2021/07/10 - 2021/07/10
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しにあの旅人さん
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「大津皇子フィールドノート3」の続きです。
竜王社が大津龍王社、大津宮と呼ばれた根拠が『奈良六大寺大観 薬師寺』に出ていると、多田一臣(二松学舎大学特別招聘教授)が書いています。敬称略。
「奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第1夜 ~古代ミステリー紀行-薬師寺建立の謎と悲劇の皇子」
https://nara.jr-central.co.jp/event/mini/_pdf/140423.pdf
「奈良六大寺大観 薬師寺」にあたってみました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
37cm×30cm、厚さ5cmのでかい本でした。4.7kgあった。町の図書館が千葉県立図書館から取り寄せてくれました。係の女性が、窓口にはってあるコロナよけの透明ビニールシートの下から出そうとしても、動かないくらい。
-
「現在八大龍王を祀っているが、もとは大津龍王社または大津宮等と呼ばれ、伽藍西方の竜王山にあったが、維新後現在地に移された。」
とありました。同書解説38頁。
多田教授の書いているとおりでした。
大津龍王社または大津宮と呼ばれた根拠ですが、
「内外陣境扉板の元亀2年の銘に大津龍王社、「沿革紀要」にみえる天正9年と寛永5年の銘は大津宮、天正9年の前机は単に竜王と記す。したがってこの社殿にもと大津皇子を祀っていたかと思われる。伝大津皇子座像については当該項を参照されたい。」同39頁。
大観の準拠文献は「奈良文化財研究所の研究レポート」と同じでした。
その「伝大津皇子座像」ですが、
「眉をよせ、一見、憂いに満ちた表情を思わせるが、切れ長の眼、引きしまった口元は思いのほか彫りが深く、ことに眼は上瞼から下瞼にかけて傾斜する彫り込みを行い、かなりきびしいまなざしを示している。
天武天皇の没後すぐ持統天皇によって若く非業の死に追いやられた大津皇子の像という伝承が正しいとすれば、なぜ、薬師寺に祀られたか、そしてどこに泰安されたか、まついつ造立されたかという問題が当然問われるであろう。当初どこに祀られたかは明らかではないが、一時現龍王社にあったらしい(「竜王社社伝」の項注一参照)。はたして木像が寺伝のごとく大津皇子であるということも定かではないが、しかし、鎮魂のためならば、当寺に祀られても必ずしも不自然ではなかったろうと思われる。いまそれは別として、いつ製作されたかという問題を造形的な観点からみると、(中略)木像の製作は作風的には、十四世紀前半のものとみて大過ないものと考えられる。」同75-76頁。
結論として、元亀2年(1571年)創建の竜王山にあった神社には、200年くらい前に製作され、大津皇子と薬師寺に伝承されていた木像が安置され、それゆえ寛永5年(1628年)までは大津龍王社または大津宮とよばれていた、となります。
8世紀初め創建の薬師寺に、大津皇子の鎮魂のなにかがあった痕跡かもしれません。
しかし明治維新以降現在地に移築され、竜王社と呼び名が変わっているので、現在の竜王社は大津皇子と関係がない。
お祀りされているのは八大龍王です。
やはり空振りでしょうか。
一書に曰く、
八大龍王とは?
調べてみましたら、天竜八部衆に属する龍属の八王だそうです。
もっと分からん。
水中の主だそうです。へっ?
幾千万億の眷属の龍たちと釈迦の教えに耳を傾け、妙法蓮華経のナントカ、私にはわかりませんが、とにかく「覚り」を超えて、なんとかして護法の神になったそうです。
インドでは半人半蛇の姿だったのが、中国、日本を経て今の龍の姿になったと、ウィキペディア先生が教えて下さいましたが、さて、護法の神様とは?
またまたお世話になりますと、
護法善神。仏法、仏教徒を守護する主に天部の神々。
梵天、帝釈天、十二神将etc.
あー、此所でやっと分かりました!
あの興福寺の阿修羅像、あの側に可愛らしい、幼いお顔なのに、蛇を巻いている像がございました。あれでございますね。
日本では雨を司る神様ということになっているようです。
所によっては、勝負の神様になってましたよ。
蛇が勝負の神様ねえ。鬼が出るか蛇が出るか?ってことですかね。
まあ、雨の神様は、民衆には切実な神様だったのでしょう。
それが、何故この薬師寺に?
やっぱり悪霊(あくりょう)と悪龍(あくりゅう)、りゅうとりょうで、混乱してしまったのでしょうか。
でも、我らが大津さまは、悪霊にはなりませんよ。
By妻 -
前回、「若宮社はもしかすると、かすかにバットにかすったか」と思いました。
大観には、若宮社にはそれらしき記述は一切無し。かすったどころか、ボールと10cmくらい離れた空振りでした。 -
大観にあった伝大津皇子像の写真です。
像の高さ39.5cmの小さなものだそうです。創建時の竜王社が現在の竜王社の社殿と同じようなこぶりなものであったとしても、この像なら安置できたでしょう。 -
お顔だけ拡大してみました。
「眉をよせ、一見、憂いに満ちた表情を思わせるが、切れ長の眼、引きしまった口元は思いのほか彫りが深く、ことに眼は上瞼から下瞼にかけて傾斜する彫り込みを行い、かなりきびしいまなざしを示している。」
というのはまさにその通り。大津皇子の悲劇を知っている人ならば、この像を大津皇子だと信じたのも納得できます。
16世紀、この像を見た薬師寺のあるお坊さんが、「これは大津皇子だ」と確信した。そこで薬師寺の西、竜王山に小さな御堂を建て、木像を祀った。かなりありえる確率の高い想像だと思います。
未練、かな?
▲▼▲▼▲
大観の解説を書いた方は、専門の歴史家、美術史家でしょう。なんかちょっと歯切れがよくない。学問的には坐像が14世紀の作風だと論証すればいいだけですが、その前に長々と大津皇子の悲劇を書いている。
木像はあくまで「伝」だし、現在の竜王社が大津皇子と関係ないのは明らかです。だからといって、はっきりと断言していない。したくない。
「もしかすると、やっぱり大津皇子の鎮魂のためかな・・・」
そうであってほしいという古代へのロマンを捨て切れていないのではないか。
未練じゃ!
専門家ですら後ろ髪ひかれる大津皇子であります。
一書に曰く、
美人も美男子も、時代によって違うようです。
鳥毛立女屏風の女性なんか、現代なら、悩んでしまうのではないかのレベルですよね。
昔はふっくらして、切れ長の目が良かったのでしょう。
この像の青年も、御所人形のようにふっくらした頬、若々しさが匂い立ちます。が、眉根を寄せて何ともおつらそうです。 -
ややつり上がった目はうつむいて手元を見つめておいでです。
-
手には、現在は消失していますが、なにかがあったのでしょう。右手は開いた形ですから、円形のなにかを持っていたのではないか?
盃?自害するための毒入りの酒の入った。
平安初期の在原業平は、名にし負う美男子でした。色白の丈高い人だったそうです。それで、お相撲も強かったそうですから、この像の作者は、こういう容貌に刻んだのかもしれませんね。
大津ファンの、この像の作者は、彼が考えられる一番のいい男に作ったのでしょう。
確かに気品に溢れて若々しく哀しみのプリンスにぴったりです。
でも本当の大津皇子は、もっと戦闘的でもっとワイルドだったという気がします。
私には、大津皇子という人は、いつまでも恨みを残すような人柄では無く、人生を、自分の思うままに燃やし尽くした人のように思えます。
例えば、もとジャイアンツの長嶋さんが化けて出てくると思います?
あの人は、一瞬一瞬、清々しく全力投球して、後悔ということはしないのではないですかね。そんな感じ。
けれど、この像は、大変に美しいし、哀しいです。
作った人の悲しさが凝縮しているようです。
これを、もし八大龍王像として、手には水晶玉をもって、かつての行いを覗き込みつつ、仏法を知らぬ民のために心を痛めている図で通りませんかね。哲学的な哀しみになりますが。
By妻
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この旅行記へのコメント (2)
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- kummingさん 2021/11/19 19:17:04
- 未練……
- 奈良六大寺大観、4.7kg、古本でも¥6744するという、例の本、(美人さんしかいないらしい!)しにあさんとこの図書館で、とうとう手にされたのですね。
薬師寺縁起の「大津皇子が悪龍になって祟った」という記述が、「若宮」は祟り神を祀る事から若宮社と結びつき、大津皇子を祀るという類推がなされた。それが龍神を祀る龍王社とごちゃまぜになり、結果的に龍王社は大津皇子を鎮めるお社だ、という伝承になったのでは? という事でした。
『明らかではないが~らしい、定かではないがしかし~必ずしも不自然ではなかったと思われる』まるで官僚の霞ヶ関文学?かのようなもってまわった、まどろこしさ、ですが、竜王山の神社に(薬師寺に)大津皇子と伝えられた木像が安置され、大津龍王社、大津宮と呼ばれていた。多田教授も、しにあさんに負けず劣らず、この説への思い入れ相当深い、熱いモノを感じます。
今節、発掘調査や新たに見つかった文献などによる、歴史の再確認、書き換えもあるある、ではありませんか?遠からぬ将来、お二人の熱い思い、未練?を裏付ける証拠物件が発掘されるやもしれませぬ!?
美男美女の定義は時処変われば~、でございますが、寄せられた眉間と切れ長の目元は憂いを、今流行りのアヒル口はこの世へのやるせない想いを感じる、気品溢れる皇子像。大津皇子像が存在している事に驚き、嬉しく拝見♪
きっと悪霊になって祟るタイプじゃない!と思います。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/11/20 05:58:40
- Re: 未練……
- さすが多田教授、根拠はしっかりしていました。
ただ結論は、多田教授は「だから大津皇子由来だ」と断言。
大観と奈文研レポートは、「じゃないかな~」と歯切れが悪い。
両方とも、なんとか竜王社は大津皇子であってほしい、というロマンですね。
分かる、実によくわかります。
私たちなんて、本心は、絶対そうなんだと、思っていますからね。
でもまあ、しゃーない。専門の研究者がそういうんだからと、とりあえず空振りです。
kummingさんおっしゃる通り、なんか、文献とか、発掘調査とか、新しく出て来ないかな、という今日この頃。
諦めていない、歯切れ悪し。
文献と考古学的事実に矛盾しなければ何を言ってもいいというのが、私たちのスタンスですが、矛盾していなくはないし、しているような、というのが一番困ります。
木像の写真をつくづく眺めました。皇子の木像があることは知っていました。40センチない小さなものだとは知らなかった。こういう悲しげな表情の像というのは他に知りません。大津皇子の物語にぴったりなのですよね。
奈良博に保管されています。公開の予定はないそうです。けち!
いろいろ古代ロマンに遊ばせてもらった、重い本でした。
美人の司書さんに返してきました。
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