旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

hiroさんのトラベラーページ

hiroさんのクチコミ(5ページ)全489件

条件をクリア
エリア
カテゴリ
並び順

  • ホテル
  • ショッピング
  • グルメ・レストラン
  • 交通機関
  • 観光スポット
  • 基本情報
  • 江戸時代に創業した都内で唯一の”あんこう料理専門店”です!

    投稿日 2022年04月23日

    いせ源 神田・神保町

    総合評価:4.5

    『いせ源』は、最寄り駅となる東京メトロ・丸の内線「淡路町駅」のほか都営地下鉄・新宿線「小川町駅」、JR「秋葉原駅」など都内鉄道会社・各路線の複数駅から徒歩圏内となる千代田区神田須田町1丁目に位置し、「東都のれん会」に加盟する老舗として都内で唯一となる”あんこう料理専門店”です。
    ちなみに「東都のれん会」は、1951年(昭和26年)に創設された江戸時代から明治時代初期にかけて創業した後に先祖代々の祖業を100年以上にわたり継承する”のれん”を正統に引き継ぎ、その品位と伝統の保持につとめている東京都に本店を有する老舗の集まりであり現在53店舗が加盟する団体です。
    『いせ源』の創業については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1830年(天保元年)に初代「立川庄蔵」が現在の中央区京橋3丁目となる「江戸歌舞伎発祥の地」としても知られる中橋広小路に「いせ庄」(どじょう屋)を開業したのが始まりとされ、2代目「立川源四郎」が現在の神田須田町1丁目となる神田連雀町に店舗を移転するとともに店名も『いせ源』に改称し、その後に”あんこう鍋”をはじめ様々な鍋料理が提供されるようになりますが複数ある鍋料理の中で”あんこう鍋”が人気を集め大正時代をむかえた4代目「立川政蔵」の代に”あんこう料理専門店”となっています。
    現在の『いせ源』の建物については、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により焼失した店舗を新たな入母屋造りの木造3階建てとして建て直しがおこなわれ1932年(昭和7年)に竣工したもので、その後に「太平洋戦争」終戦間近の1944年(昭和19年)秋から翌年の春先にかけて5回にわたり東京都市部を襲った「東京大空襲」において神田須田町1丁目エリアが奇跡的に被災を免れており、『いせ源』のほかにも昭和初期の建物が現存する昔ながらの情緒を漂わせる街並みが残されています。
    2001年(平成13年)になると『いせ源』をはじめとする周辺エリアの昭和初期に建設された建物が「東京都選定歴史的建造物」に選定され、2003年(平成15年)には「千代田区景観まちづくり重要物件」にも指定されています。
    今回は、家族内で”西の ふぐ、東の あんこう”の話題から食べたことのない”あんこう鍋”を食べてみたいとの一言で日曜日のランチで『いせ源』の”名代 あんこう鍋”コースを予約しました。
    予約した当日は、東京メトロ「淡路町駅」を利用して神田須田町1丁目エリアの昭和時代にタイムスリップしたような老舗の街並みおよび『いせ源』玄関脇にかつて冷蔵庫として使用されていたガラスケース内で氷付けの”あんこう”を見て期待も高まり予約時間よりも少し早めに入店しました。
    昭和初期の『いせ源』建物外観および建物内部も老舗にふさわしく情緒あふれる雰囲気が漂い堅苦しさも感じることなくゆったりとした2階和室のテーブル・イス席でくつろぎながら楽しく食事をすることができました。
    『いせ源』で提供される”あんこう”は、青森県下北半島・風間浦沖(漁港から約5キロメートル圏内)にて刺網漁・空釣り漁により生きたまま水揚げされた”活あんこう”のみを厳選したもので、風間浦で一昼夜以上安息(畜養)させた後に出荷時刻にあわせて活〆してから出荷後24時間以内に『いせ源』に直送された”あんこう”を店内で解体(吊るし切り)して提供しているとのことでした。
    また、今回の料理に提供された”あんこう”の水揚げ日・活〆日が記載された生産履歴の提示もあり鮮度に対するこだわりを感じながら、家族で初となる各種あんこう料理とメインの”あんこう鍋”を堪能し、最後は鍋の締めとなる”おじや”も食べきれないかと思いましたが、秘伝の割下でじっくりと煮込まれた鍋汁を使用した”おじや”までの全ての料理が美味しく残すことなく完食することができました。
    食事後は神田須田町1丁目エリアの昭和レトロな雰囲気の街並みを散策しながら帰りましたが、機会があれば料理とともに店内の雰囲気および周辺エリアの街並みが気に入り、また利用してみたいと感じる店舗のひとつです!

    旅行時期
    2022年03月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    10,000円以上
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ丸の内線・淡路町駅のほか都内鉄道会社・各路線の複数駅から徒歩圏内です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    高級魚であり鮮度にもこだわりを感じられ値段は安くないですが、味は満足できます。
    サービス:
    4.0
    店員さんも親切で丁寧な対応です。
    雰囲気:
    5.0
    昭和初期に建設された木造3階建ての店舗で東京都選定歴史的建造物に選定のほか千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。
    料理・味:
    4.5
    青森県下北半島・風間浦沖で生きたまま水揚げされた”活あんこう”を活〆してから出荷後24時間以内に直送して提供しています。
    バリアフリー:
    3.0
    木造3階建てで玄関など段差があります。
    観光客向け度:
    4.5
    都内で唯一の”あんこう料理専門店”です。

  • 東京商工会議所オフィスの一室が展示スペースとして開放されています!

    投稿日 2022年04月17日

    東商渋沢ミュージアム 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『東商渋沢ミュージアム』は、千代田区丸の内3丁目に位置し「日比谷通り(国道1号)」と「馬場先通り(都道406号)」が交差する「馬場先門交差点」に面して2018年(平成30年)に竣工した高さおよそ150メートル(地上30階・地下4階)の建超高層複合ビルとなる「丸の内二重橋ビル」の5階・6階に本部を構える「東京商工会議所」が初代会頭である「渋沢栄一」に関する資料を一般公開するため2019年(令和元年)11月に本部6階の一画に開設した展示施設です。
    ちなみに「東京商工会議所」は、東京23区内の商工業者で構成される民間の総合経済団体であり、明治維新後に急速な資本主義制度の移行および明治政府が外国貿易振興を進める中で商工業者の世論などを結集する代表機関が必要とされたことから「渋沢栄一」が中心となり1878年(明治11年)に「東京商工会議所」の前身となる「東京商法会議所」が設立されています。
    「渋沢栄一」については、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1840年(天保11年)に武蔵国血洗島(現:埼玉県深谷市)の農家に生まれたのちの1864年(文久4年)に農民から「一橋慶喜」の家臣(武士)に取り立てられ、1867年〈慶応2年)に「一橋慶喜」が徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」として将軍職を就任したことに伴い武士となりわずか3年で幕臣となり、同年に「第2回 パリ万国博覧会」の徳川幕府・日本使節団の随行員に加わり御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)としてヨーロッパ各国を訪問しながら経済などの社会制度について見聞を広めることで実業家としての礎を築き、大政奉還後となる1868年(明治元年)に帰国しています。
    その後1869年(明治2年)に明治政府に招かれ官僚として民部省(現:財務省)で財務・経済政策に携わりますが1873年(明治6年)に退官、実業家として「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」の設立をはじめ多種多様な約500の民間企業に関わるとともに約600の社会公共事業にも尽力し「近代日本経済の父 」または「日本資本主義の父」などと称され1931年(昭和6年)に91年間の生涯に幕を閉じています。
    また、2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ(第60作)「青天を衝け」では主人公として、さらに2024年(令和6年)に新一万円札の図柄に決定しているなど、ここ数年でメディアでもよく紹介される人物でもあり、自分の中では以前より気になる偉人のひとりでした。
    1年ほど前に大手町エリアを訪れた際に「常盤橋公園」一画にある「渋沢栄一 銅像」に立ち寄ったことがあり、そのほかの「渋沢栄一」ゆかりの地にも立ち寄ってみたいと思っていましたが、今回は平日の午後に有楽町エリアを訪れる機会があったので「丸の内二重橋ビル」の1階エントランス多目的スペースにある「渋沢栄一 像」とあわせて6階『東商渋沢ミュージアム』に初めて立ち寄ってみました。
    「渋沢栄一 像」については、「常盤橋公園」にある銅像は晩年に近い姿でよく目にする顔写真などの資料に近い見慣れた年齢の姿であるのに対して、「丸の内二重橋ビル」の像は「東京商法会議所」会頭時代である43歳の写真をモチーフに制作されたものであり写真などの資料であまり目にすることのない年齢の像が新鮮に感じました。
    『東商渋沢ミュージアム』については、入館無料ですが平日(10時30分から16時30分)のみオフィスの一室を展示スペースとして開放している状態で入館受付などもなく”ミュージアム”というイメージで訪問すると場違いに感じられ入館しずらい雰囲気がありますが、室内はコンパクトにまとめられた展示スペースで、直筆の書類など貴重な資料を間近で見ることができ、「渋沢栄一」の生涯について展示パネルに功績などをわかり易くまとめられています。
    さらに各所に存在する「渋沢栄一 像」の一覧も写真付きで紹介されおり、機会があれば、「渋沢栄一」ゆかりの地などを散策しながら各所に存在する銅像の写真撮影をするともに「渋沢栄一」の生涯についてもっと学んでみたいと思いました。
    そのほかにNHK大河ドラマ「青天を衝け」に出演された”吉沢 亮(渋沢栄一 役)”さん、”高良健吾(渋沢喜作 役)”さんも『東商渋沢ミュージアム』に立ち寄っており、両名のサイン色紙が飾られていました。(サイン色紙は撮影不可)

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    地下鉄・二重橋前駅および日比谷駅に直結(B5出口)、丸の内二重橋ビル館内の東京商工会議所専用エレベーターで6階です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料です。但し、開館は平日のみで、10時30分から16時30分までの開館時間となります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もいませんでした。
    展示内容:
    3.5
    コンパクトですが、渋沢栄一・直筆の書類など貴重な資料が展示されています。
    バリアフリー:
    4.5
    段差はありません。

  • 国内最大の木造・多宝塔(国宝)などの建造物とあわせて歴史を学び楽しめました!

    投稿日 2022年04月10日

    根來寺 岩出・紀の川

    総合評価:4.5

    『根來寺』は、現在の和歌山県北部の岩出市に位置する山号を「一乗山」、院号を「大伝法院」と称する「新義真言宗」の総本山であり「大日如来」・「金剛薩埵」・「尊勝仏頂」の三尊を本尊として祀る寺院です。
    『根來寺』の開創については、平安時代・後期の1132年(長承元年)に「空海」上人(諡号:弘法大使)が平安時代・初期の816年(弘仁7年)に真言密教の聖地となる修禅の道場として開山した高野山において「空海」上人以来の学僧さらに真言宗中興の祖といわれ諡号を「興教大師(こうぎょうだいし)」と称する「新義真言宗」の始祖でもある「覚鑁(かくばん)」上人が高野山に建立した「大伝法院」が始まりとされています。
    「覚鑁」上人については、1095年(嘉保2年)に肥前国藤津荘(現在:佐賀県鹿島市)で誕生したとされ、13歳のときに京都「仁和寺」で出家得度し仏門に入り、17歳の頃から本格的な真言密教の修行を始め、1114年(永久2年)に「東大寺 戒壇院」で受戒し正式な僧侶として「覚鑁」の名前を授かるとともに高野山に登っています。
    1132年(長承元年)になると高野山「大伝法院」座主に「覚鑁」上人が就任、さらに1134年(長承3年)には「金剛峯寺」座主も兼ねるようになったことで、周囲の嫉妬などから不和・対立を招く結果となり、高野山内部での紛争に発展することを避けるため、1140年(保延6年)に「覚鑁」上人が自ら身を引き高野山を離山しています。
    離山後の「覚鑁」上人の新たな活動の場となったのが現在の『根來寺』がある場所であり、かつてあった草庵を新たに「豊福寺」として建立したほかに学問所となる「円明寺」および居住の場となる「密厳院」などを建立していますが、1143年(康治2年)に「円明寺」で49年間の生涯を閉じており、現在の『根來寺』境内にある「奥の院」霊廟に埋葬されています。
    また、鎌倉幕府・第3代将軍「源 実朝」の時代である1205年(元久2年)頃になると現在の『根來寺』の名称が成立したとされ、高野山「大伝法院」については十三堂塔が建立されるまでに発展していましたが、鎌倉幕府・第4代将軍「藤原頼経」の時代である1242年(仁治3年)に焼失、鎌倉幕府・第7代将軍「惟康親王」の時代である1288年(正応元年)頃に「頼瑜(らいゆ)」僧正により高野山「大伝法院」の教学の拠点が『根來寺』に移されることで「新義真言宗」の教学の基礎が『根來寺』に築かれています。
    さらに室町時代・後期の『根來寺』は、僧侶を育てる学山として寺領:72万石、堂舎・伽藍:2,700余におよび数千人の僧侶を有するまで発展し、戦国時代には「根來衆」と呼ばれる僧兵を擁することで戦国大名と肩を並べるほどの勢力を誇るようになっています。
    しかし、桃山時代になると「羽柴秀吉」が豊臣の姓を賜り関白となる年の1585年(天正13年)に「羽柴秀吉」軍による紀州攻めが実施され、ほぼ無抵抗状態で『根來寺』が「羽柴秀吉」軍に制圧されましたが、その日の夜に詳細不明の出火により『根來寺』境内の「大伝法堂」・「大塔」・「大師堂」など一部の建造物を残したものの根來一山の殆どの施設が焼失しています。
    その後の『根來寺』は、しばらくの期間にわたり復興が許されず衰微していましたが、江戸時代になると「紀州徳川家」の祖となる紀伊和歌山藩・初代藩主「徳川頼宣」の外護などにより徐々に復興し、現存する建造物では室町時代・前期となる1391年(明徳2年)に建立の「弘法大師・空海像」を安置している「大師堂」が1941年(昭和16年)に国の重要文化財に指定、国内最大の木造・多宝塔(高さ40メートル)として室町時代・後期となる1547年(天文16年)に建立の「大毘廬遮那法界体性塔(通称:大塔)」が1952年(昭和27年)に国宝に指定、江戸時代・後期となる1827年(文政10年)に建立の「大伝法堂(本堂)」および根來一山の総門として江戸時代・末期となる1850年(嘉永3年)に建立の「大門」がそれぞれ2019年(令和元年)に国の重要文化財に指定されるなど歴史のある見どころの多い寺院となっています。
    今回は、和歌山市在住の方の案内で『根來寺』に立ち寄りましたが、限られた滞在時間内で広大な『根來寺』境内を見学して廻ることが難しかったためメインの「大伝法堂」・「大塔」・「大師堂」のみのエリアに絞り参拝して廻り、「覚鑁」上人および「羽柴秀吉」軍の紀州攻めにまつわる歴史を学び楽しむことができました。
    機会があれば、今回立ち寄ることのできなかった「大門」・「覚鑁」上人が埋葬されている「奥の院」などのエリアも散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.0
    最寄り駅となるJR和歌山線・岩出駅からタクシーで10分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午前中に参拝しましたが、参拝する方は他にいませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    根來一山の広大な敷地は高低差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    広大な境内には、国宝・重要文化財などの建造物が多い歴史のある寺院です。

  • すぐ近くに漁港があるような魅力的な内装の空間で北海道・羅臼の旬な食材を楽しめます!

    投稿日 2022年04月02日

    北海道 炉端 えぞ羅 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『北海道 炉端 えぞ羅』は、2021年(令和3年)9月に「JR・東京駅」の北東エリア(地下連絡通路・日本橋口方面)となる千代田区大手町2丁目の常盤橋街区に位置する複合ビル「常盤橋タワー」(地上38階・地下5階・高さ212メートル)内にある商業ゾーン”TOKYO TORCH Terrace”(地下1階から地上3階部分)の2階にオープンした北海道・東部の世界自然遺産である知床半島に位置する羅臼町の食材を提供している炭火を使用した本格炉端酒場です。
    『北海道 炉端 えぞ羅』が出店している「常盤橋タワー」は、2棟の超高層ビル建設を中心とした大規模再開発事業となる「東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)」のA棟として、2018年(平成30年)に建設工事がスタートし2021年(令和3年)6月に東京駅周辺で最も高い超高層ビルとして竣工しています。
    ちなみにこの大規模再開発事業は、2020年(令和2年)に名称が”TOKYO TORCH”に決定しており、現在も開発中で2027年度(令和年9度)に竣工予定のB棟(正式名称:Torch Tower)が完成すると現時点で日本一高い超高層ビル「あべのハルカス」(地上60階・地下5階・高さ300メートル)を抜いて、地上63階・地下4階・高さ390メートルの日本一高い超高層ビルとなる予定であり、”TOKYO TORCH”が東京の新たなランドマークになるといわれているエリアです。
    今回は、日曜日の午前中に「常盤橋タワー」とともに”TOKYO TORCH”の施設として部分的に先行オープンした”TOKYO TORCH Park”内のスペースで定期的に開催されている”TOKYO TORCH Market”を訪れた際にランチ目的で『北海道 炉端 えぞ羅』を利用しました。
    『北海道 炉端 えぞ羅』の店内は、「トロ箱」と呼ばれる水産業者などが水揚げされた魚を輸送するために用いる木箱の小口に印字されている木板を壁などの内装材に利用するなど、すく近くに漁港があるような雰囲気が伝わってくる目を見張る斬新なデザインとあわせて、座席もテーブル席のほかに調理場の様子が伺えるカウンター席、窓際の掘りごたつタイプの座敷席、また屋外の開放的なテラスにこたつ布団が掛けられた(こたつ布団は季節限定)掘りごたつ席など魅力的な空間に仕上げられています。
    そのほかに東京の新名所として注目を集めつつある”TOKYO TORCH”に出店したことにより”まだ知らない北海道”をキャッチフレーズのもと獲る漁業から育てる漁業への転換に力を入れて食品加工や商品開発にも積極的に取り組んでいる「羅臼漁業協同組合」と連携して新鮮な旬の食材を直送している本格炉端酒場として、テレビの情報番組などのメディアでも紹介されているようです。
    ランチメニューの「日替わり・焼き魚・煮魚」など各種定食などの中から、今回は「漁師のまかない丼」を注文し、テーブルに設置されている醤油などの調味料も東京では見ることのない羅臼産を揃えるなど北海道・羅臼へのこだわりを感じることができ、羅臼町エリアを訪れたことはありませんが「羅臼漁港」妄想しながら北海道・羅臼の旬な食材を美味しくいただきました。
    機会があれば、窓際の座敷席や開放感のあるテラス席で現在建設中の”Torch Tower”を眺めながら北海道産のお酒とあわせて羅臼の旬な食材をいただいてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    一人当たり予算
    1,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    TOKYO TORCH・常盤橋タワー(TOKYO TORCH Terrace)の2階です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    リーズナブルな価格で北海道・羅臼の旬な食材を堪能できます。
    サービス:
    4.0
    会計時にレジで小袋に入った羅臼昆布をもらいました。
    雰囲気:
    4.0
    トロ箱の小口に印字のある木板を内装材に使用した斬新なデザインが目を見張ります。
    料理・味:
    4.0
    羅臼漁業協同組合と連携して新鮮な旬の食材を直送している本格炉端酒場です。
    バリアフリー:
    4.0
    出入口近くのテーブル席利用でしたが段差もなく座席間隔も広くゆったりとしていました。
    観光客向け度:
    4.0
    トロ箱の内装と北海道・羅臼のこだわりの旬な食材で北海道の雰囲気が味わえます。

  • 伊豆国一ノ宮に位置づけられ伊豆国総社を兼ねる格式ある神社です!

    投稿日 2022年03月27日

    三嶋大社 三島

    総合評価:4.0

    『三嶋大社』は、旧東海道の起点である「日本橋」から数えて11番目の宿場「三島宿」から伊豆半島の南端「下田港」までの南北区間を結ぶ「旧下田街道」の起点となる現在の三島市大宮町2丁目に鎮座し、主祭神に「三嶋大明神」と称されている山森農産の守護神「大山祇命(おおやまつみのみこと)」と”恵比須さま”として親しまれている福徳の神「積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)」を祀る神社です。
    『三嶋大社』の創建は不詳とされていますが、『三嶋大社』が鎮座する周辺は奈良時代から平安時代の令制国のひとつ「伊豆国」の中心地として政務を執る「国府」が置かれたと伝えられており、平安時代に編纂されたとされる法制書「新抄格勅符第十巻抄」において神寺諸家の封戸に関する806年(大同元年)牒の抄出したものが主体とみられる現存する史料において『伊豆三嶋神』の記述に神封の奉充年が奈良時代中期の758年(天平宝字2年)である記録が残されているほか、第54代「仁明天皇」が即位した833年(天長10年)から逝去された850年(嘉祥3年)までの18年間の記録をまとめた歴史書「続日本後紀」(全20巻)などの古書においても『三嶋神』として記録が残されています。
    また、平安時代中期の927年(延長5年)に編纂された日本の国家規範の中核であり文化を育み続けてきた膨大な法典「延喜式」においても「延喜式神名帳」の中に「名神大」として列格されているなど歴史のある神社であることが伺われます。
    さらに平安時代末期の1180年(治承4年)になると1160年(平治元年)の「平治の乱」で敗れ「伊豆国」に20年間に渡り流罪されていた「源 頼朝」が源氏再興を『三嶋大社』に祈願し『三嶋大社』祭礼の日に旗挙げしたと伝えられており、その後の『三嶋大社』は「伊豆国一ノ宮」に位置づけられる「伊豆国総社」を兼ねる神社として、多くの武将から崇敬を集めるとともに「三嶋大明神」として全国各地にその名が広まっています。
    現在の「社殿」は、徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」の時代である1866年(慶応2年)に徳川幕府・第11代将軍「徳川家慶」の時代となる1854年(嘉永7年)に発生した「安政東海地震」により倒壊した「社殿」を再建したもので、2000年(平成12年)に国の「重要文化財」に指定されています。
    「社殿」の様式は、1994年(平成6年)に国の「重要文化財」に指定された「三嶋大社矢田部家文書」(古文書・絵画・記録類など592点)のひとつとされる徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」造営時とされる『三嶋大社』境内が描かれている「寛永絵図」から踏襲したものとされ、「本殿・幣殿・拝殿」が連なる権現造りの複合社殿となっています。
    そのほか境内の建造物として「社殿」前に建つ1867年(慶応3年)に再建された「舞殿」および「神門」が1966年(昭和41年)に「三島市指定文化財」となっており、「神門」内側には推定樹齢が1200年とされ1934年(昭和9年)に国の「天然記念物」に指定された「金木犀」、「神門」外側には「源 頼朝」が源氏再興を祈願した際に腰を掛けて休息したと伝わる石とその横に「北条政子」が腰掛けたと伝わる石があるなど歴史とあわせて見どころの多い神社であり、限られた時間での滞在でしたが境内各所で楽しむことができました。
    『三嶋大社』への電車利用によるアクセスは、JR東海道線「三島駅」南口改札からおよそ1.2キロメートル(徒歩15分程度)、伊豆箱根鉄道「三島田町駅」改札からおよそ600メートル(徒歩8分程度)となりますが、今回は家族で自動車を利用して三島・沼津エリアを訪れた際に『三嶋大社』境内南東側に整備された駐車スペースの広い駐車場(有料:1時間ごとに200円)を利用しとても便利でした。
    訪れた日が3月初旬から中旬の日曜日の午前中でしたが、境内は観光やお宮参りの方など人出も多く拝殿前に参拝者の行列もできるなど三島エリアの観光スポットとして人気があることを実感しました。
    そのほか境内の「神池」廻りや参道にサクラの木もあるので、機会があればサクラや天然記念物の金木犀が満開に咲く時期にまた立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2022年03月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR・三島駅南口改札から徒歩15分程度、伊豆箱根鉄道・三島田町駅改札から徒歩8分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    日曜日の午前中に参拝しましたが、拝殿前に行列ができていました。
    バリアフリー:
    3.0
    境内のところどころに数段の段差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    社殿(本殿・幣殿・拝殿)、舞殿、神門などのほか推定樹齢1200年の金木犀など境内各所に見所があります。

  • 東京のお伊勢さま・恋のパワースポットとして親しまれている神社です!

    投稿日 2022年03月20日

    東京大神宮 神楽坂・飯田橋

    総合評価:4.0

    『東京大神宮』は、神社本庁の本宗である「伊勢神宮」(三重県伊勢市)に2つある正宮「皇大神宮(別名:内宮)」の伊勢信仰の中心となる「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」および「豊受大神宮(別名:外宮)」の農業・諸産業・衣食住の守護神とされる「豊受大神(とようけのおおかみ)」を主祭神に祀り、さらに「天照皇大神」の御杖代として「伊勢神宮・内宮」を創建し「天照皇大神」を祀ったとされる「倭比賣命(やまとひめのみこと)」を奉斎することで”東京のお伊勢さま”と親しまれている最寄り駅が「飯田橋駅」(JR東日本・東京メトロ・都営地下鉄)となる千代田区富士見町2丁目に鎮座する神社です。
    『東京大神宮』の歴史については、「伊勢神宮・内宮」を遥か遠くの東京の地から拝むことができるように「明治天皇」の勅裁を仰ぎ、1880年(明治13年)に現在の千代田区有楽町1丁目となる「日比谷ゴジラスクエア」付近にかつてあった「大隈重信」邸跡に『皇大神宮遙拝殿』として創建され、1882年(明治15年)になると名称を『大神宮祠』に改称、その後も1899年(明治15年)に『神宮奉斎会本院』に改称されていますが、一般的には鎮座していた地名から『日比谷大神宮』と呼ばれています。
    そのほか1900年(明治23年)に当時の皇太子であった後の「大正天皇」と「貞明皇后(九條公爵家令嬢・九条節子)」の御婚儀が、初めて宮中賢所大前にて執り行われたことがきっかけで、その翌年に『日比谷大神宮』においてこの御婚儀に基づく神職・巫女・楽人によるスタイルを創始した一般の神前結婚式が執り行われており、それまで新郎自宅の床の間・神棚・仏壇のある部屋などで先祖に見守られながら親族・近所の知人などが集まり祝宴をかわす結婚式のスタイルから現在の神前結婚式スタイルが全国各地に浸透して定着したとされています。
    また、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」によって『日比谷大神宮』の拝殿などの施設が焼失しており、1928年(昭和3年)になると現在地に遷座するとともに名称が『飯田橋大神宮』に改称され、さらに太平洋戦争が終結した翌年の1946年(昭和21年)になると独立した宗教法人の神社となり、現在の『東京大神宮』に名称が改称されています。
    近年では、日本最古の歴史書とされる「古事記」上巻の冒頭に登場するかつて混沌としていた宇宙が分離して初めて出現した天と地の世界において結びの働きを司る万物生成化育の根源となる「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」・「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」・「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」の”造化の三神”が相殿として祀られていることから、縁結びに御利益のある”恋のパワースポット”として『東京大神宮』がさまざまなメディアなどで紹介されていますが、今まで参拝したことがなく自分の中では以前より気になるスポットのひとつでした。
    今回は「飯田橋」周辺エリアを平日の午後に訪れる機会があり初めて『東京大神宮』に立ち寄り参拝してみました。
    『東京大神宮』という名称から大規模な神社を勝手に想像していましたが、こぢんまりとした境内には参拝者も行列になるほどではありませんが絶えることなく、そのほとんどの参拝者が女性の方であり”恋のパワースポット”として親しまれていることを実感することができました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    飯田橋駅 (JR東日本・東京メトロ・都営地下鉄)の各路線改札口から5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後の参拝で行列にはなりませんが参拝者がたえることはありませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    正面の参道には石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    参拝者のほとんどが女性の方で恋のパワースポットとして親しまれていることを実感することができました。

  • 多摩湖のレイクビューと狭山丘陵の自然豊かな景観とともに本格中国料理が楽しめます!

    投稿日 2022年03月06日

    天外天 所沢

    総合評価:4.0

    『天外天』は、1957年(昭和32年)に「旅館 掬水亭」として開業したものの1987年(昭和62年)に火災によって焼失した跡地を整備して新たに建設された鉄筋コンクリート造(地上6階・地下1階建て)による宿泊施設(総客室数:21室)として1990年(平成2年)にオープンした現在の「中国割烹旅館 掬水亭」最上階にある上海料理をベースにした本格中国料理の展望レストラン施設です。
    所沢市山口に位置する『天外天』(中国割烹旅館 掬水亭)周辺エリアは、1927年(昭和2年)に完成した首都・東京の水源である人造湖「村山貯水池(通称:多摩湖)」を正面に望むことができるほか、東西方向に約11キロメートル・南北方向に約4キロメートルの5市・1町(埼玉県所沢市・入間市、東京都東大和市・東村山市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町)に広がる総面積およそ3,500ヘクタールにおよぶ「狭山丘陵」と呼ばれる広大な里山の雑木林に囲まれた自然豊かな景観とあわせて料理を楽しむことができます。
    ちなみに「狭山丘陵」エリアは、1947年(昭和22年)から「西武鉄道」が観光開発に乗り出しており、「西武園ゆうえんち」・「西武園競輪場」・「ゆり園(旧:ユネスコ村)」・「狭山スキー場(屋内型の人工スキー場)」・「西武園プール」・「西武園ゴルフ場」・「西武ドーム」などの施設が点在しており、「中国割烹旅館 掬水亭」建物施設も「西武鉄道」が所有し、グループ会社「西武園ゆうえんち(旧・豊島園)」が運営しています。
    今回は、自動車を利用して3世代家族5人で「中国割烹旅館 掬水亭」に宿泊して宿泊プランに含まれた夕食・朝食で『天外天』を利用しましたが、電車を利用する場合は西武鉄道・多摩湖線「多摩湖駅」と西武鉄道・狭山線「西武球場前駅」の路線距離2.8キロメートルの区間(全3駅)をゴムタイヤで走行する小型車両(車体長さ8.5メートル)の4両編成で運行する西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)の中間に位置する「西武園ゆうえんち駅」改札口から線路沿いの遊歩道に架かる橋を渡ってすぐの徒歩1分程度です。
    『天外天』店内は、天井の高い落ち着きのあるゆったりとした空間で大きな窓からは周囲に高層建築などの景観を遮るものがなく、緑豊かな雑木林がどこまでも続く「狭山丘陵」とあわせて眼下に広がる「多摩湖」の眺望を見渡すことができます。
    また、天候がよければ富士山も望むことができるとのことでしたが、夕食時はあいにくの雨と窓から少し離れた円卓席でしたので眺望を楽しむことはできませんでしたが、スタッフの方の対応もよくピアノの生演奏(毎週土曜日:18時から21時)にも癒されながら本格中国料理のコースを量も多すぎることなく美味しく完食できて楽しい食事タイムを過ごすことができました。
    朝食時は、窓際ブースの窓に向って座るテーブル席でレイクビューの眺望とともに和食をいただき、家族からは和食と洋食のどちらか選択できるスタイルがよかったという意見もありましたが、自分としては最後の締めとしてご飯にだし汁をかけお茶漬け風に食べるスタイルが気に入りました。
    そのほか2017年(平成29年)に「多摩湖にのぼる月」が静謐な湖上にのぼる月明かりが水面を神秘的に照らし”道路・遠方の街・月”の明かりが競演した夜景が望めるとして「日本百名月」(夜景観光コンベンション・ビューロー)に認定されており、『天外天』では満月の夜に”ムーンライトディナー”といった企画、温泉ではありませんが「中国割烹旅館 掬水亭」の浴場施設「狭山の茶湯」(狭山茶を配合したバスパウダー使用)の日帰り入浴と『天外天』でのランチが楽しめるお得なセットなどがあるので、機会があれば利用してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.5
    西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    宿泊プランでの利用でした。
    サービス:
    4.0
    スタッフの方の対応もよく楽しく食事ができました。
    雰囲気:
    4.0
    天井の高い落ち着きのあるゆったりとした空間です。
    料理・味:
    4.0
    上海料理をベースにした本格中国料理です。
    バリアフリー:
    3.0
    窓際ブースのテーブル席は段差があります。
    観光客向け度:
    4.0
    多摩湖のレイクビューと狭山丘陵の自然豊かな景観が楽しめる展望レストランです。

  • 館内各所から望める紀淡海峡の眺望がお勧めの温泉リゾートホテルです!

    投稿日 2022年02月27日

    休暇村 紀州加太 加太

    総合評価:4.5

    『休暇村 紀州加太』は、1963年(昭和38年)に「瀬戸内海国立公園」の「紀淡海峡」エリアに浮かぶ島々の眺望を望むことのできる紀伊半島・西端の高台に位置する和歌山市深山(和歌山市北西エリア)にオープンした「一般財団法人 休暇村協会」が運営するリゾートホテルです。
    「一般財団法人 休暇村協会」については、国内の「国立公園」および「国定公園」など自然あふれるエリアに宿泊施設を核とした総合的休養施設となる『休暇村』(旧・国民休暇村)を整備し、人と自然が共生する地域の振興および健康で文化的な生活の増進に寄与することを目的として、1961年(昭和36年)に設立された「旧・財団法人 国民休暇村協会」であり、現在では国内の37箇所で『休暇村』を運営し、その37箇所の施設の中で5番目にオープンした『加太国民休暇村』の施設名称が『休暇村 加太』を経て現在の『休暇村 紀州加太』に変更されています。
    ちなみに「瀬戸内海国立公園」は、「雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)」、「霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)」とともに1934年(昭和9年)に国内初の「国立公園」として指定されており、その後に数回にわたるエリア拡張が実施され現在では岡山県と香川県に挟まれた瀬戸内海の海域「備讃瀬戸」を中心に東側に位置する「紀淡海峡」・「鳴門海峡」から西側に位置する「関門海峡」・「豊予海峡」の4つの海峡に囲まれた1府10県にまたがり、広範囲に広がる海域を含めると90万ヘクタール(陸域:66,934ヘクタール)を超える国内最大規模の「国立公園」であり、『休暇村 紀州加太』のある「紀淡海峡」が望める加太エリアは「和歌山県観光連盟」が県内の「夕日百選」として1999年(平成11年)に選定した人気の夕日スポットになっています。
    また、2016年(平成28年)になると『休暇村 紀州加太』の老朽化に伴う大規模なリニューアル工事が実施され、大浴場に温泉(泉質:ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉)が引き込まれ「加太淡島温泉 天空の湯」として新たな展望露天風呂(湯船に浸かると湯面が眼下に広がる「紀淡海峡」と一体化してみえるインフィニティ風呂)が設置されたほか、食事会場もオープンキッチンを備えた臨場感あるオーシャンダイニング「紀伊の国」、玄関ロビーと一体の空間にスカイカフェ「風の歌」とあわせて繋がる広々とした「オーシャンビュー テラス」、全室オーシャンビューの客室(和室39室・和洋室31室・洋室ツイン2室)などが”和モダンを基調とした和歌山らしさ”をコンセプトに新たな温泉リゾートホテルとしてグランドオープンしています。
    今回は、和歌山県で開催された「国民文化祭」である「紀の国わかやま文化祭2021」の催しに参加した家族に同行して催しの終了後に催しを開催した地元の方などとともに『休暇村 紀州加太』に宿泊しましたが、チェックインが日没後となり自慢の夕日を望むことができませんでした。
    展望露天風呂から望む夕日は、「紀淡海峡」を真紅に染めながら淡路島に沈む圧巻の光景で人気の宿泊施設であると地元の方から伺っていたので夕日を見ることができず残念でしたが、館内各所から「紀淡海峡」(幅:約11キロメートル)の絶景を望むことができ人気の宿泊施設であることは実感できました。
    特に日の出前の早朝には、多くの漁船が「紀淡海峡」で漁をしており漁船の灯りが幻想的で癒される光景でありお薦めできます。
    宿泊した客室は、和室10帖の部屋の広縁付の部屋でゆったりとくつろげました。
    食事は、夕食が団体利用としてゆったりとした宴会場でバランスのよい会席料理を和気あいあいと美味しくいただくことができました。
    朝食については、少し座席間隔が狭く感じましたが朝食会場のオーシャンダイニング「紀伊の国」で朝懐石(和風・洋風の2種類から選択)の小鉢にビュッフェ形式が組み合わせとなったスタイルで特に種類豊富なおにぎりを注文するとその場で握ってくれるコーナーが印象的でした。
    大浴場は、日替わりで男女入れ替え制の温泉施設で特に展望露天風呂から望む「紀淡海峡」の絶景はお薦めであり、機会があればまた宿泊して展望露天風呂からの夕日を眺めてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.0
    南海加太線・加太駅から送迎バスで10分程度です。
    客室:
    4.5
    全室オーシャンビューで紀淡海峡の眺望で癒されます。
    接客対応:
    4.0
    親切な対応で居心地のよさを感じました。
    風呂:
    5.0
    展望露天風呂は、湯船に浸かると湯面が眼下に広がる紀淡海峡と一体化してみえるインフィニティ風呂です。
    食事・ドリンク:
    4.5
    朝食会場で注文するとその場で握ってくれる種類豊富なおにぎりコーナーが印象的でした。
    バリアフリー:
    4.0
    通路も広く段差もありませんが、朝食会場の座席間隔が狭く感じました。

  • 明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています!

    投稿日 2022年02月13日

    京橋記念碑 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『京橋記念碑』は、「日本橋」を起点に南側の銀座エリアを南北に横断し「新橋交差点」で「第一京浜(国道15号)」となる現在の「中央通り(国道15号)」の中央区銀座1丁目(現在の「銀座通り口」交差点付近)にかつて存在していた「京橋川」に架かる橋梁(『京橋』)の親柱であり、1959年(昭和34年)に「東京高速道路」の建設に伴い埋め立てられた「京橋川」とあわせて撤去された橋梁の歴史を伝える遺構の記念碑として明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています。
    ちなみに「京橋川」および『京橋』については、「徳川家康」が領地替えによる江戸入府後に実施した江戸府内の大改造に伴い「江戸城」を囲む外濠(現在の東京高速道路・西銀座ジャンクション付近)から東側の八丁堀・桜川(現在の首都高速都心環状線・京橋ジャンクション付近)に合流までの延長およそ600メートルとなる区間を開削した運河であり、「平川」(現在の日本橋川)に架橋された「日本橋」と同時期とされる徳川幕府が誕生した1603年(慶長8年)に木造太鼓橋の『京橋』が架橋されたと伝えられています。
    また、「東海道」の起点である「日本橋」から京へ上る最初に渡る橋であったことから橋の名称が『京橋』と呼ばれ、橋の修復費などは徳川幕府が負担する「御普請橋」であり、親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した特別の橋として江戸時代から重要視されていた橋であることが伺えます。
    江戸府内において親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみであり、江戸時代に描かれた浮世絵でも『京橋』親柱頂部の「擬宝珠」を確認することができます。
    1875年(明治8年)になると「石造アーチ橋」(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートル)の『京橋』が架橋され、この明治期に架橋された江戸時代から引き継がれている「擬宝珠」付きの親柱が現在の北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に設置されています。
    その後の1901年(明治34年)になると「石造アーチ橋」から「鋼製アーチ橋」に架け替えられ、さらに1922年(大正11年)になると橋の拡幅工事(橋長およそ18.2メートル、橋幅およそ27.3メートル)が実施され親柱のデザインも伝統的な「擬宝珠」から照明設備付きの近代的な都市景観のドーム屋根をイメージしたモダンなデザインに一新され、この大正期に拡幅された橋の照明設備付き親柱が南橋詰跡東側に設置されています。
    『京橋』の遺構については、数年前に千代田区にある都立公園の「日比谷公園」に立ち寄った際に公園敷地内に保存されている明治期の『京橋』欄干柱を見てから、機会があればかつて『京橋』が存在していた「中央通り」の「銀座通り口」交差点周辺を散策してみたいと思っていました。
    今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて「銀座通り口」交差点に立ち寄り『京橋記念碑』となる明治期および大正期の『京橋』親柱の写真撮影をしてみました。
    「京橋川」が流れていた上空を「東京高速道路」の高架橋が通り「中央通り」の上空を跨ぐ高架橋の風景から、かつて「京橋川」に架かる『京橋』の面影を感じることはできませんが、明治期および大正期の異なるデザインの『京橋』の遺構となる親柱を眺めていると江戸時代から明治期さらに大正期へと急激に近代化が進む時の流れを実感することができました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅2番または3番出入口から約150メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    歩道から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分の遺構が記念碑となっています。

  • 馬像がとてもリアルに感じられる幕末期から激動の時代で活躍した元帥陸軍大将の騎馬像姿の銅像です!

    投稿日 2022年01月23日

    大山巌像 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『大山巌像』は、明治後期から大正期にかけて活躍した代表的な彫刻家「新海竹太郎」が1919年(大正8年)に制作した軍服を着た騎馬像姿の銅像として、千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    なお『大山巌像』が制作された当時は、「陸軍参謀本部」が置かれていた現在の千代田区永田町1丁目に位置する「国会前庭(北地区)」の一画に設置されていましたが、現在の「九段坂公園」銅像設置場所にある解説板の記載内容によると太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に「連合国最高司令官総司令部(略称:GHQ)」により、一時撤去され「東京都美術館」に預けられたのちの1969年(昭和44年)に「九段坂公園」に移転されたと記されています。
    また、太平洋戦争時の金属類回収令により『大山巌像』が撤去され太平洋戦争後に「東京芸術大学」構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され1964年(昭和39年)に「九段坂公園」に移転されたとする別途記述も存在しており、「千代田区観光協会」のホームページには”移設の年月は不明”として紹介されています。
    ちなみに『大山巌(通称:弥助)』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1842年(天保13年)に薩摩藩士の次男として誕生し、薩摩藩の尊皇攘夷派リーダー格とされる「有馬新七」の影響を受けて活動するものの1862年(文久2年)に薩摩藩内の過激化する尊皇攘夷派を粛正する「寺田屋騒動」で謹慎処分を受けています。
    その数か月後に発生した「生麦事件」(武蔵国橘樹郡生麦村にて薩摩藩主の行列を乱したとしてその場でイギリス人が殺傷された事件)がもとで、鹿児島湾において薩摩藩とイギリス艦隊との武力衝突となった「薩英戦争」により謹慎処分を解かれた『大山弥助』は、砲台の配属を命じられ近代西洋各国と国内の軍事力に大きな格差を目の当たりにし、その後に西洋砲術を国内に普及させた幕臣で伊豆韮山代官「江川英龍」のもとで砲術を学び砲術の免許皆伝を得ています。
    明治維新を向かえると1868年(慶応4年)から「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに「会津戦争」など国内各地で繰り広げられた「戊辰戦争」では「新政府軍」として新式銃隊を率いて参戦し、「会津戦争」では会津藩家老の娘「捨松」が「会津若松城」の籠城戦に参加していますがのちに『大山巌』の後妻となっています。
    「戊辰戦争」が終結すると大砲の研究に取り組み西洋の大砲を改良した「弥助砲」を考案するほか、軍事視察および軍政・砲術を研究など西洋留学を繰り返し、1874年(明治7年)に長期留学から帰京する際に『大山巌』に改名したとされています。
    さらに1877年(明治10年)に勃発した国内最後の内戦とされる「西南戦争」では、『大山巌』の15歳年上の従兄である「西郷隆盛」を盟主とした士族の武力反乱に対し、「政府軍」の別働第五旅団司令長官に任命されて『大山巌』が参戦しています。
    その後の1880年(明治13年)には陸軍卿に任命され、1885年(明治18年)になると内閣官制(内閣職権)により陸軍卿は陸軍大臣に改称となり、第1次「伊藤博文」内閣が発足し『大山巌』が初代陸軍大臣に任命されています。
    1894年(明治27年)の「日清戦争」においては陸軍大将として出征し、1898年(明治31年)になると最高顧問機関として「元帥府」が創設され「元帥」の称号を授与し、1904年(明治37年)の「日露戦争」には元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任しています。
    1914年(大正3年)には内大臣に任命されるも1916年(大正5年)に内大臣在任中に胃病で倒れて胆嚢炎を併発し、そのまま療養中に逝去(享年75歳)されています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めての「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い立ち寄った「九段坂公園」に『大山巌像』があることを知りました。
    『大山巌像』を見ていると彫刻家「新海竹太郎」が騎兵隊に約8年間にわたり在隊し、馬を身近に感じながら馬の彫刻に興味を持っていたのことで馬像がとてもリアルに感じられるとともに幕末期から激動の時代で活躍した『大山巌』の人生を改めて学び楽しめました。
    逸話となりますが、逝去される間際の意識朦朧の状態で”兄さぁ~”とつぶやく『大山巌』に対し、”西郷さんにやっと会えたのね”と話しかけたとされる妻「捨松」の言葉が胸に刺さります・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    馬像がとてもリアルに感じられます。

  • 世界中の主要メディアが紹介した猫の駅長”たま”をモチーフにしたリニューアル列車です!

    投稿日 2022年01月16日

    たま電車 和歌山市

    総合評価:4.0

    『たま電車』は、経営モットーを”日本一心豊かなローカル線になりたい”として2005年(平成17年)に設立した「和歌山電鐵」が2006年(平成18年)に「南海電気鉄道」から引き継ぎ運営を開始した「和歌山駅」(和歌山市美園町)から「貴志駅」(紀の川市貴志川町)までの全14駅の区間(路線距離:14.3キロメートル)を全線単線で結ぶローカル線「貴志川線」で運行している車両であり、2007年(平成19年)に「貴志駅」の駅長に就任した三毛猫の「たま」をモチーフに整備された”リニューアル列車”の第3弾として2008年(平成20年)から運行開始しています。
    「貴志川線」の”リニューアル列車”は、『たま電車』のほかに第1弾として2006年(平成18年)から運行している「貴志駅」周辺の特産品であるイチゴをモチーフにした「いちご電車」(第5回日本鉄道賞表彰選考委員会特別賞を受賞)を皮切りに第2弾として2007年(平成19年)から運行している「おもちゃ電車」、さらに第4弾が「和歌山電鐵」の「貴志川線」運営開始10周年にあわせて2016年(平成28年)から運行している紀州・和歌山を代表する特産品の梅「南高梅」をモチーフにした「うめ星電車」があります。
    この”リニューアル列車”のデザインは、JR九州が誇る豪華寝台列車「ななつ星」をはじめとする車両デザインで脚光を浴び、さまざまな賞を受賞している工業デザイナーでありイラストレーターの「水戸岡 鋭治」氏が手掛けています。
    ちなみに三毛猫の「たま」は、「南海電気鉄道」時代の「貴志駅」倉庫脇に猫小屋を設置して親猫と一緒に駅売店で飼われていた子猫であり地元の人達に親しまれていましたが、「貴志川線」廃止検討の中で「和歌山電鐵」に経営が移管されると猫小屋の設置場所が公有地に代わり猫たちの居場所が失われていました。
    そのような状況の中で運営を開始した「和歌山電鐵」社長が新たな「貴志川線」開業セレモニーの会場となった「貴志駅」を訪れ、式典終了後に「たま」と出会い「たま」の目を見つめていると”何でもするので駅に置かせてください”と心に訴えかけられたような気持ちになるとともに社長の脳裏に猫の駅長姿が思い浮かび、招き猫として「貴志川線」の救世主になって欲しいと願いを込めた社長の発案で「たま」を無人駅化となった「貴志駅」の駅長に任命しています。
    「たま」の駅長就任は、ニュースなどで国内のほか世界中の主要メディアが紹介し、さらにSNSでも拡散されたことにより人気の観光スポットとなっています。
    また、2010年(平成22年)になると「水戸岡 鋭治」氏のデザイン設計による「貴志駅」新駅舎となる「たま」の駅長室のほかギャラリー、カフェなどを併設した「たまミュージアム貴志駅 駅舎」が竣工し、「たま」駅長をモチーフにネコの目をイメージした天窓付きの檜皮葺き屋根が特徴的な現在の木造平屋建ての建物には、世界中から観光客が集まるようになっています。
    その後の2015年(平成22年)に「たま」は老衰による急性心不全で亡くなり、社葬の席で名誉永久駅長に任命され「たま大明神」として「貴志駅」ホームにある「ねこ神社」に祀られています。
    今回は、地元の方が運転する自動車に乗車した際に世界中のメディアが訪れた場所を紹介するとして「貴志駅」に立ち寄りましたが、「貴志駅」周辺に駐車場がないため運転手の方に数分間待ってもらい写真撮影をするため小走りで駅舎内に入りました。
    駅舎内には、初代「たま」から駅長を引き継いだ「たまⅡ世(通称:ニタマ)」がいる駅長室(ガラス張りの猫小屋)前に数名の方が写真撮影で囲んでおり、「たま」人気が健在であることが伺えました。
    先ずは、ホームに向かい偶然にも出発直前の『たま電車』が停車中で外観写真を撮影してから「ニタマ」の写真撮影をしている先客の後列に並び何とか「ニタマ」の写真撮影もでき「貴志駅」をあとにしましたが、バタバタと数分間で写真撮影しただけなので、機会があれば『たま電車』に乗車し内装および車窓からの風景や「たまミュージアム貴志駅 駅舎」内の各施設を写真撮影したり「たまカフェ」でくつろいでみたいと思います。

    旅行時期
    2021年11月
    コストパフォーマンス:
    3.0
    今回は乗車していませんが、観光の場合は1日乗車券が便利です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日の10時ごろでしたが、貴志駅のたまⅡ世駅長(通称:ニタマ)を写真撮影する方が数名いました。
    バリアフリー:
    3.0
    貴志駅ホームに上がるのに数段の段差があります。
    乗り場へのアクセス:
    2.5
    貴志駅ホームで写真撮影しましたが、駅周辺に駐車場施設はありません。

  • 総客室数13室のアットホームな雰囲気の旅館です!

    投稿日 2022年01月09日

    丸浅旅館 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    『丸浅旅館』は、紀の川市粉河に鎮座する日本国内で最も歴史のある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」の第三番札所であり、奈良時代末期となる770年(宝亀元年)に創建したとされる「粉河寺」門前に位置する総客室数13室(和室11室・洋室ツイン2室)のアットホームな雰囲気の旅館です。
    『丸浅旅館』へのアクセスは、JR和歌山線「粉河駅」より「粉河寺」を結ぶ「粉河とんまか通り(県道124号)」を北側の「粉河寺」方向に徒歩12分程度(およそ900メートル)となります。
    ちなみに通りの名称となっている”とんまか”とは、「粉河寺」の鎮守である「粉河産土神社」の例祭として和歌山市和歌浦に鎮座する「紀州東照宮」の大祭「和歌祭」、田辺市東陽に鎮座する「闘鶏神社」の例大祭「田辺祭」とともに「紀州三大祭」のひとつに数えられる「粉河祭」(毎年7月の最終土曜日・日曜日に開催)において奉納されるきらびやかに飾り付けられた「だんじり」の運行にあわせて打つ太鼓の音に由来します。
    今回は、和歌山県で開催された「紀の国わかやま文化祭2021」(国民文化祭)の催しに参加する家族に同行し、プライベートとしては初めて和歌山県を訪れ『丸浅旅館』に宿泊しました。
    『丸浅旅館』の館内は、1階に食事処(朝食時に利用しました)とあわせて男女別に3・4人程度で利用できる小規模な浴場施設(温泉ではありません)があり、2階には宴会場(夕食時に利用しました)、2階・3階には客室が配置されています。
    また、3階建ての建物ですがエレベーター設備(1基)が設置されているものの建物が増改築されている為なのか分かりませんが客室階の廊下に3段の段差があるのが少し気になりました。
    宿泊した客室は、”二間続きの和室”タイプで家族4人での利用でしたが部屋の広さは申し分なく、部屋の窓からは「粉河寺」境内最古の建造物とされる徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代にあたる1706年(宝永4年)に建立された朱塗りの総欅造りの楼門であり、1996年(平成8年)に国の「重要文化財」に指定されている「大門」の重量感がある屋根瓦を望むことができましたが、窓が小さく室内がうす暗く感じるのが気になりました。
    夕食については、「国民文化祭」の催しに参加される皆さんと宴会場で和気あいあいとバランスの良いメニューでどれも美味しくいただくことができました。
    特にお腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    浴場施設については、浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さなので利用状況を気にする必要があり、洗い場もシャワーの水圧が安定しないで少し弱く感じるなど不便な部分がありました。
    そのほか『丸浅旅館』周辺には、「粉河寺」以外にも道路向いに鎮座する「大神社」(祭神:天照皇大神、創建年代不詳)境内にパワースポットとして存在感のある樹齢1000年余りと推定され紀ノ川市の「天然記念物」に指定されている御神木である「大楠樹」(高さ約25メートル・幹廻り約15メートル)があり、旅館のロケーションとしては申し分なく、宿泊日の夕方と翌朝に旅館周辺を散策して廻り楽しめました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩12分程度(約900メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    客室:
    3.5
    二間続きの和室タイプを4人での利用で部屋の広さは申し分ありませんが、窓が小さく室内がうす暗く感じました。
    接客対応:
    3.5
    アットホームな雰囲気の旅館です。
    風呂:
    3.0
    浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さです。
    食事・ドリンク:
    3.5
    お腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    バリアフリー:
    3.0
    エレベーター設備(1基)が設置されていますが、客室階の廊下に3段の段差があります。

  • 大都市・江戸を支えた神田上水の守護神を祀った神社です!

    投稿日 2022年01月04日

    水神社 目白

    総合評価:3.5

    『水神社(すいじんじゃ)』は、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から「江戸川橋」をわたり「江戸川公園」のある荒川水系の一級河川「神田川」左岸側(北側)に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路「神田川桜並木」をおよそ800メートルほど「神田川」を上流方向(西側)に進んだところに架かる「駒塚橋」北側にあたる文京区目白台1丁目の武蔵野台地東端に位置する「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台に向かう傾斜地に鎮座する小規模な神社です。
    この『水神社』の創建時期は不詳ですが、言伝えによれば水神がかつてあった「椿山八幡宮」社司の夢枕に立ち”我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり”と告げたため現在地に水神を祀ったとされており、祭神として港・河口・水門の神(水戸神)とされる兄妹であり夫婦でもある「速秋津彦命」・「速秋津姫命」および第15代「応神天皇」であり武運・鎮守の神とされる「誉田別命」が祀られています。
    ちなみに「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)当時の「江戸城」南側エリアは、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がり、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であったため「江戸城」を中心とした都市整備をするうえで生活用水となる飲料水を確保することが重要課題となっていました。
    そのため江戸時代初期に現在の神田・日本橋エリアへ生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として「神田上水」を整備するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)さらに「善福寺池」(現:善福寺公園)および「妙正寺池」(現:妙正寺公園)の補助水源が合流し、現在の『水神社』前を流れる「神田川」のおよそ300メートル下流に架かる「大滝橋」あたりに「神田川」から上水を取水口に取り込むための「大洗堰」が築かれていました。
    また、徳川幕府・第5代将軍「徳川吉宗」の時代である1732年(享保17年)に江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げた「江戸砂子温故名跡誌」の中でも『水神社』について”上水開けてより関口水門の守護神なり”とした記載が残されているほかに徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中でも絵図とともに”上水の守護神を祀らん”とした記載が残されているなど大都市化していく江戸の街を支える重要な位置付けの施設であったことを伺うことができます。
    そのほかに「神田上水」の恩恵にあずかった神田・日本橋エリアの多くの人々が『水神社』を参詣していたとされ、南北朝時代(1336年から1392年)から椿が自生していたと伝わる「椿山」(現:椿山荘)と呼ばれる景勝地とされていた「目白台(関口台地)」からは清らかな「神田川」の流れから現在の「早稲田」周辺に広がる田園地帯さらに「富士山」まで望むことがでる行楽の場になっていたとも伝えられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に初めて「神田川」に架かる「駒塚橋」北側傾斜地に鎮座する『水神社』に立ち寄りました。
    「駒塚橋」前から急な石段の参道を見上げると石段の頂部に参道を挟むように存在感のある大イチョウが2本並び境内がどのようになっているのか期待感が湧いてきますが、石段を上り力強く根を広げた大イチョウの奥には大イチョウとは対照的な祭神を祀る小さな祠のみがひっそりと建っており少し期待外れな感じがありました。
    但し、その歴史を調べていくと世界有数の大都市となった江戸府内の生活用水を供給した「神田上水」の守護神として、派手な社でなく控えめでひっそりとしていてよいと感じてきました。
    『水神社』に立ち寄った時期は、夏場の暑い時期でしたが都心でありながら木々の緑が多く存在するエリアであり、『水神社』のほかにも歴史散策などで楽しめるエリアなので機会があれば立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩12分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の昼ごろに立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    境内は傾斜地で参道は急な石段です。
    見ごたえ:
    3.5
    建物は祭神を祀る小さな祠のみですが、境内にある力強く根を広げた2本の大イチョウは存在感があります。

  • 江戸時代初期に干潟地を埋立した人工島が始りです!

    投稿日 2021年12月30日

    佃島 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『佃島』は、江戸時代初期に「江戸湊」として鉄砲のように細長い形状の「鉄砲州」(現在の中央区南東部に位置する隅田川の右岸沿いとなる聖路加病院がある明石町から湊のあたり)と呼ばれる砂州の沖合いにあった「石川島」(現在の中央区佃2丁目北側)南側の干潟地を徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1644年(正保元年)に「徳川家康」と深い関りがあり、かつて摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の名主であった「森孫右衛門」と漁師たちが徳川幕府より拝領したこの地を居住地にするために埋立した人工島(現在の中央区佃1丁目あたり)の名称です。
    ちなみに「徳川家康」と摂津国佃村の「森孫右衛門」と漁師たちとの関係は、1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起きた際に小姓衆などわずかな手勢で大坂・堺に滞在していた「徳川家康」が当時の本拠地である三河国「岡崎城」まで決死の覚悟で戻る際に「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船のおかげで無事に危機を脱出することができた説のほか、天正年間(1573年から1593年)に「徳川家康」が京都上洛の際に「住吉大社」(現在の大阪市住吉区住吉2丁目)を参拝するにあたり川を渡る渡し舟がなく難儀していたところ「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船を利用したという説が存在しています。
    これらの出会いが縁で1590年(天正18年)に「徳川家康」が領地替えによる江戸入府に伴い「森孫右衛門」も家康のお供を命じられたと伝えられおり、その後も1599年(慶長4年)に「豊臣秀頼」を支える五大老として「徳川家康」が「伏見城」に在城した際には、「森孫右衛門」と漁師たちが御膳魚の調達をしたほか、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代となった1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」および1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の際に大坂付近の海上偵察および本陣への状況報告を担った功績が基で「大坂表町屋敷地」を拝領したもののその土地に持主がいたため江戸に出て末永く家康公をお仕えしたい旨を申し出たことがきっかけで江戸に呼び寄せられた記述が残されており、徳川将軍家の御菜御用の命を受けて「森孫右衛門」とその一族7人および漁師33人が江戸に移住しています。
    江戸時代後期になると『佃島』は、「石川島」周辺に堆積した土砂でひとつの島のように繋がり、さらに明治時代になると隅田川の河口付近に堆積した土砂による浅瀬化が国内の近代化を進める中で欠かすことのできない船の運行に支障が生じはじめ、船の航路を確保するために堆積した土砂をさらう浚渫工事で発生した土砂を利用して『佃島』を拡張するように埋立事業計画が実施され、現在の「月島」エリアおよび「勝どき」エリアが形成されています。
    さらに「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に東京の都市部が5回にわたり「東京大空襲」に見舞われていますが『佃島』エリアは被災を免れており、現在でも「太平洋戦争」以前から続く細い路地が残る下町の住宅地が残されています。
    また、『佃島』エリアとは対照的に「石川島」エリアにかつての”日本の近代的造船業の発祥の地”とされる「旧・石川島播磨重工業」(現在のIHI)の東京工場跡地がタワー型超高層マンションの先駆けとなる再開発事業「大川端リバーシティ21」として1986年(昭和61年)から整備されています。
    『佃島』エリアは、東京メトロ・有楽町線「月島駅」が開業する以前の「石川島」エリアにタワー型超高層マンションが建ち並び始めた頃に散策したことがありますが、今回は「築地」エリアを訪れた際に足の延ばして久しぶりに『佃島』エリアに立ち寄り「佃公園(佃堀)」から写真撮影をしてみました。
    およそ35年ぶりに『佃島』エリアに立ち寄りましたが、タワー型超高層マンション群をバックに江戸時代初期の漁師町を想像できるとともに現在も下町の雰囲気が漂う「佃堀」と赤い欄干の「佃小橋」は、撮影スポットとしてお勧めできます。
    機会があれば、江戸時代後期の創業の老舗佃煮屋の「佃源田中屋」(創業:1837年)・「丸久」(創業:1843年)・「天安」(創業:1859年)などに立ち寄りながら『佃島』エリアをゆっくりと散策してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ有楽町線・月島駅6番出口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    下町の住宅街なので込み合うことはありません。
    バリアフリー:
    3.5
    平坦な街並みです。
    見ごたえ:
    4.0
    佃公園(佃堀)からの風景は、撮影スポットとしてお勧めできます。

  • 国指定の重要文化財や名勝など見どころが多い寺院です!

    投稿日 2021年12月12日

    粉河寺 岩出・紀の川

    総合評価:4.5

    『粉河寺』は、山号を「風猛山」と称する「天台宗」系の宗派のひとつに数えられる「粉河観音宗」の総本山であり、「千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)」を絶対秘仏の本尊として祀る「紀の川市粉河」に位置する寺院です。
    『粉河寺』の創建については、1953年(昭和28年)に日本最古の縁起絵巻のひとつとして国宝に指定されている「紙本著色粉河寺縁起」によると奈良時代末期となる770年(宝亀元年)に紀伊国那賀郡に住む猟師「大伴孔子古(おおとものくじこ)」が建てた草庵がはじまりと伝えられています。
    ちなみに「紙本著色粉河寺縁起」は、紀伊の観音霊場『粉河寺』の本尊にまつわる縁起を描いた鎌倉時代初期の作品とされており、『粉河寺』が寺宝として所蔵し「京都国立博物館」に寄託されています。
    また、平安時代になると「清少納言」が執筆した随筆「枕草子」および「藤原明衡」が執筆した「新猿楽記」に『粉河寺』が記されているなど観音霊場として信仰を集めていたことが伺われ、鎌倉時代には寺領4万石余りの境内に「七堂伽藍」のほか550坊を有する数千人の僧徒で隆盛を極めていたと伝えられています。
    桃山時代の「羽柴秀吉」が豊臣の姓を賜り関白となる1585年(天正13年)には、「羽柴秀吉」による紀州攻めにより『粉河寺』寺領のほとんどが焼失するとともに現在の国宝である「紙本著色粉河寺縁起」もこのときの火災により焼損しています。
    その後の江戸時代になると紀州徳川家をはじめ信徒の寄進などにより『粉河寺』が再興されており、現在の「本堂」が徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代となる1720年(享保5年)に再建されているほか、「大門」が1706年(宝永4年)、「千手堂」が1760年(宝暦10年)、「中門」が1832年(天保3年)にそれぞれ建立されており、1996年(平成8年)にそれぞれ4棟あわせて国の「重要文化財」に指定され、「本堂」前庭の3メートル程度の高低差部分の土留めとして桃山時代に築かれたとされる石組みの「庭園(枯山水)」が1970年(昭和45年)に国の「名勝」に指定されているなど歴史のある見どころの多い寺院となっています。
    そのほか近畿地方を中心とする2府5県(和歌山県、大阪府、兵庫県、京都府、奈良県、滋賀県、岐阜県)に跨り総距離が約1000キロメートルにおよぶ観音信仰の33箇所の霊場を札所とした日本国内で最も歴史がある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」において『粉河寺』が第三番札所に数えられています。
    「西国三十三所観音霊場」については、2019年(令和元年)に地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー”1300年つづく日本の終活の旅~西国三十三所観音巡礼~”として文化庁の「日本遺産(Japan Heritage)」に認定されています。
    今回は、『粉河寺』門前にある「丸浅旅館」に宿泊する機会があり、夕方15時過ぎと翌朝9時ごろの二日にわたり『粉河寺』境内を散策して廻りました。
    『粉河寺』境内の建造物としては、最古となる朱塗りの総欅造りの楼門となる「大門」の大きさに圧倒されながら境内に入り「中門」、「庭園(枯山水)」、「千手堂」、「本堂」を中心とした国指定の重要文化財や名勝など見どころが多く写真撮影などをしながら楽しむことができましたが、ところどころで建物の朽ちている部分や土壁の崩れている部分なども目に留まり修復するための資金繰りが難しいのか気になりました。
    『粉河寺』境内には、桜の木もあったので機会があれば桜の咲く季節にまた訪れてみたい寺院です。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩15分程度(約1キロメートル)です。
    景観:
    4.5
    国指定の重要文化財や名勝など見どころが多い寺院です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    土曜日の15時過ぎと日曜日の9時ごろの立ち寄りでしたが、境内を散策する人はまばらにいました。
    バリアフリー:
    3.0
    境内は、中門・本堂ほか各所に石段などの高低差があります。

  • 近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています!

    投稿日 2021年12月05日

    築地本願寺 築地

    総合評価:4.5

    『築地本願寺』は、中央区築地3丁目の「晴海通り(都道304号)」と「新大橋通り(都道50号)」が交差する「築地四丁目」交差点東側の角地に位置する「浄土真宗本願寺派」の寺院であり、本尊として「阿弥陀如来」を祀っています。
    『築地本願寺』の創建については、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1617年(元和3年)に現在の京都市下京区に位置する山号が「龍谷山」と称する「浄土真宗本願寺派」の本山である「本願寺(西本願寺)」・第12世「准如上人」の発願により、当時の「江戸城」外濠に築かれていた「浅草御門」と呼ばれる桝形の城門「浅草見附」南側の横山町(現:日本橋横山町、東日本橋付近)に「本願寺(西本願寺)」別院として「浅草御堂」と称する堂宇を開基したのが始まりとされています。
    当時の「浅草御堂」は、江戸庶民から「江戸御坊」などと呼ばれるようになり信仰を集めていましたが、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」に数えられ江戸時代の中で最大の延焼面積および死者数におよんだ「明暦の大火」(通称:振袖火事)により「浅草御堂」を含め江戸府内の大半が焼失しています。
    この大火によって焼失した江戸府内の新たな区画整理を取りまとめた徳川幕府により「浅草御堂」の再建代替え地が当時の海上であった現在地に定められ、代替え地に新たな本堂を建立するために佃島の門徒が中心となって実施された埋め立て造成事業により築かれた土地が”築地”という寺院の名称および寺院周辺の地名の由来となり、1679年(延宝7年)に本堂が再建されています。
    また1923年(大正12年)の「関東大震災」が基で発生した火災により再び本堂を焼失し、1934年(昭和9年)に当時の「東京帝国大学(現:東京大学)」名誉教授かつ建築史家の「伊東忠太」博士の設計により現在の日本の伝統的な寺院建築様式と異なるインドなどのアジアの古代仏教建築を模した外観の本堂が再建されています。
    2014年(平成26年)になるとインドの古代仏教建築を主たる素材として外観を構成しながら内部を日本の伝統的意匠要素を中心に濃密で均整のとれた意匠にまとめられている寺院建築の傑作として”本堂”とあわせて”大谷石の石塀”ならびに”三門門柱(正門・北門・南門)”が国の「重要文化財」に指定されています。
    この現在の『築地本願寺』の本堂については、以前より書物などで関心をもっていた寺院のひとつであり、今回は平日の午後に「築地」エリアを訪れる機会があったので短時間でしたが初めて『築地本願寺』に立ち寄り参拝しました。
    『築地本願寺』境内に入り日本の伝統的な寺院建築様式と異なりオリエンタルな雰囲気が漂う特徴のある本堂の外観を眺めていると仏教が日本に伝来する以前のシルクロードを時空を超えて仏教のルーツである「古代インド」に遡るような近代的な鉄筋コンクリート造の建物でありながら不思議な感覚をおぼえました。
    そのほか本堂内部の参拝スペースに入ると側廊と列柱で囲まれた天井高の高い中央部分に参拝者用の椅子席が配置され、出入口部分の上部にパイプオルガンも設置されているなど、どことなく教会の礼拝堂をイメージする空間が広がっており、その天井部分には日本の伝統的な寺院建築様式である”折り上げ格天井”で構成されているなどインパクトのある独特な雰囲気の中で改めて神聖な気持ちとなり参拝することができました。
    今回は、午後3時半ごろに短時間での参拝でしたが本堂建物の見所も多く、機会があれば時間をかけて建物細部を見て廻りながら、また参拝に立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ日比谷線・築地駅1番出入口を出たところです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後3時半でしたが、参拝者は数名でした。
    バリアフリー:
    5.0
    エレベーター、手摺、スロープ、トイレほか対策が施されています。
    見ごたえ:
    5.0
    本堂建物の内外各所に見所も多く、近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています。

  • 緑豊かな樹木に囲まれた居心地のよい休憩場所としてお勧めできます!

    投稿日 2021年11月28日

    江戸川公園 目白

    総合評価:4.0

    『江戸川公園』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルの区間となる文京区関口2丁目に位置する文京区の親水緑地公園です。
    公園の名称については、江戸時代初期に「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで欠かすことのできない生活用水となる飲料水を確保するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」に加えて「善福寺池」から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」から発する「善福寺川」の水源を合流させて整備された「神田上水」の取水口に上水を取り込むために築かれていた「大洗堰」から下流におよそ2キロメートル下った区間(現在の神田川に架かる大滝橋付近から飯田橋付近まで)を流れる現在の「神田川」が江戸時代に「江戸川」と呼ばれていたことに由来します。
    『江戸川公園』が整備された時期については、1913年(大正2年)から実施された「神田川」護岸改修工事の完成に合わせて1919年(大正8年)に整備されており、「神田川」の治水事業に関して尽力した「大井玄洞」の功績をたたえて胸像が1928年(昭和3年)に『江戸川公園』敷地内に建立されています。
    また、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた江戸時代初期に築かれた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節するための「角落し」と呼ばれる設備であった板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)が「神田上水取水口」に関する遺構の一部として『江戸川公園』敷地内に移設されています。
    そのほか『江戸川公園』は、「江戸川橋」袂の広場から「神田川」に沿って西側に進むと敷地北側部分が武蔵野台地の東端にあたる「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台から南側の「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」に挟まれた傾斜地を活かした緑豊かな緑地に遊歩道が整備されており、時計塔のあるパーゴラ付きのベンチのほかにも各所にベンチが設置され、藤棚、傾斜地を活用した滑り台などの遊具施設もあり子供から高齢者まで幅広い年齢層が利用できる憩いの場となっています。
    以前にも「神田川」沿いの「神田川桜並木」を数回にわたり通行していますが『江戸川公園』を素通りおり、今回は「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に久しぶりに「神田川桜並木」を通り短時間でしたが『江戸川公園』敷地内の写真撮影をして廻り「大井玄洞翁の胸像」および「神田上水取水口の石柱」の存在を知ることができました。
    『江戸川公園』に立ち寄ったのが8月の昼過ぎでしたが、公園敷地内は都心であることを感じさせない緑豊かな樹木に囲まれ木陰が多く、各所にベンチが配置されており真夏の暑い日でも居心地のよい空間の休憩場所としてお勧めできます。
    『江戸川公園』のある「神田川」沿いは、桜の名所にもなっているので機会があれば桜の咲く時季にまた立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から江戸川橋を渡ったところです。
    景観:
    4.0
    神田川に沿って約500メートルにおよぶ文京区の親水緑地公園です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    局地的な豪雨の後で、パーゴラ付きのベンチに人がいる程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    敷地北側が武蔵野台地の東端にあたる目白台(関口台地)の傾斜地に遊歩道があります。

  • 短時間の滞在でしたが、リゾート気分を満喫できました!

    投稿日 2021年11月27日

    和歌山マリーナシティ 和歌山市

    総合評価:4.0

    『和歌山マリーナシティ』は、1994年(平成6年)に開催された体験型の地方博覧会「JAPAN EXPO 世界リゾート博(通称:リゾート博)」の会場として1989年(平成元年)から約6年間におよぶ造成工事により風光明媚な和歌山市毛見沖(和歌山湾)に浮かぶ49ヘクタールの人工島として開発されたエリアの名称となります。
    現在では、国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)として「わかやまマリーナシティ海の駅」の登録を受けている海に囲まれた「リゾートアイランド」として、ヨーロッパの街並みを再現するとともにアトラクション施設を完備したテーマパークの「ポルトヨーロッパ」(入場無料)を中心に生マグロの解体ショーを毎日開催するなど昭和レトロな商店街の雰囲気が漂う物販コーナーと飲食コーナーが集結した「黒潮市場」、海底およそ1,500メートルの1億年前の地層から湧き出た太古の源泉(泉質:ナトリウム-塩化物泉)を取り込み和歌山湾を一望できる天然温泉施設「紀州黒潮温泉」、全客室(99室)がオーシャンビューのリゾートホテル「和歌山マリーナシティホテル」の各種リゾート・レジャー施設のほかに「リゾートマンション」などで構成されています。
    『和歌山マリーナシティ』へのアクセスは、公共交通機関を利用すると「和歌山駅」または「和歌山市駅」から路線バスで約1時間前後、「海南駅」から路線バスで約20分前後となります。
    今回は、プライベートとして初めて和歌山県を訪れた際に紀の川市粉河から海を見て和歌山土産などショッピングをしたいという家族とともに半日を利用して『和歌山マリーナシティ』に立ち寄りました。
    『和歌山マリーナシティ』の中心施設となる「ポルトヨーロッパ」は、中世イタリアの地中海沿岸にある港街となる漁村をモチーフにしたコンパクトなテーマパークですが、ヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しており、アトラクション施設を利用しませんでしたが再現されたヨーロッパの街並みを写真撮影をしながら楽しむことができました。
    また「ポルトヨーロッパ」では、夜間にイルミネーションや花火などのイベントも開催されているので機会があれば、各種イベントにあわせて立ち寄りたいと感じました。
    そのほか「黒潮市場」に立ち寄り和歌山土産などのショッピングをしたり、昼の12時前でしたがランチで込み合う前に館内1階の昭和レトロな雰囲気のある商店街自慢の海鮮丼を購入し、海辺の飲食テラスで潮風を感じながら新鮮なネタが自慢の海鮮丼で少し早めのランチを楽しみました。
    「黒潮市場」では、館内1階で毎日12時30分から生マグロの解体ショーが開催されており、解体ショーの時間にあわせて「黒潮市場」に人か集まってくるので少し早めにゆったりとランチを済ませることができてよかったです。
    ランチ後は、「黒潮市場」に向ってくる人も増えてくるので生マグロの解体ショーを見るのをやめて「ポルトヨーロッパ」からヨットなどが停泊する”マリーナエリア”に移動し、「和歌山マリーナシティホテル」1階カフェ「カテリーナ」のガーデンテラスで海外にいるようなリゾート気分をゆったりと満喫することができました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    和歌山駅から路線バスで約1時間前後です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”は入場無料です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日に立ち寄りましたが、昼頃から人出が増えてきました。
    施設の快適度:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”はコンパクトな施設ですがヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しています。

  • 現在の中央区京橋1丁目で始まったとされる”江戸歌舞伎”の記念石碑です!

    投稿日 2021年11月17日

    江戸歌舞伎発祥の地 日本橋

    総合評価:3.5

    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑は、1957年(昭和32年)にかつて運河として江戸時代に開削されていた約600メートルの「京橋川」に架けられていた「京橋」の北西側橋詰(現:東京高速道路会社線(通称:KK線)高架下)部分となる現在の中央区京橋3丁目に位置する「京橋大根河岸おもてなしの庭」の一画に建立されています。
    ちなみに『歌舞伎』は、「本能寺の変」が起こる前年の1581年(天正9年)ごろから文献に残されている幼女(ややこ)による小歌踊りの芸能「ややこ踊り」を基にして、「出雲大社」に仕える巫女であったとされる「出雲阿国」が「出雲大社」勧進のため諸国を巡回していた際に「かぶき踊り」を創始し、「徳川家康」が征夷大将軍として徳川幕府を開いた1603年(慶長8年)に京都の「北野神社」で当時の都市部で流行していた世間の常識はお構いなしの奇抜な扮装に傾く「かぶき者」をまねた装いで「かぶき踊り」を演じたのが始りとされており、「かぶき者」の奇抜な扮装に傾く”傾(かぶ)く”が『歌舞伎』の語源となっています。
    また、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1624年(寛永元年)になると道化方として滑稽なしぐさの演技「猿若」の名手であった「猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)」が現在の「日本橋」と「京橋」をつなぐ「中央通り(国道15号)」と「八重洲通り(都道408号)」が交差する「日本橋三丁目」交差点南側の中央区京橋1丁目あたりとなる当時の堀割に架けられていた「中橋」の南地に「猿若座(後の中村座)」の櫓をあげたのが『江戸歌舞伎』の始まりとされています。
    その後の1629年(寛永6年)になると『女歌舞伎』は風紀を乱すとの理由で禁止となり、その後に男性役者のみによる”芝居・踊り・邦楽”で構成された現在の『歌舞伎』が確立されています。
    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑については、テレビの街歩き番組などでよく紹介されたりするので以前より存在することを知っていましたが、今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑に立ち寄り写真撮影をしてみました。
    この記念石碑中央に刻み込まれている”江戸歌舞伎発祥之地”の文字は、徳川幕府・第10代将軍「徳川家治」の時代である1779年(安永8年)に「九代目・中村勘三郎」より「中村座」の表看板や番付などの揮毫の依頼を受けた書道指南「岡崎屋勘六(雅号:勘亭)」が徳川幕府制定の公用書体であり手習いの手本として江戸庶民にも広く普及していた「御家流」の書体に装飾など工夫を加えて考案した「勘亭流」と呼ばれる書体であり、この書体が評判となり歌舞伎文字として現在に至っています。
    「勘亭流」の特徴は、筆太で隙間なく内へ丸く曲げるように書くことで”空席が無く客を内へ内へと呼び込むことで興行の無事円満を祈る”という意味が込めれれています。
    記念石碑両端部分には、歌舞伎役者の姿がレリーフで描かれており、それぞれのレリーフ下部に刻まれている説明文が日本語と英語の2種類あるのをみて、建立当初から国の「重要無形文化財」でありユネスコの「無形文化遺産」でもある『歌舞伎』が日本固有の伝統芸能のひとつとして世界に向けてアピールしていたことを実感しました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅3番出入口から約120メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    目立つものは特にありません。

  • 明治天皇がこの地に立ち寄ったことを示す記念石碑が立っています!

    投稿日 2021年11月03日

    明治天皇野立所跡 池袋

    総合評価:3.0

    『明治天皇野立所跡』は、ターミナル駅(JR東日本・西武鉄道・東武鉄道・東京メトロ)である「池袋駅」中央地下道と繋がる「東口(中央)」出入口前からロータリー状となっている「明治通り(都道305号)」と豊島区の「グリーン大通り(特別区道41-21)」からなるT字型の「池袋駅東口」交差点から正面の南東(護国寺)方向に延びる池袋東口のメインストリートとなる「グリーン大通り」を真っすぐ約300メートルほど先の信号機のある「南池袋公園前」交差点(左手側)の「グリーン大通り」に面した豊島区東池袋1丁目に位置する21階建てオフィスビルとして2011年(平成23年)に竣工した現在の「ニッセイ池袋ビル」裏手敷地内の一画に建てられている記念石碑によって跡地であることが示されています。
    この「御野立所」とは、高貴な方が移動中に野外で休憩する場所を意味し、明治時代以降に天皇が全国各地を行幸するようになってから各地の「御野立所」で記念碑が建てられるようになり、この場所にある記念石碑もその中のひとつに数えられます。
    記念石碑とともに石板に彫り込まれた案内文があり文章を読み取れない部分もありますが、1875年(明治8年)に「明治天皇」が「近衛兵」の演習を観閲をするため板橋方面に出向いた際にこの地で休憩されたようです。ちなみに「近衛兵」は、明治維新の際に設置された御親兵と呼ばれた天皇の護衛兵であります。
    『明治天皇野立所跡』のある現在の東池袋から南池袋一帯は、江戸時代に旗本三千石・中西公の拝領地であり大半が北豊島郡雑司ヶ谷村に属しその地名の通り雑木林に覆われている「中西の森」と呼ばれる丘陵地帯となっており、明治時代後半に東武鉄道など国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった「根津嘉一郎」がこの一帯の土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになり、雑木林に覆われた丘陵地帯は太平洋戦争が終結するまで残されています。
    この東池袋エリアは今までにも幾度となく立ち寄っていますが、今回初めて『明治天皇野立所跡』記念石碑の存在に気付きしました。
    現在では、「明治天皇」が休憩した当時の面影を感じることはできませんが、記念石碑の存在を知り色々と調べることで「明治天皇」がこの地に立ち寄った当時に「中西の森」と呼ばれる雑木林が「根津山」と呼ばれるようになり太平洋戦争が終結するまで雑木林が残されていたことを学び楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅・東口(中央)出入口前からグリーン大通りを真っすぐ約300メートルほど先の交差点(南池袋公園前)を左折してすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって記念石碑を見ている人は殆どいません。
    バリアフリー:
    3.0
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    2.5
    目立つものは特にありません。

hiroさん

hiroさん 写真

2国・地域渡航

17都道府県訪問

写真 | QA掲示板 | 行ってきます | 掲示板 クリップ

hiroさんにとって旅行とは

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

大好きな理由

行ってみたい場所

現在2の国と地域に訪問しています

拡大ボタンを押すと地図が
動かせます。

現在17都道府県に訪問しています