Lily-junjunさんのクチコミ(7ページ)全318件
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長町武家屋敷跡に一歩足を踏み入れるとそこはまさに江戸時代の風景そのものです。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.0
「長町武家屋敷跡」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」の7番のりばから「城下まち金沢周遊バス右回りルート」に乗り、「香林坊」停留所で下車します。そこからバスの進行方向と同じ方向に30mほど進むと、最初の信号(表示名「日銀前」)があります。右折し横断歩道を渡り、110mほど進むと正面に「香林坊にぎわい広場」があります。そこを右折し30mほど進むと左手の角に駐車場があります。そこを左折し道なりに進むと「長町武家屋敷跡」になります。
「長町武家屋敷跡」は、伝統環境保存区域及び景観地区に指定されていて、繁華街の香林坊から一歩入ると、まるで江戸時代のような土塀や石畳の小路が残り、豪壮な武家屋敷が立ち並ぶ風景が広がります。「長町武家屋敷跡」は、加賀藩の藩政時代に中流の藩士の屋敷が軒を連ねていたところです。私も路地の両側に土壁と長屋門が続く風景は、テレビの旅番組で何度も目にしたことがあります。実は、「長町武家屋敷跡」は、ほとんどの家には人が住んでいる住宅街です。屋敷内を公開しているところとしては「武家屋敷跡 野村家」があり、当時の武士の暮らしぶりがうかがえ、豪華な建物と情緒あふれる庭園はミシュラン2つ星の評価を得るほど見事です。「武家屋敷跡 野村家」は、「前田利家」に仕えた「野村伝兵衛信貞」の屋敷跡で、野村家は代々奉行職を歴任しましたが、武家制度の解体とともに屋敷の住人は変わり、現在の建物は加賀藩の豪商「久保彦兵衛」の屋敷を一部移築したものです。「武家屋敷跡 野村家」の見どころは、「上段の間」、総ヒノキ造りの「格天井」やギヤマン入りの「障子戸」、加賀藩のお抱え絵師による「襖絵」などが見どころです。樹齢400年以上の山桃やシイの古木が残り、濡縁にせまる曲水や落水、灯篭などが美しく配置された庭園は、2003年度の米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング誌」の日本庭園ランキングで3位に選ばれました。さらに「武家屋敷跡 野村家」は平成21年(2009年)発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」の格付けでも2つ星に選ばれており、海外からの観光客も多数訪れます。2階の茶室ではお抹茶をいただくことができます。また、「鬼川文庫」では野村家伝来の刀剣や前田家からの書状などさまざまな資料が展示されています。
《「武家屋敷跡 野村家」のワンポイント》
①所在地…〒920-0865 石川県金沢市長町1丁目3-32 電話:076-221-3553
②入館時間…8:30〜17:30(10〜3月は8:30〜16:30、入館は左記の閉館の30分前まで)、
③休館日…12月26日・27日、1月1日・2日休館
④料金…①大人550円 ②高校生400円 ③小中生250円
★人気スポットのため、ゆっくりと見たい方は朝がおすすめで、開館は8時30分です。
01_【「長町武家屋敷跡」の一口メモ】
所在地…〒920-0865 石川県金沢市長町1丁目3-12-2
02_【「長町武家屋敷跡」へのアクセス】
⑴ JR「金沢駅」東口から徒歩27分1900m
⑵ バスを利用して「長町武家屋敷跡」へ
①城下まち金沢周遊バス右回りルート
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・12停留所目「片町」停留所の次の停留所) 所要時間約16分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「香林坊」停留所で下車し「長町武家屋敷跡」まで徒歩5分350m
⇒バスは「香林坊」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に30mほど進むと、最初の信号(表示名「日銀前」)があります。右折し横断歩道を渡り、110mほど進むと正面に「香林坊にぎわい広場」があります。そこを右折し30mほど進むと左手に角が駐車場があります。そこを左折し道なりに進むと「長町武家屋敷跡」になります。
②その他のバスによるアクセス
ア 北陸鉄道路線バス・西日本JRバス「香林坊」バス停から徒歩約5分
イ まちバス「香林坊大和・アトリオ」「香林坊東急スクエア・日銀前」バス停から徒歩約5分
ウ 金沢ふらっとバス長町ルート「長町武家屋敷跡」バス停からすぐ- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「香林坊」停留所で下車し「長町武家屋敷跡」まで徒歩5分350m
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 平日なのであまり目立った混雑はりませんでしたが、次から次へと観光客が来ました。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 江戸時代のような土塀や石畳の小路が残り、豪壮な武家屋敷が立ち並ぶ風景
-
兼六園よりも早く作庭がはじまり、歴代藩主によりグレードアップされたそうです。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.0
「玉泉院丸庭園」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」の7番のりばから「城下まち金沢周遊バス右回りルート」に乗り、「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し、左手の公園の中にある階段があるので上ります。上り終えると、右手に「金沢城」の「石川門」、そして、左手に「兼六園」の「桂坂口」があります。「金沢城」の「石川門」から入り、三の丸広場を直進すると濠を隔て「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」があります。ここを左折し、「橋爪門」をくぐり直進すると「玉泉院丸庭園」になります。
「玉泉院丸庭園」は、池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。「玉泉院丸庭園」の散策を楽しんだ後には、「玉泉庵」では抹茶と季節ごとの生菓子を味わうこともできます。「玉泉院丸庭園」は、2代目藩主「前田利長」の正室「玉泉院」(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来とされ、3代藩主「前田利常」が京都の庭師「剣左衛門」を招き、寛永11年(1634年)の作庭をはじめたのが始まりといわれています。その後5代藩主「前田綱紀」や13代藩主「前田斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで「金沢城内玉泉院丸」に存在していた庭園です。「兼六園」は饗応の場であるのに対し、「玉泉院丸庭園」は藩主の内庭としての性格が強い庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、城内に引かれた「辰巳用水」を水源とする「池泉回遊式」の「大名庭園」で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった「色紙短冊積石垣」などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素にした独創的な庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、明治期に廃絶されましたが、平成25年(2013年)5月から整備工事が始まり、平成27年(2015年)3月に、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。
また、江戸時代に「露地役所」があった場所に休憩所「玉泉庵」が設置されました。室内からは、「色紙短冊積石垣」をはじめとした意匠性に富んだ石垣群を借景に庭園を一望することができます。また、和室では抹茶と季節ごとのオリジナル上生菓子の抹茶を楽しむことができます。
01_【「玉泉院丸庭園」の一口メモ】
所在地…〒920-0937 石川県金沢市丸の内1-1
02_【「玉泉院丸庭園」へのアクセス】
⑴ 城下まち金沢周遊バス
①城下まち金沢周遊バス右回りルート
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・6停留所目(橋場町(金城樓前)」の次の停留所) 所要時間約15分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「玉泉院丸庭園」まで徒歩11分750m
⇒バスは「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所に停まるので下車した後、左手の公園の中にある階段があるので上ります。上り終えると、右手に「金沢城」の「石川門」、そして、左手に「兼六園」の「桂坂口」があります。「金沢城」の「石川門」から入り、三の丸広場を直進すると濠を隔て「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」があります。ここを左折し、「橋爪門」をくぐり直進すると「玉泉院丸庭園」になります。
⑵ その他のバスを利用
①北陸鉄道路線バス・西日本JRバス「兼六園下・金沢城」バス停から徒歩約12分
②金沢ふらっとバス材木ルート「兼六園下」バス停から徒歩約12分
(ワンポイント情報)
「兼六園」と「金沢城公園」のどちらにも行く予定なら、こちらのバス停がおすすめです。「兼六園桂坂口」、「金沢城公園石川門口」の最寄り停留所となります。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 2.5
- 「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「玉泉院丸庭園」まで徒歩11分750m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日の朝早い時間帯でしたが、観光客は結構いました。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。
-
海鼠壁の目地が黒漆喰でできています。黒漆喰とはまた違った雰囲気で感動しました。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.0
「鼠多門」へのアクセスは、「金沢駅」東口からバスに乗り、「南町・尾山神社」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。そして、「尾山神社」の境内を抜けると「鼠多門」があります。
「鼠多門」と「鼠多門橋」は、「金沢城」の西側にあります。それぞれの特徴は、「鼠多門」が黒い海鼠漆喰、「鼠多門橋」が城内最大規模の「木橋」であるということです。「鼠多門」は、「玉泉院丸」に位置し、「鼠多門橋」により接続される「金谷出丸」からの出入口として機能していました。ちなみに、「金谷出丸」には「金谷御殿」と呼ばれる加賀藩主の別邸があったからです。そのため、当時は、一般の人が通るということは出来なかったそうです。「金谷出丸」は、現在は、藩祖の「前田利家」を祀る「尾山神社」となっています。そして、「鼠多門」は、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していました。「鼠多門」は、2階建ての「櫓門」で、「金沢城」内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う「鉛瓦」、外壁は「白漆喰塗り」で腰壁は「海鼠壁」が用いられています。この「海鼠壁」の目地が黒漆喰で仕上げられる建築方法が、「金沢城」内の他の門には見られない特徴です。また、「金沢城御三門」と比べて、城壁の連続した石垣の上に直接建てられている点も大きな特徴でしょう。
「鼠多門橋」は、幅5.5m、長さ29mの木の橋で、「玉泉院丸」と「金谷出丸」を隔てる水堀に架かる城内最大規模の「木橋」で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。しかし、明治10年(1877年)に「鼠多門橋」が老朽化のため撤去され、明治17年(1884年)には「鼠多門」も火災により焼失し、周囲の水堀も埋め立てられてしまいました。そして、現在の「鼠多門」と「鼠多門橋」は、平成30年(2018年)6月から令和2年(2020年)7月までに復元整備され、往時の勇壮な姿が再現されました。そして、「鼠多門」と「鼠多門橋」の復元が何よりも素晴らしいのは、「加賀百万石回遊ルート」を誕生させたことです。これにより効率的な観光ができるようになったからです。ちなみに、「加賀百万石回遊ルート」は、「長町武家屋敷跡」⇒「尾山神社」⇒「鼠多門」⇒「金沢城」⇒「兼六園」の名所旧跡を周遊することができます。
01_【「鼠多門」の一口メモ】
所在地…〒920-0937 石川県金沢市丸の内3
02_【「鼠多門」へのアクセス】
⑴ JR「金沢駅前」東口から徒歩25分1700m
⑵ バスを利用して「鼠多門」へ
① [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:93号≫
② [金沢駅前(東口)] ⇒[香林坊経由行]≪北陸鉄道:号≫
③ [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:94号≫
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(8番のりば)
・3停留所目(「武蔵ケ辻・近江町市場」の次の停留所) 所要時間約7分
・9時から17時の間に1時間平均1~3便
・「南町・尾山神社」停留所で下車し「鼠多門」まで徒歩7分450m
⇒バスは「南町・尾山神社」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。そして、「尾山神社」の境内を抜けると「鼠多門」があります。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「南町・尾山神社」停留所で下車し「鼠多門」まで徒歩7分450m
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- やはり予想通り混雑していました。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 金沢城で唯一の海鼠壁の目地が黒漆喰がみものです。
-
"はじめてこんな珍しい神門を見ました。三階層になっていて3層目に色とりどりのギヤマンがはめ込まれていました。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.5
「尾山神社」へのアクセスは、金沢駅前(東口)から金沢大学行きの北陸鉄道バスに乗り、「南町・尾山神社」停留所で下車します。下車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。
「尾山神社」は、加賀藩の藩祖「前田利家」と正室「お松」を祀る神社です。創建は、明治6年(1873年)で、廃藩置県後に、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずですが、旧「金谷御殿」の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。それまで「前田利家」の神霊は卯辰山麓の「卯辰八幡宮(現:宇多須神社)」に合祀されていました。明治8年(1875年)築の最大のみどころである「神門」は、和漢洋折衷の3層構造で国の重要文化財に指定されています。3層目に色とりどりのギヤマン(ガラス)がはめ込まれており、夜には灯りが灯り幻想的な雰囲気を醸しだすそうです。「本殿」の建造は古式に則った「三間社流造」で、シンプルであり、威厳に満ちた「社殿」です。「社殿」の右側にある「玉垣」は珍しいレンガ造りとなっていて、「剣梅鉢」のご紋すかしになっています。金沢でレンガを使用したのは「尾山神社」が最初だそうです。
ところで、何故、「前田利家」が亡くなり230年近くたった明治になって「尾山神社」が建立されたかというと、その歴史的背景には、外様大名という足かせが浮かび上がってきます。当時、徳川幕府の許可なくして、神社を
創建するような勝手なことはできませんでした。「前田利長」でさえ、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。そこで「前田利長」は、守護神としていた「物部八幡宮」ならびに「榊葉神明宮」を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、「前田利家」の神霊を合祀しました。これが、「卯辰八幡宮」です。
《「尾山神社」のお薦め散策順路》
①「神門」⇒②「手水舎」⇒③「授与所」⇒④「お松の方像」⇒⑤「前田利家公像」⇒⑥「神苑」⇒⑦「拝殿」⇒⑧「金谷神社」⇒⑨「本殿」⇒⑩「東神門」⇒次の観光地へ
それでは、「尾山神社」を見学したいと思います。まずは、「石鳥居」をくぐり石段を上った先にあるのが、和漢洋の「神門」です。
《①「神門」⇒②「手水舎」》
「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。
「神門」をくぐると「手水舎」がすぐ右手にあります。ここで身を清めます。そして、「手水舎」の後ろには、完成して真新しい「授与所」があります。
《③「授与所」》
「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、「金沢城」など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあり、ここでも金沢の良さを再確認することができます。
「授与所」の後ろには、「前田利家公像」と「お松の方像」が相並んでいます。
《④「お松の方像」と⑤「前田利家公像」》
「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。
「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です
「前田利家公像」と「お松の方像」の背景にあるのが「神苑」です。
《⑥「神苑」》
「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。
「神苑」の景観を堪能した次は、右手にある「拝殿」です。
《⑦「拝殿」》
「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。
「拝殿」を右手に進むと、もう一つの神社である「金谷神社」があります。
《⑧「金谷神社」》
「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。
さらに、すぐ左手に「本殿」があります。
《⑨「本殿」》
「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。
そして、最後が「東神門」です。
《⑩「東神門」》
「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。
01_【「尾山神社」見どころ】
⑴ 「本殿」
「尾山神社」の「本殿」は、建築方法は古式に則った「三間社流造」で、シンプルにして神厳に満ちた「社殿」です。また、「本殿」に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢では「尾山神社」が最初だそうです。
⑵ 「拝殿」
「尾山神社」の「拝殿」は、入母屋造屋根瓦葺となっています。「拝殿」の中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは「旧金谷御殿」から移築したものです。欄間は約8寸厚の欅の1枚板に見事な「梅花紋」を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた「旧金谷御殿」から移築したものです。
⑶ 「神門」
「尾山神社」の「神門」は、明治8年(1875年)に建立されました。「神門」は、和漢洋の三様式を混用した異色の門として知名度があり、「兼六園」とともに金沢市のシンボルにともなっています。「第一層」には「戸室石」が用いてあり、「第三層」は四面五彩の「ギヤマン張り」で、もとは「御神灯」が点灯されていたそうです。「御神灯」が放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標にもなったそうです。これもまた驚くべき事実ですが、「第三層目」に設置された避雷針も日本最古のものだそうです。
⑷ 「前田利家公像」
「神門」をくぐると「社殿」の右手に「前田利家公像」と「お松の方像」が並んでいます。「前田利家公像」は、丸い大きな風船か袋のようなものを担いで馬にまたがっています。それは、「母衣」といって、もともとは流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布でしたが、竹などの骨組みを形成して膨らませるようになったそうです。前田利家」は、「織田信長」に仕え青年時代は「赤母衣衆」として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。「前田利家」は、若い頃、織田軍団で赤い母衣を背負い、9人の「赤母衣衆」のリーダーを務めていました。母衣衆は軍団にとっては重要な役目を担っていましたが、敵に目立つのでとても危険で、いわば死と背中合わせの役回りをしていました。
⑸ 「お松の方像」
「お松の方」は、「前田利家」の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が「前田利家」の母の姉で「前田利家」とは従兄関係であり、「前田利家」亡き後は、「芳春院」と号しました。そして、歴史家の間では明治維新まで前田家が栄えることができたのは「お松の方」の功績が大きかった評価されています。それを証明するエピソードがあります。「前田利家」が亡くなったあと、「徳川家康」が加賀に攻め込んで来ようとした際には、息子「前田利長」に「母を捨てよ」と伝え、自らが「徳川家康」側の人質となり、前田家を守ったというものです。それにより明治維新まで前田家が栄えることができたという訳です
⑹ 「授与所」
「授与所」は、平成27年(2015年)秋に完成したばかりの新しい「授与所」で、開放的なガラス張りのデザインになっています。「授与所」内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。
⑺ 「金谷神社」
「尾山神社」の境内にもう一つの「金谷神社」があります。「金谷神社」は、二代藩主・利長公から最後の十四代藩主・慶寧公、そして十五代当主、十六代当主、十七代当主、さらに歴代藩主・当主の正室(夫人)をお祀りしています。また、「金谷神社」には、「百万石まつり」で御祭神をのせて市内を巡行する立派な「神輿」も安置されています。
⑻ 「東神門」
「東神門」は、「旧金沢城の二の丸」の「唐門」で、「唐門」は、形式の名称で、日本で生まれた格式高い建築様式です。明治3年(1870年)頃に「旧卯辰山招魂社」前にあったものを、昭和38年(1963年)に「尾山神社」境内地に移築したものです。「金沢城」は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この「東神門」が幸い難をのがれたのは、「唐門」の二匹の竜が水を呼んだために焼けずに残ったという伝説があります。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物で、見どころは、向き合う二匹の龍の精緻さと、加賀藩による造営の証とも言える蟇股に施された「剣梅鉢」の彫刻が見どころです。「東神門」は、平成15年(2003年)7月1日に国登録有形文化財(建造物)に指定されています。
⑼ 「神苑」
「神苑」は、「旧金谷御殿」の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した「地泉廻遊式」の名園で、「楽器の庭」という愛称があり、楽器をモチーフにしたという庭園です。その中でも特徴的な煉瓦の橋は琴をモチーフにした「琴橋」をはじめ、中の島は「琵琶島」、「笙島」と名付けられた島の形もそれをモチーフにしているそうです。「神苑」の水は、三代藩主「前田利常」の命により完成した「辰巳用水」の水の高低差を利用して、「兼六園」から暗渠で導き、「響遠瀑」から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り、地下水を池に流しています。
02_【「尾山神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0918 石川県金沢市尾山町11-1 電話:076-231-7210
⑵ お祓い時間…9:30〜15:30 授与所・御朱印受付時間…9:00~17:00
03_【「尾山神社」へのアクセス】
⑴ JR「金沢駅前」東口から徒歩25分1700m
⑵ バスを利用して「尾山神社」へ
① [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:93号≫
② [金沢駅前(東口)] ⇒[香林坊経由行]≪北陸鉄道:号≫
③ [金沢駅前(東口)] ⇒[金沢大学行]≪北陸鉄道:94号≫
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(8番のりば)
・3停留所目(「武蔵ケ辻・近江町市場」の次の停留所) 所要時間約7分
・9時から17時の間に1時間平均1~3便
・「南町・尾山神社」停留所で下車し「尾山神社」まで徒歩3分210m
⇒バスは「南町・尾山神社」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に160mほど進むと最初の信号(表示名「尾山神社前」)があります。そこを左折すると50m先に「尾山神社」の石鳥居があります。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「南町・尾山神社」停留所で下車し「尾山神社」まで徒歩3分210m
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 平日の朝早い時間帯でしたが、人出はかなりありました。
-
藩祖「前田利家」は、戦場でも、そろばんを持ち歩いていたそうです。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:3.0
「加賀藩御算用場跡地」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」から「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」に乗り、「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に200mほども進むと、三つ目の信号(表示名「上堤町」)があります。そこを左折し、60mほど進むと一つ目の角が左側にありますので、そこを左折し30mほど進むと一つ目の角があります。右折して、200mほど進むと右手に「加賀藩御算用場跡地」の説明板があります。
加賀藩の「御算用場」が一躍スポットライトを浴びたのは、「堺雅人」、「仲間由紀恵」主演、「森田芳光」監督の平成22年(2010年)に公開された「武士の家計簿」のロケ地となった所だからです。原作は「磯田道史」のベストセラー「武士の家計簿加賀藩御算用者の幕末維新」で、それが映画化されたものです。加賀藩では、会計を司る役所を「御算用場」といい、加賀藩独特の組織でした。そこの長を「御算用場奉行」といい、郡奉行、改作奉行、御預地方御用、定見地奉行など、御算用場奉行管轄の役所が併設されていました。そして、役所には有能な「算用者」と呼ばれる実務を担当する役人が約150人いました。「算用者」には職務上、筆算の才能が必要とされたそうです。ちなみに、藩祖「前田利家」は、戦場でも、そろばんを持ち歩いていたそうです。
施設は本棟の他に土蔵三棟からなり、建物の規模は350坪におよび、その敷地は大きなもので現在の「尾神社」から説明板の設置してある会計事務所や住宅を挟んだ「豪姫」の邸宅があった「黒門前緑地」までの範囲にあったそうです。明治2年(1869年)に「御算用場」は廃止され、その地は、「尾崎神社」と現在の黒門前緑地のところは西町軍艦所、商法会社、尾山病院、検事正官舎と移り変わりました。また、周辺には、「尾神社」や白い明治・大正期と思われる古民家などがあります。
01_【「加賀藩御算用場跡地」の一口メモ】
所在地…〒920-0937 石川県金沢市丸の内5
02_【「加賀藩御算用場跡地」へのアクセス】
⑴「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)を利用
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・14停留所目(「兼六園下・金沢城(石川門向い)」の次の停留所) 所要時間約31分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「武蔵ヶ辻・近江町市場」で下車し「加賀藩御算用場跡地」まで徒歩6分450m
⇒バスは「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に200mほども進むと、三つ目の信号(表示名「上堤町」)があります。そこを左折し、60mほど進むと一つ目の角が左側にありますので、そこを左折し30mほど進むと一つ目の角があります。右折して、200mほど進むと右手に「加賀藩御算用場跡地」の説明板があります。
※ 2024年1月6日(土)から当面の間、「左回りルート」を運休していませんでした。「左回りルート」を利用すると「JR金沢駅東口」から5分ほどです。また、「左回りルート」は、2024年3月16日(土)から土日祝のみ運行しています。
⑵ その他のバス利用で
①「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所からすぐ
②「まちバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
③「金沢ふらっとバス此花ルート」の「近江町市場・市姫神社」停留所、「金沢ふらっとバス長町ルート・材木ルート」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
⑶ 徒歩で
JR「金沢駅」兼六園口(東口)から徒歩約21分1500m- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所で下車し「加賀藩御算用場跡地」まで徒歩6分450m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日なので人出はありませんでした。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 説明板のみですが、敷地規模の大きさは十分伺えました。
-
境内社の参道から「本殿」と「拝殿」を分離させた「東照宮建築」を垣間見ることができます。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:3.5
「尾神社」へのアクセスは、現在のところ「城下まち金沢周遊バス」が土日祝のみしか運行されていないので、「JR金沢駅東口」から「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」を利用するのがベストです。「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に200mほども進むと、三つ目の信号(表示名「上堤町」)があります。そこを左折し、250mほど進むと正面に「尾神社」の「神門」があります。
「尾神社」の歴史を紐解いてみると、寛永17年(1640年)に加賀藩四代藩主「前田光高」が「東照大権現(徳川家康)を祀ることを願い出て、許可を得て金沢城内北の丸に造営を始め、寛永20年(1643年)に建立した神社です。建立にあたっては、幕府大工頭の「木原木工允」の設計をもとに、加賀藩の大工らが力を合わせ施工にあたりました。1600年代中頃の前田家は、加賀百万石としての財力もあり、まだまだ徳川幕府から警戒されていたました。前田家としては徳川家に忠誠を尽くす姿勢を示すために、「徳川家康」の御霊を金沢城内に祀ったと思われます。金沢城北の丸」に建立され、朱塗りで彫刻や飾り金具が施され、「日光東照宮」の縮図ともいわれ、「金沢城の江戸」、「北陸の日光」とも呼ばれていました。そう言えば、「中門」や「拝殿」のいたるところに徳川家の家紋である「葵の紋」が彫られていました。ちなみに、「東照大権現」こと「徳川家康」が祀られている神社は全国にあり、四大東照宮として、「日光東照宮」、「久能山東照宮」、「芝東照宮」、「上野東照宮」が有名です。廃藩置県後の明治7年(1874年)に社名を「金沢東照宮」からご祭神に「天照大神」と加賀藩三代藩主の「前田利常」を加え、「尾神社」に改称するとともに、城域が陸軍省の所管となり明治8年(1875年)に移転することとなり、明治11年(1878年)に「旧加賀藩御算用場」であった現在地に移りました。規模こそ小さいものの、「尾崎神社」には数多くの重要文化財があります。まず、市民の生活道路に面して張り巡らされている朱色の「透塀」、「本殿」、「拝殿」、「幣殿」、「中門」も重要文化財となっています。そして、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されています。
では、早速、「尾神社」を参拝したいと思います。まず、「お堀通り」に面した「中門」です。「中門」の手前左側には、「社号標」の隣に「御由緒」があります。「中門」は、朱色の「透塀」に挟まれ、建築様式は、平唐門、本瓦型銅板葺です。そして、「中門」の屋根の上には葵の御紋が見えます。
「中門」をくぐると、右手に「手水舎」、その奥に「社務所」があります。そして、正面には、「拝殿」があり、扉や瓦など、「社殿」のあちこちに「葵の御紋」が見られ、「金沢東照宮」の名前にふさわしい素晴らしい彫刻が施されています。「社殿」の前には、ずんぐりむっくりの「狛犬」が座していました。「拝殿」の左隣には、境内社である「豊受稲荷神社」があり、その参道から「本殿」が見えるので一つのポイントです。ここでは、「本殿」と「拝殿」を分離させた「東照宮建築」を垣間見ることができます。いずれにしても「尾神社」は、祀られているのは「徳川家康」ですので、立身出世や大願成就の御利益は大いにありそうです。もちろん、「天照大神」が祀られていますので縁結びの御利益もありますよね。
01_【「尾神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0937 石川県金沢市丸の内5-5 電話:076-231-0127
⑵ 「御祭神」…①天照大神 ②東照大権現(徳川家康) ③加賀藩三代藩主前田利常
⑶ 「御利益」…健康、立身出世、大願成就、恋愛成就
⑷ 「重要文化財」
①本殿…江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立の三間社流造、本瓦型銅板葺
②中門…江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立の平唐門、本瓦型銅板葺
③透塀…江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立の桟瓦葺
④拝殿及び幣殿…江戸時代初期、寛永20年(1643年)建立の入母屋造、平入、向拝一間、本瓦型銅板葺
⑤附棟札3枚
02_【「尾神社」へのアクセス】
⑴「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)を利用
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・14停留所目(「兼六園下・金沢城(石川門向い)」の次の停留所) 所要時間約31分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所で下車し「尾神社」まで徒歩7分450m
⇒バスは「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に200mほども進むと、三つ目の信号(表示名「上堤町」)があります。そこを左折し、250mほど進むと正面に「尾神社」の「神門」があります。
※ 2024年1月6日(土)から当面の間、「左回りルート」を運休していませんでした。「左回りルート」を利用すると「JR金沢駅東口」から5分ほどです。また、「左回りルート」は、2024年3月16日(土)から土日祝のみ運行しています。
⑵ その他のバス利用で
①「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所からすぐ
②「まちバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
③「金沢ふらっとバス此花ルート」の「近江町市場・市姫神社」停留所、「金沢ふらっとバス長町ルート・材木ルート」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
⑶ 徒歩で
JR「金沢駅」兼六園口(東口)から徒歩約21分1400m- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所で下車し「尾神社」まで徒歩7分450m
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 平日の朝早い時間にもかからず何人かの観光客がいました。
- 見ごたえ:
- 3.5
- 「日光東照宮」の縮図ともいわれ、「金沢城の江戸」にふさわしい、朱色の権現造りが目立ちます。
-
まるで美術館のような駅で、見どころ満載です。しかもおもてなしもしてくれます。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.5
「JR金沢駅」東口(兼六園口)の東広場に降り立つと、北陸新幹線の開業に伴いリニューアルした「JR金沢駅」の新たなシンボルとなった「鼓門」とそれに続く「もてなしドーム」が出迎えてくれます。「鼓門」は、能楽「加賀宝生」で使われる鼓の胴にある「調べ緒」がモチーフで、高さが13.7mあり2本の太い柱に支えられた門構えは圧巻です。「鼓門」は、歴史と伝統を感じさせる木造りで、らせん状に組み上げられた柱と、ゆるくカーブを描く面格子の屋根が美しく、その内部は地下広場の排気塔などの役割も果たしているそうです。「鼓門」に続く「もてなしドーム」は、金沢では雨や雪が多いため、訪れる人に差し出す雨傘をイメージし、おもてなしの心を表わした3019枚のガラスとアルミ合金のパイプを組み合わせ作られている建造物です。形状は、半径90mの巨大な球の一部を、三味線のバチの形(T字型)に切り出した形状になっています。高さは、最大29.5mで、9階建てビルと同等の高さです。そして、その強度は、180㎝の積雪に耐える強度があります。これは過去に記録された金沢の最深積雪だそうです。そして、「JR金沢駅」では、日没から0:00まで、「鼓門ライトアップ」を行っています。毎時00分ごとに2分間の加賀五彩をイメージした光で曜日ごとに異なる色でライトアップされます。月曜日は「えんじ」、火曜日は「藍」、水曜日は「草」、木曜日は「黄土」、金曜日は「古代紫」、土・日・祝日は5色が光のペイジェントを織りなします。この曜日ごとに異なる色で照らし出される「鼓門」は幻想的で、必見の価値のある夜の金沢観光の名所の一つとなっています。「鼓門」の先には、「噴水時計」もあります。無数の小さな水が出る噴水で、「時刻表示」、「いいね金沢」、「Welcome」、「KANAZAWA」、「ようこそ金沢へ」などが文字表示されます。私は、夜ライトアップを見にいったので、LEDの噴水のイルミネーションを見ることができました。また、「兼六園口」を出て左手へ進み、「金沢フォーラス」へ向かう途中にある「やかん体、転倒する。」というアート作品がありました。これは、「金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2006」の最優秀賞作品の一つだそうです。
今回、私は飛行機を利用したので、見ることはできませんでしたが、新幹線ホームの柱には最高級の金箔が、そして、通路には加賀友禅や和紙の柱を見ることができるそうです。他にも「金沢駅」の東口と西口を繋ぐコンコースなどには九谷焼、輪島塗、山中漆器など加賀百万石の伝統工芸が駅のいたるところにあり、さながら美術館のようでした。こんな「JR金沢駅」は、アメリカの旅行雑誌「トラベル&レジャー」web版で、世界で最も美しい駅14駅の1つに選出されています。そして、「JR金沢駅」の別との魅力として、駅構内にあるショッピングモール「金沢百番街」です。和菓子、山海の旬の幸に地酒や工芸品など、加賀・能登の特産品が一堂に揃っているので、観光地で買い忘れてもほとんどここで手に入れることができます。食堂もあり、その時期にしかない厳選された地魚を楽しめる寿司が人気で金沢観光の前の腹ごなしに最適です。
また、「JR金沢駅」西口に行ってみると、「郵太郎ポスト」がありました。この「郵太郎ポスト」は、昭和29年(1954年)4月19日の日本国有鉄道金沢駅舎の落成を記念し、金沢の伝統工芸を代表する郷土色豊かな加賀人形の郵便差出箱が設置されたそうです。
01_【「JR金沢駅」の一口メモ】
所在地…〒920-0858 石川県金沢市木ノ新保町1番1号 電話:0570-002-486- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 5.0
- JR金沢駅の東口と西口にありアクセスは抜群です。
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- ライトアップの時間帯は観光客がいました。
- 見ごたえ:
- 4.5
- 鼓門、おもてなしドームなどのアート作品が目白押しです。
-
カニ料理の専門店で、初めてタグのついたカニのお刺身を食べました。やはり美味しかった。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:3.5
「旬彩和食 口福」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」から「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」を利用し、「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐのところにあります。バスの進行方向と同じ方向に50mほど進むと「近江町いちば館」があり、エスカレーターを利用し2Fへ上がります。一番左奥の方に「旬彩和食 口福」があります。
「旬彩和食 口福」は、比較的人気のあるお店なので、事前にネット予約か直接お店に電話して予約したほうが無難です。私たち夫婦が行ったのは、平日の木曜日でしたがお店は満席でした。席が空いても次から次に予約のお客がきているような状況でした。
当日は、蟹コースの「輝~かがやき~」と飲み物は料理に合う日本酒の「黒帯 悠々 特別純米」を注文しました。料理の内容は、「付出」、「かに刺身」、「かにしゃぶ」、「焼きがに」、「かにの揚物」、「かに湯葉春巻きと加賀野菜天ぷら」、「かに雑炊」そして 、最後にデザートでした。特に、タグのついた「かにの刺身」は、さすがに獲りたて、新鮮で、身は非常に甘く、美味しがったというのが感想です。また、最後に「かにしゃぶ」の残りの汁で作ってくれる「かに雑炊」はこれまた絶品でした。日本酒の「黒帯 悠々 特別純米」は、どこか忘れましたが、東京の料理店で飲んだ際に、豊潤で美味しかったのを思い出したので注文しました。これが大当たりで食も一層進みました。店の店員は、アルバイトかと思いますが、しっかりと教育されていた感じで、少々もたつくものの丁寧な応対をしてくれ、好印象を得ました。最後に、それなりのものを使用しているので、カニ料理を美味しく頂いたものの、やはり値段は高いなあと実感しました。
01_【「旬彩和食 口福」の一口メモ】
所在地…〒920-0907 石川県金沢市青草町88 近江町いちば館2F 電話:050-5462-4457
02_【「旬彩和食 口福」へのアクセス】
⑴「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)を利用
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・14停留所目(「兼六園下・金沢城(石川門向い)」の次の停留所) 所要時間約12分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「武蔵ヶ辻・近江町市場」で下車し「近江町市場」まで徒歩2分120m
⇒バスは「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所に停まるので下車すると目の前が「近江町市場」です。バスの進行方向とは反対方向に50mほど進むと信号(表示名「武蔵」)があります。横断歩道を渡り道なりに直進すると右手に「近江町いちば館」の入口付近のエスカレーターで2Fへ上がると「旬彩和食 口福」があります。
※ 2024年1月6日(土)から当面の間、左回りルートを運休しています。
⑵ その他のバス利用で
①「北陸鉄道路線バス」、「西日本JRバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
②「まちバス」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
③「金沢ふらっとバス此花ルート」の「近江町市場・市姫神社」停留所、「金沢ふらっとバス長町ルート・材木ルート」の「武蔵ヶ辻・近江町市場」停留所から徒歩すぐ
⑶ 徒歩で
JR「金沢駅」兼六園口(東口)から徒歩約12分1000m- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 一人当たり予算
- 10,000円以上
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 3.0
- 「近江町いちば館」の入口付近のエスカレーターで2Fへ上がると「旬彩和食 口福」があります。
- コストパフォーマンス:
- 2.5
- カニの値段がこんない高いものだと思いませんでした。
- サービス:
- 3.0
- 店の店員は、アルバイトかと思いますが、しっかりと教育されていた感じで、少々もたつくものの丁寧な応対をしてくれ、好印象を得ました。
- 雰囲気:
- 3.0
- テーブルの間隔が少し狭いと感じました。
- 料理・味:
- 3.5
- タグのついた「かにの刺身」は、さすがに獲りたて、新鮮で、身は非常に甘く、美味しがったというのが感想です。
- 観光客向け度:
- 3.0
- 旅行に来たので、せっかくだからカニを食べるのがお薦めです。
-
金沢城は、金沢観光の代名詞であり、江戸時代のまま現存しているのや最近再建された建築物など見どころが数えきれないほどあります。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.0
「金沢城」(金沢城公園)の概要と歴史を紐解いてみると、「金沢城」は、もともと「尾山御坊(金沢御堂)」という浄土真宗の寺院がありました。「金沢城」は、加賀藩初代藩主「前田利家」の居城で、天正11年(1583年)に「前田利家」が「金沢城」に入り、その直後から本格的な城づくりが始められました。築城にあたっては、キリシタン大名として知られる「高山右近」を招き、その指導を仰いだと伝えられているそうです。そこから前田家の歴代藩主の居城となり、約290年間繁栄しました。「金沢城」は、度重なる火災、特に、宝暦9年(1759年)の火災では、「金沢城」のほとんどを焼失しました。その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されませんでした。現存する「石川門」は、この後天明8年(1788年)に再建されたものです。平成13年(2001年)に復元された「菱櫓」、「五十間長屋」、「橋爪門続櫓」は、文化5年(1808年)の二の丸火災の後再建され、明治14年(1881)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現しました。そして、「石川門」、「三十間長屋」、「鶴丸倉庫」は重要文化財に指定されています。また、明治期に失われ約140年ぶりに復元整備された黒い海鼠漆喰が代名詞の特徴的な「鼠多門」と、 城内最大規模の木橋であった「鼠多門橋」が完成しました。「鼠多門」には県内産の能登ヒバなどの木材が使用されています。「鼠多門」と「鼠多門橋」が完成したことにより、「長町武家屋敷跡」から「尾山神社」、「金沢城公園」、「兼六園」、本多の森公園を結ぶ「加賀百万石回遊ルート」もでき、城下町巡りが効率的そして気軽に楽しめるようになりました。さらに、近年再建された「菱櫓」、「五十間長屋」、「橋爪門続櫓」は、古絵図や古文書などを基にして、当時の姿を再現し、外観もさることながら内部も必見です。毎週金曜・土曜、祝日の前日には夜間も開園し、「金沢城公園園内」はライトアップされ、昼とは全く違う趣を楽しめます。「玉泉院丸庭園」のライトアップは季節ごとに変わるそうです。「玉泉院丸庭園」のお茶室「玉泉庵」の和室で食べられる抹茶と季節ごとのオリジナル生菓子もおすすめです。
「金沢城公園」の入場門は、「黒門口」、「大手門口」、「石川門口」、「玉泉院丸口」、「鼠多門口」の全部で5つ設けられています。「兼六園」とあわせて楽しみたい方は、「兼六園」(桂坂口)の向かい側にある「石川門口」からスタートするのがおすすめです。
《「金沢城」(金沢城公園)のお薦め散策ルート》
①「石川門」⇒②「橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓」の景観⇒③「鶴の丸休憩館」⇒④「土蔵」(鶴丸倉庫)⇒⑤「丑寅櫓跡」⇒⑥「帝国陸軍建造トンネル跡」⇒⑦「戌亥櫓」⇒⑧「三十間長屋」⇒⑨「橋詰門」⇒⑩「菱櫓」⇒⑪「橋爪門続櫓」⇒⑫「五十間長屋」(多門櫓)⇒⑬「河北門」⇒⑭「玉泉院丸庭園」⇒⑮「鼠多門・鼠多門橋」
《①「石川門」》
「石川門口」から入ると。まず、「石川門」の「一の門」をくぐり直角に曲って、次に「二の門」をくぐります。これは敵が攻め込んできたときに、その進入の勢いを鈍らせる「枡形」と呼ばれる防御を主眼においた構造です。「一の門」をくぐると、ちょっと変な感じですが、正面の壁と左側の壁の石垣は異なる積み方をしています。正面が「切石積み」、左側が「粗加工石積み」という石垣の積み方です。石垣の積み方は違いますが、両方とも「海鼠壁」との美しいコントラストを醸し出しています。
「石川門」は「高麗門」の「一の門」、「櫓門」の「二の門」、「続櫓」と2層2階建ての「石川櫓」で構成されている「枡形門」です。国の重要文化財に指定されている現在の「石川門」は、天明8年(1788)に再建されました。金沢城内は、度々火災に見舞われほとんどが焼失し、「石川門」は、「三十間長屋」とともに現存する加賀藩時代の数少ない建築物のひとつです。
「石川門」は、現在は「金沢城公園」の「表門」となっていますが、かつては「金沢城」の「裏門」でした。その容姿から「白門」と呼ばれ、昭和10年(1935年)に国の重要文化財に指定されました。そして、平成18年(2006年)から平成26年(2014年)にかけて、保存修理工事が実施されました。
《②「橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓」の景観》
「石川門」の「二の門」をくぐると、目の前には「三の丸広場」が広がり、さらにその奥には、壮観な「橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓」が景観を見ることができます。なぜ「石川門」からの入城をお薦めしたのかはここにあります。3層3階の「菱櫓」と「橋爪門続櫓」とを2層2階の「五十間長屋」でつないでいる圧巻のスケールの景観を正面に見ることができるからです。これだけでも「金沢城公園」に来た価値があります。後ほど「橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓」へは、行きますので、「三の丸広場」の左手にある「鶴の丸休憩館」へ進みます。
《③「鶴の丸休憩館」》
「鶴の丸休憩館」は、鉄骨造一部木造の平家建てで、平成29年(2017年)4月に「鶴の丸」に完成しました。その特徴は、城郭建造物に面して、1枚が最大6m幅の大判ガラスを使用し開放感を演出し、さらに、石川県産の木材を使用した現代的な和風デザインになっています。大判ガラスにより額縁の中の「五十間長屋・菱櫓・橋爪門続櫓」のような絶景を大判ガラス越しに見ることができます。「鶴の丸休憩館」は、入口から入ると、まず「案内スペース」、右手に金沢城の歴史回廊ゾーンと城と庭の魅力発信ゾーンの「展示スペース」、その奥に大判ガラスごしに絶景を見ることができる「休憩スペース」と「豆皿茶屋」があります。「豆皿茶屋」では、軽飲食をとることができ、和菓子、洋菓子、お寿司など石川が誇る銘菓や銘品が、かわいい豆皿にのって配膳されます。また、「鶴の丸休憩館」の前には鶴の丸土塀の構造模型とふだん表面しか見ることが出来ない石垣の技法が、横や後ろからもわかる展示があり、さらに「金沢城」の理解を深めることができます。
「豆皿茶屋」インフォメーション
①営業時間…AM 11:00~PM 4:00 電話:076-232-1877
②定休日…無休(年末年始を除く)
③メニュー例
「殿皿御膳」(2600円)、「姫皿御膳」(2000円)、「鶴の丸御膳」(1500円)、「ちょこっとぷれーと」は三種類あり900円~950円、その他飲み物デ・ザートなど
「鶴の丸休憩館」で景観を堪能した後は、さらに左手奥に進みむと、現存する数少ない当時の建物「土蔵」(鶴丸倉庫)があります。
《④「土蔵」(鶴丸倉庫)》
「土蔵」(鶴丸倉庫)は、金沢城本丸の北側に幕末の嘉永元年(1848年)に建築された大型土蔵で、「鶴丸倉庫」とも呼ばれた武具土蔵で、「石川門」、「三十間長屋」と同様に重要文化財に指定されています。「土蔵」(鶴丸倉庫)が国の重要文化財に指定されたのは、平成20年(2008年)です。「土蔵」(鶴丸倉庫)の建築様式は、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で、もとは武具蔵として建てられ、加賀藩大工「山本勝左衛門」が普請を手がけました。明治以降は、陸軍によって軍服などが保管する「被服庫」として使われていました。長らく「鶴丸倉庫」と呼ばれていますが、実際に建築されているのは「東の丸附段」です。石板を貼った外壁など、櫓や城門などとはデザインを変えています。城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構で、総二階建の延床面積は下屋を除いて約636㎡あります。
「土蔵」(鶴丸倉庫)の次は、少々上り坂になりますが、途中に見える「橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓」の景観も素晴らしいものです。
《⑤「丑寅櫓跡」》
「丑寅櫓跡」は、東ノ丸の隅櫓があった所で、本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられました。「丑寅櫓跡」は、文禄元年(1592年)に築かれ、物見や本丸の防御を狙っていましたが、宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」の際に焼失し、その後は再建されませんでした。。「兼六園」や「戸室山」、「医王山」などが眺望できる展望台となっています。「丑寅櫓跡」にある野面積みの石垣は「金沢城」内最古の石垣とされています。現在は石垣のみ確認することができます。また、「丑寅櫓跡」は、春の桜、秋の紅葉の時期には、絶好のポイントになるそうです。
次は、「丑寅櫓跡」からさらに進み、「戌亥櫓」(乾櫓)を目指します。
《⑥「戌亥櫓」(乾櫓)と「帝国陸軍建造トンネル跡」》
「戌亥櫓」(乾櫓)は本丸の北西角、戌亥の方角に位置していた櫓なので「戌亥櫓」と呼ばれていました。「戌亥櫓」(乾櫓)は、寛永8年(1631年)頃に築かれ、西と北に「出し」という出窓がついている二層の櫓だったそうですが、宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」の際に焼失し、その後は再建されませんでした。現在、櫓はありませんが櫓台からは二の丸に復元された「菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓」を眺めることができます。また、「戌亥櫓」の石垣は「粗加工石積み」の積み方をしていますが、石の隙間には平らな石をはめ込み、「切石積み」のように見せる技法が用いられています。その他、「戌亥櫓」(乾櫓)には、「帝国陸軍建造トンネル跡」があります。「帝国陸軍建造トンネル跡」は、「戌亥櫓」の石垣に掘られた「レンガ造りのトンネル」です。明治から昭和にかけて金沢城は旧陸軍の所管となり軍用施設が設けられました。明治8年(1875年)に精鋭として知られた「陸軍歩兵第7連隊」、明治31年(1898年)からは、「陸軍第9師団司令部」が金沢城址に駐留しました。「戌亥櫓」の石垣にあるトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期につくられたものとされています。ちなみに、兵器庫は城外の出羽町に建設されていましたが,弾薬については不慮の爆発のリスクを考慮し,市街地への影響の少ない城内に貯蔵しました。
「戌亥櫓」(乾櫓)を後にし、次に向かうのは、国の重要文化財の一つである「三十間長屋」です。「三十間長屋」は、「金沢城跡本丸附壇」にある「三十間長屋」は、あまり人目につかない所でひっそり建っています。
《⑧「三十間長屋」》
「三十間長屋」は、本丸附段にある二層二階の「多聞櫓」で、「石川門」、「土蔵」(鶴丸倉庫)と同様に国の重要文化財に指定されています。「三十間長屋」が国の重要文化財に指定されたのは、昭和32年(1957年)のことです。「三十間長屋」は、安政5年(1858年)に再建されたもので、現在の長さは二十六間半の二階建ての土蔵です。屋根は南面入母屋造り、鉛瓦葺、白壁の腰に「海鼠瓦」を貼って石垣の上に建つのは、「石川門」と同様であり、二階の腰にも鉛瓦葺の庇が付いています。「金沢城」にはこの他に全部で14の長屋があったそうです。
「三十間長屋」の後は、「金沢城公園」の新しいシンボルである「五十間長屋」(多門櫓)、「橋爪門続櫓」、「菱櫓」のある「橋爪門」へ向かいます。
《⑨「橋詰門」⇒⑩「五十間長屋」(多門櫓)⇒⑪「橋爪門続櫓」⇒⑫「菱櫓」》
「橋爪門」は、「金沢城」の「二の丸」の正門にあたり、城内で最も格式の高い門とされています。「橋爪門」は、寛永8年(1631年)の大火後に整備された「二の丸」の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる「枡形門」で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、「二の丸御殿」へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、「二の門」の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。文化5年(1808年)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809年)に再建された姿を復元し、平成27年(2015年)に完成しました。ちなみに、金沢城内の各曲輪をつなぐ城門の中で、特に重要であった「石川門」、「河北門」、「橋爪門」を「金沢城三御門」と呼んでいます。
「五十間長屋」(多門櫓)、「橋爪門続櫓」、「菱櫓」は、平成13年(2001年)7月に完成した延べ床面積1894.23㎡の復元された建物で、「石川門」や「三十間長屋」と同様、「鉛瓦」や「海鼠塀」が外観の特徴です。そして、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、完成まで実に3年4ヶ月かかりました。3層3階の「菱櫓」と「橋爪門続櫓」を2層2階の「五十間長屋」でつないでいます。これらの建物は、戦の際に「二ノ丸」を守るための施設で、「石落し」や「鉄砲狭間」となる「格子窓」、「白塗漆喰壁」や「海鼠壁」で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。「菱櫓」は大手と搦手を見張る物見櫓として重要な役割を果たし、死角を少なくし視野を大きくするために建物の平面が菱形(内角が80度と100度)になっています。「橋爪門続櫓」は二ノ丸大手の「橋爪門枡形」を見張る物見櫓、「五十間長屋」は武器等の倉庫でした。伝統的な建築工法など築城の知恵がつまった内部は、金沢城公園で唯一有料です。そして、桜の季節には、「菱櫓」横の内堀の桜は人気の撮影スポットに変貌します。
次は、「三の丸広場」にある「河北門」へ移動します。
《⑬「河北門」》
「河北門」は、金沢城の実質的な正門です。「河北門」は、「金沢城」の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸」の正面にあります。これが「正門」たる由縁で、「河北門」は、「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれています。「河北門」は、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦9年(1759年)の後、安永元年(1772年)に再建されました。再建された「河北門」は、明治15年(1882年)頃に撤去されるまで「金沢城」の実質的な「正門」としての役割を果たしていました。「河北門」は平成19年(2007年)11月に着工し、平成22年(2010年)4月まで約2年半の歳月をかけて完成し、見事に復元されました。「河北門」は、高い防御力を備え金沢城の重要な門のひとつで、「高麗門」である「一の門」、「櫓門」である「ニの門」、「枡形土堀」及び続櫓の機能を持つ「ニラミ櫓台」により防御機能を持った構成となっています。
「一の門」は、幅4.7m、高さ7.4mの総欅(けやき)造りで、脇土塀をなまこ壁仕上げとし、土塀の内側には隠し狭間が設けられています。一の門の右手にあるのが「ニラミ櫓台」です。つづいて櫓門である「二の門」で高さは12.3m、幅26.9m×奥行き8.2mあり、外観は「石川門」とほぼ同じですが、規模は一回り大きくなっています。また、「二の門」は内部を見学することができます。
次は、前田家の歴代藩主が愛でた庭園である「玉泉院丸庭園」へ向かいます。
《⑭「玉泉院丸庭園」》
「玉泉院丸庭園」は、池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。庭園散策を楽しんだ後には、「玉泉庵」では抹茶と季節ごとの生菓子を味わうこともできます。「玉泉院丸庭園」は、2代目藩主「前田利長」の正室「玉泉院」(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来とされ、3代藩主「前田利常」による寛永11年(1634年)の作庭を始まりとし、その後5代藩主「前田綱紀」や13代藩主「前田斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで「金沢城内玉泉院丸」に存在していた庭園です。「兼六園」は饗応の場であるのに対し、「玉泉院丸庭園」は藩主の内庭としての性格が強い庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、城内に引かれた「辰巳用水」を水源とする「池泉回遊式」の「大名庭園」で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった「色紙短冊積石垣」などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素にした独創的な庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、明治期に廃絶されましたが、平成25年(2013年)5月から整備工事が始まり、平成27年(2015年)3月に、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。
また、江戸時代に「露地役所」があった場所に休憩所「玉泉庵」が設置されました。室内からは、「色紙短冊積石垣」をはじめとした意匠性に富んだ石垣群を借景に庭園を一望することができます。また、和室では抹茶と季節ごとのオリジナル上生菓子の抹茶を楽しむことができます。
《⑮「鼠多門・鼠多門橋」》
「鼠多門」と「鼠多門橋」は、「金沢城」の西側にあります。それぞれの特徴は、「鼠多門」が黒い海鼠漆喰、「鼠多門橋」が城内最大規模の「木橋」であるということです。「鼠多門」は、「玉泉院丸」に位置し、「鼠多門橋」により接続される「金谷出丸」からの出入口として機能していました。ちなみに、「金谷出丸」には「金谷御殿」と呼ばれる加賀藩主の別邸があったからです。そのため、当時は、一般の人が通るということは出来なかったそうです。「金谷出丸」は、現在は、藩祖の「前田利家」を祀る「尾山神社」となっています。そして、「鼠多門」は、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していました。「鼠多門」は、2階建ての「櫓門」で、「金沢城」内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う「鉛瓦」、外壁は「白漆喰塗り」で腰壁は「海鼠壁」が用いられています。この「海鼠壁」の目地が黒漆喰で仕上げられる建築方法が、「金沢城」内の他の門には見られない特徴です。また、「金沢城御三門」と比べて、城壁の連続した石垣の上に直接建てられている点も大きな特徴でしょう。
「鼠多門橋」は、幅5.5m、長さ29mの木の橋で、「玉泉院丸」と「金谷出丸」を隔てる水堀に架かる城内最大規模の「木橋」で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。しかし、明治10年(1877年)に「鼠多門橋」が老朽化のため撤去され、明治17年(1884年)には「鼠多門」も火災により焼失し、周囲の水堀も埋め立てられてしまいました。そして、現在の「鼠多門」と「鼠多門橋」は、平成30年(2018年)6月から令和2年(2020年)7月までに復元整備され、往時の勇壮な姿が再現されました。そして、「鼠多門」と「鼠多門橋」の復元が何よりも素晴らしいのは、「加賀百万石回遊ルート」を誕生させたことです。これにより効率的な観光ができるようになったからです。ちなみに、「加賀百万石回遊ルート」は、「長町武家屋敷跡」⇒「尾山神社」⇒「鼠多門」⇒「金沢城」⇒「兼六園」の名所旧跡を周遊することができます。
まだ、他にも「金沢城公園」には、見るべきスポットはたくさんありますが、代表的な名所旧跡は見ることができたので次の観光地へ足を進めたいと思います。
01_【「金沢城」の見どころ】
⑴ 重要文化財(「石川門」・「三十間長屋」・「土蔵(鶴丸倉庫))
①「石川門」 昭和10年(1935年)に国の重要文化財に指定
「石川門」は、現在は「金沢城公園」の「表門」となっていますが、かつては「金沢城」の「裏門」でした。その容姿から「白門」と呼ばれ、昭和10年(1935年)に国の重要文化財に指定されました。現存する「石川門」は、天明8年(1788年)に再建されました。「金沢城」の「搦手門」(裏口門)で、「高麗門」の「一の門」、「櫓門」の「二の門」、「続櫓」と二層二階建ての「石川櫓」で構成された「枡形門」です。平成18年(2006年)から平成26年(2014年)にかけて、保存修理工事が実施されました。
②「三十間長屋」 昭和32年(1957年) に国の重要文化財に指定
「三十間長屋」は、本丸附段にある二層二階の「多聞櫓」で、「石川門」、「土蔵」(鶴丸倉庫)と同様に国の重要文化財に指定されています。「三十間長屋」が国の重要文化財に指定されたのは、昭和32年(1957年)のことです。「三十間長屋」は、安政5年(1858年)に再建されたもので、現在の長さは二十六間半の二階建ての土蔵です。屋根は南面入母屋造り、鉛瓦葺、白壁の腰に「海鼠瓦」を貼って石垣の上に建つのは、「石川門」と同様であり、二階の腰にも鉛瓦葺の庇が付いています。「金沢城」にはこの他に全部で14の長屋があったそうです。
③「土蔵」(鶴丸倉庫) 平成20年(2008年) に国の重要文化財に指定
「土蔵」(鶴丸倉庫)は、金沢城本丸の北側に幕末の嘉永元年(1848年)に建築された大型土蔵で、「鶴丸倉庫」とも呼ばれた武具土蔵で、「石川門」、「三十間長屋」と同様に重要文化財に指定されています。「土蔵」(鶴丸倉庫)が国の重要文化財に指定されたのは、平成20年(2008年)です。「土蔵」(鶴丸倉庫)の建築様式は、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で、もとは武具蔵として建てられ、加賀藩大工「山本勝左衛門」が普請を手がけました。明治以降は、陸軍によって軍服などが保管する「被服庫」として使われていました。長らく「鶴丸倉庫」と呼ばれていますが、実際に建築されているのは「東の丸附段」です。石板を貼った外壁など、櫓や城門などとはデザインを変えています。城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構で、総二階建の延床面積は下屋を除いて約636㎡あります。
⑵ 「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」
「五十間長屋」(多門櫓)、「橋爪門続櫓」、「菱櫓」は、平成13年(2001年)7月に完成した延べ床面積1894.23㎡の復元された建物で、「石川門」や「三十間長屋」と同様、「鉛瓦」や「海鼠塀」が外観の特徴です。そして、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、完成まで実に3年4ヶ月かかりました。3層3階の「菱櫓」と「橋爪門続櫓」を2層2階の「五十間長屋」でつないでいます。これらの建物は、戦の際に「二ノ丸」を守るための施設で、「石落し」や「鉄砲狭間」となる「格子窓」、「白塗漆喰壁」や「海鼠壁」で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。「菱櫓」は大手と搦手を見張る物見櫓、「橋爪門続櫓」は二ノ丸大手の「橋爪門枡形」を見張る物見櫓、「五十間長屋」は武器等の倉庫でした。
① 「菱櫓」
「菱櫓」の1階は、高さ11.7mの石垣の上に建築されており、3階建で、高さは約17mあります。「櫓」とは「矢の倉」とも云われ、武器の倉庫の意味ですが、ここ「菱櫓」は主に周辺を見張る役割を担っていました。「菱櫓」という名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角はそれぞれ80度と100度になっています。これは、死角を少なくし視野を大きくするためで、建物が菱形の場合、柱も菱形です。この部屋の中に立っている4本の長さ14m、太さ33cmの桧の「通し柱」を始め、使われているおよそ100本の柱も菱形で、これらを使っての建築には大変な技術を要するそうです。
② 「五十間長屋」
「五十間長屋」は武器等を保管する倉庫と城壁の機能とを兼ね備えた2階建ての建物です。ここには天井板が貼ってないので、大きな松の木の梁など、その木組みをそのまま見ることができます。木と木は、鉄のクギやボルトで留めるのではなく、木材に「仕口」や「継ぎ手」、或いは「ほぞ」や「ほぞ穴」と呼ばれる凹凸を造って組み合わせ、 木で作ったクサビを打って外れないようにしてあります。今回復元された一連の建物は、日本古来の柱と梁・桁を持つ「木造軸組工法」と呼ばれる方法で建てられ、それに、土壁と貫という柱と柱を繋ぐ横木を組み合わせた「耐力壁」によって構成され、 地震に対してもきわめて丈夫な構造になっているそうです。
③ 「 橋爪門続櫓」
「 橋爪門続櫓」は、「橋爪門」を見下ろす位置にあり、三の丸から「橋爪橋」を渡り、「橋爪門」を通って、 二の丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で、「橋爪櫓」とも呼ばれていました。
⑶ 「橋爪門」
「橋爪門」は、「金沢城」の「二の丸」の正門にあたり、城内で最も格式の高い門とされています。「橋爪門」は、寛永8年(1631年)の大火後に整備された「二の丸」の正門です。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる「枡形門」で、枡形は城内最大の規模を誇ります。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、「二の丸御殿」へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、「二の門」の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした。文化5年(1808年)の二の丸火災で焼失した後、文化6年(1809年)に再建された姿を復元し、平成27年(2015年)に完成しました。ちなみに、金沢城内の各曲輪をつなぐ城門の中で、特に重要であった「石川門」、「河北門」、「橋爪門」を「金沢城三御門」と呼んでいます。
⑷ 河北門(かほくもん)
「河北門」は、金沢城の実質的な正門です。「河北門」は、「金沢城」の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸」の正面にあります。これが「正門」たる由縁で、「河北門」は、「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれています。「河北門」は、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦9年(1759年)の後、安永元年(1772年)に再建されました。再建された「河北門」は、明治15年(1882年)頃に撤去されるまで「金沢城」の実質的な「正門」としての役割を果たしていました。「河北門」は平成19年(2007年)11月に着工し、平成22年(2010年)4月まで約2年半の歳月をかけて完成し、見事に復元されました。「河北門」は、高い防御力を備え金沢城の重要な門のひとつで、「高麗門」である「一の門」、「櫓門」である「ニの門」、「枡形土堀」及び続櫓の機能を持つ「ニラミ櫓台」により防御機能を持った構成となっています。
「一の門」は、幅4.7m、高さ7.4mの総欅(けやき)造りで、脇土塀をなまこ壁仕上げとし、土塀の内側には隠し狭間が設けられています。一の門の右手にあるのが「ニラミ櫓台」です。つづいて櫓門である「二の門」で高さは12.3m、幅26.9m×奥行き8.2mあり、外観は「石川門」とほぼ同じですが、規模は一回り大きくなっています。また、「二の門」は内部を見学することができます。
⑸ 「鼠多門」と「鼠多門橋」
「鼠多門」と「鼠多門橋」は、「金沢城」の西側にあります。それぞれの特徴は、「鼠多門」が黒い海鼠漆喰、「鼠多門橋」が城内最大規模の「木橋」であるということです。「鼠多門」は、「玉泉院丸」に位置し、「鼠多門橋」により接続される「金谷出丸」からの出入口として機能していました。ちなみに、「金谷出丸」には「金谷御殿」と呼ばれる加賀藩主の別邸があったからです。そのため、当時は、一般の人が通るということは出来なかったそうです。「金谷出丸」は、現在は、藩祖の「前田利家」を祀る「尾山神社」となっています。そして、「鼠多門」は、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」でも焼失を免れ、修理等を経ながら明治期まで存在していました。「鼠多門」は、2階建ての「櫓門」で、「金沢城」内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う「鉛瓦」、外壁は「白漆喰塗り」で腰壁は「海鼠壁」が用いられています。この「海鼠壁」の目地が黒漆喰で仕上げられる建築方法が、「金沢城」内の他の門には見られない特徴です。また、「金沢城御三門」と比べて、城壁の連続した石垣の上に直接建てられている点も大きな特徴でしょう。
「鼠多門橋」は、幅5.5m、長さ29mの木の橋で、「玉泉院丸」と「金谷出丸」を隔てる水堀に架かる城内最大規模の「木橋」で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。しかし、明治10年(1877年)に「鼠多門橋」が老朽化のため撤去され、明治17年(1884年)には「鼠多門」も火災により焼失し、周囲の水堀も埋め立てられてしまいました。そして、現在の「鼠多門」と「鼠多門橋」は、平成30年(2018年)6月から令和2年(2020年)7月までに復元整備され、往時の勇壮な姿が再現されました。そして、「鼠多門」と「鼠多門橋」の復元が何よりも素晴らしいのは、「加賀百万石回遊ルート」を誕生させたことです。これにより効率的な観光ができるようになったからです。ちなみに、「加賀百万石回遊ルート」は、「長町武家屋敷跡」⇒「尾山神社」⇒「鼠多門」⇒「金沢城」⇒「兼六園」の名所旧跡を周遊することができます。
⑺ 「玉泉院丸庭園」
「玉泉院丸庭園」は、池と石垣によって独創的な景観を創り出した庭園です。庭園散策を楽しんだ後には、「玉泉庵」では抹茶と季節ごとの生菓子を味わうこともできます。「玉泉院丸庭園」は、2代目藩主「前田利長」の正室「玉泉院」(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来とされ、3代藩主「前田利常」による寛永11年(1634年)の作庭を始まりとし、その後5代藩主「前田綱紀」や13代藩主「前田斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで「金沢城内玉泉院丸」に存在していた庭園です。「兼六園」は饗応の場であるのに対し、「玉泉院丸庭園」は藩主の内庭としての性格が強い庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、城内に引かれた「辰巳用水」を水源とする「池泉回遊式」の「大名庭園」で、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある立体的な造形でした。滝と一体となった「色紙短冊積石垣」などの意匠性の高い石垣群を庭の構成要素にした独創的な庭園でした。「玉泉院丸庭園」は、明治期に廃絶されましたが、平成25年(2013年)5月から整備工事が始まり、平成27年(2015年)3月に、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現されました。
⑻ 玉泉庵
江戸時代に「露地役所」(庭の整備管理に関する役所)があった場所に休憩所「玉泉庵」を整備しました。室内からは、「色紙短冊積石垣」をはじめとした意匠性に富んだ石垣群を借景に庭園を一望することができます。また、和室では抹茶と季節ごとのオリジナル上生菓子の抹茶を楽しむことができます。
⑼ 「鶴の丸休憩館」
「鶴の丸休憩館」は、鉄骨造一部木造の平家建てで、平成29年(2017年)4月に「鶴の丸」に完成しました。その特徴は、城郭建造物に面して、1枚が最大6m幅の大判ガラスを使用し開放感を演出し、さらに、石川県産の木材を使用した現代的な和風デザインになっています。大判ガラスにより額縁の中の「五十間長屋・菱櫓・橋爪門続櫓」のような絶景を大判ガラス越しに見ることができます。「鶴の丸休憩館」は、入口から入ると、まず「案内スペース」、右手に金沢城の歴史回廊ゾーンと城と庭の魅力発信ゾーンの「展示スペース」、その奥に大判ガラスごしに絶景を見ることができる「休憩スペース」と「豆皿茶屋」があります。「豆皿茶屋」では、軽飲食をとることができ、和菓子、洋菓子、お寿司など石川が誇る銘菓や銘品が、かわいい豆皿にのって配膳されます。また、「鶴の丸休憩館」の前には鶴の丸土塀の構造模型とふだん表面しか見ることが出来ない石垣の技法が、横や後ろからもわかる展示があり、さらに「金沢城」の理解を深めることができます。
「豆皿茶屋」インフォメーション
①営業時間…AM 11:00~PM 4:00 電話:076-232-1877
②定休日…無休(年末年始を除く)
③メニュー例
殿皿御膳(2600円)、姫皿御膳(2000円)、鶴の丸御膳(1500円)、ちょこっとぷれーとは三種類あり900円~950円、その他飲み物デ・ザートなど
⑽ 「丑寅櫓跡」
「丑寅櫓跡」は、東ノ丸の隅櫓があった所で、本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられました。「丑寅櫓跡」は、文禄元年(1592年)に築かれ、物見や本丸の防御を狙っていましたが、宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」の際に焼失し、その後は再建されませんでした。「兼六園」や「戸室山」、「医王山」などが眺望できる展望台となっています。「丑寅櫓跡」にある野面積みの石垣は「金沢城」内最古の石垣とされています。現在は石垣のみ確認することができます。また、「丑寅櫓跡」は、春の桜、秋の紅葉の時期には、絶好のポイントになるそうです。
⑾ 「戌亥櫓」
「戌亥櫓」(乾櫓)は本丸の北西角、戌亥の方角に位置していた櫓なので「戌亥櫓」と呼ばれていました。「戌亥櫓」(乾櫓)は、寛永8年(1631年)頃に築かれ、西と北に「出し」という出窓がついている二層の櫓だったそうですが、宝暦9年(1759年)の「宝暦の大火」の際に焼失し、その後は再建されませんでした。現在、櫓はありませんが櫓台からは二の丸に復元された「菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓」を眺めることができます。また、「戌亥櫓」の石垣は「粗加工石積み」の積み方をしていますが、石の隙間には平らな石をはめ込み、「切石積み」のように見せる技法が用いられています。その他、「戌亥櫓」(乾櫓)には、「帝国陸軍建造トンネル跡」があります。「帝国陸軍建造トンネル跡」は、「戌亥櫓」の石垣に掘られた「レンガ造りのトンネル」です。明治から昭和にかけて金沢城は旧陸軍の所管となり軍用施設が設けられました。明治8年(1875年)に精鋭として知られた「陸軍歩兵第7連隊」、明治31年(1898年)からは、「陸軍第9師団司令部」が金沢城址に駐留しました。「戌亥櫓」の石垣にあるトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期につくられたものとされています。ちなみに、兵器庫は城外の出羽町に建設されていましたが,弾薬については不慮の爆発のリスクを考慮し,市街地への影響の少ない城内に貯蔵しました。
02_【「金沢城」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0937 金沢市丸の内1番1号 電話:076-234-3800
⑵ 開園時間…7:00~18:00 ※10月16日~2月は8:00~17:00
03_【「金沢城」へのアクセス】
⑴ 城下まち金沢周遊バス
①城下まち金沢周遊バス右回りルート
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・6停留所目(橋場町(金城樓前)」の次の停留所) 所要時間約15分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「兼六園桂坂口」まで徒歩3分240m
⇒バスは「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所に停まるので下車した後、左手の公園の中にある階段があるので上ります。上り終えると、右手に「金沢城」の「石川門」、そして、左手に「兼六園」の「桂坂口」があります。
(ワンポイント情報)
「兼六園」と「金沢城公園」のどちらにも行く予定なら、こちらのバス停がおすすめです。「兼六園桂坂口」、「金沢城公園石川門口」の最寄り停留所となります。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「兼六園桂坂口」まで徒歩3分240m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日そして公園内は非常に広いので、喧騒は全く感じられませんでした。
-
色鮮やかな朱色の壁とウルトラマリンブルーの天井は忘れることできないほど印象的でした。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.0
「成巽閣」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」の6番のりばから北陸鉄道 [11錦B]に乗車します。「出羽町」停留所で下車し、バスの進行方向に反対方向に130mほど戻ると突き当りになります。突き当りは「兼六園」です。突き当りを左折し、120mほど道なりに進むと右手に「成巽閣」の入口の門があります。ちなみに、海鼠塀が続く「正面入口」と「兼六園」からは「赤門」から入ることができます。
「成巽閣」は、13代藩主「前田斉泰」が、文久3年(1863年)に母である「真龍院」のために、「兼六園」の中に建てた隠居所です。当初は、「巽御殿」と呼ばれました。名前の由来は、「金沢城」から見て巽の方角(東南)にあること、京都の鷹司家が「辰巳殿」と呼ばれていたことにちなんで、こうした名前がつけられました。
「成巽閣」は、2階建ての建造物で大名正室の御殿としては、日本国内に唯一現存する建造物となっております。階下は「武家書院造」、階上は「数奇屋風書院造り」の様式を持っており、昭和13年(1938年)に「旧国宝」、昭和25年(1950年)に国の「重要文化財」に指定されています。特に、見どころは、北陸新幹線「かがやき」のグリーン車に使われている色のモチーフとなった「群青の間」の「ウルトラマリンブルー」に彩られた天井です。また。「謁見の間」の花鳥の欄間や「松の間」の小鳥の絵が描かれたオランダ渡りのギヤマンなど、小鳥や花が多くあしらわれています。
01_【「成巽閣」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0936 石川県金沢市兼六町1-2 電話:076-221-0580
⑵ 営業時間…9:00~17:00(入館は16:30まで)
⑶ 定休日…水曜日(祝祭日の場合は開館し、翌日休館)年末年始
⑷ 料金…一般・大学生 700円~ 中・高校生 300円~ 小学生 250円~
⑸ 春の「雛人形雛道具特別展」 2月上旬~4月中旬のみ特別料金
大人 1000円 中・高校生 400円 小学生 300円
02_【「成巽閣」へのアクセス】
⑴「北陸鉄道バス」を利用
[金沢駅前(東口)⇒ 石川県立図書館・土清水方面行き] (北陸鉄道 [11錦B])
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(6番のりば)
・7停留所目(「兼六園下・金沢城」の次の停留所) 所要時間約11分
・9時から17時の間に1時間平均2便~3便
・「出羽町」停留所で下車し「成巽閣」まで徒歩5分350m
⇒バスは「出羽町」停留所に停まるので下車し、バスの進行方向に反対方向に130mほど戻ると突き当りになります。突き当りを左折し、120mほど道なりに進むと右手に「成巽閣」の入口の門があります。
03_【「成巽閣」の見どころ】
⑴ 「謁見の間」
「謁見の間」は、公式の「御対面所」として使用され、加賀百万石前田家の威厳を象徴するものでした。花鳥の欄間を境とし上段、下段18畳からなり、広間33畳へとつづきます。「上段の間」は、正面に付書院と帳台構(武者窓)を対峙させた本格的な書院造となっており、天井は「上段」が折上格天井、「下段」は平の格天井、格縁は黒漆塗りとし、杉の鏡板を上段は柾目、下段は柾目と杢目を目違いに張られています。材には色漆、壁は金砂子の貼壁、障子の腰板には花鳥の絵が施されるという華麗で瀟洒な造りを特色としています。
①欄間
檜の一枚板を両面陶彫とし、梅の古木と椿に極楽鳥が五彩の岩絵具で描かれています。前田家御細工所の名工、「武田友月」の作であると伝えられています。
②七宝焼の釘隠
「成巽閣」の各部屋では、襖の引手をはじめ「釘隠」など建具の多くの部材において、特別な意匠を持つものが多用されています。加賀藩では金工技術に象嵌七宝を織り交ぜた「加賀七宝」と呼ばれた技法が盛んであり、金属と釉薬による色鮮やかな部材が多く配されております。
⑵ 「つくしの縁庭園」
「つくしの縁庭園」は、柱の無い縁から眺めることのできる開放的な庭園です。この庭園は、国指定名勝である「飛鶴底」からつづき、中央に雄松、左右に五葉松と紅梅、周囲に楓、満点星紅葉、黐の木、榊、サツキなどなどが配置されています。その合間を縫うように「辰巳用水」から分流された遣水がゆるやかに流れています。「つくしの縁庭園」は、昭和59年(1984年)4月に県指定名勝となっています。
⑶ 「万年青の縁庭園」
「万年青の縁庭園」は、御寝所の「亀の間」に面しています。「万年青の縁庭園」は、「つくしの縁庭園」からの遣水が廊下を挟んで流れ込む庭園ですが、様相は一変します。遣水は深くなり、ゆるやかだった流れは水音が響くように工夫されており、樹木が覆う深山渓谷を彷彿とさせます。また、中央に並ぶ三本のキャラボクは万年の時を経た吉祥の亀を表現しています。「つくしの縁庭園」と同じく、昭和59年(1984年)4月に県指定名勝となっています。
⑷ 「吉祥の亀」
「万年青の縁庭園」の中央に並ぶ大小三本のキャラボクは、万年の時を経た「吉祥の亀」を暗示しています。亀の間に続くこの庭から、心安らかに眠りを守る水音とともに、長寿を願う意味も含めた奥方への心配りに溢れる意匠となっています。
⑸ 「亀の間」
「万年青の縁庭園」に面する、「亀の間」は「御寝所」として使われていました。「亀の間」の部屋の四隅の柱には蚊帳の吊り金具が付けられています。そして、正面には「床の間」、「違棚」を設けられていますが、「御寝所」らしく清楚なものとなっています。「障子腰板」には長生を寿ぐ亀が描かれており、「床の間」の方より1枚毎に亀の数が多く描かれています。
⑹ 「群青の間」
格式のある階下の書院に対して、階上は意匠を凝らした数奇屋風書院の造りです。「群青の間」とそれに続く「書見の間」は、階上における最も重要な空間でした。天井は折上天井とし、素材の杉柾を目違いに張り、蛇腹および目地にはウルトラマリンブルーという西欧より輸入された顔料を使用した群青が特異な意匠となっています。「群青の間」では、天井の群青から壁に朱を用いた色鮮やかな部屋となっています。また、床の間は洞床といわれる踏込床で、左側には1畳の板畳が付いています。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.0
- 「JR金沢駅東口」(6番のりば)から「北陸鉄道バス」に乗り、「出羽町」停留所に停まるので下車し、徒歩5分350m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日なのでさほど混雑していませんでした。
-
兼六園は高低差を利用した庭園で、いろいろな工夫が凝らされていました。「JR金沢駅東口」(7番のりば)から15分
投稿日 2024年03月26日
総合評価:4.5
「兼六園」へのアクセスは、「JR金沢駅東口」の7番のりばから「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)に乗り、「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し、左手の公園の中にある階段があるので上ります。上り終えると横断歩道があり、それを渡ると「兼六園」で、前方50mほどのところに「兼六園」の「桂坂口」があります。反対側は「金沢城」の「石川門」です。ちなみに、「兼六園」の入口は、「桂坂口」、「蓮池門口」、「真弓坂口」、「随身坂口」、「小立野口」、「上坂口」、「桜ヶ岡口」の七か所あります。この中で「金沢城公園」と直結する「桂坂口」、「金沢21世紀美術館」とは交差点の対角線上に位置する「真弓坂口」、これらの2つの料金所の間に位置し、「兼六園」の「正門」とされている「蓮池門口」を合わせた3つの料金所が平地に位置する料金所となっていますこの料金所は最も利用者の多い桂坂口の近くに位置しています。「桂坂口」はゴールデンウイークなどの行楽シーズンには長蛇の列になることが多く、「桂坂口」に長蛇の列ができている時は、「桜ヶ岡口」に回ると早く入園できるかもしれません。ちなみに、「桜ヶ岡口」へは、「兼六園観光案内所」と「九谷焼片岡光山堂」の坂道を110mほど上ると右手にあります。
最初に、「兼六園」の歴史と概要を紐解いてみると、「兼六園」は、水戸の「偕楽園」、岡山の「後楽園」とならぶ「日本三名園」の一つで、国の特別名勝に指定されています。「兼六園」は、敷地面積が約11.4万㎡と広大で、園内を廻遊して鑑賞する「林泉廻遊式庭園」となっています。「兼六園」は江戸時代の代表的な「大名庭園」として、加賀藩の歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。そして、12代藩主となった「前田斉広」は文政5年(1822年)に、藩校の跡地に自己の隠居所として「竹沢御殿」を造営し、同文政5年(1822年)、「兼六園」と命名しました。そして、13代 藩主「前田斉泰」は、「竹沢御殿」を取り壊し、庭を拡張・整備し、万延元年(1860年)には、「蓮池庭」との間にあった門と塀を取りこわして、一大庭園につくりあげました。さらに、文久3年(1863年)には、母「真龍院」の隠居所として「巽御殿」(現在の「成巽閣」)が造営され、ほぼ現在の庭の形になりました。明治時代に入ると、「兼六園」は」は全面的に市民へ開放され、それにあわせて多くの茶店が出店しました。大正11年(1922年)、国の「名勝」に指定された「兼六園」は、昭和60年(1985年)には「名勝」から「特別名勝」へと格上げされ、庭園の国宝とも言える最高の格付けを得ました。そして、冬の風物詩の「雪吊り」や梅苑の紅梅白梅など四季折々の自然を活かした景観は屈指の美しさと評されており、平成21年(2009年)には「ミシュラン観光ガイド」で最高評価の3つ星に選ばれました。ちなみに、「雪吊り」は雪の重みから枝を守るために、木を「りんご吊り」などの方法で縛り上げるというものです。
《「兼六園」お薦め散策巡路》
「兼六園」の「桂坂口」から入園したので、次のような見学順路で「兼六園」を散策してみました。
①「眺望台」⇒②「霞ヶ池」⇒③「徽軫灯籠」⇒④「唐崎松」⇒⑤「雁行橋」⇒⑥「七福神山」⇒⑦「明治紀念之標」⇒⑧「根上松」⇒⑨「花見橋」(曲水)⇒⑩「鶺鴒島」⇒⑪「山崎山」⇒⑫「成巽閣」(別途料金)⇒⑬「内橋亭」⇒⑭「栄螺山」⇒⑮「時雨亭」⇒⑯「夕顔亭」と「伯牙断琴の手水鉢」⇒⑰「翠滝」⇒⑱「瓢池」⇒⑲「海石塔」⇒⑳「噴水」
★「金沢城公園」(石川門)へは、「桂坂口」へ、「金沢21世紀美術館」へは「真弓口」が便利です。
では、「兼六園」の散策のスタートです。
《①「眺望台」》
まず、「桂坂口」で入園券を購入し、「眺望台」へ向かいました。徒歩約3分150mの距離です。「眺望台」付近には、ベンチが7脚ほどあり、金沢市内などが一望できる絶好の景色を座って、ゆっくり堪能することができます。「眺望台」は、「六勝」の一つである「眺望」を楽しむのに最適な場所です。金沢市内ばかりでなく、遠くに、白山山系の一部、戸室山、医王山を望むことができ、正面には卯辰山、その手前には市街地がつづきます。また、その向こうには加賀平野が広がり、さらに、河北潟や内灘砂丘、日本海、能登半島なども眺めることができる絶好のビューポイントです。
《②「霞ヶ池」⇒③「徽軫灯籠」⇒④「唐崎松」⇒⑤「雁行橋」》
次が、「眺望台」の反対側にある「霞ヶ池」付近です。まず、「徽軫灯籠」ですが、「徽軫灯籠」の手前辺りから「霞ヶ池」の全体の景観を見渡すことできます。「霞ヶ池」は、「兼六園」のほぼ中心部に位置する園内で最大の池です。「霞ヶ池」の「面積」は約5800㎡、「深さ」は最も深いところで1.5mあるそうです。「栄螺山」、「内橋亭」、「徽軫灯籠」、「虹橋」、「唐崎松」、「蓬莱島」などの見どころがこの「霞ヶ池」の周辺にあり、「霞ヶ池」の周りを廻遊しながら庭景を楽しむことができます。「徽軫灯籠」の後ろには、「徽軫灯籠」の傍らにあるもみじの古木、曲水に架かる「虹橋」と一体になった風景は、「兼六園」を代表する景観になっているので、一旦足を止めて是非じっくり見てください。
「徽軫灯籠」は、「霞ヶ池」の北岸に配された「兼六園」を代表する景観です。「眺望台」から徒歩で、1分50mほどの距離です。「徽軫灯籠」は足が二股になっていて、琴の糸を支える「琴柱」(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。この灯籠は水面を照らすための「雪見灯籠」が変化したもので、高さは2.67mあります。一脚は水中にあって高さが2m、陸にあるもう一方は、高さが80cmです。そして、この不均衡さが美しいといわれています。また、「徽軫灯籠」の右手奥には、「虎石」があります。「虎石」は、文字どおり、虎が前足を低くして吠える姿を連想させることから、この名が付けられました。「虎石」は、能登外浦の曽々木か福浦あたりから持ち込まれた自然石であると言われています。「虎石」は、「兼六園」を守護する魔除けの石の一つで、薄暗い夕方などに見ると、あたかも生きているかのように見えるそうです。
「虹橋」を渡り40mほど進むと右手に「唐崎松」があります。「唐崎松」は、「月見橋」のそばにあり「霞ヶ池」に面して立って生い茂っている松で、「兼六園」のなかで最も枝ぶりの見事な松で、地面をはうように広がっています。13代藩主「前田斉泰」が近江八景の一つである琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松です。特に、「兼六園」ならではの冬の風物詩である「雪吊り」は、雪の重みによる枝折れを防ぐため、冬にほどこされ、他の庭園では見ることができないそうです。
「雁行橋」は、11枚の「赤戸室石」を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった橋で、「唐崎松」から80mほどの距離にあります。また、石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」とも言われています。万年を生きる亀にちなんで、この橋を渡ると長生きするとされてきましたが、現在は石の磨耗が著しいため、残念ながら通行禁止です。ちなみに、「戸室石」は、石川県金沢市東部の「医王山」、「戸室山」や「キゴ山」で採掘されます。
《⑥「七福神山」》
「七福神山」は、「雁行橋」から60mほど先にあり、近くに「兼六園」の「上坂口」の入口があります。「七福神山」は、12代藩主「前田斉広」が造営した「竹沢御殿」に附帯していた庭園の一部です。「七福神山」は、別名「福寿山」とも呼ばれ、「曲水」、「築山」、「雪見灯籠」など、当時の雰囲気をそのまま今に伝えています。また、「七福神」になぞらえた七つの石を配置しているのも大きな特徴となっています。
《⑦「明治紀念之標」》
「明治紀念之標」は、「七福神山」から80mほど先にあります。「明治紀念之標」は、中央に日本で最初に建てられた銅像といわれる「日本武尊像」、そして左側に「石川県戦士尽忠碑」が配置されています。「明治紀念之標」は、「西南戦争」で戦死した郷土軍人の霊を慰めるものです。「日本武尊」の銅像の身長は5.5mもあり、明治13年(1880年)に建立されました。両脇に植えられた赤松は「手向松」と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものだそうです。
《⑧「根上松」》
「根上松」は、「明治紀念之標」から70mほど先の「花見橋」の手前付近にあります。「根上松」は、大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がったもので、「兼六園」名物の一つとなっています。「根上松」は、13代藩主「前田斉泰」が土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられています。奇想天外であまり目にすることのない太古の世界のような珍しい景観です。
《⑨「花見橋」(曲水)》
「花見橋」は、「擬宝珠」の欄干がある木橋で、「根上松」のすぐそばにあります。「花見橋」の間前の由来は、橋から見る花の眺めがすばらしいことからついたそうです。花の季節になると、緩やかに流れる「曲水」に沿って、桜、カキツバタ、サツキ、ツツジなどが咲き誇り、素晴らしい景観をおりなすそうです。特に、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景は見どころ満載だそうです。
《⑩「鶺鴒島」》
「鶺鴒島」は、「花見橋」を渡り左方向に30mほど進むと左手にあります。まだ日本という国がなかった頃、国生みの神である「イザナミ、イザナギ」の尊が、男女和合の方法を「鶺鴒」から教わったという故事より、その名が付けられたそうです。「鶺鴒島」には、正面に「三社」と書かれた「石額」がかかった鳥居があり、その奥には、「陰陽石」(誕生)、「相生の松」(結婚)、「五重の石塔」(死)を配置して、人生の三儀式を表現しています。他の大名庭園でも例を見ない珍しいものだそうです。
《⑪「山崎山」》
「山崎山」は、「鶺鴒島」から130mほど進むと正面に現れてきます。「山崎山」は、「小立野口」付近にある築山で、秋になると赤や黄に美しく色づくので「紅葉山」とも呼ばれます。「山崎山」の中腹には、白川御影石でつくられた「五重の塔」(御室の塔)があります。そして、山麓の岩間から流れ出る水は、約570mの「曲水」となって「霞ヶ池」に注いでいます。
《⑫「成巽閣」》
「成巽閣」は、「山崎山」から「石川県立伝統産業工芸館」の前を通りすぎ、徒歩で210mの距離にあります。「成巽閣」は、13代藩主「前田斉泰」が、文久3年(1863年)に母である「真龍院」のために、「兼六園」の中に建てた隠居所です。「成巽閣」は、2階建ての建造物で、階下は「大名書院造り」、階上は「数奇屋風書院造り」の様式を持っており、国の重要文化財に指定されています。特に、見どころは、北陸新幹線「かがやき」のグリーン車に使われている色のモチーフとなった「群青の間」の天井です。また。「謁見の間」の花鳥の欄間や「松の間」の小鳥の絵が描かれたオランダ渡りのギヤマンなど、小鳥や花が多くあしらわれています。
《⑬「内橋亭」》
「成巽閣」から「霞ヶ池」を目指します。「内橋亭」は、「霞ヶ池」のほとりに立つお食事処、お土産処です。「内橋亭」は、かつて「蓮池庭」内にあった「四亭」の一つで、「霞ヶ池」の西南岸に設けられた「水亭」です。また、別名「鯰之亭」(なまずのてい)ともいわれている大変歴史のある建物です。蓮池馬場の馬見所に建てられていたものを、明治7年(1874年)、現在の場所に移築しましたものです。「栄螺山」のうっそうとした樹々を背景に、石脚で支えられたこの亭は、まるで水面に浮かんでいるように見えました。「内橋亭」の店内から眺めた「兼六園」は、散策路から眺めるものとは一味違った景色を醸し出していました。
《⑭「栄螺山」》
「内橋亭」の背後にある「栄螺山」は、「霞ケ池」の西岸に立っています。「栄螺山」は、13代藩主「前田斉泰」が「霞ヶ池」を掘り広げたときの土を利用してつくった今でいうとサステナブルな築山です。「栄螺山」は、高さ9m、周囲約90mで、山頂に「避雨亭」と呼ばれる御亭があります。頂上へ向かってグルグルとらせん状の道が延び、時計回りでぐるぐるとうずを巻き、まるで栄螺の殻を思わせることからこの名の由来です。しかし、実際の貝類の「サザエ」は逆巻きだそうです。そして、頂上へ到達すると「霞ヶ池」を臨める絶景が待っています。
《⑮「時雨亭」》
「時雨亭」は、「内橋亭」から徒歩で130mほどの距離の「瓢池」付近にあります。「時雨亭」は、5代藩主「前田綱紀」が「兼六園」を作庭した頃からあった建物です。5代藩主「前田綱紀」は、延宝4年(1676年)に作事所を城内に移し、その跡に「蓮池御亭」を建て、その周辺を作庭しました。これが「兼六園」の歴史の始まりです。「時雨亭」は、明治期の廃藩のあとに、残念ながら撤去されてしまいました。それを、平成12年(2000年)3月に、新しい庭園の完成とともに現在地に復元したものです。庭側の10畳と8畳、さらにそれに続く御囲は、残されていた当時の平面図により復元したそうです。また、「時雨亭」内での抹茶、煎茶の呈茶(有料)、見学もできます。
《⑯「夕顔亭」と「伯牙断琴の手水鉢」》
「夕顔亭」は、「時雨亭」から徒歩で150mほどの距離にあり、「瓢池」の東岸にある茶亭です。安永3年(1774年)に建てられた「兼六園」内最古の建物です。「蓮池庭」にあった四亭の一つで、当時のままの姿を今に伝えています。本席は質素で小間ながら、本格的な茶の湯が催せるようになっているそうです。また、その美しい名は、茶室内の壁に装飾されている「夕顔の透彫り」から名付けられました。
また、「夕顔亭」の縁先には、「伯牙断琴の手水鉢」があります。「伯牙断琴の手水鉢」は、自らの琴の音を最も理解した友人の死を嘆き、一生、琴を奏でないことを誓った名手「伯牙」の姿が浮き彫りにされている手水鉢です。「伯牙断琴の手水鉢」は、高さ45cm、直径85cmと大きいもので、5代藩主に招かれた京都の名金工「後藤程乗」の作だそうです。
《⑰「翠滝」⇒⑱「瓢池」⇒⑲「海石塔」》
「翠滝」は、「霞ヶ池」から流れ出て、「瓢池」に注ぎ込む大滝で、「夕顔亭」の対岸に懸かっています。高さ6.6m、幅1.6mで水量が豊富、滝音も大きく、目と耳を楽しませ、心を和ませてくれます。その荘厳さは他の庭園にはないスケールと景観で、兼六園のなかでも最もすぐれた庭景の一つとされています。また、「翠滝」は別名「紅葉滝」とも呼ばれています。
「瓢池」周辺はかつて「蓮池庭」と呼ばれ、「兼六園」の作庭はこの辺りからはじまったと言われています。そのユニークな名前は、池のなかほどがくびれて、「瓢箪」のような形をしていることから名付けられたものです。「瓢池」の中には「不老長寿の島」と「神仙島」をかたどった大小二つの島があります。
そして、「瓢池」の中島に建つ、高さ4.1mの六重に重ねられた塔が「海石塔」です。「海石塔」は、3代藩主「前田利常」がつくらせ、虫が喰ったように穴の空いた淡茶色の笠石が、六重に重ねられているのが特徴です。
《⑳「噴水」》
日本で最古の「噴水」は、文久元年(1861年)に造られ、「蓮池門口」から入った左手にあります。この「噴水」は、電気などを使わずに、「霞ヶ池」を水源とし、池の水面との高低差による自然の水圧を利用してあがっています。水の高さは約3.5mあり、「霞ヶ池」の水位の変化によって変わります。藩政末期、金沢城内の二ノ丸に水を引くため試作されたものと伝えられています。
01_【「兼六園」のその他の見どころ】
① 「蓮池門旧址」(れんちもんきゅうし)
「蓮池門」は、松濤坂の真正面にある門で、かつては「兼六園」の正門です。「蓮池門」に立派な階段があるのは、かつて、「蓮池御門」と呼ばれる立派な門があり、「金沢城」から「兼六園」へ来る殿様や奥方が「蓮池御門」をくぐって「兼六園」へ出入りしていたからです。古い図によると、石段を登った右にやや大きな番所があり、「三十人頭」と呼ばれる役人が門番をしていました。現在は、「特別名勝兼六園」の石標が建っています。また、当時この門には、「石川県伝統産業工芸館」に保存されている「松平定信筆」の「兼六園」の額が掲げられていました。
㉒ 「黄門橋」
「黄門橋」は、「常磐ヶ丘」にある石の橋で、謡曲「石橋」を題材につくられた橋です。青戸室石でできた反橋は、橋台石に斜めに架けられているほか、一枚石を二枚石に見えるよう工夫して、立体感を持たせて細工されています。このように独創的な手法が凝らされている「黄門橋」は、用と美が見事に調和した橋であると言えます。「黄門橋」の名前の由来は、三代藩主「前田利常」の役職が、「中納言」であったことから、「黄門橋」と呼ばれているそうです。そして、「黄門」という呼び名は「中納言」の中国での役職名だそうです。
② 「親不知」(おやしらず)
「親不知」は、「霞が池」を周遊しながら「内橋亭」の横を通って行くと、「栄螺山」の山腹が「霞ヶ池」の水際に迫り、崖下には大きな護岸の配石とともに沢渡があります。その配置された護岸の岩の荒々しい様子が、北陸道の難所である新潟県の「親不知海岸」の険しさを連想させることから名付けられました。汀線は池の水の増減で石が見えたり見えなくなったりするよう配石されています。
③ 「梅林」
「梅林」は、昭和43年(1968年)、明治百年記念事業として、約3000㎡ともいわれる広大な場所に、「北野天満宮」、「大宰府」や「湯島天神」、「水戸偕楽園」などの協力により、「兼六園観光協会」が中心となって全国の名梅を集めて造成されました。約20種、200本の梅が植えられており、これだけ沢山の種類の梅を見ることが出来る場所も少なく、3月になると紅白の花が美しく咲き誇るそうです。
④ 「兼六園菊桜」
「兼六園菊桜」は、かつて国の天然記念物だった原木が枯れ、現在は2代目の兼六園菊桜が2本植えられています。原木が枯れる前に桜守「佐野藤右衛門」により枝接ぎ、育成され、「兼六園」に戻されました。一つの花に花びらが300枚以上つき、ちょうど菊の花のように咲くことからこの名で呼ばれています。開花期は4月下旬から5月上旬までの約2週間足らずです。普通の桜と違って、濃紅、薄紅、白と色が移っていくのが特徴で、全国にある桜のなかでも特に珍しい品種です。
⑤ 「辰巳用水」
「辰巳用水」は、寛永9年(1632年)に、3代藩主「前田利常」が、寛永8年(1631年)の法船寺大火を契機に、
「金沢城」の防火用水を確保するためなどに設置した用水です。後に「兼六園」の「曲水」として用いられることとなりました。「辰巳用水」は、板屋兵四郎が開削し、「江戸時代の土木技術を知る上で貴重である」として、国の史跡に指定されています。用水の取り入れは、金沢の南を流れる犀川の上流で、「兼六園」から約10km離れた上辰巳町にあります。
⑥ 「金城霊沢」(きんじょうれいたく)
「金城霊沢」は、「金澤神社」のそば、「放生池」の南側にある泉です。真夏の炎天の際も枯れることなく、また、長雨が降ってもあふれることなく、いつも清水をたたえています。12代藩主「前田斉広」によって、現在のように丸い石の枠と屋根が設けられました。また、この「金城霊沢」は、その昔、「芋掘藤五郎」という男がこの湧き水でイモを洗ったところ、たくさんの砂金が出てきたという伝説が残っています。そこから「金洗いの沢」と呼ばれるようになり、「金沢」という地名の由来となった場所と伝えられています。
02_【「兼六園」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0936 石川県金沢市兼六町1 電話: 076-234-3800
⑵ 開園日…年中無休(時雨亭除く)
⑶ 開園時間
①3月1日~10月15日…7:00~18:00 (最終入園 17:30)
②10月16日~2月末日…8:00~17:00 (最終入園 16:30)
園内施設営業時間
⑷ 時雨亭…9:00~16:30 (最終入亭16:00)
⑸ 入園料
①個人…・大人(18歳以上)320円 ・小人(6歳~18歳未満)…100円
②団体(有料対象者30名以上)…・大人(18歳以上)250円・小人(6歳~18歳未満)80円
⑹ 早朝開園
「金沢城公園・兼六園」では、早朝開園(無料)を行っています。ただし、「兼六園」は有料開園時間の15分前までに退園することになっています。また、兼六園の入園口は「蓮池門口」「随身坂口」のみとなります。
早朝開園時間
①3月1日~3月31日…5:00~(6:45) ②4月1日~8月31日…4:00~(6:45)
③9月1日~10月15日…5:00~(6:45) ④10月16日~10月31日…5:00~(7:45)
⑤11月1日~2月末日…6:00~(7:45)
03_【「兼六園」へのアクセス】
⑴ 城下まち金沢周遊バス
①城下まち金沢周遊バス右回りルート
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(7番のりば)
・6停留所目(橋場町(金城樓前)」の次の停留所) 所要時間約15分
・9時から17時の間に1時間平均4便(始発8:35、終発18:05)
・「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「兼六園桂坂口」まで徒歩2分160m
⇒バスは「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所に停まるので下車した後、左手の公園の中にある階段があるので上ります。上り終えると横断歩道があり、それを渡ると「兼六園」で、前方50mほどのところに「兼六園桂坂口」があります。
(ワンポイント情報)
「兼六園」と「金沢城公園」のどちらにも行く予定なら、こちらのバス停がおすすめです。「兼六園桂坂口」、「金沢城公園石川門口」の最寄り停留所となります。また「兼六園」の「蓮池門口」や「桜ヶ丘口」から入りたいときもこのバス停からが便利です。「兼六園」にある日本で最古の噴水から最も近いバス停です。- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 3.5
- 城下まち金沢周遊バス右回りルートに乗り、「兼六園下・金沢城(石川門向い)」停留所で下車し「兼六園桂坂口」まで徒歩2分160m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 平日だったので、チケット売場でも並ぶことなく、すぐに入園できました。
- 見ごたえ:
- 4.5
-
斬新なデザインの店内で雰囲気がとてもいいところです。昔ながらの固めプリンを食べることができました。
投稿日 2024年03月26日
総合評価:3.5
「HUM&Go#石川県立図書館カフェ」は、「石川県立図書館」のオープンと同時に併設されたオシャレなカフェです。石川県内に複数店舗を構える人気のお店です。座敷の席があったりしてくつろぐこともできます。お店にいるだけでもおしゃれな店内の雰囲気を楽しめます。「石川県立図書館」は結構広いので見学した後に、朝から移動づくめでちょっと疲れたし、お茶でもしようかということになりました。また、「石川県立図書館」に入る前に、「HUM&Go#石川県立図書館カフェ」の店の入口付近にあった看板の「プリンアフォガード」が、とても美味しそうな昔ながらの硬めのプリンのように見えたので、入ることにしました。私は、「自家製プリン」、そして家内は「プリンアフォガード」と「レモンスカッシュ」を注文しました。「プリンアフォガード」には、エスプレッソ―がプリンの味を引き立てるためついていました。私は飲み物を注文しなかったので、一口「レモンスカッシュ」を飲ませてもらいました。「レモンスカッシュ」は、まるでレモンを飲んでいるようでした。また、「自家製プリン」は、昔を思い出すような固めで弾力のあるプリンでした。もちろん、メニューも豊富で、軽食もあり、テイクアウトもできるので、「石川県立図書館」の前にはのイートインスペースで、椅子に座り周囲の風景を見ながら食べることができます。
01_【「HUM&Go#石川県立図書館カフェ」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒920-0942 石川県金沢市小立野2丁目43-1 電話:076-255-0507
⑵ 営業時間
① 平日…9:00 ~ 19:00(ラストオーダー18:30) ②土日祝日…9:00 ~ 18:00(ラストオーダー 17:30)
02_【「HUM&Go#石川県立図書館カフェ」へのアクセス】
⑴「北陸鉄道バス」を利用
[金沢駅前(東口)⇒ 「石川県立図書館・土清水方面行き」] (北陸鉄道 [11錦B])
・バス乗り場:「JR金沢駅東口」(6番のりば)
・17停留所目(「金沢美術工芸大学」の次の停留所) 所要時間約28分
・9時から17時の間に1時間平均2便~3便
・「石川県立図書館」停留所(終点)で下車し「石川県立図書館」まで徒歩すぐ
⇒バスは「石川県立図書館」停留所に停まるので下車すると目の前が「石川県立図書館(百万石ビブリオバウム)」です。正面入口の左側に「HUM&Go#石川県立図書館カフェ」があります。
⑵ その他
金沢駅東口6番のりばから下記のバスに乗車約20~25分
① 11金沢学院大学ゆき 東部車庫ゆき 辰巳丘高校ゆき
② 12湯涌温泉ゆき 北陸大学太陽が丘ゆき 北陸大学薬学部ゆき 16上辰巳ゆき
金沢駅西口5番のりばから下記のバスに乗車約25分
① 10東部車庫ゆき 金沢学院大学ゆき- 旅行時期
- 2024年03月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦
- 一人当たり予算
- 2,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 3.0
- 金沢駅前(東口)から北陸鉄道バスを利用し、所要時間28分、「石川県立図書館」停留所(終点)で下車すると目の前
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 値段はリーズナブルです。
- サービス:
- 3.0
- 番号札を貰って席をさがすので、お店の人もテーブルをみつけるのが大変そうでした。
- 雰囲気:
- 3.5
- 老若男女が楽しめるところです。畳のスペースもありくつろげます。
- 料理・味:
- 3.5
- 「レモンスカッシュ」は、まるでレモンを飲んでいるようでした。また、「自家製プリン」は、昔を思い出すような固めで弾力のあるプリンでした。
- 観光客向け度:
- 3.5
- 石川県立図書館を見学した後に一休みするには最適の場所です。
-
最高のおもてなしと地産地消のバリエーションに富んだ美味しい朝食に思わず舌づつみをうちました。
投稿日 2024年03月26日
ザ ホテル山楽 金沢(THE HOTEL SANRAKU KANAZAWA) 金沢
総合評価:5.0
「THE HOTEL SANRAKU KANAZAWA」に宿泊したのは、2024年3月7日から3月9日までの2泊3日です。
「小松空港」からリムジンバスに乗り「金沢駅西口」で下車しました。時間帯によっては、「香林坊」まで行くリムジンバスもあるのですが、残念ながら「金沢駅西口」が終点でした。当初の予定では、「金沢駅東口」から北鉄バスに乗り、「武蔵ケ辻・近江町市場」(バス停)まで行き、そこからホテルまで歩いて行くという予定でした。しかし、運よく10分足らずで「THE HOTEL SANRAKU KANAZAWA」の送迎バスが、「金沢駅西口」のロータリーからあり、ホテルのエントランスまで行くことができました。荷物の運ぶ手間が全くありませんでした。チェックインの時間前だったので、ホテルに荷物を預け、金沢市内の観光に出かけました。「石川県立図書館(百万石ビブリオバウム)」、「兼六園」そして「金沢城公園」の観光を終えホテルに戻ったのが、17時過ぎでした。フロントでチェックインを申し出たところ、今回は、ちょっと贅沢してクラブルームの「クラブガーデンキング」を予約していたので、2Fにある「プレミアラウンジKANAZAWA」で宿泊の手続きになりました。一連の手続きをしているときに、担当の女性コンシェルジェがきてケーキと飲み物を勧めてくれました。「プレミアラウンジKANAZAWA」のカフェタイムは、14:00から17:00で終了していたのですが、気をきかしてくれました。しかもプレートに4~5種類のケーキがあり、好きなものを選べ、また何個でもチョイスできるということでした。そして、コーヒーなどのソフトドリンク以外にもシャンパン、ワインも飲むことができるということでした。夫婦二人で、シャンパンとケーキを二種類ずつ堪能しました。担当の女性コンシェルジェの接客対応も親切丁寧で、おもてなしの心が十分に伝ってきました。手続きが完了すると部屋まで案内してくれて、設備の操作方法等も詳しく丁寧に説明してくれました。ベットは、シモンズ製のダブルベットで、キングサイズなので、二人で寝てもお互いのことは、全く気になりませんし、旅の疲れを癒し、グッスリと眠ることができ、翌朝は爽快な気分で目が覚めました。また、金沢の伝統工芸と黒を基調とした屏風をモチーフとしたヘッドボードがあり、芸術性も優れたものでした。そして、シャンプー、コンディショナー、シャワージェルはBVLGARIのバスアメニティです。その他、歯磨きセット、ヘアブラシ、カミソリ、シャワーキャップ、綿棒、コットン、マウスウォッシュ などももちろん完備されていました。バスルームは、レインシャワーのついた洗い場付きバスルームでした。テレビも55インチ以上の大型なもので、ベットに寝ながら鑑賞できました。そして、無料のお茶セット、冷蔵庫には、やはり無料の黒部の水と金沢特産の棒茶のペットボトルがありました。サービス満点です。
翌朝は、「この朝食を味わうために足を運ぶ」というお客もたくさんいるという「金沢ダイニング きざはし」での朝食ブッフェです。「金沢ダイニング きざはし」では、7:00から11:00までの時間帯に朝食をとることができます。ただし、最終入店は10:30です。「金沢ダイニング きざはし」の最大の特徴は、「シェフズステーション」といって、フレンチのシェフや板前さんが目の前で、天ぷらを揚げたり、オムレツを作ってくれたり、寿司を握ってくれます。もちろん、加賀野菜など地元食材を中心に、手作りにこだわった金沢の味を堪能することができます。「天ぷらステーション」、「パフォーマンスステーション」、「寿司刺身ステーション」などに分かれていて、品数も豊富で、どれも美味しかったというのが実感です。とてもではありませんが、一回ではすべて食べることができないので、第一日目は洋食系、第二日目は和食系にして食べました。さらに、金沢おでんや金沢カレー、B級グルメとして有名なハントンライスなど地元グルメなどもありました。そして、ここで驚いたのは、シャンパンの白とロゼも無料で提供されているということでした。また、窓の外に目をやると6段の滝がある120坪の美しい中庭が一層食欲をあおってくれます。夜間にライトアップされると昼間とは別の一段と魅力的の光景が見られます。その他、ホテル内の隋書には、色々な作家さんのオブジェがあり、目を楽しませてくれました。
それと「THE HOTEL SANRAKU KANAZAWA」には、「兼六園」、「金沢21世紀美術館」、「ひがし茶屋街」、「武家屋敷跡」などの観光地へのアクセスもゆっくり歩いて20分以内とアクセスは非常に便利です。また、「近江町市場」や「金沢城公園」へは5分もかかりません。そして、金沢は地下鉄がないので、バス網が張り巡らされていますが、ホテルから5分以内に「武蔵ヶ辻・近江町市場」バス停があり、「JR金沢駅」の東口、西口から出るバスは、ほとんど「武蔵ヶ辻・近江町市場」バス停を経由します。どの観光地へ行くにもアクセスは非常に便利です。さらに、本数は限られますが「小松空港」へのリムジンバスも出ています。
最後に、「THE HOTEL SANRAKU KANAZAWA」は、再度、金沢に観光にきたら、もう一度、必ず泊りたいという思いにさせるようなホテルでした。~Everything is satisfaction! ~- 旅行時期
- 2024年03月
-
赤穂浪士討入りの会合にもよく使われたお寺です。本堂に向かって右側に宝篋印塔があります。
投稿日 2024年02月13日
総合評価:3.5
「観音寺」の「赤穂浪士供養塔」へのアクセスは、東京メトロ千代田線「千駄木駅」の1番出口を出て左方向に進むとすぐに信号(表示名「団子坂下」)があります。その信号の横断歩道を渡り、右折して信号の道路の反対側に渡ります。「ミスタードーナッツ千駄木ショップ」のがあり、ゆるやかな「三崎坂」になりますので、それを570mほど上ると、「谷中墓地」の手前の信号の左側に中華料理「珎々亭」があります。そこを左折し、250mほど直進すると左手に「観音寺」の「山門」があります。
「観音寺」は、慶長年間(1596年-1615年)に神田北寺町に建立し、延宝8年(1680年)に神田から現在地に移転し、以来「谷中寺町」の一角を形成しています。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「観音寺」は、はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。「築地塀」のそばを通ると江戸時代の風景が見えてくるような気がしました。
「赤穂浪士供養塔」は、「本堂」に向かって右側にある「宝篋印塔」です。「赤穂浪士」討入りに名を連ねた「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」が「観音寺」の第6世「朝山大和尚」の兄弟であったことから、「赤穂浪士討入り」の会合にもよく使われ、討入り後には「赤穂浪士供養塔」が建立されました。
また、「観音寺」門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じる、いわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが、四季おりおりに杖をひいたと言われています。そして、「観音寺」は、「御府内八十八ヶ所霊場」42番札所、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」32番、御府内二十一ヶ所霊場3番札所となっています。
01_【一口メモ】
⑴ 所在地…〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目8-28 電話:03-3821-4053
⑵ 「観音寺」の概要 ①山号…蓮葉山 ②院号…妙智院 ③寺号…観音寺 ④宗派…新義真言宗
⑷ 国の登録有形文化財指定…築地塀
⑶ 観音寺所蔵の文化財…赤穂浪士供養塔
02_【アクセス】
⑴ 東京メトロ千代田線「千駄木駅」1番出口から徒歩11分850m
⑵ JR「日暮里駅」北改札口から徒歩5分400m
⑶ 東京メトロ千代田線「根津駅」1番出口から徒歩15分1100m
03_【「観音寺」の見どころ】
⑴ 「築地塀」とは
今まで知らなかったのですが、「観音寺」を訪れ初めて「築地塀」の正しい読み方を学習しました。正しくは、「築地塀」は、「つきじべい」いではなく「ついじべい」と発音するそうです。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。
⑵ 「赤穂浪士供養塔」
「赤穂浪士」の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られています。47士に名をつらねる「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」は、当時に「長福寺」と呼ばれていた後の「観音寺」で修行していた「文良」の兄と弟でした。「文良」とは、「長福寺」第6世となった「朝山大和尚」のことです。寺伝によれば、「文良」は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたそうです。明治末の「福本日南」の著作「元禄快挙録」には、「勘六」は死にのぞみ「今日の仕儀「勘六」喜んで身罷ったと、「長福寺」の「文良」へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されています。「観音寺」はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。 本堂に向かって右側にある「宝篋印塔」は「四十七士慰霊塔」として古くから霊を弔う人が訪れている。上部に「四方仏」を表す種字(梵字)、下部に「宝篋印陀羅尼経」、宝永4年(1707年)3月吉日、長福寺6世朝山の名が刻まれています。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ千代田線「千駄木駅」1番出口から徒歩11分850m
-
水稲荷神社には、赤穂義士の一人である堀部武庸加功遺跡碑があることでも有名です。
投稿日 2024年02月12日
総合評価:3.5
「水稲荷神社」へのアクセスは、都電荒川線「早稲田駅」の改札口を出て、右側にある横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し、180mほど道なりに進みます。最初の信号を渡り左折します。130mほど直進すると右手に、「水稲荷神社」へ通じる石段があります。
「水稲荷神社」は、新宿区西早稲田にある神社です。「水稲荷神社」の創建年代は不詳ですが、天慶4年(941年)に鎮守府将軍「俵藤太秀郷朝臣」が、現在の境内から南方およそ300mにあった旧社地の富塚の上に「稲荷大神」を勧請しました。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれていました。また、別の説として、文亀元年(1501年)に「上杉治部少輔朝良」が勧請したともいわれています。天文19年(1550年)には「牛込主繕正時国」が社殿を造営しました。そして、江戸中期には境内の大椋に霊水が湧き、「水稲荷神社」の霊水が眼病治癒に効果あり、また、火難除けにも効果があると信仰され、それ以来「水稲荷」と呼ばれるようになりました。
そして、「水稲荷神社」には、赤穂義士の一人である「堀部武庸加功遺跡碑」があることでも有名です。「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部武庸」(安兵衛)はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。まさに人生を大きく左右する分岐点であったことにはまちがいありません。
01_【「水稲荷神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒169-0051 東京都新宿区西早稲田3丁目5-43 電話:03-3200-4621
⑵ 「水稲荷神社」の概要
①社号…水稲荷神社 ②御祭神…倉稲魂大神 ③相殿…佐田彦大神・大宮姫大神
④境内社…北野神社、浅間神社、高木神社、三島神社、水神社
02_【「水稲荷神社」へのアクセス】
1 電車を利用して
⑴ 都電荒川線「面影橋駅」から徒歩7分450m
⑵ 都電荒川線「早稲田駅」から徒歩5分300m
⑶ 東京メトロ東西線「早稲田駅」3b出口から徒歩10分650m
2 バスを利用して
① [小滝橋車庫前] ⇒[上野公園]≪都営バス:上69≫
・バス乗り場:「小滝橋車庫前」(1番のりば)
・7停留所目(「高田馬場二丁目」の次の停留所) 所要時間約12分
・9時から17時の間に1時間平均3便~4便
・「西早稲田」下車で下車し「水稲荷神社」まで徒歩1分80m
★ JR山手線「高田馬場駅」から乗車可
② [上野公園] ⇒[小滝橋車庫前]≪都営バス:上69≫
・バス乗り場:「小滝橋車庫前」(13番のりば)
・14停留所目(「甘泉園公園前」の次の停留所) 所要時間約30分
・9時から17時の間に1時間平均3便~4便
・「西早稲田」下車で下車し「水稲荷神社」まで徒歩1分80m
★ JR山手線「上野駅」、東京メトロ丸の内線「本郷三丁目駅」、
東京メトロ丸の内線・都営大江戸線・三田線「春日駅」から乗車可
03_【「水稲荷神社」の見どころ】
⑴ 「堀部武庸加功遺跡碑」
「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。「堀部安兵衛」は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の「菅野六郎左衛門」の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒しました。この果し合いの場所は、現在の「西北診療所」のあたりといわれています。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部安兵衛武庸」はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。「堀部安兵衛」は、「浅野内匠頭」切腹後は、あだ討ちの推進派として活躍しました。「堀部武庸加功遺跡碑」は、明治43年(1910年)に「堀部安兵衛」の石碑が旧高田馬場に建立されました。現在の茶屋町通りの一隅です。その後、昭和46年に現在の「水稲荷神社」の現在の場所に移されました。ちなみに、題額は、明治の終わりから大正の初めにかけて、二度にわたって総理大臣を務めた「西園寺公望」だそうです。
⑵ 「水稲荷の御神木」
元禄15年(1702年)に、霊水が湧き出たとされるのは、「水稲荷」の御神木である大椋の根元です。その水で眼を洗ったところ、眼病がたちまち治ったとされ、江戸市中で大評判となりました。また、それが「水稲荷神社」の由来のひとつとなり、長い間、御神木として人々の信仰を集めたものです。昭和20年(1945年)5月に、戦災により「社殿」をはじめ神木の「椋」も焼失しましたが、「大椋」の根元だけは残りました。
⑶ 「冨塚古墳」
「冨塚古墳」は、「社殿」の裏手にあります。「藤原秀郷」が最初に「稲荷明神」を勧請したのもこの塚の上であり、「冨塚稲荷」と呼ばれていました。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って「戸塚」と呼ばれるようになりました。「冨塚古墳」と「冨塚稲荷」は、もともとは、早稲田大学9号館裏にありましたが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換にここに移されました。
⑷ 「高田富士塚」と「浅間神社」
「旧水稲荷神社」の境内である早稲田大学9号館のあたりには、「高田富士塚」と呼ばれる江戸の名所がありました。江戸時代中期以降、江戸では富士信仰がさかんとなり、各地で「富士塚」という模造富士がつくられました。そのなかでも「高田富士」は江戸で一番古く、安永8年(1779年)に、高田村の植木職である「高田藤四郎」が手がけました。「高田富士塚」は、早稲田大学が昭和38~39年に当時の「水稲荷神社」の社地を購入したため崩されて、区立甘泉公園のわきに移転しましたが、現在の「水稲荷神社」境内で復元されました。「高田富士塚」は、通常は登拝できないが、7月の海の日およびその前日に催される「高田富士祭」にて登拝が可能です。
「浅間神社」は、安永8年(1779年)に、高田村の植木職である「高田藤四郎」により築かれました。江戸市中で最大最古と言われた「高田富士塚」の麓に御鎮座しています。「浅間神社」の御祭神は「木花咲耶姫尊」と「石長姫尊」です。「高田富士塚」の一合目には「浅間神社里宮」の祠、五合目には「小御岳神社」の祠、頂上には「浅間神社奥宮」の祠があります。そして、御祭神には、「木花咲耶姫尊」、「石長姫尊」を祀っています。
⑸ 「耳欠け神狐」
「水稲荷神社」には「霊水」ともう一つ信仰を集めているとても有名な「耳欠け神狐」がいます。自分の身体で痛い所と同じ箇所を撫でさせてもらい、その撫でた手で自身の痛い箇所を摩ると痛みが消えるそうです。後ろ足を跳ね上げた「飛び狐」は、霊感が強い神様が多いそうです。「耳欠け神狐」が有名なので、スポーツ選手が大勢訪れているそうです。
⑹ 「三島神社」
「三島神社」は、甘泉園の旧所有者である清水家(清水徳川家)の守護神をお祀りしています。「三島神社」は、「源頼朝」が創建したといわれ、「徳川清水家」が当地に屋敷を構えて以降はその守護神となっていました。
⑺ 「大国社」
「大国社」は、鳥居をくぐった右手、手水舎の左手にあります。「社殿」に大黒天像を配し、御祭神に「大国主命」をお祀りし、元来、産業の神様ですが、転じて身体健全、金銀融通の神様です。
⑻ 「木神社」
「木神社」は、文亀年間(1501-04年)の創建で、「高木神」(高御産巣日神)を祀っています。そして、「高木神社」は、「水神社」と「事比羅神社」を合祀しています。「高木神社」は、元々、早稲田大学構内にあったものを移しました。そのためか近年特に早稲田大学入学御祈願の霊験が顕著と評判です。また、早稲田大学の創立者である「大隈重信」が日々信奉したと伝わる神社です。
⑼ 「北野神社」
「北野神社」は、天神様である「菅原道真」をお祀りしています。「大友義乗」(義延)が奉祀した大宰府の御分霊で、大友家が断絶後、牛込天神町から遷座してきました。学問上達・受験合格などに御利益があるとされています。「木神社」と同様に、早稲田大学の創立者である「大隈重信」が日々信奉したと伝わる神社です。
⑽ 「駒繋松」
「大国社」の左手には、「太田道灌駒繋松」があります。駒は馬のことなので、「太田道灌」の愛馬を繋ぎ留めた松です。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都電荒川線「面影橋駅」から徒歩7分450m
-
足軽の身分でただ一人討ち入りに参加した勇気ある人物です。決して逃げてなんかいません。
投稿日 2024年02月12日
総合評価:3.5
「曹渓寺」へのアクセスは、都営三田線「白金高輪駅」の3番出口を出て左方向に10mほど進むと「麻布通り」(都道415号線)になります。そこを左折し、「麻布通り」沿いに道なりに480mほど進みます。途中に「首都高速2号目黒線」の高架をくぐります。「みずほ銀行麻布支店」の手前の角を左折します。100mほど進むと「古川橋病院」があり、進行方向正面に細い路地がありますので、それを道なりに進むと「曹渓寺」の山門があります。
「曹渓寺」は、臨済宗妙心寺派の寺院です。「曹渓寺」は、酒井雅楽頭忠世の室で榊原式部少輔康政の息女「聖興寺殿梅月慈光大姉」が開基しました。そして、「勅諡圓覺大鑑禅師絶江和尚」が元和9年(1623)に麻布今井に開山し、承応2年(1653年)の現在の地へ移転しました。ちなみに、時代の背景として、江戸時代には、参勤交代の大名に江戸屋敷を与えるために移転させられた寺院が多かったそうです。また、赤穂義士の一人「寺坂吉右衛門信行」が寺男として「曹渓寺」で働いていました。そして、明治23年(1890年)には「麻布獣医学園麻布大学」の前身が当寺境内で設立されましたという由緒あるお寺です。
赤穂義士の「寺坂吉右衛門信行」は足軽頭の「吉田忠左衛門」の組下で、足軽ではただ一人の加盟者でした。討ち入りまでは「伴介」と変名し、「吉田忠左衛門」の下僕として働き、仇討ちの後、「大石内蔵助」の使者として浅野内匠頭夫人である「瑶泉院」に終始を報告し、更に大石夫人のいる但馬国豊岡へ向いました。その後、「吉田忠左衛門」の長女が嫁いでいる伊藤家に仕え、それから麻布「曹渓寺」の寺男となり、最後は或る人の紹介で旗本の山内家へ出仕し、83才で大往生したと伝えられています。曹渓寺の墓には「節岩了貞信士 寺坂信行 延亨四丁卯年十月六日卒」と刻まれています。延亨4年は西暦1747年で、「寺坂吉右衛門」は83才でした。隣には、寄り添うように「粛室知秋信女 寺坂信行妻 延亨二乙牛年九月十二日」と刻まれた妻の墓もありました。
また、「寺坂吉右衛門」の墓は46士とともに「泉岳寺」にもあります。刻まれている文字は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行 元禄十六年二月四日」となっています。「大石内蔵助」を始め四十六士の戒名には「刃」と「剱」の文字がありますが、「寺坂吉右衛門」にはそうした文字は刻まれていません。
01_【「寺坂吉右衛門信行の墓」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒106-0047 東京都港区南麻布2丁目9-22 電話:03-3441-8687
⑵ 「曹渓寺」の概要 ①山号…日東山 ②寺号…曹渓寺 ③宗派…臨済宗妙心寺派
⑶ 御本尊…釈迦牟尼仏
02_【「寺坂吉右衛門信行の墓」へのアクセス】
⑴ 東京メトロ南北線・都営大江戸線「麻布十番駅」5b出口から徒歩16分1200m
⑵ 東京メトロ南北線・都営三田線「白金高輪駅」3番出口から徒歩10分700m
03_【「麻布獣医学園麻布大学発祥の地」について】
「曹渓寺」の山門左手の塀の前に、黒い御影石でできた記念碑と説明板が設置されています。これが「麻布獣医学園麻布大学発祥の地」です。「麻布獣医学園」は, 明治23年(1890年)9月10日に「與倉東隆」がここに「東京獣医講習所」を 開設したのを始まりとしています。帝国大学農科大学助教授の「與倉東隆」は、曹溪寺境内にできた私立「慈育小学校」の一部を借りて校舎とし、全国から選抜推薦された獣医師に6か月間、解剖、生理、薬物、内科、外科、装蹄、病院実習、装蹄実習を教授しました。その後 「麻布獣医学校」、「麻布獣医畜産学校」名称を変更しました、そして、戦後 神奈川県相模原市に移転し、「麻布獣医科大学」となりました。さらに、昭和55年(1980年)に、「麻布大学」に名称を変更しました。現在は、獣医学部と環境保健学部の2つの学部があり, 他に付属動物病院、付属高校があります。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ南北線・都営三田線「白金高輪駅」3番出口から徒歩10分700m
-
吉良家は、清和天皇と源氏の流れを受け継ぐ名門ということを初めて知りました。
投稿日 2024年02月12日
総合評価:3.5
「萬昌院功運寺」に到着すると山門が閉まっていました。山門の前で途方に暮れていると、柵の向こう側に警備員がいて、どのような用件か訊かれました。「吉良上野介義央」の墓をお参りしたい旨を告げると、訪問者一覧のノートに月日、氏名、住所を記載するように言われました。そして、警備員から境内では写真撮影は一切禁止であると告げられました。せっかくここまで来て写真が撮れなかったのは残念でしたが、それはルールなので仕方がないと思い、「吉良上野介義央」の墓参りをしました。「萬昌院功運寺」へのアクセスは、都営大江戸線「東中野駅」A2出口を出て、右方向に進みます。30mほど進むと「エイブル」がありますので、手前の角を右折して「東中野銀座通り」に入ります。後は道なりに700mほど直進すると右手に「萬昌院功運寺」の山門があります。途中に「早稲田通り」があり、そこから300mほどの距離です。
「萬昌院功運寺」は、曹洞宗の寺院です。実は、昭和23年(1948年)に合併するまでは「久寶山萬昌院」と「竜谷功運寺」という別々のお寺でした。「久寶山萬昌院」は、戦国武将として有名な「今川義元」の子である「今川(一月)長得」(開祖)が天正2年(1574年)に「佛照圓鑑禅師」(開山)をまねいて半蔵門の近くに開きました。その後、いくどか移転し、大正3年(1914年)に、牛込より中野に移りましたが、3年後の大正6年(1574年)に本堂が焼失してしまいました。「竜谷山功運寺」は、慶長3年(1598年)に、「永井尚政」(開祖)が父「永井尚勝」・祖父「永井重元」のため、「黙室芳禅師」(開山)をまねいて桜田門外に開いたお寺です。「功運寺」がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922年)のことです。
「萬昌院功運寺」には、忠臣蔵で有名な「吉良上野介」、作家の「林芙美子」、戦国武将の「今川家」、浮世絵師の「歌川豊国」など有名人の墓が沢山あります。「吉良家」の墓所は、平成3年(1991年)に中野区登録文化財に指定されています。また、昭和55年(1980年)には、「吉良上野介」の墓の前には、「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
01_【「萬昌院功運寺」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒164-0002 東京都中野区上高田4丁目14-1 電話:03-3387-6321
⑵ 「萬昌院功運寺」の概要 ①山号…久宝山龍谷山 ②寺号…萬昌院功運寺 ③宗派…曹洞宗
⑶ 御本尊…釈迦如来坐像
⑷ 「吉良家」と「高家」について
「吉良家」は、「清和天皇」そして「源氏」の流れを受け継ぐ名門です。鎌倉時代には、足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した足利家支流で、「足利将軍家が途絶えた場合は吉良家から次の将軍を出す。」と言われた程の名門の家柄です。江戸時代には儀式や典礼を司る役職の「高家」の筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどっていました。高家職は、幕府側の朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、高い官位を授けられていました。吉良家の17代当主で赤穂義士に討たれた「吉良上野介義央」は、江戸幕府で儀典礼法を主導し、朝廷外交の中心的役割を担っていました。
⑷ 意外や意外!別の側面の「吉良上野介」
忠臣蔵では「浅野内匠頭長矩」に理不尽な仕打ちをした人物とされていますが、実際は善政をおこなって人びとから慕われた名君だったそうです。また、「吉良上野介」は、茶道「吉良流」(朴一流)の家元です。「忠臣蔵」では、上野介のいじめに耐えかねた浅野内匠頭が斬りかかったことをきっかけとして刃傷事件に発展しましたが、しかし実際には斬りかかった理由は未だ不明だそうです。赤穂義士の討ち入りの詳細も、当時の奉行所が作成した赤穂浪士たちの取り調べ記録と大分異なるそうです。ネットで調べた時に投稿された中に、萬昌院功運寺の住職のこんな談話も見つけました。「吉良さんの実像は教養も高いし茶人としても一流で、悪者の代表にされた吉良さんは気の毒というほかありません。先代や先々代の頃には、上野介の墓が倒され、唾をかけられる。」といったことも度々あったそうです。私も調べるうちにどれが本当の歴史的事実か分からなくなりました。それぞれの立場により思いは違うものですね。
02_【「萬昌院功運寺」へのアクセス】
⑴ JR「東中野駅」西口から徒歩13分900m
⑵ 東京メトロ東西線「落合駅」1番出口から徒歩8分550m
⑶ 西武新宿線「新井薬師駅」南口から徒歩12分900m
⑷ 都営大江戸線「東中野駅」A2出口から徒歩11分750m
03_【「萬昌院功運寺」の見どころ】
⑴ 「吉良上野介義央」の墓
「仮名手本忠臣蔵」では有名な、「吉良上野介」の墓所です。吉良家は高家で、「吉良上野介」は、茶道の「吉良流」(朴一流)の家元です。吉良家は、この寺を菩提寺としていました。「吉良義定」、「吉良義弥」、「吉良義冬」、「吉良義央」の4代にわたってその墓石と供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも「宝篋印塔」です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。墓域に向かって一番右が「吉良上野介」の墓です。
⑵ 「今川家」の墓
萬昌院の開基である「今川長得」(一月長得)は、駿河の大名今川義元の息子です。「今川義元」の後を嗣いだ「今川氏真」から「萬昌院」が菩提樹となりました。
⑶ 「林芙美子」の墓
「林芙美子」は作家で、落合三輪に在住し、「放浪記」、「浮雲」などの名作を残しました。「林芙美子」は、明治36年(1903年)の福岡県門司区生れました。大正7年(1918年)に尾道高女に入学し、大正11年(1922年)に卒業すると愛人を追って上京しました。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めました。これが後の「放浪記」の原形となりました。「手塚緑敏」という画学生と結ばれてから生活が安定し、昭和3年(1928年)に「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始しました。昭和5年(1930年)に「放浪記」が出版されベストセラーとなりました。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけました。
⑷ 「栗崎道有」の墓
「栗崎道有」は、江戸中期の南蛮流の外科医です。祖父の「栗崎道喜」から続く南蛮流の外科医術を取得し、その後オランダ流の外科を習得しました。「栗崎道有」は、元禄4年(1691年)に、江戸へ出て江戸幕府の官医となりました。元禄14年(1701年)に「吉良上野介」が「浅野長矩」によって傷を負わされたとき、「栗崎道有」が手厚く治療しました。また元禄15年(1702年)の赤穂義士の討ち入り後には、「吉良上野介」の首と胴体を縫い合わせたのも「栗崎道有」です。
⑸ 「糟屋武則」の墓
「糟屋武則」は、安土桃山時代から江戸時代にかけての戦国武将で、「賎ヶ岳七本槍」の一人として有名です。ちなみに、「賤ヶ岳の七本槍」とは、「賤ヶ岳の戦い」で活躍した「加藤清正」、「福島正則」、「加藤嘉明」、「平野長泰」、「脇坂安治」、「糟屋武則」、「片桐且元」の七人の武将のことです。
⑹ 「水野重郎左衛門」の墓
「水野重郎左衛門」は江戸初期の旗本です。旗本奴の首領として、旗本奴組織の1つ「大小神祇組」をまとめていました。市中を横行無瀬の生活を送っていましたが、明暦3年(1657年)に町奴の大物である「幡随院長兵衛」と争ってこれを殺しました。意外なことに、この件で「水野重郎左衛門」は咎がありませんでしたが、幕府は素行不良の罪で「水野重郎左衛門」に切腹を命じました。「水野重郎左衛門」の墓の墓所は、平成6年(1994年)7月に中野区登録文化財に指定されています。
⑺ 「長沼国郷」の墓
長沼家は剣術真影流の家で「長沼国郷」は最も有名です。今日の剣道で使用の面・篭手などの防具を完成させました。
⑻ 「長沼活然斎(綱郷)」の墓
「長沼国郷」以後、長沼半の剣術師範を勤めました。
⑼ 「永井家の墓」
「功運寺」の開基である「永井尚政」より永井家の菩提樹となりました。永井家の墓域には、将軍家綱の法要という大切な儀式の最中に「浅野長矩」の叔父「内藤忠勝」に殺された「永井尚長」の墓もあります。
⑽ 「歌川豊国」(初代~三代)の墓
「歌川豊国」は江戸後期の浮世絵師です。初代は「歌川春英」に学び、特に、美人風俗画に秀でていました。また、役者絵でも数多くの作品があります。「歌川豊国」(初代~三代)の墓は、平成6年(1994年)7月に中野区登録文化財に指定されています。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営大江戸線「東中野駅」A2出口から徒歩11分750m
- 見ごたえ:
- 3.5
- 有名人のお墓が沢山あり、見ごたえがあります。
-
「港七福神めぐり」の一つで、「布袋尊」や「粟田口久国」作の名刀があります。
投稿日 2024年02月10日
総合評価:3.0
「久国神社」は、東京都港区六本木にある神社で、残念ながら創建年代は不詳です。「久国神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「久国神社」は古くより千代田村紅葉(現在の皇居内)に鎮座していたといわれています。「久国神社」は、江戸城が築城する以前より鎮座していました。そして、長禄元年(1457年)に「太田道灌」が江戸城を築城後の寛正6年(1465年)に、「城隍の鎮守」として現在より東側にある溜池に遷座しました。ちなみに、「城隍神」とは、主に中国の民間信仰で伝わる神で、土地の守護神のことだそうです。そして、「久国神社」は、寛保元年(1741年)、現在の地に遷座しました。谷町(麻布谷町)と箪笥町(麻布箪笥町)の鎮守として崇敬を集めていたそうです。そして、昭和2年(1927年)に、社号を「稲荷神社」から「久国神社」へと改称しました。昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿を焼失し、昭和28年(1953年)に、現在の社殿が再建されました。「久国神社」は、稲荷信仰の神社で、かつては「久国稲荷神社」と呼ばれていました。「久国神社」の名前の由来は、鎌倉時代の刀工「粟田口久国」作の刀が「太田道灌」によって奉納されていることに由来します。「久国神社」は、明治7年(1874年)の火災、昭和20年(1945年)の空襲により被災していますが、久国の名刀は非公開ですが現存するそうです。現在は、「港七福神めぐり」の一つで、「布袋尊」があります。また、境内社の「猿田彦神社」もあります。
さて、「久国神社」を参拝したいと思います。「久国神社」の入口は、六本木通りを1本裏路地に入った場所にあります。まず、「久国神社」の入口付近には、社号碑と港区観光協会が設置した港区七福神「布袋」の案内板があります。参道の石畳を進むと、奉納された二基の石燈籠がでんと構えています。その先に石段がありそれを上ると、昭和15年(1940年)に奉納された「石鳥居」があります。「石鳥居」の手前には、昭和18年(1943年)に奉納された「狛犬」が、邪気を追い払うように凛とした格好で構えています。石鳥居をくぐると左手にあるのは、「久国神社境内遊び場」があります。昔ながらの遊具と藤棚の休息スペースとベンチもあります。これらは、地域の方や会社員の休憩所として利用されることが多いそうです。「石鳥居」の正面には、大正10年(1921年)に建立された「神輿奉納記念碑」があり、右隣りには「手水舎」があります。「手水舎」の水盤は、明治25年(1892年)に奉納されたものだそうです。「社殿」前の右手には、かわいらしい「布袋尊」のお賽銭箱がありました。そして、「布袋尊」のお賽銭箱の後ろ側には、お御籤の自動販売機があります。なんと10円で運を占ってもらえるリーズナブルな自販機です。「社殿」の右手には授与所・社務所があります。いよいよ「社殿」へ進みます。「社殿」の「扁額」は「勝海舟」の筆によるものだそうです。「社殿」の左手には、境内社の「猿田彦神社」があります。「猿田彦神社」の御祭神は、「猿田彦大神」で、「古事記」と「日本書紀」の天孫降臨の際に登場する神です。「猿田彦大神」は、天孫降臨の際に、「天照大神」に遣わされた「瓊瓊杵尊」を道案内した神であるため、「導きの神」といわれています。「猿田彦大神」は、国土の神、道案内の守神であり、中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、民間信仰としても広く信仰を集めていたそうです。そして帰り際に昔懐かしい手押しポンプの井戸が手水舎の近くにありました。ただし、終焉でボーリング工事が始まってから、その影響からか水が出なくなってしまったそうです。「久国神社」もさることながら、昔懐かしい遊具のある公園や時代物の手押しポンプの井戸があるなど、大都会にいながら、レトロな気分に浸れる神社でした。
それと余談になりますが、「港区七福神」は、港区にある8ヶ寺社から構成される「七福神めぐり」です。通常の「七福神」に「宝船」(十番稲荷神社)を加えた8寺社を参詣、徒歩3〜4時間で参詣できます。「港区七福神」は、次の①宝珠院(弁財天)、②熊野神社(恵比寿)、③十番稲荷神社(宝船)、④大法寺(大黒天)、⑤麻布氷川神社(毘沙門天)、⑥櫻田神社(壽老神)、⑦天祖神社(福禄寿)、⑧久國神社(布袋尊)の8寺社です。ちなみに、「布袋尊」は七福神の中で唯一実在した人物でお坊さんです。小柄で太鼓腹、破れた衣を着て、いつも大きな袋を持っていました。袋の中には日常生活に必要なものがすべて入っていたそうです。占いや天候を予知することが上手で、雪の中に寝ても身体が濡れなかったと言う話が伝えられています。また、「弥勒菩薩」の化身と言われ、現在でも中国では布袋さまを弥勒さんと呼んでいます。
01_【「久国神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒106-0032 東京都港区六本木2丁目1-16
⑵ 御祭神…倉稲魂命(宇迦之御魂命)
⑶ 御神徳…商売繁盛、五穀豊穣、開運招福
02_【「久国神社」へのアクセス】
①東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」3番出口より徒歩5分300m
②東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口より徒歩9分550m
③東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口より徒歩11分750m
④東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」6番出口より徒歩9分700m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」3番出口より徒歩5分300m
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- ほとんど人がいず、ゆっくり見れます。
-
南部坂を下りていると、降りしきる雪の中の大石内蔵助の後姿を思い浮かべることができました。
投稿日 2024年02月10日
総合評価:3.0
「南部坂」の名前の由来は、江戸時代前期に「盛岡藩南部家」の中屋敷があったためといわれています。そして、芝居の「忠臣蔵」では、浅野内匠頭長矩の正室「阿久里」と「大石内蔵助」の「雪の南部坂」として、欠かせない名場面で有名でもあります。「南部坂」は、のち険しいため「難歩坂」とも言われました。私も当日下から「南部坂」を上りましたが、長い坂ではありませんが、それ故急勾配で、結構息が切れました。
南部家と浅野赤穂家の間で相対替えされ、「盛岡藩南部家中屋敷」から「赤穂浅野家下屋敷」となりました。そして、「浅野内匠頭長矩」の正室「阿久里」が、元禄14年(1701年)3月14日に、夫の「浅野内匠頭長矩」が江戸城本丸にある松の廊下で「吉良上野介」に刃傷に及んだ時まで「阿久里」が暮らしていたのが、「南部坂」の「赤穂浅野家下屋敷」でした。「浅野内匠頭長矩」は即日切腹になり、赤穂浅野家は領地没収となりました。「阿久里」は元禄14年(1701年)3月16日には赤坂今井町にある実家の三次浅野家に引き取られ、落飾して「瑤泉院」と称しました。ちなみに、落飾とは、身分の高い人が髪を剃りおとして仏門にはいることです。
それでは、「雪の南部坂」について、興味があったので、ネット等で色々調べてみました。その大筋については次の通りです。「大石内蔵助」は討入りの前日である元禄15年(1702年)12月13日に、「南部坂」の屋敷に暮らす「瑤泉院」に会いに行きます。明日未明の討入り決行を伝え、同士の連判状を渡すとともに、「内匠頭」の霊前に報告をしたいところですが、屋敷内に吉良方の間者が潜入している可能性があり、それもできませんでした。そこで「大石内蔵助」は、「さる西国の大名に召抱えられることになりました。再びお目にかかることもないかと存じます。本日ここに東下りの旅日記を持参いたしました。」と断腸の思いで偽りを伝えます。その言葉を聞いた「瑤泉院」は、「忠義の心も忘れたか。」と怒り、席を立ってしまいました。そして、「大石内蔵助」は、降りしきる雪の中、今生の別れを背中で伝えて坂道をゆきます。しばらくの後、「瑤泉院」は、「大石内蔵助」が置いていった旅日記が、実は連判状であったことに気づきました。そして、「瑤泉院」のもとに、討ち入りの知らせが届きます。「大石内蔵助」の別れの意味を初めて悟った「瑤泉院」は、考えがあさはかなことを悔い、亡き夫の霊前に合掌するのでした。
【一口メモ】
所在地…〒106-0032 東京都港区赤坂2丁目22-1
02_【「南部坂」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して「南部坂」へ
①東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口から徒歩8分500m
②東京メトロ日比谷線「六本木駅」7番出口から徒歩13分950m
③ 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩13分950m
④ 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩7分400m
⑤ 東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口から徒歩11分750m
⑵ バスを利用して「南部坂」へ
⑥ 都バス 六本木四丁目
① [渋谷駅前] ⇒[新橋駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅前」(1番のりば)
・7停留所目(「六本木四丁目」の次の停留所) 所要時間約19分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木一丁目」停留所で下車し「南部坂」まで徒歩5分300m
② [新橋駅前] ⇒[渋谷駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅駅前(東口)」(4番のりば)
・7停留所目(「赤坂アークヒルズ」の次の停留所) 所要時間約16分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木一丁目」停留所で下車し「南部坂」まで徒歩6分350m- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩7分400m
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 通行人以外は誰もいませんでした。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 坂の急勾配は必見です。
-
社殿は第8代将軍「徳川吉宗」の命により建立され、随所に江戸の雰囲気が感じられる神社です。
投稿日 2024年02月10日
総合評価:4.0
「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。
「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。
《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》
①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒
⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒
⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」
それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。
《「力石」》
「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
《「大銀杏」と「包丁塚」》
「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。
「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。
《「九神社」》
「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》
「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。
「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
《4基の「石灯籠」》
「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。
《社殿》
「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
《縁結ひ》
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
《山車展示場》
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
《「四合稲荷」》
次は、「四合稲荷」です。「二の鳥居」をくぐり石段を降りると左手に「四合稲荷」と「西行稲荷」が並ぶようにして建っています。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
《西行稲荷》
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
《太鼓橋》
一の鳥居の参道をはさんで「四合稲荷」の反対側に「太鼓橋」があります。高い木々に囲まれ、なかなか風情のある場所で、心を休めることができました。「太鼓橋」の奥には、「苗村翁頌徳碑」もありました。
《一の鳥居(東側)》
最後が「一の鳥居」(東側)です。江戸時代はこちらが正式な入口でした。「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
そして、最後は東側の「一の鳥居」をくぐると「氷川神社」から命名した「氷川坂」に出ます。
01_【「赤坂氷川神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目10-12 電話 03-3583-1935
⑵ 開門時間…6:00 社務所受付…9:00~17:00 閉門時間…17:30
⑶ 「赤坂氷川神社」の概要
①社号…赤坂氷川神社 ②御祭神…素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命
③境内社…四合稲荷神社、九殿社、稲荷神社三社
⑷ 御神徳…厄除 縁結び 家内安全 商売繁昌
⑸ 「赤坂氷川神社」の文化財等
①氷川神社社殿…東京都指定文化財、昭和51年(1976年)7月1日
②奉納絵馬7点…東京都港区指定文化財、平成16年(2004年)10月26碑
③氷川神社の石燈籠四基…東京都港区指定文化財、平成7年(1995年)3月27日
④氷川神社のイチョウ…東京都港区指定文化財、平成6年(1994年)9月27日
⑤祭礼山車行列額絵…東京都港区指定有形文化財、平成11年(1999年)10月12日
⑥旧紀州家 櫓太鼓…東京都港区指定有形文化財歴史資料、平成10年(1998年)4月9日
⑦御祭礼番附留…東京都港区指定有形文化財古記録、平成3年(1991年)10月9日
⑧徳川将軍家朱印状 付目録・条目・写し(7通)…港区指定有形文化財古記録、昭和62年(1987年)10月28日
⑨月岡芳年筆「ま」組火消し絵馬…東京都港区指定有形文化財絵画、平成5年(1993年)9月28日
⑩力石…東京都港区指定有形文化財、平成7年(1995年)3月27日
02_【「赤坂氷川神社」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して「赤坂氷川神社」へ
①東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口から徒歩8分550m
②東京メトロ日比谷線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
③ 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
④ 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩10分650m
⑤ 東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口から徒歩10分650m
⑵ バスを利用して「赤坂氷川神社」へ
⑥ 都バス 六本木四丁目
① [渋谷駅前] ⇒[新橋駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅前」(1番のりば)
・7停留所目(「六本木駅前」の次の停留所) 所要時間約18分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m
② [新橋駅前] ⇒[渋谷駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅駅前(東口)」(4番のりば)
・9停留所目(「本木一丁目駅前」の次の停留所) 所要時間約20分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m
03_【「赤坂氷川神社」の見どころ】
⑴ 「社殿」
享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
⑵ 「四合稲荷」
「四合稲荷」は、東側にある「一の鳥居」をくぐるとすぐ右手にあります。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
⑶ 「西行稲荷」
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
⑷ 「九神社」
「九神社」は、正面参道の途中の左手にあります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
⑸ 「桶新稲荷」
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
⑹ 「山口稲荷」
「山口稲荷」は、「社殿」の左手にあります。「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。これらが奉納された経緯は今となってはわかりませんが、江戸時代を通じて篤い信仰を集めていたことがわかります。
⑺ 「鳥居」
「赤坂氷川神社」の境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ2基ずつ鳥居があります。「一の鳥居」(南側)には「大正十一壬戌年九月」「麻布 芝 氏子中」と記されており、麻布・芝周辺まで信仰が及んでいたことを知ることができます。また、「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
⑻ 「狛犬」
境内には7対もの「狛犬」があり、「赤坂氷川神社」はまさに狛犬の宝庫と呼ぶことができます。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、「赤坂氷川神社」が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。特に、注目すべき「狛犬」は、楼門両脇の「狛犬」です。現在地に「社殿」が建立されるより前の延宝3年(1675年)6月建立の銘があり、都内神社に現存する石造狛犬の中では最も古いものとされます。ちなみに、都内最古の「狛犬は」は、「目黒不動尊」と呼ばれている「瀧泉寺」の承応3年(1654年)の狛犬とされています。そして、「楼門」手前の手水舎付近にある「狛犬」も年代の古いもので、弘化三年(1846)に奉納された狛犬です。次に、東参道に目をやってみると、東側の「一の鳥居」の参道には、昭和初期、大正、明治と時代を遡るように狛犬が配置されていまます。まず、東側の「一の鳥居」前にある「狛犬」は、昭和12年(1937年)に奉納されたものです。太平洋戦争前の建立された狛犬で、数多くある狛犬の中で一番新しいものです。そして、石段の手前にある「狛犬」は、大正4年(1915年)に奉納されたものです。石段を上がると一対の「獅子山」が見えてきます。この立派な「獅子山」は明治15年(1882年)に奉納されたものです。
⑼ 「石灯籠」
「赤坂氷川神社」の境内には、石製の「台灯籠」が合わせて7対奉納されています。ちなみに、「灯籠」とは文字のとおり灯の籠であり、明かりを灯すことで邪気を祓い、神様のご加護を願うためのものです。置いて用いる「台灯籠」と、吊るして用いる「釣灯籠」に大別されます。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。ここにある4基の石灯籠は、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定されています。
⑽ 「大銀杏」
「大銀杏」は、南側にある「一の鳥居」をくぐると右手にある緑地のそびえ立っています。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。東京大空襲で幹の大部分を焼損することになりましたが、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、見るものに生命力の強さと神秘さを感じさせます。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。ちなみに、「銀杏」は、生きた化石とも言われ、雌雄異株です。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は雄株です。港区内に現存する「銀杏」では最大である善福寺「逆さ銀杏(国指定天然記念物)」に次ぐ大きさです。
⑾ 「包丁塚」
「包丁塚」は、「大銀杏」のある緑地の左手にあります。「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念の碑」も建てられています。なお、「包丁塚」の文字は衆議院議員を務めた田中栄一の書を用いています。 現在、毎年10月上旬の土曜日に包丁塚祭が行われています。
⑿ 「天水桶」
「天水桶」とは、防火用に雨水をためておく大きな桶のことをいいます。「赤坂氷川神社」には「中門」前と「四合稲荷」前の2対が奉納されています。「中門」前の「天水桶」は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師「太田六右衛門(釜六)」が鋳造したものです。戦時中の金属供出を逃れ、都内に現存する「釜六」作品の1つとして大変貴重なものだそうです。
⒀ 「力石」
「力石」は、南側の「一の鳥居」をくぐると左手にあります。この「力石」は、「赤坂氷川神社」境内の土の中から発見されたものです。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれています。港区内にある「力石」は、全部で14点になりますが、「力石」のほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れていることが興味深い点です。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
⒁ 「山車展示場」
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。山車はかつて「江戸の祭の華」といわれ、江戸から東京の著名な神社の多くの祭礼に曳き出されました。時代とともにその姿を消してゆくことになりましたが、この地域には奇跡的に山車の一部と、山車人形9体が遺されていたそうです。また、江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
⒂ 「縁結ひ」
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。私も勉強不足で知らなかったのですが、日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。- 旅行時期
- 2024年01月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m














































































































































































