kazekozoさんのクチコミ(262ページ)全6,871件
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投稿日 2015年02月17日
総合評価:3.0
両国橋東詰の南側を50?ほど下った「江戸の町」高札群の中に、由緒と来歴が書いてある。
「こまどめ」と言うくらいだから、馬をつなぎ止めた場所なのだろうと思っていたら、とんでもないかんちがい。
本所七不思議の一つ「片葉の葦」の舞台だ。
本所にお駒という美しい娘が住んでいた。
近所の留蔵という男が恋心を抱き、幾度も迫った。
お駒は一向になびかない。
留蔵は、外出したお駒を追った。
隅田川からの入り堀にかかる橋の近くでお駒を襲った。
留蔵は、片手片足を切り落として殺し、堀に投げ込んでしまった。
それ以降、堀の周囲に生い茂る葦は、片方だけの葉しかつけなくなった。
高札には、両国でも寂しい場所で、夜になると夜鷹がたむろし、客の袖を引いたとある。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
総合評価:2.0
両国小学校の西北の角、芥川龍之介の文学碑と隣り合わせになっている。
文学碑と軍事記念物、それに小学校……何とも言いようのない組み合わせ。
この駆逐艦は日露戦争で活躍。
退役後、両国の金物商にスクラップとして払い下げられて解体。
錨だけを残した。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
総合評価:2.0
北斎通りの亀沢二丁目信号の1本手前の筋を北に1分歩いたところに、案内板だけ立ある。。
マンションの片隅なので、見つけにくい。
河竹黙阿弥は、江戸から明治初期にかけ活躍した歌舞伎、狂言作者。
約360編の作品を残し1893年1月22日、76歳で死去。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
総合評価:2.0
両国・北斎通りの緑町公園にの一角に標識だけが残る。
幕末の洋学者で、伊豆・韮山の代官をつとめた江川太郎左衛門英龍(1801-55)の屋敷が、ここにあった。
我が国で初めて反射炉を作ったことで、歴史に名を残した。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
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投稿日 2015年02月17日
総合評価:2.0
両国橋の東詰を川沿いに南に50?ほど歩いたミニ広場に、墨田区が設けた「江戸の町」という高札が何本か立っている。
その一つが、「旧両国橋・広小路跡」の説明をしている。
それによると、旧両国橋はこの辺りに架かいました。
明暦3年(1657)の大火で、多数の死者を出したため、橋をつくり、、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼んだ。
交通の要衝となっただけでなく、橋のたもとには、火除け地としての広小路が設けられた。
西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並んだ。東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となった。
いまでは、その面影はまったくない。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月16日
総合評価:2.0
北斎通りの南側、緑町公園に、説明板だけが残っている。
津軽藩上屋敷は、8000坪の広さがあったという。
津軽藩上屋敷の表門は、京葉道路側で緑二丁目にあたった。
墨田区にあった大名の上屋敷はこの津軽藩と大川端の平戸新田藩、そして三ツ目之橋南の陸奥黒石藩の三つのみ。- 旅行時期
- 2015年02月
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投稿日 2015年02月16日
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投稿日 2015年02月16日
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投稿日 2015年02月16日
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投稿日 2015年02月16日
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投稿日 2015年02月16日
























