2023/11/23 - 2023/11/24
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Lily-junjunさん
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この旅行記のスケジュール
2023/11/23
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電車での移動
東京駅発(6:15)⇒京都駅着(08:24) のぞみ3号
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電車での移動
京都駅発(8:37)⇒奈良駅着(09:40) JR奈良線奈良行き
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バスでの移動
JR奈良駅西口ぐるっとバス奈良公園ルート10:18発⇒東大寺大仏殿・春日大社前停留所10:50頃着
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【旅行第一日目(2023/11/23)】
今回の奈良旅行の大きな目的は、「古都奈良の文化財」として世界遺産に指定されている6つの寺院を巡る旅です。急ぎ足になりましたが、一泊二日で「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」、「元興寺」、「薬師寺」、「唐招提寺」を訪ねてみました。当初は、「鑑真和上像」の特別公開があるので、「唐招提寺」だけ行き、奈良市内をブラブラする予定でしたが、せっかく奈良まで来たので、急きょ予定を変更して、欲張って世界遺産に指定されている寺院も訪ねてみることにしました。
01_【奈良市総合観光案内所】
まず、奈良旅行の第一日目の最初の訪問先は、「東大寺」です。その前にJR奈良駅東口にある「奈良市総合観光案内所」へ行き、奈良のお寺のお得な巡り方や交通機関等の情報をゲットするために訪れました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で「散華」を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。また、バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを質問され、第一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので、一日乗車券を買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。
02_【奈良市総合観光案内所から東大寺へ】
JR奈良駅西口から「ぐるっとバス」の奈良公園ルートの停留所へ向かうと、目を疑うようなバスに乗る観光客の長蛇の列でした。こんなに乗れるかと思うくらいギュウギュウ詰のバスに乗り、他の停留所で待っている乗客がいましたが、満員で途中の停留所はやむなくスルーし、「東大寺大仏殿・春日大社前」停留所で下車しました。所要時間は約13分ということでしたが、奈良県庁付近までは順調に進みましたが、祝日のため車が渋滞していて、県庁まえの信号から東大寺大仏殿駐車場まで25分くらいかかりました。降車所でバスを降りると1分もかからないところに「東大寺」への入口である「南大門」があります。
「東大寺」は、誰もがしっているように学校の教科書にも出てくる奈良の大仏さまで知られる「聖武天皇」の勅願によって建立されたお寺です。世界最大級の木造建築物である「大仏殿」、日本で最大級の重層門である「南大門」、春の風物詩である修二会が行われる「二月堂」、東大寺最古の建造物「法華堂(三月堂)」はマストな見どころです。「東大寺」は、奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の「国分寺」の中心として建立されました。また、「大仏殿」は世界最大級の木造建造物で、天平15年(743年)に「聖武天皇」が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、「盧舎那大仏」造立の詔を発し、延べ260万人もの人々の協力によりすべてのものの幸福を願い造られた大仏様は、天平勝宝4年(752年)に、「開眼供養会」が盛大に営まれました。そして、「東大寺」の境内には、「大仏殿」ばかりでなく、創建当時の遺構を残す「転害門」、「法華堂」をはじめ、鎌倉時代復興の代表作である「南大門」、「鐘楼」、江戸時代再建の「二月堂」といった数多くの国宝建造物がたち並び、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として、世界遺産に登録されました。その他に。世界遺産に登録されている古都奈良の文化財は、「興福寺」、「春日大社」、「春日山原始林」、「元興寺」、「平城宮跡」、「薬師寺」、「唐招提寺」のなど「「東大寺」」を含め8遺産群が平成10年(1998年)に指定されています。
《「東大寺」のお薦め拝観順路》
①「南大門」⇒②「大仏さまの手」⇒③「鏡池と厳島神社」⇒④「谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑」⇒
⑤「五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔」⇒⑥「中門」⇒⑦「大仏殿」⇒⑧「手向山八幡宮」⇒
⑨「法華堂(三月堂)」⇒⑩「二月堂」⇒⑪「正倉院」⇒⑫「戒壇堂」
《南大門》
まず「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。高さ21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにもなります。「南大門」の下の西側(左側)には「阿形」の「金剛力士像(仁王像)」が東側(右手)には「吽形」の「金剛力士像(仁王像)」が配置されています。もちろん「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝に指定されています。東大寺南大門の「金剛力士像」はヒノキで作られた木彫像で、その大きさは高さ8.4メートルにもなり、木彫像として、日本で最大となります。東大寺にある「金剛力士像」の特徴は、は左に「阿形像」、右に「吽形像」と、通常とは左右反対に配置され、しかも像が互いに向かうように置かれています。「金剛力士像」を作ったのは、鎌倉時代に活躍した「運慶」と「快慶」という2人の「仏師」で、建仁3年(1203年)に、制作期間がわずか69日で制作したということです。また、夏になると、「大仏殿」や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立つそうです。そして、「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。「金剛力士(仁王) 像」を撮影しようと思いましたが、太陽の日差しが入り込んでうまく取れませんでした。
《大仏さまの手》
「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。
《鏡池》
少し進むと「東大寺」の「鏡池」があります。そして、「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」で、その紅葉に彩られた姿にはしばし足を止め見とれてしましました。他の観光客も美しい紅葉の風景をカメラにおさめていました。カメラで夢中になっていて、気が付かなかったのですがふと足元をみると鹿が日光浴でもしているのでしょうか、足元に横たわっていました。ちなみに、「鏡池」にある「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。
《谷川喜六建立慰霊碑と会津八一歌碑》
「鏡池」の反対側には、「谷川喜六建立慰霊碑」と「会津八一歌碑」が並ぶようにしてあります。向かって左側にあるのが「谷川喜六建立慰霊碑」、右側にあるのが「会津八一歌碑」です。「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」が、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。「会津八一歌碑」には、「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。この歌は、「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。歌の意味は「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます。」ということだそうです。この歌碑は、昭和25年(1950年)に「會津八一」の古稀を祝う事業のひとつとして建立されました。「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。
《五百立神社と鉄道職員殉職者供養塔》
「会津八一歌碑」の少し先の左手に「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれてありました。目の前には、「東大寺」の「中門」がそびえ立っているので、見逃される確率の高い穴場スポットです。参道は坂になっていて途中の左手に「五百立神社」、そして坂を上り切ったところに「鉄道職員殉職者供養塔」の石造十三重塔が建っています。「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。「五百立神社」は、最初なんと読むのかと思い、その場でスマホを検索し調べてみたところ、「五百立」と書いて「イホタチ」と読むそうです。日本語はつくづく難しいですね。「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。
《中門》
「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道を下ると左手に「大仏殿」への入口である「中門」があります。「東大寺」の「中門」は、「大仏殿」の正面に建つ比較的大きな母屋造りの楼門です。「中門」は、享保元年(1716年)頃の再建とさています。「中門」には、両脇からそれぞれ廻廊が伸びていて、「大仏殿」の入口は左側の廻廊の方にあります。「東大寺」では珍しく朱色が目立つ外観となっており、重要文化財にも指定されている貴重な建築となっています。私が中学生の修学旅行で訪れた際は、「中門」が開いていたはずですが、現在は「大仏殿」の拝観料を徴収するための受付が回廊内に設けられているため、「中門」は閉ざされています。そして、この「中門」には、仏を守護する四天王のうちの「兜跋毘沙門天」と「持国天」の二天が祀られていますが、どちらの仏像も金網に覆われて見えづらくなっています。また、「兜跋毘沙門天」には2匹の邪鬼を従えた天女(地天)の両手に支えられて立つというかなり独特な造りになっています。
《大仏殿》
「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。
「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。「大仏殿」の中には、仏像の安置や建物に関する展示があり、「大仏様」を一周する形で建物の中を回ります。そして、「大仏殿」に向かって右奥に黒山の人だかりを発見しました。ここには大仏の鼻の穴と、同じサイズの穴が開けられた「柱くぐりの穴」があり、穴をくぐれば無病息災・祈願成就のご利益を授かると伝っています。「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。
《手向山八幡宮》
「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。
《法華堂(三月堂)》
「手向山八幡宮」を左に折れると正面に「法華堂(三月堂)」があります。「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。
《二月堂》
「法華堂(三月堂)」をさらに奥に進むと右手に「二月堂」があります。勾配の急な石段を上り切ると「手水舎」があり、何と水が飲めると書いてありました。「二月堂」には、もう一か所に「手水舎」がありますがこちらの水は飲めませんと注意がきがありました。「二月堂」の舞台に到着し、そこから眺める風景は素晴らしいものです。急勾配の石段を上り息が切れることさえ忘れさせてくれます。「二月堂」へは、昼間と娘の薦めもあり夜間のライトアップへの計二回訪れてみました。ライトアップされた幻想的な「二月堂」と光がともる奈良の街並みを見ると何とも言えない気分になってきました。「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目〜3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。お見逃しなく!
《正倉院》
次は、「東大寺」裏手にある「正倉院」へ向かいました。「正倉院」へ向かう途中の築地塀のような塀が並んでいる風景がとても印象的でした。また、「大仏殿」を後ろから見るとその大きさには驚かされました。そして「正倉院」へ着いたのですが、残念ながら祝日は開放していないというで見学することができませんでした。
《戒壇堂》
最後が「戒壇堂」です。「正倉院」の前にあるイチョウ並木を通り「戒壇堂」に到着しました。天平勝宝6年(754年)に唐の僧侶である「鑑真和上」が日本を訪れ、わが国に初めて正しい戒律を伝えました。「聖武太上天皇」や「孝謙天皇」など440余名が仏教の戒律を受けて、守ることを誓った場所(大仏殿の西側)に「戒壇院戒壇堂」は建てられました。創建時は金堂、講堂、僧坊、鳥居などがあったそうです。そして、治承4年(1180年)の火災で全焼しましたが、享保17年(1732年)に再建されました。「戒壇院戒壇堂」自体も県の指定重要文化財に指定されており、「多聞天」、「広目天」、「増長天」、「持国天」からなる国宝の「四天王像」も安置されています。ちなみに、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべきルールを仏前に誓う儀式であり、従い戒壇は神聖な場所です。鑑真が戒を授けたことで正式な僧侶が日本に誕生しました。
【「東大寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8587 奈良市雑司町406-1 電話: 0742-22-5511
⑵ 拝観時間
① 大仏殿…4月~10月 開門7:30 閉門17:30 11月~3月 開門8:00 閉門17:00
② 法華堂(三月堂)・戒壇院千手堂…開門8:30 閉門16:00
③ 拝観料…大仏殿、法華堂(三月堂)、戒壇堂…大人(中学生以上)600円、小学生300円
※ お堂ごとに入堂料が必要となります。
【「東大寺」へのアクセス】
⑴ 奈良交通バスを利用して
① [JR奈良駅)] ⇒[市内循環]≪奈良交通:[2]市内循環外回り≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(1番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・5停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約11分
・9時から17時の間に1時間平均4便:[JR奈良駅)]毎時 10分、25分、40分、55分発
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
② [JR奈良駅)] ⇒[藤原台・山村町・鹿野園町行き]≪奈良交通:57・58・61・62≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(2番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(1番のりば:セブンレブン前)
・4停留所目(「県庁前」の次の停留所) 所要時間約8分
・9時から17時の間に1時間平均3便~6便
・「東大寺大仏殿・春日大社前」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩5分350m
⑵ ぐるっとバスを利用して
① [近鉄奈良駅)] ⇒「ぐるっとバス大宮通りルート」または「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「近鉄奈良駅(1番出口)」(ぐるっとバスのりば:B5、R7)
・2停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約4分
・9時から17時の間に「大宮通りルート」または「奈良公園ルート」1時間平均各4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
② [JR奈良駅西口)] ⇒「奈良公園ルート」≪ぐるっとバス≫
・バス乗り場:「JR奈良駅西口(ぐるっとばすのりば: R5)
・4停留所目(「県庁前・奈良公園バスターミナル」の次の停留所) 所要時間約13分
・9時から17時の間に1時間平均4便
・「大仏殿前駐車場」下車で下車し「東大寺」入口まで徒歩1分70m
⑶ 電車を利用して
近鉄「奈良駅」出口から徒歩約20分、1400m
03_【東大寺から春日大社へ】
「東大寺」の参拝を終え、次の目的地は「春日大社」です。「東大寺」からは、「奈良国立博物館」の先にあるT字路の信号のところに向かうと、そのすぐ先に「春日大社参道」の石碑が建っています。斜めに参道が続いていますので、あとは道なりに進めば「春日大社」に到着します。
「春日大社」は、全国に約3000社あるという「春日神社」の総本社で、その歴史を紐解いてみると、奈良時代から始まり、神護景雲2年(768年)に、茨城県鹿島より「武甕槌命」を神山である「御蓋山山頂浮雲峰」に迎えました。そして、現在の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のことです。それ以来、皇族や貴族、有名武将などから庶民にいたるまで幅広く信仰され続けています。境内は古代から神域とされていた御蓋山一帯に広がり、原始林に守られるかのように朱塗りのあでやかな社殿が立ち、境内には「春日大社国宝殿」があり、その数なんと国宝が352点、重要文化財が971点を含む約3000点を収蔵し、公開しています。また、付近には万葉集に登場する草花約300種が植えられている「春日大社神苑萬葉植物園」といった見どころや、レストラン、カフェ、ショップもあり、さまざまな楽しみ方ができます。そして、古来より「砂ずりの藤」として名前が知られている藤の名所としても有名です。私の個人的な見解ですが、「一之鳥居(重要文化財)」から「春日灯籠」が並ぶ参道を歩くと、奈良公園では一番多く鹿が見ることができるポイントだと思います。そのかわいらしさに魅了されカメラのシャッターを思わず押してしまいます。「春日大社」の創建時に、御祭神として迎えた「武甕槌命」は常陸から白鹿に乗ってやって来られたという伝承から、奈良では鹿は神のお使いとして昔から大切にされ、人の暮らしのすぐそばで共存してきました。背後の「春日山」には「春日山原始林」が神秘的な景観と雰囲気を醸し出しています。「春日大社」を囲うように密生している林として、昔の姿を今に伝えています。「春日山原始林」は、国の特別天然記念物に指定され、平成10年(1998年)12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されました。
それでは、「春日大社」を参拝いたいと思います。参拝には、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」を参拝することができる「一般的な参拝」と釣燈籠が並ぶ回廊を通り、「御蓋山浮雲峰遙拝所」や「中門」前まで進み参拝できる「特別参拝」があります。せっかく「春日大社」に来たので、その真髄を知るにはやはり「一般的な参拝」だけでなく「特別参拝」をお薦めします。これから「特別参拝」として話を進めていきます。まず、「春日大社」の「南門」を入るとすぐ目の前にある建物が「特別参拝受付」で初穂料として一人500円を納めて案内看板に沿って進みます。
《「春日大社特別参拝」のお薦め順路》
①「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社(井栗神社、穴栗神社、辛榊神社、青榊神社)⇒
②「林檎の庭」⇒③「手力雄・飛来天神社」末社参拝所⇒④「桂昌院」奉納の燈籠⇒⑤「東回廊」⇒
⑥「御蓋山浮雲峰遥拝所」⇒⑦「中門・御廊」⇒⑧「御本殿」⇒⑨「岩本神社」⇒⑩「大杉・柏槙」⇒
⑪「内侍殿」⇒⑫「捻廊」⇒⑬「風宮神社」⇒⑭「七種寄木」⇒⑮「後殿」⇒⑯「椿本神社」⇒
⑰「藤浪之屋」⇒⑱「多賀神社」⇒⑲「宝庫」⇒⑳「内侍門」⇒㉑「御手洗川」⇒㉒「清浄門」⇒
㉓「直会殿」⇒㉔「幣殿・舞殿」
最初のポイントは、「特別参拝受付」の後ろに並んでいる4つの社です。近い順から「井栗神社」、「穴栗神社」、「辛榊神社」、「青榊神社」が鎮座しています。「井栗神社」の御祭神は「高御産霊」で安産の神様です。「穴栗神社」の御祭神は「穴次」で幸運を導いてくださる神様です。「辛榊神社」の御祭神は「白和幣」で交渉をまとめてくださる神様です。「青榊神社」の御祭神は「青和幣」で争いを解決に導いてくださる神様です。
次が、「青和幣」の左手にある「林檎の庭」です。「林檎の庭」は、「春日大社」で行われる祭典の際に、神楽や舞楽などの神事芸能が奉納される庭です。名前の由来は、庭の東南隅に林檎の木が植えられているためにこのように呼ばれています。この林檎の木は、平安時代に「高倉天皇」がこの場所に林檎の木を献木されたそうです。このことは、文永10年(1273年)の「中臣祐賢記」に記録されています。
「林檎の庭」の先にある石段を上ると右手に「御本殿」近くにある「手力雄・飛来天神社」末社参拝所があるので、ここで参拝します。「手力雄神社」の御祭神は「天手力雄」で勇気と力の神様です。「飛来天神社」の御祭神は「天御中主」で空の旅の安全をお守りくださる神様です。
「手力雄・飛来天神社」末社参拝所を右方向に進むと右手に「桂昌院」奉納の燈籠があり、釣灯籠が多い「春日大社」の中で、この燈籠は、「春日大社」内に3基しかない燈籠の一つとなっています。「桂昌院」奉納の燈籠は鋳銅製で見事な彫金金物があしらわれ、徳川家の「三葉葵紋」と桂昌院の父がたの本庄家の「九つ目結紋」が施されています。「桂昌院」は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の生母です。「桂昌院」寺社の復興に尽力されており、東京都文京区にある「護国寺」も天和元年2月(1681年)に、「桂昌院」の発願により創建しました。
「桂昌院」奉納の燈籠の次は、奉納された釣燈籠が沢山吊るされている「東回廊」です。「東回廊」は東御廊と接する所までで約37mあり、ほぼ中央に「影向門」があります。吊るされている燈籠の間を歩くことができ、ふと自分が平安時代の貴族になったような感じがしました。
「東回廊」を回り込むようにして進むと「御蓋山浮雲峰遥拝所」があります。「春日大社」の第一殿の御祭神である鹿島の「武甕槌命」が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが「御蓋山」頂上でその浮雲峰の「遥拝所」です。この「遥拝所」は浮雲峰から「春日大社本殿」を通り「平城京大極殿」まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する「御蓋山」より、宮廷の正殿である「大極殿」へと神様の力が伝わる大変尊い場所なのだそうです。入山は厳しく制限されており、ここから遥拝します。ちなみに、「遥拝」とは遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むことです。私の住んでいる東京では、千代田区富士見にある「東京大神宮」がかの有名な「伊勢神宮」の遥拝所になっています。
「御蓋山浮雲峰遥拝所」から案内の矢印に沿って戻ると「中門」とその「御廊」になります。「中門」は、「御本殿」と間違いやすい建物で、「御本殿」の建物と間違えておられる参拝客が多いそうです。何故なら「中門」は、「春日大社」の画像で教科書などもそうですが、よく出てくる代表的な建物だからです。念のためですが「御本殿」は「中門」の奥にあります。「御廊」は「中門」から左右に約13mあり、あたかも鳥が翼を広げたように延びています。現在「本殿」の祭典では、神職の座る場所ですが、昔は「興福寺」の僧侶が常に御経をあげる場所であり、その他にも「東大寺」の僧侶も御経をあげていたそうです。
「御本殿」は、平城京鎮護のために、最初に鹿島(茨城県)から「武甕槌命」を「春日御蓋山頂」に迎え入れ祭られていました。時は過ぎ、それから数十年後経った神護景雲2年(768年)11月9日に藤原氏の血を引く女帝の「称徳天皇」の勅命により、左大臣「藤原永手」らが現在の場所に神殿を創建して、さらに香取(千葉県)の「経津主命」、枚岡神社(大阪府)に祀る藤原氏の遠祖「天児屋根命」と「比売神」の四柱を併祀したのがその始まりとされています。御祭神は、「浮雲峰遥拝所」に近い方から「第一殿」が「武甕槌命」、「第二殿」が「経津主命」、「第三殿」が「天児屋根命」、そして「第四殿」が「比売神」の順になっています。ちなみに、「天児屋根命」と「比売神」は夫婦で、「天押雲根命」が御子神様であり、初めて個人の願いを聞いてくださった神様だそうです。言うまでもありませんが、「御本殿」の正面からの撮影は禁止となっています。
「御本殿」の次は「中門」の階段を下ります。するとそこには、「大杉・柏槙」と「岩本神社」が並ぶようにしてあります。手前にある「大杉」は、地上1.3mの位置の幹周が7.94m、高さが23mあります。そして「大杉」は、樹齢約1000年ともいわれています。何故ならば鎌倉時代後期(1309年)の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれているからです。「柏槙」は、別名で伊吹ともいわれ、「大杉」の根元から斜めにのびています。「柏槙」は、樹齢は約500年といわれており、樹木を大切にされる春日の神様の託宣(古社記)により、何と重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。私も色々な寺社を訪れましたがこのような衝撃的な光景を見るのは初めてでした。「岩本神社」は、かつでは「住吉社」といわれていましたが、明治初年に、同じく「春日大社」の末社で、奈良高畑丹坂町にある「住吉社」と区別するため、「岩本社」と名称を変更しました。御祭神は、「表筒男命」、「中筒男命」、「底筒男命」の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。
「岩本神社」のすぐ先には「内侍殿」があります。「内侍殿」は、春日祭の際に御神前で奉仕する内侍が控えていた建物です。当初は宮中より藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしていたそうです。最近では、「内侍殿」は20年に一度の式年造替時に、「御本殿」と「若宮」の神様を一時的に移すので、「移殿」(御仮殿)とも呼ばれているそうです。ちなみに、「式年造替」は同じ場所に社を造るので、新しい社ができるまでは別に住む所が必要になるそうです。
「内侍殿」に沿って進むと木材が歪んだ空間を醸し出している「捻廊」があります。「捻廊」は「内侍殿」から「御廊」をむすぶ渡り階段のことです。かつては「登廊」と呼ばれていていました。この建物は斜めに階段が付けられており、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てられています。江戸初期に活躍した極めて高い技術を持つ伝説の大工「左甚五郎」が、斜めに階段をつけ、柱や棰、桁などのほとんど部材が捻じれをもって建てたといわれています。
「御廊」を抜けると、神社の中に木が絡まって生い茂っている「風宮神社」が見えてきます。「風宮神社」の御祭神は「級長津彦命」、「級長津姫命」で、生命を司り、罪穢れを清めるお祓いの神様(子授け)です。「春日大社」ではお祓いは「御本殿」の真西に位置する「風の神様」の御力を頂いて吹き祓うものであると伝えられています。「風宮神社」の御垣の中にあり、絡まって生い茂っているのは、母樹の「カゴノキ」、「ヤマザクラ」、「ツバキ」、「ナンテン」、「ニワトコ」、「フジ」、「カエデ」の七種が共生する珍しいやどり木で、「七種寄木」と呼ばれています。ことから、子授けの御神徳があると言われています。古来、風神の威徳をもって種子を集められたといわれ、やどり木であることから、子授けの霊木と崇められ、紙捻に願い事を書いて結びつける信仰があります。
「風宮神社」の先を左に曲がると「後殿」が右手にあります。実は「後殿御門」は、明治維新以来長く閉ざされていましたが、「第60次式年造替」を機におよそ140年ぶりに開門されました。「御本殿」の真後ろにあるお庭や「後殿」には、災難厄除けの霊験あらたかな神々が鎮座しています。「浮雲峰遥拝所」に近い方から、「八雷神社」で御祭神は「八雷大神」で雷の力で人々に幸せをもたらす神様です。次が、「柄神社」で御祭神は、「火酢芹命」で出入りの門をお守りくださる神様です。次が「海本神社」で御祭神は、「大物主」で食の安全をお守りくださる神様です。その隣が「杉本神社」で御祭神は、「大山咋」で建物の高層階で生活する人々の安全をお守りくださる神様です。そして、最後が「佐軍神社」で御祭神は、「布津之霊大神」で悪縁を断ち平穏をお守りくださる神様が鎮座しています。
「後殿」の反対側には「椿本神社」があります。「椿本神社」の御祭神は、「角振神」です。「椿本神社」は「春日明神」の眷属の神様で、「隼の明神」ともいい、御神徳は災難をお祓い下さる神様です。「椿本神社」の名前の由来は、椿の木がこの付近にあったことから、それが社名になったとも伝えられています。また、御例祭は、毎年5月2日に行われます。
さらに奥に進むと、ミステリアスな「藤浪之屋」があります。「藤浪之屋」は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では「藤波之屋」を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。「藤浪之屋」では、「春日万燈籠」の神事を幽玄の美を体験することができます。「藤浪之屋」は鏡が張り巡らされていてさらに神秘的な空間となっています。ただし、明るい場所から暗い場所に入るので、目が慣れるまでは足元に気をつけて鑑賞をされてください。ちなみに、「春日大社」には燈籠がたくさんあることで有名です。平安時代から現在までに奉納された燈籠がおよそ三千基あります。そして、「春日大社」では、2月の節分、8月14日・15日の年3回、すべての燈籠に浄火をともす「春日万燈籠」が行われます。さぞかし荘厳な世界に豹変することでしょうね。
「藤波之屋」の正面斜め左手に「多賀神社」があります。「多賀神社」の御祭神は、「伊弉諾命」で生命を司る延命長寿の霊験高い神様です。「俊乗房重源」が、その昔大仏殿を再建するときに寿命を頂いたというお話があります。御神徳は延命長寿の神様で仕事の完遂をお導きになる神様です。その御神徳を求めて延命長寿の「幡」の奉納が絶えないそうです。また、御例祭は、毎年4月22日に行われます。
「多賀神社」の前付近に校倉造の「宝庫」があります。「宝庫」は、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物です。古くは春日の神々の大切な御神宝の数々を納めていました。そして、国宝の「大鎧」等は、実は近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の「春日祭」の時に、「本殿」をお飾りする「御神宝」である鏡、太刀、鉾、弓矢などが納められ、3月の「春日祭」の時以外は閉ざされています。
「宝庫」の先は「西回廊」になっていて「内侍門」があります。「内侍門」は「西回廊」にある三つの門の中で北側にある門です。「貞観儀式」によると斎女や内侍等女性が参入すべき「鳥居」の後継が「内侍門」と考えられているそうです。
そして、「西回廊」に沿って「御手洗川」があります。「御手洗川」は、春日奥山を水源地とした「水谷川」を分水してできたものです。古くは御供用の水として汲み上げられ、また参拝の際の手水としても利用されていたそうです。「春日祭」では、勅使の「手水の儀」が「慶賀門」を入ったこの流れのそばで行われます。
次は、「西回廊」の3つある門の真ん中に位置している「清浄門」です。「清浄門」は、現在は神職の通用門ですが、かつては「僧正門」と呼ばれ、「興福寺」の僧侶が参入していた門だったそうです。
先ほど見た重要文化財の屋根を貫いている「柏槙」がある「直会殿」です。「直会殿」は、東を正面とする南北8間、東西4間の広大な建物で、「素木造」です。東の2間が母屋となり、「春日祭」には、勅使・弁以下の直会の儀式が殿上で行なわれます。平安期以降、ここで法華八講が盛大に行なわれたので、「八講屋」の別名もあります。斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。
最後が、「南門」をくぐると正面にある「幣殿・舞殿」です。この建物は、東側2間を「幣殿」といい、「幣殿」は天皇陛下のお供え物である御幣物を一旦納める建物で、天井板は格天井で、「舞殿」と区別されています。西側3間を「舞殿」といい、「舞殿」は、宮中伝来の御神楽を行うための建物で、雨天時に神楽や舞楽を奉納する場所になります。ここが出口になり、「特別参拝」は終わりになります。なお、一般的な参拝は、「御本殿」からは少し遠いですが無料で「幣殿・舞殿」から参拝することができます。
【「春日大社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8212 奈良県奈良市春日野町160 電話:0742-22-7788
⑵ 拝観時間
① 本社参拝…開門時間 06:30~17:30(11月~2月07:00~17:00)
② 国宝殿…10:00~17:00(入館は16:30まで)
③ 萬葉植物園…09:00~16:30(12月~2月09:00~16:00)
⑶ 休日…①国宝殿 年3回の展示替の時(各2~3日間) ②萬葉植物園 1・2・12月の月曜日
⑷ 拝観料
① 本社参拝…回廊内特別参拝のみ有料(500円)
② 国宝殿…大人…500円、大学生・高校生…300円、中学生・小学生…200円
【「春日大社」へのアクセス】
JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から
① 奈良交通バス(春日大社本殿行) 約11~15分 「春日大社本殿」下車すぐ
② 奈良交通バス(市内循環外回り)約9~13分 「春日大社表参道」下車 、徒歩約10分
③ 近鉄奈良駅からぐるっとバス大宮通りルート「春日大社本殿」下車すぐ ぐるっとバス(運賃100円)
04_【春日大社から興福寺へ】
「春日大社」の参拝を終え、次の目的地は「興福寺」です。「春日大社」の参道を「一之鳥居」まで戻ります。そして、信号を渡り右方向に進み、「国道169号線」沿いを80mほど進むと、最初の信号があります。そこを右折すると「興福寺」の境内になります。「興福寺」は「奈良公園」の一角にあり、「東大寺」や「春日大社」と並んで奈良市を代表する観光名所のひとつです。「古都奈良の文化財」として世界遺産にも登録され、歴史的・文化的な遺産が多く残る寺院です。途中で、かわいらし鹿がいたので、思わず鹿煎餅を買って与えました。参道の左手には、寺院の風呂場として使われていた「興福寺大湯屋」が見えます。「大湯屋」は、奈良時代から設けられていたと考えられていて、「大湯屋」の中には、通常非公開ですが、奈良県指定文化財の「鉄湯釜」があるそうです。右手には、「興福寺」の寺務を執り行う「本坊」が見えます。通常は非公開ですが、「本坊」北西には明治時代に建てられた「大圓堂」と呼ばれる「持仏堂」があり、国の重要文化財である「木造聖観音菩薩立像」があります。少し進むと右手にある「柳茶屋」の先に、「興福寺」を分断する道路があり、横断歩道があります。横断歩道を渡ると道が二手に分かれます。直進すると「南円堂」そして右斜め方向に入ると「国宝館」の案内板があります。
「興福寺」は、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。しかし、世界遺産に登録されたという理由だけ「興福寺」を訪れたわけではありません。今回の奈良旅行の世界遺産に指定された6つのお寺を拝観することもそうですが、最大の目的は二つあります。一番の優先事項は「唐招提寺」の「鑑真大和上像」の特別公開、それと二番目は「興福寺」の「阿修羅像」を見るためです。そう言う訳で早速「興福寺」の「国宝館」へ入りました。その前に、「興福寺」の歴史と概要を紐解いてみたいと思います。「興福寺」は、法相宗の大本山です。「興福寺」は、京都山科の「藤原鎌足私邸」に建立された「山階寺」が前身となります。「山階寺」は、天智8年(669年)に「藤原鎌足」が重い病気を患った際に、夫人である「鏡女王」が夫の回復を祈願して、釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。そして、天武天皇元年(672年)の壬申の乱後に、飛鳥に都が戻った際に、「山階寺」も移され、その地名を取って「厩坂寺」と名付けられます。さらに、和銅3年(710年)の平城遷都の際に、「藤原不比等」よって現在地に移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後、天皇や皇后、また藤原氏の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には「四大寺」、平安時代には「七大寺」の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。特に、藤原氏の氏寺として大いに繁栄し、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。治承4年(1180年)の「平重衡」の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げますが、その後、享保2年(1717年)の火災によって、伽藍の西半分を失いました。境内には「光明皇后」創建とされ、室町時代に再建された国宝の「五重塔」、鎌倉時代に再建された国宝の「北円堂」や江戸時代に再建された重要文化財の「南円堂」などが建ち並んでいます。そして、「国宝館」には多くの仏教彫刻の名品を所蔵しています。
《「興福寺」のお薦め拝観順路》
①「国宝館」⇒②「中金堂」⇒③「東金堂」⇒④「五重塔」⇒⑤「南円堂」⇒⑥「南円堂」⇒⑦「三重塔」
《国宝館》
まずは、右斜め方向に進み、最大の目的地である「国宝館」に向かいました。「国宝館」は、奈良時代創建当初の僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に、「食堂」の外観を復元して、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。建物の大きさは正面が35.3m、側面が31.8mで、本瓦葺の建物です。ちなみに、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうです。この「国宝館」には、日本に数多ある仏像の中でも、特に人気のあり、天平文化を代表する仏像彫刻のとして国宝にも指定されている「阿修羅像」が収蔵されています。「阿修羅像」は、端正な顔立ちとスタイルで美少年との呼び声も高く、私たち家族もそうですが、この彫刻を目当てに「興福寺」を訪れる観光客も多いそうです。この見応えたっぷりの「国宝館」には、「興福寺」の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、歴史資料などが収蔵してあり、そのほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。そして、館内には旧食堂の本尊「千手観音菩薩立像」、奈良時代の「阿修羅像」などの「乾漆八部衆像」、「乾漆十大弟子像」、「華原馨」、平安時代の「燈籠」や「板彫十二神将像」、鎌倉時代の「木造金剛力士像」、「木造天燈鬼・龍燈鬼像」などの国宝や、重要文化財の「梵天像・帝釈天像」や厨子入り「弥勒菩薩半跏像」なども安置します。どれもこれも素晴らしいものばかりですが、なかでも「阿修羅像」と以前に上野の東京国立博物館でも公開された「木造天燈鬼・龍燈鬼像」は私の中では一番印象に残り、感銘を受けました。ちなみに、「阿修羅」とは、梵語(古代インド語)の「アスラ」(Asura)で「生命(asu)を与える(ra)者」とされ、また「非(a)天(sura)」にも解釈され、まったく性格の異なる神になります。例えば、ペルシャなどでは大地にめぐみを与える太陽神として信仰されてきましたが、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる太陽神として、常にインドラ(帝釈天)と戦う悪の戦闘神になります。しかし、仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神となったそうです。歴史的価値のある仏像等が所狭しとあり、見ごたえたっぷりの「国宝館」は、毎日9:00から17:00まで観覧できます。
《中金堂》
「国宝館」での鑑賞を終え、出口の駐車所を右方向に進むと正面に「中金堂」、そして、左手に「東金堂」、その向こう側奥には「五重塔」があります。まずは、正面にある「中金堂」です。「勧進所・売店」の隣にある「拝観受付」でチケットを購入して中に入ります。「中金堂」は「興福寺」の伽藍の中心になる最も重要な建物で、平成30年(2018年)に301年ぶりに再建され、復元されました。「中金堂」の大きさは、正面が37.0m、側面が23.0mあり、建築様式は寄棟造、単層裳階付き、本瓦葺になっています。「中金堂」の歴史を紐解いてみると、かつて「中金堂」は、「興福寺」にあった金堂3棟の中心となり、創建当時は、その規模においても奈良にある寺院の中でも大きさを誇るものでした。創建者は日本の律令制度をまとめ、藤原氏の繁栄の基礎を築いた「藤原不比等」です。それ以降、創建より6回の焼失、再建を繰り返しました。そして、享保2年(1717)に焼失した後は財政難のために再建することができませんでした。その100年後に町屋の寄進により規模を縮小した「仮堂」を文政2年(1819年)に再建しましたが、あくまで仮設としての建立であったため、長期使用を想定しておらず、材木には不向きなマツが使われるなどしたため、急速に老朽化が進んでしまいました。度重なる火災を乗り越え平成30年(2018年)に復興された堂内には、御本尊の「丈六釈迦如来像」を中心に、「薬王・薬上菩薩像」が脇侍として祀られています。ちなみに、現在安置されている御本尊の「丈六釈迦如来像」は5代目で、像内墨書から文化8年(1811年)に仏師「赤尾右京」が造立したそうです。また、「木造薬王・薬上菩薩立像」は、兄弟の菩薩で、ともに良薬を人々に与え、心と身の病気をなおしたと言われています。普通、「釈迦如来像」は「文殊菩薩像」と「普賢菩薩像」を従えることが多いのですが、「薬王菩薩像」と「薬上菩薩像」を置くのは古い形だそうです。
《東金堂》
次が、「東金堂」と「五重塔」ですが、現在、「東金堂」、「五重塔」が保存修理のため工事用のフェンスで囲まれ、残念ながら拝観等ができませんでした。仕方なくフェンスのそとから事前に調べていた「東金堂」と「五重塔」の全体像を想像してみました。「東金堂」は、「中金堂」の東側にある「金堂」で、その隣には、「五重塔」が高々とそびえ立っています。「東金堂」は、「聖武天皇」が叔母である「元正太上天皇」の病気平癒を祈念して、神亀3年(726年)に建立したものです。それ以降、5度の被災・再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の応永22年(1415年)に再建されました。創建当初には床に緑色のタイルが敷き詰められ、御本尊「薬師如来」の浄瑠璃光の世界が表現されていたそうです。「東金堂」の建築様式は、前面を吹き放しとした寄棟造です。見どころは、堂内には国の重要文化財に指定されている「本尊薬師如来坐像」を中心に、「日光・月光菩薩立像」、「文殊菩薩坐像」、「維摩居士坐像」、「十二神将立像」、「四天王立像」など貴重な文化財がたくさんあります。
《五重塔》
「東金堂」の隣にある「興福寺」の「五重塔」は、天平2年(730年)に「興福寺」の創建者である「藤原不比等」の娘「光明皇后」の発願で建立されました。古都奈良のシンボルといえば、「五重塔」といわれるくらい有名な建築物です。ちなみに、「塔」は釈尊の舎利を納める墓標であり、当時の仏教寺院においては権威の象徴だったそうです。他の堂宇と同様に、その後5回の焼失・再建を経て、現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建された約50mもある木造の「五重塔」で、日本で2番目に高い塔です。ちなみに、日本で一番高い「五重塔」は、東寺(教王護国寺)の五重塔で、 高さは約57メートルあり、現存する日本の木造建築物としては最高の高さです。「興福寺」の「五重塔」には、いずれも室町時代作品である「薬師三尊像」、「釈迦三尊像」、「阿弥陀三尊像」、「弥勒三尊像」が一層目のそれぞれ「須弥壇四方」に安置されています。また、青空の下で見る五重塔も堂々として魅力的ですが、ライトアップされた姿も圧巻だそうです。保存・改修工事が終わったら、再度奈良を訪れ、ぜひライトアップされた「五重塔」を見に来たいものですね。
《南円堂》
次が、「五重塔」の塔の反対側に位置している「南円堂」です。途中に「興福寺」の「南大門跡」があり、若干高台になっていて、そこから見下ろす「猿沢池」や古都奈良の街並の風景が絶景でした。「南円堂」は、「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を願って建立した八角円堂であり、また、「西国三十三所」の「第九番札所」として知られ、の参拝者が多い御堂です。「南円堂」は、朱色が際立つ美しい八角円堂で、弘仁4年(813年)に「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を祈るため建立しました。また、発掘調査で判明したことですが、基壇築造の際には地神を鎮めるために、「和同開珎」や「隆平永宝」を撒きながら築き上げたそうです。「南円堂」の御本尊である「不空羂索観音菩薩」は、神に仕える鹿の鹿皮を身にまとっています。現在の内陣には、慶派仏師の「康慶」一門により制作された本尊の「不空羂索観音菩薩坐像」を中心に、「四天王立像」、「法相六祖坐像」が安置されています。現在残っている建物は、創建以来4度目のもので、江戸時代の寛政元年(1789年)に再建されたものです。「南円堂」では、年に1度、10月17日に「特別開扉」が行われ、堂内を拝観することができます。また、当日は僧侶たちが経典を宙で広げながら読む「大般若経転読会」という儀式も行われ、たくさんの参拝客で賑わうそうです。
《北円堂》
「南円堂」を右方向に進むと「北円堂」があります。「北円堂」は、「興福寺」の創建者「藤原不比等」の1周忌にあたる養老5年(721年)8月に「元明・元正天皇」が、「長屋王」に命じて建てさせたものです。建物が建っている場所は、「興福寺伽藍」の中では、中心でなく西隅に位置しています。かつては、「北円堂」から平城京を一望の下に見渡すことのできる場所だったそうです。現在の建物は、治承4年(1180年)の被災で焼失し、承元4年(1210年)頃に再建されました。そして、「北円堂」は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいといわれています。堂内には、御本尊である「弥勒如来坐像」を中心に、「無著・世親菩薩立像」をはじめとして、「木心乾漆四天王立像」などが安置されています。これらはいずれも国宝に指定されています。そして、堂内にあるこれらの像は、春・秋一定期間に特別公開されます。
《三重塔》
最後が、「三重塔」です。「北円堂」の正面反対側にある道を直進すると右手にが「三重塔」あります。「三重塔」は「北円堂」とともに山内で最古の建物とも言われ、高さが約19.1m、初層の幅は約4.8mあります。「三重塔」は「五重塔」に比べるとあまり知られておらず、見逃されがちです。「三重塔」は、康治2年(1143年)に「崇徳天皇」の皇后の「皇嘉門院聖子」が建て、治承4年(1180年)に焼失しましたが、間もなく再建されたといわれています。堂内には、かつて「興福寺」の子院であった「世尊院」の「弁才天坐像」とその「諸尊」(十五童子)を移して安置されています。これらの像は、毎年7月7日の10時から「弁才天供」が行われ、特別開扉されます。
《興福寺五十二段》
余談ですが、この日私たち家族は、「猿沢池」の畔にある「よしだや」に宿泊しましたが、「北円堂」から「三条通」に出て、「よしだや」へ向かいましたが、その途中に「興福寺五十二段」と呼ばれる「五重塔」に続く幅広い石段がありました。菩薩修行の段位五十二位になぞられたものであり、段の上は仏界を意味するといわれているそうです。
【「興福寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8213 奈良市登大路町48 電話:0742
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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《奈良市総合観光案内所》
奈良観光の第一歩として、JR奈良駅東口の駅前にある「奈良市総合観光案内所」で、奈良のお寺や観光名所のお得な巡り方や交通機関等の情報をゲットするために立ち寄りました。「奈良市総合観光案内所」を見てびっくりしました。まるでお寺そのものの造りになっていて、今まで旅行してその土地の観光案内所に立ち寄りましたが、こんな立派でモダンな建築物はみたことありません。中に入るとパンフレットも沢山あり、観光客が手に取ってみている姿が目に入りました。インフォメーションカウンターも4箇所くらいあったと思います。並んでいるのは日本人より外国の観光客の方が多かった印象です。まず、最初のポイントとして各お寺を巡る拝観料について質問してみました。京都もそうですが、お寺をたくさん回ると拝観料が馬鹿になりません。京都から奈良に向かう電車の中で、5000円で販売している「六社寺共通拝観券」というものがありました。それを買った方が得かということと、バスの一日乗車券を買った方が得かということを聞いてみました。返ってきた答えが、「六社寺共通拝観券」より個別に拝観料を払った方が安いということでした。ただし、各お寺で散華を貰える、期間限定の特別御朱印がいただけるなどの特典があると丁寧に説明してくれました。奈良市総合観光案内所 (JR奈良駅旧駅舎) 名所・史跡
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《奈良市総合観光案内所》
バスの一日乗車券についても、回るお寺や宿泊するホテルなどを聞き、一日目の訪問先である、「東大寺」、「春日大社」、「興福寺」なら、最初の「東大寺」までバスに乗り、「春日大社」や「興福寺」は隣接しているので、歩いて回れるので買わなくても大丈夫ということでした。二日目は、「薬師寺」、「唐招提寺」に行くと話したところ、こちらの場合は、バスで片道270円かかるので一日乗車券を買った方が得という答えが返ってきました。各お寺付近のバス乗り場の地図などもこちらから欲しいと言う前に親切にくれました。それと「東大寺」までの奈良駅のバス停の乗場も説明してくれました。こんな親切丁寧な観光案内所も初めてです。そして、余談ですが旧JR奈良駅旧駅舎を改築した観光案内所内には、スターバックコーヒーもありました。奈良市総合観光案内所 (JR奈良駅旧駅舎) 名所・史跡
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《東大寺》南大門付近にいた鹿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門
「南大門」は、入母屋造の五間三戸二重門と複雑な構造で、国宝にも指定されています。21mの大円柱が18本組み込まれ、ベースを含めた門の高さは約25mにも及びます。門の中は西側に「阿形」、東側に「吽形」の「金剛力士」(仁王)像が配置されています。「金剛力士像」も「南大門」と同じように国宝へ指定されています。建仁3年(1203年)に当時の仏師によって、わずか69日で仕上げられたというから驚きです。夏になると、大仏殿や中門回廊と共にライトアップされ、陰影がはっきりし、彫刻の美しさも際立ちます。「南大門」の裏側には日本最古の狛犬とされている重要文化財の「石獅子像」が建立されています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門の扁額
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門…「金剛力士像(仁王像)」(阿形像)
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門…「金剛力士像(仁王像)」(阿形像)
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門…「金剛力士像(仁王像)」(吽形像)
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》南大門…「金剛力士像(仁王像)」(吽形像)
東大寺 寺・神社・教会
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《大仏さまの左手》の説明板
「南大門」をくぐると左手に「東大寺ミュージアム」があり、入口の右手に「大仏さまの左手」と「大仏さまの右手」の実物大のレプリカがあります。これは、「印相」と呼ばれ、両手で示すジェスチャーのことを意味しています。「大仏さまの左手」は、中指の先から手のひらまで含めた長さは約3.3mもあります。そして、左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズなのです。右手は、「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズです。東大寺 寺・神社・教会
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《大仏さまの左手》レプリカ
左手の形は「与願印」と呼ばれ、願いをかなえて差し上げましょうという大変ありがたいポーズ東大寺 寺・神社・教会
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《大仏さまの右手》の説明板
東大寺 寺・神社・教会
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《大仏さまの右手》レプリカ
「施無畏印」と呼ばれ、手の大きさは縦が約3mで中指の長さが約1.5mあります。手のひらを前に向けて緊張をほぐし「恐れなくてもいいよ。」と相手を励ましているポーズ東大寺 寺・神社・教会
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《大仏さまの右手》レプリカ
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》鏡池で日光浴する鹿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》鏡池と厳島神社の美しい紅葉風景
「大仏殿」の南側に広がるこの美しい「鏡池」の中央部には、鏡のような形をした小島がありそこに鎮座しているのが「厳島神社」です。ちなみに、「厳島神社」は「東大寺」の観光スポットとして知名度はほとんどありませんが、「鏡池の弁天さん」として親しまれ、「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。池の中央にひっそりと佇むこの神社は思いのほか神秘的な雰囲気を漂わせています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》鏡池と厳島神社の美しい紅葉風景
「弁財天」と同じにみなされている「市杵島姫命」を御祭神として祀っています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》鏡池と厳島神社の美しい紅葉風景
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》鏡池と大仏殿…鏡池付近から撮影
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》谷川喜六建立慰霊碑
「谷川喜六建立慰霊碑」は、明治26年(1886年)に「谷川喜六」さんが、父親の50回忌法要に合わせて、明治10年(1877年)の「西南戦争戦没者」、明治25年(1892年)に瀬戸内海に沈没した軍艦千島「千島艦遭難者」の慰霊碑を東大寺境内に建立したものです。表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」、「陸海軍人之碑」、「千島艦水没」は「伏見宮文秀女王」の筆によるものです。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》谷川喜六建立慰霊碑
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》谷川喜六建立慰霊碑のそばにいた鹿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》会津八一歌碑
「會津八一」が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集「南京新唱」におさめられています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》会津八一歌碑
「會津八一」は、明治14年(1881年)に新潟県新潟市古町通五番町に生まれました。早稲田大学英文科を卒業後に、奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、この歌碑に掲載されている「南京新唱」(1924年)を刊行しました。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》会津八一歌碑
「おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり」と刻まれていました。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれた石碑
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「五百立神社」・「鉄道職員殉職者供養塔」参道と書かれた石碑
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「鉄道職員殉職者供養塔」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「鉄道職員殉職者供養塔」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「鉄道職員殉職者供養塔」
「鉄道職員殉職者供養塔」は、昭和5年(1930年)10月に建立された高さが10.3m、重量が38.8tの石造十三重塔です。鉄道工事等で殉職された方々を祀っている石碑ですが、殉職された人の名前は供養塔に刻み込まれていませんでした。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「五百立神社」説明板
「五百立神社」は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の末社とされるお社です。「五百立神社」(創建不詳)は、朱色の鳥居の奥に、朱色の垣に囲まれて小さな祠があります。実は、この「五百立神社」には、「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「五百立神社」外観
「東大寺」の「大仏殿」の創建に従事した大工さんが祀られる神社として知られます。500余人の番匠(現在の大工)を祀るとも伝えられています。御祭神は「天富命」です。「天富命」は、「手置帆負命」、「彦狭知命」の子孫を統率する建築の神です。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」外観
「大仏殿」へは、「中門」の左手にある廻廊のところにある入口から入り、料金所で拝観料を支払ってから中へ入ります。「中門」の内側より「大仏殿」を一望することができます。この辺りで写真撮影しないと「大仏殿」全体を写真に収めることができません。全体の外観写真を撮り、「大仏殿」の参道を進むと、国宝に指定されている「八角燈籠」があります。記憶が定かではありませんが確か、中学校の修学旅行で「大仏殿」を訪れたときは、観相窓が開いていて大仏様の顔が見えたのですが、残念ながら、「大仏殿」の観相窓が閉まっていて、そこから「大仏様」の顔を見ることができませんでした。係の方に尋ねたところ、現在は、毎年大晦日から元旦にかけては観相窓が開かれており、外からでも大仏様の顔が外から見えるようになっているそうです。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」外観
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」外観
「大仏殿」の参道を進むと右手に「手水舎」、そして正面には、国宝に指定されている「金銅八角燈籠」があります。「大仏殿」の階段を登ると「邪鬼足外香炉」があり、「大仏殿」に入るとすぐ正面に「大仏様」が安置されています。「東大寺」の本堂である「大仏殿」は、高さ約48m、幅57mで世界最大級の木造建築物で、昭和27年(1952年)には国宝に指定されました。過去に2度焼失しており、それぞれ鎌倉時代と江戸時代に再建されました。創建当時の「大仏殿」は横幅が現在より約1.5倍も広かったと伝えられ、11間(約86m)あった幅は、江戸時代に再建された際に木材が調達できなかった関係で7間(約57m)になりました。そして、「大仏様」の目の前に立つと、その圧倒的な迫力と大きさに圧倒されてしまいます。「大仏様」の正式名称は「廬舎那仏」といいます。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」外観…後ろ側から撮影
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」外観…後ろ側から撮影
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」
「廬舎那仏」は、像高14.98m、両膝の幅12.08m、重さ250tという圧倒的なスケールです。また、「廬舎那仏」がおかれている台座も重さ約130tにもなるそうです。そして、「廬舎那仏」は、ビルの高さに換算すると、4~5階建てのビルの高さになり、創建時は全体に金メッキが施され、まばゆいばかりに光り輝いていたといわれています。「東大寺ミュージアム」の前に、実物大の大仏の手のレプリカがあり、その大きさを実感したばかりですが、改めて見るとその大きさには驚かされます。「廬舎那仏」は、右手を突きだし、左手の手のひらを上に向けたポーズをとっています。その左手の大きさは、手首から中指の先端までが約3.3mあります。ちなみに、奈良の「大仏様」の高さが14.98mあるのに対して、鎌倉の「大仏様」は11.39mと、奈良の大仏様の方が3.6mほど大きい計算になります。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」…裏側を撮影
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「廬舎那仏」…出口付近から撮影
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「虚空蔵菩薩」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「虚空蔵菩薩」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「虚空蔵菩薩」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「如意輪観音」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「如意輪観音」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「鴟尾」の説明板
鴟尾」は建物大棟の両端に付けられた雨仕舞いを兼ねた装飾瓦で、魔除けや防火のまじないの意味を持っています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「鴟尾」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「鴟尾」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「鴟尾」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「鴟尾」
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の大仏連弁・蓮華蔵世界図(原寸大)説明板
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の大仏連弁・蓮華蔵世界図(原寸大)説明板
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の大仏連弁・蓮華蔵世界図(原寸大)
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の大仏連弁・蓮華蔵世界図(原寸大)
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の広目天
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の広目天
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の広目天
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の多聞天
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の多聞天
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の模型
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の模型…創建当時鎌倉時代の大仏殿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の模型…創建当時鎌倉時代の大仏殿と江戸時代の大仏仏殿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の模型…再建された江戸時代の大仏殿
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「大仏殿」の「賓頭盧尊者像」
「大仏殿」の出口左側には「びんずる様」の愛称で親しまれている「賓頭盧尊者像」がありました。長野の「善光寺」にも確かあったと記憶しています。ただ、「大仏様」のインパクトがすごいせいか、「善光寺」と違い意外と参拝者に気付かれずに素通りされていました。「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子で、如来・菩薩以前の修行過程にある「十六羅漢」のうち、第一の聖者のことです。「賓頭盧尊者像」は、伽藍の前に安置され、病人が患っている箇所と同じ部分を撫でると治るという信仰があります。このことから「撫仏」とも呼ばれています。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》大仏殿から手向山八幡宮へ向かう途中の紅葉風景
「大仏殿」を出て左側に進むと、短い距離ですが目を引く紅葉のトンネルがあり、その奥の突き当りには「手向山八幡宮」があります。「手向山八幡宮」は、紅葉の名所である手向山の山麓にあります。「手向山八幡宮」は、天平勝宝元年(749年)に「東大寺大仏」建立のため、九州豊前国(現在の大分県)の「宇佐八幡宮」より「東大寺」の守譲神として迎え、祀られました。「手向山八幡宮」の本殿は、元禄4年(1691年)に再建され、本殿の手前右側には「東大寺」から移築された校倉造の「宝庫」(重要文化財)があります。社宝に「唐鞍」(国宝)、「舞楽面」(重要文化財)などがあります。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》大仏殿から手向山八幡宮へ向かう途中の紅葉風景
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》大仏殿から手向山八幡宮へ向かう途中の紅葉風景
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「法華堂(三月堂)」
「法華堂(三月堂)」は、天平5年(733年)から天平19年(747年)の間に創建されたといわれている「東大寺」で最も古い建物です。当初から「正堂」と「礼堂」の双堂形式が採用されていましが、「礼堂」は建久10年(1199年)に僧侶の「重源」によって新築されたものです。「東大寺」の前身である「金鍾山寺」の建物のひとつとされ、華厳経が日本で初めて講義された場所でもあります。もちろん「法華堂」も国宝に指定されています。「法華堂(三月堂)」は、「不空羂索観音」を本尊とするところから古くは「羂索堂」と呼ばれていましたが、毎年3月に「法華会」が行なわれたことから、のちに「法華堂」と呼ばれるようになったそうです。東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》「二月堂」外観
「東大寺」の多くの堂塔は戦火によって焼失し再建される中、「二月堂」は戦火による消失は一度もない珍しいお堂です。「二月堂」の名前の由来は、春の風物詩で「お水取り」の名で知られる「修二会」が、旧暦2月行われることから「二月堂」と呼ばれるようになりました。「二月堂」は、良弁僧正の高弟「実忠和尚」の草創と伝わっていますが、「二月堂」は、寛文7年(1667年)に火事で焼失し、2年後の寛文9年(1669年)に再建されました。屋根は寄棟造、建物は舞台造で国宝に指定されています。また、「二月堂」は基本的に堂内の拝観することはできません。「二月堂」の御本尊は「大観音」と「小観音」と呼ばれる2体の「十一面観音像」です。「十一面観音像」は、絶対秘仏で僧侶でさえ見ることができません。「二月堂」の参拝は24時間可能で、舞台から見る夜景やライトアップされた「二月堂」を下から眺めると幻想的な風景でした。建物へ向かう南側の石段には、1段目~3段目まで模様が刻印されています。唐草文様や青海波、網代など、当時の職人が刻んだ美しい模様も見逃せません。東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」外観
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」外観
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」外観
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の舞台からの眺望
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の舞台からの眺望
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の舞台からの眺望
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の舞台からの眺望
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の舞台からの眺望
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の奥の手水舎…水は飲めません。
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の奥の手水舎…水は飲めません。
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」の奥の手水舎…水は飲めません。
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観しました。南大門付近にある案内の石碑です。
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…灯りのついた常夜燈
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂の外観
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂の外観
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂の手水舎です。昼間は人がいて撮影できませんでした。こちらの手水舎の水は飲むことができます。
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂の手水舎
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂の手水舎の装飾
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」へ夜間拝観…二月堂内
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》「二月堂」
東大寺二月堂 名所・史跡
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《東大寺》正倉院…残念ながら休日で公開していませんでした。
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》正倉院…遠くに見える屋根が正倉院です。
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》風景…葉が黄金に色づいているイチョウ並木
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》風景…遠くに見えるのが若草山です。
東大寺 寺・神社・教会
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《東大寺》風景…築地塀のような塀が至る所に見られ風情を感じます。
東大寺 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」
中門は、御本殿と間違いやすい建物で、御本殿の建物と間違えている参拝客が多いそうです。何故なら中門は、春日大社の画像で教科書などもそうですが、よく出てくる代表的な建物だからです。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」…「御本殿」は「中門」の奥にあります。
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」の釣燈籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」の釣燈籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「中門」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「林檎の樹」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「林檎の樹」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「大杉」
大杉は、地上1.3mの位置の幹周が7.94m、高さが23mあります。そして大杉は、樹齢約1000年ともいわれています。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「大杉」の説明板
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》東廻廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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春日大社》「桂昌院」奉納の燈籠
春日大社内に3基しかない燈籠の一つで、徳川家の三葉葵紋と桂昌院の父がたの本庄家の九つ目結紋が施されています。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「桂昌院」奉納の燈籠の説明板
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「桂昌院」奉納の燈籠の付近にある銅燈籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》東廻廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》東廻廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》東廻廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御蓋山浮雲峰遥拝所」
春日大社の第一殿の御祭神である鹿島の武甕槌命が白鹿の背にお乗りになり降臨したのが御蓋山頂上でその浮雲峰の遥拝所です。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御蓋山浮雲峰遥拝所」の鳥居
この「拝所は浮雲峰から春日大社本殿を通り平城京大極殿まで続く尾根線上にあります。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御蓋山浮雲峰遥拝所」の鳥居
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御蓋山浮雲峰遥拝所」の説明板
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「岩本神社」
かつでは住吉社といわれていましたが、明治初年に、同じく春日大社の末社で、奈良高畑丹坂町にある住吉社と区別するため、岩本社と名称を変更しました。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「岩本神社」の説明板
御祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神です。海神信仰、また歌神信仰があり御神徳は受験合格、和歌の神様などです。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「直会殿」
斜めにのびた「柏槙」(別名「伊吹」)を「直会殿」の屋根に穴をあけて生かしています。樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「直会殿」
樹木を大切にする春日の神様の託宣(古社記)により、重要文化財の「直会殿」の屋根に穴をあけています。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「直会殿」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「直会殿」釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御本殿」裏の御祭神4社…浮雲峰遥拝所に近い方から第一殿が武甕槌命、第二殿が経津主命、第三殿が天児屋根命、そして第四殿が比売神の順
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「椿本神社」…椿本神社の御祭神は、角振神です。
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「風宮神社」…風宮神社の御祭神は級長津彦命、級長津姫命で、生命を司り、罪穢れを清めるお祓いの神様(子授け)です。
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御本殿」裏の御祭神4社の説明板
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「椿本神社」の説明板…椿本神社は春日明神の眷属の神様で、隼の明神ともいい、御神徳は災難をお祓い下さる神様です。
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「風宮神社」の説明板
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「御本殿」裏の御祭神4社
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「風宮神社」と「七種寄木」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「藤浪之屋」
藤浪之屋は江戸時代まで神職の詰所でしたが、現在では藤波之屋を開放し、暗い空間に多数の釣燈籠が浮かび上がっています。藤浪之屋では、春日万燈籠の神事を幽玄の美を体験することができます。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「藤浪之屋」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「藤浪之屋」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「藤浪之屋」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「藤浪之屋」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》西回廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》西回廊の釣灯籠
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「宝庫」と「内侍殿」裏側から撮影
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「一之鳥居」
創建が平安中期頃とされる大鳥居で、現在のものは寛永11年(1638年)に再建されたものです。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「一之鳥居」付近の鹿
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「影向の松」
参道南側にあるクロマツで、若宮おん祭には、この松の前で松の下式が行われます。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「影向の松」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「馬出橋」
競馬や流鏑馬の始点がこの橋なので、「馬出橋」といいます。現在も「春日若宮おん祭」の競馬はここから出走します。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》「馬出橋」
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》参道にある仏教美術資料研究センター
仏教美術資料研究センター 美術館・博物館
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《春日大社》参道にある仏教美術資料研究センターと紅葉
仏教美術資料研究センター 美術館・博物館
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《春日大社》参道にある仏教美術資料研究センター説明板
仏教美術資料研究センター 美術館・博物館
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《春日大社》参道にある仏教美術資料研究センター説明板
仏教美術資料研究センター 美術館・博物館
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《春日大社》参道にある春日若宮御旅所
春日若宮おん祭は12月に斎行される大和一国を挙げての大祭ですが、その中心的な祭典がここで行われます。中央の芝舞台は芝居の語源ともいわれています。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》参道にある春日若宮御旅所
春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》参道にある春日若宮御旅所
央の芝舞台は芝居の語源ともいわれています。向かって右側にある長蔵は、若宮おん祭の御用に充てられる建物で、明治初年に興福寺の旧大乗院の建物を移設したものです。春日大社 寺・神社・教会
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《春日大社》参道にある春日若宮御旅所付近の紅葉
春日大社 寺・神社・教会
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《興福寺》中金堂
「中金堂」は「興福寺」の伽藍の中心になる最も重要な建物で、平成30年(2018年)に301年ぶりに再建され、復元されました。「中金堂」の大きさは、正面が37.0m、側面が23.0mあり、建築様式は寄棟造、単層裳階付き、本瓦葺になっています。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》中金堂
興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》中金堂
興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》国宝館
「国宝館」には、日本に数多ある仏像の中でも、特に人気のあり、天平文化を代表する仏像彫刻のとして国宝にも指定されている「阿修羅像」が収蔵されています。「阿修羅像」は、端正な顔立ちとスタイルで美少年との呼び声も高く、この彫刻を目当てに「興福寺」を訪れる観光客も多いそうです。この見応えたっぷりの「国宝館」には、「興福寺」の歴史を伝える仏像彫刻や絵画、歴史資料などが収蔵してあり、そのほとんどが国宝や重要文化です。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》国宝館
「国宝館」は、奈良時代創建当初の僧侶が集団で食事をする「食堂」が建てられていた場所に、「食堂」の外観を復元して、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。建物の大きさは正面が35.3m、側面が31.8mで、本瓦葺の建物です。ちなみに、地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されているそうです。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》五重塔と東金堂
興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》五重塔
「五重塔」は、天平2年(730年)に「興福寺」の創建者である「藤原不比等」の娘「光明皇后」の発願で建立されました。古都奈良のシンボルといえば、「五重塔」といわれるくらい有名な建築物です。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》五重塔
現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建された約50mもある木造の「五重塔」で、日本で2番目に高い塔です。ちなみに、日本で一番高い「五重塔」は、東寺(教王護国寺)の五重塔で、 高さは約57メートル興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》東金堂
「東金堂」は、「聖武天皇」が叔母である「元正太上天皇」の病気平癒を祈念して、神亀3年(726年)に建立したものです。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》南円堂
「南円堂」は、「藤原冬嗣」が父の「藤原内麻呂」の冥福を願って建立した八角円堂であり、また、「西国三十三所」の「第九番札所」として知られ、の参拝者が多い御堂です。興福寺 寺・神社・教会
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《興福寺》興福寺前にある三条通りいた鹿の群れ
興福寺 寺・神社・教会
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《猿沢池》風景
「猿沢池」は、「興福寺」の「放生池」だったもので、奈良公園にある周囲360メートルの小さな池です。もともと「猿沢池」は、「興福寺」の瓦の材料として粘土が採られた場所が池となったものです。猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》風景
猿沢池」の外周は、一周を歩けるようになっており南西にはベンチなどが設置されています。現在、修理保存中の「興福寺」の「五重塔」が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、奈良八景のひとつになっています。猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》風景
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》猿沢池とうどんや「衣掛茶屋」
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》猿沢池とうどんや「衣掛茶屋」
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑
猿沢池 名所・史跡
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《猿沢池》「悲恋の采女と衣掛柳の伝説」碑…奈良時代に、帝の寵愛が衰えたことに悲嘆した釆女が身投げをしたとの言い伝えもあり、池畔には祭神を釆女とする「釆女神社」、「悲恋の采女と衣掛柳の伝説碑」、「きぬかけ柳の碑」などがあります。
猿沢池 名所・史跡
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《猿田彦珈琲 奈良鹿猿狐ビルヂング店》外観
「猿田彦珈琲」と言えば、東京・恵比寿で2011年6月にオープンしたスペシャルティコーヒーの専門店です。まさか奈良で「猿田彦珈琲」に入るとは思っていませんでしたが、東京でよく見かける「猿田彦珈琲」に入ったことがなかったので、どんなものか、そして喉も昼間かなり歩き乾いていたので、お茶をすることにしました。猿田彦珈琲 奈良 鹿猿狐ビルヂング店 グルメ・レストラン
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《猿田彦珈琲 奈良鹿猿狐ビルヂング店》赤ぶどう風味の「アイス生キャラメルラテ」「水出しアイスコーヒー」
猿田彦珈琲 奈良 鹿猿狐ビルヂング店 グルメ・レストラン
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《猿田彦珈琲 奈良鹿猿狐ビルヂング店》赤ぶどう風味の「アイス生キャラメルラテ」「水出しアイスコーヒー」
猿田彦珈琲 奈良 鹿猿狐ビルヂング店 グルメ・レストラン
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《猿田彦珈琲 奈良鹿猿狐ビルヂング店》赤ぶどう風味の「アイス生キャラメルラテ」の宣伝看板
猿田彦珈琲 奈良 鹿猿狐ビルヂング店 グルメ・レストラン
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《さるさわ池よしだや》外観…ライトアップされた看板
奈良での宿泊先は、「猿沢池」東湖畔に佇む、創業が明治元年(1868年)、今年で創業150年を迎える老舗の「さるさわ池よしだや」です。さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》外観…夜間撮影したよしだや
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》外観…夜間撮影したよしだや
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》外観…昼間撮影したよしだや
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…入口を入るとせんとくんもがお出迎え
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…入口を入ると仏頭がお出迎え
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…入口付近にある鹿の角
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…入口付近にある瓦
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント付近
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント付近
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント付近にあるアメニティーグッズ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント付近にある絵画
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…フロント付近にある仏像
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…ロビー・ラウンジ付近
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…ロビー・ラウンジ
チェックインはフロントでするのかと思いきや「ロビー・ラウンジ」に案内され、ソファに掛けながらのチェックインです。さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…ロビー・ラウンジ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…貸切風呂「塔の湯」、貸切風呂の湯船の中から見える景色は空と五重塔だけだそうです。
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…貸切風呂「塔の湯」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…貸切風呂「塔の湯」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…湯屋へ通じる渡り廊下
お風呂は1階にあります。ロビー・ラウンジを抜け、風情ある中庭のある石畳みの渡り廊下の先にあります。石畳みの渡り廊下の先には暖簾がかかっていて、男性浴場は「あおがき」、女性浴場は「かぎろひ」と描かれていました。さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》館内…湯屋入口、男性浴場「あおがき」、女性浴場「かぎろひ」お風呂に行く際には、部屋に備え付けのバスタオルとフェイスタオルを持って行きます。
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…テーブルセッティング
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…本日の献立
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…七種盛りと本日の献立
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…七種盛り:ほうれん草とエノキのごま和え、柚子風味柿松葉、絞り紫芋きんとん、鮒甘露煮、イチョウ南瓜、サーモン黄味寿司、むかご真丈
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…日本酒「春鹿」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…日本酒「春鹿」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…造り:鮪、鯛昆布じめ、紋甲イカと日本酒「春鹿」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…造り:鮪、鯛昆布じめ、紋甲イカと日本酒「春鹿」
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…椀物:かぼちゃのすり流し
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…椀物:かぼちゃのすり流し
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…蒸物:蓮根まんじゅうそばの実あんかけ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…蒸物:蓮根まんじゅうそばの実あんかけ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…焼物:秋刀魚の柚香杉板焼
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…焼物:秋刀魚の柚香杉板焼
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…焼物:秋刀魚の柚香杉板焼
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…揚物:海老のカダイフ揚げ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…揚物:海老のカダイフ揚げ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…御飯:きのこの釜めし
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…吸物:海老芋もみじ、 三ツ葉、香物…奈良漬、金山寺味噌
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…酢物:合鴨と林檎のサラダ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…吸物:海老芋もみじ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…酢物:合鴨と林檎のサラダ
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…甘味:栗のプリン、いちじくのコンポート
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…甘味:いちじくのコンポート
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて夕食…甘味:栗のプリン
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…ロースハム
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…ひじきの煮物
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…焼魚、のり、温玉
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…湯豆腐
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…かまど炊きごはんとお味噌汁
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…かまど炊きごはん
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…ほうじ茶粥
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》寧楽にて朝食…湯豆腐
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》昔ながらのかまどで炊いた、おこげが香ばしいホクホクかまどごはん
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》昔ながらのかまどで炊いた、おこげが香ばしいホクホクかまどごはん
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》タイルの洗面台
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《さるさわ池よしだや》タイルの洗面台
さるさわ池 よしだや 宿・ホテル
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《中谷堂》外観
中谷堂」は、「高速餅つき」によるできたての「蓬餅」や手焼き煎餅なども販売しているお店です。「中谷堂」の餅つきは決してパフォーマンスでなく、店主の生まれ故郷の奈良県南部の冬はとても寒い上北山村で生まれ育ちました。その寒い上北山村の中でも小橡地区では、搗つき始めてからどんどんテンポを上げていく早い餅つきが行われているそうです。中谷堂 グルメ・レストラン
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《中谷堂》外観
中谷堂 グルメ・レストラン
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《中谷堂》テレビ取材風景
ラッキーなことに早朝からテレビ取材があり、やわらかくて、こしのある美味しい蓬餅を食べられました。中谷堂 グルメ・レストラン
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《中谷堂》テレビ取材風景
中谷堂 グルメ・レストラン
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《唐招提寺》南大門付近の史跡碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》南大門付近の境内図
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》世界遺産記念碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》世界遺産記念碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂
「金堂」は、創建当時の8世紀後半の姿を残す代表的な建築物です。「金堂」の外観で目を奪われるのは、正面に並ぶ8本の柱です。これらの柱により、光と影の美しいコントラストを演出しています。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂
建築様式は、正面間口七間、奥行き四間の寄棟造・本瓦葺です。堂内には、いずれも国宝である中央に本尊の「盧舎那仏坐像」、右に「薬師如来立像」、左に「千手観音立像」が並んでいます。本尊の「盧舎那仏坐像」は、高さが3mを超え、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像です。奈良時代に盛んに用いられた「脱活乾漆造」という方法で造られ、背後の光背の化仏の数は、862体ありますが、本来は1000体であったといわれています。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂付近の紅葉
本尊「盧舎那仏坐像」に向かって右側に安置されている「薬師如来立像」は、高さが3.36mあり、平安時代初期に造られたそうです。本尊「盧舎那仏坐像」に向かって左側に安置されているのは、「千手観音立像」で、高さが5.36mの最古最大の立像です。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕があるそうです。その他、「持国天立像」、「増長天立像」、「広目天立像」、「多聞天立像」の「四天王立像」と「梵天・帝釈天立像」もあります。身につけている装飾品や表情をみると興味深いものになります。また、「金堂」の屋根に上げられていた2体の鴟尾のうち、西側が天平時代、東は鎌倉時代の作だそうです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》講堂
「講堂」は、「平城宮」の「東朝集殿」を移築・改造したもので、現在では「講堂」は、平城宮の面影をとどめる唯一の「平城宮」の建物で、開放的な空間となっています。「講堂」は、移築・改造したときに、切妻造から入母屋造・本瓦葺にし、天井を張り、窓や出入口などを設けています。堂内には、重要文化財で、鎌倉時代に制作された御本尊の「弥勒如来坐像」や重要文化財で、奈良時代に制作された「持国天立像」、「増長天立像」などが安置されています。御本尊の「弥勒如来坐像」は、高さが2.84mあり、構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情が特徴です。それと屋根の瓦には「唐招提寺」と刻まれていたのが印象的です。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂付近
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂付近
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》金堂付近
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》礼堂
南北に細長い建物が国の重要文化財に指定されている「礼堂」です。「礼堂」は、鎌倉時代に建立された木造りの入母屋造り、本瓦葺の建物です。「礼堂」は、南北19間の細長い建物の南側8間が「礼堂」です。北側10間が「東室」、その間の1間は、「馬道」と呼ばれる通路になっています。「礼堂」は、隣の「鼓楼」に安置された「仏舎利」を礼拝するための堂で、内部に重要文化財の「釈迦如来立像」、同じく重要文化財の「日供舎利塔」を安置しています。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》礼堂
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》礼堂の屋根の瓦に施されている唐招提寺名
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》経蔵
「経蔵」は、「唐招提寺」ができる前の「新田部親王邸」の米倉を改造したものといわれ、「唐招提寺」で最も古い建造物であり、「東大寺」の「正倉院」より古い日本最古の校倉です。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》宝蔵
「宝蔵」も寄棟造り、本瓦葺きの建物で、「唐招提寺」の創建にあわせて建立されたといわれ、「経蔵」より一回り大きなたてものです。「経蔵」と「宝蔵」は御汝ように見え、区別がつきませんが、大きい方が「宝蔵」と覚えておけば迷うことはありません。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》宝蔵
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》新宝蔵への道案内の矢印
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》新宝蔵の途中の滄海池の紅葉
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》新宝蔵の途中の滄海池の紅葉
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》新宝蔵の途中の滄海池の紅葉
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》北原白秋歌碑
「北原白秋」の歌碑には、「水楢の 柔き嫩葉は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」と刻まれています。「北原白秋」は、昭和12年(1937年)、52歳の時に、糖尿病と腎臓病の合併症による眼底出血で、その視力をほとんど失ってしまいます。この歌は「芭蕉の句」である「若葉して おん目のしずく ぬぐはばや」をもとに、自分の眼のことも詠んでいるのかもしれないということです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》北原白秋歌碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》北原白秋歌碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》北原白秋歌碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》御影堂
「御影堂」は、境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした建物です。「御影堂」は、元々は興福寺」の別当坊だった「一乗院宸殿」の遺構で、1649(慶安2)年に建立されました。明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964年)に移築復元したものです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》御影堂
「鑑真和上坐像」は、高さが80.1cmで、日本最古の肖像彫刻で、天平時代を代表する彫刻です。そして、「鑑真和上坐像」は、肖像彫刻としては異例の目を閉じた形です。「鑑真和上」の不屈の精神まで感じさせる傑作です。ちなみに、「脱活乾漆」は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞となります。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》御影堂
御影堂内の襖絵は、日本を代表する画家「東山魁夷」が、10年を超える歳月をかけ、「鑑真和上」に捧げた大作です。日本の風土をテーマとして、「山雲」、「濤声」、それと墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風」、「黄山暁雲」、「桂林月宵」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光」も「東山魁夷」の作によるものです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》御影堂の説明板
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の風情ある弊
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
「鑑真和上御廟」は、もちろん字の如く「鑑真和上」の墓所ですが、もう一つ見るべきポイントがあります。それは「鑑真和上御廟」の門を潜ると、目の前にモスグリーンの世界が広がってきます。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟の苔むす庭
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟
「鑑真和上御廟」は、小高い方墳上の土壇の上に、鎌倉時代後期の高さ2.5mの宝篋印塔が立っています。「鑑真和上御廟」の前に立つとそこには、「鑑真和上」の故郷である揚州から贈られた、ガクアジサイに似た白い可憐な花を4月から5月頃に咲かせる瓊花が植えられていました。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟にある趙樸初居士之碑
「趙樸初」は、中国の著名な仏教指導者で、日中仏教文化の交流に貢献しました。そして、「唐招提寺」の「鑑真和上」の墓地に石碑を建てた初のケースだそうです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟にある趙樸初居士之碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟にある趙樸初居士之碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟にある趙樸初居士之碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鑑真和上御廟にある趙樸初居士之碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》法花院の山門
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》法花院の山門
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》紅葉風景
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》紅葉風景
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》紅葉風景
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》紅葉風景
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鐘楼
「鐘楼」は、「金堂」・「講堂」を結ぶ「唐招提寺」の伽藍中心線から見て「礼堂」と対称の場所に位置しています。「鐘楼」に懸かる「梵鐘」は平安時代のものです。12月31日の大晦日には、人間が持つ108の煩悩を清めるため、除夜の鐘が撞かれる。23時頃より「南大門」にて整理券が配布され、抽選で当選した人は、23時40分頃より「鐘楼」にて108組の人が順番に鐘を撞くことができるそうです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鐘楼
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》鐘楼
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》戒壇
「戒壇」は、僧となるための授戒が行われる場所のことです。「戒壇」は創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により「戒壇」は焼失しました。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978年)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》戒壇
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》戒壇の反対側にある竹林
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》会津八一歌碑
歌碑には、「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」と刻まれていました。ちなみに、漢字かな交じり文・現代かな使いで表すと「大寺の 円き柱の 月影を 土にふみつつ ものをこそ思え」となります。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》会津八一歌碑
「会津八一」は、明治14年(1881年)8月1日に新潟市古町通5番町で会津家の次男として生まれました。「会津八一」は、新潟県が生んだ文人・歌人・書家・美術史家で奈良の仏教美術を熱心に研究した人物です。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》会津八一歌碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》松瀬青々句碑
「松瀬青々」とは昭和初期の俳人で、大阪朝日新聞に入社して朝日俳壇の選者をしていた人物です。句碑には、「門を入れば 両に稲田や 招提寺」です。「招提寺」とは「唐招提寺」のことで、門を入ったら両側が田んぼであるという当時の「唐招提寺」の経済状況の窮状が詠われたものだそうです。唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》松瀬青々句碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《唐招提寺》松瀬青々句碑
唐招提寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》與樂門
「薬師寺」は、今からおよそ1300年前の白鳳時代の天武天皇9年(680年)に、「天武天皇」が後の「持統天皇」である皇后の「鵜野讃良皇女」の病気平癒を祈って発願されました。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》與樂門付近
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》世界遺産記念碑
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》不動堂
「不動堂」は白鳳伽藍北西端に建立されています。「不動堂」には本尊である「不動明王」(平安時代作)、「修験道」の祖とされる「役行者」、「神変大菩薩」、山嶽仏教である修験道の本尊である「蔵王権現」などを祀っています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》不動堂
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》不動堂
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》西僧坊
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》食堂
「食堂」は、天平2年(730年)頃に建てられ、文字通り僧侶が定められた時間に食事をとるための建物です。創建当初の「食堂」の規模は「東大寺」、「大安寺」に次ぐ大きさで約300人が一堂に会する規模だったそうです。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊
現在は参拝者の休憩所となっています。「薬師寺」のお土産もここで販売しています。「東僧坊」で有名なのは、国宝「薬師三尊像」の「薬師如来」が座っておられる「台座」の文様のレプリカが見られることです。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊内「薬師如来坐像台座模型」
異国風の人物像、青龍、白虎、朱雀、玄武などの四神が描かれていました。本薬師寺跡 名所・史跡
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《薬師寺》東僧坊内「薬師如来坐像台座模型」説明板
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊内「薬師如来坐像台座模型」
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊内「薬師如来坐像台座模型」
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊内「薬師如来坐像台座模型」
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東僧坊内
本薬師寺跡 名所・史跡
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《薬師寺》東僧坊内
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》聚寶館
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》大講堂
奈良時代の寺院では修学道場である「講堂」が建てられ、僧侶は集まって仏教の教義について学びました。「薬師寺」では、その大きさから「大講堂」と呼ばれています。「大講堂」は正面が41m、奥行が20m、高さが約17mあり伽藍最大の建造物です。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》大講堂
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》大講堂
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》大講堂
本薬師寺跡 名所・史跡
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《薬師寺》大講堂縁起
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》鐘楼
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》鐘楼
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東塔
「東塔は」、天平2年(730年)の奈良時代前期に建てられたといわれています。「薬師寺」の1300年の歴史のなかで唯一現存する奈良時代そして平城京最古の建造物です。「東塔」には屋根が6つあり一見すると六重に見えますが「三重塔」で、各階に「裳階」をつけ、大小の屋根のリズム感をつくっています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東塔
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》西塔
「西塔」は、室町時代後期の享禄の兵火(1528年)により焼失し、宮大工「西岡常一」棟梁の指導により、昭和56年(1981年)に再建されたものです。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》西塔
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》金堂
「金堂」は、「薬師寺」の「白鳳伽藍」の中心部に東西の塔や大講堂などに囲まれる形でそびえ立つ大規模な仏堂です。大きさこそ「大講堂」には及びませんが、正面の長さが約27m、奥行が約16m、高さは約20mというスケールで「金堂」という名にふさわしい佇まいになっています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》金堂
「金堂」が建立された歴史は古く、奈良時代に「薬師寺」が創建された時代からあったものだといわれています。その建築様式は、二重二閣、五面四間、瓦葺、そして美しい「裳階」を設け、美麗なその美しい佇まいは「竜宮造り」と呼ばれていました。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門
「薬師寺」の「中門」は、「薬師寺白鳳伽藍」の南端に設けられた門で、「薬師寺」の境内では最大級の門です。現在の「中門」は、昭和59年(1984年) 10月に再建されたもので、門の両側に「回廊」が延びています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門と東塔
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門と西塔
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門「二天王像」
「薬師寺」の「二天王像」も、怒りの表情を顕わにした開口の「阿形像」と、怒りを内に秘めた表情の口を結んだ「吽形像」です。「二天王像」の足元に注目してください。ここで見逃してはならないのが、「二天王像」に踏みつけられている邪鬼がいます。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門「二天王像」
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門「二天王像」
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門、手水舎、西塔
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門廻廊
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》中門廻廊
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》手水舎
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》手水舎
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》手水舎
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》弁財天社
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》平木大明神社
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》若宮社
「若宮社」は「大津皇子」を御祭神として祀っています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》若宮社
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》龍王社
「龍王社」は室町時代に造られたとされる「大津皇子坐像」を安置しています。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》龍王社
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東院堂
「東院堂」は、「長屋王」の正妃である「吉備内親王」が母の「元明天皇」の冥福のために、養老年間(717年~724年)に建立しました。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東院堂
現在の建物は弘安8年(1285年)に正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、内部は畳敷きで、南向きで再建されましたが、享保18年(1733年)に西向きに変えられました。仏教が日本に伝来した当時は、門は南にあり、建物も南向きでしたが、平安時代以降の阿弥陀仏信仰により、西向きに建てられることが多くなったそうです。薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東院堂
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》東院堂縁起
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》境内図
本薬師寺跡 名所・史跡
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《薬師寺》津八一歌碑
薬師寺 寺・神社・教会
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《薬師寺》佐佐木信綱 歌碑
本薬師寺跡 名所・史跡
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《奈良町豆腐庵こんどう》外観
「奈良町豆腐庵こんどう」は、地元の「近藤?腐店」が営む?腐料理店です。料理もさることながら、何と言っても素晴らしいのは、登録有形?化財に指定された趣のある築180年の町屋を保存しながら店舗として利用している点でしょう。ランチメニューには、「?楽ランチ」、「湯豆腐ランチ」そして「奈良町ランチ」の三種類がありました。その他、今の季節にはありませんが、夏季限定「おぼろまぜ黒そば(おから入りそば)」もあるそうです。奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》外観
この町家は「河瀬直美」監督作品の「沙羅双樹」(2003年)の映画ロケ地に使?されたそうです。奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》外観
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》外観
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》テーブルセッティング
私と家内は「?楽ランチ」、娘は「湯豆腐ランチ」を注文しました。最初に出てきたのは「豆乳」です。「豆乳」はあまり美味しいというイメージはありませんでしたが、甘みがありすっきりしていました。次が、「厚揚げ」で、表面はカラッとしていて中は茶碗蒸しのような食感でした。そして、次が国産??100%の「おぼろ?腐」です。??本来の?、?、味を生かし、?どけが良く、また?べたくなるお?腐でした。次が「田楽」で、味噌も苦みや辛みもなくペロリと食べてしまいました。次が、お膳ものです。野菜の煮物、おからなど彩り豊かでした。そして、最後がデザートの「豆乳付きアイス」でした。どれもこれも美味しく、100点満点のランチでした。奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》湯葉
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》厚揚げ
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》厚揚げ
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》田楽定食
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》田楽定食…田楽
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《《奈良町豆腐庵こんどう》田楽定食奈良町豆腐庵こんどう》田楽定食
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》ランチメニュー
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》中庭
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》中庭
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《奈良町豆腐庵こんどう》中庭
奈良町豆腐庵 こんどう グルメ・レストラン
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《御霊神社》末社…若宮社
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》末社…若宮社
末社の「若宮社」は、御祭神は「菅原道真」です。御神徳は、学業成就・病気平癒・諸道上達などです。一般的に「天神」とは「菅原道真」を御祭神として祀る神社のことです。本来は、無実の罪に問われ亡くなった「菅原道真」の怒りを鎮め、混乱を回復しようとする御霊信仰が始まりでした。天変の神、農耕の神、無実の罪を晴らす神とさまざまな神として信仰され、江戸時代に入ると学問の神として寺子屋や藩校などで祀られたそうです。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》鳥居付近
「御霊神社」は、平安時代初期の延暦19年(800年)に第50代「桓武天皇」の勅命により創祀された勅願社です。奈良時代の宝亀3年(772年)に天皇を呪詛したという無実の罪をかけられ幽閉された後に亡くなった「井上内親王」と皇太子の「他戸親王」を慰霊し、奈良町74町の広範囲の氏子領域を持つ氏神様として「本殿」でおまつりしています。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》鳥居付近…鳥居の扁額
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》鳥居付近…御霊神社の説明板
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》鳥居付近…由緒板
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》山門付近…狛犬
「南門」の両脇に立つ「狛犬」の足元には「狛犬の足止め祈願」とし、子供が家に落ち着きますようにとのおまじないや縁結び、商売繁盛などを願って参拝に来た人々によって赤い紐が結ばれています。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》山門付近…狛犬
江戸時代から伝えられる願掛けの方法で、家出人や悪所通いの足が止まりますようにとの願いや、「ならまち」では子どもたちが神隠しにあわないようにと狛犬の足に紐を結んでいました。最近では「恋人とこれからも一緒にいられますように」、「客足が遠のきませんように」などの願いが込められるようにもなり、多くの人々がお参りの際に紐を結んでおられます。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》山門付近…狛犬
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》山門付近…狛犬の足止め祈願説明板
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》手水舎
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》社殿付近
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》社殿付近…扁額
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》社殿付近
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》社殿付近…御朱印受付所と社務所
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》本殿付近
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》末社…祓戸社と出世稲荷社
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》末社…祓戸社
末社の「祓戸社」は、お祓いを司る神様で、心身を清めるお社です。先ずここにお参りしてから「本殿」にお参するのがお薦めだそうです。御祭神は、「市杵島比賣神」、「瀬織津比賣神」、「速秋津比賣神」、「伊吹戸主神」、「速佐須良比賣神」です。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》末社…出世稲荷社
御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》末社…出世稲荷社
末社の「出世稲荷社」は、農民の子から天下人になった「豊臣秀吉」が篤く信仰した神様で、願掛けすると恋が実ると言われています。その歴史を紐解いてみると、末社の「出世稲荷社」は、「豊臣秀吉」が天正15年(1587年)に、聚楽第の造営のときに、邸内に「稲荷神社」を勧請しました。その翌年に「後陽成天皇」が聚楽第に行幸し、「稲荷神社」に参拝した時に立身出世を遂げた「豊臣秀吉」にちなんで「出世」の称号を授けたといわれています。そして、末社の「出世稲荷社」は、昭和27年(1952年)に京都の「出世稲荷神社」より御分霊をいただきお祀りしたものです。「御祭神」は、「大己貴命」、「稲倉魂命」、「猿田彦命」、「天鈿女命」、「保食命」で、御神徳は、開運出世・縁結び・五穀豊穣・商売繁盛・諸芸上達・夫婦円満・交通安全・武運長久・ 病気平癒です。御霊神社 寺・神社・教会
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《御霊神社》由緒板
御霊神社 寺・神社・教会
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《元興寺塔跡》
「元興寺塔跡」は、門前に「史跡元興寺塔跡」の石碑があり、周囲は民家に囲まれています。拝観に訪れた日は、前年ながら山門が閉まっていて中に入ることができませんでした。境内には仮堂と塔跡があるそうです。「元興寺塔」は、江戸時代の末期の安政6年(1859年)に焼失し、現在は基壇と礎石を残すのみですが、その規模の大きさから、約51mある「興福寺」の「五重塔」をしのぐ高い塔が立っていわれています。今は見る影もなく寂しいですが、実際は57mの高さがあったそうです。「塔跡」から出土した「元興寺塔跡土壇出土品」と「薬師如来立像」(国宝)は、「奈良国立博物館」に寄託されているそうです。元興寺塔跡 名所・史跡
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《元興寺塔跡》
元興寺塔跡 名所・史跡
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《元興寺塔跡》元興寺と奈良町の説明板
元興寺塔跡 名所・史跡
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《元興寺塔跡》山門付近
元興寺塔跡 名所・史跡
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《元興寺塔跡》山門の扁額
元興寺塔跡 名所・史跡
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《元興寺》入口付近の世界遺産碑
「元興寺」は「蘇我馬子」が建立したといわれる日本最古の寺院で、甥にあたる「崇峻天皇」が即位した際に創建された日本最初の本格的伽藍である「法興寺」(飛鳥寺)がその前身です。この「法興寺」が平城京の遷都に伴い養老2年(718年)に現在の地に移され、「元興寺」と改められました。奈良時代の「元興寺」は、「東大寺」、「興福寺」と並んで隆盛を誇り、「南都七大寺」の一つとして現在「ならまち」と呼ばれる界隈の大半を含む広大な寺院でした。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》入口付近の世界遺産碑
平安時代以降は衰退・縮小が進み、現在は、僧坊遺構の国宝である「極楽堂」と「禅室」を残すのみとなっています。「極楽堂」と「禅室」には建立以前の柱や瓦が今もなお一部に使われています。「禅室」は天平時代の僧坊の形をとどめる貴重な遺構です。「法輪館」には「五重小塔」(国宝)や「聖徳太子立像」(重要文化財)等を安置しています。また、石塔、石佛群である「浮図田」は、昭和63年(1988年)に整備され、「興福寺大乗院門跡墓所」に関連して祀られた、中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されています。毎年 8月23日、24日には「地蔵会万灯供養」として灯明皿による総供養がなされます。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》入口付近の旧肘塚不動堂石造物と紅葉
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》入口付近の寺名の石柱
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》東門
重要文化財に指定されている「東門」は、「元興寺極楽坊」の正門として、鎌倉時代に建立された「東大寺西南院四脚門」を移設したものです。「東門」の建築様式は、伝統的な「四脚門」と呼ばれる6本の柱から成り立ち、切妻造の本瓦葺が使われています。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》入口付近の世界遺産碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》極楽堂(本堂)
「元興寺極楽堂」は、奈良時代までは僧侶の住居である「僧房」でした。鎌倉時代に入ると、「僧坊」の3房(室)分を4方向に屋根を持つ寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造が行われました。また、一般的な寺院と違うのは、約1,400年前の飛鳥時代から現在まで引き継がれている極楽浄土を描いた「智光曼荼羅」が御本尊がとなっていることです。「元興寺極楽堂」は、南都における浄土教発祥の聖地として、昔から有名な堂宇です。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》極楽堂(本堂)
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》極楽堂(本堂)と禅室
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》極楽堂(本堂)を外から撮影
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》禅室
「元興寺禅室」は、「僧坊」の4房(室)分を寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造したものです。「元興寺禅室」は、中世には、経典を納めていた「影向間」だったので「春日影向堂」とも呼ばれていました。近世には、「客殿」、近代には「学校舎」にも使われてきました。南西1間は「影向間」・「須弥壇」・「宮殿厨子」、北西1間は中世「僧房」として使われています。「元興寺本堂」と同様に屋根の一部に飛鳥時代の瓦が使用されています。ちなみに、「極楽堂」の西南隅、「禅室」の南東隅の屋根瓦は、一般の本瓦と違い古代の軒平瓦である「古式瓦」が残っています。文字通り、日本最古の屋根瓦が今もなお使われているが使われている訳です。「浮図田」の一番奥の付近から見るとよく分かるので、そこでその瓦の色にも注目してください。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》禅室
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》旧講堂礎石
「法輪館」の入口手前にある3基の礎石「旧講堂礎石」です。この「礎石」は、平成10年(1998年)に奈良市教育委員会が中新屋町で発掘調査を行った際に発見したものだそうです。「礎石」は、柱を据えて建物を支持するための石材で、「講堂」に使用されていたものと考えられています。いずれの「礎石」も上面に直径80 cm~90cmほどの「柱座」と呼ぶ造り出し(突出部)を持ちます。「柱座」は、柱を据える都合上、当然柱径より大きくなります。それから考えると、礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、目をつぶりその光景を想像してみると「講堂」がいかに立派なものであったかを分かりますね。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》旧講堂礎石と説明板
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》旧講堂礎石
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》法輪館
「法輪館」は、「第一収蔵庫」と「第二収蔵庫」からなります。「法輪館」の主な展示は「第一収蔵庫」に、国宝の「五重小塔」、重要文化財の「木造阿弥陀如来坐像」、重要文化財の「木造聖徳太子立像」(十六才孝養像)、重要文化財である「木造弘法大師坐像」、極楽浄土を描いた重要文化財の「智光曼荼羅」(板絵)、奈良県指定文化財の「木造南無佛太子像」(聖徳太子二才像)などがあります。「第二収蔵庫」には、鎌倉・室町時代の重要有形民俗文化財に指定されている「元興寺庶民信仰資料」が収蔵されています。この中でも特に印象に残ったのは、国宝の「五重小塔」です。「五重小塔」は、「光明皇后」の発願により建立された「元興寺西小塔堂」に安置されていました。残念ながら中に入れるサイズではありませんが、手作業によって繊細かつ忠実に表現された彫刻や色彩が美しく、内部まで実際の建築物のように造られていました。そして、現存する奈良時代盛期の五重塔としては唯一のものとして有名です。「極楽堂」の床を落として収蔵していたといわれています。それと重要文化財の「木造聖徳太子立像」(十六才孝養像) は、「聖徳太子」が16歳の時に、父「用明天皇」の病気平癒を祈る姿も献身的な感じがあり印象に残りました。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》法輪館
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》法輪館
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》旧講堂礎石
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》法輪館
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」と「獅子国型仏足石」
「浮図田」は、昭和63年(1988年)に整備され、「興福寺大乗院門跡墓所」に関連して祀られた中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されています。そして、もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」です。実際に私もこのようにたくさん並べられた「五輪塔」を見るのは初めてでした。「五輪塔」は密教の教義をもとに造りだされた塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、「大日如来」と「阿弥陀如来」を塔の形で表したものだそうです。毎年 8月23日、24日には「地蔵会万灯供養」として灯明皿による総供養がなされます。ちなみに「浮図」とは仏陀のことであり、「浮図田」とは、文字通り仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味です。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」と「獅子国型仏足石」
「浮図田」の正面には、75㎝四方、厚さが15cmの「庵治石」に刻まれた「佛足石」が据えられています。「庵治石」は、香川県高松市東部の庵治町・牟礼町でのみ産出される高級石材です。「佛足石」は、古代インド仏教圏で仏像がない時代の仏陀そのものを象徴するものでした。「佛足石」、生きた釈迦の両足尊として信仰されたそうです。本来、信者は足跡を両手で仰ぎ、頭を付け礼拝したといいます。手を触れるだけでも有難い功徳があると信じられてきたそうです。その他、「浮図田」の付近には、「家形石棺型手水鉢」、「極楽坊保育園発祥の碑」、「影向桜」などもありました。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」付近にある家形石棺型手水鉢
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」付近にある家形石棺型手水鉢
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」付近にある極楽坊保育園発祥の碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」付近にある極楽坊保育園発祥の碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》「浮図田」付近にある石碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》かえる石
「禅室」の裏手を回り「北門」を過ぎたあたりに「かえる石」と「丘本風彦句碑」が並んであります。この「元興寺」の境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で「かえる石」と呼ばれています。この「かえる石」は、もと河内の川縁にあった殺生石を、「豊臣秀吉」が気に入り、大坂城内に移したものだといわれています。また、大阪城落城の際に、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたとされ、そのために淀君の怨念がこの石に籠もったともいわれています。そして、昭和33年(1958年)に「元興寺」に安置され、「福かえる」や「無事かえる」の語呂合わせで、「元興寺」の縁起物となったそうです。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》かえる石の説明板
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》かえる石
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》丘本風彦句碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》丘本風彦句碑
元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》万葉歌碑
かえる石」をさらに進むと突き当りに塀があります。そこに「杉本健吉」の書による「万葉歌碑」があります。白いペンキで見やすいようになっている「万葉歌碑」には、「白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾れし知れらば知らずともよ志」と刻まれています。この歌は天平10年(738年)に詠まれたものです。この歌の訳は、「白玉はその真価を人に知られない。しかし、知らなくてもよい。人知らずとも、自分さえ価値を知っていたら、知らなくてもよい。」ということだそうです。元興寺 寺・神社・教会
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《元興寺》さくらの木
元興寺 寺・神社・教会
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