2020/12/01 - 2020/12/01
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しにあの旅人さん
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更新記録
2020/12/11 「飛鳥の女は強かった」の最後にエピソード追加。2021/03/23 引用資料追加。
トシをとると古いものにこだわります。旅もまたしかり。飛鳥、奈良の旅を思い立ちました。
縦の旅をします。歴史を遡って、その舞台を訪ねる旅です。
私たちが最初に訪ねたのは、日本書紀が語る大来皇女(おおくの・ひめみこ)と大津皇子(おおつの・みこ)、飛鳥の姉弟の物語です。
飛鳥、奈良の旅でいろいろガイドブックを探しましたが、元になっているのは、どうやら六国史といわれる一連の歴史書のようです。それならいっそのこと、六国史そのものをガイドブックにしよう。
六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。
記述する時代は、
「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。
「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)
「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)
「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)
「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)
「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)
今回は飛鳥、奈良がメインですから、日本書紀、続日本紀、日本後紀のお世話になりました。
原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。
今回の旅行記では次の資料を使用しました。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・日本後紀」森田悌・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」
「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」
文中、引用、参照が「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「古事記」とあるのはこの資料をさします。
「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店
読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました
「懐風藻」全訳注・江口孝夫・講談社学術文庫
「日本城郭大系10 三重・奈良・和歌山」新人物往来社
「訓読明月記(藤原定家)第6巻」今川文雄訓読・河出書房新社
「斎宮」榎村寛之・中公新書
「伊勢神宮と斎宮」西宮秀紀・岩波新書
「斎宮歴史博物館総合案内」斎宮歴史博物館編
「斎宮と古代国家」国史斎宮跡発掘50周年記念特別展カタログ・斎宮歴史博物館編
「斎宮大伯皇女の歌についての一史論」・Hosei University Repository・法政大学人文科学研究所 日本文学専攻 博士後期課程2年 原槇子 肩書きは論文発表当時。 発表年不明)
「斎宮史」山中智恵子・大和書房
「壬辰の乱」椎屋紀芳・毎日新聞社
「現代語訳 藤氏家伝」・沖森卓也/佐藤信/矢嶋泉訳・ちくま学芸文庫
「史跡 夏見廃寺跡」・名張市教育委員会作成の2種類のパンフレット
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅淸陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝いちで桜井駅前のホテルを出て、歩いて訳語田邸、現戒重春日神社に向かいます。しばらくすると寺川を渡ります。この川は古代は倉梯(くらはし)河、より古くは磐余(いわれ)河と呼ばれていたそうですが、ここでは寺川といたします。
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橋を渡ってまっすぐ進むと、右手にこんもりとした林があらわれます。
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奈良県桜井市の戒重(かいじゅう)春日神社。
朱鳥(あかみとり)元年あるいは持統天皇元年(686年)、ここに大津皇子の屋敷、訳語田(おさだ)邸がありました。 -
大津皇子、九州の那大津(なのおおつ、現博多)で生まれたので大津皇子と呼ばれる、とウイキペディアその他に書いてあります。
さっそくガイドブック日本書紀の、斉明天皇紀、天智、天武、ありそうなところを読んでみましたが、出生地についての記事はありません。
書紀持統天皇元年(686)10月3日の条によれば、享年数え24才ですから、天智天皇2年(663年)に産まれました。
この年大津皇子の父大海人皇子(おおあまの・みこ、のちの天武天皇)は、九州にいました。妃太田皇女(おおたの・ひめみこ、天智天皇第1皇女)も一緒。だから大津皇子は大津生まれにちがいないという推定のようです。
この時天智天皇は九州大津で、百済救援軍を朝鮮半島に送る陣頭指揮に当たっておりました。大海人皇子も兄を補佐して大津にいたのです。
大海人皇子はその前年(662年)には菟野皇女(うのの・ひめみこ、天智天皇の第2皇女、のちの持統天皇)との間に長男草壁皇子(くさかべの・みこ)を同じ大津でもうけております。つまり2人の后は同母姉妹です。兄の娘ですから、姪ということになります。姪を2人妻にしている。当時、母が違えば、兄妹の結婚は許されておりました。まして甥姪は当たり前でした。
女房を2人もつれて戦争とは悠長な話ですが、当時はそういうものらしい。
なお持統天皇は鸕野讃良(うののさらら)皇女と書かれることが多いですが、日本書紀では菟野皇女と書かれていますので、書紀に従います。
菟野皇女は645年生まれですから、草壁皇子を生んだとき17才。太田皇女の生年は不明ですが、多分二十歳前。661年に大来皇女を産んでいるので、ママとしては妹より1年先輩です。当時同母姉妹は母の家で一緒に育てられます。仲がよかったか悪かったか、こういうことは書紀は書いてくれません。
姉として先に子を産みましたが、妹が世継ぎたる男子を産んで忸怩たる思いがあったでしょう。大津ができて、「どうだ」と言った、などという話は書紀にはありません。書紀は結構ゴシップネタも記事にしているのですが、このへんちゃんと書いてくれたら、後年発言小町で盛り上がったのに。
姉妹の仲はともかく、年の差1年の2人の皇子は誰がどう見たって将来問題になりそうなのは、明らかです。
姉妹で1人の男と結婚するって?現代日本の文化では異様な習俗ですが、中国では春秋戦国時代に数多く見られます。外国かぶれの天武天皇がそれをまねたのかな?
いやいや日本にも木花咲くや姫と岩長姫の話があります。ににぎの尊が木花咲くや姫を見初めて結婚を申し込むと、姉の岩長姫も一緒に嫁入りしてきます。ところがににぎの尊は岩長姫が醜いからと送り返してしまいます。以後天皇家は花のように栄えるが石のような長生きはできないとなります。
また垂仁天皇は4人献上されて2人返品しています。コシャクなり垂仁天皇。
4人を1度に1人の男に嫁に出す親も親だけど、セレクションする受け入れ側もひどい。
娘は犬猫か!返品された娘の恨み晴らさでおくものか~
ああ、そこで、四谷怪談のお岩さんにつながっていくのですね。醜い女の恨み。
天武さんは垂仁さんより賢かったので、天智さんの娘を都合4人も嫁さんにしていますが、断らなかった。4人とも別嬪さんだったのですかね。やっぱり天智さんちとうまくやりたかったんでしょうか。
By妻
天武天皇には皇后の菟野皇女以下、数えるのも面倒なくらいの妻がいます。そのなかで、4人も子供を産んでいるのが、宍人カヂ媛娘(ししひとの・かじひめの・いらつめ)。この女人は低い身分の出身でした。たぶん、天武さんも気楽につきあえて、女としていちばん愛していたのはこの人ではないかな。4人の妃、兄の娘で、皇女となると、本心は「かったるいな~」と思っていてもおかしくない。
菟野皇女は政治を語る相手としては極めて優秀でしたが、2人で酒を飲んで、いいムードになって、「ねえ、うのちゃん」とか、てんむさんが手を握ったら、「ところで、あの飛鳥浄御原令の3条2項ですが・・・」などと言いそう。
By夫 -
戒重春日神社に、小学生の登校時間にお参りしました。私が丁寧に教えられたとおりに二礼二拍手一礼しておりました。そのうしろを小学生の団体がキャーキャー言いながら歩いて行きます。
と、その時拝殿にキラリ、サアーと光が流れました。大津皇子が「よく来たよく来た」と言って下さった、と思うことにします。
朝日のきらめきだったとしても。
By妻
持統天皇元年(686)10月3日、
「(大津皇子は)天智天皇に愛された」
となっています。というのは、母太田皇女が667年に薨去しているからです。
天智天皇6年(667年)2月27日、
「斉明天皇と妹の孝徳皇后を小市岡上陵(おちの・おかのうえの・みささぎ)に合葬した。この日皇孫太田皇女を陵の前の墓に葬った」
小市岡上陵は現牽牛子(けんごし)塚古墳。孝徳皇后は孝徳天皇の皇后で、斉明天皇の娘の間人皇女(はしひとの・ひめみこ)この件はそれだけでブログになるので、今回は割愛。 -
母を失ったのは、おそらく大津皇子3歳の時。その後は天智天皇に引き取られて育てられたそうです。天智天皇が自分で育てるわけはないので、実際にはだれが面倒見たか、
本来ならば、天智天皇の皇后菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)が育てるべきです。亡き姉の子、甥です。しかし菟野皇女は大津皇子を息子草壁皇子のライバルと見なしているので、とてもできなかった。もし引き取ったら、壮絶な継子イジメがあったことでしょう。
菟野皇女は、とくに後年持統天皇となってから、政治家としてはきわめて優秀ですが、1人の母親としては、我が子可愛いだけの、きわめて凡庸な女でした。それでも皇后たる自分が継子イジメにうつつをぬかすわけにはいかないと思ったのではないか。自分を制御できる自信がなかったので、彼女が断ったのでしょう。
大海人皇子も、つれ合いの性格を知っているので、「こりゃだめだな、兄貴に頼もう」と思った、か?
持統天皇と同時代人に、唐の則天武后というものすごい女性がいます。2人とも息子に代わって自身が政治を摂った女性ですが、武后がありとあらゆる方法でライバルを殺すというか、ギャクサツするのを思うと、持統天皇はおとなしいものです。お国柄ですかね。
武后の例から考えると、太田皇女は毒盛られちゃったのかも、オーコワ。
By妻 -
大津皇子は、成人してから非常に評判がいい。
持統天皇元年(686)10月3日、
「威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の流行は、皇子大津に始まったといえる」
詩賦とは漢詩のことです。
大津皇子の没年は686年、日本書紀は天武10年(681年)に編纂開始というのが通説、720年成立ですから、この年にはもう作業が開始されております。編集者にとっては、リアルタイムの出来事です。編集部に大津を直接知る人物も多かったでしょう。一次情報です。
「懐風藻」は日本最初の漢詩集です。751年~752年に成立とされております。編者不明ですが、淡海三船(おうみの・みふね)が有力と考えられています。
大津皇子の漢詩4首が収められ、その冒頭に皇子の人物評があります。
「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である。幼少の時より学問を好み、知識が広く、詩や文をよく書かれた。成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った。性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した。このため皇子につき従う者は多かった」
編者を淡海三船(722年-785年)とすると、大津皇子を直接知る人物から取材できます。二次情報です。
2文献とも内容は正確でしょう。
ベタ褒めです。
なお、大津皇子を第1皇子としているのは、淡海の間違いです。
三浦春馬という若手の俳優さんがご不幸な亡くなり方をして、歌もダンスも上手だった。あの笑顔が・・・という記事が出ています。本当にそうなら生前に言ってあげればよかったのに。そうしたらこんなことにはならなかったのに!
人間生きているときは競争相手だから貶す。足を引っ張る。ところがひとたび相手が戦線から外れると、もうライバルではないから安心して褒めるんですよね。
大津皇子も死んでしまえば過去の人、今現在争っているライバルへのあてつけに褒めちぎるってこともあったでしょうね。大津皇子、パーフェクトすぎます。
淡海三船という人は壬申の乱の敗者大友皇子の曾孫ですから、持統天皇に負けた大津皇子には並々ならぬ同情を寄せただろうし。
昔、長嶋茂雄にあの声。それでは王貞治は?きっと痔に違いない、と言われましたが、大津皇子はきっと十円ハゲがあったに違いありません。ストレスあっただろうし。
あまり完璧は信じられないBy妻 -
大津皇子はどんな屋敷を構えていたのか。文献はまったくありません。せめて範囲と面積だけでも分からないかと思いました。
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戒重春日神社(訳語田宮)と近鉄大阪線とJR桜井線(まんようまほろば線)が通る桜井駅の位置関係です。桜井駅から歩いて10分ちょっとです。
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かつてここには、敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさだ・さちたまの・みや)があったとされます。
敏達天皇4年(576年)、
「この年卜部(うらべ)に命じて、海部王(あまの・おおきみ)の家地(いえどころ)と糸井王(いといの・おおきみ)の家地を占わせたら結果は吉と出た。そこで宮を訳語田に造った。これを吉玉宮という」
訳語田幸玉宮については名前以外なにも分かっておりません。
大津皇子の屋敷は、当然建物は造り替えても、土地は訳語田幸玉宮を引き継いだと考えられます。
発掘すれば、宮の規模がわかるかというと、まず不可能です。ここには南北朝以降戒重城という城があり、何度も戦場となっております。楠木正成が姿を見せたかも。
築城、破壊、再建が繰り返されたはずで、古代の遺跡など期待できないでしょう。しかも現在は、戒重春日神社、西方寺以外、びっしり住宅、工場が立ち並んでいます。 -
「日本城郭大系10」によれば、南北朝時代戒重氏が築城、14世紀ころです。戒重氏は南北朝以前は詳細不明。ヤマトの地つきの豪族で、戦国期1500石ほどの所領を持っていたようです。16世紀末に滅びました。城は一時期明智光秀の所領だったこともあります。
江戸時代にも城として使われ、有名なところでは織田有楽斎が1618年に入部しております。このとき陣屋に改められたそうで、また改修が行われたでしょう。1745年に陣屋としても放棄されたようです。
戒重城は東西220m×南北235mの平城でした。地図の四角です。大手は南面にありました。城ですから東は寺川を天然の堀にしたと考えます。
面積は51,700平米。大津皇子の屋敷は4町ならば全域です。城の面積が、古代の大官の屋敷の面積とほぼ同じというのがおもしろい、そのまま引き継がれたということでしょう。
皇子の死後所有者がかわり、いつの時代か地つきの豪族戒重氏の領地になった。
地図の四角は、東に寺川あるので東西にはうごかない。南北には多少動くかもしれません。戒重春日神社、その東の西方寺が個人の手に渡ることがなく、そのまま維持されたのは、かつてここになにかがあったと考えられていたのでしょう。戒重春日神社から西方寺にかけて、このあたりに大津皇子の住まいがあったと推定しました。 -
藤原宮跡資料館でおもしろい物を仕入れてきました。藤原京での宅地の班給基準です。
持統天皇の藤原京遷都は694年で、大津皇子の時代は、都は飛鳥浄御原宮でした。しかし政府高官、皇族の屋敷の基準はあったはずです。こういうところをネチネチと詰めるのが律令制度です。それを当てはめてみました。
土地の1町は約120m四方です。総理大臣クラスは左端の4町240m四方。皇族や政府高官クラスだと2町または1町です。
大津皇子は天武朝の有力政治家でしたから、4町、57,600平米。高位の皇族としてなら、2町。基準図中央です。240m×120m、28,800平米となります。
どんな屋敷だったのか。
これも書紀は何も教えてくれません。得意の類推でいきます。 -
藤原宮跡資料館の、藤原京で発掘された邸宅の復元模型。家主は特定できないそうです。敷地は1町、東西120m×南北103m、面積12,000平米。
正殿の面積は300平米で、平城京長屋王邸の正殿と同じ大きさです。長屋王は太政大臣でしたから、敷地面積は小さいものの、この家主は相当高位の貴族か役人であったそうです。
訳語田の大津皇子邸も、時代はそんなに違っていないので、このような建物で、建物はほぼ同じ、敷地面積は倍か、4倍と考えます。 -
こんな感じか。
下手な合成で恐縮です。
大津皇子の住まいは、何となく想像できそうです。 -
夫婦2人で子供はいないので、そんなに広い屋敷は必要ありません。ちょっと現代的な推定すぎますかね。それでも2人の住まい正殿は300平米、付属建物合計700平米ありました。
広い敷地の大半は何に使っていたのか。 -
皇子の后は山辺皇女(やまのべの・ひめみこ)、天智天皇の娘ですから、大津皇子の叔母になります。天智2年(663年)生まれで、同い年でした。近江宮で育ったはずで、天智天皇に引き取られたあとの皇子の幼なじみかもしれません。
大来皇女と大津皇子は母太田皇女亡きあと、天智天皇の皇后倭姫(やまとひめ)に育てられたという説があります。この皇后は子供がいなかったので、母を亡くした幼い姉弟はこの人に託されたらしいのです
倭姫は古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・みこ)の娘です。古人大兄皇子は天智天皇によって謀反人として殺されています。
倉山田石川麻呂という人がいます。この人も謀反の疑いで殺されている。太田皇女と菟野皇女はこの倉山田石川麻呂の孫です。
蘇我赤兄は壬申の乱の時の近江朝の重臣で、乱のあと流罪になりました。大津皇子の妃山辺皇女は赤兄の孫です。
あの人もこの人も親戚で、右を見ても左を見ても謀反人。累々たる屍のなか、よるべのない者同士の大津と山辺なのです。
By妻 -
訳語田邸から飛鳥浄御原宮まで現在の道路で徒歩最短6.3キロです。鉄道を越えるのに手間がかかります。大津皇子の時代はそんなものはないので、もう少し短かったでしょう。
天武天皇12年(683年)2月1日、
「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」
とあるので、この日から飛鳥の宮に出仕したわけです。
朝廷への出勤は当然馬。馬の並足は大体時速6キロですから、一時間くらいかかったことになります。山辺皇女とイチャイチャして遅くなっても、並足早足駆け足交互で時速16キロ、20分で着くので心配いらない。
飛鳥の野を行く馬上豊かな青年貴公子、絵になります。
朝廷は朝3時に開門、日の出と同時に太鼓の合図で仕事始めだったそうです。太陽の光がある間に仕事をすませなければなりません。夏なら5時くらいでしょうか。
大津皇子は5時に着くには4時に家を出ます。后の山辺皇女は大変、毎日2時起きで、亭主の朝食を用意した、かどうかは知りません。召使いはいっぱいいました。朝ご飯は仕事場で出たかもしれません。
山辺皇女はだんなにラブラブでしたから、ベッドで「じゃ~ね~」などと寝ぼけ眼で言ったりはしない。まちがいなく玄関で「行ってらっしゃいませ」と見送ったことでしょう。若い2人ですからね、チュっとか。飛鳥時代にそういうことは・・・したっていいじゃないの!
テレビの時代劇などでは、室内は夜でも明るい。でもこれはウソで、行灯1基の光量は60ワット白熱電球の50分の1か100分の1、行灯を50から100並べてやっと60ワット電球1個分です。石川英輔は自分で行灯を作って実験しました。(「大江戸エネルギー事情」石川英輔・講談社文庫)
10畳の部屋に60ワット電球1個だと薄暗い。でもそのためには行灯100基が必要。そんなことしたら、部屋中全部行灯で埋まって、人間のいる場所はありません。
古代はまだ行灯はなく、裸火の光源ですが、似たような光量でしょう。つまり夜は灯りを必要とする仕事はできない。早朝明るくなると仕事を始め、食堂で間食というか、朝ご飯を食べます。午前中で仕事はお終い。宮中の食堂で昼飯を食べて帰宅です。夜は暗くなると寝る。 -
出典:平城宮跡資料館。
平城宮内台所です。宮で働いていた7000人の役人の給食を作っていました。 -
こちらは藤原宮の台所。
出典:藤原宮跡資料館
飛鳥浄御原宮では規模は小さいでしょうが、同じシステムで、給食を2度食べてお終い。
大津皇子が役所の給食を食べたかな。ただ「高貴な身分でありながら、よくへりくだり」とあるので、役人と一緒に食堂で食べたかもしれない。 -
どんな物を着ていたのか。
-
明日香村文化財展示室の、飛鳥時代の男女の服装です。高松塚古墳壁画の男子群像、女子群像を参考にしたそうです。生地がぺらぺらのような。明日香村の文化予算の問題だと思います。
飛鳥時代後半、天武天皇のころ。朝廷に出仕するときの制服です。朝服、「みかど・ころも」といいます。 -
後ろから。
-
洋服の話ですが、現代の私たちの服装は男が右手、女は左手が入るボタン付けになっています。和服は男女ともに右手が入るように襟元を合わせます。これを右衽(うじん)というそうです。
今回飛鳥時代、奈良時代の服装を見てきました。この写真では左手が入る左衽です。そしてもうちょっと時代が下がると右衽に見えます。え~っ、どっちでもいいの?
と、念のため調べたら、701年の大宝律令から右衽に決まり始めて、719年の養老律令で全国民右衽に決められたらしいです。以来日本人は右手をふところに入れてきたんですね。
違反したらどうなったでしょう。中学生のとき、登校時に校門で先生が男子の学帽チェックなんかしてたなあ。
そしてお気づきになりました?ここは明日香村の資料館、人形は左衽に着ています。 -
出典:くるべ古代歴史館
聖武天皇の時代。
こちらは右衽。天武天皇と聖武天皇の間にファッション革命が起きたのです。
それを正しく展示しているキュレーターはえらい!
それに気づいたBy妻もえらい!
By妻
ホント、そんなこと思いもしなかった。もともと着ていりゃいいという夫ですが。
By夫
はいはい。この人は昔会社の同僚に、たぶん町で私らしい人を見かけたのでしょうね、「今日は奥さん何を着てた?」と聞かれて、「サァ~、裸じゃないのは確かだけど」と答えた人ですから。
By妻 -
ちょうど大津皇子の時代です。
男は上着の色で位階を現します。
ズボンは白と決まっていました。
天武天皇14年(685年)秋7月26日、
「勅して明位以下進位以上の者の朝服の色を定めた。浄位以上はみな朱花(はねず、朱色)・・・」
天武天皇14年(685年)春1月2日、
「大津皇子に浄大二位を授けられた」
とあるので、大津の朝服は朱花となります。朱色、派手です。
しかも大津皇子は「丈高く」つまり高身長ですから、ド派手だったということです。目立ちますね。
宮廷の女官達は「キャー」と騒いだに違いない。「大津皇子様ステキ? ???」とか。
退庁するときは毎回、鞍に結んであったラブレター数十通を捨てるのが大変だったという歌が、万葉集にあったような。引用しようと探したのですが、どこだったかな~、どーしても見つかりません。
これを聞いていた皇后菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)は内心おだやかではない。
それに反して我が子草壁皇子は、貧相で、まるでモヤシの上だけ紅ショウガに漬けたようではないか。
草壁皇子モヤシ説はあちこちの古代ブログで拝見します。虚弱な体質だった。とにかく影の薄い皇子様でした。
大津皇子がダンディーで立派なのは、彼女もほれぼれするくらい。「私が若くて、皇后じゃなかったら、アタックするわ」などと、不謹慎なことは、言っておりません。
菟野皇女この時40才。
大津皇子は若い女官からおばさん女官まで幅広くもてたのではないかと。
草壁皇子と大津皇子のことをずっと考えています。この2人は異母兄弟です。異母兄弟ってどのくらい似ているんだろう、というか、どのくらい似ていないんだろう。
有名人の異母兄弟って、山本寛斎と伊勢谷友介。似ていないですね。
橋本龍太郎元首相と大二郎元高知県知事。似ていないようだけど、お品がいいところが似ていますね。やっぱり似ているっていうんでしょうね。
でも草壁さんと大津くんはただの異母兄弟ではないのです。おじいさんとおとうちゃんが同母兄弟で、お母さんが同母姉妹。もうほとんどクローンじゃないでしょうか?
ちなみに同父同母兄弟を探してみました。
永山瑛太、絢斗兄弟。柄本佑、時生兄弟。古いところでは渡哲也、渡瀬恒彦という兄弟もいました。弟のほうが濃い顔で毛深いのはなぜだ?
もしも大津くんがイケているなら、やっぱりどう考えても草壁さんがブチャ男とは思えない。ブチャ男としたら違う理由でしょうね。性格的なもの、能力的なものでしょうか。草壁さんのマザコンが目に余るとか。
By妻 -
朝服(みかどころも)というのは、朝廷に出仕するときに着ていく服ということですから、公務員の制服です。
これが実にうるさい。
書紀天武天皇11年(682年)夏4月23日、
「今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、12月30日までに上げ終わるようにせよ。ただし髪を結い上げる日は、また勅で示すからそれを待て」
「勅」です。天皇の命令。高校の髪型の校則みたい。「ルっせんだよ!」とか若い連中は言っていたに違いない。日本の小うるさい校則のルーツは飛鳥にあります。(ない、ない!)
この日、この勅のあとにおもしろいことが書いてある。
「婦女が男子のように(中国の風習にならって鞍にまたがって)馬に乗るようになったのは、この日からである」
飛鳥の女は馬に乗っていたんだ!
天武天皇13年(684年)閏4月5日、
「男女とも衣服は襴(すそつき、らん)があってもなくても、また紐を短く結んでも長く垂らしても、自由である」
そのあとに「ただし朝廷に参集する日は・・・」とくるので、ここまでは私服ということです。私服だからそりゃあ、なんでもOKということです。でも、私服でも朝服のようなものを着ろ、ただし襴や紐は自由でいい、とも読める。
そのあとに、
「ただし朝廷に参集する日は襴のある衣を着用して、長い紐を垂らせ。男子は圭冠(はしはこうぶり、烏帽子)があればそれをかぶり、括緒褲(くくりおのはかま)を着けよ」
細かい。しかし「男子は圭冠があればそれをかぶり」となっているので、なければかまわない、ということで、細かいわりにはいい加減です。
そのあとに、
「女の四十歳以上の者は、髪は結い上げても結い上げなくても、馬の乗り方が縦でも横でも任意とする」
四十歳以上の女の髪型には興味がないようです。四十歳以下の若い女は結い上げろ。髪を結い上げるというのは唐風、流行の最先端です。今ならパリコレ直輸入。天武さんの趣味です。
その次が重要。
「馬の乗り方が縦でも横でも任意とする」
11年の記事で女が馬にまたがって乗るようになったのは分かっていました。
「朝廷に参集する日」の続きですから、文脈上、女官が馬で朝廷にやってくることを想定しています。
女が馬で出勤していたんだ! 飛鳥時代の女のイメージが一変しました。
この馬の件ですが、横鞍に乗って不自由だった若い女官から、「やってられないわよ、縦に乗りたい!お願い♡♡♡」と天武天皇に突き上げがあった。じゃあ、いいよ、ということにしたら、馬になんか乗らないおばさんの女官から「女が馬にまたがるなんて、はしたない」と苦情。
「分かったよ、好きに乗れば。おれはもう知らん」と天武が匙を投げた、ということだと思います。天武天皇は全権を握っている独裁君主ですから、こういう女の世代間争いにまで巻き込まれるのです。ご苦労様。 -
書紀には、女の朝服についての記述がないのですが、
-
これですね。
上着の下はスカートです。
「高松塚古墳壁画の女子群像を参考にした」となっているので、当然男子同様朝服です。
これでどうやって、馬に縦に、つまりまたがって乗るのか。スカートですからね、太股あらわ、えらいことになります。
By妻によれば、スカートだって自転車に乗れる。馬に乗ったら足に巻き付ける。
しかし乗り降りをどうするか。白い美脚を中空高く跳ね上げて鞍にまたがり、その後すまし顔で「何か」とか言いながらスカートを巻き込む。飛鳥浄御原宮全部の男達が見に来たことでしょう。でもそういう記事は書紀にはありません。
天武天皇だって見に行きたくて腰を浮かす。隣で皇后が睨んでいる。コホンと咳でもしてカッコつけて座りなおす。ンなこと書紀に書いてない。
書紀の口うるささは小姑なみ。
もし女官の馬の乗り降りに、天皇以下男の役人どもが群がって見に来たら、風紀上よくないので男のようにズボンをはけだのなんだの、しゃかりきになってなんか言いそうですが、一切言及ありません。 -
時代は下がりますが、10世紀斎王群行資料を基にした三重県立斎宮歴史博物館のジオラマです。
しっかり女官がズボン状の乗馬服を身につけ、 -
馬にまたがっております。
結論、女の乗馬服があったのです。天武さん並びに飛鳥浄御原宮の男性諸君、残念でした。
天武天皇は女性の登用に熱心だったようです。
天武天皇2年(673年)5月1日、
「公卿大夫及び諸臣・連・伴造らに詔して『はじめて宮仕えする者は、まず大舎人(おおとねり、宮中で雑務に任ずる役人)として仕え、その上で才能を考え適職に当たらせよ』
要するに研修期間があって、その後に適材適所でやれ。
注目すべきはその次、
『また婦女は夫の有無及び長幼を問うことなく、宮仕えしたいと望む者を受け入れよ。その選考は一般男子役人の例に準ずる』とされた」
既婚未婚年齢不問、やる気のあるヤツを採れ、男と同じ基準で採用ということは男女性別不問ですな。現代の日本より進んでいます。
律令国家建設、運営には膨大な官僚機構が必要です。文字の読み書きができて、当たり前のことを当たり前にできる人材がいくらでも必要だったのです。老若、男女の別、そんなかったるいことに拘っていられない。
なるほど、飛鳥浄御原宮では、女の役人が馬で通勤してくるのは不思議ではなかった。
浄御原京は後世の藤原京、平城京よりはるかに狭い。役所だけで一杯になって、そこで働く連中の住まいは郊外に散らばっていたはず。通勤に馬は必要だったのです。今だって、世田谷や松戸から丸の内に歩いて通えって言われたら嫌でしょう。
天武5年くらいから、藤原京引っ越しの話が持ち上がっていたのは理解できます。役所の前の駐馬場の問題もあったのではないかな。天皇が、馬糞で臭くてダメ、何とかしろ、と言ったとか。
この間ニュースを見ていたら、中学生の女の子が無免許でバイクに二人乗りして、警察に追われて逃げまわったあげく、事故を起こした事件がありました。交通違反して逃げ回って自滅というのはよくニュースになっているので、目新しくもないのですが、これ、女子中学生、女子なのです。
うーむ、女はリアリストだから逃げずに捕まってしかられりゃ、痛いおもいしないですむくらいの計算はできたと思うんだけど。
馬鹿にもなったけれど、強くなりました。
飛鳥時代の少女も痛い思いしたんだろうか?
勇猛だったことは間違いないみたいですね。
By妻
飛鳥の女官は、乗馬トップモードだけでがんばったわけではありません。よくも悪くもただのお飾りではなくて、実力を発揮していました。飛鳥はけっして、単純な男社会ではなかったのです。
天武10年(681年)年5月11日
「この日詔して、『およそ百寮の人々が、宮廷の女官に対するあがめ方には行き過ぎがある。あるいはその人の家にまで行って、自分の訴えの取り次ぎを頼み、あるいは品物を贈って、その家へこびへつらったりしている。今後もしこのようなことがあれば、事実に即して、行った者も宮人も共に罪に処する』といわれた」
褒めることではないですが、賄賂をとって、役所の決定に影響力をもっていました。役人が平身低頭、古手の女官に陳情している風景は、女の乗馬と同様、予想外。
飛鳥の女、なめてらいかんでよ。 -
どんどん脇道に逸れていきますが、大津皇子の時代の臨場感を出すということで。
大津皇子はどんな生活をしていたか。
飛鳥時代の直接の資料はありませんでした。しかし奈良文化財研究所(都城発掘調査部・飛鳥藤原地区)でふたたびすごい資料を発見。藤原京の時代ですから、飛鳥浄御原宮と時代が10年下がります。
平城宮資料館も当時の生活を知る資料の宝庫です。平城京遷都は710年ですから、大津皇子の時代からは少なくとも30年時代が下がります。が、ものによっては似たようなものでしょう。 -
まず食事。出典:藤原京跡資料室
主食 白米
副食 わかめの汁、鮎の煮付けゆでたせりつき、鯛の和え物、鮑のうにあえ、心太(こころぶと、寒天。酢じょう油で食べる)、枝豆、瓜の粕漬け、しょうがの酢漬け
飲み物 清酒(きよざけ)
デザート 蘇(チーズ)、果物(くるみ、うめ、びわ)
調味料 酢、塩
出典は奈文研の都城発掘調査部・飛鳥藤原地区ですから、藤原京の時代、時代が近いので、まちがいなく大津皇子も食べていた。
かなりうまそう。 -
あゆですね。
-
鯛、鮑、ここあたりがメインでしょうな。現代でもごちそうですよ。
-
白米。あきらかに食べ過ぎ。
その結果、
「材料豊富で、特に宴会の食事は大変豪華。真鯛、鮑のウニあえ、古代のチーズともいえる蘇、心太(こころぶと、寒天)、そしてデザートの果物なども膳に並んだ。山海の珍味だが、栄養の過剰摂取で、成人病に悩むことも多かったろう」
だそう。 -
寝室はベッドです。出典:平城宮資料館。
-
書斎。出典:平城宮資料館。
このような机で、大津皇子も漢籍を勉強し、懐風藻に残る漢詩を書いたのであります。 -
これは平城宮資料館で見た、宮中での生活風景の再現ビデオです。
平城宮には断続的に70年ほど宮廷がありました。後半だと大津皇子から100年も時代がくだります。服装も食器も違います。しかし、座って食事をしていたこと、箸を使っていたことは変わりません。 -
役所の仕事の様子の再現ビデオもありました。仕事はデスクと椅子でした。でもくつろぐときは床に座るのは、やっぱり日本人なんですね。
By妻 -
双六をやっております。右側のお姫様、后か皇女か知りませんが、無邪気に大きなお口でおどろいております。
双六は大津皇子も楽しんだはずです。
持統天皇3年(689年)12月8日、
「双六を禁止された」
とあります。それまで、禁止するほどはやっていたということです。役人達が夢中になって仕事をしなかったからかな。 -
囲碁は飛鳥時代には中国より渡来しておりました。
大津皇子も友人と烏鷺を争ったでありましょう。
懐風藻に載っている大津皇子の漢詩に「遊猟」があります。後半4句。
朝に芸能の名士を択んで狩に出
暮には万騎の勇士と酒宴を開く
肉をほおばり心のびのびと朗らかに
盞を傾けてうっとりと酔うている
お肉が好きだったようです。お酒もいける口だった。
1日中友達と狩で駆け巡って、その夕獲物を肴にいっぱいやる。24歳の元気な若者には最高!
大津皇子は、訳語田の屋敷で、山辺皇女と双六で楽しい時間を過ごし、ごちそうに舌鼓をうち、狩や囲碁に友人と熱中し、勉学と詩作にうちこむ幸せな何年かを過ごしたのであります。
しかし、運命の朱鳥(あかみとり)元年あるいは持統天皇元年(686年)冬10月3日がやってくるのです。
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この旅行記へのコメント (17)
-
- へびおさん 2021/11/20 19:28:50
- 姉妹で同じ男性に嫁いだからこそ・・・
- しにあの旅人様
旅行記表紙の二上山にウットリです。
太田皇女と菟野皇女は同母姉妹ですし小さい頃はきっととても仲が良かったでしょう。
でも結婚して子供が生まれると誰よりも近い間柄なぶん、対抗心も相当だったと思います。
漫画『天上の虹』を読んでのイメージになってしまうのですが、菟野よりも太田のほうが女性としては愛されていたんじゃないかと。
余計に姉が憎くなるでしょうし、その子供たちも可愛がれないと思います。
しにあの旅人さんが仰るように、天武にとって菟野は戦友であって愛おしむ存在ではなかったのだろうなと思います。
それにしても大津が亡くなったのが24歳頃だとすると、どこかに落とし胤が居てもおかしくないとは思います。
彼の血がどこかで生き残っていることを願わずにはいられません。
聖武天皇時代の服はあんなに煌びやかになったんですね!
技術が一気に進歩したのかな。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/11/21 06:00:08
- Re: 姉妹で同じ男性に嫁いだからこそ・・・
- おはようございます。
大来大津の姉弟は日本書紀でも私にはいちばん感動的なお話です。万葉集や懐風藻とも連動しているので、面白さ100倍です。
太田、菟野の姉妹は、この時代子供の頃は一緒に暮らしたはず。2人で天武さんに嫁いでからは、あまり仲がいいとは思えない。
「天上の虹」に2人が出てくるのですか。少女コミックまでは手が回らないので、見ておりません。
菟野さんは、その後の日本書紀や続日本紀を読むと、すごい人物のようです。壬申の乱や、古代律令国家は、基本は菟野さんつまり持統天皇のアイデアで、天武天皇はそれを実行したのではないかな、って思ったりします。
菟野さんは天武さんにとって、あまり可愛げのある女ではなかった見たい。
大津皇子には子供がいたという話が後世できたようですが、信頼性は低いようです。
残念。
-
- ryujiさん 2020/12/27 21:17:53
- 素敵な旅行記を発見!
- 初めまして、しにあの旅人さま。 私はryujiと申します。
本日、貴方様(女性でしたら失礼)の旅行記を拝読いたしました。 題しての「飛鳥の姉弟」・主に大津皇子の登場に興味深く心がときめきました。 これはとりも直さず、貴方様の深い考察と文面の面白さによるものと思います。
小生も好きなんですよね、この時代の人物(主人公となったオオツノヒメミコ)です。 歴史的にはあまりにも資料が少なく、知られていない部分が多いと思います。 それ故、想像をめぐらすことが出来き好きです。 「悲劇の皇子」だのあれこれ自身で勝手になぞらえて楽しんでいる小生です。
ありがとうございます、しにあの旅人さま。 貴方様の旅行記の出会いに感謝します。
- ryujiさん からの返信 2020/12/27 21:45:40
- Re: 訂正です
- 申し訳ございません、訂正致します。
正「オオツノミコ」
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/28 06:28:32
- Re: 素敵な旅行記を発見!
- おはようございます。
74のジジイでございます。ただこのブログは妻との共作ですので、そっちの方は当然ババアです。By妻ということで、ブログの常連の皆さんには、私より人気があります。
文字ばっかりの4トラでは異端のブログですが、興味を持っていただいて、ありがとうございます。
古代(誇大?)妄想旅です。書紀などの文献と考古学的事実に矛盾しなければ、何をどう書こうと勝手、というのが基本的スタンスです。
書紀のアラ探し、意地悪読を楽しみにしております。
このシリーズは長く続きます。お付き合いいただければ幸いです。
-
- 前日光さん 2020/12/26 00:34:24
- おいしそうなお話ばかり。。。
- こんばんはー(~o~)
大学の学部を選ぶとき、史学科か文学部か迷いましたが、史学に行くと、たぶん苦手な経済学とか政治学とかやらねばならぬと思い、やはり文学部国文学科にしました。
そしておそらくは「源氏物語」に行くと思ったのに、なぜか上代、万葉集に辿り着いたのは、教授の方々の授業が面白かったからで、特に古代皇室のグチャグチャな人間関係、血なまぐさい跡目相続、嫉妬、怨念、執念。。。複雑になればなるほど血湧き肉躍る性分なので。
それにしても「訳語田宮」の面積がどれくらいだったかを割り出した人って、たぶんしにあさんが初じゃないでしょうか?
実証主義者の面目躍如たり!ですね。
飛鳥の女は強かった説、乗馬姿も勇ましく野山を駆け巡っていたのでしょうか?
あのツーピース姿、髪型がかわゆくて。領巾なんか靡かせながら、男に負けてないって所がたまりませぬ。
「そこのくさ原で花を摘んでるベイビィ、名前を教えてくれ、そうそう、そなたじゃ」なんて話しかけられて、「わたし、イケメンが好きなのよ、あなた、ちょっと好みじゃないわ!春馬くんみたいなのが好きなの」なんて言い返していたのでしょうか?
一夫多妻、近親婚なんて当たり前のこの時代、こどもはそれぞれの母の家で育つので、異母兄弟(姉妹)だと会うことも稀、バッタリ出会えば自然に愛情が芽生えてしまったのかも。
その上遺伝の法則なんて知らなかったでしょうから、生まれても葬り去られたり、不具(これ使用禁止でしたっけ?)だったりして表に出て来られなかった子とかいたのでしょうね。
大来、大津は同母姉弟、持統さんは複雑な気持ちだったことでしょうよ。
評判があまりよろしくない草壁さんですが、母同士が同母姉妹、祖父は同じ天智、父が天武となれば、よほどのことがなければ、かっこよくないはずはないと私は思っているのですが。
ただ母持統が、強い性格や祖父天智のような冷徹さやらを全部持って行ってしまったので、草壁に残されたものは、父天武のような、よく言えば誰にでも優しい性分(そうは言っても兄と兄の息子、自分にとっての甥である大友の皇子を滅ぼすという残酷さを持ち合わせてはいますが)だけを受け継いだのかも。
草壁には、彼なりの苦悩やコンプレックスがあったと思うのです。
そういう草壁が決して嫌いではありません。
でも資料にも残された大津のカッコ良さを読むにつけ、そりゃあ素敵な人物だったのだろうと思い、姉大来の万葉集に残された歌を読むと、いろんな妄想が湧いてきて胸がザワザワとしてくるのです。
高市の皇子と十市の皇女との関係も気になるし、天智と妹の間人の皇女って、どうなっていたのかな?
間人ちゃんは夫の孝徳ちゃんを捨てて、近江大津の宮に兄の天智といっしょに行ってしまうんですよね?
古代妄想編、どこまで続くのでしょうか?
何にしても、楽しみー!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/26 16:53:31
- Re: おいしそうなお話ばかり。。。
- 誇大妄想旅行、始めました。今天武吉野脱出行をやっておりまして、Googleマップ、乗馬学校の入学条件、日の出日の入り時間を調べるのが結構面倒くさい。この三題噺、なんのことか分かったらえらい。どうなりますか、期待しないでお待ちください。
万葉集専門家の前日光さんに新解釈をぶち上げるのは、ちょっとどうかという意見もちらほら、そこをがんばっちゃうのが、妄想旅行の醍醐味です。大来皇女の歌でやってみます。
なんと最後は大伴家持も登場させる予定。時代が合わないのは百も承知、頑張る。
金太郎と更科ちゃんで味を占めて、柿本人麻呂と大来皇女をどこかで会わせることができないかと、頑張ったのですが、やはりどこをどうやってもこじつけられない。時代的にはいけるんですがね。
高市皇子は調べると面白い人物でした。間人の皇女もちょっとだけでてきます。飛鳥時代オールキャストです。持統天皇なんか毎回悪役で出てきます。
相当長くなりそうです。気長にお付き合いください。
-
- kummingさん 2020/12/21 21:41:38
- プロローグ♪ 祝 by夫 デビュー^o^
- by夫&by妻共作歴史絵巻超大作、第3弾?
FDll ではご紹介頂いた資料、ほぼ当たらせ貰って、ずっとブログについて行けた、今では楽し懐かし思い出♪ シリーズ続編「FDllを巡る女たち」も待たれます^ ^
タケル君シリーズは門外漢、故の悪戦苦闘、漢字読不可解不可難過症候群を患い(ーー;)
そして今回の六国史の旅、プロローグから膨大な情報量に圧倒されております。
もちろん冒頭ご紹介の関連資料に目を通す?など頭の片隅にもございません。
mistral さんがおっしゃられてる様に、私も頭の整理兼ねて、家系図なぞ書いてみたり…
近親婚って古今東西、血統を繋ぐ手段だったのでしょうか?
藤原不比等は自分の娘を天皇家に嫁がせて外戚になり、更に孫と娘を(2人はおばさんと甥、の関係)結婚させて、藤原家繁栄の基礎固め。この後不比等は出て来ますか?(←疑問形だけど、ほとんどリクエスト笑笑)
ローマ帝国の礎を築いた鉄の意思の男、アウグストスも、後継選びでは自分の血、にこだわるただの人になっちゃって、コレ、と思ってた意中の孫に早死にされて、泣く泣く親友の妻略奪婚のツレ子のテイベリウスを跡継ぎに、その後は政敵だったアントニウスの娘の子供がカリグラとかネロという悪名高き皇帝を生んでしまうという顛末。近親婚は問題児も多く輩出?この辺もごちゃごちゃしていて、わかり辛いですね。
則天武后、ライバルが産んだ男子を殺したり、悪女伝喧しい方ですが、帝位についた過程といい女帝という事もあって、その正統性を仏教のなんちゃら(名前忘れた法典?)を根拠にする為に仏教を厚遇したとか。それを真似して、片親だけ天皇家直系だった聖武天皇が同じくその正統性訴える為に仏教を広めたそうな。
キリスト教の(ほぼ)国教化に絶大に寄与したコンスタンテイヌス帝も、然り、
おかげで聖書の「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」→「神のものもカエサルのものも神に」という曲解がまかり通る、ローマ教皇の絶対優位な時代が来て、FDllは苦難の道を余儀なくされたT_T
話が完全に逸れておりますm(_ _)m
お酒飲んでいい雰囲気の中「ねえねえ~」と声かけられて、「そ~いえば、アメリカ大統領選の件だけどさ~」と、答えてしまう、ばあばでした(笑笑)←若い時から?
今年はこの多難な時を、しにあの旅人さんのコメントがツボにハマり、by妻さんの妄想力にお腹を抱えて、嬉し楽しく過ごさせて頂きました♪
来年も思いっきり力いっぱい期待しております^ ^
良いお年をお迎えくださいませ^o^
長いコメントでm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/22 06:43:27
- Re: プロローグ♪ 祝 by夫 デビュー^o^
- 最初から超重量級のコメント感謝です。重量オーバー大歓迎。
ただこのシリーズ、これからも相当長く続きます。コメントも細く永くペース配分お願いします。
アウグストスの話などは、ひょっとすると、数年後のイタリア旅行のネタなのではないですか。どっちみちイタリアは当面いけそうにない、などとヤケにならないように。
リクエストの不比等さんは今回は出演依頼しておりません。ギャラが高いようです。その代わりといっちゃなんですが、お母さん(義理かも)の大伴夫人とお兄さんの上恵さんには、端役ででてもらいます。鎌足さんもスケジュールが合えばと、マネジャーさんに交渉しています。飛鳥時代への時際電話は高いので、ままなりません。Line入ってくれればいいのに。
今後手を握られたら、握り返すくらいはしてあげてください。ご主人だって、写真なくした悲しみを慰めようとして、努力しているのです。アレ、忘れたころにまた、塩?
-
- ももであさん 2020/12/21 14:39:18
- 通りすがりの猫でございます。
- こんにちは。
ちょっと前を通り過ぎただけの猫でございます。
言われてみれば、天神から北の博多港が「那の津」として
今も地名がそのままですね。皇子は博多港生まれなのでしょう。
ここだと船で朝鮮出兵するのも飛鳥へ帰るのにも便利
ぼくなら取り敢えず阪九フェリー使いますが。
ちょっと気になるのが滋賀県の大津市
もちろん当時琵琶湖は国内最大級の港でしょうから
大津の名称もうなずけます。が、大津皇子との関わりは!?
大津市の近江大津宮に遷都したのは天智天皇。
大津市役所付近の皇子山の地名は大友皇子さん由来。
淡海三船さんの名は琵琶湖を意識したとしか思えない。
そんなジグソーパズルのピースが歴史のロマンですね。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/22 06:18:10
- Re: 通りすがりの猫でございます。
- さっそくのお立ち寄りありがとうございます。
今回はいつまで続くか、本人もまだわかっておりません。まあ、コロナもまだ目処が立たないので、亀の子作戦の間、しばらくはこのシリーズで楽しみます。
6月と11月、2回飛鳥奈良に行っておりますので、写真には困らない。
滋賀県の大津もちらっと行ってきました。近江大津宮跡見てきました。せっかく行った博物館はお休み。
今回の旅行では博物館によく行きました。どこもガラガラ、独占状態でした。もともとこうなのか、コロナのせいかわかりませんが、もったいないなあ。どこも工夫を凝らした素晴らしい展示でした。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/22 07:20:35
- Re: 通りすがりの猫でございます。
- ↑でkummingさんに塩の上塗りしてきました。悪いことをしたと反省しきり。行って慰めてください。犯行加担示唆しているわけでは、絶対にありません。念のため。
- kummingさん からの返信 2020/12/22 16:03:01
- 通りすがりのばあば、でござりまするm(_ _)m
- 一度出かけたらお戻りはいつ?なももネコさまに代わって、返信する、代行承ります^ ^
本当は、
おさだ邸復元図、by夫さんの面目躍如、真骨頂!藤原宮跡資料館に展示されてても?な素晴らしい出来栄え~(拍手)
いつもはぼーっと立ってるだけの明日香村文化財展示室やくるべ古代歴史館のマネキンさん達も、その価値分かるby夫by妻さんに見て貰えて、本望だった事でしょう!
私も女性活躍時代に行って、♪う~まにまあたが~りおんまの稽古♪と、疾走してみたいっ
などなど、ブログに沿ったコメント投稿の予定が、何故かいつも閉めてたタンスの引き出しが次々に引き出され、中身が飛び出てぐるぐる(*_*) どうやら一部の方々のブログにそういう症状を誘発させる毒性、魔性があるらしい?敢えて、師匠だのモモさまだのmistral さん、しにあさん、なぞ個人名を挙げるつもりはございませんが、そ~いう次第で、コメントを短くまとめるのが難しい…。とはいえ、書き始めたら反射神経で指が勝手に動いている。
来年はしにあさんのブログをナヴィ代わりに、相方と?手に手をとって!?斑鳩へ~、なんて展開あるかも。
そして、細く短く、永~く、目指して^o^
お邪魔致しました。
-
- mistralさん 2020/12/21 09:36:20
- 二上山。
- しにあの旅人さん
おはようございます。
新作旅行記を昨夜、拝読し
一夜開けてコメントを書いております。
当時の婚姻関係、しっかり理解しようとすればするほど
私の頭が受け付けなくなってしまいそうで (笑)
朝のまだスッキリしている頭でもう一度復習しました。
フェデリーコ2世のお話の方が、私にとっては頭に馴染みやすいようにおもいました。
まずは新たに導入されたサブタイトルがわりに二上山の写真に挿入
された文字、素晴らしいアイデアです!
ストーリー展開されていく、しにあの旅人さんの旅行記にあって
場面転換が決まっていますね。
大津皇子、青年皇子としての華やかな時代とその折の時代背景
のご説明、こんなに素晴らしい皇子が、、、
と次の旅行記につながるんですね。
私も訪問した明日香村文化財展示室、
その折に、薄っぺらの衣装を纏った人形を見ましたが、
まさかこのように旅行記に登場させることなど、思いもよりませんでした。
村の予算不足?もう少し温かそうな生地で衣装を作ってあげて、
と思うぐらいでした。
当時の有能な女性には社会進出のチャンスも用意されていたなどなど
次の旅行記を楽しみにお待ちしております。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/21 10:09:53
- Re: 二上山。
- コメントありがとうございます。
当時の婚姻関係はこれでも簡単にした方です。By妻によれば、近親婚の繰り返しですから、みんなほとんど同じような顔をしていたのではないか。現場に行ったら、相当不気味かもしれません。
サブタイトル方式が気に入っていただいて嬉しい。文字ドッサリ派にとって、字体、文字の大きさを変えられない4トラのシステムは、文章の区切りができなくて困っていたのですが、これでなんとかなります。これからもこれでやります。
飛鳥の女たちが、予想に反して大人しくないのには、調べていくうちに驚きました。
古代の女というのは、源氏物語を昔にしたような世界かと思っていたのですが、全然違って、もっと個性があって、自己主張しています。さすが、現代日本女性のルーツです。
このシリーズはこれからも延々と続きます。お付き合いいただければ嬉しい。
FD2のシリーズに熱中していた頃が懐かしいです。「FD2をめぐる女たち」という続編を書こうと全部準備していたのにコロナ騒ぎで中止でした。コロナがなければ、そそろビアンカ・ランチアあたりに取り掛かっていたのではないかな。
イタリアは来年は無理、再来年もどうかな。そもそもこっちの体力がもつかが問題です。
いろいろ狂ってしまったコロナでした。
-
- チーママ散歩さん 2020/12/20 09:24:13
- 通りすがりの者でございます。
- おはようございます。
ちょっと前を通り過ぎただけの者でございます。
kumming先輩がまだご出席なさっていないので授業は後ほど参加
させていただきます。
『まだ読んでいないので』(どっかで見た文章ですが)
☆各章ごとに見出しがついてとても読みやすくなったなあとか・・・
(先日くしゃみがとまらずちょっと立ち寄ったときにうわさをされて
いましたが、このことだったのかしら?素晴らしい☆と)
☆同じ男性のところに姉妹で嫁ぐとか軽いカルチャーショックがあったりとか・・・
☆既婚未婚年齢不問でやる気のある者を採用するなどよっぽど古代の方が
考え方が進んでいるなとか・・・
☆双六のように遊び呆けていると、禁止令がでるの?
現代っ子にゲーム禁止法を出せばいいのに・・・・とか。(*^-^*)
☆着物やゆかたを着る時どっちが前だっけ?ってyの字を思い出すけれど
右衽着装法ってこの時代にできたのね~ とか・・・・
なんでブラウスは逆なの?とか・・・・・・
☆豪華な食事に驚いてみたり・・それに比べて我が家は武士の食事のよう。
玄米(白米)、味噌汁、副菜。1日2食どころかお腹がすいたら食べる。
大津皇子の時代も1日2食だったのでしょうか? いつから3回になったの
でしょうか?・・・など。
そんな事を「読んでいない」ので、わかりませんが・・・・
40歳を超えた私は興味すらもっていただけないので^^; 髪を振り乱して
読んで・・いえ・・前を通り過ぎようとしていました。
ちょっと靴のひもを結び直すために、先輩のお家の前で立ち止まっただけの
者でございます。
では、先を急ぎますので失礼いたします。
kumming先輩~ まだ誰も来ていないのでコメントの一番乗りは出来そうですよ♪
頭の回転の速い先輩のコメントも合わせて後ほど授業を受けたいと思っております。
- しにあの旅人さん からの返信 2020/12/20 13:04:01
- Re: 通りすがりの者でございます。
- くしゃみが止まらないでしょう。
最近チーママ散歩さんのイラスト、動画があちこちで話題になっております。
この項を書きながら、飛鳥にはびっくり。予想に反して、女が強い。馬には乗るし、男女同権で職場進出。なんと賄賂を取って役人を睥睨していた女官もいました。「飛鳥の女は強かった」の最後にエピソード追加しました。
でも当たり前で、女帝が何人も出ているので、女が弱いはずがない。
このあと姉さんの大来皇女、ずっとあとであの孝徳天皇も出演の予定。共演もちろん道鏡。
あの食事は、あのまま作っても、現代でもおいしそうです。お酒も清酒ですから、かなりいけます。これも玄米で干物とダイコンを食べていたと思っていたので、予想外。
古代って、面白そう。行けと言われたら断りますが。
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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟
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