木津・加茂旅行記(ブログ) 一覧に戻る
奈良の大仏さんは、世が世なれば甲賀の大仏さんでした。<br />今ごろ世界遺産でウハウハだったのに、聖武天皇の気まぐれで、滋賀県甲賀町は大魚を逃したわけです。<br />もっとも甲賀に大仏というのも聖武さんの気まぐれ、甲賀で無駄になったのは、体骨柱、ということは材木だけじゃないかな。<br />聖武さんは旅行が大好きでした。4トラベラーのみなさんと同じです。元祖4トラ。ところが困るのは、旅先が気に入ると、「ここに引っ越す~!」と言い出す。引っ越し魔・聖武天皇です。<br /><br />この旅行記は2020年11月、21年7月の記録です。最後に行ってきた日を旅行日とします。<br /><br />六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。<br />記述する時代は、<br />「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。<br />「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)<br />「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)<br />「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)<br />「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)<br />「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)<br /><br />今回は奈良がメインですから、続日本紀のお世話になりました。<br />原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。<br /><br />今回の旅行記では次の資料を使用しました。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br />「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「全現代語訳・日本後紀」森田悌・講談社学術文庫<br />「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」<br />「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」<br />「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店<br />読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました。<br />「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版<br />「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書<br />「古代甲斐国の交通と社会」大隅陽・六一書房<br />「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館<br />「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店<br />

六国史の旅 元祖4トラベラー聖武天皇1、恭仁京はコスモスの原っぱ

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2021/07/09 - 2021/07/12

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

奈良の大仏さんは、世が世なれば甲賀の大仏さんでした。
今ごろ世界遺産でウハウハだったのに、聖武天皇の気まぐれで、滋賀県甲賀町は大魚を逃したわけです。
もっとも甲賀に大仏というのも聖武さんの気まぐれ、甲賀で無駄になったのは、体骨柱、ということは材木だけじゃないかな。
聖武さんは旅行が大好きでした。4トラベラーのみなさんと同じです。元祖4トラ。ところが困るのは、旅先が気に入ると、「ここに引っ越す~!」と言い出す。引っ越し魔・聖武天皇です。

この旅行記は2020年11月、21年7月の記録です。最後に行ってきた日を旅行日とします。

六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。
記述する時代は、
「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。
「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)
「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)
「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)
「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)
「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)

今回は奈良がメインですから、続日本紀のお世話になりました。
原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。

今回の旅行記では次の資料を使用しました。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・日本後紀」森田悌・講談社学術文庫
「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」
「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」
「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店
読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました。
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 恭仁京跡、2020年11月16日、コロナ騒ぎの合間でしたが、だーれもいませんでした。<br /><br />天平12年/聖武17年(740年)12月15日、聖武天皇は恭仁京に遷都しました。といっても大極殿はなし、離宮があっただけで、こんな風景とたいして変わらなかったのではないでしょうか。西暦だと741年1月10日です。寒風吹きすさぶ中、伯母さんの太上天皇(元正天皇)、光明皇后、居並ぶ廷臣たちは、「え~!」と思ったにちがいない。<br />

    恭仁京跡、2020年11月16日、コロナ騒ぎの合間でしたが、だーれもいませんでした。

    天平12年/聖武17年(740年)12月15日、聖武天皇は恭仁京に遷都しました。といっても大極殿はなし、離宮があっただけで、こんな風景とたいして変わらなかったのではないでしょうか。西暦だと741年1月10日です。寒風吹きすさぶ中、伯母さんの太上天皇(元正天皇)、光明皇后、居並ぶ廷臣たちは、「え~!」と思ったにちがいない。

    山城国分寺跡・恭仁京跡 名所・史跡

    恭仁京跡、山城国分寺跡、駐車場 by しにあの旅人さん
  • 奈良市平城京跡から約15kmです。<br />どんなところかというと、<br />

    奈良市平城京跡から約15kmです。
    どんなところかというと、

  • 三方を丘陵に囲まれております。<br />大極殿跡から西、現在の恭仁小学校。<br />

    三方を丘陵に囲まれております。
    大極殿跡から西、現在の恭仁小学校。

  • 北。海住山(かいじゅうせん)寺がある海住山。

    北。海住山(かいじゅうせん)寺がある海住山。

  • 東もまた山。<br /><br />一書に曰く、<br />恭仁京跡は、ただの原っぱでした。<br />畑が続いていますが、宮跡は原っぱ。が、実際に足を踏み入れると、結構なでこぼこがあって、野球が出来るぞ。というわけにはいきません。<br />ただ広ーいですから、ピクニックなんかにはいいですね。休みの日にお弁当もって親子でひなたぼっこ。<br />大極殿跡の向こうに住宅が集まっておりますから、若いご家庭にはいいのではないでしょうか。<br />が、考えてみれば、わざわざここまでピクニックに来る必要もないし、興味もないでしょうね。これだけ自然に囲まれていれば。<br />By妻<br />

    東もまた山。

    一書に曰く、
    恭仁京跡は、ただの原っぱでした。
    畑が続いていますが、宮跡は原っぱ。が、実際に足を踏み入れると、結構なでこぼこがあって、野球が出来るぞ。というわけにはいきません。
    ただ広ーいですから、ピクニックなんかにはいいですね。休みの日にお弁当もって親子でひなたぼっこ。
    大極殿跡の向こうに住宅が集まっておりますから、若いご家庭にはいいのではないでしょうか。
    が、考えてみれば、わざわざここまでピクニックに来る必要もないし、興味もないでしょうね。これだけ自然に囲まれていれば。
    By妻

  • 2カ所からドローンを上げてみました。<br />まず赤丸。<br />

    2カ所からドローンを上げてみました。
    まず赤丸。

  • https://youtu.be/bpqqQwpWX7Y<br /><br />ちょうど子供達の登校時間でした。<br />音楽もそれらしくしてみました。<br />360度回転空撮です。恭仁京大極殿の北は、これで全部。狭ま!<br /><br />一書に曰く、<br />子供達は、大極殿跡そばのいい感じの小学校に吸い込まれていきました。<br />この小学校が素敵な建物なのです。落ち着いていて素朴で、自然に溶け込んでいました。宮沢賢治が出てきそうな。<br />けれど、子供達は、あれだけだろうか?<br />子供達が入って行っても、小学校は静かでした。<br />前に来たときも静かでした。<br />子供の数が少ないのでしょうか。気にかかります。<br />やっぱり小学校は、わー!とかキャー!とか騒々しくないと、寂しいですね。<br />子供の遊ぶ声は、平和のしるしです。<br />By妻<br />

    https://youtu.be/bpqqQwpWX7Y

    ちょうど子供達の登校時間でした。
    音楽もそれらしくしてみました。
    360度回転空撮です。恭仁京大極殿の北は、これで全部。狭ま!

    一書に曰く、
    子供達は、大極殿跡そばのいい感じの小学校に吸い込まれていきました。
    この小学校が素敵な建物なのです。落ち着いていて素朴で、自然に溶け込んでいました。宮沢賢治が出てきそうな。
    けれど、子供達は、あれだけだろうか?
    子供達が入って行っても、小学校は静かでした。
    前に来たときも静かでした。
    子供の数が少ないのでしょうか。気にかかります。
    やっぱり小学校は、わー!とかキャー!とか騒々しくないと、寂しいですね。
    子供の遊ぶ声は、平和のしるしです。
    By妻

  • https://youtu.be/YLnYbji7dO4<br /><br />恭仁京内裏北スライドショー。<br /><br />一書に曰く、<br />二回目の旅の時は、by夫が、新しいオモチャが嬉しくて飛ばしておりましたら、折しも登校時間。子供達が、何人かのママの付き添いで列を作って歩いてきました。<br />何人かのママたちが「あら!ドローンよ。」なんて言ってくれて、年取った男の子は、いいだろうー!と見せびらかしたい様子ありあり。<br />あ~あ、ようち。<br />こういうことでもないと、若い女性に注目されないものねえ。<br />By妻<br />

    https://youtu.be/YLnYbji7dO4

    恭仁京内裏北スライドショー。

    一書に曰く、
    二回目の旅の時は、by夫が、新しいオモチャが嬉しくて飛ばしておりましたら、折しも登校時間。子供達が、何人かのママの付き添いで列を作って歩いてきました。
    何人かのママたちが「あら!ドローンよ。」なんて言ってくれて、年取った男の子は、いいだろうー!と見せびらかしたい様子ありあり。
    あ~あ、ようち。
    こういうことでもないと、若い女性に注目されないものねえ。
    By妻

  • https://youtu.be/Xdorlcl5vCw<br /><br />山城国国分寺跡からスライドショー。<br /><br /><br />この日は風もなく、原っぱのまんなか。思いっきりドローンを上げました。15mはいっているでしょう。左下、電信柱の左にBy妻。<br />青丸、国分寺塔跡から。<br />恭仁京の南半分。<br />画面中央建物のむこうが県道163、「京都いづみチャーミングロード」と申します。<br />この南780mで木津川です。<br />

    https://youtu.be/Xdorlcl5vCw

    山城国国分寺跡からスライドショー。


    この日は風もなく、原っぱのまんなか。思いっきりドローンを上げました。15mはいっているでしょう。左下、電信柱の左にBy妻。
    青丸、国分寺塔跡から。
    恭仁京の南半分。
    画面中央建物のむこうが県道163、「京都いづみチャーミングロード」と申します。
    この南780mで木津川です。

  • 平野部は木津川の南も含めて南北約3.3km、東西2km。平城京は南北4.7km、東西4.3kmですから、面積は三分の一以下です。狭い。ここが右京で、4km以上離れた西の平野部に左京を作る計画もあったそうですが、右京と左京が4kmも離れるなんて、アホみたいな都市計画です。

    平野部は木津川の南も含めて南北約3.3km、東西2km。平城京は南北4.7km、東西4.3kmですから、面積は三分の一以下です。狭い。ここが右京で、4km以上離れた西の平野部に左京を作る計画もあったそうですが、右京と左京が4kmも離れるなんて、アホみたいな都市計画です。

  • 続日本紀神亀4年(聖武天皇、727年)5月4日、<br />★天皇は甕原(みかのはら)離宮に行幸された。★<br /><br />これが、聖武天皇が恭仁京に行った最初。<br />5月4日その日のうちに着いています。<br />甕原離宮とはのちの恭仁京です。甕原離宮が厳密にどこにあったか分かりませんでした。<br />後述のように、このときすでにここには離宮があったということです。翌5日には「飾りをつけた騎兵の騎射をご覧になった」とあります。<br /><br />5月6日、<br />★天皇は甕原宮から帰還された★<br /><br />帰りも1日で着いています。<br />ただしあまり気に入らなかったみたい。しばらくほっておいて、次の行幸は9年後です。<br /><br />天平8年(736年)3月1日(p354)、<br />★天皇は甕原離宮に行幸された★<br /><br />このときの帰り、<br /><br />3月5日<br />★車駕は平城京に還られた。★<br /><br />車駕というのは、輿です。輿でも1日。気軽に行き来はできたようです。<br />15kmなど騎馬なら急いで1時間、ゆっくり行っても2時間半ですが、さすがに天皇ともなると、馬をとばすというわけにはいかない。輿でゆらりゆらりとのんびり行幸したのです。<br /><br />天平11年(739年)3月23日、<br />★天皇と太上天皇(元正天皇)とが、甕原離宮に行幸し・・・★<br /><br />とあります。伯母さんまで連れて行っている。26日に平城宮に戻っています。<br />

    続日本紀神亀4年(聖武天皇、727年)5月4日、
    ★天皇は甕原(みかのはら)離宮に行幸された。★

    これが、聖武天皇が恭仁京に行った最初。
    5月4日その日のうちに着いています。
    甕原離宮とはのちの恭仁京です。甕原離宮が厳密にどこにあったか分かりませんでした。
    後述のように、このときすでにここには離宮があったということです。翌5日には「飾りをつけた騎兵の騎射をご覧になった」とあります。

    5月6日、
    ★天皇は甕原宮から帰還された★

    帰りも1日で着いています。
    ただしあまり気に入らなかったみたい。しばらくほっておいて、次の行幸は9年後です。

    天平8年(736年)3月1日(p354)、
    ★天皇は甕原離宮に行幸された★

    このときの帰り、

    3月5日
    ★車駕は平城京に還られた。★

    車駕というのは、輿です。輿でも1日。気軽に行き来はできたようです。
    15kmなど騎馬なら急いで1時間、ゆっくり行っても2時間半ですが、さすがに天皇ともなると、馬をとばすというわけにはいかない。輿でゆらりゆらりとのんびり行幸したのです。

    天平11年(739年)3月23日、
    ★天皇と太上天皇(元正天皇)とが、甕原離宮に行幸し・・・★

    とあります。伯母さんまで連れて行っている。26日に平城宮に戻っています。

  • ところで、このあたりに離宮を構えた天皇は聖武が最初ではありません。<br /><br />和銅元年(元明天皇、708年)9月22日、<br />★(天皇は)山背国相楽郡の岡田離宮に行幸された。(中略)特に加茂里と久仁里(恭仁)の二里については稲三十束宛を賜った。★ <br />

    ところで、このあたりに離宮を構えた天皇は聖武が最初ではありません。

    和銅元年(元明天皇、708年)9月22日、
    ★(天皇は)山背国相楽郡の岡田離宮に行幸された。(中略)特に加茂里と久仁里(恭仁)の二里については稲三十束宛を賜った。★ 

  • 岡田離宮は、現在の岡田鴨神社境内にあったといわれております。<br />京都府木津川市加茂町北鴨村。

    岡田離宮は、現在の岡田鴨神社境内にあったといわれております。
    京都府木津川市加茂町北鴨村。

  • 大極殿との直線距離約1.9kmです。

    大極殿との直線距離約1.9kmです。

  • 現在の岡田鴨神社は春日造りのきれいな神社です。<br />神社の西に、軽自動車はおろか、自転車がやっとというくらいの細い道に沿って、集落がありました。岡田離宮跡にできた昔ながらの集落かな、と思いました。その名も「鴨村」<br />木津川のほとりに岡田鴨神社の旧社地があると聞いて、歩いて探しましたが、たどり着けませんでした。<br /><br />元明は聖武のおばあさんです。<br />元明天皇はその後も3回相楽郡を行幸しています。<br />元明天皇は養老元年(717年)に娘の元正天皇に譲位しています。<br />話は脱線しますが、元正天皇は、正史がはっきり美人と書いている唯一の女帝です。<br /><br />続日本紀霊亀元年(715年)9月2日、<br />★(天皇は詔して)一品の氷高内親王は、(中略)物静かで若く美しい。★ <br /><br />漢文原文は「沈静婉&#23372;、ちんせい・えんれん」でした。「沈静=もの静か」は分かる。「婉&#23372;」は日本国語大辞典によれば「年若く、しなやかで美しいさま」<br />本当に褒めている!<br />堅いだけかと思った続日本紀、やるじゃん。<br />でも「婉」の字が気になる。「妖婉」からの引っかかりで、「色っぽい」という印象が。天皇を「色っぽい」というはずはないよね。<br />680年生まれですから35才、若いかどうかはともかく、美しかったのでしょう。色ぽっかったんじゃないかと、どうしてもそこにこだわる。<br />もう一人推古天皇も容貌に言及されております。<br /><br />日本書紀推古元年(593年)、<br />★(額田部皇女、推古天皇のこと)は容姿端正で立居ふるまいにもあやまちがなかった。★<br /><br />このとき女帝39才。<br />書紀原文は「姿色端麗、進止軌制」だって。「みかおきらきらしく、ふるまいおさおさし」と読むそうです。容姿端麗ならそのまま現代語だ。<br />そのほかの女帝については、すがたかたちに記述なし。<br />野次馬「どうなの?」<br />書紀および続紀「聞くな!」<br /><br />元正天皇は甕原離宮には一度も行幸していません。<br />天皇によって行きたい離宮に好みがあったようです。この方は在位9年間で4回しか行幸していません。旅行が好きではなかったみたい。<br /><br />一書に曰く、<br />みかの原とは、あの百人一首の<br />みかの原 わきて 流るる泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ<br />のみかの原だと気がついたのは、二回目に来たときです。<br />二回目の旅の時は雨で、特に最初の日は大雨でした。<br />その名残で木津川は増水しており、岩にぶつかりしぶきを上げてくだっておりました。<br />車からそれを見ながら、恭仁京跡を目指してきたのですが、<br />ふと、by夫が、「木津川って、昔は泉川っていったんだよね。」<br />えーっそうなの?!<br />なら、この恋の歌は意味が変わるではないですか!<br />以前は、小さな泉からふつふつと湧き続ける水、その水が絶えないように、私の恋は細くいつまでも続いているのだ。みたいな感じにおもっておりました。<br />みかの原を二つに分かれて流れるっていうから、ゆったりのんびり。<br />そして、いったいいつから恋しいのでしょうだって!<br />気がつけば恋してたってこと?うーむ。<br />なんかね、昔からの惰性の恋というか、年寄りの恋の思い出みたいな。<br />なんかね、どうでもいい恋の歌でございました。わたくし的には。<br />けれど、このたぎりたつ木津川を見たら、「わきて」という言葉も、抑えきれずに、沸き上がり、岩にぶつかり分かれて、また重なる急流の様子のように思えるのです。<br />そして、いつ見きとてかの「いつ」の時間は、いつだったけかなあ?な悠長な感じではなく、ついさっき、今朝会って来たのに、もう恋しいという激しいものに変わってしまいました。<br />どっちだったのでしょうかね。兼輔さん。<br />私としては、縁側で居眠りしていた人が、実は命がけの恋をしていたって発見したような気分です。<br />もちろん応援しますよ。兼輔さん!<br />By妻<br />

    現在の岡田鴨神社は春日造りのきれいな神社です。
    神社の西に、軽自動車はおろか、自転車がやっとというくらいの細い道に沿って、集落がありました。岡田離宮跡にできた昔ながらの集落かな、と思いました。その名も「鴨村」
    木津川のほとりに岡田鴨神社の旧社地があると聞いて、歩いて探しましたが、たどり着けませんでした。

    元明は聖武のおばあさんです。
    元明天皇はその後も3回相楽郡を行幸しています。
    元明天皇は養老元年(717年)に娘の元正天皇に譲位しています。
    話は脱線しますが、元正天皇は、正史がはっきり美人と書いている唯一の女帝です。

    続日本紀霊亀元年(715年)9月2日、
    ★(天皇は詔して)一品の氷高内親王は、(中略)物静かで若く美しい。★ 

    漢文原文は「沈静婉孌、ちんせい・えんれん」でした。「沈静=もの静か」は分かる。「婉孌」は日本国語大辞典によれば「年若く、しなやかで美しいさま」
    本当に褒めている!
    堅いだけかと思った続日本紀、やるじゃん。
    でも「婉」の字が気になる。「妖婉」からの引っかかりで、「色っぽい」という印象が。天皇を「色っぽい」というはずはないよね。
    680年生まれですから35才、若いかどうかはともかく、美しかったのでしょう。色ぽっかったんじゃないかと、どうしてもそこにこだわる。
    もう一人推古天皇も容貌に言及されております。

    日本書紀推古元年(593年)、
    ★(額田部皇女、推古天皇のこと)は容姿端正で立居ふるまいにもあやまちがなかった。★

    このとき女帝39才。
    書紀原文は「姿色端麗、進止軌制」だって。「みかおきらきらしく、ふるまいおさおさし」と読むそうです。容姿端麗ならそのまま現代語だ。
    そのほかの女帝については、すがたかたちに記述なし。
    野次馬「どうなの?」
    書紀および続紀「聞くな!」

    元正天皇は甕原離宮には一度も行幸していません。
    天皇によって行きたい離宮に好みがあったようです。この方は在位9年間で4回しか行幸していません。旅行が好きではなかったみたい。

    一書に曰く、
    みかの原とは、あの百人一首の
    みかの原 わきて 流るる泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ
    のみかの原だと気がついたのは、二回目に来たときです。
    二回目の旅の時は雨で、特に最初の日は大雨でした。
    その名残で木津川は増水しており、岩にぶつかりしぶきを上げてくだっておりました。
    車からそれを見ながら、恭仁京跡を目指してきたのですが、
    ふと、by夫が、「木津川って、昔は泉川っていったんだよね。」
    えーっそうなの?!
    なら、この恋の歌は意味が変わるではないですか!
    以前は、小さな泉からふつふつと湧き続ける水、その水が絶えないように、私の恋は細くいつまでも続いているのだ。みたいな感じにおもっておりました。
    みかの原を二つに分かれて流れるっていうから、ゆったりのんびり。
    そして、いったいいつから恋しいのでしょうだって!
    気がつけば恋してたってこと?うーむ。
    なんかね、昔からの惰性の恋というか、年寄りの恋の思い出みたいな。
    なんかね、どうでもいい恋の歌でございました。わたくし的には。
    けれど、このたぎりたつ木津川を見たら、「わきて」という言葉も、抑えきれずに、沸き上がり、岩にぶつかり分かれて、また重なる急流の様子のように思えるのです。
    そして、いつ見きとてかの「いつ」の時間は、いつだったけかなあ?な悠長な感じではなく、ついさっき、今朝会って来たのに、もう恋しいという激しいものに変わってしまいました。
    どっちだったのでしょうかね。兼輔さん。
    私としては、縁側で居眠りしていた人が、実は命がけの恋をしていたって発見したような気分です。
    もちろん応援しますよ。兼輔さん!
    By妻

  • 続日本紀天平12年(740年)9月3日、<br />★藤原広嗣がついに兵を動かして反乱した。★<br /><br />九州で広嗣の乱が勃発します。広嗣本隊の兵だけで1万人の大反乱軍でした。<br />ところがこの大事なときに、聖武天皇は伊勢国に旅行に行ってしまいました。<br /><br />10月29日、<br />★伊勢国に行幸が行われた。★<br /><br />騎兵400騎を動員した大集団でした。12月4日に不破の関近くで解散させるまで、ぞろぞろと聖武天皇について回りました。<br />太上天皇(元正上皇)と光明皇后も一緒です。<br /><br />11月5日、<br />★大将軍東人らが次のように言上した。今月1日、肥前国松浦郡において、広嗣と綱手の斬刑を執行・終了しました。★<br /><br />広嗣の反乱そのものは片付きました。<br />巡幸が終わったのは、<br /><br />天平12年(聖武17年、740年)12月15日、<br />★天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。★<br /><br />ここで冒頭の天平12年/聖武17年(740年)12月15日にもどります。<br />寒風吹きすさぶ中、伯母さんの太上天皇(元正天皇)、光明皇后、居並ぶ廷臣たちは、「え~!」と思ったのであります。<br /><br />なんと、伊勢巡幸の帰り、平城京に帰らずにいきなり恭仁京に来て、遷都してしまった。<br />12月6日には橘諸兄が先発して恭仁郷に向かいました。「恭仁郷の地を整備し、遷都の候補地とするため」だそうですが、9日間で準備ができるはずがありません<br />みなさんどこに泊まったのでしょう。<br />甕原離宮が近くにありました。恭仁京東北に石原の宮というのがあったようです。元明天皇の岡田離宮というのもありました。<br />このあたりに分散宿泊したのでしょうか。<br /><br />翌年ですが、<br /><br />天平13年(741年)7月10日、<br />★太上天皇(元正)が恭仁の新宮に移られた。★<br /><br />という記事があります。つまり年寄りは一度平城京に帰らせて、住まいができてから呼び寄せたということです。61才ですから、恭仁の仮住まいの冬は辛かったのでしょう。聖武さん、やけに伯母さんに優しい。<br />光明皇后はどうしたか。なにも記事がありません。まさか亭主をおいて平城京に帰って、コタツで一人ぬくぬく、なんてことないよね。<br />あるかも。<br />私は、光明皇后という人は、一般的にイメージされているような聖女、いわば観音菩薩のような人物ではなかったという印象なのです。<br /><br />

    続日本紀天平12年(740年)9月3日、
    ★藤原広嗣がついに兵を動かして反乱した。★

    九州で広嗣の乱が勃発します。広嗣本隊の兵だけで1万人の大反乱軍でした。
    ところがこの大事なときに、聖武天皇は伊勢国に旅行に行ってしまいました。

    10月29日、
    ★伊勢国に行幸が行われた。★

    騎兵400騎を動員した大集団でした。12月4日に不破の関近くで解散させるまで、ぞろぞろと聖武天皇について回りました。
    太上天皇(元正上皇)と光明皇后も一緒です。

    11月5日、
    ★大将軍東人らが次のように言上した。今月1日、肥前国松浦郡において、広嗣と綱手の斬刑を執行・終了しました。★

    広嗣の反乱そのものは片付きました。
    巡幸が終わったのは、

    天平12年(聖武17年、740年)12月15日、
    ★天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。★

    ここで冒頭の天平12年/聖武17年(740年)12月15日にもどります。
    寒風吹きすさぶ中、伯母さんの太上天皇(元正天皇)、光明皇后、居並ぶ廷臣たちは、「え~!」と思ったのであります。

    なんと、伊勢巡幸の帰り、平城京に帰らずにいきなり恭仁京に来て、遷都してしまった。
    12月6日には橘諸兄が先発して恭仁郷に向かいました。「恭仁郷の地を整備し、遷都の候補地とするため」だそうですが、9日間で準備ができるはずがありません
    みなさんどこに泊まったのでしょう。
    甕原離宮が近くにありました。恭仁京東北に石原の宮というのがあったようです。元明天皇の岡田離宮というのもありました。
    このあたりに分散宿泊したのでしょうか。

    翌年ですが、

    天平13年(741年)7月10日、
    ★太上天皇(元正)が恭仁の新宮に移られた。★

    という記事があります。つまり年寄りは一度平城京に帰らせて、住まいができてから呼び寄せたということです。61才ですから、恭仁の仮住まいの冬は辛かったのでしょう。聖武さん、やけに伯母さんに優しい。
    光明皇后はどうしたか。なにも記事がありません。まさか亭主をおいて平城京に帰って、コタツで一人ぬくぬく、なんてことないよね。
    あるかも。
    私は、光明皇后という人は、一般的にイメージされているような聖女、いわば観音菩薩のような人物ではなかったという印象なのです。

  • 恭仁京の大極殿は、平城京の大極殿を移築しました。

    恭仁京の大極殿は、平城京の大極殿を移築しました。

  • 奈良平城京。<br />これが復元された平城京第1次大極殿。第1次というのは、恭仁京に移築してなくなったからです。その後東に第2次大極殿が建設されました。<br />

    奈良平城京。
    これが復元された平城京第1次大極殿。第1次というのは、恭仁京に移築してなくなったからです。その後東に第2次大極殿が建設されました。

  • これを移築って、どうやって・・・バラして、運んで、また組み立てる。気が遠くなる。

    これを移築って、どうやって・・・バラして、運んで、また組み立てる。気が遠くなる。

  • 運んで、組み立てたのがここです。<br />更地だと狭く見えますが、ここにあの大極殿が建つのかね。<br />

    運んで、組み立てたのがここです。
    更地だと狭く見えますが、ここにあの大極殿が建つのかね。

  • 「恭仁京大極殿跡」と書いてある。<br /><br />「元祖4トラベラー聖武天皇2」に続きます。<br />

    「恭仁京大極殿跡」と書いてある。

    「元祖4トラベラー聖武天皇2」に続きます。

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この旅行記へのコメント (11)

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  • ryujiさん 2021/12/13 09:29:04
    元正天皇は美人だった!
     こんにちは、しにあの旅人さん。

     タイトルの旅行記、六国史旅を楽しく拝見で~す。 この聖武天皇の時代はいいですね、胸がわくわく・どきどきする私です。 ややもすると女性は歴史からは脇役かもしれませんが・・・・・、この時代はどうしてどうして。 私は元正天皇も、(吉備内親王だけでなく)興味ある人物です。 このお方は美人?、確か私も以前の何らかの資料で見た記憶があります。(美人が故に一生独身だった) そして聖武天皇を補佐する強力な政治力の持ち主だった。 そんな印象をを持っている私です。

     それともうひとつ、我が岐阜県の自慢を紹介させてください。 我が家より車で40分程西にある養老公園(養老町)です。(3年前に紅葉を見ていました) ここは717年.9月に元正天皇さんが御幸され、美泉を浴びられたところです。 この地の養老名が先だったか、717年の養老改年が先かは定かではありませんが。 いずれにしても、我が岐阜県にも、元正天皇のゆかりの地となり今も息づいております。

     素敵な旅行記をありがとうございます。
                     ryuji


    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/12/14 06:06:29
    Re: 元正天皇は美人だった!
    元正さん美人説は漫画も含めあちこちに出てきます。大元はこのブログに書いた、続日本紀霊亀元年(715年)9月2日の記事です。「婉孌」だそうですよ。どうしても色っぽいという印象ですが、私の漢字理解力がヨコシマなせいです。

    聖武天皇は、二十歳くらい年上のこの伯母さんに憧れていたのではないかと。続日本紀は行間に、なんとなくそういうふうに思わせるような書き方をしております。これも私のヨコシマな読み方かな。

    元正さんはあまり旅行が好きではなかったようです。その元正さんがわざわざ行幸されているという養老町、さぞ美しい町でありましょう。「美泉」というのは温泉ですね。
    養老改元だけじゃつまらない。美貌の天皇が温泉に入ったとか、地元に何か伝承でもあるのでしょうか。ほっておけない話です。
    今年の7月に大垣を通りました。近くですね、知らなかった。
  • kummingさん 2021/12/08 16:55:53
    元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
    いつもの事ですが、しにあさんのブログ内容や写真、動画へのコメントから逸脱しがちな、我田引水的なカキコでございますm(_ _)m

    740~45年の僅かの間に3度ものお引越し(*_*)挙句平城京に戻る!この破天荒さの理由は古代史の謎だそうで? 前日光さん、しにあさん説の先人たちの怨みを一身に引き受け、虚しさと罪悪感、強迫観念に引き裂かれた狂気?のなせる業かもしれませぬ。

    話は遡って、藤原京→平城京遷都の表向き理由は3つある様ですが、私的オシは不比等が例によって己が血統を天皇家に残す、外戚としての地位固めの為、首皇子の皇位継承を公にする場、としての平城京、豪族貴族の影響を除いて政治改革を進める為の遷都、を文武天皇時代に画策主導した!(私利私欲、利益誘導、ですが、←ココまでとこの後↓は名宰相、というテーマで、繋がっている事に(笑)

    聖武天皇の最側近は橘諸兄、でしたっけ?歴史上にいた名君を補佐する参謀、事実上の最高権力者、政策立案し政治を動かした名宰相(中国史の太公望、周公旦、管仲、呂不韋、晏子みたいな←日本史の例が思い付けずm(_ _)m)としては、常識から大きく逸れた主君の気紛れ、気の病を、何とか止める手立ては無かったのでしょうか?

    遷都のたびに課される重税、労役に荒廃したであろう人民の暮らし、心を思うと、天皇の暴走を阻止出来なかった政治家に“喝!“

    10万円÷2=5万円+クーポン+800億円(°_°)とか、選挙の度に耳に心地よいキャッチコピー、スローガン掲げて、何兆、数千億の予算を付けて、その結果を一切検証せず、一体私たちの税金は何処へ?(TT)現代にも待たれる名宰相♪

    私が平城宮跡のブログ書いてる時に見つけた、「大極殿に使われた発掘されたレンガの数2400個と実際に使われた12000個の差、9600個は遷都して恭仁京でリサイクルされて
    た」説、ほんとだったのですね。

    元明天皇は持統さんの姉妹?って事は、草壁君は叔母さんと結婚?聖武天皇も光明子と、叔母さんですね(-。-; 光明子はあの不比等と橘三千代の娘です、菩薩観音であろうはずはない!

    ドローン撮動画も楽しく拝見しております♪ 加えて、ドローン携えてなくても、こちらのシリーズで日本史へ誘われ、注意喚起(若い女性、ではありませんが(ーー;)、興味を惹き起こされて、忘れていた古代史の学び直し^ ^という稀有な機会をくださったしにあさん、by妻さんに、今更ながら感謝^o^

    長々とお邪魔しましたm(._.)m消えた時の用心に、コピーしておこう♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/12/09 07:09:03
    Re: 元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
    レンガが恭仁京でリサイクルされていたのですか。どこだろう。大極殿の前あたりだと、今の小学校ですかね。掘り返すわけにはいかないし、建て替えの時が楽しみ。

    歴史散歩の旅に皆さんを引き込みつつあるらしく、満足々。石ころひとつあればいいので、この旅は安上がりなのです。

    あの時代は同母兄妹以外は結婚okでしたから、伯母甥なんてめずらしくもありません。したがって、By妻によれば、皆さんよく似ていたはず。右を見ても左を見てもそっくり、なんてかなり不気味です。

    聖武さんはこのあと、支離滅裂というか、ひっちゃかめっちゃか。多分精神的におかしかったんでしょう。続日本紀の詳細な記録があるので、だれか専門のお医者さんが診察してくれませんかね。
    でも奈良に戻ってからは直ったみたい。
    ついていくお役人も大変で、あきらかにサボタージュしている。

    九州では、久留米は2度とおりました。薔薇をもった美魔女を探しましたが、遭遇できず。
    2日3日あたりの福岡は寒かった。あのあたりはあんなに寒いところでしたっけ。
    福岡空港のお店で、寄せ鍋の素をいっぱい買ってきました。福岡県人はあんなにおいしいものを毎日たべているのですか。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/12/09 09:36:52
    Re: 元祖4tr、引っ越し魔の聖徳天皇♪
    平城宮跡大極殿の前面に築かれたレンガの積まれた巨大な壁の中で、発掘されたレンガ数<元々の使用された数、から残り9600個は恭仁京遷都で利用された?説があるそうです。
    で、しにあさんも、運んで組み立てた!と書かれているので、そうなんだ!と結論。

    えんれんな元正太政天皇と聖武天皇も叔母さんと甥っ子?近すぎる距離感? ココんとこ、更なる掘り下げが期待される♪

    身内の不幸は11/27深夜でした。久留米を通られたのですか?2度も(*_*) あ~、連絡手段を講じておけば、何とかなったのでは(TT) 久留米を通る!と知らせて頂けていたら? 返す返すも無念、でございますT_T 自分の無作為が悔やまれます。
    逃した魚は大きかった~

    冬場は週に一度のノンアルデー、以外、毎夜ほぼ、鍋♪(←手抜き、とも)
  • 前日光さん 2021/12/07 23:40:05
    改めまして。。。
    しにあさん&by妻さん。
    同じ事は二度と書けないものですが、なんとか思い出すようにします。

    要するに聖武天皇のことばかり書いたような気が。。。
    聖武天皇は、確かに元祖4トラベラーかもしれませんが、彼の場合はうれしくてそこに出かけるのではなく、何か脅迫観念みたいなものに突き動かされていたように思います。
    国分寺や国分尼寺を建て、大仏を造立しても、どこかに満たされないものがあって。。
    多くの恨みを抱いてこの世を去った人々の怨念が、彼に集中的に取り憑いているのではないかと。
    精神がズタズタだったので、伊勢巡行の途中で恭仁京に遷都してしまうなんていうことになったのでしょう。わがまま・気まぐれというよりは、狂気が混じっていたのではないかと。

    そして光明子ですが、私もしにあさんと同感で、この人は慈母観音のようではなかったと思っています。
    だって父はあの腹黒い不比等ですし、母は上代切っての女傑である橘三千代ですからね。
    この策略に長けた夫婦の娘光明子、うーーん、聖武は逃げ場がありませんねぇ。
    平城京から逃れ、恭仁京や紫香楽宮等々を彷徨ってみても、心は虚ろで。
    なんともこの天皇はかわいそうでなりません。

    元正女帝は美女だったそうで。
    草壁の第一皇女ですよね?
    元明女帝の娘で持統の孫?
    しかも祖母の持統と母の元明は姉妹。
    血が濃いですよねぇ。
    草壁って、あんなに頼りなさそうなのに美しい娘を残したのですね。
    「氷高」っていう名前がいいですよね!
    氷のごとき高貴な美しさを、名前から連想してしまいます。
    元明も元正も在位期間は10年にもなりませんが、古代史に燦然と輝く二人です。

    とりとめがなくなってきました。
    恭仁京跡の道を行く小学生たち、聖武が苦悩に満ちて佇んだかもしれない宮跡に、彼らの声が響いて、しにあさんの飛ばすドローンに反応する小学生の母たち(まだ若い(^_-)、それを冷ややかに眺めるby妻さんの視線が、聖武のおぼつかない眼差しと上空でリンクしたかもしれませんね( ・∀・)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/12/08 08:18:30
    Re: 改めまして。。。
    よくやるんですよね、せっかく書いた文章がパア。私はiPadのメモで下書きします。こいつは自動的にセーブしてくれるので、全面パアはなんとか防げます。

    聖武天皇強迫観念説は全く同意です。恭仁京の後、紫香楽宮、甲賀寺と回って、この人が元祖ヒッキーであることを確信しました。何かを怖がって、狭いところに引きこもりたかった。
    第1稿はできているので、強迫観念ヒッキー説を補強します。
    「心は虚で彷徨った」というのは正確だと思います。続日本紀の作者が言いたかったのは、そのことかもしれません。そう思ってみると、そう読める箇所がいくつもある。
    このあと触れますが、続日本紀の空白を埋めるような歌が万葉集にあります。例によって、万葉集家持陰謀説がまた登場します。晩年の家持は、聖武天皇にどういう気持ちを抱いていたのかな。

    元正天皇は生涯独身で美女でした。「薬師寺縁起」では、女帝のことを「姫帝」、「きてい」と書いています。ひめのみかど、元正天皇にはぴったりです。ただ私は、聖武天皇と元正太政天皇の距離を疑っております。天皇と太政天皇の関係には近すぎる。続日本紀はしつこく書いています。作者は何を言いたいのか。

    途中番外のなんちゃら紀行が2編入りますが、8回の予定です。九州でしこたまネタを仕入れてきました。がんばらないと九州ネタが腐っちゃう。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/12/08 08:25:28
    追伸
    聖武天皇と元正太政天皇について、少女コミックの格好の題材だと思いますが、何かありますか。

    前日光

    前日光さん からの返信 2021/12/08 16:19:09
    Re: 改めまして。。。
    聖武天皇と元正太政天皇についての少女コミック版は、残念ながら見かけませんが、元正天皇(というか氷高)と長屋王、不比等のならありますよ。
    今はたぶん作家活動をされていないと思うのですが、秋田書房からコミックスが出ている「長岡良子」さんという方がおります。
    その人の「古代幻想ロマンシリーズ」に「天(そら)ゆく月船(ふね)」というのがあります。
    これがまた妄想をそそられる作品でして。
    幼くして父(草壁)を亡くした氷高は、父を美化していて、子どもの頃に出会った不比等(氷高から見たら大人の男性)に、潜在的に憧れを抱いておりました。
    年頃になって長屋王に言い寄られますが、どこかで彼を拒絶してしまい。。。
    後になってその原因が不比等に対する思いだったことに気づくというお話です。
    長岡さんの絵は、正統派少女漫画のそれで、大変に美しく、氷高は殊に美しく描かれております。
    また不比等も魅力的なイケメンとして描かれていて。
    この漫画を読んで、私は不比等に対する見方が変わったのでした。
    不比等を主人公とした「眉月の誓い」というのも、なかなか素晴らしい作品です(^_^)v


    前日光
  • 前日光さん 2021/12/07 15:27:40
    今、今、書いたのに。。。(T_T)
    こんにちは。
    今、けっこう長くクドクドと書いたのに、コピーする前に
    よく分からない画面が出てきて消えました!
    再び書く意欲が、今のところ甦りません。
    また後で書きますねぇ(T_T)(T_T)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/12/07 20:25:15
    Re: 今、今、書いたのに。。。(T_T)
    それは残念!
    お待ちしています。

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