大山巌像
名所・史跡
3.44
大山巌像 クチコミ・アクセス・周辺情報
市ヶ谷 観光 満足度ランキング 8位
クチコミ・評判
3.44
(102件のクチコミ)- アクセス:
- 3.72
- 地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。 by hiroさん
- 人混みの少なさ:
- 3.61
- 立ち止まって見る人はほとんどいません。 by hiroさん
- バリアフリー:
- 3.38
- 周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。 by hiroさん
- 見ごたえ:
- 3.44
- 馬像がとてもリアルに感じられます。 by hiroさん
1~20件(全102件中)
-
騎馬像が
- 3.5
- 旅行時期:2024/04(約2年前)
- 0
-
北の丸公園を背に
- 3.0
- 旅行時期:2023/12(約2年前)
- 0
-
北の丸公園
- 3.5
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
- 0
-
-
大山巌像
- 3.5
- 旅行時期:2023/02(約3年前)
- 0
-
「陸の大山、海の東郷」といわれるほど功績を讃えられた人物です。
- 5.0
- 旅行時期:2023/01(約3年前)
- 0
-
騎馬像
- 3.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 0
-
迫力あります
- 3.5
- 旅行時期:2022/06(約4年前)
- 0
-
-
九段坂沿いにある騎馬像
- 3.5
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
- 0
-
そばには高燈篭と品川弥二郎像があります。
- 3.0
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
- 0
-
西郷隆盛の弟の友達の像
- 3.0
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 1
-
馬に乗った銅像
- 3.5
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 0
-
西郷隆盛とは従兄弟同士
- 3.0
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 0
-
馬上の姿は威風堂々
- 2.0
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 0
-
軍服を着て馬にまたがった堂々とした像です
- 3.5
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 0
-
陸軍軍人
- 4.0
- 旅行時期:2022/03(約4年前)
- 0
-
西郷隆盛の従兄弟
- 4.0
- 旅行時期:2022/02(約4年前)
- 0
-
靖国神社を馬上から見つめています
- 3.5
- 旅行時期:2021/12(約4年前)
- 8
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元老大山巌
- 3.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
- 0
-
満開の桜とともに、絶対見逃せない観光アトラクション
- 4.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
- 0
-
馬像がとてもリアルに感じられる幕末期から激動の時代で活躍した元帥陸軍大将の騎馬像姿の銅像です!
- 3.5
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
- 4
『大山巌像』は、明治後期から大正期にかけて活躍した代表的な彫刻家「新海竹太郎」が1919年(大正8年)に制作した軍服を着た... 続きを読む騎馬像姿の銅像として、千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
なお『大山巌像』が制作された当時は、「陸軍参謀本部」が置かれていた現在の千代田区永田町1丁目に位置する「国会前庭(北地区)」の一画に設置されていましたが、現在の「九段坂公園」銅像設置場所にある解説板の記載内容によると太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に「連合国最高司令官総司令部(略称:GHQ)」により、一時撤去され「東京都美術館」に預けられたのちの1969年(昭和44年)に「九段坂公園」に移転されたと記されています。
また、太平洋戦争時の金属類回収令により『大山巌像』が撤去され太平洋戦争後に「東京芸術大学」構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され1964年(昭和39年)に「九段坂公園」に移転されたとする別途記述も存在しており、「千代田区観光協会」のホームページには”移設の年月は不明”として紹介されています。
ちなみに『大山巌(通称:弥助)』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1842年(天保13年)に薩摩藩士の次男として誕生し、薩摩藩の尊皇攘夷派リーダー格とされる「有馬新七」の影響を受けて活動するものの1862年(文久2年)に薩摩藩内の過激化する尊皇攘夷派を粛正する「寺田屋騒動」で謹慎処分を受けています。
その数か月後に発生した「生麦事件」(武蔵国橘樹郡生麦村にて薩摩藩主の行列を乱したとしてその場でイギリス人が殺傷された事件)がもとで、鹿児島湾において薩摩藩とイギリス艦隊との武力衝突となった「薩英戦争」により謹慎処分を解かれた『大山弥助』は、砲台の配属を命じられ近代西洋各国と国内の軍事力に大きな格差を目の当たりにし、その後に西洋砲術を国内に普及させた幕臣で伊豆韮山代官「江川英龍」のもとで砲術を学び砲術の免許皆伝を得ています。
明治維新を向かえると1868年(慶応4年)から「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに「会津戦争」など国内各地で繰り広げられた「戊辰戦争」では「新政府軍」として新式銃隊を率いて参戦し、「会津戦争」では会津藩家老の娘「捨松」が「会津若松城」の籠城戦に参加していますがのちに『大山巌』の後妻となっています。
「戊辰戦争」が終結すると大砲の研究に取り組み西洋の大砲を改良した「弥助砲」を考案するほか、軍事視察および軍政・砲術を研究など西洋留学を繰り返し、1874年(明治7年)に長期留学から帰京する際に『大山巌』に改名したとされています。
さらに1877年(明治10年)に勃発した国内最後の内戦とされる「西南戦争」では、『大山巌』の15歳年上の従兄である「西郷隆盛」を盟主とした士族の武力反乱に対し、「政府軍」の別働第五旅団司令長官に任命されて『大山巌』が参戦しています。
その後の1880年(明治13年)には陸軍卿に任命され、1885年(明治18年)になると内閣官制(内閣職権)により陸軍卿は陸軍大臣に改称となり、第1次「伊藤博文」内閣が発足し『大山巌』が初代陸軍大臣に任命されています。
1894年(明治27年)の「日清戦争」においては陸軍大将として出征し、1898年(明治31年)になると最高顧問機関として「元帥府」が創設され「元帥」の称号を授与し、1904年(明治37年)の「日露戦争」には元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任しています。
1914年(大正3年)には内大臣に任命されるも1916年(大正5年)に内大臣在任中に胃病で倒れて胆嚢炎を併発し、そのまま療養中に逝去(享年75歳)されています。
今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めての「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い立ち寄った「九段坂公園」に『大山巌像』があることを知りました。
『大山巌像』を見ていると彫刻家「新海竹太郎」が騎兵隊に約8年間にわたり在隊し、馬を身近に感じながら馬の彫刻に興味を持っていたのことで馬像がとてもリアルに感じられるとともに幕末期から激動の時代で活躍した『大山巌』の人生を改めて学び楽しめました。
逸話となりますが、逝去される間際の意識朦朧の状態で”兄さぁ~”とつぶやく『大山巌』に対し、”西郷さんにやっと会えたのね”と話しかけたとされる妻「捨松」の言葉が胸に刺さります・・・ 閉じる投稿日:2022/01/23
投稿写真
基本情報(地図・住所)
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