2016/08/31 - 2016/09/01
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横浜臨海公園さん
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該区間たる、宇都宮-白河間は、日本鐵道會社第2区線の一環として、矢板-那須(現 西那須野)間が明治19年(1886年)10月1日、残り、那須(現 西那須野)-黒磯間は同年12月1日開通した。
該地域は、那須連山麓に、箒川(ほうきがわ)、蛇尾川(さびがわ)、熊川(くまがわ)、及び、那珂川(なかがわ)から形成される複合扇状地上に存在し、元来、砂礫層が厚く水源に乏しい事から農耕不適地とされ、周囲は見渡す限り人煙稀な潅木茂れし荒蕪地だったが、第3代栃木縣令 三島通庸(みしま みちつね)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)10月23日)(明治16年(1883年)10月30日~明治18年(1885年)1月22日在任)主導に拠り100000円の基金下付が決定された事で、那珂川から取水導水設置工事を計画し、三島退任後たる明治18年(1885年)4月15日に着工し、現在の那須塩原市西岩崎から同市千本松に至る16.3kmの導水基幹路設置工事は同年9月15日に竣工し、那須疎水(なす そすい)完成に依り、該地は肥沃な地へと変貌を遂げんとした時期である。
該区間工事で、土屋切通以外は急勾配は存在せず10/1000‰以下に抑えられたが、反面、土屋、山田両台地に切通の崖削、及び、橋梁では、箒川、蛇尾川、熊川各橋梁架橋工事が発生し、特に、箒川橋梁設置は該河川が急流故に架橋工事は橋脚設置が困難を極めた。
該区間開通たる明治19年(1886年)10月1日時点では、現在の針生(はりお)隧道は存在せず、該地は切通を設置する事に決定し、該地を21m弱掘下工事を施工し列車を通過させた。
即ち、土屋切通である。
然るに、該区間開通当時のタンク式蒸気機関車自体に制動機は設備されておらず、僅かに、炭水車式蒸気機関車の炭水車に手制動機が存在作用するのみで、緩急車に制動手を乗務させ、機関車の汽笛合図で手制動機を扱う心許無い状態だった。
該切通を通過した上り列車は、急勾配を降下後、制動効果も無く約1.5kmを暴走した挙句、矢板駅構内を通過し分岐器を破壊して上野方本線上で停止する事態が頻発した事から、当時は単線であり、対向列車と正面衝突の可能性が危惧された為に、急遽、該切通地に隧道設置が決定され、翌明治20年(1887年)5月に針生隧道が竣工し、該切通は廃止されたが該築堤部分痕跡は130年後の現在も残存する。
然し、今度は新たな問題が発生した。
該区間開通時は、該切通青森方端部に所在した東泉家宅長屋門前を通過し、該切通通過時代は特に問題は発生し無かったが、該隧道開通に伴い、山側に線路が設置された事から、何と該宅長屋門と本宅中間部たる庭園内に線路を設置する暴挙となった。
日本鐵道は該家敷地移転を含めた条件を提示したが、余りに一方的で高圧的態度に終始した事から、今度は東泉家側が態度を硬化させてしまった。
時間切れと判断した該社は、否を言わさず為に壮士数10名に日本刀、鉈、等々を持たせ、該家庭園内に対し設置工事を強行施工した。
収まらないのは、東泉家側で、当然の結果ながら裁判に打って出たが、裁判所側も判断しかねる事例と見え、地裁差戻、高裁差戻を反復させ審議継続させ、国有化後も係争し、鐵道院、鐵道省と事態は沈静化するどころか紛糾するばかりだったが、昭和33年(1958年)に直流1500V電化が決定し、まさか自宅庭に線路のみならず、電柱に高圧電線が張吊されるとなれば、東泉家側も妥協せざるを得ず、同年2月に和解が成立し現位置に移転した。
東泉家では、該線に御召列車運転の都度、警察官が立入り、長屋門や家屋を厳重封鎖し、該一家は御召列車通過時は屋内に於いて正座を余儀無くさせられた。
因みに、法曹界では該案件をして、国益を優先すべきか私権権利保護がの論争になる。
鐵道唱歌〔奥州編〕
第15番
叉立ちかへる宇都宮
(また たちかえる うつのみや)
急げば早も西那須野
(いそげば はやも にしなすの)
こゝよりゆけば塩原の
(ここより ゆけば しおばらの)
温泉わづか五里あまり♪
(おんせん わずか ごりあまり)
当時の塩原温泉は、群馬県伊香保温泉と共に、上流階級に於ける夏の高級避暑地とする代表的温泉地だった。
因みに、軽井沢が高級避暑地化するのは、横川-軽井沢間の碓氷峠が直流600V電化され、該区間に電気機関車が投入され、旅客列車に限り蒸気機関車排出の煙害被害が絶無となる明治45年(1912年)以降であり、それまでは、碓氷峠登攀時の蒸気機関車の排煙著しい地獄の場として在留外国人や上流階級達から忌避されていた。
第16番
霰たばしる篠原と
(あられ たしばる しのはらと)
うたひし跡の狩場の野
(うたいし あとの かりばのの)
たゝ見る薄女郎花
(ただみる すすき おみなえし)
殺生石はいづかたぞ♪
(さっしょうせきは いづかたぞ)
第17番
東那須野の青嵐
(ひがしなすのの あおあらし)
ふくや黒磯黒田原
(ふくや くろいそ くろだはら)
此処は何くと白河の
(ここは いずくと しらかわの)
城の夕日は影赤し♪
(しろの ゆうひは かげあかし)
那須疎水完成以前に於ける該地生産物は、現地費消のみの存在に過ぎなかったが、該区間鉄道開通に依り、販路は東京横濱地域へと拡大し、農生産が盛んになった事から、特に、失業士族を対象に該沿線に入植者が増えた。
明治31年(1898年)11月28日には、東那須野(現 那須塩原)駅が設置され、西那須野駅出荷貨物が近隣地域で農生産物たる米野菜が主だったのに対し、東那須野駅近隣地域は牧畜業が盛んだった事から農耕馬産出が主たる産業となり、大東亜戦争終結時まで、該駅出荷貨物は軍用馬発送駅で軍内部では知られた存在となる。
明治32年(1899年)10月7日17時頃、箒川橋梁上に於いて重大列車事故が発生する。
即ち、該事故発生当時、大型台風が接近し、該台風は静岡県東部地区に上陸し、該県田子ノ浦村浜に最大12mの高波が連続して押寄せ、該規模高波襲来は、該地域では360年振りの規模とされた。
他方、該台風襲来当時、我が国に於いて気象観測は開始され間もない黎明期であり、且つ、通報相手も軍公官庁宛に限定されており、一般への公示制度が確立しておらず、且つ、ラジオ放送も存在し無い時代故に、一般庶民の天気に対する概念は江戸期とさして変わらぬ状況だった。
該台風襲来当日、上野発福島行客貨混合第375列車は、回送機関車1両、貨車11両、客車7両を連結していたが、客貨車にボギー式車輌は無く、全車両共に2軸式単車だった事から軽量で、該台風暴風雨が原因の為に、上り列車遅延の影響で列車交換の為に矢板駅発車が約50分遅延した事から該駅を16時40分頃発車し、山田通通過後、箒川橋梁通過中に山田側から突風を受け、該列車貨車1両、及び、客車7両が、該橋梁下流側に脱線し、該台風暴風雨で増水していた該河川内に転落した。
当日の該列車編成は、
亥120+ハニ8+ハ174+ハ249+イ3+ロ17+ハ275+ハニ107
だった。
該列車牽引機関車機関助手は野崎駅に急行し、該駅長に事故報告をすると共に、直ちに、宇都宮駅に対し緊急電信を発信しようとしたが、当時の電線はゴム巻無き裸線様式で、強風の為に他電線と混信し送信困難で、同日17時20分頃に架電が可能になった。
他方、該列車後部車掌は、重傷を負ったにも拘らず矢板駅へと走り、該事故急報を受けた該駅は、宇都宮駅長、及び、日本鐵道會社本社に対し緊急電信を発信した。
緊急信受信と同時に、宇都宮駅長は、鐵道嘱託医 神野病院、日本赤十字栃木支部、帝國陸軍宇都宮師団に対し救援出動を要請し、該駅員、保線要員に非常呼集をかけ、救援列車を組成し同日20時に該駅を出発させた。
他方、該社本社は緊急電信着信内容に驚愕すると同時に、該社第4代社長 曾我祐準(そが すけのり)(天保14年(1843年)2月13日~昭和10年(1935年)1月30日)(明治31年(1898年)4月6日~明治39年(1906年)10月31日在任)は、順天堂病院に出動を要請し、該病院佐藤病院長、以下医師看護婦多数、該社技師長、作業要員多数を召集し同日23時に上野発救援列車が事故現場へ向った。
被災者は該河川濁流に飲み込まれ、記録では死者19~20名、重軽傷者38~45名ともされているが、現存する記録は被災者数がマチマチである。
取り敢えず、該社は該列車被害者に対し、死亡者に金500円、重軽傷者に対し、負傷程度に依り金300円以下の見舞金支払を行った。
該事故翌年に全国各地から送られた浄財を基金に、地元民の手に依り、事故現場至近地に慰霊供養碑が建立される。
黒磯-白河間は、栃木福島両県境に存在する黒川の底辺に渓谷地帯を形成し、該線開通当時は該河川を5回をも横断急曲線が存在し、築堤、切通、隧道を構築し、更に、16~25/1000‰連続急勾配が存在し、黒川増水氾濫、濃霧が原因とする視界不良に依る不通、及び、高地寒冷地故に毎年9月下旬に降雪を迎たる事から、軌条面凍結に伴う密着力低下等々を原因とする輸送力低下等々から、該区間開通当初から輸送上に於ける隘路と化していた。
当然の事ながら、該区間通過列車に対し、補助機関車を必要とした為に、黒磯、及び、白河両機関庫には多数の蒸気機関車が配置された事で、黒磯町は盛況を呈し、鉄道の町を形成するに至った。
然るに、内閣鐵道院は、該区間に対し抜本的対策として、該区間勾配改良を骨子とした計画案を策定し、大正4年(1915年)に該工事に着工した。
即ち、那珂川橋梁は既成線と比較し高位置に架橋し、那須連山麓に対し、切通、及び、築堤を施工、黒川に大橋梁を架橋した事で、該区間は既成時代の25/1000‰勾配から10/1000‰勾配へと緩和された。
大正9年(1920年)3月10日附で黒磯-黒田原間、同年10月10日附で白坂-白河間、及び、同年11月10日附で、残り黒田原-白坂間が新線に切替られ既成線は廃止された。
此のために、該区間通過列車は重量級貨物列車以外は補助機関車連結が不要となった為に、黒磯、白河両機関庫配置機関車数は激減し、機関庫施設は継続し残存こそしたが、双方共、嘗ての如き鉄道の町たる様相は消滅した。
大正12年(1923年9月1日11時58分に発生した関東大震災で、該区間に於ける被害は発生は無かった。
然るに、黒磯駅構内停車中の上り貨物列車牽引機関車の次位後部に7100型7101号炭水車附蒸気機関車が連結されていた。
実は、該機関車は北海道に於ける鉄道第1号機関車で、現在は大宮鉄道博物館に保存展示されている弁慶号である。
該機関車は、鐵道博物館展示物に指定された為に、鐵道省命令に拠り、北海道から大宮工場宛で、該工場に於いて復元工事を実施する為に回送中に該駅構内に於いて災難に見舞われた。
該線荒川橋梁以南区間は激甚災害の為に混乱し大宮工場も損傷著しい状態では記念機関車輸送どころの状況では無く、該機関車は該駅で開放され、該機関庫内隅に押込められ、昭和11年(1936年)に改めて大宮工場に回送されるまで、人々の記憶から消滅してしまう。
大正15年(1926年)7月に、現在の那須御用邸が設置され、黒磯駅は御召列車運転の都度、皇室利用が盛んになる。
然し、大東亜戦争以前、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)、及び、香淳皇后(こうじゅん こうごう)(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)両陛下は、沼津、及び、葉山御用邸を好まれ、該御用邸利用が少なく、此の為に、該御用邸利用は3直宮家が多く利用されたが、改めて、戦後になり、両陛下に依る該御用邸利用が活発化した。
昭和期になり世界的大不況構造の内に在って、鉄道敷設も資金的に困難な状況になった事から、鐵道省は、昭和4年(1929年)9月5日附で、今後に於ける新規路線敷設に対しては、当時台頭して来た自動車に依る事を決定した。
即ち、基線に対する培養的路線は鉄道線に依らず自動車線設置とする方針とした。
那須郡塩原地域に対しては、大正期に於ける鉄道敷設予定線候補だったが、該地に対する一方的急勾配の存在、及び、沿線人口希薄で輸送力僅少を理由に自動車線設置を昭和10年(1935年)10月23日附 第16回鐵道会議本会議に於いて決定された。
該決定に基き、昭和12年81937年)に、矢板-下塩原間28.8km、及び、西那須野-下塩原間21.7kmの路線が開通し、乗合自動車、及び、手小荷物、貨物輸送が開始された。
他方、該路線開業以前より地元輸送業者が存在した事から、鐵道省は該輸送業者へ賠償対策として、矢板?塩原間 個人商店 高柳宰正に対し金7530円、西那須野-塩原間 塩原自動車に対し金7900円の補償金を支払った。
矢板-下塩原間は利用者減に伴い直営路線は廃止されたが、西那須野-下塩原間は延長区間をも含め、鐵道省後継組織たるJRバス関東に依る旅客輸送が継続する。
大東亜戦争終結後、外地より引揚陸海軍軍人、及び、海外在留者を中心に求人が殺到したが、当時の我が国は産業らしい産業が復興しておらず、厚生省は対応を迫られる。
那須地域には、大農場未開墾地、帝國陸軍那須飛行場、軍馬補充部用地が大量に残されていた事から、該省は、此れら余分地に対し入植者を募った処、希望者が殺到し、昭和20年(1945年)から昭和38年(1963年)に65開拓団が結成され、約1500戸が入植した。
但し、水源に乏しい地域が割当られた事から、殆どの入植者は酪農に前途を見出し、その為に、西那須野駅から乳製品発送が活発化した。
該区間は、昭和33年(1958年)5月22日に宝積寺-黒磯間が直流1500V電化された。
然し、当時の日本国有鉄道は、該線黒磯以北を交流50Hz20000V電化を決定しており、その為に、黒磯駅構内は拡張されたが、半面、複雑な線路構造と共に電気設備も複雑化する。
昭和34年(1959年)9月に、当時の準急車輌の概念を根底から覆す電車が登場した。
日光と云えば、大東亜戦争前から昭和30年代に於ける箱根伊豆と共に、東京近郊に於ける訪日外国人の有力観光地であり、事実、大東亜戦争後、当時の東武鉄道は、運輸省鉄道総局から、並ロ2等客車2両の貸与を受け、浅草雷門-東武日光間に進駐軍専用電車を運行した。
昭和26年(1951年)に該社が全車転換クロスシート式5700型電車を投入したのに対し、当時の日本国有鉄道は、該線大宮以北が非電化だった事も負となり、ただ状況を指を咥え拱いて見るのばかりの状態が続いた。
双方が対抗状態となるのは、昭和31年(1956年)9月に キハ44800型(キハ55系)準急型ディーゼル動車5両が完成し、同年10月10日より、上野-日光間に導入された事が発端である。
該車は全車固定クロスシート座席で、該車が装着した台車もDT19型と云う乗心地こそ最低車輌ながら、当時の急行用客車内部に、若干遜色しつつ、2機関搭載で評定速度は東武特急電車を上回った。
然し、該車は、訪日外国人観光列車用とするには客室設備は貧弱感が免れなかった。
昭和34年(1959年)9月22日に宇都宮-日光間が直流1500V電化された。
同年7月に、157系直流準急用電車が完成し、それまで55系気動車で運転されていた東京・上野-日光間準急日光号に投入された。
即ち、第4代日本国有鉄道総裁 十河信二(そごう しんじ)(明治17年(1884年)4月14日~昭和56年(1981年)10月3日)(昭和30年(1955年)5月14日~昭和38年(1963年)5月19日在任)の直命に拠り、東武特急に対抗可能なグレードアップした車輌開発が開始され、該電化を以って投入された車輌である。
該車輌は、東京・上野-日光間運転の準急日光号に投入されたが、一部車輌は、上野?黒磯間運転の準急なすの号にも投入され、更に、両列車運用の関係で、該車輌を使用し黒磯-日光間に臨時快速電車が運転され、該沿線利用者から好評を以って迎えられた。
更に、昭和35年(1960年)7月に川崎車輌製造でクロ157型車輌が製造される。
即ち、貴賓用として、昭和天皇香淳皇后両陛下の那須御用邸往復時に、それまでは、一般の御召列車編成を使用したが、牽引機関車に御料車1両を含めた客車5両編成で運転するのは不経済でもあり、早速、該年より既成の157系電車と共に原宿-黒磯間往復時の御召電車に使用された事から、該区間沿線では、157系一般車が廃車になるまで極めて親しまれた存在だった。
該線大宮以北に於ける特別急行列車運転は、昭和36年(1961年)10月1日時刻改正より上野-秋田間運転開始の つばさ号が嚆矢である。
該時刻改正に依り、日本国有鉄道は、特別急行用82系ディーゼル気動車を四国を除く全国各地に於いて配置した。
本来であれば、昭和33年(1958年)10月1日から上野-青森間に於いて運転開始された はつかり号は、運転計画段階に於いて東北本線経由とすべく、当時の東北支社は該線経由を強硬に主張したが、他方、当時の東北本線は大宮以北が未電化、宇都宮以北は殆どの区間が単線で、郡山-福島-白石間には25/1000‰の急勾配急曲線が介在し、特に、白河-福島間線路規格が乙線で、最大旅客用蒸気機関車C62型が入線不可能だった事も仇となり、常磐線経由に決定した経緯があった。
該列車は、上下列車共に宇都宮、黒磯が停車駅となり、黒磯駅は一躍特急停車駅になった。
翌昭和37年(1962年)4月27日時刻改正では、上野-仙台間運転の ひばり号が、つばさ号同様、宇都宮、黒磯に停車した。
該区間複線化は
矢板-野崎間 昭和38年(1963年) 9月15日
野崎-西那須野間 昭和37年(1962年) 6月 7日
西那須野-東那須野(現 那須塩原)間 昭和35年(1960年)10月31日
東那須野(現 那須塩原)-黒磯間 昭和37年(1962年) 1月31日
である。
黒磯駅は電化工事完成後、暫くは牽引機関車交換の為に全列車が停車していたが、昭和37年(1962年)7月に、日本国有鉄道が急行用451系交直流電車を完成させた事で、該車輌を使用し同年10月1日附時刻改正で上野-仙台間に普通急行みやぎの号が運転開始される。
黒磯駅では、交直流切替の関係上、牽引機関車の交換が必要な事から、停車時間も長く、該駅では駅弁販売がされ、九尾の釜飯、九尾寿司は旅行者にも知られ親しまれていたが、他方、実は、昭和天皇が九尾寿司をお好みなられていたと云う事実は知られていない。
此の為に、該弁当販売業者は、昭和天皇、香淳皇后両陛下御帰京時に、わざわざ御召電車に該商品を献上するほどであった。
東北新幹線開業後は、弁当販売を那須塩原駅に中心を移し、平成の世まで残存させていたが、残念ながら平成17年(2005年)に廃業してしまった。
昭和46年(1971年)2月11日2時52分頃、野崎-西那須野間に於いて重大事故が発生した。
即ち、上野発仙台・会津若松行 急行第1103列車13両編成は、野崎駅を定刻通過後、該駅間に於いて、該列車牽引電気機関車機関士は睡魔から居眠り状態となり、惰行運転後、現場は6.1/1000‰上り勾配上に於いて自然停車後、該列車は後退を開始し、時速20~25kmで退行した。
他方、該列車後続に、大宮操車場発長町行 貨物第1167列車が続行していたが、該列車牽引電気機関車機関士は、前方信号機が停止現示していた為に、停止処置を講ずるべく常用制動を作動されていた処、前方より、旅客第1103列車が後退する状態を現認した為に、非常制動を作動させたが停車前に貨物第1167列車に衝突した。
該事故に依り、旅客第1103列車最後部に連結されていた郵便車1両、貨物第1167列車牽引電気機関車1両、及び、該列車貨車4両が脱線し、旅客第1103列車乗客32名、郵便車乗務郵政省職員7名、及び、貨物第1167列車機関士1名が重軽傷を負った。
該事故は、旅客第1103列車牽引電気機関車機関士が勤務中たるにも拘らず飲酒し、且つ、該列車乗務車掌も、該列車が後退する事実を知りながら緊急停車処置を執らなかった事も事故原因と判定された。
貨物第1167列車電気機関車は前面が大破し該列車機関士は機器に挟まれた為に救出に10時間以上を要する事態となった。
旅客第1103列車乗客数名は、事故発生と同時に自発的行動として、新聞紙等々を燃やし、上り列車に対する防護処置を講じた。
事故発生と同時に、旅客第1103列車牽引電気機関車機関士は事故現場に酩酊千鳥足状態で訪れた事から、該列車乗客多数から暴行を受け袋叩きにされた。
日本国有鉄道が、生産性向上運動挫折に拠る労使間管理統括力低下に依る、特定労働組合が人事権まで掌握し、現場が荒廃を極めていた時代の典型的お粗末事故である。
東北新幹線工事は東京-大宮間の如き一部地域を除き順調に進行したが、他方、那須地区に関し駅設置に対して、西那須野、黒磯両駅で熾烈な紛争が発生した。
両駅付近住民は駅誘致の為に、再三に亙り日本国有鉄道本社に対し陳情を行ったが、然し、両駅間が11.5kmでは双方に駅設置は困難と判断し、日本国有鉄道は、中間駅たる東那須野に照準を定め、該駅に新幹線を停車させる事に決定した。
新駅名候補として、新那須、及び、那須高原が有力視されていたが、該内定を知った塩原地域から、該駅名では塩原に観光客が来なくなるとの理由から反対意見が開陳された。
更に、某保守系衆議院議員を経て、駅名に塩原を追加する様、日本国有鉄道に圧力をかけ、結局、現駅名に落着いた。
東北新幹線では、白石蔵王が同様理由で現駅名に決定したが、此れ以降、地元のエゴで駅名が決定される事態が現出し、昨今でも、九州鹿児島新幹線で当初予定が新筑後を予定したにも拘らず、地元のエゴで駅名を筑後船小屋に決定させられたが、該駅名に牽強付会に地元地名など無くとも観光客は来る者は来るのであり、該エゴは、寧ろ地元への偏見や蔑視を伴う現実を地元住民は認識すべきである。
平成2年(1990年)9月8日、香淳皇太后をお乗せした御召列車は原宿駅へと向かった。
その後、該駅での貴賓利用は途絶え扉は閉ざされたままである。
表紙写真は、
矢板-野崎間に存在した土屋切通築堤跡
東北本線歴史的痕跡探記
~東京-上野間編 大正浪漫~
http://4travel.jp/travelogue/10719577
~上野駅編~
~上野-田端-赤羽間編 明治頌歌~
~王子赤羽貨物支線編~
~赤羽-大宮間編 明治頌歌~
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~大宮-栗橋間編 明治頌歌~
~栗橋-小山間編 明治頌歌~
~小山-宇都宮間編 明治頌歌~
~宇都宮-長久保-片岡間編(廃止線) 明治頌歌~
~宇都宮-宝積寺-氏家間編(現行線) 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11161745
~氏家-矢板間編 明治頌歌~
~矢板-黒磯間編 明治頌歌~
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~黒磯-黒田原-白河間編(廃止線) 明治頌歌~
~黒磯-黒田原-白河間編(現行線) 大正浪漫~
~白河駅編 大正浪漫~
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~白河-須賀川間編(廃止線) 明治頌歌~
~白河-須賀川間編(現行線) 大正浪漫~
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
矢板(やいた)駅
該駅は、明治19年(1886年)10月1日開業である。
該駅は、当時の奥州街道沿集落たる矢板村中心部より離れた篠藪原に設置されたが、地元有力者たる 矢板武(やいた たけし)(嘉永2年(1842年)12月28日~大正11年(1922年)3月22日)が該地付近を買収し、当時の日本鐵道會社に無償提供したが、当時、該村に於いて鉄道敷設に対し反対意見が強かった事が原因とされているが、然し、路線設置を見る限り、該地付近は一直線で設定され、且つ、当時の矢板村は63戸に過ぎぬ存在だった事から、後世発生した鉄道忌避説に過ぎぬものと思われる。
明治44年(1911年)4月6日20時30分頃、矢板村内に於いて発生した火災は瞬く間に該村を焼失させたが、同時に該駅本屋、及び、職員官舎も全焼した。
該駅本屋は直ちに復旧され、第2代駅本屋が竣工した。
該駅より出荷された貨物は、日光鑛山、及び、天頂鑛山から産出した原鑛石、及び、木材が主で、此の為に該駅構内は次々と拡張された。
昭和4年(1929年)10月22日には、当時の下野電気鐵道矢板線が延長開通し、該駅に乗入れた。
明治44年(1911年)矢板大火時に焼失し復旧した駅本屋は手狭になった事から、昭和10年(1935年)に第3代駅本屋に改築された。
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1569矢板駅 駅
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矢板駅
出改札口
該駅停車優等列車全滅に依り、出札窓口が廃止され該駅本屋内は閑散としている。 -
矢板-野崎間
旧土屋切通築堤跡
東京方
該区間開通時たる明治19年(1886年)10月1日時点に於いて、現存する針生(はりお)隧道は未設置で、土屋台地に対し、切通を設置し通過する事に決定した。
此の為に、土屋台地は21mをも切崩し、該切崩余土を以って該切通し前後の築堤を設置した。
然るに、該区間開通後、上り列車が急勾配を下る際に制動が充分効果を発揮し得ず、該列車が矢板駅構内に於いて停車出来ず通過し、分岐器を破壊する事故が連発した事から、急遽、該山に隧道を設置し、該隧道は翌明治20年(1887年)5月に完成し、該切通区間は廃止された。
即ち、該当時の蒸気機関車でタンク式蒸気機関車には単独制動器が設置されておらず、炭水車附蒸気機関車の炭水車に手制動器が設置されているに過ぎぬ状況であり、緩急者に制動手を乗務させ、機関車の汽笛合図で手制動を作用させる心元無い状態だった。
矢板市針生427
東北本戦矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩6分 -
矢板-野崎間
旧土屋切通築堤跡
東京方
東京基点143.4km地点から登攀開始。
現在線と比較し急勾配。
矢板市針生415
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩7分 -
矢板-野崎間
旧土屋切通線路跡
写真中心部が通過点
廃止後100年以上が経過するも、通過部分のみ木々が他木々より低植。
矢板市針生415
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩7分 -
矢板-野崎間
針生(はりお)隧道
該隧道は、明治20年(1887年)5月開通である。
即ち、該区間開通時は、該隧道が貫通する土屋台地上に切通を設置し線路を敷設したが、該切通前後が急勾配で列車停止も覚束無い危険な状況が多発した事から、急遽、該隧道設置が決定された。
因みに、該隧道は該線東京基点初隧道である。
また、建設当時の隧道使用で現用隧道では我が国最古の存在である。
矢板市針生415
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩8分 -
矢板-野崎間
針生隧道
下り線用
東京方坑門
該隧道は将来を見越し複線仕様で構築されたが、当時の車輌建築限界を基準で設計された事から、以降の昭和期以降の大型化された車輌基準とは一致せず、複線化時に複線使用は困難とされ、上り線用新隧道を設置。
矢板市針生415
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩8分 -
矢板-野崎間
針生隧道
上り線用
東京方坑門
昭和38年(1963年)9月25日開通。
矢板市針生415
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線針生停留所降車 徒歩8分 -
矢板-野崎間
針生隧道と土屋切通跡
青森方
手前線路は下り線
矢板市土屋861
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
土屋切通廃止線築堤跡
地平結合部分
青森方
矢板市土屋861
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
土屋切通跡
手前線路は上り線
青森方
矢板市土屋861
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
針生隧道
下り線用
青森方坑門
矢板市土屋861
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
針生隧道
上り線用
青森方坑門
矢板市土屋861
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
東泉宅
全景
矢板市土屋881
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
東泉宅
長屋門
元来、該家長屋門は写真中央架線柱手前に存在した。
即ち、該区間は、針生隧道完成に依り該家庭園部に線路が敷設された。
東泉家は、該地区に於いて大東亜戦争終結直後の農地改革まで旧大地主だった。
該社は隧道設置に依る路線変更の為に、該家当主と移転折衝するも、該社の態度が高圧的だった事から当時の該家当主が激怒し態度を硬化させてしまったが、該社は時間切を理由に該家庭先に線路を敷設し列車を運行させた。
因みに、路盤工事から線路敷設まで該社は壮士を雇い、彼ら壮士衆は抜き身刀を手に威圧的態度に終始したと云ふ。
該社は国有化後も、内閣鐵道院、鐵道省と交渉相手は変わったが該家当主の態度は硬化反発する一方だった。
矢板市土屋869
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
東泉宅
長屋門跡
該区間は、昭和33年(1958年)5月22日に直流1500V電化されたが、流石に自宅庭に線路のみならず架線柱が存在する事は危険極り無い事から、現在地に移転した。
矢板市土屋869
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩1分 -
矢板-野崎間
山田台地切通
機械化されていなかった明治中期に於いて手作業で開削された。
大正期以降であれば隧道設置で貫通したものと推定。
矢板市山田無番地
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩20分 -
矢板-野崎間
箒川(ほうきがわ)橋梁
全長319m
矢板市山田無番地
東北本線矢板駅 矢板市営交友自動車線土屋停留所降車 徒歩22分 -
矢板-野崎間
箒川橋梁
明治32年(1899年)10月7日列車転落事故現場
写真中央部付近から客貨第375列車が那須連山から背後の山田切通を経た突風を受け該河川内に転覆した。
大田原市沢無番地
東北本線矢板駅 矢板市営交通自動車線土屋停留所降車 徒歩25分 -
矢板-野崎間
箒川橋梁
全景
写真奥は山田台
現在は該線複線化、国道4号線移設等々で開削部分が拡大。
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩30分 -
矢板-野崎間
箒川橋梁
青森方
橋台
煉瓦積
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩30分 -
矢板-野崎間
山田切通、及び、箒川橋梁
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩25分 -
矢板-野崎間
元箒川避溢橋梁
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩25分 -
矢板-野崎間
元箒川避溢橋梁
架橋以来活用無実績。
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩25分 -
矢板-野崎間
元箒川避溢橋梁
EH500型交直流電気機関車牽引上り貨物列車
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩25分 -
矢板−野崎間
箒川鉄橋列車転落事故慰霊供養碑
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩20分 -
矢板−野崎間
箒川鉄橋列車転落事故慰霊供養碑
明治三十二年十月七日ニ於テ汽車転覆即死十九名ヲ出ス是レ未曾有ノ惨事ニシテ悲嘆ヲ極ム、昭和六年十月七日三十二年忌ニ相当スルヲ以テ吾等相謀リ供養大法会ヲ営ミ恭ク霊ヲ弔ウ
田代善吉(黒瀧) 撰文
昭和6年(1931年)10月7日建立。
田代善吉(たしろ ぜんきち)(明治9年(1876年)7月3日〜昭和30年(1955年)9月17日)は栃木県の教育者、郷土史家。
尋常小学校訓導採用試験受験終了後に該事故列車に乗車遭難し、該河川に投げ出され重傷を負うも一命を取り留めた。
大田原市蕪無番地
東北本線野崎駅 徒歩20分 -
矢板−野崎間
箒川鉄橋列車転落事故慰霊供養碑
近接
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩20分 -
矢板−野崎間
箒川橋梁列車転落事故慰霊供養碑群
全景
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩15分 -
矢板−野崎間
箒川橋梁列車転落事故慰霊供養碑群
南無阿弥陀佛
周辺住民が発起人となり該事故遭難者の菩提を弔う為に浄財を募り、該事故翌年たる、明治33年(1900年)10月7日建立。
大田原市蕪原無番地
東北本線野崎駅 徒歩20分 -
野崎(のざき)駅
駅本屋
該駅は、明治30年(1897年)2月25日開業である。
該駅は、地元請願に依り開設したが、先を見越し、該駅本屋は前年たる明治29年(1896年)に竣工している。
該駅構内には、明治31年(1998年)建築の煉瓦積倉庫が存在したが、駅前整備計画に支障するとの理由から、平成27年(2015年)に解体撤去された。
現駅本屋は、開業時の建築物である。野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
駅本屋
近接野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
駅本屋
裏手
近年設置された車椅子用スロープ以外、該駅開業当時の面影を残す。野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎
第2番ホーム
内閣鐵道院は、明治43年(1910年)に国有化後に於ける基本構造を決定し施行したが、橋梁、隧道等々構築物に於ける建築限界拡大を実施させる為に、更に、大正8年(1919年)に、大型車輌通行可能になった路線から、新車に関しては車輌幅2705mm、車輌高591mm拡大し製造した。野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎
第2番ホーム
現電車用高、及び、大正8年(1919年)客車大型化高段差。野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
貨物取扱施設跡野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
貨物取扱施設跡
穀物倉庫野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
記念碑群野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
駅開設記念碑野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
駅開業100周年記念碑
平成9年(1997年)建立野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎駅
那須与一
銅像野崎駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん野崎駅 駅
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野崎-西那須野間
野崎駅構内
東京方
俯瞰 -
野崎-西那須野間
百間踏切
該踏切付近から黒磯駅構内まで駅構内を除き約18km間線形は一直線。
那須塩原市二区町403 -
野崎-西那須野間
那須疎水(なす そすい)二区分水路
明治18年(1885年)9月15日完成後、次々と分水路が設置。
那須塩原市二区町388 -
野崎-西那須野間
大山街道踏切
全景
那須塩原市扇町1−3 -
野崎-西那須野間
大山街道(おおやまかいどう)踏切
該駅周辺に開墾場を有していた 大山 巌(おおやま いわお)陸軍元帥(天保13年(1842年)11月12日〜大正5年(1916年)12月10日)に因み命名。 -
西那須野駅
駅本屋
該駅は、明治19年(1886年)10月1日開業である。
該駅開設の為に、大山巌(おおやま いわお)(天保13年(1842年)11月12日?大正5年(1916年)12月10日)、及び、西郷従道(さいごう つぐみち)(天保14年(1843年)6月1日?明治35年(1902年)7月18日)従兄弟が共同経営する 加治屋(かじや)開墾場敷地の一部が無償提供された。
然し、該駅所在地那須村は、明治22年(1889年94月1日施行の町村制に拠り、西那須野村、及び、東那須野村に分離された事を受け、明治24年(1891年)5月1日附で現駅名に改称された。
初代駅本屋は多少改造拡張されるも老朽化が顕著になった事から、改築が決定し、昭和10年(1935年)10月10日に第2代駅本屋が竣工した。
http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1166西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
駅本屋西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
出改札口
東北新幹線開通前は、上野発仙台行 特急ひばり号の内には、途中、大宮、宇都宮を通過して初停車駅が該駅と言ふ列車も存在した。
該新幹線開業後は凋落の一途をたどるばかり。
嘗ての賑わいが嘘の如し現状。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
ジェイアールバス関東西那須野営業所
該営業所は、鐵道省塩原自動車線として昭和10年(1935年)10月23日に開催された第16回鐵道会議本会議に於いて開設が決定されたものである。
塩原本線は、西那須野-下塩原間21.7km、及び、矢板-下塩原間28.8kmの路線を有し、バスとトラック輸送を扱ったが、反面、地元に於ける輸送業者への補償として鐵道省は、前者区間では、塩原自動車に対し7900円、後者には個人商店 高柳宰正に対し7530円を支払った。
現在は、那須塩原-上三依間で運行される。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
東口
元東野鉄道(現 東野交通)西那須野駅舎が存在したが、昭和43年(1968年)12月16日に西那須野-黒羽間全線廃止。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
東口
写真中央部付近に元東野鉄道(現 東野交通)西那須野駅舎が存在した。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
第1番ホーム
東北新幹線開業前は、東北本線特急列車多数も停車していた為に、ホーム長が長い。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
旧東野鉄道線西那須野駅跡
那須塩原市営自転車駐輪場付近にホームが存在した。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
第2番ホーム上屋
支柱古軌条群西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
第2番ホーム上屋
支柱古軌条群西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
第2番ホーム上屋
支柱古軌条
CARNEGIE 1906 ET IIIIII N.T.K.
(米カーネギー社 1906年6月製造 日本鐵道會社発注品)
支柱番号第18号d西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
第2番ホーム上屋
支柱古軌条
UNION D. 1885 I.R.J.
(独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 工部省鐵道作業局発注品)
支柱番号第13号d西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野駅
旧東野鉄道線路跡
東野鉄道(現 東野交通)は、大正7年(1918年)4月17日に西那須野−黒羽間を開通させて以来、路線延長などもあり、地元培養路線として存在したが、経営不振から、昭和43年(1968年)12月16日を以って全線廃止された。西那須野駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん西那須野駅 駅
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西那須野-那須塩原間
蟇沼(ひきぬま)用水橋構
栃木県内では大谷石が簡単に入手可能だった事から、煉瓦構築物は珍しい。
那須塩原市高柳町無番地
東北本線西那須野駅西口 ゆーバス資材センター入口停留所降車 徒歩5分 -
西那須野-那須塩原間
蟇沼用水橋構
那須塩原市高柳町無番地
東北本線西那須野駅西口 ゆーバス資材センター入口停留所降車 徒歩5分 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
全景
那須塩原市東関根255 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
下り線用橋梁
橋台
那須塩原市東関根255
東北本線西那須野駅西口 ゆーバス資材センター入口停留所降車 徒歩25分 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
下り線用橋梁
東京方
橋台
那須塩原市東関根255 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
下り線用橋梁
橋台
那須塩原市東関根255 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
上り線用橋梁
全景
昭和35年(1960年)5月2日竣工
該区間複線化は同年10月31日
那須塩原市東関根255 -
西那須野-那須塩原間
第2東関根用水(だいに ひがしせきね)橋梁
下り線用橋梁
橋脚
那須塩原市東関根255 -
西那須野-那須塩原間
蛇尾川(さびがわ)橋梁
全景
那須塩原市関根122
東北本線西那須野駅西口 ジェイアールバス関東塩原線蛇尾停留所降車 徒歩12分 -
西那須野-那須塩原間
蛇尾川橋梁
橋台
那須塩原市関根122
東北本線西那須野駅西口 ジェイアールバス関東塩原線蛇尾停留所降車 徒歩12分 -
西那須野-那須塩原間
蛇尾川橋梁
橋脚
橋桁は交換されたが、橋台、及び、橋脚は架橋当時の物。
那須塩原市関根122
東北本線西那須野駅西口 ジェイアールバス関東塩原線蛇尾停留所降車 徒歩12分 -
西那須野-那須塩原間
蛇尾川橋梁
上り普通列車
那須塩原市関根122
東北本線西那須野駅西口 ジェイアールバス関東塩原線蛇尾停留所降車 徒歩12分 -
西那須野-那須塩原間
蛇尾川(じゃびがわ)仮信号所跡
大正9年(1920年)6月1日より数日間設置。
那須塩原市下中野1315−2 -
西那須野-那須塩原間
那須塩原駅構内
青森方
俯瞰
那須塩原市大原間454−4
東北本線那須塩原駅 徒歩4分 -
那須塩原(なすしおばら)駅
該駅は、明治31年(1898年)11月28日開業である。
但し、開業当時は、東那須野(ひがしなすの)と称し、駅本屋も現在とは反対側たる村側に設置された。
該地域は、牧畜業が盛んに行われ、特に、那須高原に帝國陸軍軍馬補充部が開設された事から、大東亜戦争終結時まで軍用馬産出地として知名度を有した出荷貨物発送駅だった。
該駅は、東北新幹線停車駅として設定されるまで、特急列車はおろか、急行列車する通過する小駅だったが、西那須野、及び、黒磯両駅中間地として、該新幹線停車に相応と判断された。
東北新幹線は、昭和57年(1982年)6月23日に上越新幹線に先行開業したが、同日を以って、該駅名は従来の東那須野から那須塩原に改称され、且つ、駅本屋も在来線側から新幹線側へと変更された。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
駅本屋
近接 -
那須塩原駅
改札口 -
那須塩原駅
駅前広場
記念碑 -
那須塩原駅
東口
東北新幹線開業前まで、写真中央部に駅本屋が存在したが、該新幹線開業に伴い、駅本屋が山側に移転し旧駅本屋側は廃止された。 -
那須塩原駅
記念碑群
開業記念碑(右)
新幹線開通記念碑(左)
該石碑群が該駅本屋側では無く裏手に存在するのは、該地が旧駅本屋跡だった事に依る。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
東那須野驛開業記念碑
日本鐵道に拠り、明治31年(1998年)11月28日に該駅開業時に建立。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
東那須野驛開業記念碑
裏面
石碑面は経年変化劣化の為に解読困難だが、該駅設置の為に地元が資金を提供。
零細小作農の至るまで数10銭支出している。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
新幹線開通記念碑
昭和57年(1982年)6月23日新幹線開通時に建立。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
新幹線開通記念碑
裏面那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
東北本線下り線ホーム
旧3番線(現7番線)那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
東北本線上り線ホーム
旧1番線(現9番線)
東北新幹線開通に依り、駅本屋が移動し駅長事務室も新幹線高架下に移設された為に、該新幹線側から符番され、番号が変更された。
但し、小山、宇都宮両駅も在来線番線は変更されたが、駅本屋自体は正面側に設置された為に、該駅の如き極端な番線変更は発生しなかった。那須塩原駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん那須塩原駅 駅
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那須塩原駅
旧駅本屋
旧駅前通
新幹線開通前まで写真中央部に駅本屋が存在し、駅前通が形成され繁栄していたなど、現在の閑散とした状態からは想像すら困難。
那須塩原市大原間542
東北本線那須塩原駅東口 徒歩2分 -
那須塩原-黒磯間
黒磯駅
構内
青森方俯瞰
那須塩原市錦町13−21
東北本線黒磯駅 徒歩15分黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内南部
交直流切替部
直進通過列車に対し、所詮左手の架線柱に交直流切替標示が設置。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内南部
交直流切替部黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯(くろいそ)駅
該駅は、明治19年(1886年)12月1日開業である。
那須(現 西那須野)駅と同時開業では無いのは、該区間途中に、蛇尾川、及び、熊川両橋梁架橋で時間を要した事が原因である。
該駅開業時に日本鐵道が建築した初代駅本屋は手狭になった為に、大正4年(1915年)1月に増築された。
明治20年(1887年)7月16日に、該駅から白河迄延長時は、途中25/1000‰急勾配区間が介在した事から、該駅に於いて補助機関車連結を余儀無くさせられた為に、該駅に黒磯機関庫が設置され、一時は鉄道の街として繁栄されたかにも見えたが、鐵道省は隘路解決策として現路線設置を決定し、大正9年(1920年11月10日に新線が開通した事で、該区間に補助機関車は不要となり、黒磯機関庫も、白河機関庫黒磯支庫に格下され、該街も鉄道関係従事者減少に伴い寂れてしまった。
宮内省は大正14年(1925年)に那須御用邸設置を決定し、翌年に該工事竣工を受け、鐵道省は既成駅本屋では貴賓接受に不適と判断し、駅本屋を含む、跨線橋、ホームをも含む大改良工事に着手し、大正15年(1926年)7月1日附で第2代駅本屋が竣工した。
東北新幹線建設に鑑み、第2代駅本屋を含む数施設が該新幹線建設工事に支障する事から改築が決定し、昭和55年(1980年)9月9日附で現第3代駅本屋が竣工した。 -
黒磯駅
駅本屋
皇室御一家に於ける那須御用邸利用時に運転されていた御召列車も新幹線利用に移行され、該駅利用も無くなってしまった。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第3番ホーム
東北本線黒磯以北普通列車(左)、及び、貨物列車(右)黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第3番ホーム
貨物列車牽引電気機関車EH500型
該線は、該駅通過優等列車が車上交直流切替しながら通過していた。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内中部
交直流切替地点黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内中部
交直流切替地点黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内北部
下り線
交直流切替地点黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内北部
原則、交流50Hz20000V区間黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
該駅構内北部 -
黒磯駅
第3番ホーム
停車中の電車は701系交流電車黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第3番ホーム
上屋黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第3番ホーム上屋
支柱古軌条
UNION D. 1885 I.R.J.
(独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 工部省鐵道作業局発注品)
支柱番号第11号c黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第3番ホーム
昭和24年(1949年)2月25日完成。 -
黒磯駅
第1番線
交直流セクション切替区間
架線に注意。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第1番ホーム
該駅通過列車は列車選別装置搭載車に限定された。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
交直流セクション
該駅構内数箇所に存在。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第2番ホーム
上屋黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第2番ホーム
架線柱
昭和33年(1958年)3月植柱黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第2番ホーム上屋
支柱古軌条
UNION D. 1885 I.R.J.
(独ウニオン社ドルトムント工場 1885年製造 工部省鐵道作業局発注品)
支柱番号第8号d黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
第1番ホーム
現在はローカル列車しか停車しないが、東北新幹線開通前に於ける優等列車で該駅通過列車は、該線を交直流切替しながら通過していた。
因みに、該駅では以前は弁当販売も実施され 九尾の釜飯 は美味な存在だったが、現在は廃業した。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
貴賓室
第1番ホーム
ホーム側出入口
戦後は、クロ157型御召車が貴賓室前に停車横付し両陛下乗降に利用された。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
貴賓室玄関
大正15年(1926年)設置された那須御用邸に静養にお出でになられる 第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日〜昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日〜昭和64年(1989年)1月7日御在位)、及び、香淳(こうじゅん)皇后(明治36年(1903年)3月6日〜平成12年(2000年)6月16日)が該御用邸御利用時の御召列車御乗降時に利用された貴賓室。
在来線駅で貴賓室を有するのは、東京駅、京都駅以外では、葉山御用邸が存在する横須賀線逗子駅、及び、桜井線畝傍駅のみであり、以前は東海道本線大磯駅にも存在したが、改良工事時に工事支障を理由に解体され現存しない。
http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/goyotei-map01.html黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
貴賓室玄関
該貴賓室は、平成2年(1990年)9月8日に、該駅から原宿宮廷専用駅に向けて運転された御召列車5両編成に 香淳皇太后(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)が御利用になられたのを最後に利用される事も無くなり、扉は閉鎖状態が続く。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
205系普通列車、及び、193系気動車
珍客の到来黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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黒磯駅
キハ193系気動車
軌道架線試験に使用される特殊車輌
該日は該車輌搭載機関過熱が原因で牛歩の歩みとなり、該線列車に遅延が発生していた。黒磯駅〔鉄道駅〕 by 横浜臨海公園さん黒磯駅 駅
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この旅行記へのコメント (4)
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- ごまさん 2016/11/29 17:20:17
- 懐かしい風景です。
- 横浜臨海公園さんへ
こんばんは、矢板〜黒磯の歴史を興味深く読ませて頂きました。
私も栃木県北在住ですので、幼少時代より利用していた路線は懐かしく感じました。
現在は那須塩原駅より新幹線のみの利用になっていますので、過去は忘れていました。
黒磯駅はかつてはとても活気が有り駅弁販売がされていて、九尾の釜飯、九尾寿司は私も子供の頃より大好きでした。
父が黒磯に出かけた際はお土産として、ねだって購入して貰った懐かしい味です。
私の中では現在も1番好きな幻の駅弁です。
現在では復刻されているそうですね。
「昭和天皇が九尾寿司をお好みなられていたと云う事実は知られていない。」
私も知りませんでした。
黒磯駅に御用列車が御着きになられると、駅前で沢山の市民が旗を振ったのを思い出します。当時は車で20?位のスピードで進まれるので、お顔を拝見出来ました。
皇室を大好きな土地に生まれ育ったので、昭和天皇がいらっしゃるのは楽しみでした。
本当に懐かしい思い出です。
昭和は遠くに過ぎてしまいましたが、とても良い時代だったと感じます。
詳細な旅行記とても良かったですね。
ごま
- 横浜臨海公園さん からの返信 2016/12/02 16:24:15
- 拝復
- ごまさま、こんにちは。
拙稿への投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
現在の該区間に旅客定期特急列車運転は無くなってしまい、一抹の寂しさを禁じえません。
本当に東北新幹線開通以前は、特急空港列車の間を縫う様に普通列車が運転され、それも現在の様に30分間隔などでは無く、2時間に1本の割合だったと記憶しております。
東北本線沿線は駅弁の種類も選択に窮するほど多数販売されており、特に客車列車は、黒磯駅での機関車交換中に弁当を購入したり立ち食いそばを味わったりと楽しみがありました。
黒磯駅の立ち食いそばは、ホームは無くなり駅待合室付近のみとなってしまいましたが、嘗ての活気は嘘の様な状態でした。
東北本線次作上程予定では、黒磯-白河間と云う難関が待ち受けております。
ご存知と思いますが、該区間は大正6年(1917年)に、ほぼ新線設置同様の現在線が設置され旧線は廃止されてしまいましたが、現在でも痕跡は複数現存する事から、現地での確認作業は大変です。
横浜臨海公園
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- pedaruさん 2016/10/10 06:53:36
- 興味深い内容です
- 横浜臨海公園さん おはようございます。
東泉家と国鉄との争いは成田空港抗争を彷彿させますね。
住民の意思を無視して高圧的に出た国のやり方に対して態度を硬化させたのは当然の成り行きです。しかも官尊民卑の時代ではましてやと思われます。
時間と精力を費やしての労作、一見敬遠しがちな文字の羅列、しかし、その中身は面白くて読者を惹きつけます。ただその長さは最後まで読破するにはつらいものがあります。不肖pedaruの提案ですが、この探訪記を何編かに分けてアップされたら更なる読者を倍増させること疑いなしかと思われます。
pedaru
- 横浜臨海公園さん からの返信 2016/10/10 10:40:24
- 拝復
- pederuさま、おはようございます。
拙稿への投票と掲示板へのコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
東北本線の歴史は、特に、秋葉原-白河間が面白く、然し、資料が現地に集中しており、針生隧道設置問題では、該隧道設置問題や、東泉家との抗争騒動に発展する一件など、日本国有鉄道100年史にすら掲載されていない史実が散りばめられております。
pederuさま、ご提案を賜りまして有難うございます。
実は、東海道本線編をも含め、何年先になるか判りかねますが、現在、全線完工時に出版の話を、出版社数社から打診を頂いております。
本当は矢板-黒磯間の写真も200枚以上合ったものを限定した様な状態です。
此れ以上の分散は困難と思いますので、悪しからず御了解頂ければ幸甚でございます。
横浜臨海公園
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旅行記グループ 東北本本線歴史的痕跡探訪記Ⅰ
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