2021/07/09 - 2021/07/12
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しにあの旅人さん
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「元祖4トラベラー聖武天皇1、恭仁京はコスモスの原っぱ」の続きです。
参考、引用した資料は「六国史の旅 元祖4トラベラー聖武天皇1」に列挙しました。
引用に際しては僭越ながら敬称を省かせていただきます。今回も引用は主に続日本紀です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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続日本紀天平13年(741年)春正月1日、
★天皇が初めて恭仁宮において朝賀を受けられた。宮の垣がまだ完成していないので、帷張を引き回らせて垣のかわりとした。★
垣どころじゃなくて、大極殿もなにもないので、幔幕の中で寒々と式をやったということです。
★この日、五位以上の官人に内裏で宴を催され、地位に応じて録を賜った。★
内裏って、なんだろう。そんなものができていたのか。
この日は西暦だと1月26日、いちばん寒いころ。
天平12年の五位以上の貴族は96人だそうです。
「奈良朝貴族の人数変化について」(持田泰彦、PDF、1978年、P28)
スタッフも含めると数百人のオーダーだと思いますが、これもまた幔幕を張った野っ原でやったのでしょうね。この時代、大規模な儀式や宴会が屋外だったのは普通ですが、野っ原ということはない。朝早いと、霜柱なんか立っていますよ。前の日雨だったら水溜まりもあって、どろどろ。
木津川をわたった冷たい風がぴゅーっと吹いて、「あーやだやだ」と思った貴族も多かったでしょう。
96人はどこに泊まったのか。
翌年の記事ですが、
天平14年(742年)正月16日、
★住む家が恭仁の大宮の敷地内に入った人民20人に、位1階を賜った。都内(京内)にはいったものには、男女を問わず皆、物を賜った。★
20軒の民家を接収していたことが分かります。ここに泊まったか。恭仁京内の民家も接収している。農家でしょう。このあたりに雑魚寝?
若い貴族は日帰り?馬をとばしてくれば平城京から1時間、式次第によっては往復できなくはない。埃まみれで式と宴会に出ることになります。
恭仁京、紫香楽京遷都は非常に評判が悪かったのですが、こうやって続日本紀をよく読んでみると、そりゃそうだなと思います。
みんな、そんな田舎に行きたくない。
大変な詔が出ています。
天平13年(741年)3月15日、
★今後五位以上の者は、勝手に平城京にとどまってはいけない。(中略)現在平城京にいる者は、今月のうちに全部恭仁京に行くように促して出発させよ。これ以外の場所に散在している者も急いで召還せよ。★
なにがなんでも恭仁京に住まわせる気です。つまりそうしないと誰も来ないほど評判が悪かった。
天平14年(742年)春正月1日、
★すべての官人が朝賀した。大極殿がまだ完成していないため、仮に四阿殿(あずまやどの)を造り、天皇はここで朝賀を受けた。★
四阿殿とは、現代語訳続日本紀注によれば、四柱で壁のない吹き抜けの建物だそうです。
この年は内裏の宴はなし。昨年の評判悪くてさすがの聖武さんも懲りて諦めた、ンなことはない。
正月7日、
★天皇は恭仁宮の北の苑に行幸し、五位以上のものに宴会させ、地位に応じて録を賜った。★
懲りてない!
でも1年たっているので、高級貴族の屋敷はかなりできていたのではないか。 -
天平14年正月16日、
★天皇は大安殿に出御し臣下たちと宴会された。★
2月1日、
★天皇は皇后宮に行幸し、臣下たちと宴会をされた。★
天皇は大変ご機嫌がよかったそうです。
大安殿、皇后宮も天皇のプライベート部分、内裏です。
内裏は大極殿より早く完成したということです。 -
私たちがドローンを上げた赤丸地区にあった説明板です。By妻が撮っていた写真です。私はドローンに夢中で、この大事な資料にまったく気づかず、実はこのブログを書き始めて、はじめて知りました。ネット上にはない、By妻が足で稼いだ貴重な情報です。
説明板を全文書き起こします。山城国分寺跡・恭仁京跡 名所・史跡
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「史跡恭仁宮跡 内裏地区
昭和49年度から発掘調査を開始した恭仁宮跡は、平成8年度には宮の範囲(宮の周りを囲う大垣跡を確認)が東西約560m、南北約750mであることがわかりました。
現在地は、天皇が日常生活を送る「内裏」と考えられているところです。平城宮では掘立柱で仕切られた一つの区画でしたが、恭仁宮では東西に区画を分けていることがわかりました。現在はそれを「内裏東地区」「内裏西地区」と名づけ、総称して「内裏地区」と呼んでいます。
「内裏西地区」は掘立柱で四方を囲み、東西約97.9m、南北約127.4mの長方形です。中央に掘立柱建物(SB5303)が確認されています。「内裏東地区」の南と東西の3辺が土を突き固めて盛り上げた築地塀、北が西地区と同様掘立柱塀で囲まれており、東西約109.3m、南北約139.9mの長方形です。こちらには南北に並ぶ2棟の東西庇付建物(SB5501・SB5507)が確認されています。
東西内裏の規模と構造の違い(築地と掘立塀では築地の方が堅固な作り)は明らかで、これは他に例を見ない配置であります。」
私たちは「内裏東地区」のど真ん中でドローンを上げたわけです。 -
西の内裏上空10mから見た大極殿方向です。
-
西の内裏の聖武天皇の目線から見ると、電信柱の左、写真中央がほぼ大極殿の中央になるはずです。
-
これは平城宮の大極殿、南正面です。これの北側が見えたはず。恭仁宮大極殿は、平城京の大極殿を移築したものですから、まさにこれがこの位置にそびえたっておりました。
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大極殿から西の内裏を見て見ます。中央の石碑が大極殿あと中央です。
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この石碑、枯れた木立の向こうに、内裏の掘立塀がありました。大極殿院回廊がありましたので、見えなかったかもしれません。
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一方東の内裏は、きわめて大ざっぱですが、こんな感じで右端の林の北にあったことになります。
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大極殿側から見ると、左現在の国分寺跡の石碑の彼方に築地塀があった。端の林に塀の西端がかかる位置です。当時はこんな林は当然ありません。
東西二つの内裏があったというのが不思議。東の塀が頑丈だったので、こちらが天皇の内裏でしょうか。
皇后宮が別になっている。光明皇后は別居していたことになります。それはまあ、しかたがなくて、天皇には皇后以外にいっぱい側室がいましたから、皇后が同居するわけにはいかない。ひょっとして、西の内裏が皇后宮かな。
4月20日にも皇后宮に行っています。妻に会いに行くと歴史に残るのかよ、大げさなこと。え!ということは3ヵ月に2回しか皇后に会っていないの?
光明皇后、さみしかったでしょうね。701年生まれですから、41才です。聖武天皇と同い年だ。何を言いたいかって?何をって、夫にほっておかれたわけですよ〜。この時代の天皇と皇后の夫婦関係って、こんなものなのか。
一書に曰く、
光明皇后の筆跡を見たことがあります。
その名前と残されたエピソード、悲田院、施薬院をつくったということから、優しい女性らしい人というイメージがありましたが、なかなか雄渾な筆跡でございました。
わたくしは、昔、継母にするなら、どの人が良い?という、ほとんど何の意味もないクイズというかアンケートというか、質問にこっていた時期がありました。
1吉永小百合 2和田アキ子 3樹木希林
答えは無いのですが、なんとなく答える人の性格が分かるような気がしておりました。
で、光明皇后は、吉永小百合だと思っていたら、実は和田アキ子みたいな字を書くのですよ。でも、転々と都を変えたり、大仏を作って、大浪費する夫をじっと傍らで離婚もせずに添い遂げたところは、樹木希林かもと思う今日この頃でございます。
By妻 -
天平14年8月10日、
★天皇は詔して、造宮録(さかん)・正八位下の秦下嶋麻呂に従四位下を授け、太秦公の氏姓と銭百貫・あしぎぬ百疋・麻布二百端・真綿二百屯を賜った。恭仁の大宮の垣を築造したからである。★
宮を囲む垣が完成しました。その造営責任者に大変なご褒美をあげています。正八位下から従四位下というと10階級以上の昇任ということになります。五位以上が高級貴族です。しがない下級役人の秦下嶋麻呂さんは、一気に高級貴族になりました。
聖武天皇は、垣ができて何が嬉しかったのか。不思議。 -
できたあ!
くにのみや学習館の説明パネルより。山を背負っているので、平城京と同じ大極殿でも恭仁宮ということです。
天平15年(743年)正月3日、
★天皇は大極殿に出御して、百官の朝賀を受けられた。★
この日までに、大極殿は組み立てられていたのです。2年でよくもまあ、移築できたものです。現場の、古代の職人さん、ブラボー!
でも、
天平13年9月9日、
★宮の造営にあてるために、大養徳(やまと)・河内・摂津・山城の四カ国の役夫5500人を徴発した。★
この5500人の待遇は不明。エジプトの古代ピラミッドは奴隷をこきつかったのではなく、高い給料を払った高級労働者が作ったというのが定説になったそうです。私も、常識的に考えて、こういうものは、高い報酬でやる気十分な労働力を使ったほうが、安く早くできると思うのですが。
9月12日、
★恭仁京の人民に宅地を分け与えた。★
こうでもしないと住民が増えなかったのでしょう。役夫5500人も家をもらえたのではないかな。
11月21日、みやこの呼び名が正式に決まりました。「大養徳恭仁大宮(やまとの・くにの・おおみや)」となりました。
天平15年有名な阿倍内親王の五節の舞があります。これが平城京ではなくて、恭仁京だったというのは知らなかった。
天平15年(743年)5月5日、
★群臣を内裏に召して宴を催された。皇太子(阿倍内親王)は自ら五節の舞を行われた。★
阿倍内親王、のちの孝謙天皇です。718年生まれですから、このとき25才。私は10才くらいの女の子が可愛く舞ったと思っていました。
婉孌の皇太子華麗に舞う、くらいのことを書けばいいものを、続日本紀は沈黙。下手だったのかもしれない。婉孌でなかったのか。
このあと5月27日、日本史にも出てくる「墾田永年私財法」もここで発布されています。恭仁京の絶頂期でしょう。
入試問題、
「( )年、( )京にて、墾田永年私財法が発布された」
( )京に「平城」と書かせる引っかけ問題です。これくらいじゃ、今日日の受験生は引っかからないか。 -
続日本紀には恭仁京がどんなところか、詳しくは書いてありません。
万葉集は、ちょっとまし。
なんと大伴家持が1首恭仁京について残しています。巻6-1037
★十五年癸未(きび)の秋八月十六日に、内舎人大伴宿禰家持の、久邇の京を讃めて作れる歌一首、
今作る久邇の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし★
△新しく作る久邇の都は、山や川の清らかさを見ると、まことにもここを都として君臨なさることと思われることよ△
天平15年(743年)8月16日というと、もう大極殿移築は終わっている。上記のように恭仁京の絶頂期でした。家持にしてはどーってことない歌で、露骨に聖武天皇へのゴマすりです。
家持25歳。内舎人というと、名門貴族の若者が天皇警護の役で抜擢されることが多いそうです。駆け出し貴族家持、初々しくがんばっております。
家持さん、恭仁京大極殿跡あたりをウロウロしていたんだ。
6-1050から1058まで、田辺福麿(たなべの・さきまろ)の歌があります。彼は中西によれば橘諸兄の詞人(しじん)だそうです。専属歌人のようなものか。以下引用は中西訳万葉集。
1050は長歌で、天皇が山城の鹿背山のほとりに立派な都をお造りになったと褒めあげております。その中で、
「河が近いので瀬の音が清らかに聞こえる、山が近いので鳥々の声がひびく」
木津川と背後の鹿背山に近いので、たしかにそうなる。
家持も山や川がきれいだと言っている。それしか誉めることがなかったのか。
「秋になると、山もとどろくように男鹿は妻を呼んで鳴き」
動物園かよ。
「春になると岡のほとりもいっぱいに岩には花が咲きこぼれ、ああ趣深いことだ。」
なんとまあ、乙女チック。
★鹿背の山木立を繁み朝去らず来鳴きとよもす鶯の声★ 6-1057
△鹿背の山の木立が繁っているので毎朝やって来ては鳴き声をひびかせる鶯の声よ△
★狛山に鳴くほととぎす泉川渡を遠み此所に通はず★ 6-1058
△狛山に鳴くほととぎすは、泉川(木津川)の渡が遠いので此所に通って来ないことよ△
鳥がいっぱいいた。優雅ではありますが、そんなド田舎だという意味でもある。 -
橘諸兄の六角井戸。
ここで恭仁京遷都の仕掛け人について。
お話は遷都前に戻ります。遷都の約7ヵ月前、
天平12年(740年)5月10日、
★(聖武)天皇は右大臣(橘諸兄)の相楽(さがら)の別荘に行幸された。★
平城京帰還は5月12日、11日まる一日滞在しております。
この日恭仁京遷都の話が持ち上がった、と続日本紀の筆者は暗示しております。
このとき諸兄は天皇の信任厚く、右大臣つまり政府首班といったところ。
諸兄は10月29日からの天皇伊勢行幸にも同行しております。この間に2人で恭仁京遷都を具体化する案を練ったのではないか。
天平12年(740年)12月6日、坂田郡横川(よかわ、米原町醒ヶ井付近-訳注)にて、
★この日、右大臣の橘宿禰諸兄は先発した。山背国相楽郡恭仁郷(さと)の地を整備し、遷都の候補地とするためである。★
この日までに天皇は遷都のハラを決めたということです。
恭仁京遷都の仕掛け人は、橘諸兄となります。
前述の田辺福麿の長歌(6-1050)の最後で、
★わが大君は 君がまに 聞かし給ひて さす竹の 大宮此所と 定めけらしも★
△わが大君は君の言葉どおりにお聞きになって、さす竹の大宮所をここに定められたらしいよ。△
と詠われております。中西によれば、「わが大君」は聖武天皇、「君」は福麿の主人つまり橘諸兄であります。天皇は諸兄の進言をいれて恭仁京遷都を行った、と言っております。 -
井出町ホームページより
「聖武天皇の玉井頓宮にあったものと言い伝えられ「公(橘諸兄)の井戸」として語りつがれてきた六角井戸は、石垣地区に現存しています」
一書に曰く、
橘諸兄公の井戸というのは、屋根つきの東屋ふうの建物に護られたもので、現在も使われているそうです。
日本全国、あちらこちらで、弘法の井戸とか、なんとかの井戸とかあります。また、だれそれの産湯の井戸というのも。
フーンと、ながいこと無関心でしたが、ふと考えました。
誰とかが有名だから、その井戸は有名なのだと思っておりましたが、実は逆で、井戸がいいから、有名人とくっつけたのではないか。
そういうふうに言われる井戸は、水量が豊富で、おいしい水とか言われていますよね。
日本は水の国といわれますし、諸外国に比べれば確かにそうなのですが、それでも、やはり飲料に適した水というのは、少なかったのではないでしょうか。
水上勉が、生まれの貧しさを語る文の中に、母親が、金属の澱の浮かんだ田んぼに腰まで浸かって田植えをしていたというのを読んだことがあります。砂鉄の産地だったのだろうかなどと、愚かなわたくしは思っておりました。
生活者としては、快適ではなかった事は、間違いない。
そう言えば昔、井戸の蛇口というのでしょうか、そういうところに、さらしの袋をかぶせているお家がありましたね。袋は金サビで、茶色に染まっていました。
実は、我が家にも井戸はあります。
とても飲むことはできないので、庭の水撒き用にしております。
それが一般的だったのではないでしょうか。
そういうとき、飲料に適した、そのまま飲める清らかな水を出す井戸があったら、それは特別なものになったことでしょう。
もちろんそれは、権力者、金持ちがその権利を所有したに決まってます。
諸兄公の井戸。
なるほどね、これは、橘諸兄の権力の象徴なのですね!
だから、いつまでも名前付きなのです。
ところで、六角井戸と書いてありますよ。
六角?
なにか意味があったのでしょうか。
法隆寺の夢殿は、八角堂だっけ?
ダビデの★は、五角ですね。
一角はユニコーンだし、二角は、落語家だし、二角ではなく、仁鶴でしたか。
△は、、、なんてバカ言ってますが、なぜ六角にしたのか、意味があるのかもしれません。
人名にまでなっていますし。
安倍清明の出番かなあ。
By妻 -
玉井頓宮は、続日本紀にある「右大臣(橘諸兄)の相楽の別荘」ということです。
諸兄が恭仁郷に遷都を勧めたのは簡単な理由です。地元なのです。 -
六角井戸の近くに、橘諸兄の屋敷とされる石碑があります。
一書に曰く、
今となっては、たぶん華麗であっただろう屋敷も、ただの竹林になっておりました。
それが、まことに美しい。
爽やかな風が吹き抜けておりました。
こういう人柄だったかと想像してしまいます。
ただその時代一の権力者の屋敷が簡素なはずは無く、お金を惜しまない贅沢なものだったのではないか。それにいい水もありましたし。
それを見た聖武天皇は、この地に都、宮殿を作りたくなったのではないでしょうか。
フランスでも、フーケのヴォー・ル・ヴィコント城を見たルイ14世がヴェルサイユ宮殿を作った例があります。
フーケは、これで没落してしまいます。まことに男の嫉妬の怖いこと。
さて、諸兄も同様で、やがて藤原仲麻呂に追い落とされてしまいます。
世界中で、似たようなことが繰り返し起こったのですね。
By妻 -
現代でも井手町の有志により完璧に維持されています。
-
諸兄の本拠地から恭仁京大極殿まで山を挟んで直線5.1kmです。
現代の道路で約11km。諸兄はこの地域を熟知しておりました。
聖武天皇は度重なる恭仁郷行幸でこの地が気にいっておりました。何かの理由で平城京に嫌気がさし、恭仁郷に遷都を思いついたとき、諸兄ほどいい相談相手はおりません。
天皇が諸兄邸近くの行宮に行幸してから、決断まで半年以上たっているので、諸兄は当初反対していたのではないか。しかし一度思い立ったら諦めない頑固な聖武天皇を知っている諸兄です。やるなら、できるのは自分しかいないと覚悟を決めて、途中から積極的に遷都案を具体化したのではないかと想像します。
諸兄は清廉潔白な人物であったようです。当代一の文化人で、初期万葉集の編者ともいわれております。大伴家持が兄事しておりました。 -
明日香村の万葉文化会館に展示されていた諸兄の直筆署名です。実にきっちりした楷書です。ただし面白みにかけ、融通が利かなそうな感じです。ユーモアには、たぶん富んでいない。
-
聖武天皇は7月26日、紫香楽宮に行幸し、10月15日、「盧舎那仏造営詔」というのを宣言します。恭仁京没落の始まりです。この件は紫香楽京のところで。
この紫香楽滞在は4ヵ月にわたり、11月2日に恭仁京に還りました。
天平15年(743年)12月26日、
★最初に平城宮の大極殿および歩廊を壊し、恭仁京へ遷し替えをしてから四年をかけ、ここにその工事がようやく終わった。それに要した費用は悉く計算できない程多額であった。その上更に紫香楽京を造るのであるから、恭仁宮の造営は停止することになった。★
それはそうでしょう。
ところが、このあたりから混乱が激しくなります。
天平15年(743年)12月15日、
★初めて平城京にあった武器を運んで恭仁京に収めた。★
武器の搬入先は恭仁京。
その2年前に、
天平13年(741年)3月9日、
★使者を遣わして、平城京の兵器を甕原宮に運ばせた。★
とあるので、恭仁宮と甕原宮は、近くても違う建物であることが分かります。
大事な武器の保管場所もばらばらです。
天平16年(744年)正月4日、
★更に天皇は京職(市内の行政・司法・警察を司る役所)に命じて、恭仁京に諸寺や人民の家を造らせた。★
恭仁宮の造営は諦めたけれど、都市としての恭仁京は造り続けるつもりらしい。支離滅裂です。
これで落ち着いて、聖武天皇は紫香楽京の建設に邁進するかというと、さにあらず。
天平16年(744年)正月15日、
★装束次第司(行幸の装束・行列を整えるための諸司-訳注)を任命した。難波宮に行幸するためである。★
恭仁京→紫香楽京→難波宮という単純な遷都ではなく、3都市を平行して運営する気です。
特にこの年の11月13日には、紫香楽宮の近く、甲賀寺に「初めて盧舎那仏の体骨柱を建てた」とあります。重点は紫香楽にあるようです。
しかし、断固たる決意でやっているわけではありません。 -
天平16年(744年)閏正月1日、
★天皇は詔して百官を朝堂によび集めた。そして次のように尋ねられた。「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。★
結果は、
恭仁京 五位以上24人、六位以下157人
難波京 五位以上23人、六位以下130人
4日には恭仁京の市でアンケートをとりました。
★市人はみな恭仁京を都とされることを願った。ただし難波京を望む者が一人、平城京を望む者が一人あった。★
商人としては、やっと落ち着いた恭仁京を離れたくないのは当たり前。
天皇、よほど自信がなかった。民間世論調査など、書紀・続紀を通じて聞いたことがない。一見民主的です。
多数決だと恭仁京です。でも、
正月11日、
★天皇は難波宮に行幸された。★
行っちゃった。
リンカーンじゃないんだよね、
「よって、少数決によって可決されました」
2月21日、
★恭仁京の人民で難波宮に移りたいと心から願う者には、自由にこれを許した。★
それはそうでしょう、聖武さんはもう恭仁京に興味ない。
天平18年(748年)9月29日、
★恭仁京の大極殿を国分寺(山背国国分寺-訳注)に施入した。★
恭仁京の死亡宣告ということです。
上記田辺福麿(たなべの・さきまろ)がその後の恭仁京について、万葉集にわずかな消息を残しております。
★三香の原久邇の京は荒れにけり大宮人の移ろいぬれば★ 6-1060
△三香の原久邇の京荒れてしまったことだ。大宮に仕える人々が移り去ってしまったので。△
★咲く花の色はかはらずもももしきの大宮人ぞ立ち易りける★ 6-1061
△咲く花の色は昔と同じだが、百敷の大宮人々こそ変わってしまったことだ。△ -
大極殿東の国分寺跡。
-
石碑と塔の其磧。
コスモスの原。
恭仁京を引き継いだ国分寺も消え去り、何も残っておりません。いつ廃寺となったかも定かには分からないようです。 -
バス停の案内。銭司、「ぜず」と読みます。貨幣を管理する役所です。こういう地名があるということが、かつてここに朝廷があったなごりです。
恭仁京の旅はこれでおしまい。 -
時代は昭和18年(1943年)にワープします。12月だと思います。
恭仁京跡の林を、奈良滞在中の堀辰雄が歩いておりました。
現JRの前身国鉄、そのさらに前身の、鉄道省運営の鉄道が通る、関西本線加茂駅から歩いてきたのでしょう。当時は大極殿あとの基壇もなく、山城国国分寺の石碑もなかった。
「古墳」(新潮文庫)より。
「きのうは、恭仁京の址をたずねて、瓶原にいって一日中ぶらぶらしてきました。ここの山々もおおく南を向き、その上の方が蜜柑畑なっていると見え、静かな林の中などを、しばらく誰にも逢わずに山の方に歩いていると、突然、上の方から蜜柑をいっぱい詰めた大きな籠を背負った娘たちがきゃつきゃつといいながら下りてくるのに驚かされたりしました」
このエッセイーは私が17,8才のころ読んだ覚えがあります。57年くらい前のことです。「きゃつきゃつといいながら下りてくる」娘がとても印象的でした。それが恭仁京での話だとは、たった今気がつきました。
現在は蜜柑畑はないようです。茶畑が有名と聞いております。娘はおろか、人影の全くない村でした。80年弱でこれほど変わりました。大極殿が国分寺に施入された1273年前はどんなだったか。
今も娘さんは「きゃつきゃつ」と元気です。堀辰雄のころも同じ、たぶん天平の昔も、これだけは同じだったでしょう。
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この旅行記へのコメント (5)
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- 前日光さん 2021/12/11 23:13:35
- 娘さんは「きゃつきゃつ」と元気( ̄∇ ̄)
- 昔も今もこれだけは変わらない。
なんだか諸行無常を感じてしまいました!
ホントは喜ぶべきこと?なのでしょうが。
こんばんは、しにあさん&by妻さん
気まぐれ聖武は、恭仁京の完成を待たずに飽きちゃったんですかぁー(?_?)
常識や理屈で、この時期の聖武の心理を説明するのは不可能ですねぇ。
それにしても、大寒のさなか、原っぱに幔幕を張り巡らしただけのところで儀式?とは、お勤めとは言え、貴族様たちはたいへんでしたね。
主君の気まぐれにつき合うのも、いい加減嫌になったことでしょうよ。
話は変わりますが、家持の「いぶせき」歌は恭仁京で詠まれています。
久方の 雨の降る日を ただひとり 山辺に居れば いぶせかりけり
恭仁京は山の中で、しかも雨が降り続いていたようです。
鬱々と気がふさいだというのも無理はないですね。
紀郎女という女性(既婚)からの歌に応えて詠んだものだそうです。
でもなぜか紀郎女の歌は、万葉集には載っていないとか。
家持は、女性から気合いの入った思いを打ち明けられると、どうも気力が失せるタイプのように見受けられます。
笠郎女という人が、家持に激しい恋の歌を送ってきますが、それに応えた家持の歌は、みんな気力を削がれた感じのものばかりです。
家持の歌で傑作と言われる物は叙景歌であったり、自然の事象に己の孤独や孤愁を重ねたものが多いようです。
恋に対しても、完全燃焼できないタイプなんですね。
こういうどこかに虚ろさを抱えていたところが、聖武とリンクするのです。
家持は案外聖武と気が合ったかもですね。
家持が出てきたので、つい家持の話になってしまいましたが、聖武に振り回された周囲の人々は大変だったでしょうね。
何も知らない娘たちだけが「きゃつきゃつ」と笑い、堀辰雄もこの無邪気な明るさに心が慰められたのでしょうか?
私は逆だったのではないかと思ってしまうのですが(^_^)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/12/12 20:58:48
- Re: 娘さんは「きゃつきゃつ」と元気( ̄∇ ̄)
- 紀郎女の歌4-769、教えていただいて有り難うございます。
4-762では女郎の名を小鹿と書いています。なんで家持は紀郎女の本当のファーストネームを知っていたんだ? うーん、2人はあやしい。
でも764の返歌なんて、紀女郎をからかっているみたい。どうなんだろう、この2人。
そもそも紀郎女って、年上の人妻ではないですか。
バルザックの「谷間の百合」みたいなものか。
前後に坂上大嬢に家持が送ったラブレターいっぱいありました。のちの奥さんですよね。まあ、家持さんも、万葉集に妻へのラブレターをいけしゃあしゃあと載っけるなんて、ああ、恥ずかしい。
いずれも家持が恭仁京にいた頃の歌で、事前にしっていたら、もっとおもしろく出来たのにと、ちょっと残念。
太宰府に行ってきました。大伴旅人の妻の死後、太宰府には妹の坂上郎女が行っています。そのころ旅人には、ご存知のように、児島という現地妻がおりました。郎女さん、お兄さんになんか皮肉みたいなこと言ってませんか。
「妻が死んで哀しいとか言っているわりには、お兄さんも結構やるわね」というようなこと。そういう歌があったら教えて下さい。
「旅人@九州」というのが、今回の九州旅行のテーマです。
黒の瀬戸、隼人と並んで、太宰府が旅人旅のメインでした。小物を片付けてから、リキを入れて旅人をやるつもりです。
-
- kummingさん 2021/12/11 14:54:17
- 恭仁京跡地VR構想♪
- しにあさんy妻さん、長旅のお疲れも癒えぬ間に、寸暇を惜しむブログ制作、恐れ入ります♪
上空10mのドローンから~、西の内裏の天皇目線から~、などなどあらゆる視点からの写真と懇切丁寧な解説にも恐れ入り(°_°)
が、しか~し、二次元解説(地図、説明)をどんなに脳裏に刻んで挑んでも、三次元(現実世界の道、建物、内部構造など)に置き換える能力が甚だしく欠けているわたくしには、
猫に小判でございますm(_ _)m 平たく言えば、方向音痴!?なので恭仁京の立体画像がイメージ出来ません(-。-;
だからといって、今流行りの、メガネをかけてその地に立てば、あたかも現実に在るかの如き立体映像が立ち現れる!?とかいうVRとかいう技術を用いては、しにあさんの「その地に立ち、時代の風を、かほりを感じながら、脳裏にイメージ心に心象を思い浮かべる」というかけがえのない体験の対極、の行為になりますね。
3択問題、迷わず樹木希林さんを選ぶ→破天荒な連れ合いにどこまでも寄り添う、という解釈になるのですか?それだと自分のセリフイメージとかけ離れてしまいます(笑)
さてここで、5択問題です♪
あなたは旅のお供、ライオン、牛、馬、猿、犬、と共に旅立ちます。旅の途上でやむにやまれぬ理由で、1人づつお別れ(手放す)しなければなりません(TT) あなたはどの順番でお別れしますか?(お断り)5択の一つが、犬、だったかどうか?
毎度、ブログに無関係なカキコでございますm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/12/12 06:35:43
- Re: 恭仁京跡地VR構想♪
- 5択問題。私は最初にライオンを手放す。食費がかかりそう。最後は馬かな。乗って楽できる。By妻は牛は最後まで取っておく。可愛いから。
このブログはもともと1本で、長すぎるので分割しました。字が多い上に、写真が50枚超えたら皆さん迷惑。前編を忘れないうちにと、連続させました。
九州でたっぷりネタを仕入れてきましたから、前のやつをがんばって仕上げております。月3本を4本か5本にしようと努力中です。じゃないと九州ネタが古くなっちゃう。
次の紫香楽は、現地の案内板に3Dイラストがありましたので、使わせてもらいます。恭仁京も近くのくにのみや学習館が開いていれば復元模型があったらしい。2度とも閉まっていました。コロナだからしゃあない、というところです。
VRなどというものが出てきたら困ります。動画の大先輩pedaruさんがそのうち何かやるかもしれません。
私の場合、「時代の風とかほり」を文章と下手な写真で紡ぎ出すように頑張る。
写真といえば、今回の九州旅行で、アクションカメラというものを使いました。要するに頑丈な小型カメラを2mの長い棒の先につけて、iphone でリモートコントロールしながら写真を撮るというシロモノです。簡易ドローン、一応俯瞰写真が撮れます。そのうち出します。
- kummingさん からの返信 2021/12/12 13:21:46
- タネ明かし♪
- 答えを明かすのも無粋ですが、名誉やプライドよりお仕事を尊重されるby夫さん、と、意外にも?富、財を大事にされるby妻さん?!
私も↑3択でなんかな~?だったので、結果が当てはまらない事も大いにあると思います。
ちなみに私は最初にライオンを手放し、最後までお猿さんを道連れに♪
ブログ分割案は良策ではないかと。読者はじっくり拝見できて大助かり^o^
アクションカメラ(自撮り棒みたいなモノかな?)導入も楽しみにしております♪
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