1. ホーム
  2. 国内旅行
  3. 関東地方
  4. 東京
  5. 銀座・有楽町・日比谷
  6. 銀座・有楽町・日比谷 観光
  7. 京橋記念碑
  8. クチコミ詳細
銀座・有楽町・日比谷×
旅行ガイド
観光
グルメ
ショッピング
交通
ホテル
旅行記
Q&A

京橋記念碑

名所・史跡

京橋記念碑 施設情報・クチコミに戻る

明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています!

  • 3.5
  • 旅行時期:2021/10(約4年前)
hiroさん

by hiroさん(男性)

銀座・有楽町・日比谷 クチコミ:22件

『京橋記念碑』は、「日本橋」を起点に南側の銀座エリアを南北に横断し「新橋交差点」で「第一京浜(国道15号)」となる現在の「中央通り(国道15号)」の中央区銀座1丁目(現在の「銀座通り口」交差点付近)にかつて存在していた「京橋川」に架かる橋梁(『京橋』)の親柱であり、1959年(昭和34年)に「東京高速道路」の建設に伴い埋め立てられた「京橋川」とあわせて撤去された橋梁の歴史を伝える遺構の記念碑として明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています。
ちなみに「京橋川」および『京橋』については、「徳川家康」が領地替えによる江戸入府後に実施した江戸府内の大改造に伴い「江戸城」を囲む外濠(現在の東京高速道路・西銀座ジャンクション付近)から東側の八丁堀・桜川(現在の首都高速都心環状線・京橋ジャンクション付近)に合流までの延長およそ600メートルとなる区間を開削した運河であり、「平川」(現在の日本橋川)に架橋された「日本橋」と同時期とされる徳川幕府が誕生した1603年(慶長8年)に木造太鼓橋の『京橋』が架橋されたと伝えられています。
また、「東海道」の起点である「日本橋」から京へ上る最初に渡る橋であったことから橋の名称が『京橋』と呼ばれ、橋の修復費などは徳川幕府が負担する「御普請橋」であり、親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した特別の橋として江戸時代から重要視されていた橋であることが伺えます。
江戸府内において親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみであり、江戸時代に描かれた浮世絵でも『京橋』親柱頂部の「擬宝珠」を確認することができます。
1875年(明治8年)になると「石造アーチ橋」(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートル)の『京橋』が架橋され、この明治期に架橋された江戸時代から引き継がれている「擬宝珠」付きの親柱が現在の北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に設置されています。
その後の1901年(明治34年)になると「石造アーチ橋」から「鋼製アーチ橋」に架け替えられ、さらに1922年(大正11年)になると橋の拡幅工事(橋長およそ18.2メートル、橋幅およそ27.3メートル)が実施され親柱のデザインも伝統的な「擬宝珠」から照明設備付きの近代的な都市景観のドーム屋根をイメージしたモダンなデザインに一新され、この大正期に拡幅された橋の照明設備付き親柱が南橋詰跡東側に設置されています。
『京橋』の遺構については、数年前に千代田区にある都立公園の「日比谷公園」に立ち寄った際に公園敷地内に保存されている明治期の『京橋』欄干柱を見てから、機会があればかつて『京橋』が存在していた「中央通り」の「銀座通り口」交差点周辺を散策してみたいと思っていました。
今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて「銀座通り口」交差点に立ち寄り『京橋記念碑』となる明治期および大正期の『京橋』親柱の写真撮影をしてみました。
「京橋川」が流れていた上空を「東京高速道路」の高架橋が通り「中央通り」の上空を跨ぐ高架橋の風景から、かつて「京橋川」に架かる『京橋』の面影を感じることはできませんが、明治期および大正期の異なるデザインの『京橋』の遺構となる親柱を眺めていると江戸時代から明治期さらに大正期へと急激に近代化が進む時の流れを実感することができました。

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.0
東京メトロ銀座線・京橋駅2番または3番出入口から約150メートル程度です。
人混みの少なさ:
4.0
特に立ち止まって見る人はいませんでした。
バリアフリー:
3.5
歩道から記念石碑を眺めるだけです。
見ごたえ:
3.5
明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分の遺構が記念碑となっています。

クチコミ投稿日:2022/02/13

いいね!:5

利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する

PAGE TOP