旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

hiroさんのトラベラーページ

hiroさんのクチコミ(5ページ)全474件

条件をクリア
エリア
カテゴリ
並び順

  • ホテル
  • ショッピング
  • グルメ・レストラン
  • 交通機関
  • 観光スポット
  • 基本情報
  • 近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています!

    投稿日 2021年12月05日

    築地本願寺 築地

    総合評価:4.5

    『築地本願寺』は、中央区築地3丁目の「晴海通り(都道304号)」と「新大橋通り(都道50号)」が交差する「築地四丁目」交差点東側の角地に位置する「浄土真宗本願寺派」の寺院であり、本尊として「阿弥陀如来」を祀っています。
    『築地本願寺』の創建については、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1617年(元和3年)に現在の京都市下京区に位置する山号が「龍谷山」と称する「浄土真宗本願寺派」の本山である「本願寺(西本願寺)」・第12世「准如上人」の発願により、当時の「江戸城」外濠に築かれていた「浅草御門」と呼ばれる桝形の城門「浅草見附」南側の横山町(現:日本橋横山町、東日本橋付近)に「本願寺(西本願寺)」別院として「浅草御堂」と称する堂宇を開基したのが始まりとされています。
    当時の「浅草御堂」は、江戸庶民から「江戸御坊」などと呼ばれるようになり信仰を集めていましたが、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」に数えられ江戸時代の中で最大の延焼面積および死者数におよんだ「明暦の大火」(通称:振袖火事)により「浅草御堂」を含め江戸府内の大半が焼失しています。
    この大火によって焼失した江戸府内の新たな区画整理を取りまとめた徳川幕府により「浅草御堂」の再建代替え地が当時の海上であった現在地に定められ、代替え地に新たな本堂を建立するために佃島の門徒が中心となって実施された埋め立て造成事業により築かれた土地が”築地”という寺院の名称および寺院周辺の地名の由来となり、1679年(延宝7年)に本堂が再建されています。
    また1923年(大正12年)の「関東大震災」が基で発生した火災により再び本堂を焼失し、1934年(昭和9年)に当時の「東京帝国大学(現:東京大学)」名誉教授かつ建築史家の「伊東忠太」博士の設計により現在の日本の伝統的な寺院建築様式と異なるインドなどのアジアの古代仏教建築を模した外観の本堂が再建されています。
    2014年(平成26年)になるとインドの古代仏教建築を主たる素材として外観を構成しながら内部を日本の伝統的意匠要素を中心に濃密で均整のとれた意匠にまとめられている寺院建築の傑作として”本堂”とあわせて”大谷石の石塀”ならびに”三門門柱(正門・北門・南門)”が国の「重要文化財」に指定されています。
    この現在の『築地本願寺』の本堂については、以前より書物などで関心をもっていた寺院のひとつであり、今回は平日の午後に「築地」エリアを訪れる機会があったので短時間でしたが初めて『築地本願寺』に立ち寄り参拝しました。
    『築地本願寺』境内に入り日本の伝統的な寺院建築様式と異なりオリエンタルな雰囲気が漂う特徴のある本堂の外観を眺めていると仏教が日本に伝来する以前のシルクロードを時空を超えて仏教のルーツである「古代インド」に遡るような近代的な鉄筋コンクリート造の建物でありながら不思議な感覚をおぼえました。
    そのほか本堂内部の参拝スペースに入ると側廊と列柱で囲まれた天井高の高い中央部分に参拝者用の椅子席が配置され、出入口部分の上部にパイプオルガンも設置されているなど、どことなく教会の礼拝堂をイメージする空間が広がっており、その天井部分には日本の伝統的な寺院建築様式である”折り上げ格天井”で構成されているなどインパクトのある独特な雰囲気の中で改めて神聖な気持ちとなり参拝することができました。
    今回は、午後3時半ごろに短時間での参拝でしたが本堂建物の見所も多く、機会があれば時間をかけて建物細部を見て廻りながら、また参拝に立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ日比谷線・築地駅1番出入口を出たところです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後3時半でしたが、参拝者は数名でした。
    バリアフリー:
    5.0
    エレベーター、手摺、スロープ、トイレほか対策が施されています。
    見ごたえ:
    5.0
    本堂建物の内外各所に見所も多く、近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています。

  • 緑豊かな樹木に囲まれた居心地のよい休憩場所としてお勧めできます!

    投稿日 2021年11月28日

    江戸川公園 目白

    総合評価:4.0

    『江戸川公園』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルの区間となる文京区関口2丁目に位置する文京区の親水緑地公園です。
    公園の名称については、江戸時代初期に「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで欠かすことのできない生活用水となる飲料水を確保するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」に加えて「善福寺池」から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」から発する「善福寺川」の水源を合流させて整備された「神田上水」の取水口に上水を取り込むために築かれていた「大洗堰」から下流におよそ2キロメートル下った区間(現在の神田川に架かる大滝橋付近から飯田橋付近まで)を流れる現在の「神田川」が江戸時代に「江戸川」と呼ばれていたことに由来します。
    『江戸川公園』が整備された時期については、1913年(大正2年)から実施された「神田川」護岸改修工事の完成に合わせて1919年(大正8年)に整備されており、「神田川」の治水事業に関して尽力した「大井玄洞」の功績をたたえて胸像が1928年(昭和3年)に『江戸川公園』敷地内に建立されています。
    また、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた江戸時代初期に築かれた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節するための「角落し」と呼ばれる設備であった板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)が「神田上水取水口」に関する遺構の一部として『江戸川公園』敷地内に移設されています。
    そのほか『江戸川公園』は、「江戸川橋」袂の広場から「神田川」に沿って西側に進むと敷地北側部分が武蔵野台地の東端にあたる「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台から南側の「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」に挟まれた傾斜地を活かした緑豊かな緑地に遊歩道が整備されており、時計塔のあるパーゴラ付きのベンチのほかにも各所にベンチが設置され、藤棚、傾斜地を活用した滑り台などの遊具施設もあり子供から高齢者まで幅広い年齢層が利用できる憩いの場となっています。
    以前にも「神田川」沿いの「神田川桜並木」を数回にわたり通行していますが『江戸川公園』を素通りおり、今回は「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に久しぶりに「神田川桜並木」を通り短時間でしたが『江戸川公園』敷地内の写真撮影をして廻り「大井玄洞翁の胸像」および「神田上水取水口の石柱」の存在を知ることができました。
    『江戸川公園』に立ち寄ったのが8月の昼過ぎでしたが、公園敷地内は都心であることを感じさせない緑豊かな樹木に囲まれ木陰が多く、各所にベンチが配置されており真夏の暑い日でも居心地のよい空間の休憩場所としてお勧めできます。
    『江戸川公園』のある「神田川」沿いは、桜の名所にもなっているので機会があれば桜の咲く時季にまた立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から江戸川橋を渡ったところです。
    景観:
    4.0
    神田川に沿って約500メートルにおよぶ文京区の親水緑地公園です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    局地的な豪雨の後で、パーゴラ付きのベンチに人がいる程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    敷地北側が武蔵野台地の東端にあたる目白台(関口台地)の傾斜地に遊歩道があります。

  • 短時間の滞在でしたが、リゾート気分を満喫できました!

    投稿日 2021年11月27日

    和歌山マリーナシティ 和歌山市

    総合評価:4.0

    『和歌山マリーナシティ』は、1994年(平成6年)に開催された体験型の地方博覧会「JAPAN EXPO 世界リゾート博(通称:リゾート博)」の会場として1989年(平成元年)から約6年間におよぶ造成工事により風光明媚な和歌山市毛見沖(和歌山湾)に浮かぶ49ヘクタールの人工島として開発されたエリアの名称となります。
    現在では、国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)として「わかやまマリーナシティ海の駅」の登録を受けている海に囲まれた「リゾートアイランド」として、ヨーロッパの街並みを再現するとともにアトラクション施設を完備したテーマパークの「ポルトヨーロッパ」(入場無料)を中心に生マグロの解体ショーを毎日開催するなど昭和レトロな商店街の雰囲気が漂う物販コーナーと飲食コーナーが集結した「黒潮市場」、海底およそ1,500メートルの1億年前の地層から湧き出た太古の源泉(泉質:ナトリウム-塩化物泉)を取り込み和歌山湾を一望できる天然温泉施設「紀州黒潮温泉」、全客室(99室)がオーシャンビューのリゾートホテル「和歌山マリーナシティホテル」の各種リゾート・レジャー施設のほかに「リゾートマンション」などで構成されています。
    『和歌山マリーナシティ』へのアクセスは、公共交通機関を利用すると「和歌山駅」または「和歌山市駅」から路線バスで約1時間前後、「海南駅」から路線バスで約20分前後となります。
    今回は、プライベートとして初めて和歌山県を訪れた際に紀の川市粉河から海を見て和歌山土産などショッピングをしたいという家族とともに半日を利用して『和歌山マリーナシティ』に立ち寄りました。
    『和歌山マリーナシティ』の中心施設となる「ポルトヨーロッパ」は、中世イタリアの地中海沿岸にある港街となる漁村をモチーフにしたコンパクトなテーマパークですが、ヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しており、アトラクション施設を利用しませんでしたが再現されたヨーロッパの街並みを写真撮影をしながら楽しむことができました。
    また「ポルトヨーロッパ」では、夜間にイルミネーションや花火などのイベントも開催されているので機会があれば、各種イベントにあわせて立ち寄りたいと感じました。
    そのほか「黒潮市場」に立ち寄り和歌山土産などのショッピングをしたり、昼の12時前でしたがランチで込み合う前に館内1階の昭和レトロな雰囲気のある商店街自慢の海鮮丼を購入し、海辺の飲食テラスで潮風を感じながら新鮮なネタが自慢の海鮮丼で少し早めのランチを楽しみました。
    「黒潮市場」では、館内1階で毎日12時30分から生マグロの解体ショーが開催されており、解体ショーの時間にあわせて「黒潮市場」に人か集まってくるので少し早めにゆったりとランチを済ませることができてよかったです。
    ランチ後は、「黒潮市場」に向ってくる人も増えてくるので生マグロの解体ショーを見るのをやめて「ポルトヨーロッパ」からヨットなどが停泊する”マリーナエリア”に移動し、「和歌山マリーナシティホテル」1階カフェ「カテリーナ」のガーデンテラスで海外にいるようなリゾート気分をゆったりと満喫することができました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    和歌山駅から路線バスで約1時間前後です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”は入場無料です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日に立ち寄りましたが、昼頃から人出が増えてきました。
    施設の快適度:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”はコンパクトな施設ですがヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しています。

  • 現在の中央区京橋1丁目で始まったとされる”江戸歌舞伎”の記念石碑です!

    投稿日 2021年11月17日

    江戸歌舞伎発祥の地 日本橋

    総合評価:3.5

    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑は、1957年(昭和32年)にかつて運河として江戸時代に開削されていた約600メートルの「京橋川」に架けられていた「京橋」の北西側橋詰(現:東京高速道路会社線(通称:KK線)高架下)部分となる現在の中央区京橋3丁目に位置する「京橋大根河岸おもてなしの庭」の一画に建立されています。
    ちなみに『歌舞伎』は、「本能寺の変」が起こる前年の1581年(天正9年)ごろから文献に残されている幼女(ややこ)による小歌踊りの芸能「ややこ踊り」を基にして、「出雲大社」に仕える巫女であったとされる「出雲阿国」が「出雲大社」勧進のため諸国を巡回していた際に「かぶき踊り」を創始し、「徳川家康」が征夷大将軍として徳川幕府を開いた1603年(慶長8年)に京都の「北野神社」で当時の都市部で流行していた世間の常識はお構いなしの奇抜な扮装に傾く「かぶき者」をまねた装いで「かぶき踊り」を演じたのが始りとされており、「かぶき者」の奇抜な扮装に傾く”傾(かぶ)く”が『歌舞伎』の語源となっています。
    また、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1624年(寛永元年)になると道化方として滑稽なしぐさの演技「猿若」の名手であった「猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)」が現在の「日本橋」と「京橋」をつなぐ「中央通り(国道15号)」と「八重洲通り(都道408号)」が交差する「日本橋三丁目」交差点南側の中央区京橋1丁目あたりとなる当時の堀割に架けられていた「中橋」の南地に「猿若座(後の中村座)」の櫓をあげたのが『江戸歌舞伎』の始まりとされています。
    その後の1629年(寛永6年)になると『女歌舞伎』は風紀を乱すとの理由で禁止となり、その後に男性役者のみによる”芝居・踊り・邦楽”で構成された現在の『歌舞伎』が確立されています。
    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑については、テレビの街歩き番組などでよく紹介されたりするので以前より存在することを知っていましたが、今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑に立ち寄り写真撮影をしてみました。
    この記念石碑中央に刻み込まれている”江戸歌舞伎発祥之地”の文字は、徳川幕府・第10代将軍「徳川家治」の時代である1779年(安永8年)に「九代目・中村勘三郎」より「中村座」の表看板や番付などの揮毫の依頼を受けた書道指南「岡崎屋勘六(雅号:勘亭)」が徳川幕府制定の公用書体であり手習いの手本として江戸庶民にも広く普及していた「御家流」の書体に装飾など工夫を加えて考案した「勘亭流」と呼ばれる書体であり、この書体が評判となり歌舞伎文字として現在に至っています。
    「勘亭流」の特徴は、筆太で隙間なく内へ丸く曲げるように書くことで”空席が無く客を内へ内へと呼び込むことで興行の無事円満を祈る”という意味が込めれれています。
    記念石碑両端部分には、歌舞伎役者の姿がレリーフで描かれており、それぞれのレリーフ下部に刻まれている説明文が日本語と英語の2種類あるのをみて、建立当初から国の「重要無形文化財」でありユネスコの「無形文化遺産」でもある『歌舞伎』が日本固有の伝統芸能のひとつとして世界に向けてアピールしていたことを実感しました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅3番出入口から約120メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    目立つものは特にありません。

  • 明治天皇がこの地に立ち寄ったことを示す記念石碑が立っています!

    投稿日 2021年11月03日

    明治天皇野立所跡 池袋

    総合評価:3.0

    『明治天皇野立所跡』は、ターミナル駅(JR東日本・西武鉄道・東武鉄道・東京メトロ)である「池袋駅」中央地下道と繋がる「東口(中央)」出入口前からロータリー状となっている「明治通り(都道305号)」と豊島区の「グリーン大通り(特別区道41-21)」からなるT字型の「池袋駅東口」交差点から正面の南東(護国寺)方向に延びる池袋東口のメインストリートとなる「グリーン大通り」を真っすぐ約300メートルほど先の信号機のある「南池袋公園前」交差点(左手側)の「グリーン大通り」に面した豊島区東池袋1丁目に位置する21階建てオフィスビルとして2011年(平成23年)に竣工した現在の「ニッセイ池袋ビル」裏手敷地内の一画に建てられている記念石碑によって跡地であることが示されています。
    この「御野立所」とは、高貴な方が移動中に野外で休憩する場所を意味し、明治時代以降に天皇が全国各地を行幸するようになってから各地の「御野立所」で記念碑が建てられるようになり、この場所にある記念石碑もその中のひとつに数えられます。
    記念石碑とともに石板に彫り込まれた案内文があり文章を読み取れない部分もありますが、1875年(明治8年)に「明治天皇」が「近衛兵」の演習を観閲をするため板橋方面に出向いた際にこの地で休憩されたようです。ちなみに「近衛兵」は、明治維新の際に設置された御親兵と呼ばれた天皇の護衛兵であります。
    『明治天皇野立所跡』のある現在の東池袋から南池袋一帯は、江戸時代に旗本三千石・中西公の拝領地であり大半が北豊島郡雑司ヶ谷村に属しその地名の通り雑木林に覆われている「中西の森」と呼ばれる丘陵地帯となっており、明治時代後半に東武鉄道など国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった「根津嘉一郎」がこの一帯の土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになり、雑木林に覆われた丘陵地帯は太平洋戦争が終結するまで残されています。
    この東池袋エリアは今までにも幾度となく立ち寄っていますが、今回初めて『明治天皇野立所跡』記念石碑の存在に気付きしました。
    現在では、「明治天皇」が休憩した当時の面影を感じることはできませんが、記念石碑の存在を知り色々と調べることで「明治天皇」がこの地に立ち寄った当時に「中西の森」と呼ばれる雑木林が「根津山」と呼ばれるようになり太平洋戦争が終結するまで雑木林が残されていたことを学び楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅・東口(中央)出入口前からグリーン大通りを真っすぐ約300メートルほど先の交差点(南池袋公園前)を左折してすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって記念石碑を見ている人は殆どいません。
    バリアフリー:
    3.0
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    2.5
    目立つものは特にありません。

  • 建設当時の最先端技術を駆使して1940年(昭和15年)に完成した双葉跳開橋です!

    投稿日 2021年10月30日

    勝鬨橋 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『勝鬨橋』は、紀元前660年に「神武天皇」が初代天皇として即位してから数えて2600年の節目となる1940年(昭和15年)にアジアで初めて開催される予定であった「第12回 オリンピック競技大会」(東京オリンピック)とともに同じくアジアで初めて開催される予定であった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」(東京万博)のメイン会場となる当時の東京市月島4号埋立地(現:晴海エリア)へ通じるメインゲートとして現在の「晴海通り」(都道304号)の「築地六丁目」交差点(中央区築地6丁目)から「月島第二幼少前」交差点(中央区勝どき1丁目)の区間を流れる「隅田川」河口に建設された橋梁です。
    ちなみに「第12回 オリンピック競技大会」および「紀元2600年記念 日本万国博覧会」は、「日中戦争(支那事変)」突入をきっかけに当時の軍部からの開催反対意見が強まり開催が中止となっています。
    『勝鬨橋』の概要については、橋の両端部分を「タイドアーチ橋」(支間長:86メートル)と呼ばれる固定構造として、橋の中央部分が「隅田川」を航行する船舶が橋下を通航する際に橋桁が”ハの字型”となるように両側に跳ね上げる「双葉跳開橋」(可動支間長:51.6メートル、可動部跳開全開角度:70度)と呼ばれる可動構造で構成される全長が246メートル(幅員:22メートル)、橋梁総重量8,480トン、橋台・橋脚部分が鉄筋コンクリート造となっています。
    また国家的イベントの開催に向けた主要関連施設であった『勝鬨橋』は、日本の技術力を誇示するための建設プロジェクトであり、欧米からの技術者が参画することなく計画が進められ日本人技術者による設計・施工のもと当時の最先端技術を駆使して1933年(昭和8年)の工事着工から「日中戦争」突入など時代が急変し労働力不足および資材調達が困難となる中で約7年間の歳月をかけて1940年(昭和15年)に完成しています。
    『勝鬨橋』の完成当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており1日に5回の跳開が実施されていますが、船舶の通航量が減少するとともに道路交通量が著しく増大する時代の流れの中で跳開回数も減少し1970年(昭和45年)に跳開を停止しています。
    2007年(平成19年)になると国内の橋梁技術史上価値の高い橋梁であると評価され道路橋としては初となる国の「重要文化財(建造物)」に「隅田川」に架かる「清洲橋」・「永代橋」とともに『勝鬨橋』が指定されています。
    さらに2007年(平成19年)になると跳開部分の機械設備が歴史的景観を構成する設備として機械技術面で歴史的意義があるとして日本の工学関係最初の学会となる「日本機械学会」により『勝鬨橋』が「機械遺産」に認定されています。
    今回は、平日の午後に「築地」エリアを訪れた際に少し時間に余裕があったので久しぶりに『勝鬨橋』を写真撮影をしながら徒歩でわたり、幅員22メートル・長さ25.8メートルの路盤を跳開していた当時の様子を想像しながら改めて技術力の高さを実感するとともに完成してから跳開を停止するまでの約30年間で跳開に関する事故が1度も発生していないことにも驚きを感じました。
    そのほか築地側の橋のたもとにかつての変電所を改装して2005年(平成17年)にオープンした「かちどき橋の資料館」があることを初めて知りましたが、ちょうど閉館日で入館できなかったのが残念でした。
    「かちどき橋の資料館」では、定期的に橋梁設備の橋脚内見学ツアーが実施されているとのことなので、機会があれば見学ツアーにも参加しながら資料館に入館してみたいと思います。
    さらに1998年(平成10年)から実施されている『勝鬨橋』の夜間ライトアップの景観も写真撮影してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    最寄り駅は、都営地下鉄大江戸線・勝どき駅(勝どき側)または東京メトロ日比谷線・築地駅(築地側)となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に徒歩で橋をわたりましたが、歩行者・自転車の通行は少ないですが途切れることはありませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    歩道は、石貼舗装で整備されており段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    建設当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており、国の重要文化財(建造物)に指定されています。

  • 大村益次郎銅像は、高さ12メートルの国内初となる西洋式銅像です!

    投稿日 2021年10月24日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『大村益次郎銅像』は、1893年(明治26年)に制作された高さ12メートル(台座を含む)の国内初となる西洋式銅像であり、千代田区九段北2丁目に位置する「靖國神社」境内の「第一鳥居(大鳥居)」と「第二鳥居」の中間にあたる参道中央に建立されています。
    そのほか現在では「皇居外苑」にある1897年(明治30年)に制作された「楠木正成銅像」ならびに「上野恩賜公園」にある1898年(明治31年)に制作された「西郷隆盛銅像」とともに「東京三大銅像」のひとつに数えられています。
    ちなみに『大村益次郎』は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1825年(文政8年)に長州藩の村医の長男として誕生したのち蘭学および医学を学び村医として開業にたものの、時代が急速に幕末の動乱期へと向かう中で医師から蘭学者として伊予宇和島藩に出仕して、蘭学などの講義および西洋兵学などの洋書の翻訳を手がけ、1856年(安政3年)に江戸におもむき私塾の「鳩居堂」を開塾したほか宇和島藩御雇として徳川幕府直轄の洋学研究教育機関となる「蕃書調所」教授方手伝をしていた際に長州藩「桂 小五郎」との出会いがきっかけとなり1860年(万延元年)に長州藩士となっています。
    その後の1866年(慶応2年)に徳川幕府による「第二次 長州征伐」では、長州藩の参謀として石州口(日本海側)の指揮をとり徳川幕府軍に圧勝したほか「大政奉還」後の1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「戊辰戦争」では「新政府軍」の軍事指導者として「上野の彰義隊の戦い」を1日で終結させるなど明治政府における近代的軍隊の基礎を作り「近代日本兵制の父」、「日本陸軍の父」と称されています。
    また「戊辰戦争」により新政府軍戦没者を慰霊するための「招魂社(現:靖國神社)」創建のあたっては建設候補地の選定に加わり、1869年(明治2年)に「招魂社」が創建されていますが、その約2か月後に刺客に襲われ重傷を負った際の傷が原因で「招魂社」が創建されてから約4か月後に逝去しています。
    1882年(明治15年)に執り行われた『大村益次郎』慰霊祭の席で銅像建立案が持ち上がり、「靖國神社(旧:招魂社)」建設地選定に関わっていたことなどから現在の場所に建立されています。
    筒袖羽織に短袴(乗馬などで丈を短くした袴)を着け左手に双眼鏡を持った『大村益次郎銅像』は、「上野の彰義隊の戦い」の際に「江戸城富士見櫓」から上野に立て籠る「彰義隊」を凝視する姿とされ、台座の文章(漢文)は「三條實美」による顕彰文となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて「靖國神社」を参拝しようと思い、以前より「東京三大銅像」のひとつに数えられている『大村益次郎銅像』も気になっていたので正面の「第一鳥居」から境内に入りました。
    幅の広い参道の中央に高さ12メートルの『大村益次郎銅像』は存在感がありますが、4段に積み上げられた御影石および円柱型の顕彰文が書き込まれた高さのある台座の上に直立姿像があり、肉眼で見上げると表情など細部がよく見えなかったのが残念です。
    『大村益次郎銅像』除幕式の日程も制作工程の見直しなどで幾度も延期されていたようで、従来の鋳造方法および設備では技術的に難しい部分や問題などもあっただろうと想像しながら写真撮影をしてみました。
    国内初の巨大な西洋式銅像の制作にあたっては、細部にもいろいろなこだわりがあったと思います。
    機会があれば、しっかりした望遠カメラを準備して「靖國神社」をまた参拝し『大村益次郎銅像』を写真撮影してようと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝される方のまばらでしたが、ほとんどの方が銅像の前で立ち止まっていました。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    国内初となる西洋式銅像であり、東京三大銅像のひとつに数えられています。

  • 江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です!

    投稿日 2021年10月23日

    神田上水取水口の石柱 目白

    総合評価:3.5

    『神田上水取水口の石柱』は、文京区関口2丁目に位置する荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」敷地内の一画(「大滝橋」と「一休橋」の中間付近)に残されている江戸時代に生活用水となる飲料水を供給するための上水道であった「神田上水取水口」の遺構です。
    ちなみに「神田上水」は、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸入府した際の「江戸城」南側周辺に「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がるエリアが存在しており、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であることから「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで重要課題であった生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として現在の神田・日本橋エリアへ「神田上水取水口」から「自然流下方式」と呼ばれる高低差を利用した開渠部分の開削水路と暗渠(地中埋設)部分となる配水管の役割をする木樋などを用いて供給する設備として整備が始り徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)ごろに整備が完了しています。
    「神田上水取水口」については、武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)から発する「神田川」の流れに補助水源として「善福寺池」(現:善福寺公園)から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」(現:妙正寺公園)から発する「善福寺川」の流れが「神田川」と合流したところで現在の「神田川」に架かる「大滝橋」付近に取水口が設けられており、ここで「神田川」の水位を上げるための「大洗堰」を築き上水を取水口に導いています。
    また「江戸川公園」敷地内に残されている『神田上水取水口の石柱』は、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節する設備であった「角落し」と呼ばれる板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)となります。
    また「大洗堰」については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1810年(文化7年)から1830年(文政13年)に編纂された「新編武蔵風土記稿・16巻(豊島郡8)」の中で”石造り、長さ10間(約18メートル)、幅7間(約12.6メートル)、取水口8尺(約2.42メートル)余、側に水番人の小屋あり”と紹介されているほかに、同じく徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で「大洗堰」全景が「目白下大洗堰」として堰からの流水が大滝のように流れ落ちる様子を描いた絵が紹介されています。
    そのほか『神田上水取水口の石柱』までのアクセスは、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から約400メートル(徒歩5分程度)となります。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」および「江戸川公園」に立ち寄り、遺構である『神田上水取水口の石柱』および「神田川」などを写真撮影してみました。
    現在の「神田川」は、川底が深く両岸をコンクリート製護岸で築かれているため「江戸名所図会・4巻(12冊)」で紹介されている「大洗堰」をイメージすることができませんでしたが、『神田上水取水口の石柱』の遺構は江戸時代初期より重要な取水口として江戸府内に生活用水を供給していた当時の様子をイメージすることができました。
    『神田上水取水口の石柱』のある「江戸川公園」周辺は緑豊かな居心地のよいエリアで周辺を散策して廻ったり、休憩場所としてお勧めできます。
    このエリアの「神田川」沿いは桜の名所となっているので、機会があれば桜の咲く季節にまた周辺を散策して廻りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    訪れた際は、立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    遺構の廻りは舗装されていません。
    見ごたえ:
    3.5
    江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です。

  • ”中国割烹旅館 掬水亭”の6階展望レストラン(天外天)は、レイクビュースポットとしてお勧めできます!

    投稿日 2021年10月18日

    多摩湖 東久留米・清瀬

    総合評価:4.0

    『多摩湖』は、東京都東大和市・東村山市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町および埼玉県所沢市・入間市の都心近郊の5市・1町に跨る総面積およそ3,500ヘクタール(東西方向:約11キロメートル、南北方向:約4キロメートル)にもおよぶ緩やかな起伏のある広大な雑木林エリアが残されている「狭山丘陵」の東大和市に位置する東京都の「上水道用水源池」として荒川水系の一級河川「柳瀬川」の支流となる「北川」を最も古典的な盛り土によって堰堤を築いて堰き止める「アースダム」と呼ばれる型式を採用し多摩川の水源を「羽村取水堰」から取り込み導水管を用いて『多摩湖』に導く方式により整備された人造湖「村山貯水池」の通称です。
    『多摩湖』建設の経緯は、明治維新後に急速に進む近代化の中で首都東京の近代水道整備が急務とされていた中で、江戸時代に整備されていた多摩川の水源を導く「玉川上水」を1898年(明治31年)に当時としては画期的な規模の”沈でん・ろ過”施設となる「淀橋浄水場」を完成させたものの旧東京市の人口増加に対応するためのさらなる水源確保の必要性が求められており、明治時代末期に新たな貯水池建設の検討が行われ「大久野貯水池案(現:西多摩郡日の出町)」および「村山貯水池案」の中から地形が良好かつ低コストで建設可能な点から「村山貯水池案」が採用されています。
    『多摩湖』の概要は、2段に分割して建設されており西側(上流側)の多摩湖6丁目に位置する部分(堤頂長318.2メートル・有効貯水量2,983千立方メートル)が1924年(大正13年)に完成、東側(下流側)の多摩湖4丁目に位置する部分(堤頂長610メートル・有効貯水量11,843千立方メートル)が1927年(昭和2年)に完成しています。
    ちなみに1934年(昭和9年)には、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する部分に「山口貯水池(通称:狭山湖)」(『多摩湖』と同様に東京都の「上水道用水源池」、堤頂長716メートル・有効貯水量19,528千立方メートル)が完成しており、「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた『多摩湖』および「狭山湖」周辺エリアが太平洋戦争開戦前から観光地となっています。
    そのほか「村山・山口貯水池」として1985年(昭和60年)に近代水道施設の整備が開始されてから百周年を記念して企画された「近代水道百選」(日本水道新聞社)に選定、2005年(平成17年)に『多摩湖』が地域に親しまれ地域にとってかけがえのないダム湖として「ダム湖百選」(ダム水源地環境整備センター)に選定、2007年(平成19年)に「村山・山口貯水池」が水道「アースダム」として当時最大規模であり取水塔と管理橋など親水景観として優れているとして「土木学会選奨土木遺産」(土木学会)に選奨、2008年(平成20年)に「村山下貯水池 第一取水塔」が特徴あるデザインのドーム屋根などが取水池のシンボルとして「東京都選定歴史的建造物」(東京都)に選定、さらに2017年(平成29年)に「多摩湖にのぼる月」が静謐な湖上にのぼる月明かりが水面を神秘的に照らし”道路・遠方の街・月”の明かりが競演した夜景が望めるとして「日本百名月」(夜景観光コンベンション・ビューロー)に認定されています。
    今回は、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する「中国割烹旅館 掬水亭」に宿泊して客室や6階「レストラン 天外天」の窓から「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた眼下に広がる『多摩湖』の眺望を満喫しました。
    宿泊した日はあいにくの雨でしたが、「中国割烹旅館 掬水亭」の周囲に高層建築などの景色を遮るものが無く眼下に広がる『多摩湖』と雑木林がどこまでも続く「狭山丘陵」の景色は都心からの近郊でありながら外国のリゾート地にいるような気分になり癒されました。
    天気のよい冬の季節は、富士山も望むことができるそうなので機会があれば、天気のよい日に「中国割烹旅館 掬水亭」の宿泊や6階「レストラン 天外天」での食事をして『多摩湖』の眺望を堪能したいと思います。
    また「レストラン 天外天」は、食事のみで利用できるのでレイクビュースポットとしてお勧めできます。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    ”中国割烹旅館 掬水亭”は、西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    景観:
    4.0
    6階展望レストラン(天外天)からの多摩湖と狭山丘陵の景色は 外国のリゾート地にいるような気分になり癒されます。
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    6階展望レストラン(天外天)の窓際席は、段差があります。

  • 旧東京市深川食堂として国登録有形文化財(建造物)である昭和初期のモダンな建物です!

    投稿日 2021年10月16日

    深川東京モダン館 門前仲町

    総合評価:4.0

    『深川東京モダン館』は、江東区の観光と文化の拠点として2009年(平成21年)に「旧東京市深川食堂」(鉄筋コンクリート構造2階建て)の建物をリノベーションしてオープンした「江東区観光協会」の施設であり、1階部分が江東区内の街歩きに関する情報の紹介および江東区に関連する近現代史の展示さらに街歩きの際の休憩の場として100円コーヒーの販売などをする「観光案内スペース」、2階部分にイベントやミーティングなどでレンタル利用可能な「多目的スペース」と「会議室」が配置されています。
    ちなみに「旧東京市深川食堂」は、大正時代の物価の高騰により庶民の暮らしが苦しくなった時代に当時の東京市が社会事業施策の一環として低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設「旧東京市営食堂」であり、1920年(大正9年)から旧東京市内の各所に順次設置を開始して最終的に全体で16か所に及んだ「旧東京市営食堂」の内のひとつに数えられています。
    その「旧東京市深川食堂」が建設されたのが1932年(昭和7年)であり、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」の復興事業の一環として当時の最先端技術であった鉄筋コンクリート構造が採用されています。
    その後の太平洋戦争時の「東京大空襲」で一部被災したものの全焼を免れ、終戦後に部分的な修繕が行われたのちに東京都の「職業斡旋施設」となり幾度かの名称変更を経て1979年(昭和54年)になると東京都から江東区に移管され「江東区内職補導所」となっています。
    2006年(平成18年)に建物を一時閉鎖して耐震補強などの改修工事が実施され、2008年(平成20年)になると「関東大震災」後の震災復興事業で建設された当時の構造技術および建築デザインを伝える数少ない現存する近代建造物として国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されています。
    『深川東京モダン館』へのアクセスは、東京メトロ・東西線および都営地下鉄・大江戸線「門前仲町駅」6番出入口となる「赤札堂 深川店」前にある横断歩道で「清澄通り(都道463号)」を渡って直ぐ、徒歩3分程度(およそ150メートル)となる江東区門前仲町1丁目に位置します。
    今回は、休日の午前中に「門前仲町」周辺エリアを訪れた際に初めて短時間でしたが『深川東京モダン館』立ち寄り1階部分の「観光案内スペース」を見て廻りました。
    『深川東京モダン館』は、「門前仲町駅」からすぐ近くにあるので江戸情緒が残り粋な東京の下町でもある「門前仲町」エリアを散策して廻る際の情報収集や休憩場所とあわせて建築に興味のある方には建築面積が168平方メートルと小規模ですが昭和初期のモダンな建物である外壁部分のアクセントとなる丸窓および屋内階段の吹き抜け部分垂直方向に配置されている連続窓さらに2階部分の水平方向にも連続窓が設けられているなど時代の古さを感じさせない外観デザインおよび南西側のエントランスホールから屋内階段廻りの建設当時の面影が残る館内を見て廻るのも楽しめると思いますのでお勧めできます。(屋内階段に使用されているモザイクタイルは建設当時のものです。)
    機会があれば、「多目的スペース」で開催されるイベントなどで今回見て廻らなかった2階や2階へつながる吹き抜けの屋内階段廻りもじっくりと見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    門前仲町駅6番出入口となる赤札堂深川店前から徒歩3分程度(およそ150メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    休日の午前中でしたが人はほとんどいませんでした。
    展示内容:
    4.0
    深川エリアの古地図なども掲示されていて現在の街並みと比較して楽しめました。
    バリアフリー:
    3.5
    エントランスに数段の段差がありました。

  • 風情ある路地の急坂としてちょっとした観光スポットになっています!

    投稿日 2021年10月15日

    胸突坂 目白

    総合評価:4.0

    『胸突坂』は、北側の東西方向に通る「目白通り(都道8号)」と南側の同じく東西方向に流れる荒川水系の一級河川「神田川」の間を南北にをつなぐ文京区関口2丁目(東側)と文京区目白台1丁目(西側)の境界部分を通る道路の「神田川」寄り(南側)に位置する急坂の名称であり、最寄り駅の東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から『胸突坂』までは約900メートル(徒歩11分程度)となります。
    この急坂の概要については、約16度の急傾斜さらに約29%の急勾配からなる全長がおよそ65メートルの歩行者専用坂道として階段状になっています。
    ちなみに『胸突坂』は、江戸時代に”坂がけわしく自分の胸を突くようにしなげれば上れない”と例えられた急坂によく用いられている名称であり、この階段状からなる急坂のほかに現在の文京区内だけでも本郷5丁目にある自動車通行可能な道路の急坂(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「春日駅」)および西方2丁目と白山1丁目の境界部分にある自動車通行可能な道路(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「白山駅」)の急坂においても『胸突坂』の名称が用いられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」左岸側(北側)に位置する「江戸川公園」および「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」を通り、「神田川」に架かる「駒塚橋」部分を左折(北側)して『胸突坂』を上り「目白通り」まで行きました。
    この『胸突坂』のあるエリアは、江戸時代初期に「江戸城」周辺に生活用水(上水)を供給するための国内初となる本格的な上水道設備として「神田上水 取水口」(大洗堰)が現在の「神田川」に存在していた場所であり、江戸時代を代表する俳人「松尾芭蕉」が2度目の江戸入りとなったのちの徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの3年間にわたり「神田上水改修工事」に携わっており、現場から近い『胸突坂』の東側に位置する現在の「関口芭蕉庵」の地に滞在していたと伝えられています。
    また『胸突坂』の西側には、幕末に「肥後熊本藩 細川家下屋敷」となっていた現在の文京区立公園となる「肥後細川庭園」および創建時期が不詳ですが「神田上水 取水口」の守護神として祀られてきたとされる「水神社」が存在するなど緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂としてドラマやアニメにも登場するなどしており、平日の昼過ぎに自分が『胸突坂』を通った際にはこの周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違い『胸突坂』がちょっとした観光スポットになっていることを実感しました。
    機会があれば「神田川」沿いの「神田川桜並木」の通りは、桜の名所になっているので桜の咲くころにこの周辺エリアを散策しながらまた『胸突坂』を歩いてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から約900メートル(徒歩11分程度)です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    平日の昼過ぎでしたが、この周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違いました。
    バリアフリー:
    3.5
    階段状の通り中央に手摺が設置されています。
    見ごたえ:
    4.0
    緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂です。

  • 仏教の守護神とされる毘沙門天を祀る神社です!

    投稿日 2021年10月10日

    三宿神社 三軒茶屋・駒沢

    総合評価:3.5

    『三宿神社』の創建は不詳とされていますが、かつて現在の世田谷区三宿2丁目に存在していた「多聞寺」(本尊:毘沙門天)が明治初期に発生した「廃仏毀釈」の影響を受けて廃寺となり、その境内の一部跡地に残された「毘沙門堂」を本殿として転用するとともに1885年(明治18年)に本殿の前面に拝殿を建立して廃寺から『三宿神社』と称する神社になっています。
    ちなみに「多聞寺」が廃寺となるきっかけとなった「廃仏毀釈」は、1867年(慶応3年)の「大政奉還」により成立した新政府の神道と仏教の分離する目的として1868年(慶応4年)に公布された「太政官布告(通称:神仏分離令)」および1870年(明治3年)に神道を国教と定める詔書「大教宣布」が公布された政策を拡大解釈することで仏教文化の破壊活動などに発展した総称となります。
    『三宿神社』の御祭神については、当時の東京府に神社として申請する際の申請書に御祭神を「毘沙門天」と記載して提出されていますが、「毘沙門天(多聞天の別名)」が仏教における守護神であり東南西北の四方を守る天部の仏神として「四天王」(東:持国天、南:増長天、西:広目天、北:多聞天)の一尊に数えられる武神であるため許可が下りず、祭神を神道における「八百万の神」であり「日本神話」に登場する「大物主神」に訂正されていますが、本殿には廃寺となった「旧・多聞寺」の本尊でもあった「毘沙門天(木像)」が安置され、その後に詳細不明ですが「旧・多聞寺」のころから境内にあったとされる稲荷社の「宇迦能御魂命」が御祭神として合祀されています。
    昭和時代になると太平洋戦争時の空襲により「毘沙門天(木像)」は被災を免れたものの本殿および拝殿が焼失しており、1949年(昭和24年)に郊外にあった「元・軍需工場」の社殿を譲り受けて本殿が再建され、1967年(昭和42年)に拝殿が建立されています。
    今回は、「三宿」周辺エリアを訪れ「烏山川緑道」沿いを歩いていた際に『三宿神社』参道の大鳥居の前に『三宿神社』と並んで「毘沙門天」と彫り込まれた石碑に目が止まり、神社なのに「毘沙門天」となっていることが気になり参拝してみました。
    境内には9メートル程度の高低差があり大鳥居をくぐり数段の石段を上りながら二の鳥居をくぐると右手の「神楽殿」(建立など詳細不明)があり、さらに急な石段を上った際頂部に拝殿があり、拝殿の左手に稲荷社また拝殿の裏手に本殿が配置されています。
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内には特に見どころとなるものはなく境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度の住宅地の中にある緑に囲まれた憩いの場として地元に根付いた神社といった印象でしたが、神社に仏教の守護神とされる「毘沙門天」が祀られている理由などを調べたりして楽しむことができました。
    『三宿神社』へのアクセスは、東急田園都市線「池尻大橋駅」西口出入口から西側に徒歩14分程度(約1キロメートル)となる世田谷区三宿2丁目の「烏山川緑道」沿いとなります。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東急田園都市線・池尻大橋駅西口出入口から西側に徒歩14分程度の烏山川緑道沿いです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    境内には9メートル程度の高低差があり拝殿までは急な石段があります。
    見ごたえ:
    3.0
    境内に特に目立つものはありません。

  • 靖國神社の祭神として祀られている御霊を慰めるための常夜灯として建造された灯籠です!

    投稿日 2021年10月09日

    高燈篭 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『高燈篭』は、下層部分の基礎・竿を和風様式を用いて上層部分の中台・火袋・笠を洋風様式として頂部に方位盤および風見が取り付けられている擬洋風建造物の印象をかもした高さ16.8メートルの灯籠であり、東京メトロ・東西線または半蔵門線あるいは都営地下鉄・新宿線の「九段下駅」2番出入口から約160メートル(徒歩3分程度)となる「靖国通り(都道302号)」の「九段坂」を西側方面に上り「北の丸公園」の北側出入口にあたる「田安門」交差点(早稲田通りとの分岐点となるT字型交差点)付近の千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    元々この『高燈篭』は、1871年(明治4年)に「靖国通り」をはさんで反対側となる現在の千代田区九段北3丁目に位置する「靖國神社」の正面参道出入口部分に建造されていました。
    ちなみに「靖國神社」の創建と『高燈篭』が建造された経緯については、「明治天皇」の勅令により明治維新の1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)までの混乱期に国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」によって、尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を祭神として祀る「招魂社」として1869年(明治2年)に創建したのが始まりとされ、祭神として祀られている御霊を慰めるための「常夜灯」として1871年(明治4年)に『高燈篭』が奉納されています。
    また「九段坂」の坂上部分は、江戸時代より月見の名所として知られる見晴らしのよい高台であり、『高燈篭』が建造された当時には東京湾から「常夜灯」の灯りが確認できており、品川沖を出入りする船の目印となる灯台としての役割も果たしています。
    その後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により壊滅状態となった東京の街並みを近代的な都市整備を基盤とする「帝都復興計画」に基づき1930年(昭和5年)に実施された「大正通り(現:靖国通り)」道路拡幅工事に伴い、道路幅員の拡幅とあわせて江戸時代より急坂で知られていた「九段坂」の勾配を緩やかに整備するとともに『高燈篭』が現在地に移設されています。
    今回は「市ヶ谷」周辺を訪れる機会があり少し時間に余裕があったため、「靖國神社」の参拝ならびにその周辺エリアの散策をしてみようと思い「九段坂公園」敷地内に設置されている『高燈篭』に立ち寄りました。
    この『高燈篭』を実際に見てみると現在では周囲の建物の方が高くそれほど高層建造物と感じることはありませんが、東京の街が江戸から近代都市へと移り変わる時代の出来事など歴史とあわせて『高燈篭』が建造された当時に高層の建物が存在しなかった高台の見晴らしのよいスポットの新しい東京の街を代表するランドマーク的な存在感のある擬洋風建造物であったことを想像しながら楽しむことができました。
    『高燈篭』のある周辺は「千鳥ヶ淵」などの桜の名所でもあるので、機会があれば桜の咲く季節にまた立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装のスロープや段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    1871年(明治4年)に建造された高さ16.8メートルの擬洋風建造物です。

  • 多摩湖と緑豊かな狭山丘陵の森林が広がる眺望は外国のリゾート地にいるような気分になり癒されました!

    投稿日 2021年10月02日

    中国割烹旅館 掬水亭 所沢

    総合評価:4.5

    『中国割烹旅館 掬水亭』は、「狭山丘陵」と呼ばれる森林と一体となり首都・東京の水源確保として1927年(昭和2年)に完成した人造湖「村山貯水池(通称:多摩湖)」と同じく1934年(昭和9年)に完成した「山口貯水池(通称:狭山湖)」が配置されている緑豊かな里山の自然に囲まれた景観が広がるエリアの「多摩湖」のほとり所沢市山口に位置する上海料理をベースにした本格中国料理を提供するレストラン・宴会場施設と日帰り入浴可能な大浴場施設を備えた客室総数21室の宿泊施設で構成される「西武鉄道」が所有する建物施設であり、運営をグループ会社となる「西武園ゆうえんち(旧・豊島園)」がおこなっています。
    ちなみに「狭山丘陵」は、埼玉県所沢市・入間市と東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町の5市・1町に広がる総面積およそ3,500ヘクタール(東西方向:約11キロメートル、南北方向:約4キロメートル)にもおよぶ広大な規模を有するエリアであり、1947年(昭和22年)から「西武鉄道」が観光開発に乗り出して現在では『掬水亭』のほかに「西武園ゆうえんち」、「西武園競輪場」、「ゆり園(旧:ユネスコ村)」、「狭山スキー場(屋内型の人工スキー場)」、「西武園プール」、「西武園ゴルフ場」、「西武ドーム」などの施設が開設されています。
    そのほか『掬水亭』の創業は、1957年(昭和32年)に『旅館 掬水亭』として開業したのが始まりですが、1987年(昭和62年)に火災により焼失しており、現在の地上6階・地下1階建ての建物は1990年(平成2年)に完成しています。
    また、2017年(平成29年)に夜景観光の推進を目指す「日本百名月」プロジェクト(活動主体:夜景観光コンベンション・ビューロー)により、「多摩湖」が眼前に広がるレイクビュースポットとして名月鑑賞に最適な『掬水亭』などから望める武蔵野の月として静謐な”多摩湖にのぼる月”(認定登録第23号)が「日本百名月」に認定されされています。
    『掬水亭』へのアクセスは、西武鉄道・池袋線「池袋駅」または西武鉄道・新宿線「西武新宿駅」から60分程度となる西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)「西武園ゆうえんち駅」の改札口から線路沿いの遊歩道に架かる橋を渡ってすぐの徒歩1分程度です。
    今回は、自動車を利用して3世代家族5人で角部屋の最大6人まで利用可能なデラックス和洋室(和室:10畳・広縁付き+洋室:ツインベットルーム)に1泊(夕・朝食付き)しました。
    館内は、3階から5階が客室フロアとなっており3タイプある客室の全室がレイクビューであるとともに和室をベースとし最大で5人から6人まで利用可能な落ち着きのある造りとなっており、家族で宿泊を検討されている方にお勧めできます。
    今回利用した角部屋は、それぞれ独立しているゆったりとした和室と洋室が2部屋あり、和室からは「多摩湖」と「西武園ゆうえんち」敷地の一部となる2方向を見渡せ、洋室からは「西武園ゆうえんち」敷地内全体などを見渡すことができます。
    『掬水亭』の周辺には高層建築が無くゆったりとした部屋の広縁の掘りごたつに座り窓から望める「多摩湖」と緑豊かな「狭山丘陵」の森林が広がる眺望は、都心からすぐ近くでありながら外国のリゾート地にいるような気分になり癒されましたが、宿泊当日があいにくの雨で「富士山」を望めず少し残念でした。
    食事は、夕食・朝食ともに6階「レストラン 天外天」でいただきましたが、天井が高くゆったりとした空間で客室と同様にレイクビューの眺望とあわせて夕食時にピアノの生演奏があり癒されながら本格中国料理のコースを量も多すぎることなく美味しく完食できてスタッフの方の対応もよく楽しい食事の時間となりました。
    朝食は和食で家族からは和食と洋食のどちらか選択できるスタイルがよかったという意見もありましたが、自分としては最後の締めとしてご飯にだし汁をかけお茶漬け風に食べるスタイルが気に入りました。
    1階(露天風呂付き)と2階にある大浴場施設は、朝と夜で男女入れ替え制の温泉ではありませんが定期的に日本茶パウダーが注がれ、ほのかに日本茶の香りを感じ癒されました。
    全体的な印象としてはスタッフの方がとても親切な対応で居心地のよさを感じ、是非また天気の良い日に利用して富士山や名月の眺望を堪能してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    1人1泊予算
    20,000円未満
    アクセス:
    5.0
    西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    1泊2食付きで1人20,000円でしたが、平日限定で”マル得セット”(日帰り入浴&食事)が2,040円の掲示がありました。
    客室:
    4.5
    それぞれ独立しているゆったりとした和室と洋室が2部屋あり、多摩湖と緑豊かな狭山丘陵の森林が広がる眺望に癒されました。
    接客対応:
    4.5
    とても親切な対応で居心地のよさを感じました。
    風呂:
    4.0
    温泉ではありませんが定期的に日本茶パウダーが注がれ、ほのかに日本茶の香りを感じ癒されました。
    食事・ドリンク:
    4.5
    夕食は本格中国料理のコース、朝食は和食でしたが、どちらも美味しかったです。
    バリアフリー:
    4.0
    館内の廊下幅もゆったりとしていますが、西武園ゆうえんち駅の改札口からのアクセスは橋を渡る途中に階段があります。

  • 今まで知らなかった人物について学び楽しめました!

    投稿日 2021年09月30日

    大井玄洞翁の胸像 目白

    総合評価:3.0

    『大井玄洞(おおいげんどう)翁の胸像』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」の袂(北西側)を起点に「神田川」に沿って左岸側(北側)部分を「神田川」上流方向(西側)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」内の「目白通り」側一画となる東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から徒歩1分程度(およそ100メートル)の場所に設置されています。
    ちなみに『大井玄洞』は、徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」の時代となる江戸時代末期の1855年(安政元年)に加賀藩の儒学者であり医師の子として生まれ、加賀藩の藩校である「明倫堂」で儒学などの学問や「道済館」で英語を学んでいます。
    明治維新後の1869年(明治2年)から1873年(明治6年)まで「大学南校(現:東京大学)」に入学しドイツ語を学び、「大学南校」を卒業後は「大学区医学校(現:東京大学医学部)」でドイツ語の通訳をはじめドイツ語の薬学などに関する専門書の翻訳活動をおこない、1880年(明治13年)から1885年(明治18年)まで一旦ふるさとに戻り「金沢医学校製薬学科(現:金沢大学薬学類)」で薬局長ならびに内務省主管の金沢医術開業試験委員を兼務したのちの1886年(明治19年)に9か月程度となるドイツ短期留学をしています。
    帰国直後から1900年(明治33年)まで陸軍薬剤官として陸軍病院薬剤課長心得、陸軍軍医学校教官を務め、師団軍医部として「日清戦争」に出征、凱旋後に陸軍薬局方編纂委員、予備役などを務めています。
    陸軍を退役したのちは、東京市小石川区(現:文京区)に居住し衛生材料(ガーゼ・脱脂綿など)関連の商いをするかたわら当時の小石川区会議員を務め、さらに1907年(明治40年)から1928年(昭和3年)までは当時の東京府会議員を務めたのちの1930年(昭和5年)に逝去し75年の生涯に幕を閉じています。
    『大井玄洞翁の胸像』の建立まで経緯については、『大井玄洞』が陸軍を退役してから小石川区に在住して議員を務めていた時代にたびたび洪水をおこしていた「神田川」において特に1910年(明治43年)に発生した大水害を機に治水工事の重要性を感じていた『大井玄洞』の尽力により、1913年(大正2年)に「神田川」護岸改修工事が着手され、6年後の1919年(大正8年)に護岸改修工事の完了とあわせて「江戸川公園」が整備されています。
    この「神田川」治水事業に尽力した『大井玄洞』の功績を称えて永くその徳を伝える目的で1928年(昭和3年)に胸像が「江戸川公園」内に建立されています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「江戸川公園」内を通り『大井玄洞翁の胸像』の存在に目が止まりましたが、今まで『大井玄洞』に関する知識が全くありませんでした。
    『大井玄洞翁の胸像』の存在に気が付き胸像自体は地味なものでこれといって見応えがあるわけではありませんでしたが、今まで知識のなかった『大井玄洞』という人物について学ぶきっかけになり色々と調べることで楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    公園内を素通りする人はいますが、立ち止まって胸像を見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    公園内の平坦な場所にあります。
    見ごたえ:
    3.0
    胸像自体は、地味なものでこれといって見応えがあるわけではありません。

  • 江戸時代に徳川将軍家と縁の深い祈願寺として創建しています!

    投稿日 2021年09月26日

    護国寺 池袋

    総合評価:4.0

    『護国寺』は、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代となる1681年(天和元年)に創建された現在の文京区大塚5丁目に位置する真言宗豊山派の大本山として宗派の宗教法人・本部宗務所が置かれている寺院であり正式名称が山号を神齢山、院号を悉地院と称する『大聖護国寺』の通称です。
    『護国寺』創建の経緯については、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の側室であった「お玉の方(桂昌院)」が懐妊し安産の祈祷を現在の群馬県高崎市に位置する山号を神通山、院号を遍照王院と称する「大聖護国寺」第24世「亮賢和尚」に依頼し、誕生してくる「徳川綱吉」が将軍となることを「亮賢和尚」が占ったと伝えられています。
    その後に将軍となった「徳川綱吉」が生母「桂昌院」の発願となる祈願寺の開山を「亮賢和尚」に命じ、徳川幕府所轄の「高田御薬園(北薬園)」の一画に『護国寺』が創建し、「桂昌院」の念持仏であった「天然琥珀如意輪観世音菩薩像」が『護国寺』の絶対秘仏の本尊として祀られるなど徳川将軍家と縁の深い祈願寺となっています。
    徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で『護国寺』境内の様子を描いた絵が紹介ており、檀家をもたない徳川将軍家の祈願寺として境内に墓地が存在しないことが確認できますが、明治維新後の1873年(明治6年)になると『護国寺』境内東側部分の敷地が皇族専用の墓所として整備され、現在は宮内庁が管理する一般者立入禁止エリアの「豊島岡墓地」となっています。
    また、1873年(明治6年)に『護国寺』境内西側部分の敷地が陸軍管轄の「陸軍墓地」となりましたが、1949年(昭和24年)から『護国寺』の管理となり『護国寺』一般墓地エリアの一画に「音羽陸軍埋葬地」として日清戦争による遺骨を祀る「多宝塔」、日露戦争と満州事変の「合葬墓」および太平洋戦争終結後に建立された「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」などが整備されています。
    そのほか現在の『護国寺』は「本堂」裏手が一般墓地エリアが広がり、明治期以降の大正・昭和期に活躍した政治家・経済界・文化人などさまざまなジャンルの著名人の方々が埋葬されている寺院となっています。
    今回は、平日の午後に東京メトロ・有楽町線「護国寺駅」周辺を訪れた際に少し時間があったので、『護国寺』を参拝してみようと思い初めて境内に入りましたが、「本堂(観音堂)」の拝観時間が9時から16時までであり、ちょうど拝観時間が終了して「本堂」が閉まったところでしたので境内の各施設を写真撮影しながら散策して廻りました。
    『護国寺』境内の建造物は、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1697年(元禄10年)に建立された「本堂」とあわせて桃山時代の建造物と伝わる天台寺門宗の総本山「園城寺(通称:三井寺)」(滋賀県大津市)塔頭日光院から書院様式「客殿」を1928年(昭和3年)に移築した「月光殿」が1931年(昭和6年)に国の「重要文化財」に指定されたのをはじめに1691年(元禄4年)に建立された「薬師堂」および1701年(元禄14年)に建立された「大師堂」が1975年(昭和50年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定、詳細な建立時期が不明ですが江戸時代のものとされる「惣門」・「鐘楼(付梵鐘)」が1976年(昭和51年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定、同じく江戸時代のものとされる「仁王門」が1982年(昭和57年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定されるなど境内各所に見どころの多い建造物がある寺院です。
    短時間でしたが文化財などに指定されている建造物とあわせて「本堂」裏手の一般墓地エリアのさまざまな特徴ある形状の墓石や著名人の方の墓石を散策して廻り楽しめました。
    機会があれば、「本堂」内部の拝観時間内に立ち寄り、安置されている文京区の「有形文化財(彫刻)」に指定されている「不動明王像」・「地蔵菩薩立像」・「如来形坐像」・「聖観音菩薩像」・「大日如来座像」なども拝観してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ有楽町線・護国寺駅1番出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後16時すぎで本堂(観音堂)の拝観時間が過ぎて境内は閑散としていました。
    バリアフリー:
    2.5
    仁王門から本堂まで高低差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    境内には文化財指定の建造物が多数あるほか明治・大正・昭和期に活躍したさまざまなジャンルの著名人の方々が埋葬されています。

  • 定番の手作り”カレーパン”は味・価格ともにお薦めできる逸品です!

    投稿日 2021年09月23日

    ロックガーデンカフェ 飯能

    総合評価:4.0

    『ロックガーデンカフェ』は、西武鉄道・秩父線「西吾野駅」改札口から埼玉県飯能市街地と秩父市街地を結ぶ「国道299号」を飯能市街地方面に徒歩10分程度(およそ750メートル)となる「国道299号」沿いの「高麗川」に架かる「小床橋」付近に位置するカフェ施設です。
    『ロックガーデンカフェ』近くの「国道299号」沿いには、目印となる複数の”カレーパン”と書かれた黄色い幟が立っているので初めてでも場所はすぐにわかると思います。
    以前より「国道299号」を自動車で通る度に”カレーパン”の幟が気になっていましたが、今回は日曜日の14時過ぎに自動車で初めて『ロックガーデンカフェ』に立ち寄りました。
    店舗専用の駐車場施設は、「国道299号」を秩父市街地方面に向かう下り「高麗川」側の道路沿いと飯能市街地方面に向かう上り店舗前の「国道299号」を左折した店舗奥に完備されており合わせて10台程度の乗用車が駐車できると思います。
    「国道299号」より少し高台に建つ木造2階建ての住宅・店舗兼用の1階部分がウッドデッキ付きのオシャレな店舗でウッドデッキ前の敷地には、コンパクトですが樹木の隙間から背後に見え隠れする岩肌の崖を望むことができる店名にふさわしい”Rock Garden”となっており、このガーデンから見ることはできませんが崖の上には西武鉄道・秩父線が通ています。
    立ち寄った際は、店内席とガーデン席にお客さんがいましたがガーデン席のお客さんがちょうど帰るところだったのでガーデン席に座ることができました。
    ガーデン席は、武蔵野の山林に囲まれた居心地のよい風を感じられて癒されました。
    メニューは、コーヒーなどのドリンクのほかに”カレーパン”、”ベーグルサンド”、”ホットドック”のテイクアウトもできる軽食があり、以前より気になっていた”カレーパン”とコーヒーを注文しました。
    ”カレーパン”は、注文を受けてから油で揚げる店舗定番の人気のある手作りパンであり、外側がカリカリで中に熱々カレーがたっぷり詰まっており、また食べたいと思える美味しさでひとつ150円の低価格にも驚かされるお薦めの逸品です。
    『ロックガーデンカフェ』周辺は緑豊かな武蔵野の山林に囲まれたエリアであり、「国道299号」はオートバイでツーリングを楽しむ方の往来も多く、また「国道299号」を沿うように流れる「高麗川」に架かる「小床橋」は「西吾野駅」から「柿の木峠」を経由して「子ノ権現 天龍寺(通称:子ノ権現)」および「医王山薬寿院 八王寺(通称:竹寺)」に向かうハイキングコースの出入口でもあり、『ロックガーデンカフェ』はツーリングやハイキングをされる方の休憩場所としてもお勧めできます。
    ちなみにハイキングコースになっている「子ノ権現」は平安時代中期となる911年(延喜11年)に創建した本尊「十一面観音」を祀る天台宗の寺院であり「武蔵野三十三観音霊場32番札所」、「竹寺」は平安時代前期となる857年(天安元年)に創建した神仏習合の寺として知られる本尊「牛頭天王」を祀る天台宗の寺院であり「武蔵野三十三観音霊場33番札所」となっており、機会があれば「子ノ権現」や「竹寺」周辺を散策しながら『ロックガーデンカフェ』に立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    1,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    3.5
    西武鉄道秩父線・西吾野駅改札口から徒歩10分程度です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    ひとつ150円の手作りカレーパンは、驚きの低価格です。
    サービス:
    4.0
    テイクアウトも可能です。
    雰囲気:
    4.0
    ガーデン席は、武蔵野の山林に囲まれた居心地のよい風を感じられ癒されます。
    料理・味:
    4.0
    注文を受けてから油で揚げる手作りカレーパンは、外側がカリカリで中に熱々カレーがたっぷり詰まっています。
    バリアフリー:
    3.0
    国道から店舗入り口まで短距離ですが急坂です。
    観光客向け度:
    4.5
    西武鉄道秩父線・西吾野駅周辺の散策した際の休憩場所として最適です。

  • 入園無料で日中は誰でも自由に出入りできる本格的な日本庭園としてお勧めできます!

    投稿日 2021年09月20日

    肥後細川庭園 目白

    総合評価:4.0

    『肥後細川庭園』は、文京区目白台1丁目の神田川沿いに位置し、敷地北側部分が武蔵野台地の東端にあたる「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台から南側の神田川沿いの低地部分に向かって高低差が最大で30メートル程度にもおよぶ傾斜地が広がる樹林の自然景観を活かした本格的な日本庭園となる「池泉回遊式庭園」として整備されている敷地面積19,008.3平方メートルの文京区立公園です。
    この『肥後細川庭園』周辺のエリアについては、江戸時代初期に「江戸城」周辺に生活用水(上水)を供給するために国内初の本格的な上水道設備となる「神田上水 取水口」として神田川の水位を上げるための「大洗堰」が築かれており(現在は撤去されています)、現在の『肥後細川庭園』には江戸時代中期まで徳川幕府・幕臣の屋敷が建ち、江戸時代末期になると徳川家御三卿の清水家下屋敷から同じく御三卿の一橋家下屋敷へと移り変わり、さらに幕末には現在の『肥後細川庭園』のほか北側の高台部分を通る「目白通り(都道8号)」沿いに位置する「目白台運動公園」一帯が「肥後熊本藩 細川家下屋敷」へと移り代わっています。
    明治維新後の1882年(明治15年)には、旧肥後熊本藩主から侯爵となった「細川家」の本邸となり現在の「池泉回遊式庭園」の骨格がこの頃に完成されたと伝えられ、昭和初期までは「細川家」の所有地となっています。
    その後の1950年(昭和25年)からおよそ10年間にわたり一時的に「西武鉄道」の所有地となり、1960年(昭和35年)に東京都の所有地に代わったことにより『肥後細川庭園』の前身となる本格的な日本庭園となる「池泉回遊式庭園」が1961年(昭和36年)に東京都立の「新江戸川公園」として開園しています。
    1975年(昭和50年)になると「新江戸川公園」が文京区に移管され文京区立公園となり、2015年(平成27)から公園内全体の改修工事が段階的に実施され、2018年(平成30年)に一連の改修工事が完了しています。
    また、公園内全体の改修工事に伴い「池泉回遊式庭園」の成り立ちを尊重した新名称への変更が公募により実施され、2017年(平成29年)に「新江戸川公園」から現在の『肥後細川庭園』に名称変更をしています。
    そのほかに『肥後細川庭園』正門部分にある園内のシンボル的な木造2階建ての建物「松聲閣(しょうせいかく)」(延べ床面積497平方メートル)については、1887年(明治20年)以前まで「細川家学問所」として使用されていたと伝えられており、現存する建物は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の直後に建設され、その後に数回にわたり増改築が実施されながら「細川家」の本邸として使用されていた建物となります。
    1975年(昭和50年)以降は、文京区の「区民会館」・「新江戸川公園集会所」として利用されていましたが、2006年(平成18年)から老朽化により休止となり、耐震化工事を伴う改修工事が実施され、2016年(平成28年)に集会室、休憩室、展望所、店舗機能を有した「松聲閣」にリニューアルしています。
    今回は、平日の昼頃に「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に『肥後細川庭園』に立ち寄り庭園内を散策して廻りましたが、敷地南側の平地部分の大池を中心とした落ち着きのある「池泉回遊式庭園」エリアで日本庭園の趣きに癒され、北側の傾斜地部分の樹林エリアでは都会であることを忘れ山林をハイキングしているような気分になりました。
    真夏日となる暑い日でしたが、樹木に囲まれ居心地よくもう少し園内各所を写真撮影して廻ろうと思いましたが、大気が不安定な日でもあり突然の豪雨で園内をゆっくりと散策することができなかったのが残念です。
    機会があれば、紅葉の季節(紅葉時期にライトアップなどの企画あり)・雪による枝折れ防止としてわら縄で枝を吊る雪吊り風景の冬季・桜の咲く季節など四季折々の庭園風景や大正時代の日本建築「松聲閣」をゆっくりと見学して廻りたい思います。
    『肥後細川庭園』は、入園無料の施設となっており年末年始の休園日を除き日中は誰でも自由に出入りできる本格的な日本庭園としてお勧めできます。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩15分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の昼頃でしたが、園内で数名の方とすれ違いました。
    バリアフリー:
    2.5
    園内北側の樹林エリアは、高低差のある傾斜地です。
    見ごたえ:
    4.5
    本格的な日本庭園となる池泉回遊式庭園と大正時代のシンボル的な木造2階建ての日本建築・松聲閣があります。

  • 総重量およそ100トンにもおよぶ耐候性鋼板の大鳥居や参道の広さなどに圧倒されました!

    投稿日 2021年09月18日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『靖國神社』は、1869年(明治2年)に「明治天皇」の勅令により『招魂社(しょうこんしゃ)』として現在の千代田区九段北3丁目に創建した歴史の浅い神社です。
    『招魂社』創建の経緯については、日本における近代的な統一国家構築にあたり明治維新の混乱期の中で1867年(慶応3年)に徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」が自ら徳川幕府による政権を天皇に返上した「大政奉還」の後に「徳川慶喜」への処遇をめぐり、1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」が皮切りとなり「上野の彰義隊の戦い」のほか「会津戦争」さらに1869年(明治2年)の五稜郭における「箱館(函館)戦争」まで国内各地で繰り広げられた戦の総称となる「戊辰戦争」により、近代国家が誕生する大変革の過程の中で尽力し尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を慰めることを目的に祭神として祀られています。
    その後も国内最後の大規模な内戦として知られる1877年(明治10年)の「西南戦争」などにより尊い命を捧げられた方々の御霊も祭神として合祀、1879年(明治12年)になると社号が現在の『靖國神社』に改称されています。
    この『靖國』の社号については、「明治天皇」の命名によるもので平和な国家を建設する願いとして”国を靖(安)んずる”を意味する想いが込められています。
    さらに諸外国との武力衝突による戦争や対外事変として1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて行われた「日清戦争」、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の「日露戦争」、1931年 (昭和6年)の「満洲事変」、1937年(昭和12年)の「支那事変」、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)の「太平洋戦争」など国家のために尊い生命を捧げられた方々の御霊も合祀され現在では246万6千柱あまりの御霊が祭神として祀られており、「伊勢神宮」を本宗として「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する「八百万神(やおよろずのかみ)」を祭神として祀る「神社本庁」が包括する日本各地の一般的な神社が属する包括宗教法人と異なり、『靖國神社』は単立宗教法人となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて『靖國神社』を参拝しようと思い短時間でしたが正面から境内に入り「拝殿」で参拝してきました。
    『靖國神社』正面から拝殿までの参道には、1964年(昭和39年)に再建された当時の最新技術による耐候性鋼板の表層を錆安定処理を施し落ち着きのある黒褐色が特徴的な再建時に国内最大規模の高さ25メートル・柱直径1.88メートル・柱(中芯)間幅19.56メートル・笠木長さ34.13メートル・総重量およそ100トンにもおよぶ「第一鳥居(大鳥居)」をはじめ、日本初の西洋式銅像として1893年(明治26年)に制作され「東京三大銅像」と称される「大村益次郎銅像」(台座を含む高さ12メートル)、1887年(明治20年)に当時の最先端技術を駆使し柱に継ぎ目をもたない青銅製鳥居として制作され、『靖國神社』境内の中で最も歴史の古い鳥居でもあり国内の青銅製鳥居の中で最大規模(高さ15メートル)となる「第二鳥居(青銅大鳥居)」、さらに1934年(昭和9年)に建立された直径90センチメートルの丸太柱が12本、扉1枚の寸法が幅およそ2.8メートル・高さおよそ6メートルの扉2枚1組となって建物3箇所に設置され中央2枚の扉に直径およそ1.5メートルの菊の紋章が取り付けられた木造(台湾産・総檜)・切妻銅板葺屋根の「神門」、2006年(平成18年)に埼玉県秩父市「三峯神社」の樹齢500年の檜から造られた素木の「中門鳥居」、1901年(明治34年)に建立された木造・入母屋向拝唐破風付銅板葺屋根の「拝殿」など境内各所に見どころの多い神社であり、特に「第一鳥居(大鳥居)」の規模や参道の広さ、「神門」の柱の太さ・扉の大きさに圧倒されました。
    また『靖國神社』境内には、東京の桜・開花宣言の基準となる標本木があるなど桜の名所でもあるので機会があれば桜の咲く時季にあわせて立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが、参拝される方はまばらでした。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありませんが、拝殿部分に段差があります。(スロープも設置されています。)
    見ごたえ:
    4.0
    境内各所に見どころの多い神社です。

  • ゴルフ場に併設されたホテル施設の源泉掛流し天然温泉(露天風呂付き)に癒されました!

    投稿日 2021年09月06日

    白沢高原ホテル 利根・白沢

    総合評価:4.0

    『白沢高原ホテル』は、1992年(平成4年)にオープンした沼田盆地・東側の「白沢高原」(沼田市白沢町)に位置する標高およそ630メートルのゴルフ場施設となる「初穂カントリークラブ」の「クラブハウス」建物内部に併設され宿泊客室のほかレストラン施設と宴会場、天然温泉施設を所有し、ゴルフ場利用者以外の方も宿泊およびランチならびにディナーや温泉施設の日帰り入浴など気軽に立ち寄り利用できるほか冬場はスキー場と提携しているお勧めのホテル施設です。
    『白沢高原ホテル』へのアクセスは、関越自動車道「沼田インターチェンジ」から自動車で13分程度であり、「国道120号(日本ロマンチック街道)」を東側(日光方面)へ約5キロメートル先にある「道の駅白沢」交差点を左折してから2キロメートルほどの場所です。
    今回は、自動車で沼田市エリアを訪れた際にゴルフ未経験のゴルフ場に立ち入るのも初経験となるメンバーによるランチ休憩で「初穂カントリークラブ」と併設する『白沢高原ホテル』に立ち寄り、レストラン施設での食事とあわせて日帰り入浴で温泉施設「初穂美肌の湯」を利用してみました。
    利用したのは日曜日の昼時で、ちょうど「初穂カントリークラブ」が毎月主催しているクラブメンバー対象の「月例杯」の日と重なっており駐車場がほぼ満車状態であるのに戸惑いながらアメリカンリゾートをイメージして建設されたといわれる「クラブハウス」2階部分のエントランスから建物内に入り、ホテルのフロントで改めて一般利用の確認を取りました。
    フロントのある2階のロビーから一部吹き抜け空間のあるラウンジと繋がる天井高の高いレストラン施設の窓からは、ゴルフ場のコースを見下ろせるとともに遠くに標高1,828メートルとなる「赤城山」まで望める高原の大パノラマが広がる眺望もお薦めできます。
    レストラン施設での食事も”日本そば(天ぷら・稲荷寿司・小鉢付き)”を注文しましたがリゾート気分を味わいながら美味しくいただくことができました。
    また、温泉施設「初穂美肌の湯」(源泉名;初穂の湯)は、「初穂カントリークラブ」敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉(温度:57度)で、泉質が美肌効果、疲労回復やストレス解消に最適とされる無色透明の「アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)」(PH値:9.8)に癒されました。
    沼田市エリアを訪れる機会があれば、また立ち寄ってみたいと思える施設です・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    4.0
    関越自動車道・沼田インターチェンジから自動車で13分程度(約7キロメートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    ランチおよび日帰り入浴での利用でした。
    接客対応:
    4.0
    風呂:
    4.0
    初穂カントリークラブ敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉です。
    食事・ドリンク:
    4.0
    バリアフリー:
    4.0

hiroさん

hiroさん 写真

2国・地域渡航

17都道府県訪問

写真 | QA掲示板 | 行ってきます | 掲示板 クリップ

hiroさんにとって旅行とは

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

大好きな理由

行ってみたい場所

現在2の国と地域に訪問しています

拡大ボタンを押すと地図が
動かせます。

現在17都道府県に訪問しています