横浜臨海公園さんへのコメント一覧(28ページ)全1,510件
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興味深い内容です
横浜臨海公園さん おはようございます。
東泉家と国鉄との争いは成田空港抗争を彷彿させますね。
住民の意思を無視して高圧的に出た国のやり方に対して態度を硬化させたのは当然の成り行きです。しかも官尊民卑の時代ではましてやと思われます。
時間と精力を費やしての労作、一見敬遠しがちな文字の羅列、しかし、その中身は面白くて読者を惹きつけます。ただその長さは最後まで読破するにはつらいものがあります。不肖pedaruの提案ですが、この探訪記を何編かに分けてアップされたら更なる読者を倍増させること疑いなしかと思われます。
pedaru拝復
pederuさま、おはようございます。
拙稿への投票と掲示板へのコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
東北本線の歴史は、特に、秋葉原-白河間が面白く、然し、資料が現地に集中しており、針生隧道設置問題では、該隧道設置問題や、東泉家との抗争騒動に発展する一件など、日本国有鉄道100年史にすら掲載されていない史実が散りばめられております。
pederuさま、ご提案を賜りまして有難うございます。
実は、東海道本線編をも含め、何年先になるか判りかねますが、現在、全線完工時に出版の話を、出版社数社から打診を頂いております。
本当は矢板-黒磯間の写真も200枚以上合ったものを限定した様な状態です。
此れ以上の分散は困難と思いますので、悪しからず御了解頂ければ幸甚でございます。
横浜臨海公園2016年10月10日10時40分 返信する -
おはようございます
凄い勢いでアップされていますね〜
追いつけません・・・
何時も思うのですが国鉄・JRは戦前から戦後
国鉄時代の工作物を取り込みながらの最新デザインの
工作物がまざっていますが、
JRの工作物は住宅で言えば新築ではなく
古い工作物も残しているので、
リフィームになるのでしょうか?
ゆえに届出が必要でも難しい構造計算などは不要なのかも
しれませんね〜
必ずレンガや石造りのものが残っており
その面を除くと最新のデザインや設備に改善されているのが
わかります。
最期に東京にお邪魔してから30年近い年月が過ぎ去っています。
行って見たいと思いながら費用を考えると韓国へ行くほうが
安いので見送ってしまいます。
のんき茂野
拝復
のんき茂野さま、こんにちは。
拙稿への投票、及び、掲示板へコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
東京-上野間は、竣工し20数年を経て解体改築する箇所等々も存在し、大正期の原形を残す箇所も少なくなりました。
兎に角、当時の鉄道省が編纂した資料と睨めっこしながらの旅行記作成でしたが、原型を残していない所も少なくなく、苦労させられました。
また、鍛冶町架道橋の至近弾破裂痕跡など、地元東京都千代田区教育委員会ですら知らない史実でした。
それにしても、フォートラベルがヴァージョンアップをしたらしく、文章の一部が文字バケしてしまい、困惑させられております。
横浜臨海公園2016年10月09日14時56分 返信する -
丹那トンネル旅行記正に正に深く読ませる旅行記
こんにちは。
丹那トンネル旅行記
興味深く拝見致しました。
中でも、当時の鉄道工業会社に勤務していた
飯田清太氏と門屋盛一氏を代表として、
17名が奇跡的に救助され、大々的に当時の新聞にも
掲載されたようですね。
門屋盛一氏については、彼自身件の事故について、
下記のような手記があるようです。
以下、門屋自身の「生き埋め日記」からの抜粋。
「助かった原因:33名が遭難し,16名は崩落事故の真下にあって圧死したが,そこより奥の先進導坑で働いていた17名は閉じ込められて,7日後の4月8日の午後11時に救助された.その当時は単線型のトンネル以外の経験がなく,延長約8kmの大隧道で,しかも箱根火山地帯の難しい地質の中を掘削して行くというので当時の鉄道省としても最も精鋭の技術陣を配した.しかし,私は19才の時から2年半程長崎沖の三菱の端島炭坑,崎戸炭坑等で働いていたので,炭坑の坑内設備(坑内の電燈,動力線,下水,電話も装備済)が非常によかったことを知っていた.当初の丹那トンネル工事では,まだカンテラをつけて坑内に入り電燈の設備がなく,1.6km程先の導坑には電話もなく,一寸の連絡でも徒歩で奥から出なければならず,従来の工法を一歩も出ていなかった.
下水の事を,飯田清太さんと私,門屋盛一が必死になって頼んだ.その結果,事故の起る数日前,確か2寸厚みの板で深さ1尺,幅2尺の下水が出来ていた.そのお陰で我々が溺死を免れたのです.当時毎秒1.5立方尺(=42 ?/sec)位の水が出ていたので,我々は三昼夜位でガスで窒息するか,あるいは溺死していた筈であった.我々の願いを,幸いにも竹股技師が聴き入れ,いいと思うことを直ぐやってくれたので助かった訳である.たまたま4月1日は朔日で公休日のため,導坑と山の悪いところでコンクリート工を進め,他は全部休んでいた.従事員が余計入っていなかったのは不幸中の幸いであった」.
この崩落事故時、門屋は、大きな借財を抱えており、遺書を残しているようです。
この遺書は当時の新聞に取り上げられ、彼を有名にするようで、
後年彼は、別府星野組の代取となりましたね。
横浜臨海公園さんのような、
旅行記、正に正に深く読ませる旅行記で、
目が洗われるようです。
わき拝復
わきさま、はじめまして。
拙稿への投票、及び、掲示板への寄稿、そして、フォローを賜りまして深謝しております。
旅行記の作成は自己満足の表現ですが、それにしても、小生が旅行記を作成するの当たり、資料精査を反復させる内で、鉄道に関する発表物が相当数のイイ加減さには、驚きと嘆きさとを痛感させられております。
丹那隧道に関する公開された物には、本当に現地に行って資料なり現地精査を行ったのかと、疑いを抱かせる内容物も少なくありませんでした。
小生、旅行記の発表には慎重を期しておりまして、それ故に、投稿数も少なく時間を要しておりますが、何卒、ご理解を頂ければ幸甚でございます。
今後とも何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園2016年10月09日14時40分 返信する -
いつもありがとうございます
横浜臨海公園さん 私のカナダの旅を見ていただきありがとうございます。50年来 行きたいと思っていたプリンスエドワード島に行けてうれしかったです。赤毛のアンを読みながら思い描いていたと同じ風景が広がり、その中に自分がいることが不思議でした。本の世界をそのまま残しているキャベンディッシュの方たちの努力もあると思いました。
「行ってみないとわからない。」本当にそんな気がした旅でした。カナダという国について全くというほど知識がなかったことに気づきました。名前と場所は知っていても アメリカに関する知識の十分の一ももっていなかったのです。天然資源が豊富で 広大な国土を持つ豊かな国でした。医療費 教育費が無料で、訪ねたところでは人々は豊かな暮らしをしているように見えました。贅沢ではないけれど 庭を持ち、花を植え、木造の温かみのある家に住んでいる人達。仕事は4時に終わり、それからは自宅に戻って、家の手入れなどをする。夏の日が長い間はそれから子どもたちと釣りに行く。そんな生活が日本にあるのでしょうか。朝早くから夜遅くまで働き、子どもの顔は寝顔でしかみられない。こんな生活はやはり豊かな暮らしとは言えないと思いました。今回 ガイドとしてついてくれた男の方2人はどちらもカナダに30年ぐらい暮らしているそうで、どちらもカナダの暮らしに大満足されているようでした。うらやましかったです。冬が長いのがちょっと残念ですが、またカナダを訪れてみたいと思いました。
2016年10月06日14時39分返信する -
ありがとうございました
鴨川の旅にご投票ありがとうございます。千葉県は東京から近いのになかなか行くことがありませんでした。鴨川までは 東京駅から2時間もかかり 那須塩原から新幹線で東京までは1時間なので時間的には遠い感じでした。東京の人たちには鴨川シーワールドが有名で、夏はとても混雑するようです。
ここでは思いがけなく日本山妙法寺のお寺が二つもありました。私が毎年行っているネパールにはポカラとルンビニにこれと同じストゥーパがあるのです。ルンビニのお寺の上人様にはいつもお世話になっているんですが、こんなところでお会いできるとは思っていませんでした。不思議なご縁を感じました。
また 箱根の旅もみていただきありがとうございます。まだ冠雪していなくて残念でしたが、富士山はどこで見てもテンションがあがります。また建て直された箱根の関所も結構見ごたえがありました。車で移動しましたが、その裏に昔の箱根を歩く道が続いているのを発見しここを歩くのも楽しそうだと思いました
2016年09月19日06時54分返信する -
お礼
青森の旅とくちこみにご投票ありがとうございます。酸ヶ湯温泉は前から行きたいと思っていました。湯治客が多いというのは効能があるからでしょうね。ホテルからの2時間半ぐらいのツアーがなかなか面白かったです。八甲田山も知らないことがたくさんありました。帰ってから新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」を読みました。今までは一つの部隊だけが行ったと思っていたのですが同時に2か所から2つの部隊が出発していたのですね。隊長の判断で1つはほとんど全滅 1つは全員生還 となったことも初めて知りました。また この登山は日露戦争のための訓練だったそうで、訓練でこんなにたくさんの人がなくなるなんて親御さんも残念だったことでしょう。駅などでパンフレットがたくさん置いてありました。青森はまだまだ いいところがたくさんありそうなので次はもう少し時間をかけて行きたいと思いました2016年09月17日07時17分返信する -
おはようございます
朝晩はめっきりと秋らしくなりました。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/26/75/64/src_26756445.jpg?1473672187
この事故のニュースは覚えています。
何故かこの時代は列車事故が多発した時期でも
あります。
国鉄時代で労働争議も頻繁で現在では考えられない
ストライキで運休も多くあり、やはりそのような
時代背景が関係しているのかもしれませんね〜
まだ多くの駅が連絡橋に頼っているのですね。
連絡橋は駅らしい構築物ですが、現在の施設としては
さまざまな要因に対応が難しいのかも?
レンガや石積みなどを利用しての構築物も多いですが
荷重などに結構耐えられるものなんですね? のんき茂野
拝復
のんき茂野さま、こんにちは。
旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
仰せの通り、あの時代は、鶴見事故のみならず、三河島事故の如く100名以上が犠牲になった大事故が連続して発生した時代でした。
鶴見事故が不可抗力だったのに対し、三河島事故は内容を精査すると、三河島駅助役の判断ミスが最大原因で、大東亜戦争中に施行されていた戦時特別刑法での処罰とすれば死刑が当然だと言えると思います。
跨線橋はエレヴェーター、エスカレーターが充分に設置されないと不便な存在です。
何年後に着手となるか未定ですが、京阪神間には鉄道開業当時の煉瓦構築物が現在使用例があり、地元でも気づいていないと思われます。
横浜臨海公園2016年09月15日10時25分 返信する -
大変な超大作!
横浜臨海公園さま、こんばんは。
大変な超大作の旅行記を発表なさいましたね。
旅行記は私が記憶する限り本当に久しぶりではございませんか?
長い間ため込んでいらっしゃった情熱がこの1篇に凝縮されているようで、横浜臨海公園さまの熱意がばしっと突き刺さるような気がしました。
その間には体調を崩されたこともおありになったと聞き及んでいますが、本当によくぞこんな大作をと、その超人振りにただただ驚いています。
今回の鉄道歴史探訪記、川崎ー横浜間は私も時々通りますので、なじみの沿線ではありますが、横浜臨海公園様の詳しいご説明で(すみません、私には難しすぎて半分も理解できておりません・泣)、そんなこともあったのか、とか、こんなこともあったのかとか初めて知ることも多く、本当に勉強になりました。
その中でも、ヴェルサイユ条約で、日本が賠償金を得ていたという話、それが日本の鉄道の発展に寄与していたという話はとても興味深く拝見しました。
でも歴史って面白いですね。
第一次世界大戦では日本は連合軍でドイツから賠償金を得て、第二次世界大戦ではドイツと同盟を結んで敗戦するのですものね。
これからもあんまり無理をなさらないで、と言いつつも、こういう立派な旅行記は世のため人のためにも発表してほしいと願っております。
himmel拝復
frau.himmelさま、こんにちは。
小生の旅行記に投票とコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
川崎-横浜間は小生にとっても地元故に、資料が豊富と思いきや、横浜市内の元資料は関東大震災で焼失した物も多く、裏付けをとるのに苦労し、アレヤコレヤで5年も掛かってしまいました。
仰せの通り、我が国は、ヴェルサイユ条約で敗戦国から多額の賠償金を得たものの、第1次世界大戦後に於ける軍備拡張で、戦艦6隻、巡洋戦艦4隻を建造する為に折角の賠償金が費消され、結局、ワシントン軍縮会議決定で、長門、陸奥以外の建造中戦艦は、戦艦加賀、及び、巡洋戦艦赤城が航空母艦に改造された以外、戦艦土佐などは75%完成していたにも拘らず廃艦指定を受け、射撃訓練の為の標的艦として活用されるなど無駄骨でした。
更に、関東大震災での復興資金として流用され、昭和初期の世界的不況から、円の価値が落ち、昭和5年(1930年)には残がゼロになってしまいます。
但し、現在も残る、隅田川下流域に於ける鉄橋群は、関東大震災で焼失した木造橋の代替として、戦艦建造の為に欧米から輸入していた鋼材を活用して、直ぐ架橋が可能だったという事になります。
横浜臨海公園2016年09月14日16時25分 返信する -
旅行記に投票有り難うございました。
横浜臨海公園 様
こんにちは
いつもお世話になり有り難うございます。
この度は旅行記に投票いただき有り難うございました。
旅行記にも書きましたが、あっという間の70歳です、若いころは自分には60歳、70歳なんか来るわけない?なんて考えていましたが、来てしまうんですね!
我侭で好きなことをやり続けてきたので時間の進みかたも早かったのでしょう。
でも健康で今でもスポーツを続けられるのはとても幸せなことだと感謝しています。
スイスにもずいぶん通いました、現地の人にスイス人より詳しいなんて言われたこともあります、
いまではスイス東部のグラウビュンデン州の街や村やレーティッシュ鉄道が好きになりました。
あとどの位スイスの旅が続けられるかわかりませんが、魅力的なスイスの田舎を歩こうかと 思っています。
これからも宜しくお願いいたします。 取り急ぎ御礼まで。
敏じぃ
2016年09月07日11時53分返信する



