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hiroさんのクチコミ(4ページ)全476件

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  • 東京の新たなランドマークになるといわれている今後注目のエリアにある広場です!

    投稿日 2022年05月29日

    TOKYO TORCH Park 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『TOKYO TORCH Park』は、東京駅連絡通路の日本橋口方面(東京駅・北東エリア)に位置する千代田区大手町2丁目の常盤橋街区で現在も建設工事が実施されている大規模再開発事業の一画であり、現在の東京駅周辺で最も高い超高層ビルとして2021年(令和3年)7月にオープンした複合ビル「常盤橋タワー」(地上38階・地下5階・高さ212メートル)の敷地内に整備された面積がおよそ3,000平方メートルとなる広場の名称です。
    ちなみに常盤橋街区で現在も建設工事が実施されている大規模再開発事業は、2016年(平成28年)から2棟の超高層ビル建設を中心とした「東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)」としてスタートし、2020年(令和2年)にプロジェクト正式名称が”TOKYO TORCH”に決定しています。
    この大規模再開発事業は最終的に2027年度(令和年9度)に完成予定となっており、現在も建設工事中の「Torch Tower」が完成すると現時点で大阪市阿倍野区にある日本一高い超高層ビル「あべのハルカス」(地上60階・地下5階・高さ300メートル)を抜いて、地上63階・地下4階・高さ390メートルの日本一高い超高層ビルとなる予定であり、『TOKYO TORCH Park』も「Torch Tower」の敷地部分が加わることで、最終的に現在の2倍以上の面積およそ7,000平方メートルになる予定となっており、”TOKYO TORCH”の2棟の超高層ビル(「常盤橋タワー」および「Torch Tower」)とあわせて『TOKYO TORCH Park』が東京の新たなランドマークになるといわれている今後注目のエリアです。
    今回は、『TOKYO TORCH Park』で開催されているイベントのひとつとして定期的に毎週金曜日と日曜日に開催される”TOKYO TORCH Market”を見て廻る目的で日曜日の午前中に初めて『TOKYO TORCH Park』に立ち寄り、「常盤橋タワー」内にある商業ゾーン”TOKYO TORCH Terrace”(地下1階から地上3階部分)でランチをしてみました。
    『TOKYO TORCH Park』は、「常盤橋タワー」北側に隣接する「日本橋川」沿いの樹木に囲まれたエリアに錦鯉の発祥である新潟県小千谷市との連携による「錦鯉が泳ぐ池」が整備されているほかに新潟県佐渡市の「佐渡島の金鉱石」が設置され、「常盤橋タワー」西側となる現在建設中の「Torch Tower」と隣接するエリアにはデンマークを拠点に活動する遊具製作会社・MONSTRUMとの連携による「鯉池アート遊具」および福島県との連携による「巨大赤べこ」が設置、さらに茨城県つくば市との連携による「つくばの天然芝」および静岡県裾野市との連携による「うるおいある緑化空間」が整備されるなど『TOKYO TORCH Park』各所で日本全国の地域と連携した施設の設置や整備が進められており、”TOKYO TORCH Market”に出店している国内各地のさまざまなジャンルの商品を見て廻りながら広場各所で楽しむことができました。
    また「常盤橋タワー」の商業ゾーンである”TOKYO TORCH Terrace”の各飲食店は、『TOKYO TORCH Park』と一体化するようにテラス席が設けられており、ランチならびにティータイムなどの休憩処としてお勧めできます。
    そのほか現在建設中の「Torch Tower」が完成した際に現在の2倍以上の面積およそ7,000平方メートルになる予定の『TOKYO TORCH Park』が、どのように進化しているのかも楽しみです・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.0
    東京駅のJR高速バス降り場のある日本橋口から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    日曜日の午前中に立ち寄りランチを食べて帰りましたが、徐々に人が集まってきました。
    バリアフリー:
    4.0
    段差などはほとんど気になりませんでした。
    見ごたえ:
    4.0
    毎週開催されているマーケットなどを見て廻り楽しめました。

  • コンパクトな境内ですが、御神木の”クスノキ”に圧倒されました!

    投稿日 2022年05月22日

    大神社 (紀ノ川市) 岩出・紀の川

    総合評価:4.0

    『大神社(だいじんじゃ)』は、和歌山県北部の紀の川市粉河に位置する「西国三十三所観音霊場」の第三番札所として知られる粉河観音宗・総本山「粉河寺」最古の建造物となる朱塗りの楼門「大門」の門前に鎮座し、祭神として「天照皇大神」を祀る境内面積がおよそ330平方メートル(100坪程度)の小規模な神社です。
    『大神社』の創建年代などは不詳とされていますが、伝承によると1585年(天正13年)に「羽柴秀吉」軍による「紀州攻め」ののちに「粉河寺」を牽制するため「羽柴秀長」に仕えていた「藤堂高虎」が1587年(天正15年)に「羽柴秀吉」から大名として紀伊国粉河の領地を与えられ、もともと「粉河寺」が寺の防御のために築城した「粉河寺」南側に位置する「猿岡山城」(現:秋葉山公園)を改築して、1592年(文禄元年)に「朝鮮出兵(文禄の役)」となるまでの7年間に渡り居城としていた「藤堂高虎」が『大神社』を氏神として崇敬していたと伝えられています。
    また、徳川幕府・第2代将軍「徳川秀忠」の時代となる1608年(慶長13年)に「藤堂高虎」が、伊予国今治から伊賀国・伊勢国の一部に領地替えで初代・津藩主となった際には、『大神社』の社殿を改築したとも伝えられています。
    ちなみに「藤堂高虎」は、室町幕府・第13代将軍「足利義輝」の時代である戦国時代に近江国(現:滋賀県)に生まれ、江戸時代初期の徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1630年(寛永7年)までの人生の中で「浅井長政」・「羽柴秀長」・「羽柴秀吉」・「徳川家康」などに仕えた武将・大名であり、「黒田孝高(黒田官兵衛)」・「加藤清正」とともに「築城三名人」と称された築城の名手としても知られる人物です。
    今回は、和歌山県で開催された「紀の国わかやま文化祭2021」(国民文化祭)の催しに参加する家族に同行して『大神社』の道路向かいにある「丸浅旅館」に宿泊する機会があり、旅館周辺を散策しながら『大神社』を参拝しました。
    コンパクトな境内の『大神社』には、パワースポットとして存在感のある樹齢1000年余りと推定される御神木の「クスノキ」(高さ約25メートル・幹廻り約15メートル)があり圧倒されました。
    この「クスノキ」については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1806年(文化3年)から第12代将軍「徳川家慶」の時代である1839年(天保10年)までの33年間の期間をかけて編纂された紀伊国の地誌「紀伊続風土記」(本編97巻・高野山之部81巻・古文書編17巻:全195巻)において本編の那賀郡粉河荘粉河村の項に大神宮として”境内樟の大樹あり周囲三丈五尺許”と記述されており、2005年(平成17年)に5町合併により紀の川市が誕生する以前である1997年(平成9年)に旧・粉河町の「文化財(自然保存木)」に指定されています。
    一般的に御神木ならびに天然記念物に指定されている樹木は、柵に囲われて直接触ることのできないパターンが多く感じられますが、『大神社』の場合は”御神木に触れてパワーを頂いて下さい”と立看板が設置されており、間近で実際に大樹に触れて改めて幹廻り約15メートルの大きさへの驚きとともに1000年余り生き続けている生命力の凄さに圧倒され邪念が洗い流されたような清々しい気分になりました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から約900メートル(徒歩12分程度)です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    土曜日の夕方に参拝しましたが、誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    道路と境内に数段の段差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    御神木の”クスノキ”に圧倒されました。

  • 薩長同盟の締結に尽力した長州藩の人物像です!

    投稿日 2022年05月15日

    品川弥二郎像 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『品川弥二郎像』は、明治期に官僚として内務大書記官・内務少輔・農商務大・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官などを歴任したのちに政治家となり内務大臣を務めた人物の銅造であり、現在の「靖国通り(都道401号)」沿い「田安門」交差点付近となる千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    『品川弥二郎像』の台座(背面)には、「西郷隆盛」の弟である元帥海軍大将 侯爵「西郷従道」等2845名により1907年(明治40年)8月に建設されたことが彫り込まれていますが、「西郷従道」は1902年(明治35年)7月に逝去されており矛盾も見られ、「千代田区観光協会」のホームページを確認したところ”建設年月日は不明”として紹介されています。
    『品川弥二郎像』の制作者については、「東京三大銅像」と称される「皇居外苑」にある「楠木正成銅像」ならびに「上野恩賜公園」にある「西郷隆盛銅像」を手がけた彫刻家として知られる「高村光雲」が監督を務め、「高村光雲」を師事しのちに高知市浦戸の桂浜にある代表作となる「坂本龍馬像」のほか明治維新で大きな功績があった殆んどの人物銅造を手がけた彫刻家の「本山白雲」が原型制作をおこない、鋳造は「西郷隆盛銅像」の鋳造にもかかわったとされる「平塚駒次郎」が担当し銅像が完成していますが、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において銅像が台座ごと倒壊し、その後に制作者である「本山白雲」が自ら私費を投じて再建しています。
    ちなみに『品川弥二郎』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1843年(天保14年)に長門国椿郷東分村(現:山口県萩市椿東)の長州藩・足軽の家に生まれ、徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」から第14代将軍「徳川家茂」となった年の1858年(安政5年)に長門国松本村(現:山口県萩市椿東)の私塾「松下村塾」に入門し「吉田松陰」から教育を受けています。
    しかし「吉田松陰」は、徳川幕府の諸策に対し反対する者を弾圧した事件として知られる「安政の大獄」に連座して、1859年(安政6年)に江戸の「伝馬町牢屋敷」に幽囚されたのち死罪となり、その後の『品川弥二郎』は「松下村塾」四天王と称される「高杉晋作」と共に尊王攘夷運動に奔走しています。
    1864年(元治元年)になると尊王攘夷を掲げる長州藩兵と京都守護職を務めていた会津藩および薩摩藩を中心とした徳川幕府側諸藩兵が「京都御所・蛤御門」周辺で起こした武力衝突「禁門の変(蛤御門の変)」において『品川弥二郎』が長州藩の八幡隊長として参戦しています。
    さらに1865年(慶応元年)になると情報収集・連絡係として「木戸孝允(桂小五郎)」と共に上京し、1866年(慶応2年)に京都の「近衛家別邸・御花畑屋敷」でおこなわれた「薩長同盟」締結の場に同席しているほか、1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)までの国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」では、「新政府軍」の奥羽鎮撫総督参謀・整武隊参謀として参戦しています。
    この「戊辰戦争」において「新政府軍」の行進曲として歌われた「トコトンヤレ節(宮さん宮さん)」は、『品川弥二郎』が作詞したもので日本初の軍歌といわれ、その後に明治期の流行歌となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い「九段坂公園」敷地内に設置されている『品川弥二郎像』に立ち寄り写真撮影をしてみましたが、『品川弥二郎』に関する詳細を知らず今回の写真撮影をきっかけに『品川弥二郎』について色々と調べることで楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.0
    薩長同盟の締結に尽力した松下村塾の門下生であった長州藩の人物像です

  • ロケーションが自慢の南欧風リゾートホテルです!

    投稿日 2022年05月07日

    和歌山マリーナシティホテル 和歌山市

    総合評価:4.0

    『和歌山マリーナシティホテル』は、1986年(昭和61年)に和歌山県が策定した「和歌山県長期総合計画」において「関西国際空港」の開港に合わせたリゾート開発計画の一環として風光明媚な和歌山市毛見沖(和歌山湾)に1989年(平成元年)から約6年間におよぶ造成工事を経て開発された開発面積65ヘクタール(陸地:49ヘクタール、海面:16ヘクタール)の人工島からなるリゾート施設「和歌山マリーナシティ」内の船舶係留施設(マリーナ)に面したエリアに建設された南欧風リゾートホテル『和歌山マリーナシティロイヤルパインズホテル』として1998年(平成10年)にオープンし、その後に運営会社変更に伴い現在のホテル名称に変更されています。
    ちなみに「和歌山マリーナシティ」は、1994年(平成6年)に72日間に渡り開催された体験型の地方博覧会”JAPAN EXPO 世界リゾート博(通称:リゾート博)”の会場跡地であり、現在は『和歌山マリーナシティホテル』のほかにテーマパークとしてアトラクション施設を完備しヨーロッパの街並みを再現した「ポルトヨーロッパ」(入場無料)を中心に昭和レトロな商店街の雰囲気が漂う物販コーナーと飲食コーナーが集結し生マグロの解体ショーが毎日開催される「黒潮市場」、和歌山湾を一望できる天然温泉施設として海底およそ1,500メートルにおよぶ1億年前の地層から湧き出た太古の源泉(泉質:ナトリウム-塩化物泉)を取り込む「紀州黒潮温泉」、2015年(平成27年)に国土交通省より一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)として「海の駅」に登録された「わかやまマリーナシティ海の駅」、リゾートマンションなどで構成される海に囲まれた”リゾートアイランド”となっています。
    『和歌山マリーナシティホテル』の概要については、海面と空の青色およびホテル敷地内に広がる芝生広場の緑色に映える南欧風の明るいイメージとなる黄色と白色を基調にした外壁塗装仕上が特徴的な7階建ての建物であり、3階から7階部分の全99室の客室すべてがヨットなどが停泊する”マリーナ”を正面に「日本列島夕陽と朝日の郷づくり協会」によって「日本の夕陽百選」に選定された和歌浦の海を望むことのできる絶景のロケーションとともにマリーナを望む「屋外ガーデンプール」および”海の見えるチャペル”などの「ウエディング施設」ならびに「宴会場」を備えているリゾートホテルです。
    今回は、プライベートとして初めて和歌山県を訪れた際の日曜日に紀の川市粉河から海を見て和歌山土産などショッピングをしたいという家族とともにおよそ6時間程度で粉河の戻る計画で初めて「和歌山マリーナシティ」に立ち寄りました。
    先ずは、人気の釣り場となっている「和歌山マリーナシティー大波止」から和歌浦の海を一望し中世イタリアの地中海沿岸にある港街となる漁村をモチーフにしたコンパクトなテーマパーク「ポルトヨーロッパ」を歩いて廻り裏路地などヨーロッパの街並み気分を味わいながら「黒潮市場」内でお土産を購入して、同じく「黒潮市場」内の昭和レトロな雰囲気のある商店街の新鮮なネタが自慢の海鮮丼を購入し海辺の飲食テラス席で潮風を感じながら少し早めのランチを済ませた後、「黒潮市場」内で毎日開催される生マグロの解体ショーの時間にあわせて大勢の人が集まり始めたので解体ショーを見るのをやめて”マリーナエリア”に移動し、『和歌山マリーナシティホテル』の芝生広場でウエディング記念撮影のシーンに遭遇したり、ホテル1階にあるカフェ&ベーカリー「カテリーナ」の芝生広場が広がるガーデンテラス席で天候にも恵まれて海外にいるようなリゾート気分をゆったりと味わうことができました。
    「和歌山マリーナシティ」の滞在が短時間でしたが、機会があれば『和歌山マリーナシティホテル』に宿泊してホテル自慢のロケーションなどでリゾート気分を満喫してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    和歌山駅から路線バスで約1時間前後です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    接客対応:
    3.5
    食事・ドリンク:
    3.5
    バリアフリー:
    4.0

  • 沼津港で水揚げされた魚介類を提供する食事処・お土産処などが充実した人気の観光スポットです!

    投稿日 2022年05月04日

    沼津港飲食店街 沼津

    総合評価:4.0

    『沼津港飲食店街』は、江戸時代に旧東海道の起点である「日本橋」から数えて12番目の宿場「沼津宿」として栄えてきた現在の沼津市大手町エリア(JR沼津駅・南口周辺)から「狩野川」を2キロメートルほど下流に下った河口付近となる「沼津港・内港」東側の「狩野川」と挟まれた沼津市千本港町に位置する「沼津港」で水揚げされた魚介類を提供する食事処およびお土産処などの店舗が充実した商業エリアです。
    「沼津港」については、地上30メートル部分に展望施設を併設した国内最大級の津波水門「びゅうお」(扉体の幅:40メートル・高さ:9.3メートル・重量:406トン)の外側部分に大型船などが停泊する「外港」および「びゅうお」の内側部分に漁船などが停泊する「内港」に分割されており、日本一高い「富士山」の南側裾野に広がる「日本3大深湾」として国内で最も水深の深い湾とされる「駿河湾」(最深部:約2,500メートル)に面した伊豆半島の付け根に位置し、その「沼津港」の漁場となる起伏にとんだ海底地形をもつ「駿河湾」には日本近海で食用として捕獲される魚介類の4割以上となるおよそ1,000種から1,200種の魚介類が生息しているといわれ、「駿河湾」の深海にのみ生息している「サクラエビ」などをはじめ多種にわたる魚介類が「沼津港」に水揚げされ国内有数の漁獲量を誇る漁港として知られています。
    ちなみに「日本3大深湾」は、「駿河湾」のほかに最深部が約1,600メートルの「相模湾」および最深部が約1,200メートの「富山湾」とされ、いずれの湾も国内屈指の漁場として知られています。
    『沼津港飲食店街』には、15年以上前の平日に仕事で沼津市を訪れた際にランチ目的で一度だけ立ち寄ったことがありますが、今回は土曜日に家族で自動車を利用して『沼津港飲食店街』に立ち寄りランチをする計画でした。
    ところが『沼津港飲食店街』に行く途中の「東名高速道路」で渋滞にはまり『沼津港飲食店街』でのランチは断念し、「沼津港」に到着したのが14時半ごろとなりましたが、「沼津港」周辺の駐車場施設はどこも満車状態で『沼津港飲食店街』は大変な賑わいとなっており、「沼津港」周辺を自動車でグルグル廻り駐車スペースを探す方も多く見受けられる状態で自分達も駐車スペース確保に少し時間を要することとなりました。
    過去にランチ目的で『沼津港飲食店街』を立ち寄った際も観光目的の人が多くいた記憶がありますが、15年以上前と比較して新たな施設も増えており「沼津港」周辺が食事処・スイーツ・お土産処のほかにも国内最大級の展望施設が併設した水門「びゅうお」、日本初の深海をテーマとした水族館「沼津港深海水族館・シーラカンスミュージアム」など幅広い年齢層が楽しめる充実した人気の観光スポットとなっていることを改めて実感しながら、今回は短時間の滞在となりましたが海産物のお土産処などを中心に見ながら歩いて廻り『沼津港飲食店街』の雰囲気を楽しむことができました。
    但し閉店時間が15時台から16時台の店舗も複数ありますので、次回に立ち寄る機会があれば早めの時間帯に立ち寄り「沼津港」で水揚げされた新鮮な海の幸を堪能するとともに「びゅうお」ならびに「沼津港深海水族館」などの施設にも入館してみたいと思います。
    そのほか『沼津港飲食店街』に立ち寄り感じたこととして、『沼津港飲食店街』を観光目的で利用される方のほとんどが自家用自動車を利用されいるのに対して、「沼津港」周辺の駐車場施設が有料と無料の施設が混在しとても分かりにくい上、全体的に駐車台数が少なく感じられるので駐車場を利用される場合は事前に駐車場情報をチェックしておくことをお勧めします。

    旅行時期
    2022年03月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR沼津駅・南口からバスで10分程度(約2キロメートル)です。
    人混みの少なさ:
    2.5
    土曜日の14時半ごろでしたが多くの人でに賑わっていました。
    バリアフリー:
    3.0
    ほぼ平家の店舗で通りも車道と歩道の段差も気になるほどではありませんが、部分的に段差のある建物や店内が狭く感じる店舗もあります。
    見ごたえ:
    4.5
    沼津港で水揚げされた魚介類を提供する食事処・スイーツ・お土産処のほかにも深海をテーマにした水族館などの施設があります。

  • 和風意匠を基調とした明治時代の貴重な建造物としてお勧めできる施設です!

    投稿日 2022年05月01日

    旧和歌山県議会議事堂(一乗閣) 岩出・紀の川

    総合評価:4.0

    『旧和歌山県議会議事堂(一乗閣)』は、かつての『和歌山県会議事堂』として1898年(明治31年)に竣工した和風意匠を基調とした木造2階建ての建物であり、「和歌山城公園」北東部の出入口となる「旧和歌山城・大手門」に通じる木造橋梁の「一の橋」からすぐの和歌山市一番丁に位置する現在の「和歌山中央郵便局」がある場所に建設されています。
    建設当時は、「和歌山県庁舎」が「和歌山城公園」北西部の和歌山市西汀丁にある現在の「汀公園」に位置し、県庁舎と県会議事堂が約600メートル離れているなど不便な部分もありましたが、『和歌山県会議事堂』が県民の公会堂としても利用されており、1911年(明治44年)には文豪・「夏目漱石」が「現代日本の開化」と題して講演をおこなった場所としても知られています。
    1938年(昭和13年)になると議場を備えた現在の「和歌山県庁舎」が「和歌山城公園」南西部の和歌山市小松原通に竣工したことにより、県会議事堂としての役目を終えた『旧和歌山県会議事堂』は1941年(昭和16年)に「保証責任和歌山県信用購買販売利用組合連合会(現:JAグループ和歌山)」に売却され、建物を事務所として利用するため現在の「JR和歌山駅」西口駅前となる和歌山市美園町に移築されています。
    その後の1962(昭和37)年になると「和歌山駅前(農協ビル)」事務所の建て替えにより、「根來寺」が『旧和歌山県会議事堂』の引き取り先となることで「根來寺」境内に2度目の移築が実施され、「根來寺」の山号「一乗山」にちなんで「一乗閣」と呼ばれ大客殿として利用されたほか集会および合宿などでも活用される施設となっています。
    さらに2005年(平成17年)になると『旧和歌山県会議事堂』として「和歌山県指定文化財」となりますが、2度におよぶ移築により正面外観に大きな違いはなかったものの館内など部分的に原型が失われており、文化財として適切に保存するために和歌山県が再び所有する施設となり、2013年(平成25年)から2016年(平成28年)までの約3年3か月の期間におよぶ大規模な保存整備事業として、和歌山県北部の岩出市根来にある「道の駅 ねごろ歴史の丘」の東側に位置する現在地への3度目の移築とともに明治時代に建築された当時の建物原型に復原する移築修復工事を経て2016年(平成28年)より館内が一般公開されるとともに2017年(平成29年)には国の「重要文化財」に指定されています。
    ちなみに明治時代に国内各所に建設された「府県会議事堂」において現存する建物は、『旧和歌山県会議事堂』のほかに1883年(明治16年)に竣工の「旧新潟県会議事堂」(洋風・木造2階建て)、1904年(明治37年)に竣工の議事堂を併設した「京都府庁旧本館」(ルネサンス様式・レンガ造2階建て)の3箇所のみでいずれも国の「重要文化財」に指定されています。
    今回は、和歌山市在住の方の案内で『旧和歌山県議会議事堂』に立ち寄りましたが、間口31メートル ・奥行47メートル・建築面積1,239平方メートルにおよぶ大規模な本瓦葺き屋根に漆喰塗りと下見板張りの外壁仕上からなる和風意匠を基調とした木造2階建ての外観に圧倒されながら車寄せ部分の寺社建築の屋根を連想させる正面出入口から入館し館内を見学して廻りました。
    館内は、建物正面部分から本館エリア・議場エリア・控え室エリアで構成されており、本館が県会議員のためのエリアとして1階に受付・傍聴人控所・接見室、2階に議長室・書記室・議員休憩室・議員応接室が備えられており、現在は2階が資料・模型などの展示スペースとなり歴史とともに建物復元時の建物各所の貴重な部材などを見ることができ楽しむことができました。
    施設のメインとなる議場エリアについては、間口:18メートル、奥行:23メートル、高さ:6メートルの吹き抜け部分に柱を設けない折り上げ格天井の大空間に仕上げられており圧倒されました。
    和風意匠で仕上げられている木造建築ですが、議場エリアを無柱の大空間とするために屋根裏部分の小屋組を洋風のトラス構造が採用され、伝統的な和の要素の中に新たな西洋の技術も取り入れるなど当時の職人の和魂洋才の精神も垣間見ることもできる明治時代の貴重な建造物としてお勧めできる施設です。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.0
    最寄り駅となるJR和歌山線・岩出駅からタクシーで10分程度です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の午前中でしたが、他の入館者はおりませんでした。
    展示内容:
    4.0
    歴史とともに建物復元時の建物各所の貴重な部材などを見ることができました。
    バリアフリー:
    3.5
    正面出入口に段差があります。館内はエレベーターが設置されています。

  • 江戸時代に隅田川河口の海上安全・渡航安全の守護神として信仰を集めていた神社です!

    投稿日 2022年04月29日

    住吉神社 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『住吉神社』は、中央区新富エリアと晴海アリアを東西方向に結ぶ「新富晴海線(都道473号)」の「隅田川」に架かる「佃大橋」から「隅田川」を150メートルほど上流に逆上った左岸側に位置する「住吉水門」から「隅田川」と分岐する「佃川支川(佃堀)」沿いに位置する中央区佃1丁目に鎮座する神社です。
    『住吉神社』の創建については、江戸時代に全国各地からの物資を運ぶ船が集まる「江戸湊」の「鉄砲州」(現:中央区明石町および湊周辺)と呼ばれていた砂州の沖合いにあった干拓地を「徳川家康」と縁のあるかつての摂津国佃村(現:大阪市西淀川区佃)の漁師たちが徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1644年(正保元年)に徳川幕府より拝領し、居住地とするために埋立し開拓した人工島を漁民たち故郷の地名から「佃島」と命名するとともに1646年(正保3年)に故郷の「住吉神社(現:田蓑神社)」の分神霊として「住吉三神」と称される「底筒男命」・「中筒男命」・「表筒男命」の主祭神とあわせて相殿神として「息長足姫命(神功皇后)」ならびに「東照御親命(徳川家康)」を祀ったのが始まりとされています。
    ちなみに摂津国佃村の漁師たちと「徳川家康」の関係は、1582年(天正10年)に「明智光秀」が起こした「本能寺の変」の際に大坂・堺に滞在していた「徳川家康」が小姓衆などわずかな手勢で本拠地である三河国「岡崎城」までの帰路の途中で漁師たちが提供した漁船のおかげで危機を脱出することができた説のほか、天正年間(1573年から1593年)に「徳川家康」が京都に上洛した際に摂津国「住吉神社」も参拝したとされ、その途中で川を渡る渡し舟がなく難儀していたところを漁師たちが漁船を提供したという説が存在しています。
    その後の1599年(慶長4年)に幼少の「豊臣秀頼」を支える五大老であった「徳川家康」が「伏見城」に在城した際も漁師たちが御膳魚の調達をしたほか、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」および1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」においては漁師たちが大坂付近の海上偵察から本陣への状況報告までの役目をつとめたと伝えられています。
    また『住吉神社』創建後は、「佃島」の立地が「江戸湊」の入口であったことから「江戸湊」と関わりのある海運業をはじめ各問屋組合などの多くの人々から海上安全・渡航安全の守護神として信仰を集めるようになっています。
    さらに明治期以降には、近代化に伴い「隅田川」河口付近における船舶の運航航路を確保するために堆積した土砂をさらう浚渫工事により発生した土砂を再生利用する埋立事業計画が実施され「佃島」を拡張するように現在の「月島」エリア・「勝どき」エリア・「豊海」エリア・「晴海」エリアが形成され『住吉神社』が新たな「隅田川」河口付近・埋立エリアの鎮守として信仰されています。
    今回は、およそ35年ぶりに『住吉神社』を参拝してみましたが、『住吉神社』周辺のかつて「佃島」として開拓された人工島エリアは、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」、その後の「太平洋戦争」末期となる1945年(昭和20年)に5回にわたり都内を襲った「東京大空襲」で被災を免れた数少ないエリアであり、現在も「太平洋戦争」以前の細い路地が残る下町の住宅地が残されている昭和レトロな雰囲気が感じられます。
    『住吉神社』境内もコンパクトですが、拝殿・幣殿・本殿が一体となった権現造りの社殿は拝殿・幣殿部分が1870年(明治3年)に再建された建築物であり、参道の脇にある石造の水盤は江戸時代中期の1841年(天保12年)に奉納されたもので水盤舎は1869年(明治2年)に再建されたのち1911年(明治44年)に改築されており1990年(平成2年)に「中央区民有形文化財(建築)」に登録されています。
    そのほか参道入口のにある石造鳥居に掲げられている陶製の扁額は「有栖川宮幟仁親王」が揮毫したもので1882年(明治15年)に奉納され1990年(平成2年)に「中央区民有形文化財(工芸品)」に登録されたものなど見どころの多い神社であり、昭和レトロな雰囲気が感じられるかつての「佃島」エリアとあわせての散策はお薦めできます。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・月島駅6番出口から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の夕方でしたが、地元の方と思われる人とすれ違うだけでした。
    バリアフリー:
    3.5
    拝殿部分に数段の段差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    コンパクトな境内ですが中央区民有形文化財などがあります。

  • 江戸時代に創業した都内で唯一の”あんこう料理専門店”です!

    投稿日 2022年04月23日

    いせ源 神田・神保町

    総合評価:4.5

    『いせ源』は、最寄り駅となる東京メトロ・丸の内線「淡路町駅」のほか都営地下鉄・新宿線「小川町駅」、JR「秋葉原駅」など都内鉄道会社・各路線の複数駅から徒歩圏内となる千代田区神田須田町1丁目に位置し、「東都のれん会」に加盟する老舗として都内で唯一となる”あんこう料理専門店”です。
    ちなみに「東都のれん会」は、1951年(昭和26年)に創設された江戸時代から明治時代初期にかけて創業した後に先祖代々の祖業を100年以上にわたり継承する”のれん”を正統に引き継ぎ、その品位と伝統の保持につとめている東京都に本店を有する老舗の集まりであり現在53店舗が加盟する団体です。
    『いせ源』の創業については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1830年(天保元年)に初代「立川庄蔵」が現在の中央区京橋3丁目となる「江戸歌舞伎発祥の地」としても知られる中橋広小路に「いせ庄」(どじょう屋)を開業したのが始まりとされ、2代目「立川源四郎」が現在の神田須田町1丁目となる神田連雀町に店舗を移転するとともに店名も『いせ源』に改称し、その後に”あんこう鍋”をはじめ様々な鍋料理が提供されるようになりますが複数ある鍋料理の中で”あんこう鍋”が人気を集め大正時代をむかえた4代目「立川政蔵」の代に”あんこう料理専門店”となっています。
    現在の『いせ源』の建物については、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により焼失した店舗を新たな入母屋造りの木造3階建てとして建て直しがおこなわれ1932年(昭和7年)に竣工したもので、その後に「太平洋戦争」終戦間近の1944年(昭和19年)秋から翌年の春先にかけて5回にわたり東京都市部を襲った「東京大空襲」において神田須田町1丁目エリアが奇跡的に被災を免れており、『いせ源』のほかにも昭和初期の建物が現存する昔ながらの情緒を漂わせる街並みが残されています。
    2001年(平成13年)になると『いせ源』をはじめとする周辺エリアの昭和初期に建設された建物が「東京都選定歴史的建造物」に選定され、2003年(平成15年)には「千代田区景観まちづくり重要物件」にも指定されています。
    今回は、家族内で”西の ふぐ、東の あんこう”の話題から食べたことのない”あんこう鍋”を食べてみたいとの一言で日曜日のランチで『いせ源』の”名代 あんこう鍋”コースを予約しました。
    予約した当日は、東京メトロ「淡路町駅」を利用して神田須田町1丁目エリアの昭和時代にタイムスリップしたような老舗の街並みおよび『いせ源』玄関脇にかつて冷蔵庫として使用されていたガラスケース内で氷付けの”あんこう”を見て期待も高まり予約時間よりも少し早めに入店しました。
    昭和初期の『いせ源』建物外観および建物内部も老舗にふさわしく情緒あふれる雰囲気が漂い堅苦しさも感じることなくゆったりとした2階和室のテーブル・イス席でくつろぎながら楽しく食事をすることができました。
    『いせ源』で提供される”あんこう”は、青森県下北半島・風間浦沖(漁港から約5キロメートル圏内)にて刺網漁・空釣り漁により生きたまま水揚げされた”活あんこう”のみを厳選したもので、風間浦で一昼夜以上安息(畜養)させた後に出荷時刻にあわせて活〆してから出荷後24時間以内に『いせ源』に直送された”あんこう”を店内で解体(吊るし切り)して提供しているとのことでした。
    また、今回の料理に提供された”あんこう”の水揚げ日・活〆日が記載された生産履歴の提示もあり鮮度に対するこだわりを感じながら、家族で初となる各種あんこう料理とメインの”あんこう鍋”を堪能し、最後は鍋の締めとなる”おじや”も食べきれないかと思いましたが、秘伝の割下でじっくりと煮込まれた鍋汁を使用した”おじや”までの全ての料理が美味しく残すことなく完食することができました。
    食事後は神田須田町1丁目エリアの昭和レトロな雰囲気の街並みを散策しながら帰りましたが、機会があれば料理とともに店内の雰囲気および周辺エリアの街並みが気に入り、また利用してみたいと感じる店舗のひとつです!

    旅行時期
    2022年03月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    10,000円以上
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ丸の内線・淡路町駅のほか都内鉄道会社・各路線の複数駅から徒歩圏内です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    高級魚であり鮮度にもこだわりを感じられ値段は安くないですが、味は満足できます。
    サービス:
    4.0
    店員さんも親切で丁寧な対応です。
    雰囲気:
    5.0
    昭和初期に建設された木造3階建ての店舗で東京都選定歴史的建造物に選定のほか千代田区景観まちづくり重要物件に指定されています。
    料理・味:
    4.5
    青森県下北半島・風間浦沖で生きたまま水揚げされた”活あんこう”を活〆してから出荷後24時間以内に直送して提供しています。
    バリアフリー:
    3.0
    木造3階建てで玄関など段差があります。
    観光客向け度:
    4.5
    都内で唯一の”あんこう料理専門店”です。

  • 東京商工会議所オフィスの一室が展示スペースとして開放されています!

    投稿日 2022年04月17日

    東商渋沢ミュージアム 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『東商渋沢ミュージアム』は、千代田区丸の内3丁目に位置し「日比谷通り(国道1号)」と「馬場先通り(都道406号)」が交差する「馬場先門交差点」に面して2018年(平成30年)に竣工した高さおよそ150メートル(地上30階・地下4階)の建超高層複合ビルとなる「丸の内二重橋ビル」の5階・6階に本部を構える「東京商工会議所」が初代会頭である「渋沢栄一」に関する資料を一般公開するため2019年(令和元年)11月に本部6階の一画に開設した展示施設です。
    ちなみに「東京商工会議所」は、東京23区内の商工業者で構成される民間の総合経済団体であり、明治維新後に急速な資本主義制度の移行および明治政府が外国貿易振興を進める中で商工業者の世論などを結集する代表機関が必要とされたことから「渋沢栄一」が中心となり1878年(明治11年)に「東京商工会議所」の前身となる「東京商法会議所」が設立されています。
    「渋沢栄一」については、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1840年(天保11年)に武蔵国血洗島(現:埼玉県深谷市)の農家に生まれたのちの1864年(文久4年)に農民から「一橋慶喜」の家臣(武士)に取り立てられ、1867年〈慶応2年)に「一橋慶喜」が徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」として将軍職を就任したことに伴い武士となりわずか3年で幕臣となり、同年に「第2回 パリ万国博覧会」の徳川幕府・日本使節団の随行員に加わり御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)としてヨーロッパ各国を訪問しながら経済などの社会制度について見聞を広めることで実業家としての礎を築き、大政奉還後となる1868年(明治元年)に帰国しています。
    その後1869年(明治2年)に明治政府に招かれ官僚として民部省(現:財務省)で財務・経済政策に携わりますが1873年(明治6年)に退官、実業家として「第一国立銀行(現・みずほ銀行)」の設立をはじめ多種多様な約500の民間企業に関わるとともに約600の社会公共事業にも尽力し「近代日本経済の父 」または「日本資本主義の父」などと称され1931年(昭和6年)に91年間の生涯に幕を閉じています。
    また、2021年(令和3年)放送のNHK大河ドラマ(第60作)「青天を衝け」では主人公として、さらに2024年(令和6年)に新一万円札の図柄に決定しているなど、ここ数年でメディアでもよく紹介される人物でもあり、自分の中では以前より気になる偉人のひとりでした。
    1年ほど前に大手町エリアを訪れた際に「常盤橋公園」一画にある「渋沢栄一 銅像」に立ち寄ったことがあり、そのほかの「渋沢栄一」ゆかりの地にも立ち寄ってみたいと思っていましたが、今回は平日の午後に有楽町エリアを訪れる機会があったので「丸の内二重橋ビル」の1階エントランス多目的スペースにある「渋沢栄一 像」とあわせて6階『東商渋沢ミュージアム』に初めて立ち寄ってみました。
    「渋沢栄一 像」については、「常盤橋公園」にある銅像は晩年に近い姿でよく目にする顔写真などの資料に近い見慣れた年齢の姿であるのに対して、「丸の内二重橋ビル」の像は「東京商法会議所」会頭時代である43歳の写真をモチーフに制作されたものであり写真などの資料であまり目にすることのない年齢の像が新鮮に感じました。
    『東商渋沢ミュージアム』については、入館無料ですが平日(10時30分から16時30分)のみオフィスの一室を展示スペースとして開放している状態で入館受付などもなく”ミュージアム”というイメージで訪問すると場違いに感じられ入館しずらい雰囲気がありますが、室内はコンパクトにまとめられた展示スペースで、直筆の書類など貴重な資料を間近で見ることができ、「渋沢栄一」の生涯について展示パネルに功績などをわかり易くまとめられています。
    さらに各所に存在する「渋沢栄一 像」の一覧も写真付きで紹介されおり、機会があれば、「渋沢栄一」ゆかりの地などを散策しながら各所に存在する銅像の写真撮影をするともに「渋沢栄一」の生涯についてもっと学んでみたいと思いました。
    そのほかにNHK大河ドラマ「青天を衝け」に出演された”吉沢 亮(渋沢栄一 役)”さん、”高良健吾(渋沢喜作 役)”さんも『東商渋沢ミュージアム』に立ち寄っており、両名のサイン色紙が飾られていました。(サイン色紙は撮影不可)

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    地下鉄・二重橋前駅および日比谷駅に直結(B5出口)、丸の内二重橋ビル館内の東京商工会議所専用エレベーターで6階です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    入館無料です。但し、開館は平日のみで、10時30分から16時30分までの開館時間となります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もいませんでした。
    展示内容:
    3.5
    コンパクトですが、渋沢栄一・直筆の書類など貴重な資料が展示されています。
    バリアフリー:
    4.5
    段差はありません。

  • 国内最大の木造・多宝塔(国宝)などの建造物とあわせて歴史を学び楽しめました!

    投稿日 2022年04月10日

    根來寺 岩出・紀の川

    総合評価:4.5

    『根來寺』は、現在の和歌山県北部の岩出市に位置する山号を「一乗山」、院号を「大伝法院」と称する「新義真言宗」の総本山であり「大日如来」・「金剛薩埵」・「尊勝仏頂」の三尊を本尊として祀る寺院です。
    『根來寺』の開創については、平安時代・後期の1132年(長承元年)に「空海」上人(諡号:弘法大使)が平安時代・初期の816年(弘仁7年)に真言密教の聖地となる修禅の道場として開山した高野山において「空海」上人以来の学僧さらに真言宗中興の祖といわれ諡号を「興教大師(こうぎょうだいし)」と称する「新義真言宗」の始祖でもある「覚鑁(かくばん)」上人が高野山に建立した「大伝法院」が始まりとされています。
    「覚鑁」上人については、1095年(嘉保2年)に肥前国藤津荘(現在:佐賀県鹿島市)で誕生したとされ、13歳のときに京都「仁和寺」で出家得度し仏門に入り、17歳の頃から本格的な真言密教の修行を始め、1114年(永久2年)に「東大寺 戒壇院」で受戒し正式な僧侶として「覚鑁」の名前を授かるとともに高野山に登っています。
    1132年(長承元年)になると高野山「大伝法院」座主に「覚鑁」上人が就任、さらに1134年(長承3年)には「金剛峯寺」座主も兼ねるようになったことで、周囲の嫉妬などから不和・対立を招く結果となり、高野山内部での紛争に発展することを避けるため、1140年(保延6年)に「覚鑁」上人が自ら身を引き高野山を離山しています。
    離山後の「覚鑁」上人の新たな活動の場となったのが現在の『根來寺』がある場所であり、かつてあった草庵を新たに「豊福寺」として建立したほかに学問所となる「円明寺」および居住の場となる「密厳院」などを建立していますが、1143年(康治2年)に「円明寺」で49年間の生涯を閉じており、現在の『根來寺』境内にある「奥の院」霊廟に埋葬されています。
    また、鎌倉幕府・第3代将軍「源 実朝」の時代である1205年(元久2年)頃になると現在の『根來寺』の名称が成立したとされ、高野山「大伝法院」については十三堂塔が建立されるまでに発展していましたが、鎌倉幕府・第4代将軍「藤原頼経」の時代である1242年(仁治3年)に焼失、鎌倉幕府・第7代将軍「惟康親王」の時代である1288年(正応元年)頃に「頼瑜(らいゆ)」僧正により高野山「大伝法院」の教学の拠点が『根來寺』に移されることで「新義真言宗」の教学の基礎が『根來寺』に築かれています。
    さらに室町時代・後期の『根來寺』は、僧侶を育てる学山として寺領:72万石、堂舎・伽藍:2,700余におよび数千人の僧侶を有するまで発展し、戦国時代には「根來衆」と呼ばれる僧兵を擁することで戦国大名と肩を並べるほどの勢力を誇るようになっています。
    しかし、桃山時代になると「羽柴秀吉」が豊臣の姓を賜り関白となる年の1585年(天正13年)に「羽柴秀吉」軍による紀州攻めが実施され、ほぼ無抵抗状態で『根來寺』が「羽柴秀吉」軍に制圧されましたが、その日の夜に詳細不明の出火により『根來寺』境内の「大伝法堂」・「大塔」・「大師堂」など一部の建造物を残したものの根來一山の殆どの施設が焼失しています。
    その後の『根來寺』は、しばらくの期間にわたり復興が許されず衰微していましたが、江戸時代になると「紀州徳川家」の祖となる紀伊和歌山藩・初代藩主「徳川頼宣」の外護などにより徐々に復興し、現存する建造物では室町時代・前期となる1391年(明徳2年)に建立の「弘法大師・空海像」を安置している「大師堂」が1941年(昭和16年)に国の重要文化財に指定、国内最大の木造・多宝塔(高さ40メートル)として室町時代・後期となる1547年(天文16年)に建立の「大毘廬遮那法界体性塔(通称:大塔)」が1952年(昭和27年)に国宝に指定、江戸時代・後期となる1827年(文政10年)に建立の「大伝法堂(本堂)」および根來一山の総門として江戸時代・末期となる1850年(嘉永3年)に建立の「大門」がそれぞれ2019年(令和元年)に国の重要文化財に指定されるなど歴史のある見どころの多い寺院となっています。
    今回は、和歌山市在住の方の案内で『根來寺』に立ち寄りましたが、限られた滞在時間内で広大な『根來寺』境内を見学して廻ることが難しかったためメインの「大伝法堂」・「大塔」・「大師堂」のみのエリアに絞り参拝して廻り、「覚鑁」上人および「羽柴秀吉」軍の紀州攻めにまつわる歴史を学び楽しむことができました。
    機会があれば、今回立ち寄ることのできなかった「大門」・「覚鑁」上人が埋葬されている「奥の院」などのエリアも散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.0
    最寄り駅となるJR和歌山線・岩出駅からタクシーで10分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午前中に参拝しましたが、参拝する方は他にいませんでした。
    バリアフリー:
    2.5
    根來一山の広大な敷地は高低差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    広大な境内には、国宝・重要文化財などの建造物が多い歴史のある寺院です。

  • すぐ近くに漁港があるような魅力的な内装の空間で北海道・羅臼の旬な食材を楽しめます!

    投稿日 2022年04月02日

    北海道 炉端 えぞ羅 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『北海道 炉端 えぞ羅』は、2021年(令和3年)9月に「JR・東京駅」の北東エリア(地下連絡通路・日本橋口方面)となる千代田区大手町2丁目の常盤橋街区に位置する複合ビル「常盤橋タワー」(地上38階・地下5階・高さ212メートル)内にある商業ゾーン”TOKYO TORCH Terrace”(地下1階から地上3階部分)の2階にオープンした北海道・東部の世界自然遺産である知床半島に位置する羅臼町の食材を提供している炭火を使用した本格炉端酒場です。
    『北海道 炉端 えぞ羅』が出店している「常盤橋タワー」は、2棟の超高層ビル建設を中心とした大規模再開発事業となる「東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)」のA棟として、2018年(平成30年)に建設工事がスタートし2021年(令和3年)6月に東京駅周辺で最も高い超高層ビルとして竣工しています。
    ちなみにこの大規模再開発事業は、2020年(令和2年)に名称が”TOKYO TORCH”に決定しており、現在も開発中で2027年度(令和年9度)に竣工予定のB棟(正式名称:Torch Tower)が完成すると現時点で日本一高い超高層ビル「あべのハルカス」(地上60階・地下5階・高さ300メートル)を抜いて、地上63階・地下4階・高さ390メートルの日本一高い超高層ビルとなる予定であり、”TOKYO TORCH”が東京の新たなランドマークになるといわれているエリアです。
    今回は、日曜日の午前中に「常盤橋タワー」とともに”TOKYO TORCH”の施設として部分的に先行オープンした”TOKYO TORCH Park”内のスペースで定期的に開催されている”TOKYO TORCH Market”を訪れた際にランチ目的で『北海道 炉端 えぞ羅』を利用しました。
    『北海道 炉端 えぞ羅』の店内は、「トロ箱」と呼ばれる水産業者などが水揚げされた魚を輸送するために用いる木箱の小口に印字されている木板を壁などの内装材に利用するなど、すく近くに漁港があるような雰囲気が伝わってくる目を見張る斬新なデザインとあわせて、座席もテーブル席のほかに調理場の様子が伺えるカウンター席、窓際の掘りごたつタイプの座敷席、また屋外の開放的なテラスにこたつ布団が掛けられた(こたつ布団は季節限定)掘りごたつ席など魅力的な空間に仕上げられています。
    そのほかに東京の新名所として注目を集めつつある”TOKYO TORCH”に出店したことにより”まだ知らない北海道”をキャッチフレーズのもと獲る漁業から育てる漁業への転換に力を入れて食品加工や商品開発にも積極的に取り組んでいる「羅臼漁業協同組合」と連携して新鮮な旬の食材を直送している本格炉端酒場として、テレビの情報番組などのメディアでも紹介されているようです。
    ランチメニューの「日替わり・焼き魚・煮魚」など各種定食などの中から、今回は「漁師のまかない丼」を注文し、テーブルに設置されている醤油などの調味料も東京では見ることのない羅臼産を揃えるなど北海道・羅臼へのこだわりを感じることができ、羅臼町エリアを訪れたことはありませんが「羅臼漁港」妄想しながら北海道・羅臼の旬な食材を美味しくいただきました。
    機会があれば、窓際の座敷席や開放感のあるテラス席で現在建設中の”Torch Tower”を眺めながら北海道産のお酒とあわせて羅臼の旬な食材をいただいてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    一人当たり予算
    1,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    TOKYO TORCH・常盤橋タワー(TOKYO TORCH Terrace)の2階です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    リーズナブルな価格で北海道・羅臼の旬な食材を堪能できます。
    サービス:
    4.0
    会計時にレジで小袋に入った羅臼昆布をもらいました。
    雰囲気:
    4.0
    トロ箱の小口に印字のある木板を内装材に使用した斬新なデザインが目を見張ります。
    料理・味:
    4.0
    羅臼漁業協同組合と連携して新鮮な旬の食材を直送している本格炉端酒場です。
    バリアフリー:
    4.0
    出入口近くのテーブル席利用でしたが段差もなく座席間隔も広くゆったりとしていました。
    観光客向け度:
    4.0
    トロ箱の内装と北海道・羅臼のこだわりの旬な食材で北海道の雰囲気が味わえます。

  • 伊豆国一ノ宮に位置づけられ伊豆国総社を兼ねる格式ある神社です!

    投稿日 2022年03月27日

    三嶋大社 三島

    総合評価:4.0

    『三嶋大社』は、旧東海道の起点である「日本橋」から数えて11番目の宿場「三島宿」から伊豆半島の南端「下田港」までの南北区間を結ぶ「旧下田街道」の起点となる現在の三島市大宮町2丁目に鎮座し、主祭神に「三嶋大明神」と称されている山森農産の守護神「大山祇命(おおやまつみのみこと)」と”恵比須さま”として親しまれている福徳の神「積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)」を祀る神社です。
    『三嶋大社』の創建は不詳とされていますが、『三嶋大社』が鎮座する周辺は奈良時代から平安時代の令制国のひとつ「伊豆国」の中心地として政務を執る「国府」が置かれたと伝えられており、平安時代に編纂されたとされる法制書「新抄格勅符第十巻抄」において神寺諸家の封戸に関する806年(大同元年)牒の抄出したものが主体とみられる現存する史料において『伊豆三嶋神』の記述に神封の奉充年が奈良時代中期の758年(天平宝字2年)である記録が残されているほか、第54代「仁明天皇」が即位した833年(天長10年)から逝去された850年(嘉祥3年)までの18年間の記録をまとめた歴史書「続日本後紀」(全20巻)などの古書においても『三嶋神』として記録が残されています。
    また、平安時代中期の927年(延長5年)に編纂された日本の国家規範の中核であり文化を育み続けてきた膨大な法典「延喜式」においても「延喜式神名帳」の中に「名神大」として列格されているなど歴史のある神社であることが伺われます。
    さらに平安時代末期の1180年(治承4年)になると1160年(平治元年)の「平治の乱」で敗れ「伊豆国」に20年間に渡り流罪されていた「源 頼朝」が源氏再興を『三嶋大社』に祈願し『三嶋大社』祭礼の日に旗挙げしたと伝えられており、その後の『三嶋大社』は「伊豆国一ノ宮」に位置づけられる「伊豆国総社」を兼ねる神社として、多くの武将から崇敬を集めるとともに「三嶋大明神」として全国各地にその名が広まっています。
    現在の「社殿」は、徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」の時代である1866年(慶応2年)に徳川幕府・第11代将軍「徳川家慶」の時代となる1854年(嘉永7年)に発生した「安政東海地震」により倒壊した「社殿」を再建したもので、2000年(平成12年)に国の「重要文化財」に指定されています。
    「社殿」の様式は、1994年(平成6年)に国の「重要文化財」に指定された「三嶋大社矢田部家文書」(古文書・絵画・記録類など592点)のひとつとされる徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」造営時とされる『三嶋大社』境内が描かれている「寛永絵図」から踏襲したものとされ、「本殿・幣殿・拝殿」が連なる権現造りの複合社殿となっています。
    そのほか境内の建造物として「社殿」前に建つ1867年(慶応3年)に再建された「舞殿」および「神門」が1966年(昭和41年)に「三島市指定文化財」となっており、「神門」内側には推定樹齢が1200年とされ1934年(昭和9年)に国の「天然記念物」に指定された「金木犀」、「神門」外側には「源 頼朝」が源氏再興を祈願した際に腰を掛けて休息したと伝わる石とその横に「北条政子」が腰掛けたと伝わる石があるなど歴史とあわせて見どころの多い神社であり、限られた時間での滞在でしたが境内各所で楽しむことができました。
    『三嶋大社』への電車利用によるアクセスは、JR東海道線「三島駅」南口改札からおよそ1.2キロメートル(徒歩15分程度)、伊豆箱根鉄道「三島田町駅」改札からおよそ600メートル(徒歩8分程度)となりますが、今回は家族で自動車を利用して三島・沼津エリアを訪れた際に『三嶋大社』境内南東側に整備された駐車スペースの広い駐車場(有料:1時間ごとに200円)を利用しとても便利でした。
    訪れた日が3月初旬から中旬の日曜日の午前中でしたが、境内は観光やお宮参りの方など人出も多く拝殿前に参拝者の行列もできるなど三島エリアの観光スポットとして人気があることを実感しました。
    そのほか境内の「神池」廻りや参道にサクラの木もあるので、機会があればサクラや天然記念物の金木犀が満開に咲く時期にまた立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2022年03月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR・三島駅南口改札から徒歩15分程度、伊豆箱根鉄道・三島田町駅改札から徒歩8分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    日曜日の午前中に参拝しましたが、拝殿前に行列ができていました。
    バリアフリー:
    3.0
    境内のところどころに数段の段差があります。
    見ごたえ:
    4.0
    社殿(本殿・幣殿・拝殿)、舞殿、神門などのほか推定樹齢1200年の金木犀など境内各所に見所があります。

  • 東京のお伊勢さま・恋のパワースポットとして親しまれている神社です!

    投稿日 2022年03月20日

    東京大神宮 神楽坂・飯田橋

    総合評価:4.0

    『東京大神宮』は、神社本庁の本宗である「伊勢神宮」(三重県伊勢市)に2つある正宮「皇大神宮(別名:内宮)」の伊勢信仰の中心となる「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」および「豊受大神宮(別名:外宮)」の農業・諸産業・衣食住の守護神とされる「豊受大神(とようけのおおかみ)」を主祭神に祀り、さらに「天照皇大神」の御杖代として「伊勢神宮・内宮」を創建し「天照皇大神」を祀ったとされる「倭比賣命(やまとひめのみこと)」を奉斎することで”東京のお伊勢さま”と親しまれている最寄り駅が「飯田橋駅」(JR東日本・東京メトロ・都営地下鉄)となる千代田区富士見町2丁目に鎮座する神社です。
    『東京大神宮』の歴史については、「伊勢神宮・内宮」を遥か遠くの東京の地から拝むことができるように「明治天皇」の勅裁を仰ぎ、1880年(明治13年)に現在の千代田区有楽町1丁目となる「日比谷ゴジラスクエア」付近にかつてあった「大隈重信」邸跡に『皇大神宮遙拝殿』として創建され、1882年(明治15年)になると名称を『大神宮祠』に改称、その後も1899年(明治15年)に『神宮奉斎会本院』に改称されていますが、一般的には鎮座していた地名から『日比谷大神宮』と呼ばれています。
    そのほか1900年(明治23年)に当時の皇太子であった後の「大正天皇」と「貞明皇后(九條公爵家令嬢・九条節子)」の御婚儀が、初めて宮中賢所大前にて執り行われたことがきっかけで、その翌年に『日比谷大神宮』においてこの御婚儀に基づく神職・巫女・楽人によるスタイルを創始した一般の神前結婚式が執り行われており、それまで新郎自宅の床の間・神棚・仏壇のある部屋などで先祖に見守られながら親族・近所の知人などが集まり祝宴をかわす結婚式のスタイルから現在の神前結婚式スタイルが全国各地に浸透して定着したとされています。
    また、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」によって『日比谷大神宮』の拝殿などの施設が焼失しており、1928年(昭和3年)になると現在地に遷座するとともに名称が『飯田橋大神宮』に改称され、さらに太平洋戦争が終結した翌年の1946年(昭和21年)になると独立した宗教法人の神社となり、現在の『東京大神宮』に名称が改称されています。
    近年では、日本最古の歴史書とされる「古事記」上巻の冒頭に登場するかつて混沌としていた宇宙が分離して初めて出現した天と地の世界において結びの働きを司る万物生成化育の根源となる「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」・「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」・「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」の”造化の三神”が相殿として祀られていることから、縁結びに御利益のある”恋のパワースポット”として『東京大神宮』がさまざまなメディアなどで紹介されていますが、今まで参拝したことがなく自分の中では以前より気になるスポットのひとつでした。
    今回は「飯田橋」周辺エリアを平日の午後に訪れる機会があり初めて『東京大神宮』に立ち寄り参拝してみました。
    『東京大神宮』という名称から大規模な神社を勝手に想像していましたが、こぢんまりとした境内には参拝者も行列になるほどではありませんが絶えることなく、そのほとんどの参拝者が女性の方であり”恋のパワースポット”として親しまれていることを実感することができました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    飯田橋駅 (JR東日本・東京メトロ・都営地下鉄)の各路線改札口から5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後の参拝で行列にはなりませんが参拝者がたえることはありませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    正面の参道には石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    参拝者のほとんどが女性の方で恋のパワースポットとして親しまれていることを実感することができました。

  • 多摩湖のレイクビューと狭山丘陵の自然豊かな景観とともに本格中国料理が楽しめます!

    投稿日 2022年03月06日

    天外天 所沢

    総合評価:4.0

    『天外天』は、1957年(昭和32年)に「旅館 掬水亭」として開業したものの1987年(昭和62年)に火災によって焼失した跡地を整備して新たに建設された鉄筋コンクリート造(地上6階・地下1階建て)による宿泊施設(総客室数:21室)として1990年(平成2年)にオープンした現在の「中国割烹旅館 掬水亭」最上階にある上海料理をベースにした本格中国料理の展望レストラン施設です。
    所沢市山口に位置する『天外天』(中国割烹旅館 掬水亭)周辺エリアは、1927年(昭和2年)に完成した首都・東京の水源である人造湖「村山貯水池(通称:多摩湖)」を正面に望むことができるほか、東西方向に約11キロメートル・南北方向に約4キロメートルの5市・1町(埼玉県所沢市・入間市、東京都東大和市・東村山市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町)に広がる総面積およそ3,500ヘクタールにおよぶ「狭山丘陵」と呼ばれる広大な里山の雑木林に囲まれた自然豊かな景観とあわせて料理を楽しむことができます。
    ちなみに「狭山丘陵」エリアは、1947年(昭和22年)から「西武鉄道」が観光開発に乗り出しており、「西武園ゆうえんち」・「西武園競輪場」・「ゆり園(旧:ユネスコ村)」・「狭山スキー場(屋内型の人工スキー場)」・「西武園プール」・「西武園ゴルフ場」・「西武ドーム」などの施設が点在しており、「中国割烹旅館 掬水亭」建物施設も「西武鉄道」が所有し、グループ会社「西武園ゆうえんち(旧・豊島園)」が運営しています。
    今回は、自動車を利用して3世代家族5人で「中国割烹旅館 掬水亭」に宿泊して宿泊プランに含まれた夕食・朝食で『天外天』を利用しましたが、電車を利用する場合は西武鉄道・多摩湖線「多摩湖駅」と西武鉄道・狭山線「西武球場前駅」の路線距離2.8キロメートルの区間(全3駅)をゴムタイヤで走行する小型車両(車体長さ8.5メートル)の4両編成で運行する西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)の中間に位置する「西武園ゆうえんち駅」改札口から線路沿いの遊歩道に架かる橋を渡ってすぐの徒歩1分程度です。
    『天外天』店内は、天井の高い落ち着きのあるゆったりとした空間で大きな窓からは周囲に高層建築などの景観を遮るものがなく、緑豊かな雑木林がどこまでも続く「狭山丘陵」とあわせて眼下に広がる「多摩湖」の眺望を見渡すことができます。
    また、天候がよければ富士山も望むことができるとのことでしたが、夕食時はあいにくの雨と窓から少し離れた円卓席でしたので眺望を楽しむことはできませんでしたが、スタッフの方の対応もよくピアノの生演奏(毎週土曜日:18時から21時)にも癒されながら本格中国料理のコースを量も多すぎることなく美味しく完食できて楽しい食事タイムを過ごすことができました。
    朝食時は、窓際ブースの窓に向って座るテーブル席でレイクビューの眺望とともに和食をいただき、家族からは和食と洋食のどちらか選択できるスタイルがよかったという意見もありましたが、自分としては最後の締めとしてご飯にだし汁をかけお茶漬け風に食べるスタイルが気に入りました。
    そのほか2017年(平成29年)に「多摩湖にのぼる月」が静謐な湖上にのぼる月明かりが水面を神秘的に照らし”道路・遠方の街・月”の明かりが競演した夜景が望めるとして「日本百名月」(夜景観光コンベンション・ビューロー)に認定されており、『天外天』では満月の夜に”ムーンライトディナー”といった企画、温泉ではありませんが「中国割烹旅館 掬水亭」の浴場施設「狭山の茶湯」(狭山茶を配合したバスパウダー使用)の日帰り入浴と『天外天』でのランチが楽しめるお得なセットなどがあるので、機会があれば利用してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.5
    西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    宿泊プランでの利用でした。
    サービス:
    4.0
    スタッフの方の対応もよく楽しく食事ができました。
    雰囲気:
    4.0
    天井の高い落ち着きのあるゆったりとした空間です。
    料理・味:
    4.0
    上海料理をベースにした本格中国料理です。
    バリアフリー:
    3.0
    窓際ブースのテーブル席は段差があります。
    観光客向け度:
    4.0
    多摩湖のレイクビューと狭山丘陵の自然豊かな景観が楽しめる展望レストランです。

  • 館内各所から望める紀淡海峡の眺望がお勧めの温泉リゾートホテルです!

    投稿日 2022年02月27日

    休暇村 紀州加太 加太

    総合評価:4.5

    『休暇村 紀州加太』は、1963年(昭和38年)に「瀬戸内海国立公園」の「紀淡海峡」エリアに浮かぶ島々の眺望を望むことのできる紀伊半島・西端の高台に位置する和歌山市深山(和歌山市北西エリア)にオープンした「一般財団法人 休暇村協会」が運営するリゾートホテルです。
    「一般財団法人 休暇村協会」については、国内の「国立公園」および「国定公園」など自然あふれるエリアに宿泊施設を核とした総合的休養施設となる『休暇村』(旧・国民休暇村)を整備し、人と自然が共生する地域の振興および健康で文化的な生活の増進に寄与することを目的として、1961年(昭和36年)に設立された「旧・財団法人 国民休暇村協会」であり、現在では国内の37箇所で『休暇村』を運営し、その37箇所の施設の中で5番目にオープンした『加太国民休暇村』の施設名称が『休暇村 加太』を経て現在の『休暇村 紀州加太』に変更されています。
    ちなみに「瀬戸内海国立公園」は、「雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)」、「霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)」とともに1934年(昭和9年)に国内初の「国立公園」として指定されており、その後に数回にわたるエリア拡張が実施され現在では岡山県と香川県に挟まれた瀬戸内海の海域「備讃瀬戸」を中心に東側に位置する「紀淡海峡」・「鳴門海峡」から西側に位置する「関門海峡」・「豊予海峡」の4つの海峡に囲まれた1府10県にまたがり、広範囲に広がる海域を含めると90万ヘクタール(陸域:66,934ヘクタール)を超える国内最大規模の「国立公園」であり、『休暇村 紀州加太』のある「紀淡海峡」が望める加太エリアは「和歌山県観光連盟」が県内の「夕日百選」として1999年(平成11年)に選定した人気の夕日スポットになっています。
    また、2016年(平成28年)になると『休暇村 紀州加太』の老朽化に伴う大規模なリニューアル工事が実施され、大浴場に温泉(泉質:ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉)が引き込まれ「加太淡島温泉 天空の湯」として新たな展望露天風呂(湯船に浸かると湯面が眼下に広がる「紀淡海峡」と一体化してみえるインフィニティ風呂)が設置されたほか、食事会場もオープンキッチンを備えた臨場感あるオーシャンダイニング「紀伊の国」、玄関ロビーと一体の空間にスカイカフェ「風の歌」とあわせて繋がる広々とした「オーシャンビュー テラス」、全室オーシャンビューの客室(和室39室・和洋室31室・洋室ツイン2室)などが”和モダンを基調とした和歌山らしさ”をコンセプトに新たな温泉リゾートホテルとしてグランドオープンしています。
    今回は、和歌山県で開催された「国民文化祭」である「紀の国わかやま文化祭2021」の催しに参加した家族に同行して催しの終了後に催しを開催した地元の方などとともに『休暇村 紀州加太』に宿泊しましたが、チェックインが日没後となり自慢の夕日を望むことができませんでした。
    展望露天風呂から望む夕日は、「紀淡海峡」を真紅に染めながら淡路島に沈む圧巻の光景で人気の宿泊施設であると地元の方から伺っていたので夕日を見ることができず残念でしたが、館内各所から「紀淡海峡」(幅:約11キロメートル)の絶景を望むことができ人気の宿泊施設であることは実感できました。
    特に日の出前の早朝には、多くの漁船が「紀淡海峡」で漁をしており漁船の灯りが幻想的で癒される光景でありお薦めできます。
    宿泊した客室は、和室10帖の部屋の広縁付の部屋でゆったりとくつろげました。
    食事は、夕食が団体利用としてゆったりとした宴会場でバランスのよい会席料理を和気あいあいと美味しくいただくことができました。
    朝食については、少し座席間隔が狭く感じましたが朝食会場のオーシャンダイニング「紀伊の国」で朝懐石(和風・洋風の2種類から選択)の小鉢にビュッフェ形式が組み合わせとなったスタイルで特に種類豊富なおにぎりを注文するとその場で握ってくれるコーナーが印象的でした。
    大浴場は、日替わりで男女入れ替え制の温泉施設で特に展望露天風呂から望む「紀淡海峡」の絶景はお薦めであり、機会があればまた宿泊して展望露天風呂からの夕日を眺めてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.0
    南海加太線・加太駅から送迎バスで10分程度です。
    客室:
    4.5
    全室オーシャンビューで紀淡海峡の眺望で癒されます。
    接客対応:
    4.0
    親切な対応で居心地のよさを感じました。
    風呂:
    5.0
    展望露天風呂は、湯船に浸かると湯面が眼下に広がる紀淡海峡と一体化してみえるインフィニティ風呂です。
    食事・ドリンク:
    4.5
    朝食会場で注文するとその場で握ってくれる種類豊富なおにぎりコーナーが印象的でした。
    バリアフリー:
    4.0
    通路も広く段差もありませんが、朝食会場の座席間隔が狭く感じました。

  • 明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています!

    投稿日 2022年02月13日

    京橋記念碑 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『京橋記念碑』は、「日本橋」を起点に南側の銀座エリアを南北に横断し「新橋交差点」で「第一京浜(国道15号)」となる現在の「中央通り(国道15号)」の中央区銀座1丁目(現在の「銀座通り口」交差点付近)にかつて存在していた「京橋川」に架かる橋梁(『京橋』)の親柱であり、1959年(昭和34年)に「東京高速道路」の建設に伴い埋め立てられた「京橋川」とあわせて撤去された橋梁の歴史を伝える遺構の記念碑として明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分が残されています。
    ちなみに「京橋川」および『京橋』については、「徳川家康」が領地替えによる江戸入府後に実施した江戸府内の大改造に伴い「江戸城」を囲む外濠(現在の東京高速道路・西銀座ジャンクション付近)から東側の八丁堀・桜川(現在の首都高速都心環状線・京橋ジャンクション付近)に合流までの延長およそ600メートルとなる区間を開削した運河であり、「平川」(現在の日本橋川)に架橋された「日本橋」と同時期とされる徳川幕府が誕生した1603年(慶長8年)に木造太鼓橋の『京橋』が架橋されたと伝えられています。
    また、「東海道」の起点である「日本橋」から京へ上る最初に渡る橋であったことから橋の名称が『京橋』と呼ばれ、橋の修復費などは徳川幕府が負担する「御普請橋」であり、親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した特別の橋として江戸時代から重要視されていた橋であることが伺えます。
    江戸府内において親柱頂部に「擬宝珠」の装飾を施した橋は、『京橋』のほかに「日本橋」と「新橋」のみであり、江戸時代に描かれた浮世絵でも『京橋』親柱頂部の「擬宝珠」を確認することができます。
    1875年(明治8年)になると「石造アーチ橋」(橋長およそ19.8メートル、橋幅およそ14.4メートル)の『京橋』が架橋され、この明治期に架橋された江戸時代から引き継がれている「擬宝珠」付きの親柱が現在の北橋詰跡東側「警察博物館」前と南橋詰跡西側「銀座1丁目交番」脇に設置されています。
    その後の1901年(明治34年)になると「石造アーチ橋」から「鋼製アーチ橋」に架け替えられ、さらに1922年(大正11年)になると橋の拡幅工事(橋長およそ18.2メートル、橋幅およそ27.3メートル)が実施され親柱のデザインも伝統的な「擬宝珠」から照明設備付きの近代的な都市景観のドーム屋根をイメージしたモダンなデザインに一新され、この大正期に拡幅された橋の照明設備付き親柱が南橋詰跡東側に設置されています。
    『京橋』の遺構については、数年前に千代田区にある都立公園の「日比谷公園」に立ち寄った際に公園敷地内に保存されている明治期の『京橋』欄干柱を見てから、機会があればかつて『京橋』が存在していた「中央通り」の「銀座通り口」交差点周辺を散策してみたいと思っていました。
    今回は「有楽町」から「八重洲」方面へ徒歩で移動する機会があり、はじめて「銀座通り口」交差点に立ち寄り『京橋記念碑』となる明治期および大正期の『京橋』親柱の写真撮影をしてみました。
    「京橋川」が流れていた上空を「東京高速道路」の高架橋が通り「中央通り」の上空を跨ぐ高架橋の風景から、かつて「京橋川」に架かる『京橋』の面影を感じることはできませんが、明治期および大正期の異なるデザインの『京橋』の遺構となる親柱を眺めていると江戸時代から明治期さらに大正期へと急激に近代化が進む時の流れを実感することができました。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ銀座線・京橋駅2番または3番出入口から約150メートル程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    特に立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    歩道から記念石碑を眺めるだけです。
    見ごたえ:
    3.5
    明治期と大正期の橋梁の一部となる親柱部分の遺構が記念碑となっています。

  • 馬像がとてもリアルに感じられる幕末期から激動の時代で活躍した元帥陸軍大将の騎馬像姿の銅像です!

    投稿日 2022年01月23日

    大山巌像 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『大山巌像』は、明治後期から大正期にかけて活躍した代表的な彫刻家「新海竹太郎」が1919年(大正8年)に制作した軍服を着た騎馬像姿の銅像として、千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    なお『大山巌像』が制作された当時は、「陸軍参謀本部」が置かれていた現在の千代田区永田町1丁目に位置する「国会前庭(北地区)」の一画に設置されていましたが、現在の「九段坂公園」銅像設置場所にある解説板の記載内容によると太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に「連合国最高司令官総司令部(略称:GHQ)」により、一時撤去され「東京都美術館」に預けられたのちの1969年(昭和44年)に「九段坂公園」に移転されたと記されています。
    また、太平洋戦争時の金属類回収令により『大山巌像』が撤去され太平洋戦争後に「東京芸術大学」構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され1964年(昭和39年)に「九段坂公園」に移転されたとする別途記述も存在しており、「千代田区観光協会」のホームページには”移設の年月は不明”として紹介されています。
    ちなみに『大山巌(通称:弥助)』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1842年(天保13年)に薩摩藩士の次男として誕生し、薩摩藩の尊皇攘夷派リーダー格とされる「有馬新七」の影響を受けて活動するものの1862年(文久2年)に薩摩藩内の過激化する尊皇攘夷派を粛正する「寺田屋騒動」で謹慎処分を受けています。
    その数か月後に発生した「生麦事件」(武蔵国橘樹郡生麦村にて薩摩藩主の行列を乱したとしてその場でイギリス人が殺傷された事件)がもとで、鹿児島湾において薩摩藩とイギリス艦隊との武力衝突となった「薩英戦争」により謹慎処分を解かれた『大山弥助』は、砲台の配属を命じられ近代西洋各国と国内の軍事力に大きな格差を目の当たりにし、その後に西洋砲術を国内に普及させた幕臣で伊豆韮山代官「江川英龍」のもとで砲術を学び砲術の免許皆伝を得ています。
    明治維新を向かえると1868年(慶応4年)から「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに「会津戦争」など国内各地で繰り広げられた「戊辰戦争」では「新政府軍」として新式銃隊を率いて参戦し、「会津戦争」では会津藩家老の娘「捨松」が「会津若松城」の籠城戦に参加していますがのちに『大山巌』の後妻となっています。
    「戊辰戦争」が終結すると大砲の研究に取り組み西洋の大砲を改良した「弥助砲」を考案するほか、軍事視察および軍政・砲術を研究など西洋留学を繰り返し、1874年(明治7年)に長期留学から帰京する際に『大山巌』に改名したとされています。
    さらに1877年(明治10年)に勃発した国内最後の内戦とされる「西南戦争」では、『大山巌』の15歳年上の従兄である「西郷隆盛」を盟主とした士族の武力反乱に対し、「政府軍」の別働第五旅団司令長官に任命されて『大山巌』が参戦しています。
    その後の1880年(明治13年)には陸軍卿に任命され、1885年(明治18年)になると内閣官制(内閣職権)により陸軍卿は陸軍大臣に改称となり、第1次「伊藤博文」内閣が発足し『大山巌』が初代陸軍大臣に任命されています。
    1894年(明治27年)の「日清戦争」においては陸軍大将として出征し、1898年(明治31年)になると最高顧問機関として「元帥府」が創設され「元帥」の称号を授与し、1904年(明治37年)の「日露戦争」には元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任しています。
    1914年(大正3年)には内大臣に任命されるも1916年(大正5年)に内大臣在任中に胃病で倒れて胆嚢炎を併発し、そのまま療養中に逝去(享年75歳)されています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めての「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い立ち寄った「九段坂公園」に『大山巌像』があることを知りました。
    『大山巌像』を見ていると彫刻家「新海竹太郎」が騎兵隊に約8年間にわたり在隊し、馬を身近に感じながら馬の彫刻に興味を持っていたのことで馬像がとてもリアルに感じられるとともに幕末期から激動の時代で活躍した『大山巌』の人生を改めて学び楽しめました。
    逸話となりますが、逝去される間際の意識朦朧の状態で”兄さぁ~”とつぶやく『大山巌』に対し、”西郷さんにやっと会えたのね”と話しかけたとされる妻「捨松」の言葉が胸に刺さります・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    馬像がとてもリアルに感じられます。

  • 世界中の主要メディアが紹介した猫の駅長”たま”をモチーフにしたリニューアル列車です!

    投稿日 2022年01月16日

    たま電車 和歌山市

    総合評価:4.0

    『たま電車』は、経営モットーを”日本一心豊かなローカル線になりたい”として2005年(平成17年)に設立した「和歌山電鐵」が2006年(平成18年)に「南海電気鉄道」から引き継ぎ運営を開始した「和歌山駅」(和歌山市美園町)から「貴志駅」(紀の川市貴志川町)までの全14駅の区間(路線距離:14.3キロメートル)を全線単線で結ぶローカル線「貴志川線」で運行している車両であり、2007年(平成19年)に「貴志駅」の駅長に就任した三毛猫の「たま」をモチーフに整備された”リニューアル列車”の第3弾として2008年(平成20年)から運行開始しています。
    「貴志川線」の”リニューアル列車”は、『たま電車』のほかに第1弾として2006年(平成18年)から運行している「貴志駅」周辺の特産品であるイチゴをモチーフにした「いちご電車」(第5回日本鉄道賞表彰選考委員会特別賞を受賞)を皮切りに第2弾として2007年(平成19年)から運行している「おもちゃ電車」、さらに第4弾が「和歌山電鐵」の「貴志川線」運営開始10周年にあわせて2016年(平成28年)から運行している紀州・和歌山を代表する特産品の梅「南高梅」をモチーフにした「うめ星電車」があります。
    この”リニューアル列車”のデザインは、JR九州が誇る豪華寝台列車「ななつ星」をはじめとする車両デザインで脚光を浴び、さまざまな賞を受賞している工業デザイナーでありイラストレーターの「水戸岡 鋭治」氏が手掛けています。
    ちなみに三毛猫の「たま」は、「南海電気鉄道」時代の「貴志駅」倉庫脇に猫小屋を設置して親猫と一緒に駅売店で飼われていた子猫であり地元の人達に親しまれていましたが、「貴志川線」廃止検討の中で「和歌山電鐵」に経営が移管されると猫小屋の設置場所が公有地に代わり猫たちの居場所が失われていました。
    そのような状況の中で運営を開始した「和歌山電鐵」社長が新たな「貴志川線」開業セレモニーの会場となった「貴志駅」を訪れ、式典終了後に「たま」と出会い「たま」の目を見つめていると”何でもするので駅に置かせてください”と心に訴えかけられたような気持ちになるとともに社長の脳裏に猫の駅長姿が思い浮かび、招き猫として「貴志川線」の救世主になって欲しいと願いを込めた社長の発案で「たま」を無人駅化となった「貴志駅」の駅長に任命しています。
    「たま」の駅長就任は、ニュースなどで国内のほか世界中の主要メディアが紹介し、さらにSNSでも拡散されたことにより人気の観光スポットとなっています。
    また、2010年(平成22年)になると「水戸岡 鋭治」氏のデザイン設計による「貴志駅」新駅舎となる「たま」の駅長室のほかギャラリー、カフェなどを併設した「たまミュージアム貴志駅 駅舎」が竣工し、「たま」駅長をモチーフにネコの目をイメージした天窓付きの檜皮葺き屋根が特徴的な現在の木造平屋建ての建物には、世界中から観光客が集まるようになっています。
    その後の2015年(平成22年)に「たま」は老衰による急性心不全で亡くなり、社葬の席で名誉永久駅長に任命され「たま大明神」として「貴志駅」ホームにある「ねこ神社」に祀られています。
    今回は、地元の方が運転する自動車に乗車した際に世界中のメディアが訪れた場所を紹介するとして「貴志駅」に立ち寄りましたが、「貴志駅」周辺に駐車場がないため運転手の方に数分間待ってもらい写真撮影をするため小走りで駅舎内に入りました。
    駅舎内には、初代「たま」から駅長を引き継いだ「たまⅡ世(通称:ニタマ)」がいる駅長室(ガラス張りの猫小屋)前に数名の方が写真撮影で囲んでおり、「たま」人気が健在であることが伺えました。
    先ずは、ホームに向かい偶然にも出発直前の『たま電車』が停車中で外観写真を撮影してから「ニタマ」の写真撮影をしている先客の後列に並び何とか「ニタマ」の写真撮影もでき「貴志駅」をあとにしましたが、バタバタと数分間で写真撮影しただけなので、機会があれば『たま電車』に乗車し内装および車窓からの風景や「たまミュージアム貴志駅 駅舎」内の各施設を写真撮影したり「たまカフェ」でくつろいでみたいと思います。

    旅行時期
    2021年11月
    コストパフォーマンス:
    3.0
    今回は乗車していませんが、観光の場合は1日乗車券が便利です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    日曜日の10時ごろでしたが、貴志駅のたまⅡ世駅長(通称:ニタマ)を写真撮影する方が数名いました。
    バリアフリー:
    3.0
    貴志駅ホームに上がるのに数段の段差があります。
    乗り場へのアクセス:
    2.5
    貴志駅ホームで写真撮影しましたが、駅周辺に駐車場施設はありません。

  • 総客室数13室のアットホームな雰囲気の旅館です!

    投稿日 2022年01月09日

    丸浅旅館 岩出・紀の川

    総合評価:3.0

    『丸浅旅館』は、紀の川市粉河に鎮座する日本国内で最も歴史のある巡礼とされる「西国三十三所観音霊場」の第三番札所であり、奈良時代末期となる770年(宝亀元年)に創建したとされる「粉河寺」門前に位置する総客室数13室(和室11室・洋室ツイン2室)のアットホームな雰囲気の旅館です。
    『丸浅旅館』へのアクセスは、JR和歌山線「粉河駅」より「粉河寺」を結ぶ「粉河とんまか通り(県道124号)」を北側の「粉河寺」方向に徒歩12分程度(およそ900メートル)となります。
    ちなみに通りの名称となっている”とんまか”とは、「粉河寺」の鎮守である「粉河産土神社」の例祭として和歌山市和歌浦に鎮座する「紀州東照宮」の大祭「和歌祭」、田辺市東陽に鎮座する「闘鶏神社」の例大祭「田辺祭」とともに「紀州三大祭」のひとつに数えられる「粉河祭」(毎年7月の最終土曜日・日曜日に開催)において奉納されるきらびやかに飾り付けられた「だんじり」の運行にあわせて打つ太鼓の音に由来します。
    今回は、和歌山県で開催された「紀の国わかやま文化祭2021」(国民文化祭)の催しに参加する家族に同行し、プライベートとしては初めて和歌山県を訪れ『丸浅旅館』に宿泊しました。
    『丸浅旅館』の館内は、1階に食事処(朝食時に利用しました)とあわせて男女別に3・4人程度で利用できる小規模な浴場施設(温泉ではありません)があり、2階には宴会場(夕食時に利用しました)、2階・3階には客室が配置されています。
    また、3階建ての建物ですがエレベーター設備(1基)が設置されているものの建物が増改築されている為なのか分かりませんが客室階の廊下に3段の段差があるのが少し気になりました。
    宿泊した客室は、”二間続きの和室”タイプで家族4人での利用でしたが部屋の広さは申し分なく、部屋の窓からは「粉河寺」境内最古の建造物とされる徳川幕府・第8代将軍「徳川吉宗」の時代にあたる1706年(宝永4年)に建立された朱塗りの総欅造りの楼門であり、1996年(平成8年)に国の「重要文化財」に指定されている「大門」の重量感がある屋根瓦を望むことができましたが、窓が小さく室内がうす暗く感じるのが気になりました。
    夕食については、「国民文化祭」の催しに参加される皆さんと宴会場で和気あいあいとバランスの良いメニューでどれも美味しくいただくことができました。
    特にお腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    浴場施設については、浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さなので利用状況を気にする必要があり、洗い場もシャワーの水圧が安定しないで少し弱く感じるなど不便な部分がありました。
    そのほか『丸浅旅館』周辺には、「粉河寺」以外にも道路向いに鎮座する「大神社」(祭神:天照皇大神、創建年代不詳)境内にパワースポットとして存在感のある樹齢1000年余りと推定され紀ノ川市の「天然記念物」に指定されている御神木である「大楠樹」(高さ約25メートル・幹廻り約15メートル)があり、旅館のロケーションとしては申し分なく、宿泊日の夕方と翌朝に旅館周辺を散策して廻り楽しめました。

    旅行時期
    2021年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    3.5
    JR和歌山線・粉河駅から徒歩12分程度(約900メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    客室:
    3.5
    二間続きの和室タイプを4人での利用で部屋の広さは申し分ありませんが、窓が小さく室内がうす暗く感じました。
    接客対応:
    3.5
    アットホームな雰囲気の旅館です。
    風呂:
    3.0
    浴槽を同時に4名で入ると手狭な感じがする広さです。
    食事・ドリンク:
    3.5
    お腹に卵がパンパンに詰まっている”鮎の塩焼き”と女将さん自慢の一品とされる”れんこん饅頭”が印象的でした。
    バリアフリー:
    3.0
    エレベーター設備(1基)が設置されていますが、客室階の廊下に3段の段差があります。

  • 大都市・江戸を支えた神田上水の守護神を祀った神社です!

    投稿日 2022年01月04日

    水神社 目白

    総合評価:3.5

    『水神社(すいじんじゃ)』は、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から「江戸川橋」をわたり「江戸川公園」のある荒川水系の一級河川「神田川」左岸側(北側)に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路「神田川桜並木」をおよそ800メートルほど「神田川」を上流方向(西側)に進んだところに架かる「駒塚橋」北側にあたる文京区目白台1丁目の武蔵野台地東端に位置する「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台に向かう傾斜地に鎮座する小規模な神社です。
    この『水神社』の創建時期は不詳ですが、言伝えによれば水神がかつてあった「椿山八幡宮」社司の夢枕に立ち”我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり”と告げたため現在地に水神を祀ったとされており、祭神として港・河口・水門の神(水戸神)とされる兄妹であり夫婦でもある「速秋津彦命」・「速秋津姫命」および第15代「応神天皇」であり武運・鎮守の神とされる「誉田別命」が祀られています。
    ちなみに「徳川家康」が江戸に入府した1590年(天正18年)当時の「江戸城」南側エリアは、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がり、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であったため「江戸城」を中心とした都市整備をするうえで生活用水となる飲料水を確保することが重要課題となっていました。
    そのため江戸時代初期に現在の神田・日本橋エリアへ生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として「神田上水」を整備するために武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)さらに「善福寺池」(現:善福寺公園)および「妙正寺池」(現:妙正寺公園)の補助水源が合流し、現在の『水神社』前を流れる「神田川」のおよそ300メートル下流に架かる「大滝橋」あたりに「神田川」から上水を取水口に取り込むための「大洗堰」が築かれていました。
    また、徳川幕府・第5代将軍「徳川吉宗」の時代である1732年(享保17年)に江戸府内の地名・寺社・名所などを掲げた「江戸砂子温故名跡誌」の中でも『水神社』について”上水開けてより関口水門の守護神なり”とした記載が残されているほかに徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中でも絵図とともに”上水の守護神を祀らん”とした記載が残されているなど大都市化していく江戸の街を支える重要な位置付けの施設であったことを伺うことができます。
    そのほかに「神田上水」の恩恵にあずかった神田・日本橋エリアの多くの人々が『水神社』を参詣していたとされ、南北朝時代(1336年から1392年)から椿が自生していたと伝わる「椿山」(現:椿山荘)と呼ばれる景勝地とされていた「目白台(関口台地)」からは清らかな「神田川」の流れから現在の「早稲田」周辺に広がる田園地帯さらに「富士山」まで望むことがでる行楽の場になっていたとも伝えられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に初めて「神田川」に架かる「駒塚橋」北側傾斜地に鎮座する『水神社』に立ち寄りました。
    「駒塚橋」前から急な石段の参道を見上げると石段の頂部に参道を挟むように存在感のある大イチョウが2本並び境内がどのようになっているのか期待感が湧いてきますが、石段を上り力強く根を広げた大イチョウの奥には大イチョウとは対照的な祭神を祀る小さな祠のみがひっそりと建っており少し期待外れな感じがありました。
    但し、その歴史を調べていくと世界有数の大都市となった江戸府内の生活用水を供給した「神田上水」の守護神として、派手な社でなく控えめでひっそりとしていてよいと感じてきました。
    『水神社』に立ち寄った時期は、夏場の暑い時期でしたが都心でありながら木々の緑が多く存在するエリアであり、『水神社』のほかにも歴史散策などで楽しめるエリアなので機会があれば立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩12分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の昼ごろに立ち寄りましたが、誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    境内は傾斜地で参道は急な石段です。
    見ごたえ:
    3.5
    建物は祭神を祀る小さな祠のみですが、境内にある力強く根を広げた2本の大イチョウは存在感があります。

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