薩長同盟の締結に尽力した長州藩の人物像です!
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- 旅行時期:2021/09(約4年前)
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by hiroさん(男性)
市ヶ谷 クチコミ:9件
『品川弥二郎像』は、明治期に官僚として内務大書記官・内務少輔・農商務大・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官などを歴任したのちに政治家となり内務大臣を務めた人物の銅造であり、現在の「靖国通り(都道401号)」沿い「田安門」交差点付近となる千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
『品川弥二郎像』の台座(背面)には、「西郷隆盛」の弟である元帥海軍大将 侯爵「西郷従道」等2845名により1907年(明治40年)8月に建設されたことが彫り込まれていますが、「西郷従道」は1902年(明治35年)7月に逝去されており矛盾も見られ、「千代田区観光協会」のホームページを確認したところ”建設年月日は不明”として紹介されています。
『品川弥二郎像』の制作者については、「東京三大銅像」と称される「皇居外苑」にある「楠木正成銅像」ならびに「上野恩賜公園」にある「西郷隆盛銅像」を手がけた彫刻家として知られる「高村光雲」が監督を務め、「高村光雲」を師事しのちに高知市浦戸の桂浜にある代表作となる「坂本龍馬像」のほか明治維新で大きな功績があった殆んどの人物銅造を手がけた彫刻家の「本山白雲」が原型制作をおこない、鋳造は「西郷隆盛銅像」の鋳造にもかかわったとされる「平塚駒次郎」が担当し銅像が完成していますが、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において銅像が台座ごと倒壊し、その後に制作者である「本山白雲」が自ら私費を投じて再建しています。
ちなみに『品川弥二郎』は、徳川幕府・第12代将軍「徳川家慶」の時代である1843年(天保14年)に長門国椿郷東分村(現:山口県萩市椿東)の長州藩・足軽の家に生まれ、徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」から第14代将軍「徳川家茂」となった年の1858年(安政5年)に長門国松本村(現:山口県萩市椿東)の私塾「松下村塾」に入門し「吉田松陰」から教育を受けています。
しかし「吉田松陰」は、徳川幕府の諸策に対し反対する者を弾圧した事件として知られる「安政の大獄」に連座して、1859年(安政6年)に江戸の「伝馬町牢屋敷」に幽囚されたのち死罪となり、その後の『品川弥二郎』は「松下村塾」四天王と称される「高杉晋作」と共に尊王攘夷運動に奔走しています。
1864年(元治元年)になると尊王攘夷を掲げる長州藩兵と京都守護職を務めていた会津藩および薩摩藩を中心とした徳川幕府側諸藩兵が「京都御所・蛤御門」周辺で起こした武力衝突「禁門の変(蛤御門の変)」において『品川弥二郎』が長州藩の八幡隊長として参戦しています。
さらに1865年(慶応元年)になると情報収集・連絡係として「木戸孝允(桂小五郎)」と共に上京し、1866年(慶応2年)に京都の「近衛家別邸・御花畑屋敷」でおこなわれた「薩長同盟」締結の場に同席しているほか、1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)までの国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」では、「新政府軍」の奥羽鎮撫総督参謀・整武隊参謀として参戦しています。
この「戊辰戦争」において「新政府軍」の行進曲として歌われた「トコトンヤレ節(宮さん宮さん)」は、『品川弥二郎』が作詞したもので日本初の軍歌といわれ、その後に明治期の流行歌となっています。
今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に「靖國神社」参拝とあわせてその周辺エリアの散策をしてみようと思い「九段坂公園」敷地内に設置されている『品川弥二郎像』に立ち寄り写真撮影をしてみましたが、『品川弥二郎』に関する詳細を知らず今回の写真撮影をきっかけに『品川弥二郎』について色々と調べることで楽しむことができました。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩4分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 立ち止まって見る人はほとんどいません。
- バリアフリー:
- 3.5
- 周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装の段差(手摺付)があります。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 薩長同盟の締結に尽力した松下村塾の門下生であった長州藩の人物像です
クチコミ投稿日:2022/05/15
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