2024/03/16 - 2024/03/16
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田端を街歩きした記録の3回目です。
埼玉県川口での仕事を終えて、そのまま宿泊、帰宅の予定を変更して田端に舞い戻りました。与楽寺をお参りしたり、あちらこちらを歩き回っていたら、最終目的地の田端文士村記念館にたどり着いたのですが、こちらはご縁がありませんでした。
実は途中で急用ができて街を離れることになり、別日の写真も混在しています。
表紙の写真は、幽霊坂に咲いていたボケの花です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
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ホームから階段を上り、田端駅の南口に出ました。
何とも懐かしい雰囲気の駅舎で、駅員も常駐していません。 -
南口は坂の中腹にあり、ここからは東京スカイツリーと新幹線(下り)を一緒に見ることが出来ました。
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今度は新幹線(上り)と東京スカイツリー。
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見晴らしが良いので、高台にはマンションがいっぱい建っています。
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東京シティービューホテル。11階建て92室、1階に見えるところがフロントのある4階です。
トレインビューのレストランや男女別の人工ラジウム温泉(利用は完全予約制)があるようです。
客室からも鉄道三昧の景色が見えることでしょう。 -
坂の頂上には田端台公園がありました。
SL型の遊具、ブランコ、砂場などがあります。
公園の東側(前方)は荒川区との境界です。 -
周辺にはトイレビュースポットがたくさんあります。
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樹木の向こうには新幹線も見えました。
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路地へ進んでみましょう。
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柵に囲われた與楽寺壇信徒専用駐車場(とても広い)がありました。
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駐車場の角には大木がありました。
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坂上にある田端台公園辺りから南側へ下りる幽霊坂です。
くねりながら下っていくと與楽寺の裏に出られます。
江戸時代は與楽寺の敷地内でしたが、明治32年、與楽寺の南側に東京脳病院が建ってから、いつしか幽霊坂と呼ばれるようになったらしいです。 -
幽霊坂は標高差約18mの急峻な坂道です。
ここで出合った年配の女性によると、この辺りの土地はほとんどが與楽寺の敷地だったそうで、今でも借地の家がとても多いそうです。以前は、與楽寺の樹木がうっそうと繁る道だったとか。幽霊坂という名前を自慢げに教えてくれました。 -
道を戻りました。
この坂は、田端駅南口へ下りる坂道です。 -
田端駅南口を出てくると、不動坂があります。
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不動坂は急階段+やや急階段の2段構造で、結構しんどいです。
朝から坂道を上ったり、下りたりの繰り返しです。 -
昔、この坂には不動の滝があり、昨日お参りした不動明王像が安置されていたことから不動坂と呼ばれました。
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不動坂から北側の線路方向です。
狭い隙間から新幹線が見えました。 -
左右を通るのが田端高台通り、この辺りはいわゆる馬の背になっています。
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明月寺(めいげつじ)。韓国最大の仏教宗派である曹渓宗の寺院です。
昭和50年(1975年)に開山しました。
私はソウル江南区にある曹渓宗の名刹・奉恩寺を尋ねたことがあります。よろしければ、そのときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11618026 -
本堂左手に観音像が2躯建っています。
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(左)大願本尊地蔵菩薩像、(右)大慈悲観世音菩薩像。
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ミニ灯籠と鬼瓦もありました。
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与楽寺坂へと続く路地です。
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坂下にある与楽寺に由来して、与楽寺坂と呼ばれています。
この坂の近くに、芥川龍之介をはじめ、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真などが住んでいました。 -
坂を下りたあたりに与楽寺坂の説明板がありました。ここには書かれていませんが、長さは約130m、標高差は約13mなので、幽霊坂ほどではないものの、なんと100パーミルの急坂です。
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與楽寺(与楽寺)に着きました。真言宗豊山派のお寺です。
昨日お参りした東覚寺も與楽寺の末寺にあたり、江戸時代はかなり大きな寺院だったことがわかります。 -
正面左端に通路があり、その先にはお大師様が立っています。
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通路の入り口には石碑があります。左から、宝暦7年の寺標(道標)、4つ目は聖観音像が刻まれた明和4年の道標。
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境内に入る手前に弘法大師像。
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近寄ってご尊顔を拝しました。
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與楽寺の寺号柱。
山門前、以前は駐車場でしたが、とてもきれいな庭に整備されています。
この山門は平成29年(2017年)の建立。 -
まだ細いですが、紅梅。
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紅梅。
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山門を潜ると、白梅が咲き、その先に本堂らしい建物が見えます。
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白梅。
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境内の全体。左から、霊堂、阿弥陀堂、本堂、客殿、大師堂。
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霊堂。
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弔霊の額。
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大正13年9月に建てられた関東大震災遭難被災者供養塔がありました。
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霊堂の後ろには、鐘楼がありました。
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與楽寺には古い梵鐘があり、大東亜戦争での金属類供出を免れたという貴重なものだそうです(非公開)。
現在の鐘は平成20年(2008年)10月に建立されました。雲に乗って浮遊する天女と龍神が描かれ、縦帯には梵字が陽鋳造されています。 -
宝珠山 地蔵院 與楽寺の本堂です。
創建年代等は不詳ながら、弘法大師の建立と伝わります。慶安元年(1648年)には寺領20石の御朱印状を拝領し、京都仁和寺の関東末寺の取締役を務めていました。 -
扁額は與楽寺、揮毫は慶信大僧正です。
御本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像ですが秘仏のため非公開です。
昔々、盗賊が寺に押し入ったものの、多くの僧が出て来て賊を追い払いました。翌朝、御本尊の地蔵菩薩の足が汚れていたので、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い返したのだと信じられるようになり、賊除地蔵と呼ばれるようになったと伝承されています。 -
聖観音像。
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長岡慶信大僧正遺徳碑。
真言宗豊山派第19代管長、総本山長谷寺の第73第貫主を務めた方です。 -
阿弥陀堂。
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大僧正慶信像。阿弥陀堂の前にあります。
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阿弥陀堂の扁額。
六阿弥陀第四番とあります。
「江戸六阿弥陀」には諸説ありますが、ある長者の一人娘が豪族の豊島左衛門清光に嫁ぎましたが、非業の死を遂げてしまい、長者は無念の日々を過ごしていました。
長者は行基が来訪した際に一部始終を話し、行基は一夜のうちに1本の木から6体の阿弥陀仏を刻み上げ、長者は6ヶ所に寺を建立し、阿弥陀仏を1体ずつ安置したことが由来だと伝わります。別の説では、非業の死を遂げたのは、豊島清光の娘とも云われます。
六阿弥陀とされますが、木余り・木残りの2仏を加えた8阿弥陀を巡礼することが江戸時代中期に大流行しました。 -
線刻阿弥陀如来。
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(右)日露戦役忠魂碑、明治39年(1906年)建立。
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(左)五十石塔、(右)円柱形の巴蓮納札冢。
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客殿。
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有難い言葉です。
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弘法大師一千百五十年遠忌の碑。
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大師堂。
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与楽寺を辞して与楽寺坂を上ります。
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途中で曲がる道も坂道です。
田端は坂の街です。 -
上の坂(上之坂、かみのさか)。
田端高台から崖下へ降りる道で、あまりの急坂のため、下の方は石段になっています。 -
住宅街の中に芥川龍之介旧居跡がありました。大正3年からこの地に住み、数々の作品を残しました。また、この坂の近くには、鋳金家の香取秀真、漆芸家の堆朱楊成、画家の岩田専太郎などが住んでいました。
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敷地跡の一部には、現在グランディール田端という建物がありました。
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跡地の残り部分はすでに北区が買い取っており、整備する予定となっています。
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芥川龍之介記念館の予定地となっています。書斎の復元などを行うようです。
芥川龍之介(明治25年~昭和2年)は、大正3年から昭和2年までの約13年間、ここに住み、「羅生門」「鼻」「歯車」等の小説や俳句を執筆しました。
芥川龍之介は居宅を和歌に詠んでいます。
わが庭は 枯山吹きの 青枝の
むら立つなべに 時雨ふるなり -
大正8年(1919年)頃、芥川龍之介が中心となって「道閑会」という田端在住の作家と芸術家達のとの親睦会が始まりました。
芥川の書斎は「我鬼窟」と呼ばれ、面会日と決めていた毎週日曜日になると多くの文人や芸術家が彼のもとに集まって来たといわれています。
昭和2年(1927年)7月24日、芥川龍之介が自殺、享年35歳でした。
その後、文士達は徐々にこの街を離れ、田端文士村は終焉を迎えました。 -
田端駅前通りに架かる人道橋、童橋(わらべばし)が見えました。生前の芥川龍之介は、この橋を見ることも渡ることもできませんでした。
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童橋。昭和8年、田端駅北口より南側へ続く切り通しの道が完成した際に、切り通しで分断された田端の東西をつなぐ橋として架けられました。
「童橋」という名称は、滝野川第一小学校へ通う児童の通学路として利用されていることから。早速渡りましょう。 -
童橋の床版と手摺りは更新され、橋の途中には子供達が遊んでいる絵があります。
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とんぼ取り。
田舎に住んでいた私は、いなご取りをしていました。もちろん、食用でした。 -
北側の東台橋。
田端駅前通りは、田端高台を突き抜ける「切り通し」となっています。
左右の石垣もすごいです。 -
童橋を渡ると、金網に囲われた公園がありました。金網に沿って歩いても入り口はありません。
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ぐるっと半周して童橋公園の入り口に到着。
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すべり台とか、普通の児童公園みたいです。
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公園入り口の横には大小の石が置かれた場所があります。
詩人で小説家の室生犀星の旧居にかつて置かれていた庭石です。
後方のビルは、平成5年に竣工した田端ASUKAタワー、地上19階建のテナントビル。 -
室生犀星は、田端の街で5回も転居しましたが、大正10年3月に滝野川第一小学校の近くの借家に移りました。隣には芥川龍之介の恩師である広瀬雄氏が住んでいました。
庭づくりを趣味とする彼は、借家にも関わらず石を置き、竹を植え、叡山苔や池、葡萄棚など精力的に手入れをしていました。
芥川龍之介の死後、田端を離れる際に庭を広瀬氏に託しました。広瀬氏の死後、大小の庭石と叡山苔は、北区に寄贈されました。 -
路地に迷いながら田端5丁目に来ました。
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寿徳山 萬栄寺。浄土真宗・真宗大谷派のお寺です。
昭和6年、西巣鴨に設立しました。新潟県西蒲原郡中之口村から上京した人達を対象にした説教所が始まりで真宗大谷派萬栄教会と称しました。
東京空襲で焼失、昭和23年に北区中里において萬栄寺と公称、昭和62年、田端高台通り沿いの現在地に本堂を建立しました。 -
萬栄寺に隣接したこの場所には、詩人・評論家の福士幸次郎宅があり、落第、転校、勘当を繰り返す問題児だったサトウハチロー(詩人・作家)は、大正9年から11年にかけて居候していました
ハチローの父・佐藤紅緑の門下だった福士の家に転がり込むようでは、相当な甘えん坊だったようです。
防災倉庫が置かれていますが、それにしても狭い敷地なので、萬栄寺建立に際して土地の一部を譲渡したのかも知れません。 -
東台橋(とうだいはし)です。
田端高台通りが通っています。
初代の鉄骨アーチ橋は車が通れないほど華奢だったことから、再建されましたが、一方通行の狭い道です。 -
東台橋から見た新幹線。その下は、新田端大橋。
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東台橋を戻り、田端文士村記念館を訪問します。
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田端文士村記念館は、平成5年(1993年)11月に開業しました。
田端で活躍した文士・芸術家の作品、原稿、書簡等の資料を展示するとともに、講演会などのイベントを開催し、その業績や暮らしぶりなどをご紹介しています。 -
この案内を見たときは、来週の方が良かったな、という感じで流してしまいました。この案内は、展示入れ替えという意味でした。
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営業期間10:00~17:00、入館は16:30まで。
月曜日休館(祝日の場合は火曜日と水曜日)、祝日の翌日(土日の場合は翌週火曜日)、年末年始(12月29日~1月3日)、その他、展示替え等で臨時休館することがあります。 -
なんということでしょう、訪問した日は休館日でした。
いずれにしても館内は撮影禁止ということなので、どうせ一晩寝たら忘れてしまうさ、と思ったら諦められました。 -
田端駅。
JR東日本では、山手線を「品川~池袋~田端」間と定義しているので、田端駅は山手線の終点なんです。
現在の田端駅に東北本線の電車は停車しません(そもそも線路が駅から離れている)が、田端~東京間は東北本線、東京~品川間は東海道本線と定義されています。 -
田端駅(北口)前には案内図がありました。
ただし、地図の上が南で、下が北という変態表示です。 -
田端ふれあい橋は、新田端大橋に並行している歩行者専用の跨線橋です。
長さ135m、幅員13.8m。
初代の田端大橋(江戸坂跨線橋)の竣工は不詳ながら大正の初期には架けられていたようです。
昭和10年(1935年)に二代目の田端大橋が架けられました。当時の造船技術を使った全溶接橋として東洋初で最大級の橋でした。
昭和62年(1987年)に三代目の新田端大橋が開通し、旧田端大橋は撤去される予定でしたが、地元の強い要望に応えて、田端ふれあい橋として残されました。
頭上を新幹線の高架が横切っています。 -
田端ふれあい橋の親柱。
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川崎普照(かわさき ひろてる) 氏の「華」。
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昼間見ると、金色鍍金のはげが目立ちます。
昔から「夜目遠目笠の内」とは巧いこと言ったものですね。 -
設置から31年、お色直しはいかがでしょうか。
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東北新幹線200系の連結器カバーが展示されています。
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東北新幹線200系の車輪も展示されています。
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希望の鐘という時計塔です。
以前は風見鶏が乗っていたそうです。 -
ふれあい橋の東詰めはT字路になって都道458号に接続しています。
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ふれあい橋の東詰めにもブロンズ像がありました。
赤堀 信平(あかほり しんぺい)氏の「静思」、平成4年設置。 -
旧田端大橋と新田端大橋をつなぐ通路も数ヶ所ありました。
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新田端大橋(長さ160m、幅員18m)には歩道もあるので、こちらを歩きます。
橋の東詰めから、正面に田端ASUKAタワーを見ました。
2日間で計7時間位、坂と鉄道と文学の街を楽しみました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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