りにあり、併設の宿舎に住んでいました。今は居酒屋の壁に「江東義塾跡」の説明板が設置されており、面影は全くありません。当時「夏目漱石」は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師していたので、「漱石ゆかりの地」の一つのようです。ここで教師をするようになってから、「夏目漱石」はさらに学業に励み、ほとんどの教科で首席をとりました。説明板に、次のようなことも書かれていました。「夏目漱石」は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は5円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後2時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。

《「尺振八の共立学舎跡」》
「吉良邸裏門跡」と「江東義塾跡」から戻るような感じで、「吉良邸跡(本所松坂町公園)」の前を通ると突き当りが「両国小学校」になります。「両国小学校」を回り込むように、突き当りを右折し、すぐ左折し、80m先の角を左折し10mほど進むと、「両国小学校」の敷地内に「尺振八の共立学舎跡」の説明板があります。「両国小学校」のフェンスの内側の目立たない場所にありますので見逃さないようにしてください。
「尺振八」は、下総高岡藩の医師の子として生まれ、「中浜万次郎」や英学者「西吉十郎」らから英語を学び、文久元年(1861年)からは「福沢諭吉」もいた幕府外国方に通弁(通訳)として勤めました。3年間にわたり幕府の遣外使節に通訳として、幕府の文久3年(1863年)の遣欧使節団、慶応3年(1867年)の遣米使節団と二度の使節団に随行しました。明治に入り大蔵省翻訳局に出仕し、明治5年(1872)年には、大蔵省翻訳局長となりました。しかし、明治8年(1869年)に退官し、明治3年(1870年)7月に相生町に設立した英語塾「共立学舎」の教育に専念しました。アメリカへ一緒に同行した「福沢諭吉」は、「慶応義塾」を開設しました。「共立学舎」は寄宿制英語塾でしたが、英語だけにとどまらず、漢字教育も行った洋漢兼学のバランスのとれた私塾であったために開塾後わずか半年で100名を越える生徒数を誇りました。やはり、ヨーロッパとアメリカに行き、西洋文明を自分の目で見て、体験したのが後の人生を大きく変えたのでしょうね。

《「勝海舟生誕の地記念碑」(両国公園)》
「尺振八の共立学舎跡」のある「両国小学校」に隣接して、「両国公園」があり、徒歩で70mほどのところに「勝海舟生誕の地記念碑」があります。「勝海舟」は、文政6年(1823年)1月30日、ここ本所亀沢の父の実家である男谷家に生まれ、「山岡鉄舟」、「高橋泥舟」とともに「幕末の三舟」と呼ばれていました。「勝海舟」は、「佐久間象山」に師事し、蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学びました。ちなみに、「佐久間象山」は、信濃国(現在の長野県)松代藩士で、幕末の天才と呼ばれた人物です。洋学、蘭学、砲術、造艦、天文、医術、あらゆる分野に最先端の深い知識をもち、当時の日本最高の知識人と言われていました。「佐久間象山」は、神田お玉ヶ池付近に塾を開き、松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務め、嘉永4年(1851年)に、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に「佐久間象山塾」を開きました。何と門下生には、「吉田松陰」、「勝海舟」、「坂本龍馬」、「橋本佐内」、「山本覚馬」ら明治維新に貢献した俊才たちがずらりと並んでいます。そして、「海舟」は号で、佐久間象山直筆の書『海舟書屋』からとったものです。「勝海舟」は、安政7年(1860年)1月に、咸臨丸艦長として邦人の手による初の太平洋横断の快挙をなしとげました。慶応4年(1868年)3月には、高輪の薩摩藩邸において「西郷隆盛」と会見し、江戸城無血開城に成功し、江戸市民を戦禍から救いました。明治政府にも重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となりました。もし、「勝海舟」がいなかったら江戸の街は戦場と化し、今の東京はなかったかもしれませんね。

《「小林一茶旧居跡」》
「勝海舟生誕の地記念碑」のある「両国公園」を出て、左方向に150mほど進むと都道463号線(清澄通り)になりますので、そこを右折し60mほど進むと信号(表示名「二之橋北詰」)があります。そこを左折し道路の反対側に渡ります。渡り終えたら右折して60mほど進むと、首都高速7号小松川線の手前の緑地に「小林一茶旧居跡」の説明板が設置されています。その道路の反対側には、「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」と「二之橋跡」の説明板があります。「小林一茶」は文化元年(1804年)に、それまで住んでいた「本所五ッ目大島」(現在の江東区大島)から「本所相生町」の借家に転居してきました。そして、足掛け5年住んだこの借家は一番安定した、心休まるすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は再び弟子や後援者の家を転々と泊まり歩くことになってしまいました。ちなみに、「小林一茶」は、宝暦13 年(1763年)年5月に、柏原宿(現在の長野県信濃町)で農家の長男として生まれました。「小林一茶」は、15歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となりました。私の高校時代の教科書にも掲載された「我と来て 遊べや親の ない雀」の句など人々に愛される独特な句風でした。

《「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」》
都道463号線(清澄通り)を挟み「小林一茶旧居跡」の反対側に、あります。「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」と「二之橋跡」の説明板があります。軍鶏なべ屋「五鉄」は、「鬼平犯科帳」で「長谷川平蔵」と密偵の連絡場所として登場します。「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は堅川」とこの辺りだと推定されます。「鬼平」とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏 の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいながら食べるのは夏の快楽であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。

《★「二之橋跡」》
「鬼平情景 軍鶏なべ屋五鉄」のすぐ目と鼻の先に「二之橋跡」の説明板と現在の「二之橋」があります。「二之橋」の歴史を遡ると、万治二年(1659年)に「竪川」が開削されると五つの橋が架けられました。隅田川に近いほうから「一之橋」から「五之橋」と名付けられました。「二之橋」は、そのニツ目の橋で、長さ十間(18m)、幅三間(5.4m)ほどあったそうです。そして、関東大震災により被災した震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製アーチ橋として架橋され、現在の「二之橋」が架けられたのは平成10年(1998年)です。古くは江戸時代からその名は知られています。火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」には、「二つ目橋」という名前でたびたび登場します。また、「堀部安兵衛宅」に集結していた「赤穂義士」らは、道場を出発した後に、この橋を渡って「吉良邸」へ向かったと言われています。

《★「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)》
「二之橋」を渡り、90mほど進むと信号(表示名「本所二之橋南詰」)がありますので、左折して横断歩道を渡ります。渡り終えたら左方向に戻るような感じで、一つ目の角を右折します。530mほど道なりに進むと、右手に「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)があり、その中に「堀部安兵衛道場跡」の説明板があります。「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)は、昭和52年(1977年)4月1日に開園された児童公園です。私が、訪れた日には、近所の先生に先導された20名近い幼稚園児が、すべり台やウンテイがついたコンビネーション遊具やブランコ、スプリング遊具で楽しそうに遊んでいました。また、公園の土広場では、近所の老人たちがゲートボールを楽しむ姿を目にすることができました。また、公園内には桜の大木が植栽されており、例年3月下旬から4月上旬のシーズンには満開の花を咲かせるそうです。ちなみに、「立川第二児童遊園」が何故「安兵衛公園」と呼ばれているのかは、公園内に設置されている「忠臣蔵討ち入り出発の地ー吉良邸を目指すー」と題した説明板にその由来が書かれていました。説明板には、「吉良邸討ち入り集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。ここから堀部安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄15年12月14日寅の刻。明け方には打ち取りの合図が鳴り響く。吉良邸まではわずかな距離だが、松の廊下事件から1年と9か月、ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったに違いない。」と書かれていました。討ち入り当夜に赤穂義士の終結場所となった堀部安兵衛道場があり、行装を整え出撃して行った場所であったことから通称「安兵衛公園」の名前が付けられました。ちなみに、「堀部安兵衛」は「長江長左衛門」と名前を変え、林町五丁目に住んでいたそうです。また、道路を挟み東の徳右衛門町1丁目には「杉野十平次」が「杉野九一右衛門」と名前を変え、長十郎店一軒を借り住んでいた所でもあります。

《「江島杉山神社」》
「立川第二児童遊園」(安兵衛公園)を出て左方向に進むとすぐに一つ目の角が左手にあります。そこを左折し40mほど進むと信号があります。そこを右折して、1000mほど道なりに進むと右手に「江島杉山神社」の「石鳥居」があります。
「江島杉山神社」は、墨田区千歳にある神社で、神奈川県藤沢市「江島神社」の「弁財天」の御分霊を祀っています。また、その弁財天を深く信仰した「杉山和一」を併せて祀っています。「江島杉山神社」の歴史を紐解いてみると、「杉山和一」は三重県津市の武家の生まれでしたが、幼少期に病により失明し、身を立てるために鍼術を志しました。江戸の「山瀬琢一」に入門しましたが、技術が向上せず師の下を破門されてしまいます。しかし、目の不自由な自分が生きるために何かを成さねばならぬと江ノ島弁天の岩屋に籠り、七日七夜の参籠をしました。満願の日に、外に出ると大きな石に躓いてしまいましたが、何か手に刺さる物があり探ってみると、筒状になった椎の葉に松葉が包まれていました。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」と開眼しました。こうして、現在の鍼治療の主流である管鍼術が誕生しました。躓いた石は「福石」として本社「江島神社」に祀られています。その後京都の「入江豊明」の下で更に鍼術を学び、江戸で開業すると、その噂は瞬く間に広まり、鍼の名人として有名になりました。この「杉山和一」の名声を聞いた5代将軍「徳川綱吉」が、「杉山和一」を「扶持検校」として召し抱え、日夜自身の治療にあたらせました。「杉山和一」は、寛文10年(1670年)1月に、61歳で盲人最高位の役職に就き「鍼治講習所」を開きました。「鍼治講習所」においては、「杉山和一」は、多くの弟子に鍼・按摩技術を教育し職業の確立を進めた世界初の盲人教育の場でした。元禄5年(1692年)5月9日に5代将軍「徳川綱吉」から総検校に任ぜられました。元禄6年(1693年)6月18日に5代将軍「徳川綱吉」から、本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり、翌元禄7年(1694年)には荘厳な「社殿」が建立されました。震災戦災により二つの社殿は焼失しましたが、昭和27年(1952年)に合祀し「江島杉山神社」となりました。「杉山検校」の墓は立川の「弥勒寺」にあります。ちなみに、「検校」とは、盲人の役職である盲官の最高位の名称で、また、盲人の自治的互助組織を当道座と呼び、その最高位は「総検校」と呼ばれました。「総検校」は、音楽の演奏や作曲で活躍する者、鍼灸・按摩の技術が優れたものが選ばれることが多かったそうです。
それでは、さっそく参拝したいと思います。ここで、注意しておきたいのが、西側の「石鳥居」からが正式な「表参道」です。私も当日に最初に「安兵衛公園」へ行ったので、間違えて南側の「石鳥居」の参道から入ってしまいました。どうりで正面に「社殿」がなかったはずです。それなので、西側の「石鳥居」から入りなおしました。「江島杉山神社」と記された社号碑が「石鳥居」の前にあります。その手前には、手前には「杉山和一記念館」と「杉山鍼按治療所」かかれた看板があります。「杉山和一記念館」は、平成28年(2016年)に、「社務所」があった場所に「社務所」兼「杉山和一資料館」が完成したものです。
そして、「参道」を進むと、「参道」が交差するあたりに「二之鳥居」があり、右手に「杉山検校」の石碑があります。私も初めてみましたが、大変めずらしい点字の石碑で、一説には、世界に一つしかない「点字の石碑」だといわれています。この石碑は、大正15年(1926年)に、「杉山和一」に正五位が追贈されたことを記念して建立されたものです。
次に、「二之鳥居」を潜ると右手に「手水舎」があります。さらに、「手水舎」の裏手には、「銭洗所」と「銭洗弁財天」、「美玉洗」があります。まず、手前にあるのが、「銭洗所」で、その奥には平成26年(2014ね)に安置された「銭洗弁財天像」があります。さらに奥には、「授与所」で授与される「勾玉」を洗う「美玉洗」もありました。「美玉洗」のところには、説明板があり、「美玉洗 授与所でお頒している 勾玉をお水で清め 美と長命を祈り 御守りにしてお持ちください」と書かれていました。
また、後戻りして、南側の「石鳥居」をくぐると「弁天池」があり「太鼓橋」を架かっていました。「太鼓橋」の手前から見る「社殿」は、なかなか風情があって印象的でした。「弁天池」と「太鼓橋」は綺麗に整備されていて、何と「太鼓橋」は渡ることもできます。本当に小さな池ですが、「太鼓橋」から見る風景は、心と目を癒されました。「弁天池」の一画には墨田区内最重量の「力石」もありました。文化12年(1815年)に奉納された「力石」で、九拾三貫(約349kg)と刻まれていました。
そして、「太鼓橋」を渡ると正面には、「社殿」があります。昭和27年(1952年)の再建の際に、「江島神社」と境内社「杉山神社」が合祀されました。「社殿」の前の右手には、説明板があり、御神徳として、福徳円満、芸能上達、学業成就、そして、「杉山和一」を祀るせいか、他の寺社では見られない「鍼灸按学術上達」の御利益があるのが興味深かったです。
「社殿」の右手奥には境内社である「杉多稲荷神社」があります。朱色の「鳥居」の奥には小さな祠と小さな神狐像がありました。
「弁天池」の奥にあるのが、ミステリーゾーンの「岩屋」です。ただの洞窟かと思いきやこれが予想外でした。まず、奥に続くのが「岩屋」への道の入口に、寛政8年(1796年)の銘が刻まれた「いわやみちの碑」がありました。現在の「岩屋」は、慶応2年(1866年)に造立され、昭和39年(1964年)に破損していた「岩屋」を修復整備したものです。「岩屋」の内部には「杉山検校像」、「宗像三女神」、「人頭蛇身の宇賀神像」が祀られていました。まず、正面に祀られているのが、柔和で優しい表情をしている「杉山和一検校」の石像です。「杉山和一検校」の石像の右手には、「宗像三女神」の像があります。「宗像三女神」は、「宗像大社」(福岡県宗像市)を総本社として各地に祀られている女神たちのことです。向かって右にあるのが「多紀理比売命」、中央にあるのが「市杵島比売命」、左にあるが「多岐津比売命」です。「岩屋」内は薄暗く、「宗像三女神」も少々劣化しているので見分けにくいかもしれません。「杉山和一検校」の石像の右手には、人頭蛇身となった「宇賀神」の石像があります。そして、それぞれの像の前には、最初はこよりかお線香化と思いましたが、小さな蛇の置物が多数置かれていました。帰り際に「社務所」に立ち寄ってみると、「社務所」で頒布しているもので、参拝者が願い事を込めて「岩屋」に奉納するものだということでした。

《★「一之橋」》
「江島杉山神社」の「一の橋通り」側にある「石鳥居」を出て、右方向に100mほど進むと「首都高速7号小松川線」が見えます。その下をくぐり「一之橋」を渡ると右手の緑地の中に「一之橋」の説明板があります。
「一之橋」は、両国二丁目と千歳一丁目を結ぶ橋で、「隅田川」と「中川」を東西につなぐ「堅川」に架かり、「隅田川」から一番目の橋なので、「一之橋」と呼ばれています。「赤穂義士」が吉良邸討ち入りの後、「泉岳寺」に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。「両国橋」の東詰で休息した「赤穂義士」一行は、「泉岳寺」に向かって引き揚げを開始しました。また、火付盗賊改「長谷川平蔵」が活躍する「池波正太郎」の人気時代小説「鬼平犯科帳」にも「一ツ目橋」として登場する由緒正しき、歴史的には価値のある名橋です。
「一之橋」の歴史を紐解いてみると、江戸幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削しました。そして、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。また、排水路は「隅田川」に対し縦・横に開削されました。「一之橋」は、万治2年(1659年)に、「堅川」の開削と同時に架けられ、「隅田川」から入って「一ツ目の橋」と呼ばれ、長さ十三間、幅二間半ほどありました。この当時は、「堅川」の両岸には全国から江戸に水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び「一之橋」を行き交う人々も大変多く、大いに賑わったそうです。そして、大正12年(1923年)の関東大震災により被災し、震災復興事業橋として昭和4年(1929年)に鋼製桁橋として新たに架橋されました。現在の「一之橋」は、昭和54年(1979年)に完成し、長さが36.90m、幅が15.00mあります。「一之橋」の上部を首都高速7号小松川線が横切り、すぐ西側に「竪川水門」があります。

《★「討ち入りそば跡」》
「一之橋」の説明板のところに信号(表示名「一之橋北詰」)があります。左折して横断歩道を渡ると左手に道路があります。そこを左折すると、二軒目の右手にある民家の付近が「討ち入りそば跡」らしいということです。吉良邸討ち入りの前夜に、討ち入り前の縁起をかついで、ひそかに江戸市中のそば屋に集まり、赤穂義士47人がそば屋に勢揃いし、そばを食べたとされる場所が「討ち入りそば跡」です。しかし、それが本当かどうかの真相は明らかではなく、食したべたものが「そば」なのか「うどん」かも不明のエピソードです。
調べてみると、両国のそば屋「楠屋十兵衛」に集結した説を唱える「泉岳寺書上」という古文書と赤穂義士でただ一人残った「寺坂信行」が「赤穂事件」後に記した「寺坂信行筆記」などがありました。
前者の「泉岳寺書上」は、結論から言うと偽書だそうです。確かに、討ち入りという大事の前に、47人もの大人数が一か所に集まると人目につき、吉良側の間者に不穏な動きがあるのを知られてしまい、討ち入りは成功しなかったでしょう。それと当日の元禄15年(1702年)12月14日は、「赤穂義士」たちは人目を避けるために、実際には本所林町五丁目の「堀部安兵衛宅」、本所三つ目横町の「杉野十平次宅」、本所二つ目相生町三丁目の「前原伊助・神崎与五郎宅」の三ヵ所に分散して集結していたそうです。ただし、「寺坂信行筆記」によれば、「吉田忠左衛門」、息子の「吉田沢右衛門」、「原惣右衛門」ら6~7人が両国矢ノ倉米沢町にある「堀部弥兵衛宅」で供応を受けたあと、両国橋向川岸町の茶屋「亀田屋」に立ち寄り、そば切りなどを食べたのは、事実だということです。そして八つ時(午前二時)前に「堀部弥兵衛宅」へ集まったという内容があり、それが討ち入りそばの話のもとになったのかもしれないですね。私の私見ですが、人形浄瑠璃や歌舞伎でこの「赤穂義士」の仇討ち事件を演目に取り上げるうちに脚色されて、このようなエピソードが盛り込まれていったのかもしれませんね。ちなみに、この赤穂義士の仇討ち事件を題材 にした「仮名手本忠臣蔵」は、寛延元年(1748年)に、大阪の道頓堀にある「竹本座」での人形浄瑠璃の初演以来、興行して不入りのことがなかったほど盛況だったそうです。
「そば」と言えばもう一人忘れてはならないのが、宝蔵流の槍や剣術は神陰流の達人である「杉野十平次」です。赤穂藩が改易になって以降は、江戸に潜伏し、江戸では赤穂義士の会合と集合場所に使われた剣術道場を構えたり、夜鳴きそば屋に扮して吉良邸の情報を探っていました。「杉野十平次」は、吉良邸の門番にそばを大盛りに、あるいは、酒を振る舞ってだきこみ、そして、水をくませてくれなどとうまいことを言って邸内に潜入し、諜報活動を続けたそうです。屋号は、大きな的に矢が当たっている図柄にして、「当たり屋十助」としました。また、ここにも逸話があります。「杉野十平次」が、ある日流して歩いていると夜稽古をしている槍術の名人「俵星玄蕃」と出会います。「俵星玄蕃」は「杉野十平次」の様子を見ただけで、武士と見抜きました。そして、「俵星玄蕃」の道場に招き入れられ交流が始まりました。「俵星玄蕃」は、槍で突いた俵を放り投げて積み上げるという「俵突き」という技で有名ですが、もとより俵星玄蕃については、後年に講釈師の創作した逸話とされています。ここでも「忠臣蔵」が脚色され、いかに人気があったかが推測できますね。

《「元町跡」》
「討ち入りそば跡」から「一の橋通り」を両国駅方面に150mほど進むと、三つ目の角の左手に「元町跡」の説明板があります。「元町跡」は、現在の 両国一丁目あたりで、この一帯で最初に拓かれた町屋なので「元町」といいます。町?は四つに分かれ、総坪数は3263坪でした。寛文11年(1671年)の寛文図には「回向院門前」に「ちゃや」、竪川沿いに「ざいもく」とあり、門前町として賑わっていたことがうかがわれます。また、10万人を超える死者が眠る「回向院」には、墓参のため、身分や年齢を問わず、多くの人々が訪れ、「両国橋」から「回向院」に向かう通りは、「回向院利参道」としておおいに賑わっていたそうです。

《「与兵衛鮨発祥の地」》
「元町跡」の説明板がある同じ区画、40mほど先の左手に「与兵衛鮨発祥の地」の説明板があります。
「与兵衛鮨発祥の地」には、握り鮨を発明したともいわれる「与兵衛鮨」という店の発祥と「にぎり鮨」の発祥に関しての説明板が設置されていました。かつて「すし」と言えば 上方風の「押しずし」が主流でした。蔵前の札差「板倉屋」の手代だった「華屋与兵衛」は、道楽中に覚えた味から握りの「こはだ鮨」を考案し、それを岡持ちに入れて夜の繁華街を売り歩くと、新鮮なネタをその場で握る鮨の味が江戸っ子に受けて飛ぶように売れました。やがて屋台を出し、ついには「与兵衛鮨」という店を構えるようになりました。残念ながら「与兵衛鮨」は昭和5年(1930年)に廃業しました。ちなみに、江戸前でとれるネタが使われた江戸前の握りずしのシャリは現在のものより2倍ほど大きく、粕酢の影響で赤みがかかっていたそうです。そして、現在は人気のネタであるマグロは、江戸時代においては、価値の安い魚である下魚とされていました。江戸湾近海でよく獲れており、保存方法が発達しておらず傷みやすいことから値段の安い魚だったようです。マグロを鮨で食べるようになったのも江戸時代です。安く仕入れたマグロを醤油につけておき、鮨にしたところ大ヒット。こうしてマグロの鮨が誕生したそうです。

《★「赤穂浪士休息の地」》
「与兵衛鮨発祥の地」の説明板のすぐ先にある角を右折し、「両国橋」方面に90mほど進むと「赤穂浪士休息の地」、「旧両国橋・広小路跡」、「石尊垢離場跡」の3つの「説明板」が隣接しています。
元禄15年(1702年)12月14日に「本所松坂町」(現墨田区両国3丁目) の「吉良邸」に討ち入って本懐を遂げた赤穂浪士の一行が、主君である「浅野内匠頭」の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う「赤穂事件」で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。「赤穂浪士」が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった「広小路」です。この辺りには忠臣蔵関連の跡地等がいろいろあります。案内板がなければここが「赤穂浪士休息の地」と分かりませんが、忠臣蔵のファンにとっては、聖地の内の一つであり、たまらないのではと思いました。その後、一ツ目通りを引き上げる途中で「乳熊屋味噌店」に立ち寄りました。ここでは、甘酒の接待を受けて休息したのちに、永代橋を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。ちなみに、「ちくま味噌店」の初代「竹口作兵衛」が赤穂義士の「大高源吾」と同じ俳人「室井其角」の門人であったことから、討入り本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞ってその労をねぎらったと伝えられています。勝利の美酒ならぬ勝利の甘酒ですね。当日は、雪も降っていましたし、甘酒粥で赤穂浪士たちの心も体もさぞかし暖まったことでしょうね。

《「旧両国橋・広小路跡」》
「両国橋」の両側には、「火除け地」としての「広小路」が設けられ、江戸随一の繁華街となりました。「旧両国橋」は現在の「両国橋」の下流約50mの所に架かっていました。完成は万治2年(1659年)12月です。明暦3年(1657年)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架けました。「両国橋」は、「武蔵」と「下総の国」を結ぶ橋なので、「両国橋」と呼ばれました。「両国橋」の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、何と遠くは常陸の筑波山まで見えたそうです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には「火除け地」としての「広小路」が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」(両国側)と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。そして寛保2年(1742年)の調査では1日に2万人以上が「両国橋」を往来したとされています。また、東側の広小路には、赤穂浪士休息の場所があり、広小路と赤穂浪士の説明板があります。

《「石尊垢離場跡」》
「石尊」とは、神奈川県伊勢原市にある「大山」のことで、標高1,252mの山で、気軽に登れるので江戸中期に「大山詣」は大変人気がありました。「大山」の山頂の「阿夫利神社」は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。「大山詣」に出かける前に、両国橋東詰の袂の「石尊垢離場」で水垢離を行い、「奉納大山石尊大権現」と書かれた納太刀を持って出かけたそうです。「石尊垢離場」では、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子…」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したそうです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。ちなみに、水垢離とは、神仏に祈願する時、冷水を浴びて汚れを除き心身を清浄にすることです。やはり、、神仏に祈願する時は、このような神聖な儀式が大切なのですね。

《「片葉の葦」》
「赤穂浪士休息の地」、「旧両国橋・広小路跡」、「石尊垢離場跡」の3つの「説明板」から「両国橋」方面に40mほど進むと、「片葉の葦」、「駒留橋跡」、「藤代町跡」の3つの「説明板」が並んでいました。
「片葉の葦」は説明板によると、「駒留橋」が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、「片葉の葦」と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹きこみ方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議のひとつとされていました。しかし、この葦には悲しくも恐ろしい物語が語り継がれています。本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。

《「駒留橋跡」》
「駒留橋跡」は説明板によると、「駒留橋」は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ2間半(約4,5m)、幅2間(約5,4m)の小さな石の橋で、「藤代町」と「東両国広小路」を結んでいました。その堀の幅はもっとも広いところが4間(約7,2m)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。「本所七不思議」の一つである「片葉の葦」が生えていたので、別名、「片葉堀」といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所だったそうです。ちなみに、「本所七不思議」の一つである「片葉の葦」には、悲しく、恐ろしい物語があります。本所横網町の長屋にならずものの留蔵という者が住んでいました。亀沢町に住む「お駒」という美しい娘に惚れ、しつこく付け回すが、相手にされませんでした。ある日、「留蔵」は、「駒止橋」でお駒を待ち伏せし、懐にした合口で、背後から、袈裟懸けに切りつけて殺してしまいました。恐ろしいことに、「お駒」の死骸の手足を切断し、堀に蹴りこみ沈めたという。それ以降、その堀に生える葦の葉は片方にしか生えなかったというものです。今でいう「バラバラ殺人事件」ですね。

《「藤代町跡」》
「藤代町跡」は説明板によると、かつてこの辺りにあった町名です。その由来は、享保年間に麹町に住んでいた「毛利藤左衛門」は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀25000坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれているそうです。「回向院」や「向島」に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所だったようです。残念ながら「藤代町跡」の説明板付近には面影を残すものは何一つありませんでした。

《★「大高源吾句碑」》
「片葉の葦」、「駒留橋跡」、「藤代町跡」の3つの「説明板」から30mほど進むと、「両国橋」の袂に「両国橋児童遊園」があり、「大高源吾句碑」は国道14号(京葉道路)沿いにあります。
「大高源吾句碑」は、昭和3年(1928年)に建立されました。「吉良邸」への討入り当日に、赤穂義士の1人である「大高源五」の知人が近所で年忘れ句会を開いていました。その中の1人に、「松尾芭蕉」の弟子である「宝井其角」がいました。「宝井其角」が句を詠むと、目的を遂げた「大高源五」がその場で返句したといわれています。「大高源吾句碑」には、「大高源五」と「宝井其角」が詠んだ句が刻まれています。「宝井其角」が「我が物と 思えば軽し 笠の雪」と句を詠むと「大高源五」は、「日の恩や、忽ち砕く、厚氷」と返したそうです。「宝井其角」が詠んだ句意は「自分のためと思えば、苦労も負担に感じない。」で、「大高源五」が詠んだ句意は、「太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷が、たちまち融けました。」で要は、赤穂の浪士一同は、お蔭さまで本懐をとげて、積年の恨みを、すっかり晴らすことができたということです。「大高源五」は俳人でお茶も嗜むことから、「吉良上野介義央」の在宅の日の情報を、「吉良上野介義央」のお茶の師匠でもある「山田宗偏」から入手しました。同志の「前原伊助」のように、「大高源五」も情報取集にあたっていたのですね。

《★「両国橋」》
東京都墨田区(東側)と東京都中央区(西側)の間を流れる「隅田川」(旧「大川」)に架る橋が「両国橋」で、「隅田川」では「千住大橋」に次いで、2番目に架橋された橋です。貞享3年(1686年)に「利根川」東遷で「武蔵国と下総国境」が変更されるまでは、現在の墨田区側が「下総国」という地名で、二つの国をつなぐ橋だったので「両国橋」という名前が生まれました。当時の江戸幕府は、防御的な意味合いで「隅田川」の橋は「千住大橋」を除いて架橋が許されませんでしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で、橋がないことで多くの人が逃げ場を失い多数の死者が出たということから両国橋が架けられたそうです。当初は「大橋」が正式名で、「両国橋」は俗称でしたが、元禄6年(1693年)に、「隅田川」の3番目の橋として「新大橋」が架橋されたため、「両国橋」が正式名になったそうです。現在の橋は、昭和5年(1930年)に関東大震災からの帝都復興で東京市が架橋した橋です。長支間の鈑桁橋で架設当時は、言問橋や大阪市の天満橋とともに「三大ゲルバー橋」の一つと言われ威容を誇りました。構造形式は、3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で「橋長」は164.5m、「幅員」は24.0mです。
「赤穂義士」は討ち入り後、この当時の隅田川には、「両国橋」、「新大橋」、「永代橋」の橋があり、「泉岳寺」へはいずれかの橋を渡らなければなりませんでした。前方から上杉家、後方から津軽家の追手を警戒して、「両国橋」を渡らず、「永代橋」へ向かって南下した。また、「両国橋」が近道でしたが、毎月1日と15日は、御禮日で江戸在府の大名、旗本は総登城するのが慣例であり遠回りの「永代橋」へ向かいました。

《★「回向院」》
「両国橋」から280mほど、国道14号(京葉道路)沿いに戻ると右手に「回向院」の正門があります。
討ち入りが終了した元禄15年12月15日午前6時、「吉良上野介」の首級を取った「赤穂義士」は、「吉良邸裏門」から引き揚げ、隣接する無縁寺である「回向院」にひと時の休息と待機を求めました。しかし、「回向院」は、返り血に濡れた「赤穂義士」の境内への立ち入りを拒絶しました。そのため「両国橋」東詰へ移動し、小休止を取ることにしたそうです。
「回向院」は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、「諸総山無縁寺回向院」と呼ばれています。そして、「回向院」の理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」で、江戸時代から変わることなく引き継がれています。なぜ、それは何故かと言うと、「回向院」が開かれた明暦3年(1657年)に、江戸では、「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。そのようなことから無縁寺とも呼ばれている訳です。江戸は火事が多い街で、人口の増加による家屋の密集、冬場に吹く「からっ風」がその要因に挙げられます。その中でも明暦の大火は「振袖火事」でその名が知られています。そして、当時の将軍「徳川家綱」は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸にある現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが「回向院」の歴史の始まりです。
では、「回向院」の「山門」を潜ります。「回向院」の「正門」は、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。「正門」の「扁額」と「寺号碑」に注目してください。扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「?向院」と表記されています。
次が、「力塚の碑」が参道を進むと右手にあります。「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。
更に進むと「塩地蔵」があります。「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。
次に、「鳥居清長顕彰碑」です平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。「鳥居清長」は、江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。
更に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」です。「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。その他の見どころである、「水子塚」、「千体地蔵尊」、「馬頭観世音菩薩像」、「オットセイ供養塔」、「猫塚」など多数あります。

これで両国付近での「赤穂義士」を巡る散策は終了しました。「赤穂義士」ゆかりの地や近辺に点在する名所・旧跡も合わせて、ゆっくり回

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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