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hiroさんのクチコミ(5ページ)全481件

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  • 明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています!

    投稿日 2022年02月13日

    京橋記念碑 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『京橋記念碑』は、「日本橋」を起点に南側の銀座エリアを南北に横断し「新橋交差点」で「第一京浜(国道15号)」となる現在の「中央通り(国道15号)」の中央区銀座1丁目(現在の「銀座通り口」交差点付近)にかつて存在していた「京橋川」に架かる橋梁(『京橋』)の親柱であり、1959年(昭和34年)に「東京高速道路」の建設に伴い埋め立てられた「京橋川」とあわせて撤去された橋梁の歴史を伝える遺構の記念碑として明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています。
    ちなみに「京橋川」および『京橋』については、「徳川家康」が領地替えによる江戸入府後に実施した江戸府内の大改造に伴い「江戸城」を囲む外濠(現在の東京高速道路・西銀座ジャンクション付近)から東側の八丁堀・桜川(現在の首都高速都心環状線・京橋ジャンクション付近)に合流までの延長およそ600メートルとなる区間を開削した運河であり、「平川」(現在の日本橋川)に架橋された「日本橋」と同時期とされる徳川幕府が誕生した1603年(慶長8年)に木造太鼓橋の『京橋』が架橋されたと伝えられています。
    また、「東海道」の起点である「日本橋」から京へ上る最初に渡る橋であったことから橋の名称が『京橋』と呼ばれ、橋の修復費などは徳川幕府が負担する「御普請橋」であり、親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した特別の橋として江戸時代から重要視されていた橋であることが伺えます。
    江戸府内において親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみであり、江戸時代に描かれた浮世絵でも『京橋』親柱頂部の「擬宝珠」を確認することができます。
    1875年(明治8年)になると「石造アーチ橋」(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートル)の『京橋』が架橋され、この明治期に架橋された江戸時代から引き継がれている「擬宝珠」付きの親柱が現在の北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に設置されています。
    その後の1901年(明治34年)になると「石造アーチ橋」から「鋼製アーチ橋」に架け替えられ、さらに1922年(大正11年)になると橋の拡幅工事(橋長およそ18.2メートル、橋幅およそ27.3メートル)が実施され親柱のデザインも伝統的な「擬宝珠」から照明設備付きの近代的な都市景観のドーム屋根をイメージしたモダンなデザインに一新され、この大正期に拡幅された橋の照明設備付き親柱が南橋詰跡東側に設置されています。
    『京橋』の遺構については、数年前に千代田区にある都立公園の「日比谷公園」に立ち寄った際に公園敷地内に保存されている明治期の『京橋』欄干柱を見てから、機会があればかつて『京橋』が存在していた「中央通り」の「銀座通り口」交差点周辺を散策してみたいと思っていました。
    今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて「銀座通り口」交差点に立ち寄り『京橋記念碑』となる明治期および大正期の『京橋』親柱の写真撮影をしてみました。
    「京橋川」が流れていた上空を「東京高速道路」の高架橋が通り「中央通り」の上空を跨ぐ高架橋の風景から、かつて「京橋川」に架かる『京橋』の面影を感じることはできませんが、明治期および大正期の異なるデザインの『京橋』の遺構となる親柱を眺めていると江戸時代から明治期さらに大正期へと急激に近代化が進む時の流れを実感することができました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅2番または3番出入口から約150メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    歩道から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分の遺構が記念碑となっています。

  • 馬像がとてもリアルに感じられる幕末期から激動の時代で活躍した元帥陸軍大将の騎馬像姿の銅像です!

    投稿日 2022年01月23日

    大山巌像 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『大山巌像』は、明治後期から大正期にかけて活躍した代表的な彫刻家「新海竹太郎」が1919年(大正8年)に制作した軍服を着た騎馬像姿の銅像として、千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    なお『大山巌像』が制作された当時は、「陸軍参謀本部」が置かれていた現在の千代田区永田町1丁目に位置する「国会前庭(北地区)」の一画に設置されていましたが、現在の「九段坂公園」銅像設置場所にある解説板の記載内容によると太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に「連合国最高司令官総司令部(略称:GHQ)」により、一時撤去され「東京都美術館」に預けられたのちの1969年(昭和44年)に「九段坂公園」に移転されたと記されています。
    また、太平洋戦争時の金属類回収令により『大山巌像』が撤去され太平洋戦争後に「東京芸術大学」構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され1964年(昭和39年)に「九段坂公園」に移転されたとする別途記述も存在しており、「千代田区観光協会」のホームページには”移設の年月は不明”として紹介されています。
    ちなみに『大山巌(通称:弥助)』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1842年(天保13年)に薩摩藩士の次男として誕生し、薩摩藩の尊皇攘夷派リーダー格とされる「有馬新七」の影響を受けて活動するものの1862年(文久2年)に薩摩藩内の過激化する尊皇攘夷派を粛正する「寺田屋騒動」で謹慎処分を受けています。
    その数か月後に発生した「生麦事件」(武蔵国橘樹郡生麦村にて薩摩藩主の行列を乱したとしてその場でイギリス人が殺傷された事件)がもとで、鹿児島湾において薩摩藩とイギリス艦隊との武力衝突となった「薩英戦争」により謹慎処分を解かれた『大山弥助』は、砲台の配属を命じられ近代西洋各国と国内の軍事力に大きな格差を目の当たりにし、その後に西洋砲術を国内に普及させた幕臣で伊豆韮山代官「江川英龍」のもとで砲術を学び砲術の免許皆伝を得ています。
    明治維新を向かえると1868年(慶応4年)から「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに「会津戦争」など国内各地で繰り広げられた「戊辰戦争」では「新政府軍」として新式銃隊を率いて参戦し、「会津戦争」では会津藩家老の娘「捨松」が「会津若松城」の籠城戦に参加していますがのちに『大山巌』の後妻となっています。
    「戊辰戦争」が終結すると大砲の研究に取り組み西洋の大砲を改良した「弥助砲」を考案するほか、軍事視察および軍政・砲術を研究など西洋留学を繰り返し、1874年(明治7年)に長期留学から帰京する際に『大山巌』に改名したとされています。
    さらに1877年(明治10年)に勃発した国内最後の内戦とされる「西南戦争」では、『大山巌』の15歳年上の従兄である「西郷隆盛」を盟主とした士族の武力反乱に対し、「政府軍」の別働第五旅団司令長官に任命されて『大山巌』が参戦しています。
    その後の1880年(明治13年)には陸軍卿に任命され、1885年(明治18年)になると内閣官制(内閣職権)により陸軍卿は陸軍大臣に改称となり、第1次「伊藤博文」内閣が発足し『大山巌』が初代陸軍大臣に任命されています。
    1894年(明治27年)の「日清戦争」においては陸軍大将として出征し、1898年(明治31年)になると最高顧問機関として「元帥府」が創設され「元帥」の称号を授与し、1904年(明治37年)の「日露戦争」には元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任しています。
    1914年(大正3年)には内大臣に任命されるも1916年(大正5年)に内大臣在任中に胃病で倒れて胆嚢炎を併発し、そのまま療養中に逝去(享年75歳)されています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めての「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い立ち寄った「九段坂公園」に『大山巌像』があることを知りました。
    『大山巌像』を見ていると彫刻家「新海竹太郎」が騎兵隊に約8年間にわたり在隊し、馬を身近に感じながら馬の彫刻に興味を持っていたのことで馬像がとてもリアルに感じられるとともに幕末期から激動の時代で活躍した『大山巌』の人生を改めて学び楽しめました。
    逸話となりますが、逝去される間際の意識朦朧の状態で”兄さぁ~”とつぶやく『大山巌』に対し、”西郷さんにやっと会えたのね”と話しかけたとされる妻「捨松」の言葉が胸に刺さります・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    馬像がとてもリアルに感じられます。

  • 世界中の主要メディアが紹介した猫の駅長”たま”をモチーフにしたリニューアル列車です!

    投稿日 2022年01月16日

    たま電車 和歌山市

    総合評価:4.0

    『たま電車』は、経営モットーを”日本一心豊かなローカル線になりたい”として2005年(平成17年)に設立した「和歌山電鐵」が2006年(平成18年)に「南海電気鉄道」から引き継ぎ運営を開始した「和歌山駅」(和歌山市美園町)から「貴志駅」(紀の川市貴志川町)までの全14駅の区間(路線距離:14.3キロメートル)を全線単線で結ぶローカル線「貴志川線」で運行している車両であり、2007年(平成19年)に「貴志駅」の駅長に就任した三毛猫の「たま」をモチーフに整備された”リニューアル列車”の第3弾として2008年(平成20年)から運行開始しています。
    「貴志川線」の”リニューアル列車”は、『たま電車』のほかに第1弾として2006年(平成18年)から運行している「貴志駅」周辺の特産品であるイチゴをモチーフにした「いちご電車」(第5回日本鉄道賞表彰選考委員会特別賞を受賞)を皮切りに第2弾として2007年(平成19年)から運行している「おもちゃ電車」、さらに第4弾が「和歌山電鐵」の「貴志川線」運営開始10周年にあわせて2016年(平成28年)から運行している紀州・和歌山を代表する特産品の梅「南高梅」をモチーフにした「うめ星電車」があります。
    この”リニューアル列車”のデザインは、JR九州が誇る豪華寝台列車「ななつ星」をはじめとする車両デザインで脚光を浴び、さまざまな賞を受賞している工業デザイナーでありイラストレーターの「水戸岡 鋭治」氏が手掛けています。
    ちなみに三毛猫の「たま」は、「南海電気鉄道」時代の「貴志駅」倉庫脇に猫小屋を設置して親猫と一緒に駅売店で飼われていた子猫であり地元の人達に親しまれていましたが、「貴志川線」廃止検討の中で「和歌山電鐵」に経営が移管されると猫小屋の設置場所が公有地に代わり猫たちの居場所が失われていました。
    そのような状況の中で運営を開始した「和歌山電鐵」社長が新たな「貴志川線」開業セレモニーの会場となった「貴志駅」を訪れ、式典終了後に「たま」と出会い「たま」の目を見つめていると”何でもするので駅に置かせてください”と心に訴えかけられたような気持ちになるとともに社長の脳裏に猫の駅長姿が思い浮かび、招き猫として「貴志川線」の救世主になって欲しいと願いを込めた社長の発案で「たま」を無人駅化となった「貴志駅」の駅長に任命しています。
    「たま」の駅長就任は、ニュースなどで国内のほか世界中の主要メディアが紹介し、さらにSNSでも拡散されたことにより人気の観光スポットとなっています。
    また、2010年(平成22年)になると「水戸岡 鋭治」氏のデザイン設計による「貴志駅」新駅舎となる「たま」の駅長室のほかギャラリー、カフェなどを併設した「たまミュージアム貴志駅 駅舎」が竣工し、「たま」駅長をモチーフにネコの目をイメージした天窓付きの檜皮葺き屋根が特徴的な現在の木造平屋建ての建物には、世界中から観光客が集まるようになっています。
    その後の2015年(平成22年)に「たま」は老衰による急性心不全で亡くなり、社葬の席で名誉永久駅長に任命され「たま大明神」として「貴志駅」ホームにある「ねこ神社」に祀られています。
    今回は、地元の方が運転する自動車に乗車した際に世界中のメディアが訪れた場所を紹介するとして「貴志駅」に立ち寄りましたが、「貴志駅」周辺に駐車場がないため運転手の方に数分間待ってもらい写真撮影をするため小走りで駅舎内に入りました。
    駅舎内には、初代「たま」から駅長を引き継いだ「たまⅡ世(通称:ニタマ)」がいる駅長室(ガラス張りの猫小屋)前に数名の方が写真撮影で囲んでおり、「たま」人気が健在であることが伺えました。
    先ずは、ホームに向かい偶然にも出発直前の『たま電車』が停車中で外観写真を撮影してから「ニタマ」の写真撮影をしている先客の後列に並び何とか「ニタマ」の写真撮影もでき「貴志駅」をあとにしましたが、バタバタと数分間で写真撮影しただけなので、機会があれば『たま電車』に乗車し内装および車窓からの風景や「たまミュージアム貴志駅 駅舎」内の各施設を写真撮影したり「たまカフェ」でくつろいでみたいと思います。

    旅行時期
    2021年11月
    コストパフォーマンス:
    3.0
    今回は乗車していませんが、観光の場合は1日乗車券が便利です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日の10時ごろでしたが、貴志駅のたまⅡ世駅長(通称:ニタマ)を写真撮影する方が数名いました。
    バリアフリー:
    3.0
    貴志駅ホームに上がるのに数段の段差があります。
    乗り場へのアクセス:
    2.5
    貴志駅ホームで写真撮影しましたが、駅周辺に駐車場施設はありません。

  • 総客室数13室のアットホームな雰囲気の旅館です!

    投稿日 2022年01月09日

    丸浅旅館 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    『丸浅旅館』は、紀の川市粉河に鎮座する日本国内で最も歴史のある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」の第三番札所であり、奈良時代末期となる770年(宝亀元年)に創建したとされる「粉河寺」門前に位置する総客室数13室(和室11室・洋室ツイン2室)のアットホームな雰囲気の旅館です。
    『丸浅旅館』へのアクセスは、JR和歌山線「粉河駅」より「粉河寺」を結ぶ「粉河とんまか通り(県道124号)」を北側の「粉河寺」方向に徒歩12分程度(およそ900メートル)となります。
    ちなみに通りの名称となっている”とんまか”とは、「粉河寺」の鎮守である「粉河産土神社」の例祭として和歌山市和歌浦に鎮座する「紀州東照宮」の大祭「和歌祭」、田辺市東陽に鎮座する「闘鶏神社」の例大祭「田辺祭」とともに「紀州三大祭」のひとつに数えられる「粉河祭」(毎年7月の最終土曜日・日曜日に開催)において奉納されるきらびやかに飾り付けられた「だんじり」の運行にあわせて打つ太鼓の音に由来します。
    今回は、和歌山県で開催された「紀の国わかやま文化祭2021」(国民文化祭)の催しに参加する家族に同行し、プライベートとしては初めて和歌山県を訪れ『丸浅旅館』に宿泊しました。
    『丸浅旅館』の館内は、1階に食事処(朝食時に利用しました)とあわせて男女別に3・4人程度で利用できる小規模な浴場施設(温泉ではありません)があり、2階には宴会場(夕食時に利用しました)、2階・3階には客室が配置されています。
    また、3階建ての建物ですがエレベーター設備(1基)が設置されているものの建物が増改築されている為なのか分かりませんが客室階の廊下に3段の段差があるのが少し気になりました。
    宿泊した客室は、”二間続きの和室”タイプで家族4人での利用でしたが部屋の広さは申し分なく、部屋の窓からは「粉河寺」境内最古の建造物とされる徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代にあたる1706年(宝永4年)に建立された朱塗りの総欅造りの楼門であり、1996年(平成8年)に国の「重要文化財」に指定されている「大門」の重量感がある屋根瓦を望むことができましたが、窓が小さく室内がうす暗く感じるのが気になりました。
    夕食については、「国民文化祭」の催しに参加される皆さんと宴会場で和気あいあいとバランスの良いメニューでどれも美味しくいただくことができました。
    特にお腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    浴場施設については、浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さなので利用状況を気にする必要があり、洗い場もシャワーの水圧が安定しないで少し弱く感じるなど不便な部分がありました。
    そのほか『丸浅旅館』周辺には、「粉河寺」以外にも道路向いに鎮座する「大神社」(祭神:天照皇大神、創建年代不詳)境内にパワースポットとして存在感のある樹齢1000年余りと推定され紀ノ川市の「天然記念物」に指定されている御神木である「大楠樹」(高さ約25メートル・幹廻り約15メートル)があり、旅館のロケーションとしては申し分なく、宿泊日の夕方と翌朝に旅館周辺を散策して廻り楽しめました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩12分程度(約900メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    客室:
    3.5
    二間続きの和室タイプを4人での利用で部屋の広さは申し分ありませんが、窓が小さく室内がうす暗く感じました。
    接客対応:
    3.5
    アットホームな雰囲気の旅館です。
    風呂:
    3.0
    浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さです。
    食事・ドリンク:
    3.5
    お腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    バリアフリー:
    3.0
    エレベーター設備(1基)が設置されていますが、客室階の廊下に3段の段差があります。

  • 大都市・江戸を支えた神田上水の守護神を祀った神社です!

    投稿日 2022年01月04日

    水神社 目白

    総合評価:3.5

    『水神社(すいじんじゃ)』は、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から「江戸川橋」をわたり「江戸川公園」のある荒川水系の一級河川「神田川」左岸側(北側)に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路「神田川桜並木」をおよそ800メートルほど「神田川」を上流方向(西側)に進んだところに架かる「駒塚橋」北側にあたる文京区目白台1丁目の武蔵野台地東端に位置する「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台に向かう傾斜地に鎮座する小規模な神社です。
    この『水神社』の創建時期は不詳ですが、言伝えによれば水神がかつてあった「椿山八幡宮」社司の夢枕に立ち”我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり”と告げたため現在地に水神を祀ったとされており、祭神として港・河口・水門の神(水戸神)とされる兄妹であり夫婦でもある「速秋津彦命」・「速秋津姫命」および第15代「応神天皇」であり武運・鎮守の神とされる「誉田別命」が祀られています。
    ちなみに「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)当時の「江戸城」南側エリアは、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がり、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であったため「江戸城」を中心とした都市整備をするうえで生活用水となる飲料水を確保することが重要課題となっていました。
    そのため江戸時代初期に現在の神田・日本橋エリアへ生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として「神田上水」を整備するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)さらに「善福寺池」(現:善福寺公園)および「妙正寺池」(現:妙正寺公園)の補助水源が合流し、現在の『水神社』前を流れる「神田川」のおよそ300メートル下流に架かる「大滝橋」あたりに「神田川」から上水を取水口に取り込むための「大洗堰」が築かれていました。
    また、徳川幕府・第5代将軍「徳川吉宗」の時代である1732年(享保17年)に江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げた「江戸砂子温故名跡誌」の中でも『水神社』について”上水開けてより関口水門の守護神なり”とした記載が残されているほかに徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中でも絵図とともに”上水の守護神を祀らん”とした記載が残されているなど大都市化していく江戸の街を支える重要な位置付けの施設であったことを伺うことができます。
    そのほかに「神田上水」の恩恵にあずかった神田・日本橋エリアの多くの人々が『水神社』を参詣していたとされ、南北朝時代(1336年から1392年)から椿が自生していたと伝わる「椿山」(現:椿山荘)と呼ばれる景勝地とされていた「目白台(関口台地)」からは清らかな「神田川」の流れから現在の「早稲田」周辺に広がる田園地帯さらに「富士山」まで望むことがでる行楽の場になっていたとも伝えられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に初めて「神田川」に架かる「駒塚橋」北側傾斜地に鎮座する『水神社』に立ち寄りました。
    「駒塚橋」前から急な石段の参道を見上げると石段の頂部に参道を挟むように存在感のある大イチョウが2本並び境内がどのようになっているのか期待感が湧いてきますが、石段を上り力強く根を広げた大イチョウの奥には大イチョウとは対照的な祭神を祀る小さな祠のみがひっそりと建っており少し期待外れな感じがありました。
    但し、その歴史を調べていくと世界有数の大都市となった江戸府内の生活用水を供給した「神田上水」の守護神として、派手な社でなく控えめでひっそりとしていてよいと感じてきました。
    『水神社』に立ち寄った時期は、夏場の暑い時期でしたが都心でありながら木々の緑が多く存在するエリアであり、『水神社』のほかにも歴史散策などで楽しめるエリアなので機会があれば立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩12分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の昼ごろに立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    境内は傾斜地で参道は急な石段です。
    見ごたえ:
    3.5
    建物は祭神を祀る小さな祠のみですが、境内にある力強く根を広げた2本の大イチョウは存在感があります。

  • 江戸時代初期に干潟地を埋立した人工島が始りです!

    投稿日 2021年12月30日

    佃島 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『佃島』は、江戸時代初期に「江戸湊」として鉄砲のように細長い形状の「鉄砲州」(現在の中央区南東部に位置する隅田川の右岸沿いとなる聖路加病院がある明石町から湊のあたり)と呼ばれる砂州の沖合いにあった「石川島」(現在の中央区佃2丁目北側)南側の干潟地を徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1644年(正保元年)に「徳川家康」と深い関りがあり、かつて摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の名主であった「森孫右衛門」と漁師たちが徳川幕府より拝領したこの地を居住地にするために埋立した人工島(現在の中央区佃1丁目あたり)の名称です。
    ちなみに「徳川家康」と摂津国佃村の「森孫右衛門」と漁師たちとの関係は、1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起きた際に小姓衆などわずかな手勢で大坂・堺に滞在していた「徳川家康」が当時の本拠地である三河国「岡崎城」まで決死の覚悟で戻る際に「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船のおかげで無事に危機を脱出することができた説のほか、天正年間(1573年から1593年)に「徳川家康」が京都上洛の際に「住吉大社」(現在の大阪市住吉区住吉2丁目)を参拝するにあたり川を渡る渡し舟がなく難儀していたところ「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船を利用したという説が存在しています。
    これらの出会いが縁で1590年(天正18年)に「徳川家康」が領地替えによる江戸入府に伴い「森孫右衛門」も家康のお供を命じられたと伝えられおり、その後も1599年(慶長4年)に「豊臣秀頼」を支える五大老として「徳川家康」が「伏見城」に在城した際には、「森孫右衛門」と漁師たちが御膳魚の調達をしたほか、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代となった1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」および1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の際に大坂付近の海上偵察および本陣への状況報告を担った功績が基で「大坂表町屋敷地」を拝領したもののその土地に持主がいたため江戸に出て末永く家康公をお仕えしたい旨を申し出たことがきっかけで江戸に呼び寄せられた記述が残されており、徳川将軍家の御菜御用の命を受けて「森孫右衛門」とその一族7人および漁師33人が江戸に移住しています。
    江戸時代後期になると『佃島』は、「石川島」周辺に堆積した土砂でひとつの島のように繋がり、さらに明治時代になると隅田川の河口付近に堆積した土砂による浅瀬化が国内の近代化を進める中で欠かすことのできない船の運行に支障が生じはじめ、船の航路を確保するために堆積した土砂をさらう浚渫工事で発生した土砂を利用して『佃島』を拡張するように埋立事業計画が実施され、現在の「月島」エリアおよび「勝どき」エリアが形成されています。
    さらに「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に東京の都市部が5回にわたり「東京大空襲」に見舞われていますが『佃島』エリアは被災を免れており、現在でも「太平洋戦争」以前から続く細い路地が残る下町の住宅地が残されています。
    また、『佃島』エリアとは対照的に「石川島」エリアにかつての”日本の近代的造船業の発祥の地”とされる「旧・石川島播磨重工業」(現在のIHI)の東京工場跡地がタワー型超高層マンションの先駆けとなる再開発事業「大川端リバーシティ21」として1986年(昭和61年)から整備されています。
    『佃島』エリアは、東京メトロ・有楽町線「月島駅」が開業する以前の「石川島」エリアにタワー型超高層マンションが建ち並び始めた頃に散策したことがありますが、今回は「築地」エリアを訪れた際に足の延ばして久しぶりに『佃島』エリアに立ち寄り「佃公園(佃堀)」から写真撮影をしてみました。
    およそ35年ぶりに『佃島』エリアに立ち寄りましたが、タワー型超高層マンション群をバックに江戸時代初期の漁師町を想像できるとともに現在も下町の雰囲気が漂う「佃堀」と赤い欄干の「佃小橋」は、撮影スポットとしてお勧めできます。
    機会があれば、江戸時代後期の創業の老舗佃煮屋の「佃源田中屋」(創業:1837年)・「丸久」(創業:1843年)・「天安」(創業:1859年)などに立ち寄りながら『佃島』エリアをゆっくりと散策してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ有楽町線・月島駅6番出口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    下町の住宅街なので込み合うことはありません。
    バリアフリー:
    3.5
    平坦な街並みです。
    見ごたえ:
    4.0
    佃公園(佃堀)からの風景は、撮影スポットとしてお勧めできます。

  • 国指定の重要文化財や名勝など見どころが多い寺院です!

    投稿日 2021年12月12日

    粉河寺 岩出・紀の川

    総合評価:4.5

    『粉河寺』は、山号を「風猛山」と称する「天台宗」系の宗派のひとつに数えられる「粉河観音宗」の総本山であり、「千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)」を絶対秘仏の本尊として祀る「紀の川市粉河」に位置する寺院です。
    『粉河寺』の創建については、1953年(昭和28年)に日本最古の縁起絵巻のひとつとして国宝に指定されている「紙本著色粉河寺縁起」によると奈良時代末期となる770年(宝亀元年)に紀伊国那賀郡に住む猟師「大伴孔子古(おおとものくじこ)」が建てた草庵がはじまりと伝えられています。
    ちなみに「紙本著色粉河寺縁起」は、紀伊の観音霊場『粉河寺』の本尊にまつわる縁起を描いた鎌倉時代初期の作品とされており、『粉河寺』が寺宝として所蔵し「京都国立博物館」に寄託されています。
    また、平安時代になると「清少納言」が執筆した随筆「枕草子」および「藤原明衡」が執筆した「新猿楽記」に『粉河寺』が記されているなど観音霊場として信仰を集めていたことが伺われ、鎌倉時代には寺領4万石余りの境内に「七堂伽藍」のほか550坊を有する数千人の僧徒で隆盛を極めていたと伝えられています。
    桃山時代の「羽柴秀吉」が豊臣の姓を賜り関白となる1585年(天正13年)には、「羽柴秀吉」による紀州攻めにより『粉河寺』寺領のほとんどが焼失するとともに現在の国宝である「紙本著色粉河寺縁起」もこのときの火災により焼損しています。
    その後の江戸時代になると紀州徳川家をはじめ信徒の寄進などにより『粉河寺』が再興されており、現在の「本堂」が徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代となる1720年(享保5年)に再建されているほか、「大門」が1706年(宝永4年)、「千手堂」が1760年(宝暦10年)、「中門」が1832年(天保3年)にそれぞれ建立されており、1996年(平成8年)にそれぞれ4棟あわせて国の「重要文化財」に指定され、「本堂」前庭の3メートル程度の高低差部分の土留めとして桃山時代に築かれたとされる石組みの「庭園(枯山水)」が1970年(昭和45年)に国の「名勝」に指定されているなど歴史のある見どころの多い寺院となっています。
    そのほか近畿地方を中心とする2府5県(和歌山県、大阪府、兵庫県、京都府、奈良県、滋賀県、岐阜県)に跨り総距離が約1000キロメートルにおよぶ観音信仰の33箇所の霊場を札所とした日本国内で最も歴史がある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」において『粉河寺』が第三番札所に数えられています。
    「西国三十三所観音霊場」については、2019年(令和元年)に地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー”1300年つづく日本の終活の旅~西国三十三所観音巡礼~”として文化庁の「日本遺産(Japan Heritage)」に認定されています。
    今回は、『粉河寺』門前にある「丸浅旅館」に宿泊する機会があり、夕方15時過ぎと翌朝9時ごろの二日にわたり『粉河寺』境内を散策して廻りました。
    『粉河寺』境内の建造物としては、最古となる朱塗りの総欅造りの楼門となる「大門」の大きさに圧倒されながら境内に入り「中門」、「庭園(枯山水)」、「千手堂」、「本堂」を中心とした国指定の重要文化財や名勝など見どころが多く写真撮影などをしながら楽しむことができましたが、ところどころで建物の朽ちている部分や土壁の崩れている部分なども目に留まり修復するための資金繰りが難しいのか気になりました。
    『粉河寺』境内には、桜の木もあったので機会があれば桜の咲く季節にまた訪れてみたい寺院です。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩15分程度(約1キロメートル)です。
    景観:
    4.5
    国指定の重要文化財や名勝など見どころが多い寺院です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    土曜日の15時過ぎと日曜日の9時ごろの立ち寄りでしたが、境内を散策する人はまばらにいました。
    バリアフリー:
    3.0
    境内は、中門・本堂ほか各所に石段などの高低差があります。

  • 近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています!

    投稿日 2021年12月05日

    築地本願寺 築地

    総合評価:4.5

    『築地本願寺』は、中央区築地3丁目の「晴海通り(都道304号)」と「新大橋通り(都道50号)」が交差する「築地四丁目」交差点東側の角地に位置する「浄土真宗本願寺派」の寺院であり、本尊として「阿弥陀如来」を祀っています。
    『築地本願寺』の創建については、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代である1617年(元和3年)に現在の京都市下京区に位置する山号が「龍谷山」と称する「浄土真宗本願寺派」の本山である「本願寺(西本願寺)」・第12世「准如上人」の発願により、当時の「江戸城」外濠に築かれていた「浅草御門」と呼ばれる桝形の城門「浅草見附」南側の横山町(現:日本橋横山町、東日本橋付近)に「本願寺(西本願寺)」別院として「浅草御堂」と称する堂宇を開基したのが始まりとされています。
    当時の「浅草御堂」は、江戸庶民から「江戸御坊」などと呼ばれるようになり信仰を集めていましたが、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる1657年(明暦3年)に発生した「江戸三大大火」に数えられ江戸時代の中で最大の延焼面積および死者数におよんだ「明暦の大火」(通称:振袖火事)により「浅草御堂」を含め江戸府内の大半が焼失しています。
    この大火によって焼失した江戸府内の新たな区画整理を取りまとめた徳川幕府により「浅草御堂」の再建代替え地が当時の海上であった現在地に定められ、代替え地に新たな本堂を建立するために佃島の門徒が中心となって実施された埋め立て造成事業により築かれた土地が”築地”という寺院の名称および寺院周辺の地名の由来となり、1679年(延宝7年)に本堂が再建されています。
    また1923年(大正12年)の「関東大震災」が基で発生した火災により再び本堂を焼失し、1934年(昭和9年)に当時の「東京帝国大学(現:東京大学)」名誉教授かつ建築史家の「伊東忠太」博士の設計により現在の日本の伝統的な寺院建築様式と異なるインドなどのアジアの古代仏教建築を模した外観の本堂が再建されています。
    2014年(平成26年)になるとインドの古代仏教建築を主たる素材として外観を構成しながら内部を日本の伝統的意匠要素を中心に濃密で均整のとれた意匠にまとめられている寺院建築の傑作として”本堂”とあわせて”大谷石の石塀”ならびに”三門門柱(正門・北門・南門)”が国の「重要文化財」に指定されています。
    この現在の『築地本願寺』の本堂については、以前より書物などで関心をもっていた寺院のひとつであり、今回は平日の午後に「築地」エリアを訪れる機会があったので短時間でしたが初めて『築地本願寺』に立ち寄り参拝しました。
    『築地本願寺』境内に入り日本の伝統的な寺院建築様式と異なりオリエンタルな雰囲気が漂う特徴のある本堂の外観を眺めていると仏教が日本に伝来する以前のシルクロードを時空を超えて仏教のルーツである「古代インド」に遡るような近代的な鉄筋コンクリート造の建物でありながら不思議な感覚をおぼえました。
    そのほか本堂内部の参拝スペースに入ると側廊と列柱で囲まれた天井高の高い中央部分に参拝者用の椅子席が配置され、出入口部分の上部にパイプオルガンも設置されているなど、どことなく教会の礼拝堂をイメージする空間が広がっており、その天井部分には日本の伝統的な寺院建築様式である”折り上げ格天井”で構成されているなどインパクトのある独特な雰囲気の中で改めて神聖な気持ちとなり参拝することができました。
    今回は、午後3時半ごろに短時間での参拝でしたが本堂建物の見所も多く、機会があれば時間をかけて建物細部を見て廻りながら、また参拝に立ち寄りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ日比谷線・築地駅1番出入口を出たところです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後3時半でしたが、参拝者は数名でした。
    バリアフリー:
    5.0
    エレベーター、手摺、スロープ、トイレほか対策が施されています。
    見ごたえ:
    5.0
    本堂建物の内外各所に見所も多く、近代寺院建築の傑作として、国の重要文化財に指定されています。

  • 緑豊かな樹木に囲まれた居心地のよい休憩場所としてお勧めできます!

    投稿日 2021年11月28日

    江戸川公園 目白

    総合評価:4.0

    『江戸川公園』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルの区間となる文京区関口2丁目に位置する文京区の親水緑地公園です。
    公園の名称については、江戸時代初期に「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで欠かすことのできない生活用水となる飲料水を確保するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」に加えて「善福寺池」から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」から発する「善福寺川」の水源を合流させて整備された「神田上水」の取水口に上水を取り込むために築かれていた「大洗堰」から下流におよそ2キロメートル下った区間(現在の神田川に架かる大滝橋付近から飯田橋付近まで)を流れる現在の「神田川」が江戸時代に「江戸川」と呼ばれていたことに由来します。
    『江戸川公園』が整備された時期については、1913年(大正2年)から実施された「神田川」護岸改修工事の完成に合わせて1919年(大正8年)に整備されており、「神田川」の治水事業に関して尽力した「大井玄洞」の功績をたたえて胸像が1928年(昭和3年)に『江戸川公園』敷地内に建立されています。
    また、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた江戸時代初期に築かれた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節するための「角落し」と呼ばれる設備であった板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)が「神田上水取水口」に関する遺構の一部として『江戸川公園』敷地内に移設されています。
    そのほか『江戸川公園』は、「江戸川橋」袂の広場から「神田川」に沿って西側に進むと敷地北側部分が武蔵野台地の東端にあたる「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台から南側の「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」に挟まれた傾斜地を活かした緑豊かな緑地に遊歩道が整備されており、時計塔のあるパーゴラ付きのベンチのほかにも各所にベンチが設置され、藤棚、傾斜地を活用した滑り台などの遊具施設もあり子供から高齢者まで幅広い年齢層が利用できる憩いの場となっています。
    以前にも「神田川」沿いの「神田川桜並木」を数回にわたり通行していますが『江戸川公園』を素通りおり、今回は「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に久しぶりに「神田川桜並木」を通り短時間でしたが『江戸川公園』敷地内の写真撮影をして廻り「大井玄洞翁の胸像」および「神田上水取水口の石柱」の存在を知ることができました。
    『江戸川公園』に立ち寄ったのが8月の昼過ぎでしたが、公園敷地内は都心であることを感じさせない緑豊かな樹木に囲まれ木陰が多く、各所にベンチが配置されており真夏の暑い日でも居心地のよい空間の休憩場所としてお勧めできます。
    『江戸川公園』のある「神田川」沿いは、桜の名所にもなっているので機会があれば桜の咲く時季にまた立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から江戸川橋を渡ったところです。
    景観:
    4.0
    神田川に沿って約500メートルにおよぶ文京区の親水緑地公園です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    局地的な豪雨の後で、パーゴラ付きのベンチに人がいる程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    敷地北側が武蔵野台地の東端にあたる目白台(関口台地)の傾斜地に遊歩道があります。

  • 短時間の滞在でしたが、リゾート気分を満喫できました!

    投稿日 2021年11月27日

    和歌山マリーナシティ 和歌山市

    総合評価:4.0

    『和歌山マリーナシティ』は、1994年(平成6年)に開催された体験型の地方博覧会「JAPAN EXPO 世界リゾート博(通称:リゾート博)」の会場として1989年(平成元年)から約6年間におよぶ造成工事により風光明媚な和歌山市毛見沖(和歌山湾)に浮かぶ49ヘクタールの人工島として開発されたエリアの名称となります。
    現在では、国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)として「わかやまマリーナシティ海の駅」の登録を受けている海に囲まれた「リゾートアイランド」として、ヨーロッパの街並みを再現するとともにアトラクション施設を完備したテーマパークの「ポルトヨーロッパ」(入場無料)を中心に生マグロの解体ショーを毎日開催するなど昭和レトロな商店街の雰囲気が漂う物販コーナーと飲食コーナーが集結した「黒潮市場」、海底およそ1,500メートルの1億年前の地層から湧き出た太古の源泉(泉質:ナトリウム-塩化物泉)を取り込み和歌山湾を一望できる天然温泉施設「紀州黒潮温泉」、全客室(99室)がオーシャンビューのリゾートホテル「和歌山マリーナシティホテル」の各種リゾート・レジャー施設のほかに「リゾートマンション」などで構成されています。
    『和歌山マリーナシティ』へのアクセスは、公共交通機関を利用すると「和歌山駅」または「和歌山市駅」から路線バスで約1時間前後、「海南駅」から路線バスで約20分前後となります。
    今回は、プライベートとして初めて和歌山県を訪れた際に紀の川市粉河から海を見て和歌山土産などショッピングをしたいという家族とともに半日を利用して『和歌山マリーナシティ』に立ち寄りました。
    『和歌山マリーナシティ』の中心施設となる「ポルトヨーロッパ」は、中世イタリアの地中海沿岸にある港街となる漁村をモチーフにしたコンパクトなテーマパークですが、ヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しており、アトラクション施設を利用しませんでしたが再現されたヨーロッパの街並みを写真撮影をしながら楽しむことができました。
    また「ポルトヨーロッパ」では、夜間にイルミネーションや花火などのイベントも開催されているので機会があれば、各種イベントにあわせて立ち寄りたいと感じました。
    そのほか「黒潮市場」に立ち寄り和歌山土産などのショッピングをしたり、昼の12時前でしたがランチで込み合う前に館内1階の昭和レトロな雰囲気のある商店街自慢の海鮮丼を購入し、海辺の飲食テラスで潮風を感じながら新鮮なネタが自慢の海鮮丼で少し早めのランチを楽しみました。
    「黒潮市場」では、館内1階で毎日12時30分から生マグロの解体ショーが開催されており、解体ショーの時間にあわせて「黒潮市場」に人か集まってくるので少し早めにゆったりとランチを済ませることができてよかったです。
    ランチ後は、「黒潮市場」に向ってくる人も増えてくるので生マグロの解体ショーを見るのをやめて「ポルトヨーロッパ」からヨットなどが停泊する”マリーナエリア”に移動し、「和歌山マリーナシティホテル」1階カフェ「カテリーナ」のガーデンテラスで海外にいるようなリゾート気分をゆったりと満喫することができました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    和歌山駅から路線バスで約1時間前後です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”は入場無料です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日に立ち寄りましたが、昼頃から人出が増えてきました。
    施設の快適度:
    4.0
    中心施設となる”ポルトヨーロッパ”はコンパクトな施設ですがヨーロッパの雰囲気が漂う裏路地などのフォトスポットが点在しています。

  • 現在の中央区京橋1丁目で始まったとされる”江戸歌舞伎”の記念石碑です!

    投稿日 2021年11月17日

    江戸歌舞伎発祥の地 日本橋

    総合評価:3.5

    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑は、1957年(昭和32年)にかつて運河として江戸時代に開削されていた約600メートルの「京橋川」に架けられていた「京橋」の北西側橋詰(現:東京高速道路会社線(通称:KK線)高架下)部分となる現在の中央区京橋3丁目に位置する「京橋大根河岸おもてなしの庭」の一画に建立されています。
    ちなみに『歌舞伎』は、「本能寺の変」が起こる前年の1581年(天正9年)ごろから文献に残されている幼女(ややこ)による小歌踊りの芸能「ややこ踊り」を基にして、「出雲大社」に仕える巫女であったとされる「出雲阿国」が「出雲大社」勧進のため諸国を巡回していた際に「かぶき踊り」を創始し、「徳川家康」が征夷大将軍として徳川幕府を開いた1603年(慶長8年)に京都の「北野神社」で当時の都市部で流行していた世間の常識はお構いなしの奇抜な扮装に傾く「かぶき者」をまねた装いで「かぶき踊り」を演じたのが始りとされており、「かぶき者」の奇抜な扮装に傾く”傾(かぶ)く”が『歌舞伎』の語源となっています。
    また、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1624年(寛永元年)になると道化方として滑稽なしぐさの演技「猿若」の名手であった「猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)」が現在の「日本橋」と「京橋」をつなぐ「中央通り(国道15号)」と「八重洲通り(都道408号)」が交差する「日本橋三丁目」交差点南側の中央区京橋1丁目あたりとなる当時の堀割に架けられていた「中橋」の南地に「猿若座(後の中村座)」の櫓をあげたのが『江戸歌舞伎』の始まりとされています。
    その後の1629年(寛永6年)になると『女歌舞伎』は風紀を乱すとの理由で禁止となり、その後に男性役者のみによる”芝居・踊り・邦楽”で構成された現在の『歌舞伎』が確立されています。
    『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑については、テレビの街歩き番組などでよく紹介されたりするので以前より存在することを知っていましたが、今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑に立ち寄り写真撮影をしてみました。
    この記念石碑中央に刻み込まれている”江戸歌舞伎発祥之地”の文字は、徳川幕府・第10代将軍「徳川家治」の時代である1779年(安永8年)に「九代目・中村勘三郎」より「中村座」の表看板や番付などの揮毫の依頼を受けた書道指南「岡崎屋勘六(雅号:勘亭)」が徳川幕府制定の公用書体であり手習いの手本として江戸庶民にも広く普及していた「御家流」の書体に装飾など工夫を加えて考案した「勘亭流」と呼ばれる書体であり、この書体が評判となり歌舞伎文字として現在に至っています。
    「勘亭流」の特徴は、筆太で隙間なく内へ丸く曲げるように書くことで”空席が無く客を内へ内へと呼び込むことで興行の無事円満を祈る”という意味が込めれれています。
    記念石碑両端部分には、歌舞伎役者の姿がレリーフで描かれており、それぞれのレリーフ下部に刻まれている説明文が日本語と英語の2種類あるのをみて、建立当初から国の「重要無形文化財」でありユネスコの「無形文化遺産」でもある『歌舞伎』が日本固有の伝統芸能のひとつとして世界に向けてアピールしていたことを実感しました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅3番出入口から約120メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    目立つものは特にありません。

  • 明治天皇がこの地に立ち寄ったことを示す記念石碑が立っています!

    投稿日 2021年11月03日

    明治天皇野立所跡 池袋

    総合評価:3.0

    『明治天皇野立所跡』は、ターミナル駅(JR東日本・西武鉄道・東武鉄道・東京メトロ)である「池袋駅」中央地下道と繋がる「東口(中央)」出入口前からロータリー状となっている「明治通り(都道305号)」と豊島区の「グリーン大通り(特別区道41-21)」からなるT字型の「池袋駅東口」交差点から正面の南東(護国寺)方向に延びる池袋東口のメインストリートとなる「グリーン大通り」を真っすぐ約300メートルほど先の信号機のある「南池袋公園前」交差点(左手側)の「グリーン大通り」に面した豊島区東池袋1丁目に位置する21階建てオフィスビルとして2011年(平成23年)に竣工した現在の「ニッセイ池袋ビル」裏手敷地内の一画に建てられている記念石碑によって跡地であることが示されています。
    この「御野立所」とは、高貴な方が移動中に野外で休憩する場所を意味し、明治時代以降に天皇が全国各地を行幸するようになってから各地の「御野立所」で記念碑が建てられるようになり、この場所にある記念石碑もその中のひとつに数えられます。
    記念石碑とともに石板に彫り込まれた案内文があり文章を読み取れない部分もありますが、1875年(明治8年)に「明治天皇」が「近衛兵」の演習を観閲をするため板橋方面に出向いた際にこの地で休憩されたようです。ちなみに「近衛兵」は、明治維新の際に設置された御親兵と呼ばれた天皇の護衛兵であります。
    『明治天皇野立所跡』のある現在の東池袋から南池袋一帯は、江戸時代に旗本三千石・中西公の拝領地であり大半が北豊島郡雑司ヶ谷村に属しその地名の通り雑木林に覆われている「中西の森」と呼ばれる丘陵地帯となっており、明治時代後半に東武鉄道など国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった「根津嘉一郎」がこの一帯の土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになり、雑木林に覆われた丘陵地帯は太平洋戦争が終結するまで残されています。
    この東池袋エリアは今までにも幾度となく立ち寄っていますが、今回初めて『明治天皇野立所跡』記念石碑の存在に気付きしました。
    現在では、「明治天皇」が休憩した当時の面影を感じることはできませんが、記念石碑の存在を知り色々と調べることで「明治天皇」がこの地に立ち寄った当時に「中西の森」と呼ばれる雑木林が「根津山」と呼ばれるようになり太平洋戦争が終結するまで雑木林が残されていたことを学び楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    池袋駅・東口(中央)出入口前からグリーン大通りを真っすぐ約300メートルほど先の交差点(南池袋公園前)を左折してすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって記念石碑を見ている人は殆どいません。
    バリアフリー:
    3.0
    道路から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    2.5
    目立つものは特にありません。

  • 建設当時の最先端技術を駆使して1940年(昭和15年)に完成した双葉跳開橋です!

    投稿日 2021年10月30日

    勝鬨橋 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『勝鬨橋』は、紀元前660年に「神武天皇」が初代天皇として即位してから数えて2600年の節目となる1940年(昭和15年)にアジアで初めて開催される予定であった「第12回 オリンピック競技大会」(東京オリンピック)とともに同じくアジアで初めて開催される予定であった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」(東京万博)のメイン会場となる当時の東京市月島4号埋立地(現:晴海エリア)へ通じるメインゲートとして現在の「晴海通り」(都道304号)の「築地六丁目」交差点(中央区築地6丁目)から「月島第二幼少前」交差点(中央区勝どき1丁目)の区間を流れる「隅田川」河口に建設された橋梁です。
    ちなみに「第12回 オリンピック競技大会」および「紀元2600年記念 日本万国博覧会」は、「日中戦争(支那事変)」突入をきっかけに当時の軍部からの開催反対意見が強まり開催が中止となっています。
    『勝鬨橋』の概要については、橋の両端部分を「タイドアーチ橋」(支間長:86メートル)と呼ばれる固定構造として、橋の中央部分が「隅田川」を航行する船舶が橋下を通航する際に橋桁が”ハの字型”となるように両側に跳ね上げる「双葉跳開橋」(可動支間長:51.6メートル、可動部跳開全開角度:70度)と呼ばれる可動構造で構成される全長が246メートル(幅員:22メートル)、橋梁総重量8,480トン、橋台・橋脚部分が鉄筋コンクリート造となっています。
    また国家的イベントの開催に向けた主要関連施設であった『勝鬨橋』は、日本の技術力を誇示するための建設プロジェクトであり、欧米からの技術者が参画することなく計画が進められ日本人技術者による設計・施工のもと当時の最先端技術を駆使して1933年(昭和8年)の工事着工から「日中戦争」突入など時代が急変し労働力不足および資材調達が困難となる中で約7年間の歳月をかけて1940年(昭和15年)に完成しています。
    『勝鬨橋』の完成当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており1日に5回の跳開が実施されていますが、船舶の通航量が減少するとともに道路交通量が著しく増大する時代の流れの中で跳開回数も減少し1970年(昭和45年)に跳開を停止しています。
    2007年(平成19年)になると国内の橋梁技術史上価値の高い橋梁であると評価され道路橋としては初となる国の「重要文化財(建造物)」に「隅田川」に架かる「清洲橋」・「永代橋」とともに『勝鬨橋』が指定されています。
    さらに2007年(平成19年)になると跳開部分の機械設備が歴史的景観を構成する設備として機械技術面で歴史的意義があるとして日本の工学関係最初の学会となる「日本機械学会」により『勝鬨橋』が「機械遺産」に認定されています。
    今回は、平日の午後に「築地」エリアを訪れた際に少し時間に余裕があったので久しぶりに『勝鬨橋』を写真撮影をしながら徒歩でわたり、幅員22メートル・長さ25.8メートルの路盤を跳開していた当時の様子を想像しながら改めて技術力の高さを実感するとともに完成してから跳開を停止するまでの約30年間で跳開に関する事故が1度も発生していないことにも驚きを感じました。
    そのほか築地側の橋のたもとにかつての変電所を改装して2005年(平成17年)にオープンした「かちどき橋の資料館」があることを初めて知りましたが、ちょうど閉館日で入館できなかったのが残念でした。
    「かちどき橋の資料館」では、定期的に橋梁設備の橋脚内見学ツアーが実施されているとのことなので、機会があれば見学ツアーにも参加しながら資料館に入館してみたいと思います。
    さらに1998年(平成10年)から実施されている『勝鬨橋』の夜間ライトアップの景観も写真撮影してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    最寄り駅は、都営地下鉄大江戸線・勝どき駅(勝どき側)または東京メトロ日比谷線・築地駅(築地側)となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に徒歩で橋をわたりましたが、歩行者・自転車の通行は少ないですが途切れることはありませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    歩道は、石貼舗装で整備されており段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    建設当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており、国の重要文化財(建造物)に指定されています。

  • 大村益次郎銅像は、高さ12メートルの国内初となる西洋式銅像です!

    投稿日 2021年10月24日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『大村益次郎銅像』は、1893年(明治26年)に制作された高さ12メートル(台座を含む)の国内初となる西洋式銅像であり、千代田区九段北2丁目に位置する「靖國神社」境内の「第一鳥居(大鳥居)」と「第二鳥居」の中間にあたる参道中央に建立されています。
    そのほか現在では「皇居外苑」にある1897年(明治30年)に制作された「楠木正成銅像」ならびに「上野恩賜公園」にある1898年(明治31年)に制作された「西郷隆盛銅像」とともに「東京三大銅像」のひとつに数えられています。
    ちなみに『大村益次郎』は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1825年(文政8年)に長州藩の村医の長男として誕生したのち蘭学および医学を学び村医として開業にたものの、時代が急速に幕末の動乱期へと向かう中で医師から蘭学者として伊予宇和島藩に出仕して、蘭学などの講義および西洋兵学などの洋書の翻訳を手がけ、1856年(安政3年)に江戸におもむき私塾の「鳩居堂」を開塾したほか宇和島藩御雇として徳川幕府直轄の洋学研究教育機関となる「蕃書調所」教授方手伝をしていた際に長州藩「桂 小五郎」との出会いがきっかけとなり1860年(万延元年)に長州藩士となっています。
    その後の1866年(慶応2年)に徳川幕府による「第二次 長州征伐」では、長州藩の参謀として石州口(日本海側)の指揮をとり徳川幕府軍に圧勝したほか「大政奉還」後の1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「戊辰戦争」では「新政府軍」の軍事指導者として「上野の彰義隊の戦い」を1日で終結させるなど明治政府における近代的軍隊の基礎を作り「近代日本兵制の父」、「日本陸軍の父」と称されています。
    また「戊辰戦争」により新政府軍戦没者を慰霊するための「招魂社(現:靖國神社)」創建のあたっては建設候補地の選定に加わり、1869年(明治2年)に「招魂社」が創建されていますが、その約2か月後に刺客に襲われ重傷を負った際の傷が原因で「招魂社」が創建されてから約4か月後に逝去しています。
    1882年(明治15年)に執り行われた『大村益次郎』慰霊祭の席で銅像建立案が持ち上がり、「靖國神社(旧:招魂社)」建設地選定に関わっていたことなどから現在の場所に建立されています。
    筒袖羽織に短袴(乗馬などで丈を短くした袴)を着け左手に双眼鏡を持った『大村益次郎銅像』は、「上野の彰義隊の戦い」の際に「江戸城富士見櫓」から上野に立て籠る「彰義隊」を凝視する姿とされ、台座の文章(漢文)は「三條實美」による顕彰文となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて「靖國神社」を参拝しようと思い、以前より「東京三大銅像」のひとつに数えられている『大村益次郎銅像』も気になっていたので正面の「第一鳥居」から境内に入りました。
    幅の広い参道の中央に高さ12メートルの『大村益次郎銅像』は存在感がありますが、4段に積み上げられた御影石および円柱型の顕彰文が書き込まれた高さのある台座の上に直立姿像があり、肉眼で見上げると表情など細部がよく見えなかったのが残念です。
    『大村益次郎銅像』除幕式の日程も制作工程の見直しなどで幾度も延期されていたようで、従来の鋳造方法および設備では技術的に難しい部分や問題などもあっただろうと想像しながら写真撮影をしてみました。
    国内初の巨大な西洋式銅像の制作にあたっては、細部にもいろいろなこだわりがあったと思います。
    機会があれば、しっかりした望遠カメラを準備して「靖國神社」をまた参拝し『大村益次郎銅像』を写真撮影してようと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝される方のまばらでしたが、ほとんどの方が銅像の前で立ち止まっていました。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    国内初となる西洋式銅像であり、東京三大銅像のひとつに数えられています。

  • 江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です!

    投稿日 2021年10月23日

    神田上水取水口の石柱 目白

    総合評価:3.5

    『神田上水取水口の石柱』は、文京区関口2丁目に位置する荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」敷地内の一画(「大滝橋」と「一休橋」の中間付近)に残されている江戸時代に生活用水となる飲料水を供給するための上水道であった「神田上水取水口」の遺構です。
    ちなみに「神田上水」は、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸入府した際の「江戸城」南側周辺に「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がるエリアが存在しており、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であることから「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで重要課題であった生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として現在の神田・日本橋エリアへ「神田上水取水口」から「自然流下方式」と呼ばれる高低差を利用した開渠部分の開削水路と暗渠(地中埋設)部分となる配水管の役割をする木樋などを用いて供給する設備として整備が始り徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)ごろに整備が完了しています。
    「神田上水取水口」については、武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)から発する「神田川」の流れに補助水源として「善福寺池」(現:善福寺公園)から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」(現:妙正寺公園)から発する「善福寺川」の流れが「神田川」と合流したところで現在の「神田川」に架かる「大滝橋」付近に取水口が設けられており、ここで「神田川」の水位を上げるための「大洗堰」を築き上水を取水口に導いています。
    また「江戸川公園」敷地内に残されている『神田上水取水口の石柱』は、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節する設備であった「角落し」と呼ばれる板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)となります。
    また「大洗堰」については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1810年(文化7年)から1830年(文政13年)に編纂された「新編武蔵風土記稿・16巻(豊島郡8)」の中で”石造り、長さ10間(約18メートル)、幅7間(約12.6メートル)、取水口8尺(約2.42メートル)余、側に水番人の小屋あり”と紹介されているほかに、同じく徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で「大洗堰」全景が「目白下大洗堰」として堰からの流水が大滝のように流れ落ちる様子を描いた絵が紹介されています。
    そのほか『神田上水取水口の石柱』までのアクセスは、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から約400メートル(徒歩5分程度)となります。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」および「江戸川公園」に立ち寄り、遺構である『神田上水取水口の石柱』および「神田川」などを写真撮影してみました。
    現在の「神田川」は、川底が深く両岸をコンクリート製護岸で築かれているため「江戸名所図会・4巻(12冊)」で紹介されている「大洗堰」をイメージすることができませんでしたが、『神田上水取水口の石柱』の遺構は江戸時代初期より重要な取水口として江戸府内に生活用水を供給していた当時の様子をイメージすることができました。
    『神田上水取水口の石柱』のある「江戸川公園」周辺は緑豊かな居心地のよいエリアで周辺を散策して廻ったり、休憩場所としてお勧めできます。
    このエリアの「神田川」沿いは桜の名所となっているので、機会があれば桜の咲く季節にまた周辺を散策して廻りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    訪れた際は、立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    遺構の廻りは舗装されていません。
    見ごたえ:
    3.5
    江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です。

  • ”中国割烹旅館 掬水亭”の6階展望レストラン(天外天)は、レイクビュースポットとしてお勧めできます!

    投稿日 2021年10月18日

    多摩湖 東久留米・清瀬

    総合評価:4.0

    『多摩湖』は、東京都東大和市・東村山市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町および埼玉県所沢市・入間市の都心近郊の5市・1町に跨る総面積およそ3,500ヘクタール(東西方向:約11キロメートル、南北方向:約4キロメートル)にもおよぶ緩やかな起伏のある広大な雑木林エリアが残されている「狭山丘陵」の東大和市に位置する東京都の「上水道用水源池」として荒川水系の一級河川「柳瀬川」の支流となる「北川」を最も古典的な盛り土によって堰堤を築いて堰き止める「アースダム」と呼ばれる型式を採用し多摩川の水源を「羽村取水堰」から取り込み導水管を用いて『多摩湖』に導く方式により整備された人造湖「村山貯水池」の通称です。
    『多摩湖』建設の経緯は、明治維新後に急速に進む近代化の中で首都東京の近代水道整備が急務とされていた中で、江戸時代に整備されていた多摩川の水源を導く「玉川上水」を1898年(明治31年)に当時としては画期的な規模の”沈でん・ろ過”施設となる「淀橋浄水場」を完成させたものの旧東京市の人口増加に対応するためのさらなる水源確保の必要性が求められており、明治時代末期に新たな貯水池建設の検討が行われ「大久野貯水池案(現:西多摩郡日の出町)」および「村山貯水池案」の中から地形が良好かつ低コストで建設可能な点から「村山貯水池案」が採用されています。
    『多摩湖』の概要は、2段に分割して建設されており西側(上流側)の多摩湖6丁目に位置する部分(堤頂長318.2メートル・有効貯水量2,983千立方メートル)が1924年(大正13年)に完成、東側(下流側)の多摩湖4丁目に位置する部分(堤頂長610メートル・有効貯水量11,843千立方メートル)が1927年(昭和2年)に完成しています。
    ちなみに1934年(昭和9年)には、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する部分に「山口貯水池(通称:狭山湖)」(『多摩湖』と同様に東京都の「上水道用水源池」、堤頂長716メートル・有効貯水量19,528千立方メートル)が完成しており、「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた『多摩湖』および「狭山湖」周辺エリアが太平洋戦争開戦前から観光地となっています。
    そのほか「村山・山口貯水池」として1985年(昭和60年)に近代水道施設の整備が開始されてから百周年を記念して企画された「近代水道百選」(日本水道新聞社)に選定、2005年(平成17年)に『多摩湖』が地域に親しまれ地域にとってかけがえのないダム湖として「ダム湖百選」(ダム水源地環境整備センター)に選定、2007年(平成19年)に「村山・山口貯水池」が水道「アースダム」として当時最大規模であり取水塔と管理橋など親水景観として優れているとして「土木学会選奨土木遺産」(土木学会)に選奨、2008年(平成20年)に「村山下貯水池 第一取水塔」が特徴あるデザインのドーム屋根などが取水池のシンボルとして「東京都選定歴史的建造物」(東京都)に選定、さらに2017年(平成29年)に「多摩湖にのぼる月」が静謐な湖上にのぼる月明かりが水面を神秘的に照らし”道路・遠方の街・月”の明かりが競演した夜景が望めるとして「日本百名月」(夜景観光コンベンション・ビューロー)に認定されています。
    今回は、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する「中国割烹旅館 掬水亭」に宿泊して客室や6階「レストラン 天外天」の窓から「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた眼下に広がる『多摩湖』の眺望を満喫しました。
    宿泊した日はあいにくの雨でしたが、「中国割烹旅館 掬水亭」の周囲に高層建築などの景色を遮るものが無く眼下に広がる『多摩湖』と雑木林がどこまでも続く「狭山丘陵」の景色は都心からの近郊でありながら外国のリゾート地にいるような気分になり癒されました。
    天気のよい冬の季節は、富士山も望むことができるそうなので機会があれば、天気のよい日に「中国割烹旅館 掬水亭」の宿泊や6階「レストラン 天外天」での食事をして『多摩湖』の眺望を堪能したいと思います。
    また「レストラン 天外天」は、食事のみで利用できるのでレイクビュースポットとしてお勧めできます。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    ”中国割烹旅館 掬水亭”は、西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    景観:
    4.0
    6階展望レストラン(天外天)からの多摩湖と狭山丘陵の景色は 外国のリゾート地にいるような気分になり癒されます。
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    6階展望レストラン(天外天)の窓際席は、段差があります。

  • 旧東京市深川食堂として国登録有形文化財(建造物)である昭和初期のモダンな建物です!

    投稿日 2021年10月16日

    深川東京モダン館 門前仲町

    総合評価:4.0

    『深川東京モダン館』は、江東区の観光と文化の拠点として2009年(平成21年)に「旧東京市深川食堂」(鉄筋コンクリート構造2階建て)の建物をリノベーションしてオープンした「江東区観光協会」の施設であり、1階部分が江東区内の街歩きに関する情報の紹介および江東区に関連する近現代史の展示さらに街歩きの際の休憩の場として100円コーヒーの販売などをする「観光案内スペース」、2階部分にイベントやミーティングなどでレンタル利用可能な「多目的スペース」と「会議室」が配置されています。
    ちなみに「旧東京市深川食堂」は、大正時代の物価の高騰により庶民の暮らしが苦しくなった時代に当時の東京市が社会事業施策の一環として低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設「旧東京市営食堂」であり、1920年(大正9年)から旧東京市内の各所に順次設置を開始して最終的に全体で16か所に及んだ「旧東京市営食堂」の内のひとつに数えられています。
    その「旧東京市深川食堂」が建設されたのが1932年(昭和7年)であり、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」の復興事業の一環として当時の最先端技術であった鉄筋コンクリート構造が採用されています。
    その後の太平洋戦争時の「東京大空襲」で一部被災したものの全焼を免れ、終戦後に部分的な修繕が行われたのちに東京都の「職業斡旋施設」となり幾度かの名称変更を経て1979年(昭和54年)になると東京都から江東区に移管され「江東区内職補導所」となっています。
    2006年(平成18年)に建物を一時閉鎖して耐震補強などの改修工事が実施され、2008年(平成20年)になると「関東大震災」後の震災復興事業で建設された当時の構造技術および建築デザインを伝える数少ない現存する近代建造物として国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されています。
    『深川東京モダン館』へのアクセスは、東京メトロ・東西線および都営地下鉄・大江戸線「門前仲町駅」6番出入口となる「赤札堂 深川店」前にある横断歩道で「清澄通り(都道463号)」を渡って直ぐ、徒歩3分程度(およそ150メートル)となる江東区門前仲町1丁目に位置します。
    今回は、休日の午前中に「門前仲町」周辺エリアを訪れた際に初めて短時間でしたが『深川東京モダン館』立ち寄り1階部分の「観光案内スペース」を見て廻りました。
    『深川東京モダン館』は、「門前仲町駅」からすぐ近くにあるので江戸情緒が残り粋な東京の下町でもある「門前仲町」エリアを散策して廻る際の情報収集や休憩場所とあわせて建築に興味のある方には建築面積が168平方メートルと小規模ですが昭和初期のモダンな建物である外壁部分のアクセントとなる丸窓および屋内階段の吹き抜け部分垂直方向に配置されている連続窓さらに2階部分の水平方向にも連続窓が設けられているなど時代の古さを感じさせない外観デザインおよび南西側のエントランスホールから屋内階段廻りの建設当時の面影が残る館内を見て廻るのも楽しめると思いますのでお勧めできます。(屋内階段に使用されているモザイクタイルは建設当時のものです。)
    機会があれば、「多目的スペース」で開催されるイベントなどで今回見て廻らなかった2階や2階へつながる吹き抜けの屋内階段廻りもじっくりと見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    門前仲町駅6番出入口となる赤札堂深川店前から徒歩3分程度(およそ150メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    休日の午前中でしたが人はほとんどいませんでした。
    展示内容:
    4.0
    深川エリアの古地図なども掲示されていて現在の街並みと比較して楽しめました。
    バリアフリー:
    3.5
    エントランスに数段の段差がありました。

  • 風情ある路地の急坂としてちょっとした観光スポットになっています!

    投稿日 2021年10月15日

    胸突坂 目白

    総合評価:4.0

    『胸突坂』は、北側の東西方向に通る「目白通り(都道8号)」と南側の同じく東西方向に流れる荒川水系の一級河川「神田川」の間を南北にをつなぐ文京区関口2丁目(東側)と文京区目白台1丁目(西側)の境界部分を通る道路の「神田川」寄り(南側)に位置する急坂の名称であり、最寄り駅の東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から『胸突坂』までは約900メートル(徒歩11分程度)となります。
    この急坂の概要については、約16度の急傾斜さらに約29%の急勾配からなる全長がおよそ65メートルの歩行者専用坂道として階段状になっています。
    ちなみに『胸突坂』は、江戸時代に”坂がけわしく自分の胸を突くようにしなげれば上れない”と例えられた急坂によく用いられている名称であり、この階段状からなる急坂のほかに現在の文京区内だけでも本郷5丁目にある自動車通行可能な道路の急坂(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「春日駅」)および西方2丁目と白山1丁目の境界部分にある自動車通行可能な道路(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「白山駅」)の急坂においても『胸突坂』の名称が用いられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」左岸側(北側)に位置する「江戸川公園」および「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」を通り、「神田川」に架かる「駒塚橋」部分を左折(北側)して『胸突坂』を上り「目白通り」まで行きました。
    この『胸突坂』のあるエリアは、江戸時代初期に「江戸城」周辺に生活用水(上水)を供給するための国内初となる本格的な上水道設備として「神田上水 取水口」(大洗堰)が現在の「神田川」に存在していた場所であり、江戸時代を代表する俳人「松尾芭蕉」が2度目の江戸入りとなったのちの徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの3年間にわたり「神田上水改修工事」に携わっており、現場から近い『胸突坂』の東側に位置する現在の「関口芭蕉庵」の地に滞在していたと伝えられています。
    また『胸突坂』の西側には、幕末に「肥後熊本藩 細川家下屋敷」となっていた現在の文京区立公園となる「肥後細川庭園」および創建時期が不詳ですが「神田上水 取水口」の守護神として祀られてきたとされる「水神社」が存在するなど緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂としてドラマやアニメにも登場するなどしており、平日の昼過ぎに自分が『胸突坂』を通った際にはこの周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違い『胸突坂』がちょっとした観光スポットになっていることを実感しました。
    機会があれば「神田川」沿いの「神田川桜並木」の通りは、桜の名所になっているので桜の咲くころにこの周辺エリアを散策しながらまた『胸突坂』を歩いてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から約900メートル(徒歩11分程度)です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    平日の昼過ぎでしたが、この周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違いました。
    バリアフリー:
    3.5
    階段状の通り中央に手摺が設置されています。
    見ごたえ:
    4.0
    緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂です。

  • 仏教の守護神とされる毘沙門天を祀る神社です!

    投稿日 2021年10月10日

    三宿神社 三軒茶屋・駒沢

    総合評価:3.5

    『三宿神社』の創建は不詳とされていますが、かつて現在の世田谷区三宿2丁目に存在していた「多聞寺」(本尊:毘沙門天)が明治初期に発生した「廃仏毀釈」の影響を受けて廃寺となり、その境内の一部跡地に残された「毘沙門堂」を本殿として転用するとともに1885年(明治18年)に本殿の前面に拝殿を建立して廃寺から『三宿神社』と称する神社になっています。
    ちなみに「多聞寺」が廃寺となるきっかけとなった「廃仏毀釈」は、1867年(慶応3年)の「大政奉還」により成立した新政府の神道と仏教の分離する目的として1868年(慶応4年)に公布された「太政官布告(通称:神仏分離令)」および1870年(明治3年)に神道を国教と定める詔書「大教宣布」が公布された政策を拡大解釈することで仏教文化の破壊活動などに発展した総称となります。
    『三宿神社』の御祭神については、当時の東京府に神社として申請する際の申請書に御祭神を「毘沙門天」と記載して提出されていますが、「毘沙門天(多聞天の別名)」が仏教における守護神であり東南西北の四方を守る天部の仏神として「四天王」(東:持国天、南:増長天、西:広目天、北:多聞天)の一尊に数えられる武神であるため許可が下りず、祭神を神道における「八百万の神」であり「日本神話」に登場する「大物主神」に訂正されていますが、本殿には廃寺となった「旧・多聞寺」の本尊でもあった「毘沙門天(木像)」が安置され、その後に詳細不明ですが「旧・多聞寺」のころから境内にあったとされる稲荷社の「宇迦能御魂命」が御祭神として合祀されています。
    昭和時代になると太平洋戦争時の空襲により「毘沙門天(木像)」は被災を免れたものの本殿および拝殿が焼失しており、1949年(昭和24年)に郊外にあった「元・軍需工場」の社殿を譲り受けて本殿が再建され、1967年(昭和42年)に拝殿が建立されています。
    今回は、「三宿」周辺エリアを訪れ「烏山川緑道」沿いを歩いていた際に『三宿神社』参道の大鳥居の前に『三宿神社』と並んで「毘沙門天」と彫り込まれた石碑に目が止まり、神社なのに「毘沙門天」となっていることが気になり参拝してみました。
    境内には9メートル程度の高低差があり大鳥居をくぐり数段の石段を上りながら二の鳥居をくぐると右手の「神楽殿」(建立など詳細不明)があり、さらに急な石段を上った際頂部に拝殿があり、拝殿の左手に稲荷社また拝殿の裏手に本殿が配置されています。
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内には特に見どころとなるものはなく境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度の住宅地の中にある緑に囲まれた憩いの場として地元に根付いた神社といった印象でしたが、神社に仏教の守護神とされる「毘沙門天」が祀られている理由などを調べたりして楽しむことができました。
    『三宿神社』へのアクセスは、東急田園都市線「池尻大橋駅」西口出入口から西側に徒歩14分程度(約1キロメートル)となる世田谷区三宿2丁目の「烏山川緑道」沿いとなります。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東急田園都市線・池尻大橋駅西口出入口から西側に徒歩14分程度の烏山川緑道沿いです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    境内には9メートル程度の高低差があり拝殿までは急な石段があります。
    見ごたえ:
    3.0
    境内に特に目立つものはありません。

  • 靖國神社の祭神として祀られている御霊を慰めるための常夜灯として建造された灯籠です!

    投稿日 2021年10月09日

    高燈篭 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『高燈篭』は、下層部分の基礎・竿を和風様式を用いて上層部分の中台・火袋・笠を洋風様式として頂部に方位盤および風見が取り付けられている擬洋風建造物の印象をかもした高さ16.8メートルの灯籠であり、東京メトロ・東西線または半蔵門線あるいは都営地下鉄・新宿線の「九段下駅」2番出入口から約160メートル(徒歩3分程度)となる「靖国通り(都道302号)」の「九段坂」を西側方面に上り「北の丸公園」の北側出入口にあたる「田安門」交差点(早稲田通りとの分岐点となるT字型交差点)付近の千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    元々この『高燈篭』は、1871年(明治4年)に「靖国通り」をはさんで反対側となる現在の千代田区九段北3丁目に位置する「靖國神社」の正面参道出入口部分に建造されていました。
    ちなみに「靖國神社」の創建と『高燈篭』が建造された経緯については、「明治天皇」の勅令により明治維新の1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)までの混乱期に国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」によって、尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を祭神として祀る「招魂社」として1869年(明治2年)に創建したのが始まりとされ、祭神として祀られている御霊を慰めるための「常夜灯」として1871年(明治4年)に『高燈篭』が奉納されています。
    また「九段坂」の坂上部分は、江戸時代より月見の名所として知られる見晴らしのよい高台であり、『高燈篭』が建造された当時には東京湾から「常夜灯」の灯りが確認できており、品川沖を出入りする船の目印となる灯台としての役割も果たしています。
    その後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により壊滅状態となった東京の街並みを近代的な都市整備を基盤とする「帝都復興計画」に基づき1930年(昭和5年)に実施された「大正通り(現:靖国通り)」道路拡幅工事に伴い、道路幅員の拡幅とあわせて江戸時代より急坂で知られていた「九段坂」の勾配を緩やかに整備するとともに『高燈篭』が現在地に移設されています。
    今回は「市ヶ谷」周辺を訪れる機会があり少し時間に余裕があったため、「靖國神社」の参拝ならびにその周辺エリアの散策をしてみようと思い「九段坂公園」敷地内に設置されている『高燈篭』に立ち寄りました。
    この『高燈篭』を実際に見てみると現在では周囲の建物の方が高くそれほど高層建造物と感じることはありませんが、東京の街が江戸から近代都市へと移り変わる時代の出来事など歴史とあわせて『高燈篭』が建造された当時に高層の建物が存在しなかった高台の見晴らしのよいスポットの新しい東京の街を代表するランドマーク的な存在感のある擬洋風建造物であったことを想像しながら楽しむことができました。
    『高燈篭』のある周辺は「千鳥ヶ淵」などの桜の名所でもあるので、機会があれば桜の咲く季節にまた立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装のスロープや段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    1871年(明治4年)に建造された高さ16.8メートルの擬洋風建造物です。

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