2022/01/02 - 2022/01/02
53位(同エリア1216件中)
+mo2さん
この旅行記スケジュールを元に
「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれている山梨県立美術館。そんな山梨県立美術館のミレーコレクションですが、2020年より正月2日に限り、作品の写真撮影がOKとなっています(正式には、2019年11月20日の県民の日が初回)貴重な展示作品を写真に撮れる滅多にない機会であり、昨年に続き行ってきました。
また19世紀末から20世紀前半にかけてフランスで活躍し、「最後の印象派」とも呼ばれたアンリ・ル・シダネルとアンリ・マルタンの展覧会も開催されており楽しんできました。
※作品の解説は、美術館HPより参照しています。
昨年の旅行記:山梨県立美術館 ミレー館で写真撮影してきました
https://4travel.jp/travelogue/11670682
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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まず初詣、身延山久遠寺へ
朝6時に沼津ICをでて7時に到着。新東名ができてから身延山まで近く(早く)なったのですが、昨年8月に中部横断自動車道がついに全面開通したこともあり更に時間が短縮。身延山 自然・景勝地
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身延山へは、50年近く毎年初詣に来ていますが、昔はアクセス悪く、朝、沼津をでて参拝し戻ってくるのが夕方という感じでした。
当時はこの本堂もありませんでした(昭和60年落慶) -
今は2児の母となっている妹のこんな写真も残っています。
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正月2日目で参拝客少なめですが、コロナの影響ということではなく朝のこの時間帯だと毎年こんな感じです。
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帰る頃(8時頃)には、参拝客もだいぶ、増えてきました。
身延山久遠寺 寺・神社・教会
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身延から1時間あまり、9時前に山梨県立美術館に到着しました。
山梨県立美術館 美術館・博物館
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まずはミレー館から。
あらためてジャン=フランソワ・ミレーですが、19世紀活躍した写実主義の農民画家。故郷であるシェルプールからパリへ出て新古典主義の画家ドラローシェに師事。肖像画や歴史画を学ぶが、サロンでは認められませんでした。1848年に出展した作品『箕をふるう人』でサロン初入選をし、それを転機に農民画家へ転向、翌年の1849年にはパリから南東へ60kmの場所にあるバルビゾン村へ移住しバルビゾン派となります。『種をまく人』『落穂拾い』『晩鐘』など農民を主人公にしたレアリスム絵画を描き、1867年のパリ万国博覧会で名声を得ました。 -
ジャン=フランソワ・ミレー「ポーリーヌ・V・オノの肖像」 1841-42年頃
この絵に会いに来たといってもいいかもしれません。昨年、穏やかで愛らしい表情に、いきなり心を掴まれました作品です。 -
「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(拡大)
本作品は、ミレ初期の肖像画でモデルは、最初の結婚相手であるポーリーヌ=ヴェルジニ・オノ。ミレーは、結婚する5年前のあたりからポーリーヌをモデルにして作品を制作し始めています。本作では落ち着いた柔らかい表情だが、他の作品では緊張して堅い顔なども残っており、当時の彼女との距離感やモデルの心境などをリアルに投影しています。本作の斜に構えた姿勢から顔だけを画面に傾ける姿は、ダヴィンチの『モナリザ』と似る部分があり、ミレー版のモナリザと評されることもあります。 -
ジャン=フランソワ・ミレー「眠れるお針子」 1844-45年
1845年にミレーは、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメール(1827-1894)と出会い、ともに暮らすようになります。以後30年、カトリーヌはミレーの良き伴侶となり、9人の子どもを育てました。本作品のモデルはカトリーヌとされます。この頃のミレーは、裸婦や可愛らしい女性をあらわした小品を多く制作していました。「裁縫をする女性」という画題はミレーが晩年まで好んで繰り返し描き続けたもののひとつ。裁縫の途中で眠りに落ちてしまった女性の右手中指にはめられた指ぬきや背後に置かれた静物など、細部まで表現されています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「ダフニスとクロエ」 1845年頃
農民画を描いたことで有名なミレーだが、彼は物語にもとづく作品も制作しています。本作品は、古代ギリシャの詩人ロンゴスによる牧歌的な恋愛小説『ダフニスとクロエ』の一場面を描いたものです。少年ダフニスと少女クロエは、ともに幼い頃にエーゲ海に浮かぶレスボス島に棄てられ、心優しい牧人たちに育てられました。その後、成長するにつれて二人は互いに愛し合うようになり、やがて結ばれることになります。本作品では二人は幼い子どもとして表現されています。ダフニスは森の中で横笛を吹いており、クロエは彼にもたれかかりながら釣り竿をたれています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「種をまく人」 1850年
本作品は、パリを離れてバルビゾン村に移り住んだミレーがはじめて手がけた大作。「種をまく人」という画題は、パリにいた頃からミレーの興味をひいていました。画面を占めているのは、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく農民の堂々とした姿です。しかしミレーの絵は、当時の人たちが見慣れていた農民の姿とは、あまりにも違っていました。そのため、この作品がパリのサロンに出品されたとき、農民の力強い姿を称賛する人もいましたが、保守的な人たちはこの絵を非難し、種をまく人を体制に異議申し立てをしている姿とみなしました。 -
今年も朝一番だったからか、ほとんど人もいなくゆったりと鑑賞したり、写真撮影したりできました。
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ジャン=フランソワ・ミレー 「落ち穂拾い、夏」 1853年
ミレーは生涯に3度、四季連作を制作しており、《落ち穂拾い、夏》は最初の連作の「夏」にあたります。一般的にフランスでは小麦などの穀物の収穫は7月から8月にかけて行われます。そして収穫の際、刈った穀物を全て取り入れるのではなく、畑を持たない貧しい人びとのために、穂を地面に残しておく習慣がありました。バルビゾンに移り住んだミレーは、聖書に登場する落ち穂拾いの行為をみて驚くと同時に、深く感銘を受けたとされます。収穫された穀物の大きな山を背景に描いているものの、ミレーは、落ち穂を拾う貧しい女性たちを主役に据えています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「落ち穂拾い、夏」(部分拡大)
「落穂拾い」は1857年にサロン・ド・パリに出展され、現在はパリのオルセー美術館が所蔵しています。
この作品とほぼ同じ構図で1853年に描かれた「落ち穂拾い、夏」は、伝統的な季節ごとの農作業を描いた連作『四季』の1枚です。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「角笛を吹く牛飼い」 制作年不詳
一日の終わりを迎え、牧人が牛の群れを笛の音で呼び寄せています。パリ郊外、フォンテーヌブローの森で見られる、大きな岩が散在する地形の中、牛たちがゆっくりと帰路を歩んでいます。制作年は不詳ですが、ミレーの作品の中で、自然の表現が豊かになっていった1850年代中頃以降の作品ではないかと推測されています。本作品では、夕暮れ時の大気の微妙な表現を描き出すことが関心事となっており、美しい色彩表現が用いられています。ミレーは本作品とほぼ同じ構図の作品に度々取り組み、1866年頃にはパステル画、晩年となる1872年にはより大きなサイズの油彩画を制作しています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「鶏に餌をやる女」 1853-56年頃
農家の夫婦の日常生活のひとこまが描かれた、ミレーらしい作品です。
農家の戸口で、女性が鶏たちに餌をやっています。餌を食べている鶏、食べ損ねないように走って来る鶏、餌に気づかないでボーっとしている鶏など、それぞれ個性的な鶏の様子が描かれています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」 1857-60年
ミレーは、1850年代から1860年代にかけて、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」という画題を好んで描いていました。帽子をかぶった羊飼いは、寒さに耐えるかのように、厚手のマントの前をかき合わせています。従順な羊たちは、ひとつのかたまりとなって、羊飼いに続いています。牧羊犬を連れて羊の放牧をする羊飼いは、杖を持ち、マントをまとった姿で描かれます。羊飼いは、農民から距離を置かれた存在だったが、聖書の中では「聖なる賢者」として描かれていました。さまざまな知恵を有している人とされていたため、旅人が道を尋ねることもありました。 -
ジャン=フランソワ・ミレー「古い塀」 1862年頃
ミレーが風景を描き始めた1862年頃の作品。バルビゾン村とフォンテーヌブローの森を区切る古びた塀と、そこから顔を覗かせる鹿が描かれています。塀の奥には、鬱蒼と茂る森が広がり、野生の鹿がこちらの様子をうかがっています。手前の平原には、明るい陽が射し、タンポポやカエルの生き生きとした様子と好対照をなしています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「グレヴィルのグレヴィルの断崖」 1870年
1870年7月にフランスとプロシア(現在のドイツ)とのあいだの戦争が勃発しました。この普仏戦争の戦火を避けるため、同年8月に家族とともにバルビゾンを離れたミレーは、フランス北西部ノルマンディー地方の港町シェルブールに向かい、同地に半年ほど滞在しました。本作品はその滞在の折に制作したものです。グレヴィルは、シェルブールにほど近いところにある海沿いの村。崖の下に広がっているのは英仏海峡です。友人で伝記作家のアルフレッド・サンシエに宛てた手紙から、9月から10月にかけて描かれたことが分かっています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「無原罪の聖母」 1858年
1857年4月にローマの鉄道省は、255代ローマ教皇として30年以上在位したカトリック教会司祭ピウス9世のお召列車の礼拝堂を飾る聖母マリア像の制作をミレーに依頼しました。ローマ法王庁から与えられたテーマは「無原罪の聖母」 でしたが、農民の娘のような素朴な雰囲気のマリア像は、崇高で美しいマリア像を所望した法王の御意には沿わず、この絵の受け取りを拒否したとされています。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「冬(凍えたキューピッド)」 1864-65年
ミレーが手がけた二番目の四季連作のうちの「冬」にあたり、パリに新築する銀行家トマ邸の食堂装飾のために制作されました。春は《ダフニスとクロエ》(国立西洋美術館蔵)、夏は豊穣の女神《ケレス》(ボルドー美術館蔵)、秋は天井画(焼失)となります。本作品は、古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩から着想を得ています。寒さに凍えながら雪の中を歩いてきたキューピッドが、暖かな部屋から出てきた女性と老人に助けてもらっている場面です。変形カンヴァスを用いているが、それは、食堂の暖炉の上に飾ることを目的としていたためです。 -
こちらが国立西洋美術館蔵の「春(ダフニスとクロエ)」です。
『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの詩人ロンゴスが書いたとされる恋愛物語です。幼くして捨てられ、牧人に育てられたダフニスとクロエの成長と愛の成就が語られています。ミレーは「春」のテーマに幼い愛の芽生えをとりあげ、柔らかい色調と筆遣いで無垢な二人と牧歌的な光景を描いています。
※本作品は展示されていません -
第2会場は《自然を描く画家たち バルビゾン派を中心に》ミレー以外のバルビゾン派を中心とした作品が並びます。
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まず、バルビゾン派以前の風景画が3点続きます。
クロード・ロラン「木を伐り出す人々(川のある風景)」1637年頃
フランス出身のクロード・ロラン(本名クロード・ジュレ。ロレーヌ地方出身のため「ロラン」と呼ばれます。)は、1627年の二度目のローマ行き以降、一度も帰国することなく、ここを終生の地としました。 -
クロード・ロラン「木を伐り出す人々(川のある風景)」(部分拡大)
クロードの関心は空気遠近法的な効果に富む風景描写にあり、とりわけ朝夕の黄金色の太陽を背景にした港湾風景には定評があります。クロードの描く風景は演劇の舞台のようなものであり、現実とは異なる理想的な世界としてあらわされています。本作品においては、人びとが伐採した木を船に運び込ぶ、夕暮れのいささか寂しげな情景が表現されています。 -
ヤーコプ・ファン・ライスダール 「ベントハイム城の見える風景」 1655年頃
ヤーコプ・ファン・ライスダールは、ハールレムに生まれ、アムステルダムで歿したとされます。彼の修業時代については何も知られていませんが、1648年にハールレムの画家組合に加入し、職業画家として認められています。1650年頃にドイツ西部を旅行し、山岳風景、広大な森、河、丘陵、城などに感動して、のちの作品に反映させました。17世紀オランダを代表する風景画家であり、バルビゾン派をはじめとする後世の風景画家たちに多大な影響を与えました。
?ドイツを訪れたおよそ5年後に制作された本作品は、オランダ国境に近いウエストファリア地方の小さな村ベントハイムの城の風景を描いています。ライスダールはこの城に強い印象を受けたようで、しばしばモチーフとして取り上げました。左手後景に茂った樹木のあいだからわずかに見える建造物が、城の小塔です。城の主要な建物は隠されており、本作品では、起伏の多い丘の斜面や、城へとつづく林道の様子が細かく表現されています。曲がりくねった小道には馬に乗った騎士、農民の男女、羊飼いと羊の群れがいます。 -
ジョルジュ・ミシェル「風車のある風景」 1820-40年頃
本作に描かれているのは、パリのセーヌ河右岸に位置するモンマルトルの丘。現在は観光地として有名ですが、ここは長い間農地であり、ブドウ畑と風車がシンボルとなっていました。 -
バルビゾン派の画家たちを中心とした作品が続きます。バルビゾン派は、19世紀中葉のフランスの風景画家のグループで、1830年頃から彼らが移り住んだパリ近郊フォンテンブローの森の入口にある小村バルビゾンに由来します。ミレー,ルソー,ディアズ・ド・ラ・ペーニャ,デュプレ,トロワイヨンらを中心に コローや クールベもときおり加わり,自然に対するロマンチックな感情と抒情的な画趣のある風景画を描きました。
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ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 「大農園」 1860-65年頃
ジャン=バティスト=カミーユ・コローは、パリの裕福なラシャ商の家庭に生まれ、同地で歿します。家族の反対もあり、画業に専念できるようになるのは26歳のときでした。古典主義の風景画家ミシャロンとベルタンに学び、1827年にサロン(官展)に初入選を果たす。三度にわたるイタリア旅行の他、フォンテーヌブローの森をはじめ、フランス各地を旅行し制作をおこないました。1850年頃からは、銀灰色を基調とした詩情あふれる作品を描いて人気を得ました。1855年のパリ万国博覧会で大賞を受賞し、名実ともに評価を確立しました。
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ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 「大農園」(部分拡大)
本作品は、1850年以降のコロー作品を特徴づける銀灰色を用いた詩情溢れる作例である。描かれるのは、コローがたびたび訪れていたパリの西郊外の小さな町ヴィル=ダヴレーの風景とされ、産業化されつつあるパリからは失われた、穏やかな田園風景が広がっている。前景にいる女性たちは4人とも田舎風の装いをしており、衣服に用いられた明るい色――白、黄、赤、青――は手前の地面の上にも置かれ、緑色の草地を彩っている。 -
ナルシス=ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ 「フォンテーヌブローの森 」1862年
ナルシス=ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャは、ボルドーでスペインからの亡命者の両親の元に生まれました。父親はイギリスで没し、10歳までに母親も失いました。さらに少年時代に森で毒蛇に足を噛まれ、治療に成功せず義足の生活を強いられることになります。15歳で、セーヴルの王立製陶所に雇われ、陶器の絵付けの仕事につきました。絵付けの仕事の制約に不満を持ち、絵画に転じ、ジュール・デュプレらと共に油彩画を学びます。初期には、華やかな衣装の婦人像やトルコや東洋風の題材の絵画を描きました。
人物画家として出発しましたが、「バルビゾン派」の画家、特にテオドール・ルソーを知ると、風景画を主に描くようになります。ルソーから樹木の描き方などの技術の指導を受け、4歳年下のルソーを唯一の師匠として生涯尊敬してゆくことになりました。1837年にはフォンテーヌブローの森の風景画をサロンに出品し、バルビゾンに住むようになりました。 -
ジュール・デュプレ「森の中-夏の朝」1840年頃
1840年代のデュプレは、バルビゾンや旅行先で友人ルソーとともに制作を行っていました。ルソーの影響を受けた風景画を多く手がけています。本作品には画面いっぱいに背の高い木々が描かれています。枝や葉が絡み合って、ひとつの塊のようになっています。空には夏の青空が広がり、木々の下に広がる牧草地には、木々によって生みだされた影がおちています。くつろぐ牛たちも日陰の涼しいところを選んでいるのでしょう。遠景を見ると牛の群れがはるか遠くにまでいることが分かります。 -
ジュール・デュプレ「海景」 1870年頃
ジュール・デュプレは、フランスのナントの磁器工場の息子として生まれ、リラダンで歿しました。1822年に磁器絵付職人として働きはじめましたが、12歳頃から油彩画を学びはじめます。その後パリで絵の勉強をして、1831年のサロン(官展)に初入選します。1834年にイギリスを訪れ、イギリス風景画からの影響を受けます。帰国後は主にパリ近郊で制作しました。特にルソーと親交が厚く、制作の面でも影響を受けた。1850年にリラダンに移り住み、終生そこで過ごしました。 -
ピエール=エティエンヌ・テオドール・ルソー 「フォンテーヌブローの森のはずれ」 1866年
本作品に描かれるのは、フォンテーヌブローの森のアプルモン渓谷と考えられます。そこは岩だらけの渓谷の頂に広がる牧草地のひとつで、水飲み場もあることから、放牧地として人気がありました。ルソーは、1830年代に初めてバルビゾンを訪れて以来、アプルモン渓谷の景色を多く描いています。 -
コンスタン・トロワイヨン 「市日」 1859年
コンスタン・トロワイヨンは、セーヴルで磁器職人の息子として生まれ、パリで歿しました。早くから磁器工場で働き、絵付職人から絵を学びました。1843年にルソーと知り合い、フォンテーヌブローの森で制作するようになります。1847年オランダに1年間滞在して、17、18世紀のオランダ人画家の作品にふれてからは、動物画を手がけます。1849年にレジオン・ドヌール勲章を受章、1855年のパリ万国博覧会で一等賞を受賞しました。没後の1867年のパリ万国博覧会では大回顧展が開催されました。
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コンスタン・トロワイヨン「市日」(部分拡大)
本作品の主題となっている定期市は、動物の売買や、遠く離れた都市からの情報を得る機会でした。フランスの地方での市の多くは、春か秋に、中世以来同じ場所で開かれていました。本作品では、動物画家として有名だったトロワイヨンにふさわしく、市に集まった家畜の様子がていねいに描かれています。なお、本作品は、川崎造船所初代社長で美術収集家の松方幸次郎が渡欧中に購入し、日本に持ち帰ったもので、1928年に国内で公開されました。 -
シャルル=エミール・ジャック「森はずれの羊飼いの女」 1870-80年頃
本作は、最初イギリスのコレクターが所蔵していました。ジャックとイギリスとの関係は、1836年から二年間、シェークスピアの挿絵本制作のために滞在していたことに始まりますが、フランスよりも早くから風景画が成立しているイギリスにおいて、風景だけで観賞に値するジャックの作品が好まれたことは不思議ではありません。 -
シャルル=エミール・ジャック 「森の中の羊の群れ」 1860年頃
羊を得意としたジャックが、サロンに出品した大作。横長の画面に大きく描かれた羊たちは、森の牧草地で草を食べたり、散歩したり、休息したりしています。 -
シャルル=フェルディナン・セラマノ「林間の空き地」 1853年
シャルル=フェルディナン・セラマノはベルギーのティエルトに生まれました。シャルル・ジャックに師事し、ある期間は助手も務めて、ジャックの影響を強く受けました。主に羊飼いと羊の群れや、羊小屋の内部などを描き、その柔らかい筆遣いで、細部まで精緻に描き込まれた作風は美術蒐集家の人気を得ました。またバルビゾン村周辺やフォンテーヌブローの森の中の風景も数多く描き、風景画家としても良く知られた存在でした。1869年、バルビゾンに移住し、以後亡くなるまでの40年間、羊や森の風景を題材とした作品を描き続けます。セラマノが活躍した時期は印象主義とほぼ同時代ですが、彼は当時としては古典的な画風を写実主義者として貫きました。 -
シャルル=フランソワ・ドービニー 「オワーズ河の夏の朝」 1869年
ドービニーは、パリに生まれ、同地で歿します。画家だった父に絵の手ほどきを受け、1838年にドラロッシュのアトリエに入り、同年のサロン(官展)に初入選する。1836年のイタリア旅行をはじめ、各地を旅しながら戸外制作を行い、1843年以降たびたびバルビゾンを訪れました。水辺の風景を好んで題材とした彼は、アトリエを備え付けた小舟「ボタン号」を考案し、フランス各地の川に浮かべて制作をおこないました。1860年にはオーヴェール=シュル=オワーズに定住しています。戸外制作を重視する態度は、モネをはじめとする印象派の画家たちに影響を与えました。 -
シャルル=フランソワ・ドービニー 「オワーズ河の夏の朝」(部分拡大)
本作品には、オワーズ河の風景が描かれており、そこには小さな蒸気船が浮かんでいます。蒸気機関は19世紀になって発達した動力であり、この一見のどかな風景のなかにも近代化の波が押し寄せていることが分かります。川の対岸には家が並び、画面右下には洗濯をする女性が二人いますが、洗濯場は女性たちが定期的に集まる社交の場でもありました。 -
ギュスターヴ・クールベ「嵐の海」1865年
クールベは、フランス東部フランシュ=コンテ地方の町オルナンに生まれます。パリのアカデミー・シュイスに通い、1844年のサロン(官展)に初入選。《オルナンの埋葬》《石を割る人々》などの野心作を次々に発表。1855年の万国博美術展に際して主要作品の出品を拒否されたため、自ら個展を開催しました。1871年、パリ・コミューンに参加し、コミューン敗北後は入獄、そしてスイスに亡命し、不遇のうちに亡命先で歿しました。 -
ギュスターヴ・クールベ「川辺の鹿」 1864年頃
クールベは1857年のサロン(官展)にはじめて狩猟画を出品し、以降狩猟画家として商業的な成功を収めます。本作品には狩人に追われて逃げ場を失い、川に飛び込む寸前の追いつめられた鹿の様子が描かれています。暗い森の中から飛び出してきた鹿には一瞬の強い光があたり、首筋や背中が輝いています。描かれた鹿は、クールベが1861年のサロンに出品した鹿の作品をもとにしたもので、フランスの伝統的な狩猟画や、イギリスの動物画家サー・エドウィン・ランドシーアによって描かれた鹿との影響関係も指摘されています。 -
ヨハン・バルトールト・ヨンキント 「ドルトレヒトの月明り」 1872年頃
ヨンキント は、オランダのラトロップで生まれ、ハーグ美術学校で学んだ後、1846年にパリに出て、バルビゾン派の画家たちと交流を持ちます。パリで活動して、油絵のみならず版画で各地の風景を描きました。1862年には腐食銅版画協会会員となり、優れたエッチングを発表しました。
?本作品の舞台となるオランダの南ホラント洲の町ドルトレヒトには、川や運河が数多く見られます。本作品でも画面の中央を川(あるいは運河)が占めており、何艘もの舟が浮かんでいます。川の両岸には木々が生い茂り、遠景には風車や教会が見えています。厚い雲のあいだに隠れる月が水を照らし、きらきらと輝いています。このような大胆な筆づかいや光と影の表現は、クロード・モネなど、印象派と呼ばれることになる若い画家たちに影響を与えました。 早くからアルコール中毒にかかり、各地を転々としたのち、グルノーブルの病院で歿しました。 -
ジュリアン・デュプレ「牧草の取り入れ」 1890-95年頃
家畜の飼料にもなる干し草づくりは、重要な夏の仕事のひとつでした。背景に広がる曇りがちの空と平坦な風景は、ジュリアン・デュプレが住んでいたフランス北部のピカルディ地方の草原を思わせます。 -
ジュール・ブルトン 「朝」 1888年
ブルトンは、ジャガイモの収穫作業を終えて畑を後にする人々を描いた「労働の終わり」(ブルックリン美術館所蔵)を1887年のサロンに出品し、批評家たちから賞賛を得ました。ニューヨークの画廊から依頼を受けて制作された本作は、「労働の終わり」の中央の人物のみを描いたもの。 -
ジュール・ブルトン 「朝」(拡大)
朝の光がアザミの花咲く草原を明るく照らす情景があらわされています。舞台となったのは、ブルトンの出身地フランス北部の町クリエール。この作品のためにポーズをとったのは、画家お気に入りのモデル、カトリーヌ・ビビです。 -
「シダネルとマルタン展」が開催されている特別展示室へ移動します。
以下、美術館の展覧会紹介より
フランスで19世紀末から20世紀前半にかけて活動したアンリ・ル・シダネル(1862-1939)とアンリ・マルタン(1860-1943)。2人の画家は豊かな色彩や点描といった印象派や新印象派の表現を継承しつつ、19世紀末に広がった象徴主義的な世界観や、家族や自邸の情景といった身近なものを情感を込めて描くアンティミスト(親密派)の顔もあわせもっています。2人はフランス芸術家協会サロンへの出品などを通じて親交を深め、1900年には2人を中心として新協会(ソシエテ・ヌーヴェル)が設立されました。
生涯にわたる親交を結び、絵画表現における共通点も多い2人ですが、シダネルは月夜や夕暮れ、食卓や庭といった静謐な風景を抑制された色調で詩情豊かに描いたのに対し、マルタンは明るい陽光に照らされた風景や人物を暗示的な表現で描き、フランス国内の公共建築の壁画を多く手がけました。本展は2人の画家をあわせて紹介する国内初の展覧会となります。 -
途中の窓から富士山が見えました。またコレクション展では富士山づくしの展示もありました。
アート・アーカイブス グルメ・レストラン
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こちらも写真撮影できる絵画が6点ありました。
アンリ・マルタン 「野原を行く少女」 1889年
19世紀末、ヨーロッパ全土で「象徴主義」が流行しました。これは世紀末の不安やメランコリーといった観念を芸術で表現しようとした傾向で、シダネルとマルタンも敏感に反応しました。1890年代、シダネルは穏やかな光に満ちた静謐な雰囲気の漂う作品群を描いています。一方、より早くこの傾向への関心を示したマルタンは、象徴性が強い華美な世界を描きましたが、1900年以降は象徴性が薄れていきます。 -
アンリ・ル・シダネル 「エタプル、砂地の上」 1888年
若きシダネルはパリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学しますが、やがて北フランスの寂れた港町エタプルへ滞在するようになり、この地で「光の表現」を学びます。これは、当時すでに影響を受けていた印象派の明るく輝く光ではなく、北部特有の微妙に変化する淡い光でした。こうした表現を用いながら、シダネルはジャン=フランソワ・ミレーらレアリスムの画家からも影響を受け、感傷的な田舎の情景などを描きます。エタプルでの経験によって自身の表現を確立したシダネルは、1891年のサロン出品で評価され、そこでマルタンとも出会います。 -
アンリ・ル・シダネル「ビュイクール、月明かりのなかの教会」1904年
印象派など19世紀以降の風景画家たちは、各地を旅してその風景を描きました。彼らの末裔であるシダネルたちも、各地で数々の情景を習作として描いた後、制作拠点に戻って大画面の完成作に仕上げています。シダネルは、北部の町や海岸、妹のいたモントルイユ=ベレー、ブルターニュ地方、南仏などフランス各地をめぐり、さらにイギリス、ベルギー、イタリアへも足を延ばしました。 -
アンリ・マルタン 「ガブリエルと無花果の木〔エルベクール医師邸の食堂の装飾画のための習作〕」 1911年
マルタンは、公共建造物などの装飾壁画をしばしば依頼される人気作家でした。群像表現を特徴とするマルタンの装飾壁画は、人物の姿勢や配置などスケッチや習作を繰り返し、時間をかけて構想が練られ、大画面に仕上げられました。習作では、小刻に震えているかのような変化に富んだタッチによって一瞬の光景が捉えられています。 -
「ガブリエルと無花果の木〔エルベクール医師邸の食堂の装飾画のための習作〕」 (部分拡大)
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アンリ・マルタン 「マルケロス テラス」 1910-20年
1900年、マルタンはフランス南部の小村ラバスティド・デュ・ヴェールに別荘マルケロルを購入し、この地の橋や丘、彼自身が造った庭、テラスなどを描きました。この時期より、マルタンの絵からは象徴性が影を潜め、身近な情景が描かれるようになりました。 -
アンリ・ル・シダネル 「ヴェルサイユ、月夜」1929年
1909年から晩年にかけて、シダネルはヴェルサイユにも居を構え、ジェルブロワとの二拠点生活を行いました。ヴェルサイユ宮殿はシダネルにとって格好の題材となり、穏やかな眼差しで、壮麗な宮殿の敷地を素朴で親しみのある情景として描きました。シダネルにとって、ヴェルサイユはジェルブロワに次ぐ着想源となり、120点ほどの油彩画を制作しました。 -
美術館をでると富士山も見えました。
いつも富士山は北にある静岡県民にとって、南(太陽の方角)に見える富士山は新鮮です。芸術の森公園 公園・植物園
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旅行記グループ
2022 美術館・展覧会
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山梨県立美術館 今年もミレー館で写真撮影してきました
2022/01/02~
甲府
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2022.1 東京国立博物館 特別展「ポンペイ」【1】ポンペイの街ー公共建築と宗教
2022/01/22~
上野・御徒町
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2022.1 東京国立博物館 特別展「ポンペイ」【2】ポンペイの社会と人々の活躍、人々の暮らし
2022/01/22~
上野・御徒町
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2022.1 東京国立博物館 特別展「ポンペイ」【3】ポンペイ繁栄の歴史
2022/01/22~
上野・御徒町
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メトロポリタン美術館展、フェルメールと17世紀オランダ絵画展などを巡ってきました
2022/02/19~
上野・御徒町
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2022.3 妹と甥っ子と東京国立博物館へ
2022/03/12~
上野・御徒町
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シダネルとマルタン展、メトロポリタン美術館展と桜をみてきました。
2022/03/27~
新宿
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GW美術館巡り~スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たちなど
2022/04/30~
上野・御徒町
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甲府 フランソワ・ポンポン展と寺社、ワイナリー巡り
2022/05/28~
甲府
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国立西洋美術館リニューアルオープン記念 自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで
2022/06/04~
上野・御徒町
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兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~(1)統一前夜の秦
2022/06/18~
静岡市(葵区・駿河区)
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兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~(2)統一王朝の誕生~始皇帝の時代
2022/06/18~
静岡市(葵区・駿河区)
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兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~(3)漢王朝の繁栄
2022/06/18~
静岡市(葵区・駿河区)
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東京国立近代美術館 ゲルハルト・リヒター展へ行ってきました(1)
2022/07/02~
丸の内・大手町・八重洲
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東京国立近代美術館 ゲルハルト・リヒター展へ行ってきました(2)
2022/07/02~
丸の内・大手町・八重洲
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「化石ハンター展 ~ゴビ砂漠の恐竜とヒマラヤの超大型獣~」へ行ってきました(1)
2022/08/09~
上野・御徒町
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「化石ハンター展 ~ゴビ砂漠の恐竜とヒマラヤの超大型獣~」へ行ってきました(2)
2022/08/09~
上野・御徒町
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2022.8 甥っ子を連れてMOA美術館へ ~キラキラ☆ゴールデンびじゅチュ館
2022/08/12~
熱海
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展(1)パブロ・ピカソ
2022/10/23~
上野・御徒町
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展覧会 岡本太郎 に行ってきました(1)
2022/10/23~
上野・御徒町
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展覧会 岡本太郎 に行ってきました(2)
2022/10/23~
上野・御徒町
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展覧会 岡本太郎 に行ってきました(3)
2022/10/23~
上野・御徒町
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展(2)パウル・クレー
2022/10/23~
上野・御徒町
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展(3)マティス、ジャコメッティ、ピカソ
2022/10/23~
上野・御徒町
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縄文―JOMON―展 “縄文王国”山梨の土器・土偶と写真家 小川忠博の縄文像(1)
2022/11/03~
甲府
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縄文―JOMON―展 “縄文王国”山梨の土器・土偶と写真家 小川忠博の縄文像(2)
2022/11/03~
甲府
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パリ・オペラ座~響き合う芸術の殿堂と京橋千疋屋でパフェ
2022/11/19~
丸の内・大手町・八重洲
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ヴァロットン ― 黒と白とTHE CAVE DE OYSTER
2022/11/19~
丸の内・大手町・八重洲
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2022.11 特別展「毒」へ行ってきました
2022/12/17~
上野・御徒町
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