2024/02/04 - 2024/02/04
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FUKUJIROさん
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この旅行記スケジュールを元に
寒い日曜日でしたが、午後から仕事があるので、どうせならと午前中から都内に出かけました。
世田谷文学館で「江口寿史展ノット・コンプリーテッド」が開催されていたので、それを観覧することにしました。いつでも行けると思っているうちに最終日になってしまい、混雑を覚悟しつつ出発します。
世田谷文学館の最寄駅は京王線の芦花公園駅ですが、所在地は世田谷区南烏山です。
「烏山」という地名の由来は諸説ありますが、大雑把に言えば、烏がたくさんいた森だったからみたいです。
歴史を見ると、室町時代の後期に足利氏の一族である世田谷城主・吉良氏が治めていました。その勢力範囲は現在の世田谷から横浜市北部に及んでいたと言いますから、相当な権力があったのでしょう。
延徳3年(1491年)、6代領主の吉良成高は、4代吉良右京大夫頼高の菩提寺として栴澤寺(せんたくじ=泉沢寺)を建てました。砦を兼ねていましたが、七堂伽藍を整えた格式高い寺院でした。寺領は広く、烏山村から独立して泉沢寺村となったほどです。
天文18年(1549年)2月に失火により全焼、再建されることなく、吉良氏の命により泉沢寺は現在の川崎市中原区に移されました。
その跡地には、泉沢寺の鎮守であった白山社の祠と薬師堂だけが残されました。
戦国時代は高橋氏が治め、江戸幕府は天領としていました。
明治維新後は、神奈川県北多摩郡の村々となっていましたが、明治22年(1889年)4月1日の町村制の施行に伴って烏山村が誕生、明治26年に神奈川県から東京府に移管、昭和7年(1932年)に東京市世田谷区に編入されました。
前振りが長くなり失礼しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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京王線の芦花公園(ろかこうえん)駅、南口を出て南方向へ歩いています。
この千歳通りを歩いて5分ほどで世田谷文学館のはずです。 -
ずんずん歩いて世田谷区立泉橋公園です。
奥の大きな建物は烏山南住宅1号棟です。 -
この地図を見て、通り過ぎてしまったことに気づいて慌てて引き返しました。
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世田谷文学館は「世田谷固有の文学風土を保存・継承し、まちづくりの活性化に寄与することをめざす文学館」として、平成7年(1995年)4月に東京23区では初の地域総合文学館として開館しました。
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720坪の敷地に地上3階、地下1階の建物です。1階が常設展示、2階が企画展示で使われています。
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入り口に、STOPの文字とシルエットのひばりくん。
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1階でチケットを買います。FUKUJIROは高齢者なので25%offの600円でした。
チケットを買って 2階に上がり、江口寿史展ノット・コンプリーテッドの展示を観覧します。 -
この日が最終日ということでもあり、かなり混雑しています。
江口寿史先生は、FUKUJIROよりも1歳上の67歳です。 -
ノット・コンプリーテッドには、まだまだ終わらないという思いが込められています。
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「週刊少年ジャンプ」で連載していた『ストップ!! ひばりくん!』。
ヤクザ大空組の長男・大空ひばりは見た目はかわいい女子ですが、男の娘です。 -
1981年から1983年まで連載され、アニメ化もされていました。
長~い休みを経て、27年後に物語は完結しました。 -
ひばりくん。
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展示室の様子。漫画やイラストが所狭しと展示されていました。
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ひばりくん。
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『すすめ!!パイレーツ』は野球マンガではありません。ギャグマンガです。
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展示室の様子。
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1986年、コミックショップ・ハンバーガー。
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イラスト展示。
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和服のイラストは珍しい。
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1983年、日焼け注意報。
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とても細かく指示しています。
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グッズもいろいろあります。
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小さなフィギュア。
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1985年、ラブ&ピース。
これだけ顔を描くのは大変です。 -
2005年、寿丼。
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江口寿史先生の執筆部屋が再現されていました。
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江口寿史先生の執筆部屋が再現されていました。机の下には茶碗のような物があります。
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この机で食事をしていました。と言うのはウソ。
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江口寿史先生の執筆部屋が再現されていました。画板に角度をつけています。
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画板に角度をつけるため、ジャンプを2冊挟んでいます。拡大して見てください。
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この写真では、和机ではないです。
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江口寿史先生は稀代の遅筆家です。
連載休止なんか気にしない先生は、神保町にあったホテル錦友館にしばしばカンヅメにされていました。
手塚治虫先生もよくカンヅメになっていたホテルでした。 -
イラストには細かい指示があります。
スカートの柄も指示しています。 -
1978年、すすめ!!パイレーツ。
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1979年、すすめ!!パイレーツ。
展示が多いので、短時間では観覧できませんでした。 -
1階の出入口の脇にはショップが開かれていました。皆さん買い物に熱心です。
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最終日には、江口寿史先生のサイン会がありました。
参加条件はショップで合計5,000円以上の買い物をした人で先着150人まで。5,000円も買わないだろうと思って価格を見たら...、普段使いに良さそうな小皿に6,480円のシールが貼られていたのには驚きました。 -
びっくりしたので、退館して池の鯉を見ることにしました。
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こちらの鯉は、寒くても元気に泳いでいました。
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隣には立派な門があります。
現在は、芦花翠風邸という高級老人ホームですが、元はウテナ創設者久保政吉氏の旧邸宅でした。 -
烏山南住宅1号棟とカレッジコート芦花公園-Ⅱの間の小道を西へ歩きます。
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歩く人もいなくて、ちょっと寂しい感じです。
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烏山神社に着きました。
古くは、この付近は「烏山之森」と呼ばれ、吉良氏が砦を兼ねた栴澤寺(せんたくじ=泉沢寺)を建てました。
烏山神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代には烏山村の鎮守社だった白山神社が鎮座していました。 -
鳥居の前に置かれている扁額です。
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昭和7年、烏山村が世田谷区に編入されるときに白山神社から白山御嶽神社へ改称し、昭和37年に烏山町内にあった天神社、神明社、杉田稲荷社を合祀しました。また志村稲荷社を遷座して境内社としました。
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手水。柄杓がありました。
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境内には大きな椎の木があります。
かつては12本だったようですが、現存するのは4本です。 -
100年前に植樹された椎ですが、立派に成長しました。
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すごい根張りです。
根張り=粘りと聞きますので、パワーをいただきたいところですが、止めておきます。理由は最後に記してあります。 -
子を持つ狛犬(阿形)。
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鞠を持つ狛犬(吽形)。
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神輿奉安庫。
三つの町内神輿をまとめて保管しています。 -
中町の神輿。
シャッターの隙間から、ガラス越しに撮影したので、きれいに撮れませんでした。
例大祭では、上町、中町、下町の三町会の神輿が旧甲州街道を渡御します。 -
神楽殿。昭和39年増改築。
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拝殿。大正7年に改築されました。
御祭神は、白山比咩大神・御嶽大神・天照皇大神・倉稲魂命・菅原道真公の五柱です。
東を向いています。 -
扁額には、白山宮と御嶽宮が並んでいます。
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御本殿。
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御本殿(真後ろ)。
白山御嶽神社と刻まれた昔の社号柱が建てられています。 -
御本殿の左奥に招魂社があります。昭和40年建立。
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忠魂碑(左)と彰忠紀念之碑(右)。
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境内社の志村稲荷社。
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志村一族により祀られていたようです。
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烏山神社記念碑。昭和57年2月建立。
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烏山神社記念碑の裏面です。
これを見ると、志村稲荷社は正式には千田山稲荷社みたいです。 -
正面鳥居の横に小さな祠が鎮座しています。
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右、庚申塔。
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春日神社高橋番神堂撤去記念碑。
戦国時代に烏山一帯を治めていた高橋一族の鎮守社として三十番神を祀っていましたが、昭和60年に元宮にお返ししました。 -
記念碑の後ろには小さな社がありました。
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左、庚申塔。
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北側の鳥居。
旧甲州街道から参道を来ると、この鳥居に着きます。 -
烏山神社から北へ50mほど進むと念仏堂(薬師堂)があります。
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念仏堂は、杉並区上高井戸にある真言宗智山派の明星山遍照院医王寺の境外仏堂です。
泉沢寺の創建以前からこの地には薬師堂があったと伝わります。
吉良成高は薬師堂を泉沢寺の念仏道場としていたと伝わり、念仏堂と呼ばれるようになりました。 -
現在の薬師堂は昭和3年に再建されました。
御本尊は、江戸時代初期に造られた木造薬師瑠璃光如来立像と、江戸後期の木造彩色の阿弥陀如来立像です。
明治6年(1873年)、烏山小学校の前身となる温知学舎が、薬師堂に置かれました。 -
境内には、元禄2年(1689に)に下山九兵衛らが建立した庚申塔があります。
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地蔵尊。
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江戸時代の中期から後期に造られた丈3尺5寸の釈迦涅槃石像があります。
隣に置かれている地蔵菩薩石像は、必ず涅槃石像と同席安置せよと伝わっています。 -
釈迦涅槃石像は、入滅のお姿を写しています。参拝者に光と希望を与えてくださると言われています。
また、都内唯一の涅槃仏と説明されているのですが、品川区の安養院には金色八尺の寝釈迦佛(涅槃像)があります。寛永元年(1624年)に安置されていますので、こちらよりも古いようです。
近年ですが、東洋大学の創始者である井上円了先生が建てた中野区の哲学堂(四聖堂)や平成3年には北区の福性寺にも涅槃佛が祀られています。 -
古くは烏山神社の参道であった細い道を北上します。
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京王線の芦花公園1号踏切を渡ります。
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京王線の電車が通過しました。
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大きな欅が3本ありました。
後方のお宅は下山さん。下山一族は江戸時代後期の地頭名主で、この一帯の大地主です。 -
旧甲州街道が見えてきました。
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旧甲州街道の道路脇に、地蔵尊や庚申塔が建てられています。この土地も下山権三氏の所有です。
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下山地蔵尊の由来が刻まれていますが、木の枝が邪魔をしています。
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右側の唐破風笠付庚申塔は、元禄13年(1700年)建立。高さは161㎝。
正面に青面金剛像と邪鬼、猿が彫られ、「奉供養庚申 烏山村」の銘があります。
左側の下山地蔵尊像は正徳2年(1712年)に建立され、烏山講中の銘が彫られています。
江戸時代から身代わり地蔵尊・出世地蔵尊と呼ばれました。 -
いずれも庚申塔です。右側の笠付庚申塔は宝永元年(1704年)に建てられ、青面金剛像と三猿像が彫られています。
左の小さな角柱型の庚申塔は享保18年(1733年)10月に建立、青面金剛像、邪鬼、三猿が彫られ、下山一族の名前もあります。 -
そして一番左には、金属製かと思うほど磨き上げられた黒御影石の柱が建てられています。
「武州烏山村大橋場の跡」と刻まれ、昭和62年4月吉日の日付があります。
高さは、約240cm、直径36cmで、円柱の上部は擬宝珠の形をしています。
かつて烏山川が流れ、石橋が架けられていた場所です。現在は暗渠となっていますが、やがて目黒川に合流しています。 -
一見すると橋の欄干を模した造りからも橋の記念に建てられたように思いますが、実は、「武州烏山村大橋場の跡」碑は橋を記念するための石碑ではありません。
この石碑を建てた<武州烏山村「大橋場の跡」石柱碑建立協賛会>の趣意書に拠れば、『大正十二年九月一日の関東大震災によりこの石橋が損壊したところ、災害地の跡片付け人夫を輸送するトラックが脱輪停車したため、彼の悲哀な事件が発生し善良な烏山村民には天から降ってわいたような不運の渦中にまき込まれたことなど悪夢として記憶に生々しい次第です。このような歴史秘める大橋場を後世に伝承し保存致したく存じます』とあります。
ここで記されている「悲哀な事件」とは、烏山事件と呼ばれている朝鮮人虐殺を指しています。
行政にとっては都合の悪い出来事であるため、世田谷区の「正史」には載っていません。400年前、500年前のことが記されているにも関わらず、100年前の歴史は消されているのです。 -
私なりの解釈で烏山事件の概要を記します。
関東大震災発生後、混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火した」などの偽情報が流布されました。
烏山でも9月2日の夜、数百人の朝鮮人が押し寄せてくるとの偽情報が流され、自警団が警戒している最中でした。朝鮮人十数人が乗ったトラックが脱輪して止まったため、烏山の住民達が一斉に車を取り囲み、集団暴行で多数の死傷者が発生したという事件です。
その後の裁判で、暴行の首謀者は専修大学の教員F氏で懲役2年執行猶予2年、加担した消防団員12人は全員執行猶予という極めて軽い判決が出たそうです(ネットの情報を整理)。明治43年(1910年)に朝鮮併合が行われており、当時の社会情勢が表れています。
事件が落ち着いた頃、烏山神社の境内に椎の木12本が記念樹として植えられたと伝わっていますが、被害者を悼んでのことか、刑を受けた加害者を労うためだったのか、判然としません。
100年前の真実が、もう既にわからなくなってしまいました。 -
旧甲州街道の西方向です。
布田五宿(ふだごしゅく、調布市)、府中宿、日野宿、八王子宿と続き、日本三奇橋の一つである甲斐の猿橋(国の名勝、山梨県大月市)を渡り、甲府柳町宿に至ります。
よろしければ、猿橋の旅行記もご覧ください。https://4travel.jp/travelogue/11449699 -
旧甲州街道の東方向です。
お江戸日本橋を出発して、内藤新宿、高井戸宿と来て、烏山は間の宿としてたいそう繁盛していました。 -
旧甲州街道を東へ歩き、駅を目指します。
何とも言えないけれど、妙に懐かしい雰囲気です。
丸美ストアーとは、スーパーの名前のようですが、商店街の名称です。かなり古色蒼然としたアーケード街ですが、今も営業しているお店があるそうです。
時間があれば、覗いて見たかったです。 -
こちらも古そうな建物です。
オーダーメイド家具のクニナカさん、古い家具の修理や、木製の食器や玩具も販売しています。 -
杉並区との境界近くに芦花公園駅があります。こちらの北口は工事中、駅前には広場などもなく、狭苦しい印象でした。
駅は、大正2年(1913年)4月15日に開業、烏山事件の時にはすでに京王電気軌道が開通していました。
開業当時の駅名は上高井戸駅、昭和12年(1937年)9月1日に芦花公園駅に改称しました。
現在の駅名は、徳富蘆花の住居跡に造られた蘆花恒春園の最寄り駅だから、なるほど「芦」の文字は「蘆」の簡易慣用字体なんですね。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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