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田端駅は京浜東北線と山手線の乗換駅のため、以前はよく利用していましたが、降りた記憶はありませんでした。<br />今回田端を訪問するきっかけ(その1)は、ある日都内で仕事を済まし、知人と会うことになりました。話をしているうちに、かつて芥川龍之介が田端に住んでいた頃、彼が贔屓にしていたという浅野屋で蕎麦を食べようとなり、田端を訪問しました。<br />大正から昭和初期には、多くの文人や芸術家が居住し、華やかな時代だった田端の街、芥川龍之介の死によって文人が去り、いつしか忘れられた街になってしいました。<br />きっかけ(その2)は、前日に鉄道博物館を見学した際、異業種交流会の仲間から山手線にも踏切が残っていると聞いたことでした。田端駅から駒込駅へ向かう途中に一つだけ存在するという貴重な踏切を渡りたい、普通ではない欲求にかられて冒険の旅が始まりました。

山手線唯一の踏切を渡り、鉄道と坂と文学の町・田端を街歩きしました(1/3)

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2024/02/16 - 2024/02/16

1位(同エリア127件中)

旅行記グループ 東京の旅その2

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FUKUJIRO

FUKUJIROさん

この旅行記のスケジュール

2024/02/16

この旅行記スケジュールを元に

田端駅は京浜東北線と山手線の乗換駅のため、以前はよく利用していましたが、降りた記憶はありませんでした。
今回田端を訪問するきっかけ(その1)は、ある日都内で仕事を済まし、知人と会うことになりました。話をしているうちに、かつて芥川龍之介が田端に住んでいた頃、彼が贔屓にしていたという浅野屋で蕎麦を食べようとなり、田端を訪問しました。
大正から昭和初期には、多くの文人や芸術家が居住し、華やかな時代だった田端の街、芥川龍之介の死によって文人が去り、いつしか忘れられた街になってしいました。
きっかけ(その2)は、前日に鉄道博物館を見学した際、異業種交流会の仲間から山手線にも踏切が残っていると聞いたことでした。田端駅から駒込駅へ向かう途中に一つだけ存在するという貴重な踏切を渡りたい、普通ではない欲求にかられて冒険の旅が始まりました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩

PR

  • 今回の旅のプロローグです。<br />2月の寒い日、田端駅の北口を出て、江戸坂を上り、田端高台通りを北へ進むと「そば処 浅野屋」さんがありました。

    今回の旅のプロローグです。
    2月の寒い日、田端駅の北口を出て、江戸坂を上り、田端高台通りを北へ進むと「そば処 浅野屋」さんがありました。

  • お店のウインドウには、鉄道ジオラマが飾られています。蕎麦を食べる前からテンションが上がります。

    お店のウインドウには、鉄道ジオラマが飾られています。蕎麦を食べる前からテンションが上がります。

  • 鬼滅のキャラクターや商品見本もありました。

    鬼滅のキャラクターや商品見本もありました。

  • 芥川龍之介が田端に住んだのは大正3年から、浅野屋の創業は大正5年、現在の店舗は新しく、芥川龍之介が贔屓にしていた頃の痕跡は見当たりません。

    芥川龍之介が田端に住んだのは大正3年から、浅野屋の創業は大正5年、現在の店舗は新しく、芥川龍之介が贔屓にしていた頃の痕跡は見当たりません。

  • 17時を過ぎたばかりの店内は、まだ空いていました。店内を見回しましたが、芥川龍之介のサイン色紙などはありません。

    17時を過ぎたばかりの店内は、まだ空いていました。店内を見回しましたが、芥川龍之介のサイン色紙などはありません。

  • 芥川龍之介は天麩羅蕎麦が好きだったらしいので、私も温かい天麩羅蕎麦(上)にしました。<br />冷たい蕎麦がおすすめらしいのですが、風の冷たい日で、温かい方をいただきました。大きな海老が二つ、大葉と南瓜と蓮根が入っていました。1,150円。

    芥川龍之介は天麩羅蕎麦が好きだったらしいので、私も温かい天麩羅蕎麦(上)にしました。
    冷たい蕎麦がおすすめらしいのですが、風の冷たい日で、温かい方をいただきました。大きな海老が二つ、大葉と南瓜と蓮根が入っていました。1,150円。

  • 田端駅(北口)。<br />日本鉄道が上野~熊谷間を開通してから13年後の明治29年(1896年)4月1日に開業しました。<br />現在の駅舎は、平成20年(2008年)7月30日に開業、駅ビル「アトレヴィ田端」と一体の建物です。

    田端駅(北口)。
    日本鉄道が上野~熊谷間を開通してから13年後の明治29年(1896年)4月1日に開業しました。
    現在の駅舎は、平成20年(2008年)7月30日に開業、駅ビル「アトレヴィ田端」と一体の建物です。

  • 田端駅はJR線路の西側にありますが、東側の東田端と繋いでいるのが田端ふれあい橋です。<br />その西詰に立っている黄金色の裸婦像「華」です。

    田端駅はJR線路の西側にありますが、東側の東田端と繋いでいるのが田端ふれあい橋です。
    その西詰に立っている黄金色の裸婦像「華」です。

  • 平成5年(1993年)3月に設置された彫刻家・川崎普照(かわさき ひろてる) 氏の作品です。ブロンズ像、像高257cm。

    平成5年(1993年)3月に設置された彫刻家・川崎普照(かわさき ひろてる) 氏の作品です。ブロンズ像、像高257cm。

  • ふるさと創生基金運用益金活用事業で設置されました。12月には、真っ赤なミニスカサンタ姿に変身するそうです。<br />田端ふれあい橋は人通りが多いので、裸婦像の写真を撮るのは恥ずかしいです。

    ふるさと創生基金運用益金活用事業で設置されました。12月には、真っ赤なミニスカサンタ姿に変身するそうです。
    田端ふれあい橋は人通りが多いので、裸婦像の写真を撮るのは恥ずかしいです。

  • ここからが今回の本題です。<br />都内での仕事が予定よりも早く終わったので、東京メトロ南北線で駒込駅に移動しました。

    ここからが今回の本題です。
    都内での仕事が予定よりも早く終わったので、東京メトロ南北線で駒込駅に移動しました。

  • 本郷通りの歩道にポツンと残されている何かの遺構がありました。

    本郷通りの歩道にポツンと残されている何かの遺構がありました。

  • 大正12年に架けられた旧駒込橋の親柱と欄干が残されています。平成3年には現在の駒込橋が造られました。

    大正12年に架けられた旧駒込橋の親柱と欄干が残されています。平成3年には現在の駒込橋が造られました。

  • 駒込橋の交差点。

    駒込橋の交差点。

  • 山手線の側道を歩いて田端を目指します。

    山手線の側道を歩いて田端を目指します。

  • 田端~駒込間の標高差は約15mあり、かつては山手線の難所でした。<br />駒込駅からスタートすると下り坂なので、正解でした。

    田端~駒込間の標高差は約15mあり、かつては山手線の難所でした。
    駒込駅からスタートすると下り坂なので、正解でした。

  • さらに細い路地を進みます。

    さらに細い路地を進みます。

  • 駒込銀座商店街振興組合(さつき通り商店街)の入り口を通過します。昭和の気配を感じます。

    駒込銀座商店街振興組合(さつき通り商店街)の入り口を通過します。昭和の気配を感じます。

  • 大衆酒場かぶら屋さん、営業は16時から。

    大衆酒場かぶら屋さん、営業は16時から。

  • 山手線を潜る中里第一隧道。

    山手線を潜る中里第一隧道。

  • お目当ての踏切に到着です。

    お目当ての踏切に到着です。

  • 踏切を渡る前に、すぐ近くの円勝寺(圓勝寺)にお参りしましょう。

    踏切を渡る前に、すぐ近くの円勝寺(圓勝寺)にお参りしましょう。

  • 参道入り口に庚申塔と門柱。

    参道入り口に庚申塔と門柱。

  • 門柱の後ろに厄除大勢至菩薩霊場と読める石柱があります。江戸時代の円勝寺には勢至菩薩を祀る勢至堂がありました。

    門柱の後ろに厄除大勢至菩薩霊場と読める石柱があります。江戸時代の円勝寺には勢至菩薩を祀る勢至堂がありました。

  • 参道と山門。

    参道と山門。

  • 円勝寺の山門です。<br />鎌倉時代に信阿聖法によって開山、戦国時代は現在の千代田区にあったようです。現在地への移転時期は不詳ですが、文明年間(1469年~1487年)に香誉上人が中興しました。

    円勝寺の山門です。
    鎌倉時代に信阿聖法によって開山、戦国時代は現在の千代田区にあったようです。現在地への移転時期は不詳ですが、文明年間(1469年~1487年)に香誉上人が中興しました。

  • 山門の内側には、大きなヒマラヤ杉に守られて本堂があります。

    山門の内側には、大きなヒマラヤ杉に守られて本堂があります。

  • 光明山 照徳院 円勝寺は浄土宗のお寺で御本尊は阿弥陀如来像です。<br />本堂には閻魔大王像も安置されており、毎年1月と7月の15日・16日の「閻魔開き」の日に御開帳されます。<br />かつては、本堂の傍に徳川家康公が腰掛けたとされる「御腰掛松」、別名「五石松」があったとされています。

    光明山 照徳院 円勝寺は浄土宗のお寺で御本尊は阿弥陀如来像です。
    本堂には閻魔大王像も安置されており、毎年1月と7月の15日・16日の「閻魔開き」の日に御開帳されます。
    かつては、本堂の傍に徳川家康公が腰掛けたとされる「御腰掛松」、別名「五石松」があったとされています。

  • 光明山の扁額。

    光明山の扁額。

  • 境内の小さな池。

    境内の小さな池。

  • 踏切の脇には、大きなゴルフボールを飾っているビルがあります。昭和35年(1960年)創業の株式会社ライト商会です。

    踏切の脇には、大きなゴルフボールを飾っているビルがあります。昭和35年(1960年)創業の株式会社ライト商会です。

  • ゴルフクラブのグリップやグローブ、シューズなどを製作販売しています。

    ゴルフクラブのグリップやグローブ、シューズなどを製作販売しています。

  • こちらが目的の踏切です。

    こちらが目的の踏切です。

  • 山手線唯一の踏切、第二中里踏切です。

    山手線唯一の踏切、第二中里踏切です。

  • 見ていると遮断機が降りて、踏切が閉じられました。私のいた時間帯では、この踏切の利用者はほぼ小学生でした。

    見ていると遮断機が降りて、踏切が閉じられました。私のいた時間帯では、この踏切の利用者はほぼ小学生でした。

  • 山手線内回り電車。

    山手線内回り電車。

  • 今度は、山手線外回り電車が通過。

    今度は、山手線外回り電車が通過。

  • 山手線は踏切ですが、並行する湘南新宿ラインは立体交差です。駒込駅方向。

    山手線は踏切ですが、並行する湘南新宿ラインは立体交差です。駒込駅方向。

  • こちらは田端駅方向。山手線内回り電車と湘南新宿ライン下り電車を同時に撮影できました。

    こちらは田端駅方向。山手線内回り電車と湘南新宿ライン下り電車を同時に撮影できました。

  • 第二中里踏切を渡り、3分ほど歩いてお寺に着きました。<br />田端4丁目にある大龍寺です。

    第二中里踏切を渡り、3分ほど歩いてお寺に着きました。
    田端4丁目にある大龍寺です。

  • 山門右手に寺号柱。

    山門右手に寺号柱。

  • 山門左手に石碑が2つあります。<br />(左)大龍精舎、(右)子規居士墓所と刻まれています。<br />根岸(台東区)に住んでいた正岡子規は、生前に「静かな寺に葬ってほしい」と遺言しており、明治35年(1902年)9月19日に死去、大龍寺に埋葬されました。

    山門左手に石碑が2つあります。
    (左)大龍精舎、(右)子規居士墓所と刻まれています。
    根岸(台東区)に住んでいた正岡子規は、生前に「静かな寺に葬ってほしい」と遺言しており、明治35年(1902年)9月19日に死去、大龍寺に埋葬されました。

  • 山門の向かい側、この白い建物の裏手には、かつて堀辰雄が下宿していた紅葉館がありました。

    山門の向かい側、この白い建物の裏手には、かつて堀辰雄が下宿していた紅葉館がありました。

  • 山門の扁額は、和光山。

    山門の扁額は、和光山。

  • 山門から本堂。<br />本堂の奥には墓地があり、俳人・正岡子規のお墓があります。

    山門から本堂。
    本堂の奥には墓地があり、俳人・正岡子規のお墓があります。

  • 真言宗霊雲寺派の和光山 興源院 大龍寺です。<br />慶長年間(1596~1615年)に不動院浄仙寺として創建され、天明年間(1781~1789年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕上人が中興開山し、大龍寺に改称したと伝わります。真言宗霊雲寺派。<br />かつては境内に大師堂があつて、鯖大師と称えていました。

    真言宗霊雲寺派の和光山 興源院 大龍寺です。
    慶長年間(1596~1615年)に不動院浄仙寺として創建され、天明年間(1781~1789年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕上人が中興開山し、大龍寺に改称したと伝わります。真言宗霊雲寺派。
    かつては境内に大師堂があつて、鯖大師と称えていました。

  • 大龍寺の扁額。<br />御本尊は大日如来像。本堂には不動明王も安置され、かつては寺の本尊だったそうです。

    大龍寺の扁額。
    御本尊は大日如来像。本堂には不動明王も安置され、かつては寺の本尊だったそうです。

  • 本堂の左側から奥の墓地に行くことができました。<br />正岡子規のお墓は、この墓地の奥の方にあるらしいので、探してみましょう。

    本堂の左側から奥の墓地に行くことができました。
    正岡子規のお墓は、この墓地の奥の方にあるらしいので、探してみましょう。

  • いろいろな塔や仏像があります。著名人のお墓も幾つかあるようですが、説明等はないので探すのは難しいです。

    いろいろな塔や仏像があります。著名人のお墓も幾つかあるようですが、説明等はないので探すのは難しいです。

  • 中央は、閻魔様でしょう。

    中央は、閻魔様でしょう。

  • 墓地の最奥部まで行くと、歴代住職のお墓がありました。

    墓地の最奥部まで行くと、歴代住職のお墓がありました。

  • 少し戻るとレンガ塀に囲われた一角があり、立派な墓石がありました。

    少し戻るとレンガ塀に囲われた一角があり、立派な墓石がありました。

  • 何となくレンガ塀の辺りが怪しい感じです。

    何となくレンガ塀の辺りが怪しい感じです。

  • レンガ塀の南側に正岡子規のお墓を見つけました。<br />左から正岡氏累世墓、子規居士之墓、母・八重墓です。米軍の空襲による焼け跡が残っています。<br />本名は、正岡常規(つねのり)、幼名を處之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)と改名しました。<br />子規は筆名、遼東半島から帰国途中に吐血したことから、後にホトトギスの漢字表記である子規と付けたそうです。

    レンガ塀の南側に正岡子規のお墓を見つけました。
    左から正岡氏累世墓、子規居士之墓、母・八重墓です。米軍の空襲による焼け跡が残っています。
    本名は、正岡常規(つねのり)、幼名を處之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)と改名しました。
    子規は筆名、遼東半島から帰国途中に吐血したことから、後にホトトギスの漢字表記である子規と付けたそうです。

  • 正岡氏累世墓。

    正岡氏累世墓。

  • 子規居士之墓。<br />松山藩の下級武士の子として生まれ育ちました。子規が5歳のとき父が亡くなり家督を継いでいます。松山中学と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人でした。<br />俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など様々な創作活動を行い、日本の近代文学に大きな影響を与えました。また、学生の頃から喀血するまで野球を続けており、捕手でした。その関係で、野球用語を翻訳し「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの用語を創りました。日本初の野球小説「山吹の一枝」を執筆するなど野球の普及にも貢献しました。<br />これらが評価され、子規の没後100年に当たる平成14年(2002年)に野球殿堂入りしました。

    子規居士之墓。
    松山藩の下級武士の子として生まれ育ちました。子規が5歳のとき父が亡くなり家督を継いでいます。松山中学と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人でした。
    俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など様々な創作活動を行い、日本の近代文学に大きな影響を与えました。また、学生の頃から喀血するまで野球を続けており、捕手でした。その関係で、野球用語を翻訳し「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などの用語を創りました。日本初の野球小説「山吹の一枝」を執筆するなど野球の普及にも貢献しました。
    これらが評価され、子規の没後100年に当たる平成14年(2002年)に野球殿堂入りしました。

  • 母・八重墓。<br />八重は貧しい生活に耐えながら、子規を励ましたことから文学を続けることができました。子規は生涯独身でした。

    母・八重墓。
    八重は貧しい生活に耐えながら、子規を励ましたことから文学を続けることができました。子規は生涯独身でした。

  • 子規は自らの死を察して、墓碑銘を書いたとされます。<br />その4年後に死去。その際にはこの墓碑銘は使われず、子規の三十三回忌にあたる昭和9年、銅板に刻まれた墓碑銘が立てられました。<br />後に盗難されたことから、昭和11年に石碑で再建されました。<br />石碑には糸瓜も刻まれています。子規は自宅の庭で糸瓜を栽培していたと伝わり、辞世の句でも「糸瓜咲て 痰のつまりし仏哉 痰一斗 糸瓜の水も間にあはず をとヽひの糸瓜の水も 取らざりき」と詠んでいます。

    子規は自らの死を察して、墓碑銘を書いたとされます。
    その4年後に死去。その際にはこの墓碑銘は使われず、子規の三十三回忌にあたる昭和9年、銅板に刻まれた墓碑銘が立てられました。
    後に盗難されたことから、昭和11年に石碑で再建されました。
    石碑には糸瓜も刻まれています。子規は自宅の庭で糸瓜を栽培していたと伝わり、辞世の句でも「糸瓜咲て 痰のつまりし仏哉 痰一斗 糸瓜の水も間にあはず をとヽひの糸瓜の水も 取らざりき」と詠んでいます。

  • 正岡子規自筆の墓碑銘。<br /> 正岡子規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升<br /> 又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人<br /> 又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東<br /> 京根岸ニ住ス父隼太松山藩御<br /> 馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養<br /> ハル日本新聞社員タリ明治三十口年<br /> 口月口日没ス享年三十口月給四十圓<br />子規は明治31年7月、河東可全(子規の弟子・俳人)に、ほぼ墓と同じ大きさの紙に墨書した墓碑銘を送っていました。<br />自らの生涯を取りまとめて書いてあります。原文のままに刻まれていますが、自分の死後、口部分には実際の数字を入れて欲しかったのではないでしょうか。

    正岡子規自筆の墓碑銘。
     正岡子規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升
     又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人
     又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東
     京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
     馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養
     ハル日本新聞社員タリ明治三十口年
     口月口日没ス享年三十口月給四十圓
    子規は明治31年7月、河東可全(子規の弟子・俳人)に、ほぼ墓と同じ大きさの紙に墨書した墓碑銘を送っていました。
    自らの生涯を取りまとめて書いてあります。原文のままに刻まれていますが、自分の死後、口部分には実際の数字を入れて欲しかったのではないでしょうか。

  • 山門の内側に枯山水があります。

    山門の内側に枯山水があります。

  • 宝篋印塔。元は墓地横にあったようですが、山門の内側に移されています。<br />安永5年(1776年)の銘がある江戸型の宝篋印塔です。信州伊那郡北原軒 石工伊藤善右衛門の文字が刻まれ、23区内に現存する唯一の高遠石工の事例とのことです。

    宝篋印塔。元は墓地横にあったようですが、山門の内側に移されています。
    安永5年(1776年)の銘がある江戸型の宝篋印塔です。信州伊那郡北原軒 石工伊藤善右衛門の文字が刻まれ、23区内に現存する唯一の高遠石工の事例とのことです。

  • 宝篋印塔の近くには五輪塔もあります。

    宝篋印塔の近くには五輪塔もあります。

  • 大龍寺に隣接して上田端八幡神社があります。

    大龍寺に隣接して上田端八幡神社があります。

  • 上田端八幡神社、一の鳥居です。<br />田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていました。この八幡神社は上田端の村人の鎮守でした。

    上田端八幡神社、一の鳥居です。
    田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていました。この八幡神社は上田端の村人の鎮守でした。

  • 参道の先には、二の鳥居と拝殿が見えます。左側の建物は社務所です。<br />こちらでは、多くの文士が闊歩していた田端の街に相応しく、文才運が爆上がりすると言う「筆才向上守」を授かることができます。

    参道の先には、二の鳥居と拝殿が見えます。左側の建物は社務所です。
    こちらでは、多くの文士が闊歩していた田端の街に相応しく、文才運が爆上がりすると言う「筆才向上守」を授かることができます。

  • 最近建てられたらしい御由緒碑。

    最近建てられたらしい御由緒碑。

  • 参道、二の鳥居と拝殿。

    参道、二の鳥居と拝殿。

  • 二の鳥居。

    二の鳥居。

  • 手水鉢。

    手水鉢。

  • 拝殿。<br />文治5年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し、その帰路に駐留した証として、鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請したと伝わります。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿は猿田彦命。<br />昭和20年4月19日、米軍の東京空襲により田端は焼け野原となりました。

    拝殿。
    文治5年に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定(奥州征伐)し、その帰路に駐留した証として、鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請したと伝わります。御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)。相殿は猿田彦命。
    昭和20年4月19日、米軍の東京空襲により田端は焼け野原となりました。

  • 拝殿の前で取り出したのが、筆才向上守(ひつさいこうじょうまもり)です。<br />わずか800円で文才が爆上がりすると言うパワーアイテムです。

    拝殿の前で取り出したのが、筆才向上守(ひつさいこうじょうまもり)です。
    わずか800円で文才が爆上がりすると言うパワーアイテムです。

  • 全体に色とりどりのペン先をデザインしています。<br />昔の文士は、原稿用紙のマス目にペンで文字を埋めていくというのがお仕事でした。

    全体に色とりどりのペン先をデザインしています。
    昔の文士は、原稿用紙のマス目にペンで文字を埋めていくというのがお仕事でした。

  • 反対側は、文士村と枠内に上田端八幡神社の文字。日本でもここだけで授かることのできる唯一無二のお守りです。<br />これからはFUKUJIROの旅行記もパワーアップすること間違いありません。

    反対側は、文士村と枠内に上田端八幡神社の文字。日本でもここだけで授かることのできる唯一無二のお守りです。
    これからはFUKUJIROの旅行記もパワーアップすること間違いありません。

  • 御本殿へ続く道は、黒朴石(溶岩石)で造られています。

    御本殿へ続く道は、黒朴石(溶岩石)で造られています。

  • 御本殿。

    御本殿。

  • 拝殿に向かって左奥に白髭神社。

    拝殿に向かって左奥に白髭神社。

  • この白髭神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その近くには「争いの杉」と呼ばれる御神木があったそうです。遠くから見ると松の木にも見えたといわれ、奥州討伐に向かう一行が、これを見て松の木か杉の木かと争ったという伝承があります。

    この白髭神社は、現在の田端中学校の敷地内にあった神社で、その近くには「争いの杉」と呼ばれる御神木があったそうです。遠くから見ると松の木にも見えたといわれ、奥州討伐に向かう一行が、これを見て松の木か杉の木かと争ったという伝承があります。

  • 祠は石造り、その屋根も石板を組み合わせて造られています。

    祠は石造り、その屋根も石板を組み合わせて造られています。

  • 斜めから見ると、石造りの屋根の構造が良くわかります。

    斜めから見ると、石造りの屋根の構造が良くわかります。

  • 裏のお宅には、アマチュア無線の鉄塔が建っています。アンテナは撤去されているので、もう無線は止めているのでしょう。

    裏のお宅には、アマチュア無線の鉄塔が建っています。アンテナは撤去されているので、もう無線は止めているのでしょう。

  • 境内の所々に不思議な模様がありました。<br />たいていは足跡で壊されているのですが、このミステリーサークルは形が残っていました。

    境内の所々に不思議な模様がありました。
    たいていは足跡で壊されているのですが、このミステリーサークルは形が残っていました。

  • 黒朴石(溶岩石)。

    黒朴石(溶岩石)。

  • 御本殿がはっきりと見えます。

    御本殿がはっきりと見えます。

  • 拝殿に向かって右奥に大山祇神社。

    拝殿に向かって右奥に大山祇神社。

  • さらに奥に稲荷神社。

    さらに奥に稲荷神社。

  • 上田端八幡神社から北へ向かう坂道。

    上田端八幡神社から北へ向かう坂道。

  • 八幡坂通りです。梅の花と鶯があしらわれています。<br />この坂道の途中には、詩人の室生犀星が住んでいて、芥川龍之介は、その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家」と書きました。

    八幡坂通りです。梅の花と鶯があしらわれています。
    この坂道の途中には、詩人の室生犀星が住んでいて、芥川龍之介は、その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは、詩人室生犀星の家」と書きました。

  • 田端公園。ポプラ倶楽部跡を探して迷歩しています。

    田端公園。ポプラ倶楽部跡を探して迷歩しています。

  • ポプラ倶楽部跡に建っている田端保育園です。<br />ポプラ倶楽部は、 明治41年頃に洋画家の小杉放庵が作ったテニスコートで、 田端に住む芸術家や文士たちの社交場でした。

    ポプラ倶楽部跡に建っている田端保育園です。
    ポプラ倶楽部は、 明治41年頃に洋画家の小杉放庵が作ったテニスコートで、 田端に住む芸術家や文士たちの社交場でした。

  • ポプラ坂。この辺りには、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛や陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎などが住んでいました。ちなみに室生犀星は、田端の街中で5回も転居しています。

    ポプラ坂。この辺りには、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛や陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎などが住んでいました。ちなみに室生犀星は、田端の街中で5回も転居しています。

  • ポプラ坂、麓側から。<br />坂の高低差は10mほどあります。かつて。この坂下には、室生犀星たちの編集場所になっていたポプラ坂荘がありました。その先は谷田川へと続いていました。

    ポプラ坂、麓側から。
    坂の高低差は10mほどあります。かつて。この坂下には、室生犀星たちの編集場所になっていたポプラ坂荘がありました。その先は谷田川へと続いていました。

  • 薬王山 光明院 遍照寺の山門です。<br />真言宗豊山派のお寺です。創建年は不詳ながら、安土桃山時代には既に存在していたと云われ、明治32年(1899年)に中興しました。江戸時代には、白髭神社の別当寺でした。<br />光明院幼稚園を併設しているため、入り口は固く閉ざされていました。

    薬王山 光明院 遍照寺の山門です。
    真言宗豊山派のお寺です。創建年は不詳ながら、安土桃山時代には既に存在していたと云われ、明治32年(1899年)に中興しました。江戸時代には、白髭神社の別当寺でした。
    光明院幼稚園を併設しているため、入り口は固く閉ざされていました。

  • 隣り合わせて大久寺があります。<br />石柱の山門です。

    隣り合わせて大久寺があります。
    石柱の山門です。

  • 法華宗陣門流の教風山 普光院 大久寺(だいきゅうじ)です。<br />文禄元年(1592年)、大久保相模守忠世(大久保彦左衛門の長兄)が大久保一族の菩提を弔うため小田原に自得院日英上人を請招して、宝珠山 大久寺を創建しました。それを江戸に移したのですが、小田原でも後に復活しています。<br />後に大久保家と伊勢亀山藩石川家の菩提寺となりました。

    法華宗陣門流の教風山 普光院 大久寺(だいきゅうじ)です。
    文禄元年(1592年)、大久保相模守忠世(大久保彦左衛門の長兄)が大久保一族の菩提を弔うため小田原に自得院日英上人を請招して、宝珠山 大久寺を創建しました。それを江戸に移したのですが、小田原でも後に復活しています。
    後に大久保家と伊勢亀山藩石川家の菩提寺となりました。

  • 白梅と本堂。<br />寛永7年(1630年)に江戸下谷車坂へ移り、明治36年に当地に移転しました。<br />下谷車坂の跡地(台東区上野7丁目)には、岩倉高校(電車運転士養成学校)が建てられています。

    白梅と本堂。
    寛永7年(1630年)に江戸下谷車坂へ移り、明治36年に当地に移転しました。
    下谷車坂の跡地(台東区上野7丁目)には、岩倉高校(電車運転士養成学校)が建てられています。

  • 本堂の扁額は教風山です。

    本堂の扁額は教風山です。

  • 鬼瓦がありました。

    鬼瓦がありました。

  • 十三重塔。

    十三重塔。

  • 宝篋印塔。<br />中に見える石に日蓮上人が腰かけたとされています。

    宝篋印塔。
    中に見える石に日蓮上人が腰かけたとされています。

  • 布袋尊像。

    布袋尊像。

  • コアラがテーブルを運んでいるようにも見えますが、たぶんベンチです。

    コアラがテーブルを運んでいるようにも見えますが、たぶんベンチです。

  • さらに東方向へ歩きます。<br />田端の街歩きはまだまだ続きます。<br />ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

    さらに東方向へ歩きます。
    田端の街歩きはまだまだ続きます。
    ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

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東京の旅その2

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