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【旅行第一日目(2023/11/23)】<br />今回の奈良旅行の大きな目的は、「古都奈良の文化財」として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅です。急ぎ足になりましたが、一泊二日で「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」、「元興寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねてみました。当初は、「鑑真和上像」の特別公開があるので、「唐招提寺」だけ行き、奈良市内をブラブラする予定でしたが、せっかく奈良まで来たので、急きょ予定を変更して、欲張って世界遺産に指定されている寺院も訪ねてみることにしました。<br />01_【奈良市総合観光案内所】<br />まず、奈良旅行の第一日目の最初の訪問先は、「東大寺」です。その前にJR奈良駅東口にある「奈良市総合観光案内所」へ行き、奈良のお寺のお得な巡り方や交通機関等の情報をゲットするために訪れました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で「散華」を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。また、バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを質問され、第一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので、一日乗車券を買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。<br /><br />02_【奈良市総合観光案内所から東大寺へ】<br />JR奈良駅西口から「ぐるっとバス」の奈良公園ルートの停留所へ向かうと、目を疑うようなバスに乗る観光客の長蛇の列でした。こんなに乗れるかと思うくらいギュウギュウ詰のバスに乗り、他の停留所で待っている乗客がいましたが、満員で途中の停留所はやむなくスルーし、「東大寺大仏殿・春日大社前」停留所で下車しました。所要時間は約13分ということでしたが、奈良県庁付近までは順調に進みましたが、祝日のため車が渋滞していて、県庁まえの信号から東大寺大仏殿駐車場まで25分くらいかかりました。降車所でバスを降りると1分もかからないところに「東大寺」への入口である「南大門」があります。<br />「東大寺」は、誰もがしっているように学校の教科書にも出てくる奈良の大仏さまで知られる「聖武天皇」の勅願によって建立されたお寺です。世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。「東大寺」は、奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の「国分寺」の中心として建立されました。また、「大仏殿」は世界最大級の木造建造物で、天平15年(743年)に「聖武天皇」が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、「盧舎那大仏」造立の詔を発し、延べ260万人もの人々の協力によりすべてのものの幸福を願い造られた大仏様は、天平勝宝4年(752年)に、「開眼供養会」が盛大に営まれました。そして、「東大寺」の境内には、「大仏殿」ばかりでなく、創建当時の遺構を残す「転害門」、「法華堂」をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である「南大門」、「鐘楼」、江戸時代再建の「二月堂」といった数多くの国宝建造物がたち並び、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。その他に。世界遺産に登録されている古都奈良の文化財は、「興福寺」、「春日大社」、「春日山原始林」、「元興寺」、「平城宮跡」、「薬師寺」、「唐招提寺」のなど「「東大寺」」を含め8遺産群が平成10年(1998年)に指定されています。<br /><br />《「東大寺」のお薦め拝観順路》<br />①「南大門」⇒②「大仏さまの手」⇒③「鏡池と厳島神社」⇒④「谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑」⇒<br />⑤「五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔」⇒⑥「中門」⇒⑦「大仏殿」⇒⑧「手向山八幡宮」⇒<br />⑨「法華堂(三月堂)」⇒⑩「二月堂」⇒⑪「正倉院」⇒⑫「戒壇堂」<br /><br />《南大門》<br />まず「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。高さ21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにもなります。「南大門」の下の西側(左側)には「阿形」の「金剛力士像(仁王像)」が東側(右手)には「吽形」の「金剛力士像(仁王像)」が配置されています。もちろん「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝に指定されています。東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。また、夏になると、「大仏殿」や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立つそうです。そして、「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。「金剛力士(仁王) 像」を撮影しようと思いましたが、太陽の日差しが入り込んでうまく取れませんでした。<br /><br />《大仏さまの手》<br />「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。<br /><br />《鏡池》<br />少し進むと「東大寺」の「鏡池」があります。そして、「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」で、その紅葉に彩られた姿にはしばし足を止め見とれてしましました。他の観光客も美しい紅葉の風景をカメラにおさめていました。カメラで夢中になっていて、気が付かなかったのですがふと足元をみると鹿が日光浴でもしているのでしょうか、足元に横たわっていました。ちなみに、「鏡池」にある「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。<br /><br />《谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑》<br />「鏡池」の反対側には、「谷川喜六建立慰霊碑」と「会津八一歌碑」が並ぶようにしてあります。向かって左側にあるのが「谷川喜六建立慰霊碑」、右側にあるのが「会津八一歌碑」です。「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」が、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。<br /><br />《五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔》<br />「会津八一歌碑」の少し先の左手に「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれてありました。目の前には、「東大寺」の「中門」がそびえ立っているので、見逃される確率の高い穴場スポットです。参道は坂になっていて途中の左手に「五百立神社」、そして坂を上り切ったところに「鉄道職員殉職者供養塔」の石造十三重塔が建っています。「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。「五百立神社」は、最初なんと読むのかと思い、その場でスマホを検索し調べてみたところ、「五百立」と書いて「イホタチ」と読むそうです。日本語はつくづく難しいですね。「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。<br /><br />《中門》<br />「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道を下ると左手に「大仏殿」への入口である「中門」があります。「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。<br /><br />《大仏殿》<br />「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。<br />「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。<br /><br />《手向山八幡宮》<br />「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。<br /><br />《法華堂(三月堂)》<br />「手向山八幡宮」を左に折れると正面に「法華堂(三月堂)」があります。「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。<br /><br />《二月堂》<br />「法華堂(三月堂)」をさらに奥に進むと右手に「二月堂」があります。勾配の急な石段を上り切ると「手水舎」があり、何と水が飲めると書いてありました。「二月堂」には、もう一か所に「手水舎」がありますがこちらの水は飲めませんと注意がきがありました。「二月堂」の舞台に到着し、そこから眺める風景は素晴らしいものです。急勾配の石段を上り息が切れることさえ忘れさせてくれます。「二月堂」へは、昼間と娘の薦めもあり夜間のライトアップへの計二回訪れてみました。ライトアップされた幻想的な「二月堂」と光がともる奈良の街並みを見ると何とも言えない気分になってきました。「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目&#12316;3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。お見逃しなく!<br /><br />《正倉院》<br />次は、「東大寺」裏手にある「正倉院」へ向かいました。「正倉院」へ向かう途中の築地塀のような塀が並んでいる風景がとても印象的でした。また、「大仏殿」を後ろから見るとその大きさには驚かされました。そして「正倉院」へ着いたのですが、残念ながら祝日は開放していないというで見学することができませんでした。<br /><br />《戒壇堂》<br />最後が「戒壇堂」です。「正倉院」の前にあるイチョウ並木を通り「戒壇堂」に到着しました。天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂、講堂、僧坊、鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。<br /><br />【「東大寺」の一口メモ】<br />&#9332; 所在地…〒630-8587 奈良市雑司町406-1 電話: 0742-22-5511<br />&#9333; 拝観時間<br />① 大仏殿…4月~10月 開門7:30 閉門17:30 11月~3月 開門8:00 閉門17:00<br />② 法華堂(三月堂)・戒壇院千手堂…開門8:30 閉門16:00<br />③ 拝観料…大仏殿、法華堂(三月堂)、戒壇堂…大人(中学生以上)600円、小学生300円<br />※ お堂ごとに入堂料が必要となります。<br /><br />【「東大寺」へのアクセス】<br />&#9332; 奈良交通バスを利用して<br />① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫<br />・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)<br />・5停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約11分 <br />・9時から17時の間に1時間平均4便:[JR奈良駅)]毎時 10分、25分、40分、55分発<br />・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m<br />② [JR奈良駅)] ⇒[藤原台・山村町・鹿野園町行き]≪奈良交通:57・58・61・62≫<br />・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(2番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)<br />・4停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分 <br />・9時から17時の間に1時間平均3便~6便<br />・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m<br />&#9333; ぐるっとバスを利用して<br />① [近鉄奈良駅)] ⇒「ぐるっとバス大宮通りルート」または「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫<br />・バス乗り場:「近鉄奈良駅(1番出口)」(ぐるっとバスのりば:B5、R7)<br />・2停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約4分 <br />・9時から17時の間に「大宮通りルート」または「奈良公園ルート」1時間平均各4便<br />・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m<br />② [JR奈良駅西口)] ⇒「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫<br />・バス乗り場:「JR奈良駅西口(ぐるっとばすのりば: R5)<br />・4停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約13分 <br />・9時から17時の間に1時間平均4便<br />・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m<br />&#9334; 電車を利用して<br />近鉄「奈良駅」出口から徒歩約20分、1400m<br /><br />03_【東大寺から春日大社へ】<br />「東大寺」の参拝を終え、次の目的地は「春日大社」です。「東大寺」からは、「奈良国立博物館」の先にあるT字路の信号のところに向かうと、そのすぐ先に「春日大社参道」の石碑が建っています。斜めに参道が続いていますので、あとは道なりに進めば「春日大社」に到着します。<br />「春日大社」は、全国に約3000社あるという「春日神社」の総本社で、その歴史を紐解いてみると、奈良時代から始まり、神護景雲2年(768年)に、茨城県鹿島より「武甕槌命」を神山である「御蓋山山頂浮雲峰」に迎えました。そして、現在の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のことです。それ以来、皇族や貴族、有名武将などから庶民にいたるまで幅広く信仰され続けています。境内は古代から神域とされていた御蓋山一帯に広がり、原始林に守られるかのように朱塗りのあでやかな社殿が立ち、境内には「春日大社国宝殿」があり、その数なんと国宝が352点、重要文化財が971点を含む約3000点を収蔵し、公開しています。また、付近には万葉集に登場する草花約300種が植えられている「春日大社神苑萬葉植物園」といった見どころや、レストラン、カフェ、ショップもあり、さまざまな楽しみ方ができます。そして、古来より「砂ずりの藤」として名前が知られている藤の名所としても有名です。私の個人的な見解ですが、「一之鳥居(重要文化財)」から「春日灯籠」が並ぶ参道を歩くと、奈良公園では一番多く鹿が見ることができるポイントだと思います。そのかわいらしさに魅了されカメラのシャッターを思わず押してしまいます。「春日大社」の創建時に、御祭神として迎えた「武甕槌命」は常陸から白鹿に乗ってやって来られたという伝承から、奈良では鹿は神のお使いとして昔から大切にされ、人の暮らしのすぐそばで共存してきました。背後の「春日山」には「春日山原始林」が神秘的な景観と雰囲気を醸し出しています。「春日大社」を囲うように密生している林として、昔の姿を今に伝えています。「春日山原始林」は、国の特別天然記念物に指定され、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。<br />それでは、「春日大社」を参拝いたいと思います。参拝には、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」を参拝することができる「一般的な参拝」と釣燈籠が並ぶ回廊を通り、「御蓋山浮雲峰遙拝所」や「中門」前まで進み参拝できる「特別参拝」があります。せっかく「春日大社」に来たので、その真髄を知るにはやはり「一般的な参拝」だけでなく「特別参拝」をお薦めします。これから「特別参拝」として話を進めていきます。まず、「春日大社」の「南門」を入るとすぐ目の前にある建物が「特別参拝受付」で初穂料として一人500円を納めて案内看板に沿って進みます。<br /><br />《「春日大社特別参拝」のお薦め順路》<br />①「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社(井栗神社、穴栗神社、辛榊神社、青榊神社)⇒<br />②「林檎の庭」⇒③「手力雄・飛来天神社」末社参拝所⇒④「桂昌院」奉納の燈籠⇒⑤「東回廊」⇒<br />⑥「御蓋山浮雲峰遥拝所」⇒⑦「中門・御廊」⇒⑧「御本殿」⇒⑨「岩本神社」⇒⑩「大杉・柏槙」⇒<br />⑪「内侍殿」⇒⑫「捻廊」⇒⑬「風宮神社」⇒⑭「七種寄木」⇒⑮「後殿」⇒⑯「椿本神社」⇒<br />⑰「藤浪之屋」⇒⑱「多賀神社」⇒⑲「宝庫」⇒⑳「内侍門」⇒&#12881;「御手洗川」⇒&#12882;「清浄門」⇒<br />&#12883;「直会殿」⇒&#12884;「幣殿・舞殿」<br /><br />最初のポイントは、「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社です。近い順から「井栗神社」、「穴栗神社」、「辛榊神社」、「青榊神社」が鎮座しています。「井栗神社」の御祭神は「高御産霊」で安産の神様です。「穴栗神社」の御祭神は「穴次」で幸運を導いてくださる神様です。「辛榊神社」の御祭神は「白和幣」で交渉をまとめてくださる神様です。「青榊神社」の御祭神は「青和幣」で争いを解決に導いてくださる神様です。<br />次が、「青和幣」の左手にある「林檎の庭」です。「林檎の庭」は、「春日大社」で行われる祭典の際に、神楽や舞楽などの神事芸能が奉納される庭です。名前の由来は、庭の東南隅に林檎の木が植えられているためにこのように呼ばれています。この林檎の木は、平安時代に「高倉天皇」がこの場所に林檎の木を献木されたそうです。このことは、文永10年(1273年)の「中臣祐賢記」に記録されています。<br />「林檎の庭」の先にある石段を上ると右手に「御本殿」近くにある「手力雄・飛来天神社」末社参拝所があるので、ここで参拝します。「手力雄神社」の御祭神は「天手力雄」で勇気と力の神様です。「飛来天神社」の御祭神は「天御中主」で空の旅の安全をお守りくださる神様です。<br />「手力雄・飛来天神社」末社参拝所を右方向に進むと右手に「桂昌院」奉納の燈籠があり、釣灯籠が多い「春日大社」の中で、この燈籠は、「春日大社」内に3基しかない燈籠の一つとなっています。「桂昌院」奉納の燈籠は鋳銅製で見事な彫金金物があしらわれ、徳川家の「三葉葵紋」と桂昌院の父がたの本庄家の「九つ目結紋」が施されています。「桂昌院」は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母です。「桂昌院」寺社の復興に尽力されており、東京都文京区にある「護国寺」も天和元年2月(1681年)に、「桂昌院」の発願により創建しました。<br />「桂昌院」奉納の燈籠の次は、奉納された釣燈籠が沢山吊るされている「東回廊」です。「東回廊」は東御廊と接する所までで約37mあり、ほぼ中央に「影向門」があります。吊るされている燈籠の間を歩くことができ、ふと自分が平安時代の貴族になったような感じがしました。<br />「東回廊」を回り込むようにして進むと「御蓋山浮雲峰遥拝所」があります。「春日大社」の第一殿の御祭神である鹿島の「武甕槌命」が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが「御蓋山」頂上でその浮雲峰の「遥拝所」です。この「遥拝所」は浮雲峰から「春日大社本殿」を通り「平城京大極殿」まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する「御蓋山」より、宮廷の正殿である「大極殿」へと神様の力が伝わる大変尊い場所なのだそうです。入山は厳しく制限されており、ここから遥拝します。ちなみに、「遥拝」とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことです。私の住んでいる東京では、千代田区富士見にある「東京大神宮」がかの有名な「伊勢神宮」の遥拝所になっています。<br />「御蓋山浮雲峰遥拝所」から案内の矢印に沿って戻ると「中門」とその「御廊」になります。「中門」は、「御本殿」と間違いやすい建物で、「御本殿」の建物と間違えておられる参拝客が多いそうです。何故なら「中門」は、「春日大社」の画像で教科書などもそうですが、よく出てくる代表的な建物だからです。念のためですが「御本殿」は「中門」の奥にあります。「御廊」は「中門」から左右に約13mあり、あたかも鳥が翼を広げたように延びています。現在「本殿」の祭典では、神職の座る場所ですが、昔は「興福寺」の僧侶が常に御経をあげる場所であり、その他にも「東大寺」の僧侶も御経をあげていたそうです。<br />「御本殿」は、平城京鎮護のために、最初に鹿島(茨城県)から「武甕槌命」を「春日御蓋山頂」に迎え入れ祭られていました。時は過ぎ、それから数十年後経った神護景雲2年(768年)11月9日に藤原氏の血を引く女帝の「称徳天皇」の勅命により、左大臣「藤原永手」らが現在の場所に神殿を創建して、さらに香取(千葉県)の「経津主命」、枚岡神社(大阪府)に祀る藤原氏の遠祖「天児屋根命」と「比売神」の四柱を併祀したのがその始まりとされています。御祭神は、「浮雲峰遥拝所」に近い方から「第一殿」が「武甕槌命」、「第二殿」が「経津主命」、「第三殿」が「天児屋根命」、そして「第四殿」が「比売神」の順になっています。ちなみに、「天児屋根命」と「比売神」は夫婦で、「天押雲根命」が御子神様であり、初めて個人の願いを聞いてくださった神様だそうです。言うまでもありませんが、「御本殿」の正面からの撮影は禁止となっています。<br />「御本殿」の次は「中門」の階段を下ります。するとそこには、「大杉・柏槙」と「岩本神社」が並ぶようにしてあります。手前にある「大杉」は、地上1.3mの位置の幹周が7.94m、高さが23mあります。そして「大杉」は、樹齢約1000年ともいわれています。何故ならば鎌倉時代後期(1309年)の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれているからです。「柏槙」は、別名で伊吹ともいわれ、「大杉」の根元から斜めにのびています。「柏槙」は、樹齢は約500年といわれており、樹木を大切にされる春日の神様の託宣(古社記)により、何と重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。私も色々な寺社を訪れましたがこのような衝撃的な光景を見るのは初めてでした。「岩本神社」は、かつでは「住吉社」といわれていましたが、明治初年に、同じく「春日大社」の末社で、奈良高畑丹坂町にある「住吉社」と区別するため、「岩本社」と名称を変更しました。御祭神は、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。<br />「岩本神社」のすぐ先には「内侍殿」があります。「内侍殿」は、春日祭の際に御神前で奉仕する内侍が控えていた建物です。当初は宮中より藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしていたそうです。最近では、「内侍殿」は20年に一度の式年造替時に、「御本殿」と「若宮」の神様を一時的に移すので、「移殿」(御仮殿)とも呼ばれているそうです。ちなみに、「式年造替」は同じ場所に社を造るので、新しい社ができるまでは別に住む所が必要になるそうです。<br />「内侍殿」に沿って進むと木材が歪んだ空間を醸し出している「捻廊」があります。「捻廊」は「内侍殿」から「御廊」をむすぶ渡り階段のことです。かつては「登廊」と呼ばれていていました。この建物は斜めに階段が付けられており、柱や&#26864;、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てられています。江戸初期に活躍した極めて高い技術を持つ伝説の大工「左甚五郎」が、斜めに階段をつけ、柱や&#26864;、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てたといわれています。<br />「御廊」を抜けると、神社の中に木が絡まって生い茂っている「風宮神社」が見えてきます。「風宮神社」の御祭神は「級長津彦命」、「級長津姫命」で、生命を司り、罪穢れを清めるお祓いの神様(子授け)です。「春日大社」ではお祓いは「御本殿」の真西に位置する「風の神様」の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。「風宮神社」の御垣の中にあり、絡まって生い茂っているのは、母樹の「カゴノキ」、「ヤマザクラ」、「ツバキ」、「ナンテン」、「ニワトコ」、「フジ」、「カエデ」の七種が共生する珍しいやどり木で、「七種寄木」と呼ばれています。ことから、子授けの御神徳があると言われています。古来、風神の威徳をもって種子を集められたといわれ、やどり木であることから、子授けの霊木と崇められ、紙捻に願い事を書いて結びつける信仰があります。<br />「風宮神社」の先を左に曲がると「後殿」が右手にあります。実は「後殿御門」は、明治維新以来長く閉ざされていましたが、「第60次式年造替」を機におよそ140年ぶりに開門されました。「御本殿」の真後ろにあるお庭や「後殿」には、災難厄除けの霊験あらたかな神々が鎮座しています。「浮雲峰遥拝所」に近い方から、「八雷神社」で御祭神は「八雷大神」で雷の力で人々に幸せをもたらす神様です。次が、「柄神社」で御祭神は、「火酢芹命」で出入りの門をお守りくださる神様です。次が「海本神社」で御祭神は、「大物主」で食の安全をお守りくださる神様です。その隣が「杉本神社」で御祭神は、「大山咋」で建物の高層階で生活する人々の安全をお守りくださる神様です。そして、最後が「佐軍神社」で御祭神は、「布津之霊大神」で悪縁を断ち平穏をお守りくださる神様が鎮座しています。<br />「後殿」の反対側には「椿本神社」があります。「椿本神社」の御祭神は、「角振神」です。「椿本神社」は「春日明神」の眷属の神様で、「隼の明神」ともいい、御神徳は災難をお祓い下さる神様です。「椿本神社」の名前の由来は、椿の木がこの付近にあったことから、それが社名になったとも伝えられています。また、御例祭は、毎年5月2日に行われます。<br />さらに奥に進むと、ミステリアスな「藤浪之屋」があります。「藤浪之屋」は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では「藤波之屋」を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。「藤浪之屋」では、「春日万燈籠」の神事を幽玄の美を体験することができます。「藤浪之屋」は鏡が張り巡らされていてさらに神秘的な空間となっています。ただし、明るい場所から暗い場所に入るので、目が慣れるまでは足元に気をつけて鑑賞をされてください。ちなみに、「春日大社」には燈籠がたくさんあることで有名です。平安時代から現在までに奉納された燈籠がおよそ三千基あります。そして、「春日大社」では、2月の節分、8月14日・15日の年3回、すべての燈籠に浄火をともす「春日万燈籠」が行われます。さぞかし荘厳な世界に豹変することでしょうね。<br />「藤波之屋」の正面斜め左手に「多賀神社」があります。「多賀神社」の御祭神は、「伊弉諾命」で生命を司る延命長寿の霊験高い神様です。「俊乗房重源」が、その昔大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話があります。御神徳は延命長寿の神様で仕事の完遂をお導きになる神様です。その御神徳を求めて延命長寿の「幡」の奉納が絶えないそうです。また、御例祭は、毎年4月22日に行われます。<br />「多賀神社」の前付近に校倉造の「宝庫」があります。「宝庫」は、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物です。古くは春日の神々の大切な御神宝の数々を納めていました。そして、国宝の「大鎧」等は、実は近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の「春日祭」の時に、「本殿」をお飾りする「御神宝」である鏡、太刀、鉾、弓矢などが納められ、3月の「春日祭」の時以外は閉ざされています。<br />「宝庫」の先は「西回廊」になっていて「内侍門」があります。「内侍門」は「西回廊」にある三つの門の中で北側にある門です。「貞観儀式」によると斎女や内侍等女性が参入すべき「鳥居」の後継が「内侍門」と考えられているそうです。<br />そして、「西回廊」に沿って「御手洗川」があります。「御手洗川」は、春日奥山を水源地とした「水谷川」を分水してできたものです。古くは御供用の水として汲み上げられ、また参拝の際の手水としても利用されていたそうです。「春日祭」では、勅使の「手水の儀」が「慶賀門」を入ったこの流れのそばで行われます。<br />次は、「西回廊」の3つある門の真ん中に位置している「清浄門」です。「清浄門」は、現在は神職の通用門ですが、かつては「僧正門」と呼ばれ、「興福寺」の僧侶が参入していた門だったそうです。<br />先ほど見た重要文化財の屋根を貫いている「柏槙」がある「直会殿」です。「直会殿」は、東を正面とする南北8間、東西4間の広大な建物で、「素木造」です。東の2間が母屋となり、「春日祭」には、勅使・弁以下の直会の儀式が殿上で行なわれます。平安期以降、ここで法華八講が盛大に行なわれたので、「八講屋」の別名もあります。斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。<br />最後が、「南門」をくぐると正面にある「幣殿・舞殿」です。この建物は、東側2間を「幣殿」といい、「幣殿」は天皇陛下のお供え物である御幣物を一旦納める建物で、天井板は格天井で、「舞殿」と区別されています。西側3間を「舞殿」といい、「舞殿」は、宮中伝来の御神楽を行うための建物で、雨天時に神楽や舞楽を奉納する場所になります。ここが出口になり、「特別参拝」は終わりになります。なお、一般的な参拝は、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」から参拝することができます。<br /><br />【「春日大社」の一口メモ】<br />&#9332; 所在地…〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 電話:0742-22-7788<br />&#9333; 拝観時間	<br />① 本社参拝…開門時間 06:30~17:30(11月~2月07:00~17:00)<br />② 国宝殿…10:00~17:00(入館は16:30まで)<br />③ 萬葉植物園…09:00~16:30(12月~2月09:00~16:00)<br />&#9334; 休日…①国宝殿 年3回の展示替の時(各2~3日間) ②萬葉植物園 1・2・12月の月曜日<br />&#9335; 拝観料<br />① 本社参拝…回廊内特別参拝のみ有料(500円)<br />② 国宝殿…大人…500円、大学生・高校生…300円、中学生・小学生…200円<br /><br />【「春日大社」へのアクセス】<br />JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から<br />① 奈良交通バス(春日大社本殿行) 約11~15分 「春日大社本殿」下車すぐ<br />② 奈良交通バス(市内循環外回り)約9~13分 「春日大社表参道」下車 、徒歩約10分<br />③ 近鉄奈良駅からぐるっとバス大宮通りルート「春日大社本殿」下車すぐ ぐるっとバス(運賃100円)<br /><br />04_【春日大社から興福寺へ】<br />「春日大社」の参拝を終え、次の目的地は「興福寺」です。「春日大社」の参道を「一之鳥居」まで戻ります。そして、信号を渡り右方向に進み、「国道169号線」沿いを80mほど進むと、最初の信号があります。そこを右折すると「興福寺」の境内になります。「興福寺」は「奈良公園」の一角にあり、「東大寺」や「春日大社」と並んで奈良市を代表する観光名所のひとつです。「古都奈良の文化財」として世界遺産にも登録され、歴史的・文化的な遺産が多く残る寺院です。途中で、かわいらし鹿がいたので、思わず鹿煎餅を買って与えました。参道の左手には、寺院の風呂場として使われていた「興福寺大湯屋」が見えます。「大湯屋」は、奈良時代から設けられていたと考えられていて、「大湯屋」の中には、通常非公開ですが、奈良県指定文化財の「鉄湯釜」があるそうです。右手には、「興福寺」の寺務を執り行う「本坊」が見えます。通常は非公開ですが、「本坊」北西には明治時代に建てられた「大圓堂」と呼ばれる「持仏堂」があり、国の重要文化財である「木造聖観音菩薩立像」があります。少し進むと右手にある「柳茶屋」の先に、「興福寺」を分断する道路があり、横断歩道があります。横断歩道を渡ると道が二手に分かれます。直進すると「南円堂」そして右斜め方向に入ると「国宝館」の案内板があります。<br />「興福寺」は、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。しかし、世界遺産に登録されたという理由だけ「興福寺」を訪れたわけではありません。今回の奈良旅行の世界遺産に指定された6つのお寺を拝観することもそうですが、最大の目的は二つあります。一番の優先事項は「唐招提寺」の「鑑真大和上像」の特別公開、それと二番目は「興福寺」の「阿修羅像」を見るためです。そう言う訳で早速「興福寺」の「国宝館」へ入りました。その前に、「興福寺」の歴史と概要を紐解いてみたいと思います。「興福寺」は、法相宗の大本山です。「興福寺」は、京都山科の「藤原鎌足私邸」に建立された「山階寺」が前身となります。「山階寺」は、天智8年(669年)に「藤原鎌足」が重い病気を患った際に、夫人である「鏡女王」が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。そして、天武天皇元年(672年)の壬申の乱後に、飛鳥に都が戻った際に、「山階寺」も移され、その地名を取って「厩坂寺」と名付けられます。さらに、和銅3年(710年)の平城遷都の際に、「藤原不比等」よって現在地に移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には「四大寺」、平安時代には「七大寺」の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。特に、藤原氏の氏寺として大いに繁栄し、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。治承4年(1180年)の「平重衡」の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げますが、その後、享保2年(1717年)の火災によって、伽藍の西半分を失いました。境内には「光明皇后」創建とされ、室町時代に再建された国宝の「五重塔」、鎌倉時代に再建された国宝の「北円堂」や江戸時代に再建された重要文化財の「南円堂」などが建ち並んでいます。そして、「国宝館」には多くの仏教彫刻の名品を所蔵しています。<br /><br />《「興福寺」のお薦め拝観順路》<br />①「国宝館」⇒②「中金堂」⇒③「東金堂」⇒④「五重塔」⇒⑤「南円堂」⇒⑥「南円堂」⇒⑦「三重塔」<br /><br />《国宝館》<br />まずは、右斜め方向に進み、最大の目的地である「国宝館」に向かいました。「国宝館」は、奈良時代創建当初の僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に、「食堂」の外観を復元して、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。建物の大きさは正面が35.3m、側面が31.8mで、本瓦葺の建物です。ちなみに、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうです。この「国宝館」には、日本に数多ある仏像の中でも、特に人気のあり、天平文化を代表する仏像彫刻のとして国宝にも指定されている「阿修羅像」が収蔵されています。「阿修羅像」は、端正な顔立ちとスタイルで美少年との呼び声も高く、私たち家族もそうですが、この彫刻を目当てに「興福寺」を訪れる観光客も多いそうです。この見応えたっぷりの「国宝館」には、「興福寺」の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、歴史資料などが収蔵してあり、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。そして、館内には旧食堂の本尊「千手観音菩薩立像」、奈良時代の「阿修羅像」などの「乾漆八部衆像」、「乾漆十大弟子像」、「華原馨」、平安時代の「燈籠」や「板彫十二神将像」、鎌倉時代の「木造金剛力士像」、「木造天燈鬼・龍燈鬼像」などの国宝や、重要文化財の「梵天像・帝釈天像」や厨子入り「弥勒菩薩半跏像」なども安置します。どれもこれも素晴らしいものばかりですが、なかでも「阿修羅像」と以前に上野の東京国立博物館でも公開された「木造天燈鬼・龍燈鬼像」は私の中では一番印象に残り、感銘を受けました。ちなみに、「阿修羅」とは、梵語(古代インド語)の「アスラ」(Asura)で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。例えば、ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。しかし、仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神となったそうです。歴史的価値のある仏像等が所狭しとあり、見ごたえたっぷりの「国宝館」は、毎日9:00から17:00まで観覧できます。<br /><br />《中金堂》<br />「国宝館」での鑑賞を終え、出口の駐車所を右方向に進むと正面に「中金堂」、そして、左手に「東金堂」、その向こう側奥には「五重塔」があります。まずは、正面にある「中金堂」です。「勧進所・売店」の隣にある「拝観受付」でチケットを購入して中に入ります。「中金堂」は「興福寺」の伽藍の中心になる最も重要な建物で、平成30年(2018年)に301年ぶりに再建され、復元されました。「中金堂」の大きさは、正面が37.0m、側面が23.0mあり、建築様式は寄棟造、単層裳階付き、本瓦葺になっています。「中金堂」の歴史を紐解いてみると、かつて「中金堂」は、「興福寺」にあった金堂3棟の中心となり、創建当時は、その規模においても奈良にある寺院の中でも大きさを誇るものでした。創建者は日本の律令制度をまとめ、藤原氏の繁栄の基礎を築いた「藤原不比等」です。それ以降、創建より6回の焼失、再建を繰り返しました。そして、享保2年(1717)に焼失した後は財政難のために再建することができませんでした。その100年後に町屋の寄進により規模を縮小した「仮堂」を文政2年(1819年)に再建しましたが、あくまで仮設としての建立であったため、長期使用を想定しておらず、材木には不向きなマツが使われるなどしたため、急速に老朽化が進んでしまいました。度重なる火災を乗り越え平成30年(2018年)に復興された堂内には、御本尊の「丈六釈迦如来像」を中心に、「薬王・薬上菩薩像」が脇侍として祀られています。ちなみに、現在安置されている御本尊の「丈六釈迦如来像」は5代目で、像内墨書から文化8年(1811年)に仏師「赤尾右京」が造立したそうです。また、「木造薬王・薬上菩薩立像」は、兄弟の菩薩で、ともに良薬を人々に与え、心と身の病気をなおしたと言われています。普通、「釈迦如来像」は「文殊菩薩像」と「普賢菩薩像」を従えることが多いのですが、「薬王菩薩像」と「薬上菩薩像」を置くのは古い形だそうです。<br /><br />《東金堂》<br />次が、「東金堂」と「五重塔」ですが、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。仕方なくフェンスのそとから事前に調べていた「東金堂」と「五重塔」の全体像を想像してみました。「東金堂」は、「中金堂」の東側にある「金堂」で、その隣には、「五重塔」が高々とそびえ立っています。「東金堂」は、「聖武天皇」が叔母である「元正太上天皇」の病気平癒を祈念して、神亀3年(726年)に建立したものです。それ以降、5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415年)に再建されました。創建当初には床に緑色のタイルが敷き詰められ、御本尊「薬師如来」の浄瑠璃光の世界が表現されていたそうです。「東金堂」の建築様式は、前面を吹き放しとした寄棟造です。見どころは、堂内には国の重要文化財に指定されている「本尊薬師如来坐像」を中心に、「日光・月光菩薩立像」、「文殊菩薩坐像」、「維摩居士坐像」、「十二神将立像」、「四天王立像」など貴重な文化財がたくさんあります。<br /><br />《五重塔》<br />「東金堂」の隣にある「興福寺」の「五重塔」は、天平2年(730年)に「興福寺」の創建者である「藤原不比等」の娘「光明皇后」の発願で建立されました。古都奈良のシンボルといえば、「五重塔」といわれるくらい有名な建築物です。ちなみに、「塔」は釈尊の舎利を納める墓標であり、当時の仏教寺院においては権威の象徴だったそうです。他の堂宇と同様に、その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建された約50mもある木造の「五重塔」で、日本で2番目に高い塔です。ちなみに、日本で一番高い「五重塔」は、東寺(教王護国寺)の五重塔で、 高さは約57メートルあり、現存する日本の木造建築物としては最高の高さです。「興福寺」の「五重塔」には、いずれも室町時代作品である「薬師三尊像」、「釈迦三尊像」、「阿弥陀三尊像」、「弥勒三尊像」が一層目のそれぞれ「須弥壇四方」に安置されています。また、青空の下で見る五重塔も堂々として魅力的ですが、ライトアップされた姿も圧巻だそうです。保存・改修工事が終わったら、再度奈良を訪れ、ぜひライトアップされた「五重塔」を見に来たいものですね。<br /><br />《南円堂》<br />次が、「五重塔」の塔の反対側に位置している「南円堂」です。途中に「興福寺」の「南大門跡」があり、若干高台になっていて、そこから見下ろす「猿沢池」や古都奈良の街並の風景が絶景でした。「南円堂」は、「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を願って建立した八角円堂であり、また、「西国三十三所」の「第九番札所」として知られ、の参拝者が多い御堂です。「南円堂」は、朱色が際立つ美しい八角円堂で、弘仁4年(813年)に「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を祈るため建立しました。また、発掘調査で判明したことですが、基壇築造の際には地神を鎮めるために、「和同開珎」や「隆平永宝」を撒きながら築き上げたそうです。「南円堂」の御本尊である「不空羂索観音菩薩」は、神に仕える鹿の鹿皮を身にまとっています。現在の内陣には、慶派仏師の「康慶」一門により制作された本尊の「不空羂索観音菩薩坐像」を中心に、「四天王立像」、「法相六祖坐像」が安置されています。現在残っている建物は、創建以来4度目のもので、江戸時代の寛政元年(1789年)に再建されたものです。「南円堂」では、年に1度、10月17日に「特別開扉」が行われ、堂内を拝観することができます。また、当日は僧侶たちが経典を宙で広げながら読む「大般若経転読会」という儀式も行われ、たくさんの参拝客で賑わうそうです。<br /><br />《北円堂》<br />「南円堂」を右方向に進むと「北円堂」があります。「北円堂」は、「興福寺」の創建者「藤原不比等」の1周忌にあたる養老5年(721年)8月に「元明・元正天皇」が、「長屋王」に命じて建てさせたものです。建物が建っている場所は、「興福寺伽藍」の中では、中心でなく西隅に位置しています。かつては、「北円堂」から平城京を一望の下に見渡すことのできる場所だったそうです。現在の建物は、治承4年(1180年)の被災で焼失し、承元4年(1210年)頃に再建されました。そして、「北円堂」は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいといわれています。堂内には、御本尊である「弥勒如来坐像」を中心に、「無著・世親菩薩立像」をはじめとして、「木心乾漆四天王立像」などが安置されています。これらはいずれも国宝に指定されています。そして、堂内にあるこれらの像は、春・秋一定期間に特別公開されます。<br /><br />《三重塔》<br />最後が、「三重塔」です。「北円堂」の正面反対側にある道を直進すると右手にが「三重塔」あります。「三重塔」は「北円堂」とともに山内で最古の建物とも言われ、高さが約19.1m、初層の幅は約4.8mあります。「三重塔」は「五重塔」に比べるとあまり知られておらず、見逃されがちです。「三重塔」は、康治2年(1143年)に「崇徳天皇」の皇后の「皇嘉門院聖子」が建て、治承4年(1180年)に焼失しましたが、間もなく再建されたといわれています。堂内には、かつて「興福寺」の子院であった「世尊院」の「弁才天坐像」とその「諸尊」(十五童子)を移して安置されています。これらの像は、毎年7月7日の10時から「弁才天供」が行われ、特別開扉されます。<br /><br />《興福寺五十二段》<br />余談ですが、この日私たち家族は、「猿沢池」の畔にある「よしだや」に宿泊しましたが、「北円堂」から「三条通」に出て、「よしだや」へ向かいましたが、その途中に「興福寺五十二段」と呼ばれる「五重塔」に続く幅広い石段がありました。菩薩修行の段位五十二位になぞられたものであり、段の上は仏界を意味するといわれているそうです。<br /><br />【「興福寺」の一口メモ】<br />&#9332; 所在地…〒630-8213 奈良市登大路町48 電話:0742

古都奈良の文化財として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅

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2023/11/23 - 2023/11/24

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2023/11/23

2023/11/24

  • 近鉄「奈良駅」奈良県総合医療センター行09:53発⇒唐招提寺10:20着

  • 近鉄西ノ京駅12:18発⇒近鉄西大寺駅12:21着・12:24発⇒近鉄奈良駅12:30着

  • 近鉄「奈良駅」・奈良総合医療センター行15:53発⇒JR「奈良駅」15:58着

  • JR奈良駅普通列車16:24発⇒JR京都駅17:30着

  • JR京都駅18:54発⇒JR品川駅20:59着(のぞみ104号)

この旅行記スケジュールを元に

【旅行第一日目(2023/11/23)】
今回の奈良旅行の大きな目的は、「古都奈良の文化財」として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅です。急ぎ足になりましたが、一泊二日で「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」、「元興寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねてみました。当初は、「鑑真和上像」の特別公開があるので、「唐招提寺」だけ行き、奈良市内をブラブラする予定でしたが、せっかく奈良まで来たので、急きょ予定を変更して、欲張って世界遺産に指定されている寺院も訪ねてみることにしました。
01_【奈良市総合観光案内所】
まず、奈良旅行の第一日目の最初の訪問先は、「東大寺」です。その前にJR奈良駅東口にある「奈良市総合観光案内所」へ行き、奈良のお寺のお得な巡り方や交通機関等の情報をゲットするために訪れました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で「散華」を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。また、バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを質問され、第一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので、一日乗車券を買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。

02_【奈良市総合観光案内所から東大寺へ】
JR奈良駅西口から「ぐるっとバス」の奈良公園ルートの停留所へ向かうと、目を疑うようなバスに乗る観光客の長蛇の列でした。こんなに乗れるかと思うくらいギュウギュウ詰のバスに乗り、他の停留所で待っている乗客がいましたが、満員で途中の停留所はやむなくスルーし、「東大寺大仏殿・春日大社前」停留所で下車しました。所要時間は約13分ということでしたが、奈良県庁付近までは順調に進みましたが、祝日のため車が渋滞していて、県庁まえの信号から東大寺大仏殿駐車場まで25分くらいかかりました。降車所でバスを降りると1分もかからないところに「東大寺」への入口である「南大門」があります。
「東大寺」は、誰もがしっているように学校の教科書にも出てくる奈良の大仏さまで知られる「聖武天皇」の勅願によって建立されたお寺です。世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。「東大寺」は、奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の「国分寺」の中心として建立されました。また、「大仏殿」は世界最大級の木造建造物で、天平15年(743年)に「聖武天皇」が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、「盧舎那大仏」造立の詔を発し、延べ260万人もの人々の協力によりすべてのものの幸福を願い造られた大仏様は、天平勝宝4年(752年)に、「開眼供養会」が盛大に営まれました。そして、「東大寺」の境内には、「大仏殿」ばかりでなく、創建当時の遺構を残す「転害門」、「法華堂」をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である「南大門」、「鐘楼」、江戸時代再建の「二月堂」といった数多くの国宝建造物がたち並び、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。その他に。世界遺産に登録されている古都奈良の文化財は、「興福寺」、「春日大社」、「春日山原始林」、「元興寺」、「平城宮跡」、「薬師寺」、「唐招提寺」のなど「「東大寺」」を含め8遺産群が平成10年(1998年)に指定されています。

《「東大寺」のお薦め拝観順路》
①「南大門」⇒②「大仏さまの手」⇒③「鏡池と厳島神社」⇒④「谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑」⇒
⑤「五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔」⇒⑥「中門」⇒⑦「大仏殿」⇒⑧「手向山八幡宮」⇒
⑨「法華堂(三月堂)」⇒⑩「二月堂」⇒⑪「正倉院」⇒⑫「戒壇堂」

《南大門》
まず「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。高さ21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにもなります。「南大門」の下の西側(左側)には「阿形」の「金剛力士像(仁王像)」が東側(右手)には「吽形」の「金剛力士像(仁王像)」が配置されています。もちろん「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝に指定されています。東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。また、夏になると、「大仏殿」や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立つそうです。そして、「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。「金剛力士(仁王) 像」を撮影しようと思いましたが、太陽の日差しが入り込んでうまく取れませんでした。

《大仏さまの手》
「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。

《鏡池》
少し進むと「東大寺」の「鏡池」があります。そして、「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」で、その紅葉に彩られた姿にはしばし足を止め見とれてしましました。他の観光客も美しい紅葉の風景をカメラにおさめていました。カメラで夢中になっていて、気が付かなかったのですがふと足元をみると鹿が日光浴でもしているのでしょうか、足元に横たわっていました。ちなみに、「鏡池」にある「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。

《谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑》
「鏡池」の反対側には、「谷川喜六建立慰霊碑」と「会津八一歌碑」が並ぶようにしてあります。向かって左側にあるのが「谷川喜六建立慰霊碑」、右側にあるのが「会津八一歌碑」です。「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」が、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。

《五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔》
「会津八一歌碑」の少し先の左手に「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれてありました。目の前には、「東大寺」の「中門」がそびえ立っているので、見逃される確率の高い穴場スポットです。参道は坂になっていて途中の左手に「五百立神社」、そして坂を上り切ったところに「鉄道職員殉職者供養塔」の石造十三重塔が建っています。「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。「五百立神社」は、最初なんと読むのかと思い、その場でスマホを検索し調べてみたところ、「五百立」と書いて「イホタチ」と読むそうです。日本語はつくづく難しいですね。「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。

《中門》
「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道を下ると左手に「大仏殿」への入口である「中門」があります。「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。

《大仏殿》
「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。

《手向山八幡宮》
「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。

《法華堂(三月堂)》
「手向山八幡宮」を左に折れると正面に「法華堂(三月堂)」があります。「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。

《二月堂》
「法華堂(三月堂)」をさらに奥に進むと右手に「二月堂」があります。勾配の急な石段を上り切ると「手水舎」があり、何と水が飲めると書いてありました。「二月堂」には、もう一か所に「手水舎」がありますがこちらの水は飲めませんと注意がきがありました。「二月堂」の舞台に到着し、そこから眺める風景は素晴らしいものです。急勾配の石段を上り息が切れることさえ忘れさせてくれます。「二月堂」へは、昼間と娘の薦めもあり夜間のライトアップへの計二回訪れてみました。ライトアップされた幻想的な「二月堂」と光がともる奈良の街並みを見ると何とも言えない気分になってきました。「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。お見逃しなく!

《正倉院》
次は、「東大寺」裏手にある「正倉院」へ向かいました。「正倉院」へ向かう途中の築地塀のような塀が並んでいる風景がとても印象的でした。また、「大仏殿」を後ろから見るとその大きさには驚かされました。そして「正倉院」へ着いたのですが、残念ながら祝日は開放していないというで見学することができませんでした。

《戒壇堂》
最後が「戒壇堂」です。「正倉院」の前にあるイチョウ並木を通り「戒壇堂」に到着しました。天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂、講堂、僧坊、鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。

【「東大寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8587 奈良市雑司町406-1 電話: 0742-22-5511
⑵ 拝観時間
① 大仏殿…4月~10月 開門7:30 閉門17:30 11月~3月 開門8:00 閉門17:00
② 法華堂(三月堂)・戒壇院千手堂…開門8:30 閉門16:00
③ 拝観料…大仏殿、法華堂(三月堂)、戒壇堂…大人(中学生以上)600円、小学生300円
※ お堂ごとに入堂料が必要となります。

【「東大寺」へのアクセス】
⑴ 奈良交通バスを利用して
① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・5停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約11分 
・9時から17時の間に1時間平均4便:[JR奈良駅)]毎時 10分、25分、40分、55分発
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
② [JR奈良駅)] ⇒[藤原台・山村町・鹿野園町行き]≪奈良交通:57・58・61・62≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(2番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・4停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分 
・9時から17時の間に1時間平均3便~6便
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
⑵ ぐるっとバスを利用して
① [近鉄奈良駅)] ⇒「ぐるっとバス大宮通りルート」または「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「近鉄奈良駅(1番出口)」(ぐるっとバスのりば:B5、R7)
・2停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約4分 
・9時から17時の間に「大宮通りルート」または「奈良公園ルート」1時間平均各4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
② [JR奈良駅西口)] ⇒「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「JR奈良駅西口(ぐるっとばすのりば: R5)
・4停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約13分 
・9時から17時の間に1時間平均4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
⑶ 電車を利用して
近鉄「奈良駅」出口から徒歩約20分、1400m

03_【東大寺から春日大社へ】
「東大寺」の参拝を終え、次の目的地は「春日大社」です。「東大寺」からは、「奈良国立博物館」の先にあるT字路の信号のところに向かうと、そのすぐ先に「春日大社参道」の石碑が建っています。斜めに参道が続いていますので、あとは道なりに進めば「春日大社」に到着します。
「春日大社」は、全国に約3000社あるという「春日神社」の総本社で、その歴史を紐解いてみると、奈良時代から始まり、神護景雲2年(768年)に、茨城県鹿島より「武甕槌命」を神山である「御蓋山山頂浮雲峰」に迎えました。そして、現在の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のことです。それ以来、皇族や貴族、有名武将などから庶民にいたるまで幅広く信仰され続けています。境内は古代から神域とされていた御蓋山一帯に広がり、原始林に守られるかのように朱塗りのあでやかな社殿が立ち、境内には「春日大社国宝殿」があり、その数なんと国宝が352点、重要文化財が971点を含む約3000点を収蔵し、公開しています。また、付近には万葉集に登場する草花約300種が植えられている「春日大社神苑萬葉植物園」といった見どころや、レストラン、カフェ、ショップもあり、さまざまな楽しみ方ができます。そして、古来より「砂ずりの藤」として名前が知られている藤の名所としても有名です。私の個人的な見解ですが、「一之鳥居(重要文化財)」から「春日灯籠」が並ぶ参道を歩くと、奈良公園では一番多く鹿が見ることができるポイントだと思います。そのかわいらしさに魅了されカメラのシャッターを思わず押してしまいます。「春日大社」の創建時に、御祭神として迎えた「武甕槌命」は常陸から白鹿に乗ってやって来られたという伝承から、奈良では鹿は神のお使いとして昔から大切にされ、人の暮らしのすぐそばで共存してきました。背後の「春日山」には「春日山原始林」が神秘的な景観と雰囲気を醸し出しています。「春日大社」を囲うように密生している林として、昔の姿を今に伝えています。「春日山原始林」は、国の特別天然記念物に指定され、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。
それでは、「春日大社」を参拝いたいと思います。参拝には、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」を参拝することができる「一般的な参拝」と釣燈籠が並ぶ回廊を通り、「御蓋山浮雲峰遙拝所」や「中門」前まで進み参拝できる「特別参拝」があります。せっかく「春日大社」に来たので、その真髄を知るにはやはり「一般的な参拝」だけでなく「特別参拝」をお薦めします。これから「特別参拝」として話を進めていきます。まず、「春日大社」の「南門」を入るとすぐ目の前にある建物が「特別参拝受付」で初穂料として一人500円を納めて案内看板に沿って進みます。

《「春日大社特別参拝」のお薦め順路》
①「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社(井栗神社、穴栗神社、辛榊神社、青榊神社)⇒
②「林檎の庭」⇒③「手力雄・飛来天神社」末社参拝所⇒④「桂昌院」奉納の燈籠⇒⑤「東回廊」⇒
⑥「御蓋山浮雲峰遥拝所」⇒⑦「中門・御廊」⇒⑧「御本殿」⇒⑨「岩本神社」⇒⑩「大杉・柏槙」⇒
⑪「内侍殿」⇒⑫「捻廊」⇒⑬「風宮神社」⇒⑭「七種寄木」⇒⑮「後殿」⇒⑯「椿本神社」⇒
⑰「藤浪之屋」⇒⑱「多賀神社」⇒⑲「宝庫」⇒⑳「内侍門」⇒㉑「御手洗川」⇒㉒「清浄門」⇒
㉓「直会殿」⇒㉔「幣殿・舞殿」

最初のポイントは、「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社です。近い順から「井栗神社」、「穴栗神社」、「辛榊神社」、「青榊神社」が鎮座しています。「井栗神社」の御祭神は「高御産霊」で安産の神様です。「穴栗神社」の御祭神は「穴次」で幸運を導いてくださる神様です。「辛榊神社」の御祭神は「白和幣」で交渉をまとめてくださる神様です。「青榊神社」の御祭神は「青和幣」で争いを解決に導いてくださる神様です。
次が、「青和幣」の左手にある「林檎の庭」です。「林檎の庭」は、「春日大社」で行われる祭典の際に、神楽や舞楽などの神事芸能が奉納される庭です。名前の由来は、庭の東南隅に林檎の木が植えられているためにこのように呼ばれています。この林檎の木は、平安時代に「高倉天皇」がこの場所に林檎の木を献木されたそうです。このことは、文永10年(1273年)の「中臣祐賢記」に記録されています。
「林檎の庭」の先にある石段を上ると右手に「御本殿」近くにある「手力雄・飛来天神社」末社参拝所があるので、ここで参拝します。「手力雄神社」の御祭神は「天手力雄」で勇気と力の神様です。「飛来天神社」の御祭神は「天御中主」で空の旅の安全をお守りくださる神様です。
「手力雄・飛来天神社」末社参拝所を右方向に進むと右手に「桂昌院」奉納の燈籠があり、釣灯籠が多い「春日大社」の中で、この燈籠は、「春日大社」内に3基しかない燈籠の一つとなっています。「桂昌院」奉納の燈籠は鋳銅製で見事な彫金金物があしらわれ、徳川家の「三葉葵紋」と桂昌院の父がたの本庄家の「九つ目結紋」が施されています。「桂昌院」は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母です。「桂昌院」寺社の復興に尽力されており、東京都文京区にある「護国寺」も天和元年2月(1681年)に、「桂昌院」の発願により創建しました。
「桂昌院」奉納の燈籠の次は、奉納された釣燈籠が沢山吊るされている「東回廊」です。「東回廊」は東御廊と接する所までで約37mあり、ほぼ中央に「影向門」があります。吊るされている燈籠の間を歩くことができ、ふと自分が平安時代の貴族になったような感じがしました。
「東回廊」を回り込むようにして進むと「御蓋山浮雲峰遥拝所」があります。「春日大社」の第一殿の御祭神である鹿島の「武甕槌命」が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが「御蓋山」頂上でその浮雲峰の「遥拝所」です。この「遥拝所」は浮雲峰から「春日大社本殿」を通り「平城京大極殿」まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する「御蓋山」より、宮廷の正殿である「大極殿」へと神様の力が伝わる大変尊い場所なのだそうです。入山は厳しく制限されており、ここから遥拝します。ちなみに、「遥拝」とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことです。私の住んでいる東京では、千代田区富士見にある「東京大神宮」がかの有名な「伊勢神宮」の遥拝所になっています。
「御蓋山浮雲峰遥拝所」から案内の矢印に沿って戻ると「中門」とその「御廊」になります。「中門」は、「御本殿」と間違いやすい建物で、「御本殿」の建物と間違えておられる参拝客が多いそうです。何故なら「中門」は、「春日大社」の画像で教科書などもそうですが、よく出てくる代表的な建物だからです。念のためですが「御本殿」は「中門」の奥にあります。「御廊」は「中門」から左右に約13mあり、あたかも鳥が翼を広げたように延びています。現在「本殿」の祭典では、神職の座る場所ですが、昔は「興福寺」の僧侶が常に御経をあげる場所であり、その他にも「東大寺」の僧侶も御経をあげていたそうです。
「御本殿」は、平城京鎮護のために、最初に鹿島(茨城県)から「武甕槌命」を「春日御蓋山頂」に迎え入れ祭られていました。時は過ぎ、それから数十年後経った神護景雲2年(768年)11月9日に藤原氏の血を引く女帝の「称徳天皇」の勅命により、左大臣「藤原永手」らが現在の場所に神殿を創建して、さらに香取(千葉県)の「経津主命」、枚岡神社(大阪府)に祀る藤原氏の遠祖「天児屋根命」と「比売神」の四柱を併祀したのがその始まりとされています。御祭神は、「浮雲峰遥拝所」に近い方から「第一殿」が「武甕槌命」、「第二殿」が「経津主命」、「第三殿」が「天児屋根命」、そして「第四殿」が「比売神」の順になっています。ちなみに、「天児屋根命」と「比売神」は夫婦で、「天押雲根命」が御子神様であり、初めて個人の願いを聞いてくださった神様だそうです。言うまでもありませんが、「御本殿」の正面からの撮影は禁止となっています。
「御本殿」の次は「中門」の階段を下ります。するとそこには、「大杉・柏槙」と「岩本神社」が並ぶようにしてあります。手前にある「大杉」は、地上1.3mの位置の幹周が7.94m、高さが23mあります。そして「大杉」は、樹齢約1000年ともいわれています。何故ならば鎌倉時代後期(1309年)の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれているからです。「柏槙」は、別名で伊吹ともいわれ、「大杉」の根元から斜めにのびています。「柏槙」は、樹齢は約500年といわれており、樹木を大切にされる春日の神様の託宣(古社記)により、何と重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。私も色々な寺社を訪れましたがこのような衝撃的な光景を見るのは初めてでした。「岩本神社」は、かつでは「住吉社」といわれていましたが、明治初年に、同じく「春日大社」の末社で、奈良高畑丹坂町にある「住吉社」と区別するため、「岩本社」と名称を変更しました。御祭神は、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。
「岩本神社」のすぐ先には「内侍殿」があります。「内侍殿」は、春日祭の際に御神前で奉仕する内侍が控えていた建物です。当初は宮中より藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしていたそうです。最近では、「内侍殿」は20年に一度の式年造替時に、「御本殿」と「若宮」の神様を一時的に移すので、「移殿」(御仮殿)とも呼ばれているそうです。ちなみに、「式年造替」は同じ場所に社を造るので、新しい社ができるまでは別に住む所が必要になるそうです。
「内侍殿」に沿って進むと木材が歪んだ空間を醸し出している「捻廊」があります。「捻廊」は「内侍殿」から「御廊」をむすぶ渡り階段のことです。かつては「登廊」と呼ばれていていました。この建物は斜めに階段が付けられており、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てられています。江戸初期に活躍した極めて高い技術を持つ伝説の大工「左甚五郎」が、斜めに階段をつけ、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てたといわれています。
「御廊」を抜けると、神社の中に木が絡まって生い茂っている「風宮神社」が見えてきます。「風宮神社」の御祭神は「級長津彦命」、「級長津姫命」で、生命を司り、罪穢れを清めるお祓いの神様(子授け)です。「春日大社」ではお祓いは「御本殿」の真西に位置する「風の神様」の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。「風宮神社」の御垣の中にあり、絡まって生い茂っているのは、母樹の「カゴノキ」、「ヤマザクラ」、「ツバキ」、「ナンテン」、「ニワトコ」、「フジ」、「カエデ」の七種が共生する珍しいやどり木で、「七種寄木」と呼ばれています。ことから、子授けの御神徳があると言われています。古来、風神の威徳をもって種子を集められたといわれ、やどり木であることから、子授けの霊木と崇められ、紙捻に願い事を書いて結びつける信仰があります。
「風宮神社」の先を左に曲がると「後殿」が右手にあります。実は「後殿御門」は、明治維新以来長く閉ざされていましたが、「第60次式年造替」を機におよそ140年ぶりに開門されました。「御本殿」の真後ろにあるお庭や「後殿」には、災難厄除けの霊験あらたかな神々が鎮座しています。「浮雲峰遥拝所」に近い方から、「八雷神社」で御祭神は「八雷大神」で雷の力で人々に幸せをもたらす神様です。次が、「柄神社」で御祭神は、「火酢芹命」で出入りの門をお守りくださる神様です。次が「海本神社」で御祭神は、「大物主」で食の安全をお守りくださる神様です。その隣が「杉本神社」で御祭神は、「大山咋」で建物の高層階で生活する人々の安全をお守りくださる神様です。そして、最後が「佐軍神社」で御祭神は、「布津之霊大神」で悪縁を断ち平穏をお守りくださる神様が鎮座しています。
「後殿」の反対側には「椿本神社」があります。「椿本神社」の御祭神は、「角振神」です。「椿本神社」は「春日明神」の眷属の神様で、「隼の明神」ともいい、御神徳は災難をお祓い下さる神様です。「椿本神社」の名前の由来は、椿の木がこの付近にあったことから、それが社名になったとも伝えられています。また、御例祭は、毎年5月2日に行われます。
さらに奥に進むと、ミステリアスな「藤浪之屋」があります。「藤浪之屋」は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では「藤波之屋」を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。「藤浪之屋」では、「春日万燈籠」の神事を幽玄の美を体験することができます。「藤浪之屋」は鏡が張り巡らされていてさらに神秘的な空間となっています。ただし、明るい場所から暗い場所に入るので、目が慣れるまでは足元に気をつけて鑑賞をされてください。ちなみに、「春日大社」には燈籠がたくさんあることで有名です。平安時代から現在までに奉納された燈籠がおよそ三千基あります。そして、「春日大社」では、2月の節分、8月14日・15日の年3回、すべての燈籠に浄火をともす「春日万燈籠」が行われます。さぞかし荘厳な世界に豹変することでしょうね。
「藤波之屋」の正面斜め左手に「多賀神社」があります。「多賀神社」の御祭神は、「伊弉諾命」で生命を司る延命長寿の霊験高い神様です。「俊乗房重源」が、その昔大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話があります。御神徳は延命長寿の神様で仕事の完遂をお導きになる神様です。その御神徳を求めて延命長寿の「幡」の奉納が絶えないそうです。また、御例祭は、毎年4月22日に行われます。
「多賀神社」の前付近に校倉造の「宝庫」があります。「宝庫」は、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物です。古くは春日の神々の大切な御神宝の数々を納めていました。そして、国宝の「大鎧」等は、実は近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の「春日祭」の時に、「本殿」をお飾りする「御神宝」である鏡、太刀、鉾、弓矢などが納められ、3月の「春日祭」の時以外は閉ざされています。
「宝庫」の先は「西回廊」になっていて「内侍門」があります。「内侍門」は「西回廊」にある三つの門の中で北側にある門です。「貞観儀式」によると斎女や内侍等女性が参入すべき「鳥居」の後継が「内侍門」と考えられているそうです。
そして、「西回廊」に沿って「御手洗川」があります。「御手洗川」は、春日奥山を水源地とした「水谷川」を分水してできたものです。古くは御供用の水として汲み上げられ、また参拝の際の手水としても利用されていたそうです。「春日祭」では、勅使の「手水の儀」が「慶賀門」を入ったこの流れのそばで行われます。
次は、「西回廊」の3つある門の真ん中に位置している「清浄門」です。「清浄門」は、現在は神職の通用門ですが、かつては「僧正門」と呼ばれ、「興福寺」の僧侶が参入していた門だったそうです。
先ほど見た重要文化財の屋根を貫いている「柏槙」がある「直会殿」です。「直会殿」は、東を正面とする南北8間、東西4間の広大な建物で、「素木造」です。東の2間が母屋となり、「春日祭」には、勅使・弁以下の直会の儀式が殿上で行なわれます。平安期以降、ここで法華八講が盛大に行なわれたので、「八講屋」の別名もあります。斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。
最後が、「南門」をくぐると正面にある「幣殿・舞殿」です。この建物は、東側2間を「幣殿」といい、「幣殿」は天皇陛下のお供え物である御幣物を一旦納める建物で、天井板は格天井で、「舞殿」と区別されています。西側3間を「舞殿」といい、「舞殿」は、宮中伝来の御神楽を行うための建物で、雨天時に神楽や舞楽を奉納する場所になります。ここが出口になり、「特別参拝」は終わりになります。なお、一般的な参拝は、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」から参拝することができます。

【「春日大社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 電話:0742-22-7788
⑵ 拝観時間
① 本社参拝…開門時間 06:30~17:30(11月~2月07:00~17:00)
② 国宝殿…10:00~17:00(入館は16:30まで)
③ 萬葉植物園…09:00~16:30(12月~2月09:00~16:00)
⑶ 休日…①国宝殿 年3回の展示替の時(各2~3日間) ②萬葉植物園 1・2・12月の月曜日
⑷ 拝観料
① 本社参拝…回廊内特別参拝のみ有料(500円)
② 国宝殿…大人…500円、大学生・高校生…300円、中学生・小学生…200円

【「春日大社」へのアクセス】
JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から
① 奈良交通バス(春日大社本殿行) 約11~15分 「春日大社本殿」下車すぐ
② 奈良交通バス(市内循環外回り)約9~13分 「春日大社表参道」下車 、徒歩約10分
③ 近鉄奈良駅からぐるっとバス大宮通りルート「春日大社本殿」下車すぐ ぐるっとバス(運賃100円)

04_【春日大社から興福寺へ】
「春日大社」の参拝を終え、次の目的地は「興福寺」です。「春日大社」の参道を「一之鳥居」まで戻ります。そして、信号を渡り右方向に進み、「国道169号線」沿いを80mほど進むと、最初の信号があります。そこを右折すると「興福寺」の境内になります。「興福寺」は「奈良公園」の一角にあり、「東大寺」や「春日大社」と並んで奈良市を代表する観光名所のひとつです。「古都奈良の文化財」として世界遺産にも登録され、歴史的・文化的な遺産が多く残る寺院です。途中で、かわいらし鹿がいたので、思わず鹿煎餅を買って与えました。参道の左手には、寺院の風呂場として使われていた「興福寺大湯屋」が見えます。「大湯屋」は、奈良時代から設けられていたと考えられていて、「大湯屋」の中には、通常非公開ですが、奈良県指定文化財の「鉄湯釜」があるそうです。右手には、「興福寺」の寺務を執り行う「本坊」が見えます。通常は非公開ですが、「本坊」北西には明治時代に建てられた「大圓堂」と呼ばれる「持仏堂」があり、国の重要文化財である「木造聖観音菩薩立像」があります。少し進むと右手にある「柳茶屋」の先に、「興福寺」を分断する道路があり、横断歩道があります。横断歩道を渡ると道が二手に分かれます。直進すると「南円堂」そして右斜め方向に入ると「国宝館」の案内板があります。
「興福寺」は、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。しかし、世界遺産に登録されたという理由だけ「興福寺」を訪れたわけではありません。今回の奈良旅行の世界遺産に指定された6つのお寺を拝観することもそうですが、最大の目的は二つあります。一番の優先事項は「唐招提寺」の「鑑真大和上像」の特別公開、それと二番目は「興福寺」の「阿修羅像」を見るためです。そう言う訳で早速「興福寺」の「国宝館」へ入りました。その前に、「興福寺」の歴史と概要を紐解いてみたいと思います。「興福寺」は、法相宗の大本山です。「興福寺」は、京都山科の「藤原鎌足私邸」に建立された「山階寺」が前身となります。「山階寺」は、天智8年(669年)に「藤原鎌足」が重い病気を患った際に、夫人である「鏡女王」が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。そして、天武天皇元年(672年)の壬申の乱後に、飛鳥に都が戻った際に、「山階寺」も移され、その地名を取って「厩坂寺」と名付けられます。さらに、和銅3年(710年)の平城遷都の際に、「藤原不比等」よって現在地に移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には「四大寺」、平安時代には「七大寺」の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。特に、藤原氏の氏寺として大いに繁栄し、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。治承4年(1180年)の「平重衡」の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げますが、その後、享保2年(1717年)の火災によって、伽藍の西半分を失いました。境内には「光明皇后」創建とされ、室町時代に再建された国宝の「五重塔」、鎌倉時代に再建された国宝の「北円堂」や江戸時代に再建された重要文化財の「南円堂」などが建ち並んでいます。そして、「国宝館」には多くの仏教彫刻の名品を所蔵しています。

《「興福寺」のお薦め拝観順路》
①「国宝館」⇒②「中金堂」⇒③「東金堂」⇒④「五重塔」⇒⑤「南円堂」⇒⑥「南円堂」⇒⑦「三重塔」

《国宝館》
まずは、右斜め方向に進み、最大の目的地である「国宝館」に向かいました。「国宝館」は、奈良時代創建当初の僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に、「食堂」の外観を復元して、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。建物の大きさは正面が35.3m、側面が31.8mで、本瓦葺の建物です。ちなみに、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうです。この「国宝館」には、日本に数多ある仏像の中でも、特に人気のあり、天平文化を代表する仏像彫刻のとして国宝にも指定されている「阿修羅像」が収蔵されています。「阿修羅像」は、端正な顔立ちとスタイルで美少年との呼び声も高く、私たち家族もそうですが、この彫刻を目当てに「興福寺」を訪れる観光客も多いそうです。この見応えたっぷりの「国宝館」には、「興福寺」の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、歴史資料などが収蔵してあり、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。そして、館内には旧食堂の本尊「千手観音菩薩立像」、奈良時代の「阿修羅像」などの「乾漆八部衆像」、「乾漆十大弟子像」、「華原馨」、平安時代の「燈籠」や「板彫十二神将像」、鎌倉時代の「木造金剛力士像」、「木造天燈鬼・龍燈鬼像」などの国宝や、重要文化財の「梵天像・帝釈天像」や厨子入り「弥勒菩薩半跏像」なども安置します。どれもこれも素晴らしいものばかりですが、なかでも「阿修羅像」と以前に上野の東京国立博物館でも公開された「木造天燈鬼・龍燈鬼像」は私の中では一番印象に残り、感銘を受けました。ちなみに、「阿修羅」とは、梵語(古代インド語)の「アスラ」(Asura)で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。例えば、ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。しかし、仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神となったそうです。歴史的価値のある仏像等が所狭しとあり、見ごたえたっぷりの「国宝館」は、毎日9:00から17:00まで観覧できます。

《中金堂》
「国宝館」での鑑賞を終え、出口の駐車所を右方向に進むと正面に「中金堂」、そして、左手に「東金堂」、その向こう側奥には「五重塔」があります。まずは、正面にある「中金堂」です。「勧進所・売店」の隣にある「拝観受付」でチケットを購入して中に入ります。「中金堂」は「興福寺」の伽藍の中心になる最も重要な建物で、平成30年(2018年)に301年ぶりに再建され、復元されました。「中金堂」の大きさは、正面が37.0m、側面が23.0mあり、建築様式は寄棟造、単層裳階付き、本瓦葺になっています。「中金堂」の歴史を紐解いてみると、かつて「中金堂」は、「興福寺」にあった金堂3棟の中心となり、創建当時は、その規模においても奈良にある寺院の中でも大きさを誇るものでした。創建者は日本の律令制度をまとめ、藤原氏の繁栄の基礎を築いた「藤原不比等」です。それ以降、創建より6回の焼失、再建を繰り返しました。そして、享保2年(1717)に焼失した後は財政難のために再建することができませんでした。その100年後に町屋の寄進により規模を縮小した「仮堂」を文政2年(1819年)に再建しましたが、あくまで仮設としての建立であったため、長期使用を想定しておらず、材木には不向きなマツが使われるなどしたため、急速に老朽化が進んでしまいました。度重なる火災を乗り越え平成30年(2018年)に復興された堂内には、御本尊の「丈六釈迦如来像」を中心に、「薬王・薬上菩薩像」が脇侍として祀られています。ちなみに、現在安置されている御本尊の「丈六釈迦如来像」は5代目で、像内墨書から文化8年(1811年)に仏師「赤尾右京」が造立したそうです。また、「木造薬王・薬上菩薩立像」は、兄弟の菩薩で、ともに良薬を人々に与え、心と身の病気をなおしたと言われています。普通、「釈迦如来像」は「文殊菩薩像」と「普賢菩薩像」を従えることが多いのですが、「薬王菩薩像」と「薬上菩薩像」を置くのは古い形だそうです。

《東金堂》
次が、「東金堂」と「五重塔」ですが、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。仕方なくフェンスのそとから事前に調べていた「東金堂」と「五重塔」の全体像を想像してみました。「東金堂」は、「中金堂」の東側にある「金堂」で、その隣には、「五重塔」が高々とそびえ立っています。「東金堂」は、「聖武天皇」が叔母である「元正太上天皇」の病気平癒を祈念して、神亀3年(726年)に建立したものです。それ以降、5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415年)に再建されました。創建当初には床に緑色のタイルが敷き詰められ、御本尊「薬師如来」の浄瑠璃光の世界が表現されていたそうです。「東金堂」の建築様式は、前面を吹き放しとした寄棟造です。見どころは、堂内には国の重要文化財に指定されている「本尊薬師如来坐像」を中心に、「日光・月光菩薩立像」、「文殊菩薩坐像」、「維摩居士坐像」、「十二神将立像」、「四天王立像」など貴重な文化財がたくさんあります。

《五重塔》
「東金堂」の隣にある「興福寺」の「五重塔」は、天平2年(730年)に「興福寺」の創建者である「藤原不比等」の娘「光明皇后」の発願で建立されました。古都奈良のシンボルといえば、「五重塔」といわれるくらい有名な建築物です。ちなみに、「塔」は釈尊の舎利を納める墓標であり、当時の仏教寺院においては権威の象徴だったそうです。他の堂宇と同様に、その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建された約50mもある木造の「五重塔」で、日本で2番目に高い塔です。ちなみに、日本で一番高い「五重塔」は、東寺(教王護国寺)の五重塔で、 高さは約57メートルあり、現存する日本の木造建築物としては最高の高さです。「興福寺」の「五重塔」には、いずれも室町時代作品である「薬師三尊像」、「釈迦三尊像」、「阿弥陀三尊像」、「弥勒三尊像」が一層目のそれぞれ「須弥壇四方」に安置されています。また、青空の下で見る五重塔も堂々として魅力的ですが、ライトアップされた姿も圧巻だそうです。保存・改修工事が終わったら、再度奈良を訪れ、ぜひライトアップされた「五重塔」を見に来たいものですね。

《南円堂》
次が、「五重塔」の塔の反対側に位置している「南円堂」です。途中に「興福寺」の「南大門跡」があり、若干高台になっていて、そこから見下ろす「猿沢池」や古都奈良の街並の風景が絶景でした。「南円堂」は、「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を願って建立した八角円堂であり、また、「西国三十三所」の「第九番札所」として知られ、の参拝者が多い御堂です。「南円堂」は、朱色が際立つ美しい八角円堂で、弘仁4年(813年)に「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を祈るため建立しました。また、発掘調査で判明したことですが、基壇築造の際には地神を鎮めるために、「和同開珎」や「隆平永宝」を撒きながら築き上げたそうです。「南円堂」の御本尊である「不空羂索観音菩薩」は、神に仕える鹿の鹿皮を身にまとっています。現在の内陣には、慶派仏師の「康慶」一門により制作された本尊の「不空羂索観音菩薩坐像」を中心に、「四天王立像」、「法相六祖坐像」が安置されています。現在残っている建物は、創建以来4度目のもので、江戸時代の寛政元年(1789年)に再建されたものです。「南円堂」では、年に1度、10月17日に「特別開扉」が行われ、堂内を拝観することができます。また、当日は僧侶たちが経典を宙で広げながら読む「大般若経転読会」という儀式も行われ、たくさんの参拝客で賑わうそうです。

《北円堂》
「南円堂」を右方向に進むと「北円堂」があります。「北円堂」は、「興福寺」の創建者「藤原不比等」の1周忌にあたる養老5年(721年)8月に「元明・元正天皇」が、「長屋王」に命じて建てさせたものです。建物が建っている場所は、「興福寺伽藍」の中では、中心でなく西隅に位置しています。かつては、「北円堂」から平城京を一望の下に見渡すことのできる場所だったそうです。現在の建物は、治承4年(1180年)の被災で焼失し、承元4年(1210年)頃に再建されました。そして、「北円堂」は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいといわれています。堂内には、御本尊である「弥勒如来坐像」を中心に、「無著・世親菩薩立像」をはじめとして、「木心乾漆四天王立像」などが安置されています。これらはいずれも国宝に指定されています。そして、堂内にあるこれらの像は、春・秋一定期間に特別公開されます。

《三重塔》
最後が、「三重塔」です。「北円堂」の正面反対側にある道を直進すると右手にが「三重塔」あります。「三重塔」は「北円堂」とともに山内で最古の建物とも言われ、高さが約19.1m、初層の幅は約4.8mあります。「三重塔」は「五重塔」に比べるとあまり知られておらず、見逃されがちです。「三重塔」は、康治2年(1143年)に「崇徳天皇」の皇后の「皇嘉門院聖子」が建て、治承4年(1180年)に焼失しましたが、間もなく再建されたといわれています。堂内には、かつて「興福寺」の子院であった「世尊院」の「弁才天坐像」とその「諸尊」(十五童子)を移して安置されています。これらの像は、毎年7月7日の10時から「弁才天供」が行われ、特別開扉されます。

《興福寺五十二段》
余談ですが、この日私たち家族は、「猿沢池」の畔にある「よしだや」に宿泊しましたが、「北円堂」から「三条通」に出て、「よしだや」へ向かいましたが、その途中に「興福寺五十二段」と呼ばれる「五重塔」に続く幅広い石段がありました。菩薩修行の段位五十二位になぞられたものであり、段の上は仏界を意味するといわれているそうです。

【「興福寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8213 奈良市登大路町48 電話:0742

旅行の満足度
4.0
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
3.0
交通
3.0
同行者
家族旅行
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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