たびたびさんのクチコミ全37,090件
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.5
安土駅前レンタサイクルたかしまは、安土駅の北側すぐ。レンタサイクルのお店は二軒あるのですが、こちらは休みの日でしたが、自分で勝手に乗って、お金も払っておいてくださいというシステムだったので利用しました。安土はレンタサイクルじゃないと基本回れませんからね。柔軟な対応で助かりました。
- 旅行時期
- 2024年04月
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 乗り場へのアクセス:
- 3.5
- 車窓:
- 3.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.5
城なび館は、安土城への上り口のすぐ手前にあるガイダンス施設。ちょっとしたショップと安土城の案内所で、奥の展示室は有料です。安土城の正面から本丸にほとんど一直線で登っていく石段。本当にそんな作りだったのか尋ねたら、そうだったかもしれないしそうでないかもしれないみたいな説明。信長が常識を次々と撃ち破っていったというのはその通りですから、この石段もそれを考えれば真実の一部は語っていると理解したいと思います。
- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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近江風土記の丘と隣りあわせというか一体になっているような感じ
投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:4.0
観音寺城跡は、標高432mの観音山の頂上付近。桑實寺経由で登りましたが、1時間くらいは十分かかったように思います。石垣跡がまあまあ残っているくらいで、そこからだと眺めとかは望めません。ここでスカッとする気分を味わえるという城跡ではないですね。その後、観音正寺の方に移動すると視界が開けました。
ちなみに、観音寺跡は、近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城。ただ、近江守護というのがややこしい。つまり、近江源氏佐々木氏の宗家は六角氏であり、近江守護は六角氏だったのですが、佐々木信綱(六角氏)の四男、氏信を祖とする京極氏が台頭。応仁の乱において、京極氏11代、京極持清は東軍に付き、西軍に付いた六角氏12代、六角高頼の観音寺城を落とし、近江守護に任じられました。ただ、六角氏は滅びたわけではなく、一族は南近江を支配。北近江の京極氏と南近江の六角氏の構図は続きます。その後、京極氏は内紛もあり、浅井氏の台頭を許すことになるし、六角氏15代、六角義賢は三好長慶や浅井長政との抗争で弱体化したところに信長の上洛軍を前に逃亡。名家、六角氏はあっけなく歴史の舞台から姿を消しました。
観音寺城跡は、六角氏のことを思うととても感慨深い場所だと思います。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:4.0
桑實寺は、観音寺城跡に登るのにここを経由するのが一番いいとの情報で向かいました。ふもとの集落から寺に向かっては、長い石段が続いていて、確かにそれなりの覚悟がいるのですが、結局、その石段を上ることが観音寺城跡への近道になるというのはその通りだと思います。なお、この寺の境内に入るところで拝観料を取られますが、この石段を管理してもらっていることを考えれば当然なのかなとも思います。
ところで、創建は白鳳6年(677年)。天智天皇の勅願寺として、藤原鎌足の長男、定恵和尚が開山とか。現在の本堂は南北朝の頃のもの。住職が内部も見せてくれましたが、間口7間、奥行き8間の入母屋つくり檜皮葺の建物は、折り上げと二重の小組格天井。外観から見る堂々とした構えだけでなく、最上級の格式も備えた意匠があってとても驚きました。
安土の街にあって、その歴史は安土城や観音寺城の歴史なんか目ではない。始まりは天武天皇に建立が許可された三井寺のもうひとつ前の時代ですからね。また、六角氏が観音寺城を居城としていた時代ですが、天文元年(1532年)、室町幕府12代将軍足利義晴がここに仮の幕府を設置したということですが、その頃でも寺には相応の位置づけがあったのでしょう。いずれにしても、いろんな要素があって生き延びてきた寺なんだと思います。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2024年11月20日
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.5
上善寺は、貞観5年(863年)、円仁により創建された天台宗の道場。文明年間(1469-1487年)の後柏原天皇の行幸、越前松平家の菩提所となったり。広い境内に立派な伽藍があって、今でもなかなかのお寺ですね。
また、門前に石柱もありますが、幕末の禁門の変で亡くなった入江九一らの長州人首塚もあるようです。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.0
生谷家住宅は、西陣の一画。この建物は明治期、明治10年くらいのものですが、室町時代の御家人だったという生谷家ですが、以降も青物屋を営んだり、乾物屋を営んだりして、当地にあったという旧家です。
街路に東面する2階建町家は外観を確認するだけですが、たまに公開をすることもあるようです。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.0
善行院は、日蓮宗の大本山、妙顕寺塔頭の一つ。洛陽十二支妙見の子を祀り、西陣の妙見宮と呼ばれているようです。都会的な建物のお寺なので、あまり風情は感じませんが、境内の枝垂れ桜がちょうど見ごろ。これにはちょっと清々しい気分になりました。
- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:4.0
雲林院は、大徳寺の塔頭ですが、かつては源氏物語や伊勢物語にも登場する天台宗の大寺院であり、淳和天皇の離宮・紫野院の流れをくむ平安時代の史跡でもあります。
つまり、紫野院は淳和天皇の皇子、常康親王に譲られたのですが、869年(貞観11年)親王が亡くなると僧正遍昭に託され、ここを官寺、雲林院とされたのですね。
また、紫式部の紫は紫野の紫とも。源氏物語第10帖の賢木では、光源氏が雲林院に参籠し、天台六十巻を読みすすめるという下りがあるようです。
門前の駒札には西行の詠んだ歌も記されていて、
これやきく 雲の林の 寺ならん 花を尋ねる こころやすめん
境内には小さなお堂が建つだけですが、歴史はいろいろと多いお寺です。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.0
大光院は、大徳寺の塔頭。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の実弟、秀長の菩提を弔うために継嗣、秀保が創建。大光院の名前は秀長の戒名から来ています。
秀保が早世したため、その家臣であった藤堂高虎が慶長4年(1599年)に大徳寺の塔頭として移転。その後も藤堂家の援助を受けたということです。
ただ、現在は大光院という名前もどこにも出ていないし、存在は忘れられたような感じ。寂しげなことになっています。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2024年11月20日
総合評価:3.0
玉林院は、大徳寺の塔頭。門前に客殿・南明庵が重要文化財という駒札が立っています。
慶長8年(1603年)、医学者の曲直瀬正琳が創建。片桐且元らが再興という歴史も。
ちなみに、南明庵は、寛保2年(1742年)、大坂の豪商・鴻池了瑛が、先祖とされる山中鹿之助の位牌堂として建立したもの。ただ、通常は非公開です。- 旅行時期
- 2024年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0