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「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第2回目は、江東区にスポットをあてて巡ってみました。「赤穂義士」は、討ち入りのあと「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。このあたりから「新大橋」にかけて、「御船蔵」がありました。現在の位置より200mほど南に架けられた「新大橋」を右手に見て南下しました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。ちなみに、「ちくま味噌」の初代店主の「竹口作兵衛」は、松尾芭蕉の高弟である宝井其角を通じて大高源吾と交流があったそうです。その後、「永代橋」をくぐって、さらに南下しました。そして、江東区の最後の「赤穂義士」スポットとして、吉良邸討ち入りの最終会議である「深川会議」の行われた「富岡八幡宮」を訪ねてみました。<br /><br />《江東区付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡<br />①「新大橋」⇒②「御船蔵跡碑」⇒③「江東区芭蕉記念館」⇒④「旧新大橋跡」⇒⑤「芭蕉稲荷神社」(深川芭蕉庵跡)⇒⑥★「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」⇒⑦「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)⇒⑧「川船番所跡」⇒⑨★「萬年橋」⇒⑩「陸奥宗光宅跡」⇒⑪「平賀源内電気実験の地」⇒⑫「本邦セメント工業発祥の地」⇒⑬★「上之橋」(旧上之橋親柱)⇒⑭★「観光高札中之橋跡」⇒⑮★「観光高札 油堀跡」(下之橋)⇒⑯★「赤穂義士休息の地碑」⇒⑰★「永代橋」⇒⑱★「富岡八幡宮」(深川会議)<br /><br />当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、都営新宿線の「森下町駅」で下車しました。まず「新大橋」とその橋の袂にある「御船蔵跡碑」へ向かいました。都営新宿線の「森下町駅」のA1出口を出て「新大橋通り」沿いを300mほど左方向に道なりに進みます。すると前方に「新大橋」が見え、「新大橋」の橋の手前にある「新大橋東詰公園」の中に「御船蔵跡碑」があります。<br /><br />《新大橋》<br />「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流の「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1693年)12月に、「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。この橋の架設により 江戸市中との交通が便利となり 深川の発展に大きく影響しました。そして、「旧新大橋」のできた経緯は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」が、「隅田川」に橋が少なく不便を強いられていた江戸庶民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられ、西岸には「水戸藩御用邸」、東岸には幕府御用船「安宅丸」の係留地を橋詰としていました。また、当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。その後、「新大橋」は幾度となく架けかえられましたが、明治45年(1912年)7月19日に、現在の位置に鉄橋の「新大橋」が架橋されました。この鉄橋の「新大橋」は、大正12年(1923年)9月1日の午前11:58に発生した「関東大震災」と第二次世界大戦の東京大空襲(1945年)にも耐え、橋の上で多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。そして、昭和52年(1977年)3月27日に現在の橋に架けかえられました。また、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されているそうです。<br /><br />《「御船蔵跡碑」》<br />江戸時代には、「一の橋」の南から「旧新大橋」の手前にかけての一帯に、江戸幕府の艦船を格納する「御船蔵」がありました。この4890坪の広大な土地に14棟の船蔵が並び、巨大な軍船「安宅丸」が船蔵の外に係留されていました。明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので 「御船蔵」と呼ばれていました。また、この付近にあった「安宅町」という地名は「安宅丸」から由来しています。ちなみに、「安宅丸」は、江戸幕府二代将軍「徳川秀忠」が寛永8年(1631年)に、御船手奉行の「向井将監」に造船を命じ、寛永11年(1634年)に伊豆の伊東で完成しました。三代将軍「徳川家光」は、翌寛永12年に品川沖で試乗したのち、「御船蔵」に係留されたそうです。そして、天和2年(1682)の五代将軍「徳川綱吉」の時に、推進力に乏しい「安宅丸」は解体されました。それ以降は「天地丸」が幕府の最大鑑となります。「御船蔵跡」は、明治2年(1869)に市街地に編入され、「安宅丸」から俗称を継いで「深川安宅町」とされました。<br /><br />《「江東区芭蕉記念館」》<br />「御船蔵跡碑」から90mほど戻ると信号(表示名「新大橋」)があります。信号を右折し、「萬年橋通り」沿いに180mほど進むと右手に「江東区芭蕉記念館」があります。<br />「江東区芭蕉記念館」は、昭和56年(1981年)4月に開館した3階建の記念館で、主に、「松尾芭蕉」関係資料の収集及び展示をしています。展示室だけなく、その他に図書室、研修室、会議室などの施設も完備しています。本館1Fには「事務室」及び「会議室」、2Fは「展示室」と「研修室」そして3Fは「常設展示室」、「図書館」と「収蔵庫」があります。また、1Fには日本庭園があり、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられており、四季折々の草花を楽しむことができます。築山には、芭蕉庵を模した祠と芭蕉像があります。また、園内には句碑3基があります。また、200mほど離れた分館には、「芭蕉庵史跡展望庭園」あり「隅田川」の風景などを満喫できます。まずは、3Fにある「常設展示室」の見学です。常設展示には、「松尾芭蕉」はどのような人物で、どのような時代に生きていいたのか、そして「松尾芭蕉」が「深川芭蕉庵」でどのように過ごし、深川での俳諧活動や「深川」との関連性をパネルなどにより、わかりやすく展示しています。常設展を見終えたら次は、下の2Fフロアーにおり「企画展示」の見学です。「企画展示」では、2023年度後期の「元禄の深川と俳諧―芭蕉の時代、三都の俳諧師」と題した展示を2024年4月21日(日)までの予定で開催していました。どのような内容の企画展かというと、元禄時代の俳句というと「奥の細道」の旅に代表される「松尾芭蕉」の活躍が頭に浮かんできますが、それ以外の俳人は浮かんできません。しかし、実際には当時の俳諧は「松尾芭蕉」以外にも京都の「伊東信徳」、「池西言水」、大坂の「小西来山」、「椎本才麿」、江戸の「水間沾徳」、「芳賀一晶」をはじめ、各地で有力な俳人が活躍する時代だったそうです。そして、元禄時代の俳諧の世界と「松尾芭蕉」が生きた元禄時代の江戸深川の町の姿を紹介していました。「松尾芭蕉」のことをよく知ることができました。<br /><br />《旧新大橋跡》<br />「江東区芭蕉記念館」の正門入口を出て右方向に180mほど「萬年橋通り」沿いを進むと、歩道の右手に「旧新大橋跡」の石碑があります。<br />前日の「新大橋」の説明と同じになりますが、「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流、「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は元禄6年(1693年)12月に、この地先の「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。<br /><br />《「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」》<br />「旧新大橋跡」の石碑から140mほど「萬年橋通り」沿いを進み、二つ目の角を右折すると「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」が右手にあります。<br />「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」は、「松尾芭蕉」が江戸深川に居を構えた「深川芭蕉庵跡」です。40mほど先の隅田川沿いには、「芭蕉庵史跡展望庭園」や「江東区芭蕉記念館」があり、この周辺は「松尾芭蕉」ファンにとって必見の歴史散策スポットです。「深川芭蕉庵」は、延宝8年(1680年)に門弟の「杉山杉風」から草庵の提供を受けたもので、元禄2年(1689年)の「奥の細道」も、この「深川芭蕉庵」が旅の起点となっています。ただし、「奥の細道」では、隅田川を遡り、千住で下船し、日光街道を北上するルートをとっているため、千住が「奥の細道 矢立初めの地」ということになっています。また、「奥の細道矢立初めの地」は「千住大橋公園」内にあります。「奥の細道矢立初めの地」は「松尾芭蕉」の「奥の細道」の600里の旅の始まりの句を詠んだといわれている場所です。ちなみに、「松尾芭蕉」が蕉風俳諧を確立した句として有名な「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」も貞享3年(1686年)にこの「深川芭蕉庵」で詠んだ句だそうです。「松尾芭蕉」は全国をまわり色々な所にその足跡を残していますね。足立区と荒川区の「奥の細道 矢立初めの地」論争もおもしろいものですよ。いずれにせよ「隅田川」を遡り、千住で下船し、日光街道を北上したのは間違いありません。<br />肝心の「芭蕉稲荷神社」は、江東区常盤1丁目にある稲荷神社です。「芭蕉稲荷神社」は、大正6年(1917年)の台風による高潮が来襲の後に、「松尾芭蕉」が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故「飯田源太郎」等地元の人々の尽力により、ここに石蛙を御神体として稲荷を祀って「芭蕉稲荷」が創建されました。この辺りに芭蕉の住んだ芭蕉庵があったとされ、大正10年(1921年)の東京府により常盤1丁目が旧跡に指定されました。<br /><br />《★「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」》<br />「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」から40mほど奥に入ると、「隅田川」の堤防の手前右手に「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」と「芭蕉庵史跡展望庭園」へのぼる階段入口があります。<br />「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」の説明板を要約すると、「泉岳寺に向かうために、本所の吉良邸から「堅川」の「一之橋」を渡り「隅田川」沿いの道を南下し、「小名木川」の「萬年橋」、佐賀町あたりの「上之橋」、「中之橋」、「下之橋」を渡って「永代橋」のふもとでひと息入れたと伝えられています。この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。」と記述されていました。また、この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。今も昔も「赤穂浪士」は人気抜がありますね。「赤穂浪士」ファンの私にとって、今日、ここへ来て「赤穂浪士」達と同じ道を歩いているのだと思うと胸に感激が込み上げてきます。<br /><br />《「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)》<br />「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)は、隅田川テラス沿いの隅田川が小名木川と合流するところにあります。「芭蕉庵史跡展望庭園」から見る四季折々の水辺の風景は、「松尾芭蕉」が愛した場所です。「芭蕉庵史跡展望庭園」内には、「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフがありました。何と「芭蕉翁像」は17時に回転するそうです。残念ながら、「芭蕉庵史跡展望庭園」が開園している時間は9:15~16:30なので、像が回転しているところは間近で見ることはできません。「芭蕉記念館分館」は、公民館のように有料で会議室を貸し出す施設なので、見る価値はあまりありません。いずれにせよ「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフを見ていると、歴史的背景や松尾芭蕉が愛した当時の風景が目の前に浮かんできます。<br /><br />《川船番所跡》<br />「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)から「萬年橋通り」に戻り、通り沿いに20mほど進むと、「萬年橋」の手前の小さな公園の中に「川船番所跡」があります。<br />「川船番所」は幕府により設けられた番所で、「萬年橋」の北岸に置かれ、川船を利用して「小名木川」を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありません。恐らく正保4年(1647年)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から「小名木川」を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田や日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。明暦3年(1657年)の大火後に、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661年)に現在の江東区大島の9丁目付近の「中川口」に移転しました。以後「中川番所」として機能することとなり、「川船番所」は「元番所」と呼ばれたそうです。ちなみに、「中川番所」は、寛文元年(1661年)に、江戸を出入りする船が頻繁に訪れる中川にできたのが「中川番所」です。夜間の出船や女性の運行、鉄砲などの武器や武具、物資の出入りなどを取り締まっていたそうです。江東区と言えば大部分が埋立地ですね。江戸時代からすでに埋め立てられ船舶等の交通の要所になっていたというのを初めて知りました。<br /><br />《★「萬年橋」》<br />「川船番所」から20mほどのところに「萬年橋」があります。「萬年橋」は、「小名木川」と「隅田川」との合流点に架けられた橋で、架橋された年代は不詳ですが、寛永年間に、猟師町が出来たときに木橋が架けられ、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。江戸時代には、この橋の北岸に「小名木川」を航行する船を取り締る通船改めの番所である「川船番所」が置かれていました。この番所は寛文年間の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれていました。「小名木川」に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。「万年橋」も虹型をした優美な橋で、また、富士山がきれいに見える名所として知られ、「葛飾北斎」の「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として描いています。また、「安藤広重」の「名所江戸百景」には、「深川万年橋」として描かれています。現在の橋は、昭和5年(1930年)に震災復興橋梁として架けられ、長が56.6m、幅が17.2m、架設形式は1径間鋼製アーチ橋として完成いました。この橋の東側には「新小名木川水門」が設置され、西側には「松尾芭蕉」の住居である「深川芭蕉庵」がありました。「赤穂義士」も「泉岳寺」に引き上げる際に、「一之橋」、「萬年橋」、「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」、そして「永代橋」を渡り江戸市中に入りました。<br /><br />《「陸奥宗光宅跡」》<br />「萬年橋」から「萬年橋通り」を210mほど直進すると「清洲橋通り」に交差する信号があります。信号を右折し、160mほど進むと、歩道の左側に「陸奥宗光宅跡」の説明板があります。<br />「陸奥宗光宅跡」は、明治時代に外交官、政治家として活躍した「陸奥宗光」の邸宅跡です。「陸奥宗光」は、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)まで、ここ深川清住町(現清澄)に住み、明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。特に、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるいました。また、「陸奥宗光」は、「日英通商航海条約締結」を実現し、「日清戦争」の開戦と講和に関わりました。ちなみに、「陸奥宗光」は、あの「坂本龍馬」の海援隊 にも参加しました。幕末の動乱期を乗り越え、明治政府でも活躍した人物なのですね。<br /><br />《「平賀源内電気実験の地」》<br />「陸奥宗光宅跡」の所にある交差点を左折し、120mほど「佐賀町河岸通り」を進むと、二つ目の角の手前の歩道の左側に「平賀源内電気実験の地」の説明板があります。<br />「平賀源内」は、「後藤利春」が著作した「紅毛談」(おらんだばなし)を読んで、「エレキテル」に興味を持ったそうです。そして、「平賀源内」は、エレキテルを長崎で入手し、深川清住町の自宅で模造品の製作に取り組みます。まるで、薩摩の島津藩が本を読んで作成した蒸気機関や反射炉と一緒ですね。「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。「平賀源内」が製造したと言われる「エレキテル」は2台残っているそうです。墨田区押上にある「郵政博物館」に収蔵される平賀家伝来の「エレキテル」は、国の重要文化財に指定されています。もう一台は、香川県さぬき市にある「平賀源内先生遺品館」に展示されているそうです。ちなみに、「エレキテル」はオランダ語で電気、電流を意味するそうです。しかし、この「平賀源内電気実験の地」の碑をみて、「平賀源内」の自分で極めると言う追求心と自分も何かにチャレンジしなければと思いました。<br />「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。<br /><br />《「本邦セメント工業発祥の地」》<br />「平賀源内電気実験の地」の説明板の先の角を左折し、70mほど進むと左手に「本邦セメント工業発祥の地」の碑があります。<br />「本邦セメント工業発祥の地」は、日本で初めてのセメントを作り上げた工場があった場所です。「本邦セメント工業発祥の地」敷地には、創始者である「浅野総一郎」の像と海中に沈められた初期に作製した防波堤の基礎部分のコンクリートがそのままの形で展示されています。これが約150年前に作製されたものとは思えないくらい現状を留めています。創始者の「浅野総一郎」の像は、温和な表情で未来を見つめている感じがします。現在の高層ビル群を予見していたのかのような優しい眼差しです。歴史を遡ってみると明治8年(1871年)に、工部省が、ここで本格的なセメント製造に成功しました。それまでは、高価な外国製のコンクリートを輸入していたのですが、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。そして、明治16年(1883年)に創業者の一人である「浅野総一郎」が払い下げを受け、その後民間初のセメント工場として発展しました。ちなみに、当時の国産のセメントの製造方法は、すぐそばの隅田川、仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の上、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。現在のセメントは、山で採掘した石灰石と粘土類を粉砕し、1400度で焼成し、誕生したクリンカー(焼塊)を再度粉砕して製造していますが、明治時代に官営工場が採用したのは、湿式焼成法。消石灰と周辺の隅田川の河底泥土を原料に、撹擾池と呼ばれる池中で6:4の割合で混合、水を加えて攪拌し、微粒の混じった泥水を沈殿池に送って沈殿させ、スラリー(沈殿した泥)を乾燥させ、レンガ造りの徳利窯で焼成して、ようやくクリンカー(焼塊)が生み出されるという、手間隙かかる方法だったそうです。<br /><br />《★「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)》<br />「本邦セメント工業発祥の地」から「佐賀町河岸通り」まで戻り横断歩道を左折すると、すぐ目の前に「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)があります。<br />「上之橋」は深川の仙台掘が隅田川と合流するところに架けられていた橋です。江戸時代から昭和59年(1984年)に「清澄排水機場」の建設に伴い撤去されるまで、佐賀町河岸通りに架かる橋として大きな役割を果たしていました。江戸時代の深川には多くの水路が張り巡らされており、「上之橋」の100mほど南には「中之橋」が、さらに南には油掘に架かる「下之橋」がありました。現在、「中之橋」が架かっていたところには当時の名残として「観光高札中之橋跡」が、「下之橋」が架かっていたところには「観光高札油堀跡」があります。これらの橋により佐賀町は上佐賀、中佐賀、下佐賀に分けられていました。現在は水路が埋め立てられたため、「上之橋」、「中之橋」、「下之橋」もありませんが、ここに橋があったという江戸の痕跡として、「上之橋」が架かっていた場所には、昭和5年(1930年)に関東大震災の震災復興事業により架設された最後の「上之橋」の「親柱四本」が残されています。かつては、「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。また、「上之橋」は、時代小説の中では、池波正太郎著「剣客」、「のっそり医者」に登場しています。「上之橋」を北に渡り進むと、小名木川に架かる「萬年橋」があり、さらに進むと「竪川」に架かる「一ツ目橋」になります。これら二つの橋は時代小説には頻繁に登場する橋です。<br /><br />《★「観光高札中之橋跡」》<br />「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)からさらに130mほど進むと右手に、「中之橋公衆トイレ」がありその前に「観光高札中之橋跡」があります。<br />「清洲橋」と「隅田川大橋」の間の佐賀町で高札を見つけました。以前はこの「中之橋」以外に「下之橋」、「上之橋」と三つの橋が架かっており、最初は木場の材木問屋たちが管理していましたが、江戸幕府により架け替えられたそうです。「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。もう少し詳しく見てみると、「隅田川」につながっている川が三本並んでいました。この三本のうち、一番上にあったのが「仙台堀川」です。真ん中にあったのが「中之堀川」で、一番下手が「油堀川」と並んでいました。そこで、当時人々はこの三本の堀川を、一番上流側の「仙台堀川」を「上之堀」、逆に下流側の「油堀川」を「下之堀」と呼んで、その間にあるこの川を「中之堀」と名付けたそうです。同じように河口に架かる橋も「隅田川」に対して上、中、下、すなわち、「仙台堀川」には「上之橋」、「中之堀川」には「中之橋」、「油堀川」には「下之堀橋」がそれぞれ架けられていましたが、残念ながら、現在はいずれも残っていません。<br />ちなみに、「高札場」は「高札」という木の札をかけた掲示板のような場所で、奈良時代末期から重要な街道沿いなどに置かれました。民衆に情報を素早く伝える目的があり、高札には幕府や領主が出した法令や掟が書かれています。江戸時代には全国各地に多くの高札場が設けられましたが、残念ながら明治時代に政治体制が変わるとともに撤去されました。<br /><br />《★「観光高札油堀跡」》<br />「観光高札中之橋跡」から「佐賀町河岸通り」沿いを220mほど進むと、「首都高速9号深川線」の高架下をくぐったすぐ先の左側に「観光高札油堀跡」があります。<br />「清洲橋」と「隅田川大橋」の間の佐賀町で高札を見つけました。「油堀」は、隅田川から冨岡八幡宮の裏手を通って木場まで通じていた堀でした。ずいぶん長い距離のある堀ですね。そして「油堀」には、「下之橋」が架かっていました。「油堀」の名前の由来は、油問屋の油会所や油置き場が緑橋付近にあったことによるものです。「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。もう少し詳しく見てみると、「隅田川」につながっている川が三本並んでいました。この三本のうち、一番上にあったのが「仙台堀川」です。真ん中にあったのが「中之堀川」で、一番下手が「油堀川」と並んでいました。そこで、当時人々はこの三本の堀川を、一番上流側の「仙台堀川」を「上之堀」、逆に下流側の「油堀川」を「下之堀」と呼んで、その間にあるこの川を「中之堀」と名付けたそうです。同じように河口に架かる橋も「隅田川」に対して上、中、下、すなわち、「仙台堀川」には「上之橋」、「中之堀川」には「中之橋」、「油堀川」には「下之堀橋」がそれぞれ架けられていましたが、残念ながら、現在はいずれも残っていません。ちなみに、「高札場」は「高札」という木の札をかけた掲示板のような場所で、奈良時代末期から重要な街道沿いなどに置かれました。民衆に情報を素早く伝える目的があり、高札には幕府や領主が出した法令や掟が書かれています。江戸時代には全国各地に多くの高札場が設けられましたが、残念ながら明治時代に政治体制が変わるとともに撤去されました。<br /><br />《★「赤穂義士休息の地碑」》<br />「観光高札中之橋跡」から「佐賀町河岸通り」沿いを210mほど進むと道路の左側のプラウド門前仲町ディアージュの前に「赤穂義士休息の地碑」があります。<br />元禄15年(1702年)12月14日に「本所松坂町」(現墨田区両国3丁目) の「吉良邸」に討ち入って本懐を遂げた赤穂義士の一行が、一ツ目通りを引き上げる途中で「乳熊(ちくま)屋味噌店」に立ち寄りました。甘酒粥の接待を受けて休息したのちに、「永代橋」を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。この由来を記した碑が、昭和38年(1963年)に乳熊ビルの入口に建立されました。「赤穂義士休息の地碑」の碑文によると、「ちくま味噌店」の初代「竹口作兵衛」が赤穂義士の「大高源吾」と同じ俳人「室井其角」の門人であったことから、討入り本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞ってその労をねぎらったと伝えられています。勝利の美酒ならぬ勝利の甘酒粥ですね。当日は、雪も降っていましたし、甘酒粥で赤穂浪士たちの心も体もさぞかし暖まったことでしょうね。それと「赤穂義士休息の地碑」は、「忠臣蔵」のファンにとっては、聖地の内の一つでありたまらない場所ではと思いました。ちなみに、現在でも、赤穂義士討ち入りの12月14日には甘酒を店先でふるまっているそうです。<br /><br />《★「永代橋」》<br />「赤穂義士休息の地碑」のから80mほど進むと「永代通り」になり右手に「永代橋」があります。<br />「永代橋」の歴史を紐解いてみると、「永代橋」はもともと、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の50歳を祝し、元禄11年(1698年)に深川、永代島方面へと渡る「深川の渡し」に架けられたのが、初代の「永代橋」です。関東郡代の「伊奈忠順」が工事を担当し、「上野寛永寺」の「根本中堂」の造営した際の余材を使っています。「永代橋」の名前の由来は、徳川の世が末永く続く」ようにと、実際には「永代寺・富岡八幡宮の鎮座する永代島に渡る橋」という説があるそうです。「隅田川」にかかる「永代橋」は、元禄11年(1698年)に開通し、江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋でした。そして、現在では、「清洲橋」とともに「隅田川」を代表する美橋として有名な「永代橋」は、大正12年(1923年)の関東大震災後の「帝都復興事業」として、大正15年(1926年)に完成しました。「全長」は185mの「タイド・アーチ橋」で、ドイツのライン川に架かっていた「ルーデンドルフ橋」をモデルに、「隅田川」の入口に「帝都の門」にふさわしい男性的なデザインとして存在感を誇ってきました。ちなみの、上流に位置する「清洲橋」は、優美な下降曲線を描く女性的なイメージで造られたそうです。竣工当時は佃橋方面まで見渡せる眺望が評判でしたが、現在は佃島の高層ビル群がバックにそびえ、夜ともなると夜景が「摩天楼のよう」と話題になっています。日没から21:00まではライトアップされ、また新たな鋼材を使うことで、100.6mという最大スパンを実現した「鋼アーチ橋」として、平成12年(2000年)に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺産」に選定されました。平成19年(2007年)には、「勝鬨橋」、「清洲橋」とともに国の「重要文化財」に指定されています。しかし、「永代橋」には悲しい過去もあります。それは、江戸時代まで遡ります。11年ぶりに催された文化4年(1807年)8月19日の「深川富岡八幡宮」の大祭で多数の死傷者がでたことです。将軍の世子たちの乗った御座船が「永代橋」の下を通過する間の通行止めが解除され、一斉に群衆が橋を渡ったとき、橋の中央付近が崩れ落ちました。多くの人が転落し、一説によると溺死者は480人という江戸始まって以来の大惨事となりました。今のライトアップされた美しい光景から想像することができませんが、そのような悲しい過去もあったのも事実です。そう思って「永代橋」を眺めると違った「永代橋」が見えてきます。<br /><br />《★「富岡八幡宮」》<br />「永代橋」から「永代通り」を「門前仲町」方向に、道なりに1100mほど進むと左手に「富岡八幡宮」白い石畳の参道と色鮮やかな朱色の「大鳥居」が見えます。<br />「富岡八幡宮」の参拝の前に、「深川会議」とは、元禄15年(1702年)12月2日「富岡八幡宮」付近の茶屋で行われた「赤穂義士」の最終打合せ会議です。「大石内蔵助」は、「頼母子講」の集まりと称して、「富岡八幡宮」の門前の茶屋にて会合しています。この会合は夜まで詳細な打合せが行われ、「吉田忠左衛門」が一人ひとりに指示を出し、どこから討ち入るのか、どういう役割をになうのかを細かく説明しました。そして、この「深川会議」の最後に、討ち入り前日の夜は、三箇所に集まること、合言葉は山と川、それぞれ得意の武器を使うこと、上野介を見つけたら笛をふいて知らせること、引き上げの時はドラを鳴らすこと、検分の役人との応対の仕方までの16箇条からなる「人々心得の覚」が読み上げられたそうです。まさに、武士としての面目を保ち、どんな状況にも対応できるような用意周到な討ち入りの決め事がここで示されたわけです。<br /><br />《「富岡八幡宮」のお薦め参拝巡路》<br />①大鳥居⇒②伊能忠敬像⇒③三等三角点の石碑⇒④大関力士碑(釈迦嶽等身碑、巨人力士身長碑)⇒⑤黄金神輿庫⇒⑥鳳凰の手水舎⇒⑦神馬像⇒⑧社殿⇒⑨富岡八幡宮資料館⇒⑩本殿⇒⑪西側末社(富士浅間社・金刀比羅社、鹿島神社・大鳥神社)⇒⑫富士塚跡⇒⑬横綱力士碑⇒⑭巨人力士手形足形碑⇒⑮永昌五社稲荷神社⇒⑯合末社(花本社&#8226;祖霊社&#8226;天満天神社&#8226;聖徳太子社&#8226;住吉神社&#8226;野見宿祢社&#8226;車祈社&#8226;客神社)⇒⑰七渡神社⇒⑱木場木遣之碑⇒⑲木場の角乗の碑<br /><br />それでは、早速参拝したいと思います。「大鳥居」を潜ると左手に日本を測量し精密な大日本沿海輿地全図を作成した「伊能忠敬像」、その隣に、世界測地系の採用を記念して建立された「三等三角点」の石碑、右手には歴代大関を顕彰するために建立された「大関力士碑」があります。そしてさらに進むと左手に眩いばかりの日本一の「黄金神輿」が二基展示されています。その先には、金色の鳳凰が参拝者の身を清めてくれる「鳳凰の手水舎」があります。身を清めた後に目を右手にやると「神馬像」とその石碑がありました。「神馬」は“しんば”と読むのでなく“しんめ”と読むそうです。日本語は難しいですね。そして、石段を上れば目の前に「富岡八幡宮」の「社殿」が目の前に現れてきます。やはり有名な「富岡八幡宮」なので、平日にかかわらず参拝者は結構沢山いました。「本殿」に参拝する前に、寄っておかなければならない場所があります。それは、「富岡八幡宮資料館」です。有料で大人なら300円かかりますが、「富岡八幡宮」の社殿の変遷と歴史、綿々と受け継がれている「深川八幡祭り」の様子、相撲と「富岡八幡宮」の関わりとそれにより行われていた「勧進相撲」、享和3年(1803年)に造られ江東区指定有形文化財に指定されている「銅造水盤」など「富岡八幡宮」の歴史と変遷、関連する祭事、周辺地域との関わりがあるものが展示されていて「富岡八幡宮」を詳しく知ることのできる格好の場所です。「富岡八幡宮資料館」の参観が終わったらいよいよ「本殿」へ進み、参拝します。ちなみに、「富岡八幡宮」の歴史を紐解いてみると、「富岡八幡宮」は、寛永4年(1627年)に「菅原道眞」の血を引く「長盛法印」が神託により創建したとされています。源氏の氏神である「八幡大神」を崇めた徳川将軍家の手厚い保護を受けて「深川の八幡様」として古くから庶民に親しまれてきた神社です。特に、毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変賑わいます。また、「江戸勧進相撲発祥の地」としても有名で、境内には「横綱力士碑」、「大関力士碑」があり、現在でも新横綱誕生の際には新横綱の土俵入りが奉納されます。そして、毎年8月15日を中心におこなわれる例祭は、「江戸三大祭」の一つで「深川八幡祭り」として有名です。特に、3年に1度の「本祭り」では、「富岡八幡宮」の鳳凰の飾りがある「御鳳輦」が周辺を練り歩きます。なんと、大小あわせて120数基の「町神輿」やその中で50数基の「大神輿」が勢揃いして一斉に練り歩く光景は迫力もあり壮大な時代絵巻そのものです。参拝を終えた後に、境内の散策をすると見るべきものはたくさんあります。「本殿」の右手には、第12代横綱「陣幕久五郎」が発起人になり歴代横綱を顕彰する碑として建立された「横綱力士碑」と力士の手形と比べることができる「巨人力士手形足形碑」があります。境内には「七渡神社」を筆頭に計17社におよぶ末社があり、このことからも昔からの信仰の中心地であったことがうかがわれます。その他にも「角乗りの碑」や「力持ち碑」などもあり、十分楽しむことができると思います。<br 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泉岳寺への義の道のり~赤穂義士の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡り~第2回目【江東区付近】

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2024/01/06 - 2024/01/06

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/01/06

  • 北千住(9:00発つくばエクスプレス快速)⇒新御徒町(09:07都営大江戸線)⇒森下(09:17着)

この旅行記スケジュールを元に

「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第2回目は、江東区にスポットをあてて巡ってみました。「赤穂義士」は、討ち入りのあと「両国橋」東詰から最も近い「一之橋」を渡り深川に入りました。このあたりから「新大橋」にかけて、「御船蔵」がありました。現在の位置より200mほど南に架けられた「新大橋」を右手に見て南下しました。「萬年橋」を渡りさらに進むと、狭い範囲に連続して架かっている「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」を渡ります。そして、「永代橋」の袂にある元禄元年(1688年)から今なお現在まで続いている「ちくま味噌」で甘酒粥が振る舞われます。ちなみに、「ちくま味噌」の初代店主の「竹口作兵衛」は、松尾芭蕉の高弟である宝井其角を通じて大高源吾と交流があったそうです。その後、「永代橋」をくぐって、さらに南下しました。そして、江東区の最後の「赤穂義士」スポットとして、吉良邸討ち入りの最終会議である「深川会議」の行われた「富岡八幡宮」を訪ねてみました。

《江東区付近での見学ルート》 ※ 「★」は赤穂義士関連の名所・旧跡
①「新大橋」⇒②「御船蔵跡碑」⇒③「江東区芭蕉記念館」⇒④「旧新大橋跡」⇒⑤「芭蕉稲荷神社」(深川芭蕉庵跡)⇒⑥★「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」⇒⑦「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)⇒⑧「川船番所跡」⇒⑨★「萬年橋」⇒⑩「陸奥宗光宅跡」⇒⑪「平賀源内電気実験の地」⇒⑫「本邦セメント工業発祥の地」⇒⑬★「上之橋」(旧上之橋親柱)⇒⑭★「観光高札中之橋跡」⇒⑮★「観光高札 油堀跡」(下之橋)⇒⑯★「赤穂義士休息の地碑」⇒⑰★「永代橋」⇒⑱★「富岡八幡宮」(深川会議)

当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、都営新宿線の「森下町駅」で下車しました。まず「新大橋」とその橋の袂にある「御船蔵跡碑」へ向かいました。都営新宿線の「森下町駅」のA1出口を出て「新大橋通り」沿いを300mほど左方向に道なりに進みます。すると前方に「新大橋」が見え、「新大橋」の橋の手前にある「新大橋東詰公園」の中に「御船蔵跡碑」があります。

《新大橋》
「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流の「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1693年)12月に、「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。この橋の架設により 江戸市中との交通が便利となり 深川の発展に大きく影響しました。そして、「旧新大橋」のできた経緯は、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」が、「隅田川」に橋が少なく不便を強いられていた江戸庶民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられ、西岸には「水戸藩御用邸」、東岸には幕府御用船「安宅丸」の係留地を橋詰としていました。また、当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。その後、「新大橋」は幾度となく架けかえられましたが、明治45年(1912年)7月19日に、現在の位置に鉄橋の「新大橋」が架橋されました。この鉄橋の「新大橋」は、大正12年(1923年)9月1日の午前11:58に発生した「関東大震災」と第二次世界大戦の東京大空襲(1945年)にも耐え、橋の上で多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。そして、昭和52年(1977年)3月27日に現在の橋に架けかえられました。また、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されているそうです。

《「御船蔵跡碑」》
江戸時代には、「一の橋」の南から「旧新大橋」の手前にかけての一帯に、江戸幕府の艦船を格納する「御船蔵」がありました。この4890坪の広大な土地に14棟の船蔵が並び、巨大な軍船「安宅丸」が船蔵の外に係留されていました。明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので 「御船蔵」と呼ばれていました。また、この付近にあった「安宅町」という地名は「安宅丸」から由来しています。ちなみに、「安宅丸」は、江戸幕府二代将軍「徳川秀忠」が寛永8年(1631年)に、御船手奉行の「向井将監」に造船を命じ、寛永11年(1634年)に伊豆の伊東で完成しました。三代将軍「徳川家光」は、翌寛永12年に品川沖で試乗したのち、「御船蔵」に係留されたそうです。そして、天和2年(1682)の五代将軍「徳川綱吉」の時に、推進力に乏しい「安宅丸」は解体されました。それ以降は「天地丸」が幕府の最大鑑となります。「御船蔵跡」は、明治2年(1869)に市街地に編入され、「安宅丸」から俗称を継いで「深川安宅町」とされました。

《「江東区芭蕉記念館」》
「御船蔵跡碑」から90mほど戻ると信号(表示名「新大橋」)があります。信号を右折し、「萬年橋通り」沿いに180mほど進むと右手に「江東区芭蕉記念館」があります。
「江東区芭蕉記念館」は、昭和56年(1981年)4月に開館した3階建の記念館で、主に、「松尾芭蕉」関係資料の収集及び展示をしています。展示室だけなく、その他に図書室、研修室、会議室などの施設も完備しています。本館1Fには「事務室」及び「会議室」、2Fは「展示室」と「研修室」そして3Fは「常設展示室」、「図書館」と「収蔵庫」があります。また、1Fには日本庭園があり、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられており、四季折々の草花を楽しむことができます。築山には、芭蕉庵を模した祠と芭蕉像があります。また、園内には句碑3基があります。また、200mほど離れた分館には、「芭蕉庵史跡展望庭園」あり「隅田川」の風景などを満喫できます。まずは、3Fにある「常設展示室」の見学です。常設展示には、「松尾芭蕉」はどのような人物で、どのような時代に生きていいたのか、そして「松尾芭蕉」が「深川芭蕉庵」でどのように過ごし、深川での俳諧活動や「深川」との関連性をパネルなどにより、わかりやすく展示しています。常設展を見終えたら次は、下の2Fフロアーにおり「企画展示」の見学です。「企画展示」では、2023年度後期の「元禄の深川と俳諧―芭蕉の時代、三都の俳諧師」と題した展示を2024年4月21日(日)までの予定で開催していました。どのような内容の企画展かというと、元禄時代の俳句というと「奥の細道」の旅に代表される「松尾芭蕉」の活躍が頭に浮かんできますが、それ以外の俳人は浮かんできません。しかし、実際には当時の俳諧は「松尾芭蕉」以外にも京都の「伊東信徳」、「池西言水」、大坂の「小西来山」、「椎本才麿」、江戸の「水間沾徳」、「芳賀一晶」をはじめ、各地で有力な俳人が活躍する時代だったそうです。そして、元禄時代の俳諧の世界と「松尾芭蕉」が生きた元禄時代の江戸深川の町の姿を紹介していました。「松尾芭蕉」のことをよく知ることができました。

《旧新大橋跡》
「江東区芭蕉記念館」の正門入口を出て右方向に180mほど「萬年橋通り」沿いを進むと、歩道の右手に「旧新大橋跡」の石碑があります。
前日の「新大橋」の説明と同じになりますが、「旧新大橋」は、現在の「新大橋」より200m下流、「清洲橋」寄りに「新大橋」が架かっていました。「旧新大橋」は元禄6年(1693年)12月に、この地先の「墨田川」に架設起工しました。わずか、52日間で完成し、「長さ」が百間、「幅員」が三間七寸ありました。当時、橋名は「両国橋」を「大橋」と称していたので、この橋を「新大橋」といったそうです。また、「松尾芭蕉」は「深川大橋」が建設中に、「深川大橋半ばかかりける頃 初雪や懸けかかりたる橋の上」という句を詠んでいます。また、「松尾芭蕉」は、橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。「松尾芭蕉」も橋の完成が気になっていたのでしょうか。

《「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」》
「旧新大橋跡」の石碑から140mほど「萬年橋通り」沿いを進み、二つ目の角を右折すると「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」が右手にあります。
「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」は、「松尾芭蕉」が江戸深川に居を構えた「深川芭蕉庵跡」です。40mほど先の隅田川沿いには、「芭蕉庵史跡展望庭園」や「江東区芭蕉記念館」があり、この周辺は「松尾芭蕉」ファンにとって必見の歴史散策スポットです。「深川芭蕉庵」は、延宝8年(1680年)に門弟の「杉山杉風」から草庵の提供を受けたもので、元禄2年(1689年)の「奥の細道」も、この「深川芭蕉庵」が旅の起点となっています。ただし、「奥の細道」では、隅田川を遡り、千住で下船し、日光街道を北上するルートをとっているため、千住が「奥の細道 矢立初めの地」ということになっています。また、「奥の細道矢立初めの地」は「千住大橋公園」内にあります。「奥の細道矢立初めの地」は「松尾芭蕉」の「奥の細道」の600里の旅の始まりの句を詠んだといわれている場所です。ちなみに、「松尾芭蕉」が蕉風俳諧を確立した句として有名な「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」も貞享3年(1686年)にこの「深川芭蕉庵」で詠んだ句だそうです。「松尾芭蕉」は全国をまわり色々な所にその足跡を残していますね。足立区と荒川区の「奥の細道 矢立初めの地」論争もおもしろいものですよ。いずれにせよ「隅田川」を遡り、千住で下船し、日光街道を北上したのは間違いありません。
肝心の「芭蕉稲荷神社」は、江東区常盤1丁目にある稲荷神社です。「芭蕉稲荷神社」は、大正6年(1917年)の台風による高潮が来襲の後に、「松尾芭蕉」が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故「飯田源太郎」等地元の人々の尽力により、ここに石蛙を御神体として稲荷を祀って「芭蕉稲荷」が創建されました。この辺りに芭蕉の住んだ芭蕉庵があったとされ、大正10年(1921年)の東京府により常盤1丁目が旧跡に指定されました。

《★「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」》
「芭蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)」から40mほど奥に入ると、「隅田川」の堤防の手前右手に「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」と「芭蕉庵史跡展望庭園」へのぼる階段入口があります。
「観光高札 赤穂浪士ゆかりの道」の説明板を要約すると、「泉岳寺に向かうために、本所の吉良邸から「堅川」の「一之橋」を渡り「隅田川」沿いの道を南下し、「小名木川」の「萬年橋」、佐賀町あたりの「上之橋」、「中之橋」、「下之橋」を渡って「永代橋」のふもとでひと息入れたと伝えられています。この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。」と記述されていました。また、この道は、時代が武断政治から文治に移りかわろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。今も昔も「赤穂浪士」は人気抜がありますね。「赤穂浪士」ファンの私にとって、今日、ここへ来て「赤穂浪士」達と同じ道を歩いているのだと思うと胸に感激が込み上げてきます。

《「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)》
「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)は、隅田川テラス沿いの隅田川が小名木川と合流するところにあります。「芭蕉庵史跡展望庭園」から見る四季折々の水辺の風景は、「松尾芭蕉」が愛した場所です。「芭蕉庵史跡展望庭園」内には、「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフがありました。何と「芭蕉翁像」は17時に回転するそうです。残念ながら、「芭蕉庵史跡展望庭園」が開園している時間は9:15~16:30なので、像が回転しているところは間近で見ることはできません。「芭蕉記念館分館」は、公民館のように有料で会議室を貸し出す施設なので、見る価値はあまりありません。いずれにせよ「芭蕉翁像」や「芭蕉庵」のレリーフを見ていると、歴史的背景や松尾芭蕉が愛した当時の風景が目の前に浮かんできます。

《川船番所跡》
「芭蕉記念館分館」(芭蕉庵史跡展望庭園)から「萬年橋通り」に戻り、通り沿いに20mほど進むと、「萬年橋」の手前の小さな公園の中に「川船番所跡」があります。
「川船番所」は幕府により設けられた番所で、「萬年橋」の北岸に置かれ、川船を利用して「小名木川」を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありません。恐らく正保4年(1647年)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から「小名木川」を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田や日本橋など江戸の中心部へ運ばれました。明暦3年(1657年)の大火後に、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661年)に現在の江東区大島の9丁目付近の「中川口」に移転しました。以後「中川番所」として機能することとなり、「川船番所」は「元番所」と呼ばれたそうです。ちなみに、「中川番所」は、寛文元年(1661年)に、江戸を出入りする船が頻繁に訪れる中川にできたのが「中川番所」です。夜間の出船や女性の運行、鉄砲などの武器や武具、物資の出入りなどを取り締まっていたそうです。江東区と言えば大部分が埋立地ですね。江戸時代からすでに埋め立てられ船舶等の交通の要所になっていたというのを初めて知りました。

《★「萬年橋」》
「川船番所」から20mほどのところに「萬年橋」があります。「萬年橋」は、「小名木川」と「隅田川」との合流点に架けられた橋で、架橋された年代は不詳ですが、寛永年間に、猟師町が出来たときに木橋が架けられ、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。江戸時代には、この橋の北岸に「小名木川」を航行する船を取り締る通船改めの番所である「川船番所」が置かれていました。この番所は寛文年間の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれていました。「小名木川」に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。「万年橋」も虹型をした優美な橋で、また、富士山がきれいに見える名所として知られ、「葛飾北斎」の「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として描いています。また、「安藤広重」の「名所江戸百景」には、「深川万年橋」として描かれています。現在の橋は、昭和5年(1930年)に震災復興橋梁として架けられ、長が56.6m、幅が17.2m、架設形式は1径間鋼製アーチ橋として完成いました。この橋の東側には「新小名木川水門」が設置され、西側には「松尾芭蕉」の住居である「深川芭蕉庵」がありました。「赤穂義士」も「泉岳寺」に引き上げる際に、「一之橋」、「萬年橋」、「上ノ橋」、「中ノ橋」、「下ノ橋」、そして「永代橋」を渡り江戸市中に入りました。

《「陸奥宗光宅跡」》
「萬年橋」から「萬年橋通り」を210mほど直進すると「清洲橋通り」に交差する信号があります。信号を右折し、160mほど進むと、歩道の左側に「陸奥宗光宅跡」の説明板があります。
「陸奥宗光宅跡」は、明治時代に外交官、政治家として活躍した「陸奥宗光」の邸宅跡です。「陸奥宗光」は、明治5年(1872年)から明治10年(1877年)まで、ここ深川清住町(現清澄)に住み、明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。特に、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるいました。また、「陸奥宗光」は、「日英通商航海条約締結」を実現し、「日清戦争」の開戦と講和に関わりました。ちなみに、「陸奥宗光」は、あの「坂本龍馬」の海援隊 にも参加しました。幕末の動乱期を乗り越え、明治政府でも活躍した人物なのですね。

《「平賀源内電気実験の地」》
「陸奥宗光宅跡」の所にある交差点を左折し、120mほど「佐賀町河岸通り」を進むと、二つ目の角の手前の歩道の左側に「平賀源内電気実験の地」の説明板があります。
「平賀源内」は、「後藤利春」が著作した「紅毛談」(おらんだばなし)を読んで、「エレキテル」に興味を持ったそうです。そして、「平賀源内」は、エレキテルを長崎で入手し、深川清住町の自宅で模造品の製作に取り組みます。まるで、薩摩の島津藩が本を読んで作成した蒸気機関や反射炉と一緒ですね。「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。「平賀源内」が製造したと言われる「エレキテル」は2台残っているそうです。墨田区押上にある「郵政博物館」に収蔵される平賀家伝来の「エレキテル」は、国の重要文化財に指定されています。もう一台は、香川県さぬき市にある「平賀源内先生遺品館」に展示されているそうです。ちなみに、「エレキテル」はオランダ語で電気、電流を意味するそうです。しかし、この「平賀源内電気実験の地」の碑をみて、「平賀源内」の自分で極めると言う追求心と自分も何かにチャレンジしなければと思いました。
「エレキテル」の構造は、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電するという単純な仕組みで、「平賀源内」自身は電気の発生する原理をまったく理解していませんでした。日本はもちろん、発明されたオランダでも見世物や医療器具として使われていたそうです。

《「本邦セメント工業発祥の地」》
「平賀源内電気実験の地」の説明板の先の角を左折し、70mほど進むと左手に「本邦セメント工業発祥の地」の碑があります。
「本邦セメント工業発祥の地」は、日本で初めてのセメントを作り上げた工場があった場所です。「本邦セメント工業発祥の地」敷地には、創始者である「浅野総一郎」の像と海中に沈められた初期に作製した防波堤の基礎部分のコンクリートがそのままの形で展示されています。これが約150年前に作製されたものとは思えないくらい現状を留めています。創始者の「浅野総一郎」の像は、温和な表情で未来を見つめている感じがします。現在の高層ビル群を予見していたのかのような優しい眼差しです。歴史を遡ってみると明治8年(1871年)に、工部省が、ここで本格的なセメント製造に成功しました。それまでは、高価な外国製のコンクリートを輸入していたのですが、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。そして、明治16年(1883年)に創業者の一人である「浅野総一郎」が払い下げを受け、その後民間初のセメント工場として発展しました。ちなみに、当時の国産のセメントの製造方法は、すぐそばの隅田川、仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の上、外国品と遜色のない、国産のセメントを作りあげました。現在のセメントは、山で採掘した石灰石と粘土類を粉砕し、1400度で焼成し、誕生したクリンカー(焼塊)を再度粉砕して製造していますが、明治時代に官営工場が採用したのは、湿式焼成法。消石灰と周辺の隅田川の河底泥土を原料に、撹擾池と呼ばれる池中で6:4の割合で混合、水を加えて攪拌し、微粒の混じった泥水を沈殿池に送って沈殿させ、スラリー(沈殿した泥)を乾燥させ、レンガ造りの徳利窯で焼成して、ようやくクリンカー(焼塊)が生み出されるという、手間隙かかる方法だったそうです。

《★「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)》
「本邦セメント工業発祥の地」から「佐賀町河岸通り」まで戻り横断歩道を左折すると、すぐ目の前に「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)があります。
「上之橋」は深川の仙台掘が隅田川と合流するところに架けられていた橋です。江戸時代から昭和59年(1984年)に「清澄排水機場」の建設に伴い撤去されるまで、佐賀町河岸通りに架かる橋として大きな役割を果たしていました。江戸時代の深川には多くの水路が張り巡らされており、「上之橋」の100mほど南には「中之橋」が、さらに南には油掘に架かる「下之橋」がありました。現在、「中之橋」が架かっていたところには当時の名残として「観光高札中之橋跡」が、「下之橋」が架かっていたところには「観光高札油堀跡」があります。これらの橋により佐賀町は上佐賀、中佐賀、下佐賀に分けられていました。現在は水路が埋め立てられたため、「上之橋」、「中之橋」、「下之橋」もありませんが、ここに橋があったという江戸の痕跡として、「上之橋」が架かっていた場所には、昭和5年(1930年)に関東大震災の震災復興事業により架設された最後の「上之橋」の「親柱四本」が残されています。かつては、「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。また、「上之橋」は、時代小説の中では、池波正太郎著「剣客」、「のっそり医者」に登場しています。「上之橋」を北に渡り進むと、小名木川に架かる「萬年橋」があり、さらに進むと「竪川」に架かる「一ツ目橋」になります。これら二つの橋は時代小説には頻繁に登場する橋です。

《★「観光高札中之橋跡」》
「上ノ橋親柱」(旧上之橋親柱)からさらに130mほど進むと右手に、「中之橋公衆トイレ」がありその前に「観光高札中之橋跡」があります。
「清洲橋」と「隅田川大橋」の間の佐賀町で高札を見つけました。以前はこの「中之橋」以外に「下之橋」、「上之橋」と三つの橋が架かっており、最初は木場の材木問屋たちが管理していましたが、江戸幕府により架け替えられたそうです。「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。もう少し詳しく見てみると、「隅田川」につながっている川が三本並んでいました。この三本のうち、一番上にあったのが「仙台堀川」です。真ん中にあったのが「中之堀川」で、一番下手が「油堀川」と並んでいました。そこで、当時人々はこの三本の堀川を、一番上流側の「仙台堀川」を「上之堀」、逆に下流側の「油堀川」を「下之堀」と呼んで、その間にあるこの川を「中之堀」と名付けたそうです。同じように河口に架かる橋も「隅田川」に対して上、中、下、すなわち、「仙台堀川」には「上之橋」、「中之堀川」には「中之橋」、「油堀川」には「下之堀橋」がそれぞれ架けられていましたが、残念ながら、現在はいずれも残っていません。
ちなみに、「高札場」は「高札」という木の札をかけた掲示板のような場所で、奈良時代末期から重要な街道沿いなどに置かれました。民衆に情報を素早く伝える目的があり、高札には幕府や領主が出した法令や掟が書かれています。江戸時代には全国各地に多くの高札場が設けられましたが、残念ながら明治時代に政治体制が変わるとともに撤去されました。

《★「観光高札油堀跡」》
「観光高札中之橋跡」から「佐賀町河岸通り」沿いを220mほど進むと、「首都高速9号深川線」の高架下をくぐったすぐ先の左側に「観光高札油堀跡」があります。
「清洲橋」と「隅田川大橋」の間の佐賀町で高札を見つけました。「油堀」は、隅田川から冨岡八幡宮の裏手を通って木場まで通じていた堀でした。ずいぶん長い距離のある堀ですね。そして「油堀」には、「下之橋」が架かっていました。「油堀」の名前の由来は、油問屋の油会所や油置き場が緑橋付近にあったことによるものです。「上之橋」、「中之橋」そして「下之橋」と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていたそうです。まさに、現在の輸送のシステムと違い、水運交通が盛んであった江戸時代の歴史を感じます。もう少し詳しく見てみると、「隅田川」につながっている川が三本並んでいました。この三本のうち、一番上にあったのが「仙台堀川」です。真ん中にあったのが「中之堀川」で、一番下手が「油堀川」と並んでいました。そこで、当時人々はこの三本の堀川を、一番上流側の「仙台堀川」を「上之堀」、逆に下流側の「油堀川」を「下之堀」と呼んで、その間にあるこの川を「中之堀」と名付けたそうです。同じように河口に架かる橋も「隅田川」に対して上、中、下、すなわち、「仙台堀川」には「上之橋」、「中之堀川」には「中之橋」、「油堀川」には「下之堀橋」がそれぞれ架けられていましたが、残念ながら、現在はいずれも残っていません。ちなみに、「高札場」は「高札」という木の札をかけた掲示板のような場所で、奈良時代末期から重要な街道沿いなどに置かれました。民衆に情報を素早く伝える目的があり、高札には幕府や領主が出した法令や掟が書かれています。江戸時代には全国各地に多くの高札場が設けられましたが、残念ながら明治時代に政治体制が変わるとともに撤去されました。

《★「赤穂義士休息の地碑」》
「観光高札中之橋跡」から「佐賀町河岸通り」沿いを210mほど進むと道路の左側のプラウド門前仲町ディアージュの前に「赤穂義士休息の地碑」があります。
元禄15年(1702年)12月14日に「本所松坂町」(現墨田区両国3丁目) の「吉良邸」に討ち入って本懐を遂げた赤穂義士の一行が、一ツ目通りを引き上げる途中で「乳熊(ちくま)屋味噌店」に立ち寄りました。甘酒粥の接待を受けて休息したのちに、「永代橋」を渡って高輪泉岳寺へ向かったといわれています。この由来を記した碑が、昭和38年(1963年)に乳熊ビルの入口に建立されました。「赤穂義士休息の地碑」の碑文によると、「ちくま味噌店」の初代「竹口作兵衛」が赤穂義士の「大高源吾」と同じ俳人「室井其角」の門人であったことから、討入り本懐を果たした義士たちに甘酒粥を振舞ってその労をねぎらったと伝えられています。勝利の美酒ならぬ勝利の甘酒粥ですね。当日は、雪も降っていましたし、甘酒粥で赤穂浪士たちの心も体もさぞかし暖まったことでしょうね。それと「赤穂義士休息の地碑」は、「忠臣蔵」のファンにとっては、聖地の内の一つでありたまらない場所ではと思いました。ちなみに、現在でも、赤穂義士討ち入りの12月14日には甘酒を店先でふるまっているそうです。

《★「永代橋」》
「赤穂義士休息の地碑」のから80mほど進むと「永代通り」になり右手に「永代橋」があります。
「永代橋」の歴史を紐解いてみると、「永代橋」はもともと、江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の50歳を祝し、元禄11年(1698年)に深川、永代島方面へと渡る「深川の渡し」に架けられたのが、初代の「永代橋」です。関東郡代の「伊奈忠順」が工事を担当し、「上野寛永寺」の「根本中堂」の造営した際の余材を使っています。「永代橋」の名前の由来は、徳川の世が末永く続く」ようにと、実際には「永代寺・富岡八幡宮の鎮座する永代島に渡る橋」という説があるそうです。「隅田川」にかかる「永代橋」は、元禄11年(1698年)に開通し、江戸随一の長さを誇り、富士山をはじめ眺望がよく、錦絵にも描かれる優美な橋でした。そして、現在では、「清洲橋」とともに「隅田川」を代表する美橋として有名な「永代橋」は、大正12年(1923年)の関東大震災後の「帝都復興事業」として、大正15年(1926年)に完成しました。「全長」は185mの「タイド・アーチ橋」で、ドイツのライン川に架かっていた「ルーデンドルフ橋」をモデルに、「隅田川」の入口に「帝都の門」にふさわしい男性的なデザインとして存在感を誇ってきました。ちなみの、上流に位置する「清洲橋」は、優美な下降曲線を描く女性的なイメージで造られたそうです。竣工当時は佃橋方面まで見渡せる眺望が評判でしたが、現在は佃島の高層ビル群がバックにそびえ、夜ともなると夜景が「摩天楼のよう」と話題になっています。日没から21:00まではライトアップされ、また新たな鋼材を使うことで、100.6mという最大スパンを実現した「鋼アーチ橋」として、平成12年(2000年)に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺産」に選定されました。平成19年(2007年)には、「勝鬨橋」、「清洲橋」とともに国の「重要文化財」に指定されています。しかし、「永代橋」には悲しい過去もあります。それは、江戸時代まで遡ります。11年ぶりに催された文化4年(1807年)8月19日の「深川富岡八幡宮」の大祭で多数の死傷者がでたことです。将軍の世子たちの乗った御座船が「永代橋」の下を通過する間の通行止めが解除され、一斉に群衆が橋を渡ったとき、橋の中央付近が崩れ落ちました。多くの人が転落し、一説によると溺死者は480人という江戸始まって以来の大惨事となりました。今のライトアップされた美しい光景から想像することができませんが、そのような悲しい過去もあったのも事実です。そう思って「永代橋」を眺めると違った「永代橋」が見えてきます。

《★「富岡八幡宮」》
「永代橋」から「永代通り」を「門前仲町」方向に、道なりに1100mほど進むと左手に「富岡八幡宮」白い石畳の参道と色鮮やかな朱色の「大鳥居」が見えます。
「富岡八幡宮」の参拝の前に、「深川会議」とは、元禄15年(1702年)12月2日「富岡八幡宮」付近の茶屋で行われた「赤穂義士」の最終打合せ会議です。「大石内蔵助」は、「頼母子講」の集まりと称して、「富岡八幡宮」の門前の茶屋にて会合しています。この会合は夜まで詳細な打合せが行われ、「吉田忠左衛門」が一人ひとりに指示を出し、どこから討ち入るのか、どういう役割をになうのかを細かく説明しました。そして、この「深川会議」の最後に、討ち入り前日の夜は、三箇所に集まること、合言葉は山と川、それぞれ得意の武器を使うこと、上野介を見つけたら笛をふいて知らせること、引き上げの時はドラを鳴らすこと、検分の役人との応対の仕方までの16箇条からなる「人々心得の覚」が読み上げられたそうです。まさに、武士としての面目を保ち、どんな状況にも対応できるような用意周到な討ち入りの決め事がここで示されたわけです。

《「富岡八幡宮」のお薦め参拝巡路》
①大鳥居⇒②伊能忠敬像⇒③三等三角点の石碑⇒④大関力士碑(釈迦嶽等身碑、巨人力士身長碑)⇒⑤黄金神輿庫⇒⑥鳳凰の手水舎⇒⑦神馬像⇒⑧社殿⇒⑨富岡八幡宮資料館⇒⑩本殿⇒⑪西側末社(富士浅間社・金刀比羅社、鹿島神社・大鳥神社)⇒⑫富士塚跡⇒⑬横綱力士碑⇒⑭巨人力士手形足形碑⇒⑮永昌五社稲荷神社⇒⑯合末社(花本社•祖霊社•天満天神社•聖徳太子社•住吉神社•野見宿祢社•車祈社•客神社)⇒⑰七渡神社⇒⑱木場木遣之碑⇒⑲木場の角乗の碑

それでは、早速参拝したいと思います。「大鳥居」を潜ると左手に日本を測量し精密な大日本沿海輿地全図を作成した「伊能忠敬像」、その隣に、世界測地系の採用を記念して建立された「三等三角点」の石碑、右手には歴代大関を顕彰するために建立された「大関力士碑」があります。そしてさらに進むと左手に眩いばかりの日本一の「黄金神輿」が二基展示されています。その先には、金色の鳳凰が参拝者の身を清めてくれる「鳳凰の手水舎」があります。身を清めた後に目を右手にやると「神馬像」とその石碑がありました。「神馬」は“しんば”と読むのでなく“しんめ”と読むそうです。日本語は難しいですね。そして、石段を上れば目の前に「富岡八幡宮」の「社殿」が目の前に現れてきます。やはり有名な「富岡八幡宮」なので、平日にかかわらず参拝者は結構沢山いました。「本殿」に参拝する前に、寄っておかなければならない場所があります。それは、「富岡八幡宮資料館」です。有料で大人なら300円かかりますが、「富岡八幡宮」の社殿の変遷と歴史、綿々と受け継がれている「深川八幡祭り」の様子、相撲と「富岡八幡宮」の関わりとそれにより行われていた「勧進相撲」、享和3年(1803年)に造られ江東区指定有形文化財に指定されている「銅造水盤」など「富岡八幡宮」の歴史と変遷、関連する祭事、周辺地域との関わりがあるものが展示されていて「富岡八幡宮」を詳しく知ることのできる格好の場所です。「富岡八幡宮資料館」の参観が終わったらいよいよ「本殿」へ進み、参拝します。ちなみに、「富岡八幡宮」の歴史を紐解いてみると、「富岡八幡宮」は、寛永4年(1627年)に「菅原道眞」の血を引く「長盛法印」が神託により創建したとされています。源氏の氏神である「八幡大神」を崇めた徳川将軍家の手厚い保護を受けて「深川の八幡様」として古くから庶民に親しまれてきた神社です。特に、毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変賑わいます。また、「江戸勧進相撲発祥の地」としても有名で、境内には「横綱力士碑」、「大関力士碑」があり、現在でも新横綱誕生の際には新横綱の土俵入りが奉納されます。そして、毎年8月15日を中心におこなわれる例祭は、「江戸三大祭」の一つで「深川八幡祭り」として有名です。特に、3年に1度の「本祭り」では、「富岡八幡宮」の鳳凰の飾りがある「御鳳輦」が周辺を練り歩きます。なんと、大小あわせて120数基の「町神輿」やその中で50数基の「大神輿」が勢揃いして一斉に練り歩く光景は迫力もあり壮大な時代絵巻そのものです。参拝を終えた後に、境内の散策をすると見るべきものはたくさんあります。「本殿」の右手には、第12代横綱「陣幕久五郎」が発起人になり歴代横綱を顕彰する碑として建立された「横綱力士碑」と力士の手形と比べることができる「巨人力士手形足形碑」があります。境内には「七渡神社」を筆頭に計17社におよぶ末社があり、このことからも昔からの信仰の中心地であったことがうかがわれます。その他にも「角乗りの碑」や「力持ち碑」などもあり、十分楽しむことができると思います。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
3.0
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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