2024/10/17 - 2024/10/17
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FUKUJIROさん
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この旅行記のスケジュール
2024/10/17
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徒歩での移動
木場5丁目交差点
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玉の輿たまちゃん
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東陽三丁目交差点
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洲崎大門跡
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東陽一丁目第二公園
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東陽二丁目ポケット広場
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徒歩での移動
東陽町駅前交差点
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この旅行記スケジュールを元に
洲崎(すさき)は、元禄年間(1688~1704年)に江戸湾の北部を埋め立てた土地です。かつては「深川洲崎十万坪」と呼ばれ、東に房総半島から西は芝浦まで江戸湾をぐるりと眺められる景勝地で、初日の出の名所としても人気を集めていました。その様子は歌川国芳の「東都名所 洲崎初日出の図」にも描かれています。
江戸時代から根津にあった遊郭の移転を決めた明治政府は、洲崎弁天の東側に広がる湿地を整備し、明治21年(1888年)に洲崎遊廓を開業しました。
大正時代末期には300軒あまりの遊郭がひしめき合い、吉原に匹敵する規模の大歓楽街に発展しました。
大東亜戦争の空襲で壊滅しましたが、終戦から半年で洲崎遊廓は復活、大門通りより東半分に「洲崎パラダイス」の愛称で栄えて、吉原以上の人気だったそうです。
昭和33年(1958年)の売春防止法執行により、洲崎パラダイスは終わりました。
昭和42年(1967年)、洲崎弁天町は江東区東陽一丁目となり、歓楽街の痕跡はもう見つかりません。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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前夜泊まったデイナイスホテル東京。
東京メトロ木場駅から永代通りを西へ徒歩5分です。 -
ロビー。
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CAFE BARとありますが、営業している様子はありませんでした。
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客室。ダブルベッドでゆったりと眠れました。
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朝食ブッフェ。
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木場駅4b出入口。
昭和42年(1967年)9月14日開業。 -
東京湾の北辺であるこの辺りは軟弱地盤地帯であったことから、門前仲町駅~木場駅~東陽町駅の間1,770.06 mの区間は、全円断面の単線シールド工法によって建設が進められました。
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円筒形をしたトンネルの中にホームと線路があります。営団地下鉄(東京メトロ)で初めての工法でした。
木場駅は、東西線で最も深い地下約22.4 mにホームがあります。 -
トンネルの壁面。
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木場5丁目交差点。
左右は、永代通り。前後は三ツ目通り。 -
三ツ目通りに並行する平木橋水管橋。
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大横川。
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三ツ目通りの上には、首都高速9号深川線。
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歩道橋から見た南方向。
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同じく北方向。
この後で永代通りに戻り、東へ歩きます。 -
新田橋の路地。
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真っ赤な欄干の新田橋。
新田橋(にったばし)は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目と木場6丁目を結んでいる人道橋です。
岐阜県から上京して医院の開業をしていた新田清三郎氏が、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて昭和7年(1932年)に架橋しました。
当初、新船橋と名付けられましたが、人望があった新田医師を偲び、いつしか新田橋と呼ばれるようになりました。
現在の橋は、平成12年(2000年)に再建されたものです。 -
大横川(おおよこがわ)は、東京都墨田区・江東区を流れる運河で、かつては亥の堀川(いのほりがわ)や大島川と呼ばれていました。
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大横川。
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船宿 吉野屋。
昭和23年に先代が深川木場で船宿を創業しました。当時は、20軒以上の船宿がありましたが、現在は吉野屋だけとなりました。 -
かつては、初代・歌川豊国作の「両国橋之図」に描かれていた屋形船での船遊びを現代に伝えています。
全船にスカイデッキ、カラオケ、清潔な水洗トイレや冷暖房を完備、花見・花火はもちろんのこと、オールシーズンで楽しめるそうです。 -
路地を抜けると洲崎神社がありました。
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朱塗りの鳥居。
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洲崎神社の扁額。
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津波警告の碑。平成23年3月、東京都教育委員会が建てました。
鳥居を潜るとすぐ左手にあり、その奥には波除碑(なみよけのひ)があります。 -
波除碑。
寛政3年(1791年)9月4日、大津波に襲われて大変な被害を受けました。江戸幕府は、洲崎神社から西側一帯を冠水地帯として居住を禁止しました。砂岩の標柱で、高さ160.1cm。 -
名人釣忠之碑。
元治元年(1864年)生まれの初代・竿忠以降、代々長子相伝で和竿作りの技術が伝承されており、釣竿作り名人を顕彰する碑です。明治から昭和戦後期の思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰が揮毫しました。昭和49年に再建。 -
国旗掲揚台。昭和34年建立。
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手水舎。
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玉の輿たまちゃん。
令和元年(2019年)8月に建立しました。 -
洲崎神社を創建したのは、5代将軍徳川綱吉公の御母堂である桂昌院です。
桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女となり、3代将軍家光公の側室になったことから、「玉の輿」の語源とされています。
玉の輿たまちゃんは、この逸話に由来しています。
因みに、文京区の護国寺も玉の輿にご利益があると言われています。よろしければ、護国寺を訪れたときの記録もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11634265 -
祠の前に御影石の玉があり、祠内に「玉の輿たまちゃん」が鎮座しています。
八百屋に生まれたことから、たまちゃんは人参を持っています。尻尾は破魔矢、木場にかけて牙を見せています。神紋付きの首輪をはめ、神紋付きの鞄を下げています。
ご利益は、玉の輿、立身出世などと言われています。 -
洲崎神社は、厳島神社の分霊を勧請して建立しました。
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狛犬(阿形)。
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狛犬(吽形)。
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関東大震災と東京大空襲により、大きな被害を受け消失。現在の社殿は昭和43年(1968年)に再建されました。
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洲崎神社の御祭神は宗像三女神の一柱でもある市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。もともと水の神様でしたが、神仏習合によって弁財天と同一視されました。
ご利益は、商売繁盛・金運・芸能・豊漁などとされています。
よろしければ、宗像大社辺津宮に参拝したときの旅行記をご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11372539 -
御神木の下に鳥居があります。
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左から「弁天社」、「豊川稲荷神社」、「於六稲荷神社」が並んでいます。
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弁財天が祀られ、地元漁民らが海難除けを信仰しました。創建当初は海岸から離れた小島に建てられており、「浮き弁天」と呼ばれていました。
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豊川稲荷神社。
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於六稲荷神社。
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竹囲いの中に石碑(不詳)があります。
そのまわりには江東区有形文化財の力石が置かれています。 -
神輿庫。
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境内の裏の駐車場に水門跡らしい建造物がありました。
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弁天橋と並行する水道管。
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弁天橋。
木場六丁目と東陽三丁目の間、大横川南支川に架けられています。
橋長23.2m、幅員10.1mのプレート・ガーダー橋です。昭和7年3月竣工。 -
洲崎川緑道公園を歩きます。
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洲崎川緑道公園。
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大横川に沿って洲崎川緑道公園があります。
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大門通りへの出口に洲崎橋跡地の碑が建っています。
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大門通りの北方向、東陽三丁目交差点を見ています。
この大門通りは、台東区千束の吉原大門まで続いていました。
昭和5年(1930年)に渋沢栄一系の経営陣が参画して開業した城東電気軌道が、後にここまで延伸して洲崎停留場(終点)が設けられていました。
戦後は、東京駅八重洲口から勝鬨橋を経由して北砂町二丁目まで行く都営バス路線も通っていました。 -
東陽三丁目交差点。
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交差点の一角に明治25年創業の老舗蕎麦屋「花村」があります。
洲崎が花街だった頃の歴史の生き証人です。 -
ショウウインドウは普通です。
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ショウウインドウに昭和9年の写真がありました。交差点から大門通りの南方向のようです。
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大門通り(南方向)。別名「親不孝通り」といわれていました。
花街として栄えた洲崎遊郭は、後に大門通りの東側(画面向かって左手)に集められました。 -
洲崎大門跡。
東陽三丁目交差点から少し南下したところにあった洲崎橋には、洲崎遊郭への入り口となる鉄製の大門がありました。
大門は撤去され、戦後は「洲崎パラダイス」と書かれた大アーチが建てられていました。。 -
洲崎川緑道公園の碑。
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大門通りの東側にも洲崎川緑道公園が続いています。
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洲崎川緑道公園を南へ出て、東陽一丁目を縦貫する道路を南へ進みます。
昭和時代には、この道路の両側に遊郭が立ち並び、最盛期には50軒以上の店がありました。現在、その痕跡は残っていません。 -
大賀楼跡。江東区東陽1-38付近。
かつて洲崎パラダイスの大人気店だったという「大賀楼」の跡地です。
赤線廃止後には、大賀荘というアパートになったり、選挙事務所だったこともありましたが、現在は一般住宅になっています。 -
さらに南へ歩くと東陽一丁目第二公園があります。
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洲崎遊郭開始以来先亡者追善供養碑。
洲崎三業組合事務所跡地の一角に残されています。 -
洲崎三業組合建立。
昭和6年(1931年)11月9日、洲崎遊郭開業50周年記念法要の折に、善光寺大本願百十九世大宮尼智栄上人が詠んだ歌「白菊の 花にひまなく おく露は なき人しのぶ なみだなりけり」が刻まれています。江東区有形文化財。 -
もう少し南側に汐浜運河があります。
対岸の汐浜地区は、江戸時代に塩田が造られ、製塩が行われていたことに由来します。 -
西方向を見ると、汐浜運河に架かる南開橋。
南開橋は、橋長67.9m、幅員14.3m。 -
東方向には、かなり先の方に東陽橋が架かっています。
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東陽橋まで歩いてきました。
橋長72.7m、全幅員15.8m。
ここまでの間には、遊歩道から出る道はありませんでした。もう一度北方向へ歩きます。 -
江東区立東陽図書館。
四ツ目通りに面して建っています。昭和60年(1985年)5月18日に開館しました。
明治時代、洲崎から東陽町あたりは広い範囲で養魚場が作られていました。渋沢栄一翁の関連会社にも洲崎養魚株式会社があり、川魚養殖販売を事業としていました。 -
四ツ目通り(東京都道465号深川吾嬬町線)をさらに北進すると東陽二丁目ポケット広場がありました。
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堀内健二氏の「Standing Alone」、昭和60年(1985年)。
この広場に展示されている作品は、いずれも高さは約20~30cm。 -
上野弘道氏の「愛」、昭和60年(1985年)。
左右にも同氏の作品があったようですが、破壊されています。 -
左は横山文夫氏の「呼ぶ」、昭和55年(1980年)。右は同氏の「座女」、昭和60年(1985年)。
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東陽橋の碑。
汐浜運河に架かる東陽橋を見てきましたが、かつては、この場所には洲崎川が流れ、橋長22m、幅員5.6mの東陽橋が架かっていました。 -
東陽町駅前交差点に出ました。
左右は永代通り。 -
東陽町駅に到着しました。
昭和42年(1967年)9月14日、営団地下鉄東西線の終着駅として開業しました。
海抜ゼロメートル地帯に位置しているため、水害対策として駅出入口や通路内に防水扉を設置しています。 -
木場駅方向、まん丸なトンネルです。
地盤が軟弱なことから、門前仲町駅~木場駅~東陽町駅の間1,770.06 mの区間は、全円断面の単線シールド工法によって建設が進められました。 -
洲崎パラダイスが華やかだった頃の痕跡もなくなってしまい、当時を知る人は今や90歳以上の方でしょう。
近代的な街並みからは、そんな歴史を感じることはありませんでした。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- FUKUJIROさん 2024/12/11 22:11:13
- 洲崎の情報について
- 横浜臨海公園さん、こんにちは。
いつもありがとうございます。
この度は貴重な情報を教えていただきましてありがとうございました。
地下鉄工事の際にそれほどたくさんの人骨やミイラが出てきたとは驚きました。
それにしても、戦前戦後の一時期、須崎は栄華を極めていたようです。
そして同時に負の部分も大きかったのだろうと思います。
光と影、それは常に同時に存在するものとして、心したいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
-
- 横浜臨海公園さん 2024/12/10 09:56:27
- 吉行淳之介
- FUKUJIROさま、おはようございます。
洲崎の旅行記を篤と拝見させて頂きました。
小生、洲崎の名を初めて知ったのは吉行淳之介の小品で、吉行が都電を利用して洲崎遊郭を訪れる際に、当時は洲崎に精工舎、即ち現在のセイコーの工場があり、最寄電停名で車掌が
次は洲崎洲崎、精工舎前
と言うのを耳にする都度、恥ずかしい思いがした、と言う記述を見て、洲崎とはソンな所だったんだと理解したものでした。
ところで、旅行記に地下鉄東西線の記述がございましたが、実は、東西線工事進行中に、至る所から人骨なり人間のミイラ体が大量に出て騒ぎになった様です。
ご存じの様に、当該地は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で、いち早く防空壕に避難した人々は一酸化中毒なり大火災なりで豪内で死亡し、一家全滅だった所も多かった為に、戦後もそのまま焼け跡に家が建った事から忘れられた存在だった処、地下鉄工事でアチラコチラから発見されたものです。
当時の方は、食料以外に先祖伝来の位牌を持って避難した事から、漆は湿気に強く、その位牌から意外と身元が判明する例も多く、地方に集団疎開し、帰って来て家族が自分以外全滅し戦後10数年を経て変り果てた姿と対面した例も多く見られた様です。
横浜臨海公園
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