2009/08/24 - 2009/08/25
2067位(同エリア2154件中)
さっくんさん
今回は大昔の旅から熊本と岡山を巡った旅の熊本編です。
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今回は本州を通り過ぎて九州の熊本に向かいます。流石に九州までは深夜バス乗り継ぎではきついと思い、思い切って新幹線に乗車しました。
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博多で特急に乗り換えました。今では熊本まで新幹線が走っていますが、09年は普通の特急だったのですね。でもそっちの方が風情があると思います。
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熊本城が見えてきました。ワクワクします。築城の天才、加藤清正公が築いた城で、居城とした城です。
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熊本城と言えば何と言っても加藤清正です。賤ケ岳の七本槍の一人で武勇の男。忠義の人で秀頼の生末を誰よりも心配していた。力は強いが情には脆い。なるで漫画の主人公の様に頼れるキャラクターに感じます。しかし、彼はたった一回の人生の選択肢を間違えてしまった事により、残念な武将になってしまった感も持ち合わせています。
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その選択肢は、朝鮮出兵が発端となります。豊臣秀吉による朝鮮出兵。これは秀吉老後の大失策のひとつに良く挙げられます。が、私にトンデモ推論を言わせてください。朝鮮出兵は徳川家康の策略だったのでは無いかと思うのです。策略と言うより、年老いて判断力の鈍った秀吉を刺激して、朝鮮とドンパチしたくなる。若しくはドンパチせねばならぬ様な状況を作ったのではないでしょうか?
例えば朝鮮が秀吉を馬鹿にする様な偽書状を作るとか…。
勿論何の証拠もありません。只の推論です。 -
なんでまたそんな推論を始めたのか?大体テロの真犯人は、世間で言われている組織よりも、実はそのテロが起こり、一番得をした組織が黒幕だったりするものです。
さて朝鮮出兵が起こり、一番得をした人物は誰でしょう?間違いなく徳川家康です。秀吉は勝とうが負けようが得るものはありません。朝鮮に出兵する豊臣の武将達も多額な軍資金や人材を失うだけで得るものがありません。
これに対し、徳川は朝鮮に出兵していません。家康がこの時から打倒豊臣を考えていたのは間違い無いでしょう。だとしたら豊臣の朝鮮出兵は豊臣方の多くの武将の軍事力を大幅に削減する事に繋がります。つまり秀吉をたぶらかし、秀吉の武将を朝鮮に出兵させる事により、これから戦うべく豊臣勢力の軍事力を大幅に削ぐ事に成功したのです。
徳川幕府は、それ以降も各大名に築城を手伝わせたり、参勤交代を課したり、意図的に大名の経済を削ぎました。 -
更に出兵は軍事力を削ぐだけではありませんでした。現代でも組織は現場方と管理方で仲が悪いのが常の事です。それが切磋琢磨出来ている場合は組織は順調に発展しますが、余りに関係が悪化してしまえば組織は二分してしまいます。
豊臣方は加藤清正や北政所等、秀吉が未だ豊臣姓を名乗る以前から秀吉に仕えていた尾張組と秀吉が豊臣を名乗る様になってから秀吉に仕えた石田三成や淀殿等近江出身組に二分されていました。 -
未だ秀吉が信長に仕えていた頃は、軍団の強化を進めねばならない事から加藤清正を筆頭に武力の優れた武官が秀吉の下に集まりました。これが尾張のメンバーです。しかし、信長亡き後、秀吉が日本統一を目指す立場になると、軍団を率いる為に優秀な文官が必要となります。こうした需要に応じて集められたのが石田三成を筆頭とした近江組です。
こうして文官と武官、尾張と近江と言う二つのジャンルで隔てられたグループの亀裂は徐々に大きなものになっていきます。 -
こうした分裂は現在の会社内でも暫し起こりますし、世界中で分裂を産んでいます。私が旅のテーマとしているイスラームの世界でも、当初はムハンマドを迫害していたマッカのグループ、そしてムハンマドとイスラームを築いていったメディナのグループと言う二つのグループで反発が生じました。こうした分裂がやがて形を変えて、スンニ派とシーア派に分裂を起こす事となります。
詳しくはサウジアラビア、メディナの旅行記
https://4travel.jp/travelogue/11878255 -
話を豊臣に戻しましょう。こうした文官と武官、尾張組と近江組の分裂を顕著なものにしたのが間違いなく朝鮮出兵だったのです。朝鮮出兵に於いて現場で戦う加藤清正や福島正則は国内で文官を務める石田三成と致命的な仲違いをしてしまいます。
これは司馬遼太郎氏の小説内のエピソードなので何処迄信憑性があるかは解りませんが、朝鮮から戻った加藤清正や福島正則は石田三成を成敗しようと彼の家を襲撃し、石田三成は寄りにもよって徳川家康邸に救援を迎える始末だったと言います。 -
エピソードの信憑性は兎も角、加藤清正や福島正則と石田三成の人間関係が修復不可能な程度にまで悪化した事は間違いない事実の様です。
この結果に一番ほくそ笑んだのは勿論徳川家康に他なりません。これから打倒しようとしている豊臣方を朝鮮出兵で物理的に軍事力を削いだ上、豊臣勢力を尾張組と近江組に分断し、更には戦争に有利な尾張組の加藤清正や福島正則を自分の味方に取り込む事に成功したのです。 -
勿論秀吉の朝鮮出兵は、今までの説の通り秀吉自身が行った事であり、家康はその戦後処理に巧みに動き回っただけかもしれません。でも、もし、最初から家康が企んだ事だと想像したら…ちょっとゾッとしますよね。
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結果福島正則は小山評定で活躍し、清正は関が原の合戦当時は九州にいたので合戦には参戦してはいないものの、黒田官兵衛と共に関が原合戦後の西軍の掃討に参加しています。
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しかし、その後の家康の行動は、豊臣の忠臣であり、秀吉の子秀頼の行く末を心底心配していた清正が望んでいたものとは正反対だった事でしょう。彼は秀頼の行く末を見る事無く大阪の陣を前にして亡くなっています。
それは彼にとって不幸中の幸いだった様な気持ちも沸きますが、彼の死が家康と対面した直後だった事から、徳川方の暗殺だったと言う説もあります。(一般的には梅毒による死亡。) -
その後加藤家は徳川家光の時代に取り潰しになりました。清正と共に東軍に加わった福島家も同じ様な運命を辿っています。徳川は結局彼等を使うだけ使って取り潰しています。
元々豊臣方の忠臣であり、その姿勢は東軍に加わって以降も変わらなかったので警戒された事も大きいでしょう。そして石田三成への憎しみ。こうした感情だけで東軍に加わる様な輩は、また何か大きな感情の変化(即ち豊臣家の滅亡)があれば、また裏切る可能性が高いと捉えられたのかもしれません。 -
正直、加藤清正が東軍に加わろうが、加わるまいが歴史は変わらなかったかもしれません。しかし石田三成憎さに目が眩み、まんまと家康の術中に陥ってしまった感は拭えません。其処が私の清正が残念だと思うポイントの一つです。もし彼が冷静に対処し、豊臣の文官と武官の対立を抑える事が出来たなら、家康の計画を遅らせる事が出来たかもしれません。
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しかし他方こうも思うのです。清正は敢て家康に近づいたのではないか?西軍に着いたとしても負けてしまえば生き延びたとしても武将としての立場は大幅に弱まってしまいます。敢て家康に近づき、東軍の武将として生き延びて、自分の目の黒い内は秀頼様に指一本触れさせまいと考えていたのかもしれません。
写真は宇土櫓 -
関ヶ原の戦い、そしてその後、戦国を生き抜いた武将達にとっては、一挙手一投足でお家の運命が変わる、非常に生き辛い時代だったと思います。
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そして、最早、武将達の戦いは、武力の戦いでは無く、自分の寿命との戦いであったと思います。そしてそれを一番理解していたのが徳川家康です。前田利家を始め、豊臣古参の武将が相次いで亡くなる中、家康は健康に細心の注意を図りました。
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一方清正の晩年は、かなり自暴自棄になっていたと文献に残っています。
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大阪夏の陣が起きたのは1615年。家康は念願を果たすと、最早思い残す事も無しとばかりに翌年往生を遂げました。モチベーションが寿命を延ばしたとも言えるかもしれません。
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清正が亡くなったのは大阪夏の陣の4年前。もし彼が自暴自棄にならず、節制を保てていたら、また違った歴史になっていたかもしれません。そこが第二の残念なところです。
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とは言え、只の武辺者に過ぎず知力と忠義さえ兼ね備えた生き様は心打つものがあり、尊敬出来る武将である事は揺らぎません。とくと彼の築いた城を散策致しましょう。
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熊本城は加藤清正が築城し、加藤家取り潰し後も江戸時代を生き延びましたが、西南戦争で天守閣を含む多くの部分を焼失しました。
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しかし逆に言えば、西南戦争迄存在した事により、信憑性が高い図面が残されており、外観復元天守閣となっています。
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更に天守閣ではありませんが、小規模の城郭の天守を凌ぐ規模の大きさを誇る宇土櫓が現存しており、その遺構が天守閣復元の際に大きな目安となりました。
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こうした規模的な面から見ても、現存する姫路城と共に、当寺の日本の城郭の姿を現在に伝える貴重な歴史遺産と言えるでしょう。
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更には、木造による御殿も復元され、更に歴史的価値と共に見所が充実しました。では熊本城の新しい見所、本丸御殿を見学しましょう。
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あれ?私がこんなお上品で、高級そうな食べ物食べてたのかな?と思って目を丸くして見てみたら、なぁ~んだ、展示品ではあ~りませんか!やっぱりね(笑)
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やはり木造は良いですね。城だから猶更です。現存12城の天守閣は、城の見張り台ですし、襖とかは無く、ごっつい木組みの骨組みで、それは質実剛健で私の好きな世界観ではありますが、対して御殿は殿様の常駐する場所且つ謁見の間も兼ねていた事もあり、絢爛な襖で彩られています。
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現在、天守閣等の再建に関して、以前より厳しくなり、史実との整合性が問われる様になりました。一方消防法は改訂され、木造による復元が可能になりました。こうした流れから、全国の城郭では、これ迄の様にむやみに天守閣を再建するのでは無く、木造にて城主が通常過ごした御殿を復元する城が増えています。
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熊本城自体もそうですが、御殿も徳川御三家の城と比べても勝るとも劣らない立派なものです。清正はどうしてこれだけ豪華な御殿を築いたのでしょう?それは、秀頼に危急が迫った時、この御殿に迎える為だと言われています。
清正が関ヶ原の合戦で東軍についたのは、秀頼を守る為、敢て東軍に属した覚悟あっての事だったのかもしれません。 -
そしてその道は茨の道でした。ジリジリと秀頼に迫る家康の間の手、清正の最期は自棄的な行いもあった様です。無理もありません。あと数年長生き出来ていたらと思う一方、福島正則の最期を思えば、秀頼の最期を見ずに逝けた事は幸せだったのかもしれません。
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2016年に起こった熊本地震は忘れてはいけない災害です。やっぱり一度訪れた街に起きた不幸は、とても胸が痛みます。大きな災害を受け、お城どころじゃない状況だったと思いますが、そんな中、熊本城の復興も急ピッチで進められている様です。災害の多い我が国ですが、災害時に於ける人々の我慢強さと、被災者同士の助け合い、こうした点では世界何処を見渡しても、比べられる国は無いと思います。
応援しなければいけない立場なのに、被災者の姿に此方が励まされている気持ちにさえなりました。 -
熊本城は加藤清正のイメージが強いですが、西南戦争の舞台になった事も忘れられません。西郷隆盛は最期に至って、自分は官軍に負けたのでは無く、熊本城を攻略できなかったのだと述べています。負け惜しみともとれますが、本心でもあると思います。それだけ清正の作った熊本城は難攻不落の城だったのです。
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西南戦争は武士の最期の戦いとも呼ばれますが、私的には大坂の陣に似ていると感じています。大坂の陣も、そこに馳せ参じた武将達も、豊臣に忠誠を誓うと言うよりは、新しく迫る時代の流れに乗り遅れ、その流れに抗わんとする者達の最期の抵抗だった様な気がします。
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西郷隆盛は、時代に乗り遅れ、鬱憤を貯めに貯めた武士達の拠り所となったばかりに、そんな彼等に推される形で戦いを率いる事となりました。当初は反対していたとも聞きますが、彼自身想うところは十分あった筈なので、責任を取らねばと言う思いもあったでしょうし、覚悟を決めての事だったのでしょう。
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ただ、大坂の陣も、西南戦争も、勝敗が逆ではならなかったと思います。大坂の陣の徳川家康も、西南戦争時の明治政府も、国造りのビジョンを明確に持っていました。対して大坂の陣の大坂方も、西南戦争時の西郷隆盛も、戦いでこそ互角に戦いましたが、勝利した後の明確なビジョンは持ち合わせてはいなかったと思います。もし彼等が勝っていたら、もっとカオスな歴史に陥っていた事と思います。
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ただ、西南戦争然り、白虎隊然り、大坂の陣然り、敗者に向ける日本人の優しい視線を私は誇りにも思います。その最たるものが平家物語だと私は思います。西洋的視点、いや全世界を見渡しても、歴史は勝者の視点で語り継がれるのが普通です。敵は完膚無くして倒すのが正義の世界観。
そんな正義と悪の単純な二元論で済ますのでは無く、敗者には敗者の思想があり、生き方がある。そうした部分にもスポットライトをあてる。優しい目線を送る。そんな日本人の思考が好きです。 -
私はアニメを代表として、日本の作品が海外で評価が高いのはその点にあると思います。日本の作品は敵を単なる倒す為の存在として描くのでは無く、時に主人公を食ってしまう程魅力的に描きます。それ故主人公側と敵方の双方の物語が絡み合う事で、物語の重厚さが増すのです。単なるやっつけたら終わりでは無いのです。こうした作品のベースメントには、先に述べた敗者の美学を描いてきた日本の古典があるのではないでしょうか?
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私はそんな日本の作品の中で一番好きなものは、アニメではありませんが、ウルトラセブンです。子供向けに作られた作品ですが、大人でも十分考えさせられる作品です。セブンが地球を侵略する宇宙人から守ると言う構図の作品群ですが、中には本当は悪かったのは地球人では無かったのか?と問いかける様な物語が多いのが特徴です。
こうした作風は私に「違った視点で見る」重要性を教えてくれました。私が今、イスラームをテーマに出来ている事も、そのルーツにウルトラセブンがあるのかもしれません。 -
加藤清正は築城の天才でもありました。此処熊本城と名古屋城、日本三大名城のうち二つの城の製作にも関わっています。残る一つは姫路城と大坂城になりますが、秀吉の築いた大坂城の製作にはかかわった可能性は非常に高いと思います。となると三大名城全てに関与していたことになります。
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加藤清正の城造りにて、石垣造りは特に有名です。こんな石垣、見た事ありません。
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石垣を登って攻城しようとする敵方を絶望させる様な傾斜が、今となっては芸術にさえ感じます。
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例え熊本城が石垣のみだったとしても、十分見所満載だった気がします。
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飯田丸五階櫓を眺めます。本当見所が多い城です。
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飯田丸五階櫓を掘りを含めて角度を変えて。
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なんでお堀に映った櫓を全部入れないんだ私!馬鹿者!嗚呼…。
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嗚呼木々の皆様ちょっとだけ隙間を開けて!
城好きの先輩に聞いたら、城巡りするなら冬に行けと。をの心を聞いたら、雑草が生えて縄張りが解り辛くなるからとの事です。天守閣がある様な整備された城なら問題無いのですが、城好きの通が通う様な城跡は整備が行き届いていない城跡も多く、雑草が生い茂る夏場よりも、草が枯れる冬場の方が明確に縄張りが解るのだそうです。頭が下がります。 -
宇土櫓をもう一度。
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戍亥櫓越しに天守閣を臨みました。
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頬当御門を潜って退城します。また登城しようと思います。日本を代表する素晴らしい城でした。
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熊本城三の丸に武家屋敷、細川刑部邸が残されています。
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御殿の他に武家屋敷さえ残されているのが素晴らしいです。ふと城と考えてしまうと天守閣ばかり注目してしまいがちですが、其処に暮らす殿様は常時は御殿で政務を執り行っていた訳ですし、場内で働いていた侍さんの住居だってあった筈です。こうした屋敷が残されている事で、より深く当時の風景を想像しやすくなります。有難い事です。
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熊本屈指の大名庭園、水前寺成趣園を訪れました。
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熊本藩主細川氏により造営された回遊式庭園です。
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富士山を模しているとされる築山。更に東海道の景勝地もモデルとされているそうです。探してみるのも面白いかもしれません。
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御立派な鯉が池を悠々と泳いでいました。絵になります。
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水前寺清子さんは熊本御出身で、この公園の名前を肖っているのですね。嗚呼でも若い人は解らないかな?
走ると2秒で100キロの速度に到達します。
それはチーター。 -
熊本の名城と名園を堪能しました。この旅後編は岡山の名城と名園を訪問します。
最期迄ご覧になって下さり、ありがとうございます。
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