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江戸歌舞伎発祥の地 施設情報・クチコミに戻る

現在の中央区京橋1丁目で始まったとされる”江戸歌舞伎”の記念石碑です!

  • 3.5
  • 旅行時期:2021/10(約3年前)
hiroさん

by hiroさん(男性)

日本橋 クチコミ:18件

『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑は、1957年(昭和32年)にかつて運河として江戸時代に開削されていた約600メートルの「京橋川」に架けられていた「京橋」の北西側橋詰(現:東京高速道路会社線(通称:KK線)高架下)部分となる現在の中央区京橋3丁目に位置する「京橋大根河岸おもてなしの庭」の一画に建立されています。
ちなみに『歌舞伎』は、「本能寺の変」が起こる前年の1581年(天正9年)ごろから文献に残されている幼女(ややこ)による小歌踊りの芸能「ややこ踊り」を基にして、「出雲大社」に仕える巫女であったとされる「出雲阿国」が「出雲大社」勧進のため諸国を巡回していた際に「かぶき踊り」を創始し、「徳川家康」が征夷大将軍として徳川幕府を開いた1603年(慶長8年)に京都の「北野神社」で当時の都市部で流行していた世間の常識はお構いなしの奇抜な扮装に傾く「かぶき者」をまねた装いで「かぶき踊り」を演じたのが始りとされており、「かぶき者」の奇抜な扮装に傾く”傾(かぶ)く”が『歌舞伎』の語源となっています。
また、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1624年(寛永元年)になると道化方として滑稽なしぐさの演技「猿若」の名手であった「猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)」が現在の「日本橋」と「京橋」をつなぐ「中央通り(国道15号)」と「八重洲通り(都道408号)」が交差する「日本橋三丁目」交差点南側の中央区京橋1丁目あたりとなる当時の堀割に架けられていた「中橋」の南地に「猿若座(後の中村座)」の櫓をあげたのが『江戸歌舞伎』の始まりとされています。
その後の1629年(寛永6年)になると『女歌舞伎』は風紀を乱すとの理由で禁止となり、その後に男性役者のみによる”芝居・踊り・邦楽”で構成された現在の『歌舞伎』が確立されています。
『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑については、テレビの街歩き番組などでよく紹介されたりするので以前より存在することを知っていましたが、今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて『江戸歌舞伎発祥の地』記念石碑に立ち寄り写真撮影をしてみました。
この記念石碑中央に刻み込まれている”江戸歌舞伎発祥之地”の文字は、徳川幕府・第10代将軍「徳川家治」の時代である1779年(安永8年)に「九代目・中村勘三郎」より「中村座」の表看板や番付などの揮毫の依頼を受けた書道指南「岡崎屋勘六(雅号:勘亭)」が徳川幕府制定の公用書体であり手習いの手本として江戸庶民にも広く普及していた「御家流」の書体に装飾など工夫を加えて考案した「勘亭流」と呼ばれる書体であり、この書体が評判となり歌舞伎文字として現在に至っています。
「勘亭流」の特徴は、筆太で隙間なく内へ丸く曲げるように書くことで”空席が無く客を内へ内へと呼び込むことで興行の無事円満を祈る”という意味が込めれれています。
記念石碑両端部分には、歌舞伎役者の姿がレリーフで描かれており、それぞれのレリーフ下部に刻まれている説明文が日本語と英語の2種類あるのをみて、建立当初から国の「重要無形文化財」でありユネスコの「無形文化遺産」でもある『歌舞伎』が日本固有の伝統芸能のひとつとして世界に向けてアピールしていたことを実感しました。

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.0
東京メトロ銀座線・京橋駅3番出入口から約120メートル程度です。
人混みの少なさ:
4.0
特に立ち止まって見る人はいませんでした。
バリアフリー:
3.5
道路から記念石碑を眺めるだけです。
見ごたえ:
3.5
目立つものは特にありません。

クチコミ投稿日:2021/11/17

いいね!:5

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