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未訪問県訪問が目的で始まった旅ですが、その終着点が、彦根に近かった事から、私の日本の旅で、最大のやり残しと感じていた、石田三成公の城、訪問と関が原散策。折角なので旅をエクステンドして、楽しむ事にしました。<br /><br />佐和山城は彦根城にほとんどの建材を持っていかれてしまった為、残されているものは殆どありません。関が原も古戦場なので、残されているのは石碑くらいなのですが、自分の想い入れが強い旅先だったので、見た目だけの綺麗さの旅先より、ずっと熱量たっぷり、思い入れたっぷり旅する事が出来ました。

未訪問県訪問の旅の筈が…佐和山城そして関ケ原編

38いいね!

2025/04/30 - 2025/04/30

168位(同エリア1204件中)

旅行記グループ 日本の旅

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さっくん

さっくんさん

未訪問県訪問が目的で始まった旅ですが、その終着点が、彦根に近かった事から、私の日本の旅で、最大のやり残しと感じていた、石田三成公の城、訪問と関が原散策。折角なので旅をエクステンドして、楽しむ事にしました。

佐和山城は彦根城にほとんどの建材を持っていかれてしまった為、残されているものは殆どありません。関が原も古戦場なので、残されているのは石碑くらいなのですが、自分の想い入れが強い旅先だったので、見た目だけの綺麗さの旅先より、ずっと熱量たっぷり、思い入れたっぷり旅する事が出来ました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
旅行の手配内容
個別手配
  • 朝食を頂き、いざ佐和山城へ向かいます。戦国時代で一番好きな武将石田三成の城と言う事でワクワクが止まりませんが、一方佐和山城は彦根城へと生まれ変わってしまった、もうほとんど跡形も無い城なのです。つまりコアな城ファンの眼力が必要となってきます。私でも楽しめるのでしょうか?

    朝食を頂き、いざ佐和山城へ向かいます。戦国時代で一番好きな武将石田三成の城と言う事でワクワクが止まりませんが、一方佐和山城は彦根城へと生まれ変わってしまった、もうほとんど跡形も無い城なのです。つまりコアな城ファンの眼力が必要となってきます。私でも楽しめるのでしょうか?

  • ホテルを出ると早速佐和山が見えてきました。一度見たら忘れない形の山です。

    ホテルを出ると早速佐和山が見えてきました。一度見たら忘れない形の山です。

  • 佐和山城に到着しました。ド逆光で佐和山にまるで後光が指している様です。

    佐和山城に到着しました。ド逆光で佐和山にまるで後光が指している様です。

  • お城のモニュメントがありました。

    お城のモニュメントがありました。

  • 逆光で見え辛いですが、先の写真の佐和山城の看板の裏辺りに石田三成の屋敷跡の碑が残っています。普段は此処で生活を送っていたのでしょうか?

    逆光で見え辛いですが、先の写真の佐和山城の看板の裏辺りに石田三成の屋敷跡の碑が残っています。普段は此処で生活を送っていたのでしょうか?

  • 石田三成公邸跡から彦根城を眺めました。

    石田三成公邸跡から彦根城を眺めました。

  • 井伊家の菩提寺、清凉寺。

    井伊家の菩提寺、清凉寺。

  • 石田三成公の銅像がありました。長浜や大垣でも三成公の銅像に出逢えました。地元では愛されている様でホッとします。関ヶ原の戦いが終わり佐和山城が落城し、東軍が佐和山城に隠されていたものを探索しましたが、金品は殆ど出てこなかったそうです。私利私欲が無い彼なので、豊臣から手にした報酬は全て必要な経費に充てていたのでしょう。愛される筈です。今の政治家も彼の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。

    石田三成公の銅像がありました。長浜や大垣でも三成公の銅像に出逢えました。地元では愛されている様でホッとします。関ヶ原の戦いが終わり佐和山城が落城し、東軍が佐和山城に隠されていたものを探索しましたが、金品は殆ど出てこなかったそうです。私利私欲が無い彼なので、豊臣から手にした報酬は全て必要な経費に充てていたのでしょう。愛される筈です。今の政治家も彼の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。

  • 佐和山城は龍潭寺の境内から登城します。佐和山城は先程通り過ぎた清凉寺と龍潭寺が管理している様です。

    佐和山城は龍潭寺の境内から登城します。佐和山城は先程通り過ぎた清凉寺と龍潭寺が管理している様です。

  • 山門を潜ります。

    山門を潜ります。

  • 大洞観音堂を右に曲がります。猿が出るとの注意書きがありました。鳥取城では熊注意に怯みましたが、佐和山では猿が出ようと熊が出ようと登ります。怯みません!

    大洞観音堂を右に曲がります。猿が出るとの注意書きがありました。鳥取城では熊注意に怯みましたが、佐和山では猿が出ようと熊が出ようと登ります。怯みません!

  • 墓地を抜けて進みます。

    墓地を抜けて進みます。

  • 私は前回旅した時、佐和山城を訪れませんでした。言い訳ですが、私の城郭に対する興味の中心は近世城郭に有ります。なので中世から戦国初期の天守閣も石垣も無い頃の城郭を探索した経験に乏しいし、それを見極める眼力もありません。なので全てを彦根城に奪われ、建築も石垣も無くなったこの城を訪れても、それを見極められるか自信が無かったからです。しかし、それ以上に三成公への想いが勝って、今回佐和山城登城を決断しました。その様な経緯なので、城としての佐和山城に深く言及は出来ません。

    私は前回旅した時、佐和山城を訪れませんでした。言い訳ですが、私の城郭に対する興味の中心は近世城郭に有ります。なので中世から戦国初期の天守閣も石垣も無い頃の城郭を探索した経験に乏しいし、それを見極める眼力もありません。なので全てを彦根城に奪われ、建築も石垣も無くなったこの城を訪れても、それを見極められるか自信が無かったからです。しかし、それ以上に三成公への想いが勝って、今回佐和山城登城を決断しました。その様な経緯なので、城としての佐和山城に深く言及は出来ません。

  • そんな事を考えていると、此処です!慌てて引き返してじっくり観察します。これが佐和山城の切通の痕跡です。縄張り図が頭に入っていたからこそ気付く事が出来た様なもので、何も無しだったら全く気付く事は無かったでしょう。もし遺構に気付けたとしても、それが何を意味していたか解るかは疑問です。う~ん難しい!

    そんな事を考えていると、此処です!慌てて引き返してじっくり観察します。これが佐和山城の切通の痕跡です。縄張り図が頭に入っていたからこそ気付く事が出来た様なもので、何も無しだったら全く気付く事は無かったでしょう。もし遺構に気付けたとしても、それが何を意味していたか解るかは疑問です。う~ん難しい!

  • 気を取り直して…。師匠曰く佐和山の城には三成公が入城する以前の浅井氏、そして磯野氏等の遺構も残り、詳しく見たら一日あっても足りないとの事ですが、私にはサッパリです。私にとって大切な事は、城のうんちくを究める事より、此処を嘗て三成公が拠点とし、彼が歩いた道を今、歩いている事を堪能する事です。

    気を取り直して…。師匠曰く佐和山の城には三成公が入城する以前の浅井氏、そして磯野氏等の遺構も残り、詳しく見たら一日あっても足りないとの事ですが、私にはサッパリです。私にとって大切な事は、城のうんちくを究める事より、此処を嘗て三成公が拠点とし、彼が歩いた道を今、歩いている事を堪能する事です。

  • 塩硝櫓跡です。西の丸に位地し、三段に分かれ、それぞれ塩蔵や火薬類が納められていたと思われます。此方には簡単な説明版があったからこそ解りました。

    塩硝櫓跡です。西の丸に位地し、三段に分かれ、それぞれ塩蔵や火薬類が納められていたと思われます。此方には簡単な説明版があったからこそ解りました。

  • 西の丸を通り過ぎ、更に山道を登って行きます。核心に近づいています。胸が高鳴って来ます。

    西の丸を通り過ぎ、更に山道を登って行きます。核心に近づいています。胸が高鳴って来ます。

  • 先に視界が開け、青空が広がっています。あと少し、あと数歩、踏み出せば山頂、即ち本丸。そして石田三成公が見た風景が広がる筈です。

    先に視界が開け、青空が広がっています。あと少し、あと数歩、踏み出せば山頂、即ち本丸。そして石田三成公が見た風景が広がる筈です。

  • 遂に見えました!佐和山城本丸、そして佐和山の山頂に到達しました!目前に彦根の街が拡がっています。その向こうにはまるで海の様に広がる琵琶湖が。最早水平線が見えるのみで対岸は見渡せません。正に海の様です。これが三成公の見ていた景色です!(実際には戦国時代には干拓が行われていないので、琵琶湖はもっと目前まで広がっていた筈です。江戸時代の文献に井伊家が彦根城から船に乗り菩提寺迄出かけたと言う記述が残っているので、佐和山付近まで琵琶湖が拡がっていたと思われます。)

    遂に見えました!佐和山城本丸、そして佐和山の山頂に到達しました!目前に彦根の街が拡がっています。その向こうにはまるで海の様に広がる琵琶湖が。最早水平線が見えるのみで対岸は見渡せません。正に海の様です。これが三成公の見ていた景色です!(実際には戦国時代には干拓が行われていないので、琵琶湖はもっと目前まで広がっていた筈です。江戸時代の文献に井伊家が彦根城から船に乗り菩提寺迄出かけたと言う記述が残っているので、佐和山付近まで琵琶湖が拡がっていたと思われます。)

  • 佐和山城址の碑が建てられています。三成公、やっと辿り着きました。お待たせしました。感無量過ぎて、城散策の事なんて頭から離れてしまいそうです。自分が受けた俸禄の半分は島左近に与えてしまう程私利私欲が無かった彼、俸禄の全ては佐和山の為に使い切ってしまっていたのでしょう。関ヶ原の合戦後、東軍が佐和山城をあらさがししたのですが、全く金品は出てこなかったと言います。<br /><br /> 全国的には嫌われ者として名が通っている彼ですが、そんな彼であったから、佐和山、彦根、長浜、大垣等彼の活躍した地域では三成の人気は絶大です。

    佐和山城址の碑が建てられています。三成公、やっと辿り着きました。お待たせしました。感無量過ぎて、城散策の事なんて頭から離れてしまいそうです。自分が受けた俸禄の半分は島左近に与えてしまう程私利私欲が無かった彼、俸禄の全ては佐和山の為に使い切ってしまっていたのでしょう。関ヶ原の合戦後、東軍が佐和山城をあらさがししたのですが、全く金品は出てこなかったと言います。

     全国的には嫌われ者として名が通っている彼ですが、そんな彼であったから、佐和山、彦根、長浜、大垣等彼の活躍した地域では三成の人気は絶大です。

  • 此処から見下ろす彦根の風景は、彦根八景に選ばれている様です。此処に言い伝えに依れば5層の壮麗な天守閣が建てられたと言います。(3層の説もあり)しかしその内装は質実剛健なもので、訪問する人が驚く程だったと言われます。それは石田三成の性格が良く出ていると思います。そんな私利私欲を感じさせない点も私が彼を尊敬する所以です。

    此処から見下ろす彦根の風景は、彦根八景に選ばれている様です。此処に言い伝えに依れば5層の壮麗な天守閣が建てられたと言います。(3層の説もあり)しかしその内装は質実剛健なもので、訪問する人が驚く程だったと言われます。それは石田三成の性格が良く出ていると思います。そんな私利私欲を感じさせない点も私が彼を尊敬する所以です。

  • 万感の想いを籠めて琵琶湖方面を眺めました。当時は中央の緑の部分以外はほぼほぼ琵琶湖が占めていたと思われます。そしてその緑の部分に此処から殆どの建材が取り払われ、そしえ彦根城が建てられたのです。

    万感の想いを籠めて琵琶湖方面を眺めました。当時は中央の緑の部分以外はほぼほぼ琵琶湖が占めていたと思われます。そしてその緑の部分に此処から殆どの建材が取り払われ、そしえ彦根城が建てられたのです。

  • カメラを大きくズームしました。小振りながら壮麗な彦根城天守閣が見えました。

    カメラを大きくズームしました。小振りながら壮麗な彦根城天守閣が見えました。

  • 彦根駅方面を見下ろしました。でも下山しても直接は向かいません。未だ見残した事があるからです。

    彦根駅方面を見下ろしました。でも下山しても直接は向かいません。未だ見残した事があるからです。

  • 靴紐を直そうとして、ベンチの下にもこんな小技を利かせている事に気付きました。大一大万大吉。万民が一人の為に、一人が万民の為に…One for all,All for oneが唱えられた三銃士より先立つ事200年前、石田三成が先立ってこの思想を抱いていたのです。

    靴紐を直そうとして、ベンチの下にもこんな小技を利かせている事に気付きました。大一大万大吉。万民が一人の為に、一人が万民の為に…One for all,All for oneが唱えられた三銃士より先立つ事200年前、石田三成が先立ってこの思想を抱いていたのです。

  • この先にも、見るべきものがある様です。発見する事は出来るでしょうか?

    この先にも、見るべきものがある様です。発見する事は出来るでしょうか?

  • お!巨石を発見しました!これが解説書に書いてあった、佐和山城の石垣の痕跡でしょうか?答は偽物です!北海道・旭岳に金庫岩と言う登山ルートの目印になる岩があるのですが、その近辺に偽金庫岩と言う非常にややこしい岩があります。それを混同して遭難事故が起き、少なからず死者も出ています。この偽石垣のせいで死者が出るとは思いませんが、初心者の城好きには厄介すぎる石です。

    お!巨石を発見しました!これが解説書に書いてあった、佐和山城の石垣の痕跡でしょうか?答は偽物です!北海道・旭岳に金庫岩と言う登山ルートの目印になる岩があるのですが、その近辺に偽金庫岩と言う非常にややこしい岩があります。それを混同して遭難事故が起き、少なからず死者も出ています。この偽石垣のせいで死者が出るとは思いませんが、初心者の城好きには厄介すぎる石です。

  • 更に足を進めると、今度こそ本物の石垣の痕跡を発見しました。位置的に本丸を構成していた石垣の最下部だったのではないでしょうか?

    更に足を進めると、今度こそ本物の石垣の痕跡を発見しました。位置的に本丸を構成していた石垣の最下部だったのではないでしょうか?

  • 千貫井戸にやってきました。目前の琵琶湖は並々と水を湛えますが、佐和山には生憎水場が少なかったそうです。やっと此処で水が湧く地を発見。此処の水は千貫に値すると言う事で千貫井と名付けられました。

    千貫井戸にやってきました。目前の琵琶湖は並々と水を湛えますが、佐和山には生憎水場が少なかったそうです。やっと此処で水が湧く地を発見。此処の水は千貫に値すると言う事で千貫井と名付けられました。

  • 現在では窪みがその痕跡として残るのみです。解説版が無ければ到底私では見つけられませんでしたし、窪みを遺構と読み解けたとしても、その意味は解らなかった事でしょう。

    現在では窪みがその痕跡として残るのみです。解説版が無ければ到底私では見つけられませんでしたし、窪みを遺構と読み解けたとしても、その意味は解らなかった事でしょう。

  • それに此処に辿り着けたなら、私は其処に広がる彦根の絶景に目を奪われて、遺構の事を忘れてしまっていた事でしょう。

    それに此処に辿り着けたなら、私は其処に広がる彦根の絶景に目を奪われて、遺構の事を忘れてしまっていた事でしょう。

  • 本丸からは一段下がりますが、此処からの彦根の眺めも素晴らしいです。

    本丸からは一段下がりますが、此処からの彦根の眺めも素晴らしいです。

  • 下城は龍潭寺側では無く、国道八号線側へ下りました。先に私は戦国期の城郭より近世城郭が好きだと書きましたが、歴史や人物に対してもそれが当てはまります。戦国時代の武勇はそれは格好良いものですが、平たく見てしまえば只の内戦です。現在に例えれば、秩序が失われ、内戦状態に陥ってしまっている国の様なものです。各地の戦国武将達が各々の勢力を奪い合い自分のものにしようと好き勝手な戦いを繰り広げている下剋上の時代です。その細かいエピソードの中には心に刺さるものもありますが、その武勇を格好良いとは思えど、心に残るものは少ないです。

    下城は龍潭寺側では無く、国道八号線側へ下りました。先に私は戦国期の城郭より近世城郭が好きだと書きましたが、歴史や人物に対してもそれが当てはまります。戦国時代の武勇はそれは格好良いものですが、平たく見てしまえば只の内戦です。現在に例えれば、秩序が失われ、内戦状態に陥ってしまっている国の様なものです。各地の戦国武将達が各々の勢力を奪い合い自分のものにしようと好き勝手な戦いを繰り広げている下剋上の時代です。その細かいエピソードの中には心に刺さるものもありますが、その武勇を格好良いとは思えど、心に残るものは少ないです。

  • 一方、桃山時代、そして江戸幕府開幕初期。即ち世に近世城郭が現れ出した頃合いから、国は漸く纏まりを見せ始め、豊臣政権から江戸幕府へと繋がっていきます。これまで裏切りや下剋上が当たり前の世界から、秩序だった平和な社会を築こうと世が動き出した時代です。そんな時代に、既存の豊臣政権内で秩序や正義と言う概念を持ち込もうとしたのが石田三成なら、全てを一度ぶち壊し、新たに秩序立った平和な社会を築こうとしたのが徳川家康だったのだと思います。両武将とも自らの大義を伴って戦ったのです。その大義がぶつかり合った戦いだったからこそ、意義があり、其処に胸を打つものがあったからこそ、私はこの時代が好きなのです。<br /><br /> 更に徳川と豊臣の戦いは大坂の陣に続きますが、其処に豊臣方についた浪人達は、石田三成の様な忠義心等微塵も持ち合わせておらず、ただ下剋上の世界に生き、徳川の目指す秩序立った世界に生き辛さを感じた不平分子が寄り集まったに過ぎない様に感じます。現代で言えばコンプライアンスが大切になった現在に於いても、権力があったが故に昔ながらの下品な行為を繰り返し、大顰蹙を買う芸能人やテレビ局の様なもの、即ち時代に乗り遅れた人々の反乱に過ぎず、私の心にはあまり刺さらないのです。<br /><br /> やはり、わたしにとっては石田三成と言う存在は、戦国と言う汚らしい戦いの時代の掃き溜めに降り立った鶴なのです。そしてそんな彼が暮らした佐和山城、そして最期の戦いとなった関が原は私にとって特別な場所で、そしてその両方を訪れる今日は、私にとって特別な一日です。

    一方、桃山時代、そして江戸幕府開幕初期。即ち世に近世城郭が現れ出した頃合いから、国は漸く纏まりを見せ始め、豊臣政権から江戸幕府へと繋がっていきます。これまで裏切りや下剋上が当たり前の世界から、秩序だった平和な社会を築こうと世が動き出した時代です。そんな時代に、既存の豊臣政権内で秩序や正義と言う概念を持ち込もうとしたのが石田三成なら、全てを一度ぶち壊し、新たに秩序立った平和な社会を築こうとしたのが徳川家康だったのだと思います。両武将とも自らの大義を伴って戦ったのです。その大義がぶつかり合った戦いだったからこそ、意義があり、其処に胸を打つものがあったからこそ、私はこの時代が好きなのです。

     更に徳川と豊臣の戦いは大坂の陣に続きますが、其処に豊臣方についた浪人達は、石田三成の様な忠義心等微塵も持ち合わせておらず、ただ下剋上の世界に生き、徳川の目指す秩序立った世界に生き辛さを感じた不平分子が寄り集まったに過ぎない様に感じます。現代で言えばコンプライアンスが大切になった現在に於いても、権力があったが故に昔ながらの下品な行為を繰り返し、大顰蹙を買う芸能人やテレビ局の様なもの、即ち時代に乗り遅れた人々の反乱に過ぎず、私の心にはあまり刺さらないのです。

     やはり、わたしにとっては石田三成と言う存在は、戦国と言う汚らしい戦いの時代の掃き溜めに降り立った鶴なのです。そしてそんな彼が暮らした佐和山城、そして最期の戦いとなった関が原は私にとって特別な場所で、そしてその両方を訪れる今日は、私にとって特別な一日です。

  • 私は家康が政治を執り行い、その下で三成が官僚を務める。そんな最強タッグが国を動かす。そんな時間軸が見てみた方と思います。色々な文献を見て、石田三成の最期を聞いた時の家康の言葉を知って更に思いますが、敵将ながら家康は三成を買っていたに違いありません。いや、新しい秩序立った社会を築くのに三成程適任な人材は他にいなかった事でしょう。私利私欲無く、ルールに自他共に厳しく、義に篤く、そして嫌われる仕事も怯む事無く最期迄やり遂げる。現在に於いても、彼の様な政治家が一人でもいたとしたら、日本はもっと理想的な国になっている事でしょう。

    私は家康が政治を執り行い、その下で三成が官僚を務める。そんな最強タッグが国を動かす。そんな時間軸が見てみた方と思います。色々な文献を見て、石田三成の最期を聞いた時の家康の言葉を知って更に思いますが、敵将ながら家康は三成を買っていたに違いありません。いや、新しい秩序立った社会を築くのに三成程適任な人材は他にいなかった事でしょう。私利私欲無く、ルールに自他共に厳しく、義に篤く、そして嫌われる仕事も怯む事無く最期迄やり遂げる。現在に於いても、彼の様な政治家が一人でもいたとしたら、日本はもっと理想的な国になっている事でしょう。

  • そろそろ自動車の走る音が近くなってきました。国道8号線、即ち出口が近づいてきたと言う事です。佐和山城、三成に過ぎたるものと呼ばれた城で、ひとしきり彼を想いに耽りました。私も彼の生き様を学び、かくありたいと思いました。もっと城の事を学び、次回はもっと見極める目を持って佐和山城に登城したく思います。

    そろそろ自動車の走る音が近くなってきました。国道8号線、即ち出口が近づいてきたと言う事です。佐和山城、三成に過ぎたるものと呼ばれた城で、ひとしきり彼を想いに耽りました。私も彼の生き様を学び、かくありたいと思いました。もっと城の事を学び、次回はもっと見極める目を持って佐和山城に登城したく思います。

  • 帰りは国道8号線に面した側から下山しました。龍潭寺側は寺の拝観時間の制約があるので、早朝から登城したい人は此方から登城すると良いかもしれません。入り口が解り辛いですが、佐和山遊園と言うオープンに至らず廃墟となってしまった石田三成のテーマパーク(残念!)の対面に登城口があります。

    帰りは国道8号線に面した側から下山しました。龍潭寺側は寺の拝観時間の制約があるので、早朝から登城したい人は此方から登城すると良いかもしれません。入り口が解り辛いですが、佐和山遊園と言うオープンに至らず廃墟となってしまった石田三成のテーマパーク(残念!)の対面に登城口があります。

  • あれが当時のメイン・コンテンツ、佐和山城の復元モデルでしょうか?最早落城してしまっています(涙)

    あれが当時のメイン・コンテンツ、佐和山城の復元モデルでしょうか?最早落城してしまっています(涙)

  • 佐和山をグルリと半周してきました。其処に小川が流れています。この小川は昔、佐和山城の内堀だったと言います。堀なので嘗てはもっと幅があった様です。

    佐和山をグルリと半周してきました。其処に小川が流れています。この小川は昔、佐和山城の内堀だったと言います。堀なので嘗てはもっと幅があった様です。

  • そして此方が本来の大手門(現在大手門側からは登城出来ません。)想像してください。真っすぐ伸びた道の両側には侍屋敷。そして中央に聳える佐和山の頂上に聳える天守閣。嗚呼想像しただけで涙が零れる。

    そして此方が本来の大手門(現在大手門側からは登城出来ません。)想像してください。真っすぐ伸びた道の両側には侍屋敷。そして中央に聳える佐和山の頂上に聳える天守閣。嗚呼想像しただけで涙が零れる。

  • そしてそこからまた少し先まで歩いたところには外堀の跡もありました。現在でも小さな水路が流れています。現在でも集落が拡がっています。当時も城下町が拡がっていた筈です。もしかすると、此処に暮らす人々は当時の佐和山の城下町に暮らした人々の御子孫達なのかもしれません。

    そしてそこからまた少し先まで歩いたところには外堀の跡もありました。現在でも小さな水路が流れています。現在でも集落が拡がっています。当時も城下町が拡がっていた筈です。もしかすると、此処に暮らす人々は当時の佐和山の城下町に暮らした人々の御子孫達なのかもしれません。

  • そう思うとこの集落が、愛おしく感じてしまいます。さて、これで三成公に過ぎたるものと言われた佐和山城の散策を終え、石田三成公最後の戦い、関ヶ原の舞台へ向かいましょう。

    そう思うとこの集落が、愛おしく感じてしまいます。さて、これで三成公に過ぎたるものと言われた佐和山城の散策を終え、石田三成公最後の戦い、関ヶ原の舞台へ向かいましょう。

  • 彦根駅に戻って来ました。米原へ向かう近江鉄道迄ちょっとだけ時間があります。彦根に思い残しが無いようにしましょう。

    彦根駅に戻って来ました。米原へ向かう近江鉄道迄ちょっとだけ時間があります。彦根に思い残しが無いようにしましょう。

  • 大一大万大吉、石田三成公の旗印に囲われて佐和山城が見渡せます。彦根駅センス良いなぁ。

    大一大万大吉、石田三成公の旗印に囲われて佐和山城が見渡せます。彦根駅センス良いなぁ。

  • 彦根と言えばひこにゃんで、彦根城は現存12城の一つであり国宝です。でも尚しっかり石田三成公と佐和山城が忘れずに扱われている事。やっぱり地元では愛されているのだなと嬉しく思いました。彦根、ありがとう!

    彦根と言えばひこにゃんで、彦根城は現存12城の一つであり国宝です。でも尚しっかり石田三成公と佐和山城が忘れずに扱われている事。やっぱり地元では愛されているのだなと嬉しく思いました。彦根、ありがとう!

  • 西口方面を見渡します。突き当りに見える緑が彦根城です。

    西口方面を見渡します。突き当りに見える緑が彦根城です。

  • ズームすれば彦根城の天守閣が見えました。佐和山城が生まれ変わった姿です。

    ズームすれば彦根城の天守閣が見えました。佐和山城が生まれ変わった姿です。

  • 最期に井伊直政公にお別れを。あっといけない!近江鉄道が発車直前です!慌てて階段を駆け上がります。

    最期に井伊直政公にお別れを。あっといけない!近江鉄道が発車直前です!慌てて階段を駆け上がります。

  • 車窓から佐和山城にお別れを。

    車窓から佐和山城にお別れを。

  •  さて、関ヶ原の合戦は関ヶ原で行うと予定されたものではありません。寧ろ偶発的に場所が選ばれた過ぎません。家康が上杉討伐に出発した隙を狙い石田三成が挙兵し、両軍が激突する迄にも様々なドラマが発生しました。<br /><br /> 西軍が先ず行わなければなら無い事は、家康不在となった関西域の平定です。先ず東軍諸将が大坂に残していた妻を人質に取り、夫である彼等の行動を抑制させる事。しかしこの過程で細川忠興の妻、細川ガラシャが自決を遂げる(ガラシャはクリスチャンなので正確には自決では無い。)事件が発生、結果東軍諸将を逆に結束させる結果となりました。<br /><br /> 更に調略も行います。数々の調略活動が行われたに違いありませんが、その中でも大きな手柄になったのは、大谷刑部が北陸地方で行った虚偽情報の流布です。これにより東軍に参加すべく大軍を引き連れ南下していた前田利長は疑心暗鬼に陥り金沢に引き返してしまいました。流石豊臣政権の調整役、大谷刑部。戦わずして東軍の兵力を大きく削ぎました。<br /><br /> 軍事的には関西域に於いて東軍に与する武将、城の打倒、平定です。真っ先に狙われたのは家康不在となった伏見城です。押し寄せた西軍の数4万、一方留守を預かる鳥居元忠1800。到底勝てる相手では無い戦いを元忠は2週間持ち堪え全員討ち死にしました。<br /><br /> しかし元忠の奮戦は西軍の予定をぶち壊しました。当初は楽々関西域の平定を終え、想定では尾張を抜け、遠江近辺で東軍と対峙する予定でしたが、既に東軍は尾張を抜け、岐阜を目指していたのです。<br /><br /> 更に東進していた立花宗茂は大津城を守っていた京極高次の必死の防戦により関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。<br />    <br /> 一方、東軍も先鋒を務める手筈で大軍を率いていた徳川秀忠が上田にて真田軍の足止めを喰らい関ヶ原に遅参しました。<br /><br /> 此処に挙げたのはほんの一例にすぎません。こうして、東西両軍が共に本戦に参加するだろう敵将の排除に必死になる中、東軍は岐阜城を守る織田信長の孫、織田秀信(幼名三法師)を降伏させ、石田三成が籠る大垣城の目前に迫りました。

     さて、関ヶ原の合戦は関ヶ原で行うと予定されたものではありません。寧ろ偶発的に場所が選ばれた過ぎません。家康が上杉討伐に出発した隙を狙い石田三成が挙兵し、両軍が激突する迄にも様々なドラマが発生しました。

     西軍が先ず行わなければなら無い事は、家康不在となった関西域の平定です。先ず東軍諸将が大坂に残していた妻を人質に取り、夫である彼等の行動を抑制させる事。しかしこの過程で細川忠興の妻、細川ガラシャが自決を遂げる(ガラシャはクリスチャンなので正確には自決では無い。)事件が発生、結果東軍諸将を逆に結束させる結果となりました。

     更に調略も行います。数々の調略活動が行われたに違いありませんが、その中でも大きな手柄になったのは、大谷刑部が北陸地方で行った虚偽情報の流布です。これにより東軍に参加すべく大軍を引き連れ南下していた前田利長は疑心暗鬼に陥り金沢に引き返してしまいました。流石豊臣政権の調整役、大谷刑部。戦わずして東軍の兵力を大きく削ぎました。

     軍事的には関西域に於いて東軍に与する武将、城の打倒、平定です。真っ先に狙われたのは家康不在となった伏見城です。押し寄せた西軍の数4万、一方留守を預かる鳥居元忠1800。到底勝てる相手では無い戦いを元忠は2週間持ち堪え全員討ち死にしました。

     しかし元忠の奮戦は西軍の予定をぶち壊しました。当初は楽々関西域の平定を終え、想定では尾張を抜け、遠江近辺で東軍と対峙する予定でしたが、既に東軍は尾張を抜け、岐阜を目指していたのです。

     更に東進していた立花宗茂は大津城を守っていた京極高次の必死の防戦により関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。

     一方、東軍も先鋒を務める手筈で大軍を率いていた徳川秀忠が上田にて真田軍の足止めを喰らい関ヶ原に遅参しました。

     此処に挙げたのはほんの一例にすぎません。こうして、東西両軍が共に本戦に参加するだろう敵将の排除に必死になる中、東軍は岐阜城を守る織田信長の孫、織田秀信(幼名三法師)を降伏させ、石田三成が籠る大垣城の目前に迫りました。

  •  大垣城に石田三成。其処から西方、関ヶ原からは東方の南宮山に毛利勢が陣を張りました。一方、関ヶ原を見下ろせる好立地には先客がいたにも関わらず、小早川隊がそれを追い出し陣取ります。その挙動を不審に感じた大谷刑部が、小早川がもしもの時に備えられる位置に陣を張りました。狼煙場がある北天満山に小西行長、南天満山に主力部隊である宇喜多秀家が着陣します。<br /><br /> 一方、徳川家康率いる東軍は三成が籠る大垣城をスルーして関ヶ原、桃配山に向かいます。三成としては、想定外だったのかもしれません。何故なら家康の向かった関ヶ原の東には毛利勢が陣取る南宮山があり、家康は敵に背後を見せる形になるからです。(では何故家康は大垣城をスルーしたのでしょう?その家康の想いは後に推測してみたいと思います。)<br /><br /><br /> 不審に思いつつも、三成には二つの想いが去来した事でしょう。<br /><br />「もしこのまま東軍に関ヶ原をスルーされると、東軍の京都、そして大坂への進軍を許してしまう事になる。それだけは絶対させない!」<br /><br />もう一つは<br /><br />「今、関ヶ原に向かえば、東の南宮山の毛利、南の松尾山の小早川、そして我が軍で西を抑えれば、家康を関ヶ原に閉じ込め、正に袋の鼠に出来る!」<br /><br /> 三成は家康が攻城戦より野戦が得意である事など百も承知だった事でしょう。しかし、誰もが、この布陣図を見たなら、必勝を想ってしまうい違いありません。<br /><br /> 画して大雨が降るにも関わらず、三成は大垣城を出て、家康とは別ルートを通り、松尾山の小早川、大谷刑部と顔合わせをした後、笹尾山に陣を張りました。こうして役者は揃いました。<br /><br /> 決戦当日、昨夜の大雨により、関ヶ原は濃霧に包まれていました。そしてその霧が晴れる頃、井伊隊の抜け駆けの発砲から世紀の合戦は始まる事になるのです。<br /><br />いざ、関ヶ原へ出陣!<br /><br />大垣城・岐阜城<br />https://4travel.jp/travelogue/11875218

     大垣城に石田三成。其処から西方、関ヶ原からは東方の南宮山に毛利勢が陣を張りました。一方、関ヶ原を見下ろせる好立地には先客がいたにも関わらず、小早川隊がそれを追い出し陣取ります。その挙動を不審に感じた大谷刑部が、小早川がもしもの時に備えられる位置に陣を張りました。狼煙場がある北天満山に小西行長、南天満山に主力部隊である宇喜多秀家が着陣します。

     一方、徳川家康率いる東軍は三成が籠る大垣城をスルーして関ヶ原、桃配山に向かいます。三成としては、想定外だったのかもしれません。何故なら家康の向かった関ヶ原の東には毛利勢が陣取る南宮山があり、家康は敵に背後を見せる形になるからです。(では何故家康は大垣城をスルーしたのでしょう?その家康の想いは後に推測してみたいと思います。)


     不審に思いつつも、三成には二つの想いが去来した事でしょう。

    「もしこのまま東軍に関ヶ原をスルーされると、東軍の京都、そして大坂への進軍を許してしまう事になる。それだけは絶対させない!」

    もう一つは

    「今、関ヶ原に向かえば、東の南宮山の毛利、南の松尾山の小早川、そして我が軍で西を抑えれば、家康を関ヶ原に閉じ込め、正に袋の鼠に出来る!」

     三成は家康が攻城戦より野戦が得意である事など百も承知だった事でしょう。しかし、誰もが、この布陣図を見たなら、必勝を想ってしまうい違いありません。

     画して大雨が降るにも関わらず、三成は大垣城を出て、家康とは別ルートを通り、松尾山の小早川、大谷刑部と顔合わせをした後、笹尾山に陣を張りました。こうして役者は揃いました。

     決戦当日、昨夜の大雨により、関ヶ原は濃霧に包まれていました。そしてその霧が晴れる頃、井伊隊の抜け駆けの発砲から世紀の合戦は始まる事になるのです。

    いざ、関ヶ原へ出陣!

    大垣城・岐阜城
    https://4travel.jp/travelogue/11875218

  • 駅前から古戦場記念館に向かう道沿いに、関ケ原の合戦を彩った武将達のボードが掲示され、気分を高めてくれます。先ずは何と言っても東軍の大将、徳川家康です。類稀なる政治力、そして将来への確かなヴィジョン、勝利すべくして勝利したと思います。狸親父として策謀ばかり有名になっていますが、その陰で彼もまた、義を貴んだ武将だったと思います。

    駅前から古戦場記念館に向かう道沿いに、関ケ原の合戦を彩った武将達のボードが掲示され、気分を高めてくれます。先ずは何と言っても東軍の大将、徳川家康です。類稀なる政治力、そして将来への確かなヴィジョン、勝利すべくして勝利したと思います。狸親父として策謀ばかり有名になっていますが、その陰で彼もまた、義を貴んだ武将だったと思います。

  • そして我が石田三成公です。関ヶ原の合戦の発起人で在り、不甲斐無い総大将毛利輝元の代わりに実質的総大将を務めました。日和見ばかりの残念な西軍を良く纏め上げ家康に対抗しましたが、敢え無く敗退する事になりました。義に篤く、私利私欲が無い、官僚タイプで決して政治家タイプではない。官僚と言う人に嫌われやすい仕事も熱心に熟した故、後世嫌われ者だたと誤解される事も多いですが、彼と親交があった武将の名前を連ねれば、そんな事は全く虚言である事が解ります。

    そして我が石田三成公です。関ヶ原の合戦の発起人で在り、不甲斐無い総大将毛利輝元の代わりに実質的総大将を務めました。日和見ばかりの残念な西軍を良く纏め上げ家康に対抗しましたが、敢え無く敗退する事になりました。義に篤く、私利私欲が無い、官僚タイプで決して政治家タイプではない。官僚と言う人に嫌われやすい仕事も熱心に熟した故、後世嫌われ者だたと誤解される事も多いですが、彼と親交があった武将の名前を連ねれば、そんな事は全く虚言である事が解ります。

  • そして三成公と来れば必ず隣に彼をおかねばならないでしょう。大谷刑部吉継です。文武両道兼ね備えた武将だったものの、ハンセン病と言うハンデを負いながら豊臣秀吉に仕えた武将。三成同様義に篤く、三成挙兵に無謀を説くが、三成が折れないと知ると、友の為に死を決意する。知略もあった彼は小早川秀秋の謀反を察知、それに対応した場に陣を張るが、連鎖反応的に広がった裏切りの前に関が原に散る。

    そして三成公と来れば必ず隣に彼をおかねばならないでしょう。大谷刑部吉継です。文武両道兼ね備えた武将だったものの、ハンセン病と言うハンデを負いながら豊臣秀吉に仕えた武将。三成同様義に篤く、三成挙兵に無謀を説くが、三成が折れないと知ると、友の為に死を決意する。知略もあった彼は小早川秀秋の謀反を察知、それに対応した場に陣を張るが、連鎖反応的に広がった裏切りの前に関が原に散る。

  • 黒田長政、豊臣秀吉に仕えた策士、黒田官兵衛の息子。官兵衛が清正と共に九州で暴れる傍ら、長政は関が原に参戦する。父同様策略に優れ、東軍が西軍に押され始めると鉄砲隊を移動させ石田隊の横腹を突く等戦術を見せると共に、小早川秀秋や吉川広家の東軍への裏切り等の調略にも手柄を立てました。(小早川秀秋の調略は藤堂高虎が調略したと言う説もあるし、両人とも声を掛けていた可能性もあります。)

    黒田長政、豊臣秀吉に仕えた策士、黒田官兵衛の息子。官兵衛が清正と共に九州で暴れる傍ら、長政は関が原に参戦する。父同様策略に優れ、東軍が西軍に押され始めると鉄砲隊を移動させ石田隊の横腹を突く等戦術を見せると共に、小早川秀秋や吉川広家の東軍への裏切り等の調略にも手柄を立てました。(小早川秀秋の調略は藤堂高虎が調略したと言う説もあるし、両人とも声を掛けていた可能性もあります。)

  • 福島正則。朝鮮出兵時の石田三成の判断に怒り、三成憎さが勝って徳川家康へ靡いてしまう武断派の筆頭。関ヶ原の合戦前哨戦では常に先鋒を務め、関が原も先陣を任されるものの井伊隊に抜け駆けされてしまうお茶目さん。しかし豊臣氏への忠誠は人一倍強く、その後の家康の豊臣攻めに、後悔の晩年を送るも、広島城の改築に難癖をつけられ改易の憂き目を負う。<br />

    福島正則。朝鮮出兵時の石田三成の判断に怒り、三成憎さが勝って徳川家康へ靡いてしまう武断派の筆頭。関ヶ原の合戦前哨戦では常に先鋒を務め、関が原も先陣を任されるものの井伊隊に抜け駆けされてしまうお茶目さん。しかし豊臣氏への忠誠は人一倍強く、その後の家康の豊臣攻めに、後悔の晩年を送るも、広島城の改築に難癖をつけられ改易の憂き目を負う。

  • 小早川秀秋。違った意味で、ある意味関ヶ原の合戦の主人公とも言える。豊臣秀吉の甥と言うばっかりに、実力に見合わない兵力を持ってしまったのが彼にとって不幸の始まりだったと思います。両軍から声がかかり、彼は身動きが取れなくなります。そしていざ開戦。彼がうつけだったとしても、自分の兵力が、戦況を一変する力があるくらいは解っていたと思います。秀吉にも家康にも恩義がある彼、未だ僅か19歳の彼には判断が付きません。しかし亡くなった叔父より生きている恩人の怒りの方がよっぽど怖い。痺れを切らした家康が大きく本陣を動かした時、彼は腹を括りました。

    小早川秀秋。違った意味で、ある意味関ヶ原の合戦の主人公とも言える。豊臣秀吉の甥と言うばっかりに、実力に見合わない兵力を持ってしまったのが彼にとって不幸の始まりだったと思います。両軍から声がかかり、彼は身動きが取れなくなります。そしていざ開戦。彼がうつけだったとしても、自分の兵力が、戦況を一変する力があるくらいは解っていたと思います。秀吉にも家康にも恩義がある彼、未だ僅か19歳の彼には判断が付きません。しかし亡くなった叔父より生きている恩人の怒りの方がよっぽど怖い。痺れを切らした家康が大きく本陣を動かした時、彼は腹を括りました。

  • 島津義弘。当初は東軍につく筈だった島津義弘。西軍に包囲されている伏見城に援軍として申し出るが、事情を知らない伏見城を守る鳥居元忠に門前払いにされてしまいました。行く宛ての無くなった義弘は流れから西軍に付くこととなりましたが、西軍としては全く動く事無く、東軍西軍問わず、攻め込まれたら打ち払うのみで戦闘には参加する事はありませんでした。そして戦いの決着がつき、形式上西軍に属した島津義弘は撤退するの一択でしたが、単に撤退するは島津の恥とばかりに、敵である東軍の陣を中央突破する事で、その存在感をみせつけました。

    島津義弘。当初は東軍につく筈だった島津義弘。西軍に包囲されている伏見城に援軍として申し出るが、事情を知らない伏見城を守る鳥居元忠に門前払いにされてしまいました。行く宛ての無くなった義弘は流れから西軍に付くこととなりましたが、西軍としては全く動く事無く、東軍西軍問わず、攻め込まれたら打ち払うのみで戦闘には参加する事はありませんでした。そして戦いの決着がつき、形式上西軍に属した島津義弘は撤退するの一択でしたが、単に撤退するは島津の恥とばかりに、敵である東軍の陣を中央突破する事で、その存在感をみせつけました。

  • 古戦場記念館が見えてきました。各武将のボードを読んだだけで最早ボルテージマックス状態の私。資料館ではVRによる映像を体験できます。関ヶ原の戦いを解り易く解説しながら、馬のいななきや足音と共に椅子が響き、大迫力で体感する事が出来ます。もう会場を出る時、昔〇クザ映画見た後の肩を張って歩いている危ないオジサンと同じ事になっていました。私、もう落ち武者みたいになってたと思う(笑)

    古戦場記念館が見えてきました。各武将のボードを読んだだけで最早ボルテージマックス状態の私。資料館ではVRによる映像を体験できます。関ヶ原の戦いを解り易く解説しながら、馬のいななきや足音と共に椅子が響き、大迫力で体感する事が出来ます。もう会場を出る時、昔〇クザ映画見た後の肩を張って歩いている危ないオジサンと同じ事になっていました。私、もう落ち武者みたいになってたと思う(笑)

  • フムフム、合戦の配置図を頭に叩き込みます。私はこの様に関ヶ原の広範囲に点在する陣跡を、マップを頼りに反時計回りに関ヶ原を一周する戦略を立てました。<br /><br /> さて、関ヶ原を書くに当たって、想う事があります。関ヶ原の合戦は日本の歴史に於いて、一番人気があるコンテンツと言って良いでしょう。だから散々語り尽くされ、散々な解釈、脚色が施され、何処から何処が真実なのか?判別が難しい程です。<br /><br /> 研究は日々進み、私が学んだ関ヶ原と今の学生さんが学ぶ関ヶ原はディティールが変わっているかもしれません。<br /><br /> 歴史には史実に近い一次資料と逸話に近い二次資料があります。基本は史実に忠実にありたいと考えていますが、だからと言って、二次資料を只の創作と切り捨てる様な二元論には立ちたくありません。<br /><br /> 近世の斬新な脚色ならいざ知らず、逸話に近いエピソードであっても、それは江戸期から語り継がれてきたものであって、それ自体が最早歴史でもあるからです。<br /><br /> 其処には戦国を生き抜いた人々を忘れないで欲しい、語り継いで欲しい。そして教訓にして欲しいと言う、古の人々の切なる想いが籠められており、それに共感する人々が多かったからこそ現代迄消える事無く、語り継がれてきたのだと思います。<br /><br /> ですから史実を正確に捉える事も大切ですが、共に伝承的な逸話も、大切に取り挙げて行こうと思います。史実との照らし合わせは家でも出来る事。現地に立ち、其処で其々の武将達が何を想い、何を残そうとしたのか?耳を傾けようと思います。

    フムフム、合戦の配置図を頭に叩き込みます。私はこの様に関ヶ原の広範囲に点在する陣跡を、マップを頼りに反時計回りに関ヶ原を一周する戦略を立てました。

     さて、関ヶ原を書くに当たって、想う事があります。関ヶ原の合戦は日本の歴史に於いて、一番人気があるコンテンツと言って良いでしょう。だから散々語り尽くされ、散々な解釈、脚色が施され、何処から何処が真実なのか?判別が難しい程です。

     研究は日々進み、私が学んだ関ヶ原と今の学生さんが学ぶ関ヶ原はディティールが変わっているかもしれません。

     歴史には史実に近い一次資料と逸話に近い二次資料があります。基本は史実に忠実にありたいと考えていますが、だからと言って、二次資料を只の創作と切り捨てる様な二元論には立ちたくありません。

     近世の斬新な脚色ならいざ知らず、逸話に近いエピソードであっても、それは江戸期から語り継がれてきたものであって、それ自体が最早歴史でもあるからです。

     其処には戦国を生き抜いた人々を忘れないで欲しい、語り継いで欲しい。そして教訓にして欲しいと言う、古の人々の切なる想いが籠められており、それに共感する人々が多かったからこそ現代迄消える事無く、語り継がれてきたのだと思います。

     ですから史実を正確に捉える事も大切ですが、共に伝承的な逸話も、大切に取り挙げて行こうと思います。史実との照らし合わせは家でも出来る事。現地に立ち、其処で其々の武将達が何を想い、何を残そうとしたのか?耳を傾けようと思います。

  • そして5階の展望室で舞台となる関が原を一望します。此方は東側、即ち東軍です。この何処かに家康が最初に陣を張った桃配山がある筈です。毛利秀元、吉川広家等が陣を張った南宮山は遥か向こうで、此処からは見る事ができません。

    そして5階の展望室で舞台となる関が原を一望します。此方は東側、即ち東軍です。この何処かに家康が最初に陣を張った桃配山がある筈です。毛利秀元、吉川広家等が陣を張った南宮山は遥か向こうで、此処からは見る事ができません。

  • 此方は西側、即ち我らが石田三成公が陣を張った笹尾山がある筈です。そして関ケ原の激戦が繰り広げられたのも、此処から見渡せるフィールドと言う事です。

    此方は西側、即ち我らが石田三成公が陣を張った笹尾山がある筈です。そして関ケ原の激戦が繰り広げられたのも、此処から見渡せるフィールドと言う事です。

  • 見つけました!笹尾山!下に旗が靡くのが島左近の陣地。そして一際高く関が原を見渡せる場所に旗を靡かせているのが石田三成公の陣地です。

    見つけました!笹尾山!下に旗が靡くのが島左近の陣地。そして一際高く関が原を見渡せる場所に旗を靡かせているのが石田三成公の陣地です。

  •  関ケ原に来る前、サイトで情報収集していたのですが、余りに沢山のコースが紹介されており、どのコースが良いのか悩んでいました。情報が多いのは良い事ですが、あり過ぎるのも悩んでしまいます。<br /><br /> しかし当日資料館に置いてあったこのパンフレット。これが一番解り易かったです。殆どの見所を線で結んルート取りしてあり、このコースを辿る事で殆どの見所を網羅する事が出来ます。ただその体力があればですが…(正直若い人なら兎も角、年配の方は2日かけた方が良いかもしれません。)、また、自転車、自動車で移動する事も可能ですが、一部徒歩じゃないと歩けない部分もあるので、徒歩とは違うルートを確認する必要があります。現在時刻は11時40分。さて、一日で周りきる事が出来るでしょうか?いざ、出発です!

     関ケ原に来る前、サイトで情報収集していたのですが、余りに沢山のコースが紹介されており、どのコースが良いのか悩んでいました。情報が多いのは良い事ですが、あり過ぎるのも悩んでしまいます。

     しかし当日資料館に置いてあったこのパンフレット。これが一番解り易かったです。殆どの見所を線で結んルート取りしてあり、このコースを辿る事で殆どの見所を網羅する事が出来ます。ただその体力があればですが…(正直若い人なら兎も角、年配の方は2日かけた方が良いかもしれません。)、また、自転車、自動車で移動する事も可能ですが、一部徒歩じゃないと歩けない部分もあるので、徒歩とは違うルートを確認する必要があります。現在時刻は11時40分。さて、一日で周りきる事が出来るでしょうか?いざ、出発です!

  • 最初に訪れたのは記念館にもほど近い松平忠吉、井伊直政陣跡です。関ヶ原の合戦の先陣は元々徳川秀忠が務める筈でしたが、上田城にて真田家に釘づけにされ遅参。故に福島正則が任されていました。しかし、徳川家が先立ってこそ意味があると考えた井伊直政は初陣である徳川家康の四男松平忠吉を伴って宇喜多秀家勢に発砲、こうして抜け駆けする形で関ヶ原の合戦が始まる事になりました。<br /><br />こうしてみると井伊直政の陣は元々福島正則の陣よりかなり後方。よっぽど抜け駆けしたくてソロソロと前進をくりかえしたのだろうな…とか想像してみました。

    最初に訪れたのは記念館にもほど近い松平忠吉、井伊直政陣跡です。関ヶ原の合戦の先陣は元々徳川秀忠が務める筈でしたが、上田城にて真田家に釘づけにされ遅参。故に福島正則が任されていました。しかし、徳川家が先立ってこそ意味があると考えた井伊直政は初陣である徳川家康の四男松平忠吉を伴って宇喜多秀家勢に発砲、こうして抜け駆けする形で関ヶ原の合戦が始まる事になりました。

    こうしてみると井伊直政の陣は元々福島正則の陣よりかなり後方。よっぽど抜け駆けしたくてソロソロと前進をくりかえしたのだろうな…とか想像してみました。

  • 井伊陣跡のすぐ傍には東首塚が残されています。

    井伊陣跡のすぐ傍には東首塚が残されています。

  • 関ケ原の合戦は華々しく語られる事が多い一方、数多くの名も知らぬ死傷者が出た事も間違いありません。徳川家康の命を受けて、当時この地を収めていた竹中重門が、合戦で戦死した者達を、東西二か所に首塚を築き供養しました。<br /><br />自然災害や近代の戦争では失われた命に対する哀悼の意も聞こえてきますが、こうした歴史上の合戦で亡くなった名も無き者達は振り向かれもしません。私も右に同じでした。猛反省です。手を合わせます。合掌。

    関ケ原の合戦は華々しく語られる事が多い一方、数多くの名も知らぬ死傷者が出た事も間違いありません。徳川家康の命を受けて、当時この地を収めていた竹中重門が、合戦で戦死した者達を、東西二か所に首塚を築き供養しました。

    自然災害や近代の戦争では失われた命に対する哀悼の意も聞こえてきますが、こうした歴史上の合戦で亡くなった名も無き者達は振り向かれもしません。私も右に同じでした。猛反省です。手を合わせます。合掌。

  • 田中吉政の陣所です。多くの武将が関が原以前は豊臣方の武将でした。家康と言え恭順していたのですから当然でしょう。田中吉政も同様に豊臣方の武将でしたが、関ヶ原の合戦では当初から家康方として戦い前哨戦でも功を立てています。関ヶ原の合戦後、石田三成を捕らえる大功を立て築後の国を与えられました。<br /><br />石田三成を捕らえたとは言え、吉政は非常に手厚く三成を扱ったと言い、三成も吉政に例として秀吉から貰った剣を吉政に与えたと言います。三成と吉政は長浜で産まれた同郷の士。吉政は三成を捕らえた時、どの様な心境だったのでしょうか?

    田中吉政の陣所です。多くの武将が関が原以前は豊臣方の武将でした。家康と言え恭順していたのですから当然でしょう。田中吉政も同様に豊臣方の武将でしたが、関ヶ原の合戦では当初から家康方として戦い前哨戦でも功を立てています。関ヶ原の合戦後、石田三成を捕らえる大功を立て築後の国を与えられました。

    石田三成を捕らえたとは言え、吉政は非常に手厚く三成を扱ったと言い、三成も吉政に例として秀吉から貰った剣を吉政に与えたと言います。三成と吉政は長浜で産まれた同郷の士。吉政は三成を捕らえた時、どの様な心境だったのでしょうか?

  • 徳川家康最後陣地。記念館のすぐ裏手に位地します。関ヶ原の合戦は開幕した後、最初は西軍が圧倒し、そして膠着状態に入ったと言います。折角良い調子だったのに島津も小早川も動かない、石田三成も徳川家康も苛々していたに違いありません。そして家康が動きます。実際歩いてみると相当な前進です。総大将の大行進。この大行進が松尾山頂から合戦の動向を見下ろしながらガクブルしていた小早川秀秋の決心を促す事になったのではないでしょうか?

    徳川家康最後陣地。記念館のすぐ裏手に位地します。関ヶ原の合戦は開幕した後、最初は西軍が圧倒し、そして膠着状態に入ったと言います。折角良い調子だったのに島津も小早川も動かない、石田三成も徳川家康も苛々していたに違いありません。そして家康が動きます。実際歩いてみると相当な前進です。総大将の大行進。この大行進が松尾山頂から合戦の動向を見下ろしながらガクブルしていた小早川秀秋の決心を促す事になったのではないでしょうか?

  • 家康の最後陣地の敷地に、二つの神社が並び立っていました。合戦の御霊を鎮める為の御霊神社です。

    家康の最後陣地の敷地に、二つの神社が並び立っていました。合戦の御霊を鎮める為の御霊神社です。

  • お隣は貴船神社。何故故此処に貴船神社?調べて見れば関ヶ原の合戦とは全く関係はありませんでした。この地は水に乏しい地で、大正時代に工場が誘致された事で余計水不足になり、大規模な水汲み施設が建造され、漸く解決したそうです。その時水神としても有名な貴船神社の祭神を分霊し、此処に祀っているとの事です。

    お隣は貴船神社。何故故此処に貴船神社?調べて見れば関ヶ原の合戦とは全く関係はありませんでした。この地は水に乏しい地で、大正時代に工場が誘致された事で余計水不足になり、大規模な水汲み施設が建造され、漸く解決したそうです。その時水神としても有名な貴船神社の祭神を分霊し、此処に祀っているとの事です。

  • 細川忠興の陣所。もしかすると本人より妻である明智光秀の三女細川ガラシャの方が有名かもしれません。彼女もまた関ヶ原の合戦が産んだ悲劇のヒロインでした。細川忠興は織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と時の権力者を巧みに乗り継ぎながら戦国の世を生き抜いて江戸時代も肥後の国を与えられています。<br /><br /> 石田三成とはもともと仲が良くなかったと見え、石田三成、七将襲撃事件のうちの一人に加わっています。<br /><br /> 七将襲撃事件の七将は加藤清正、加藤嘉明、福島正則、浅野幸長、池田輝政、黒田長政、細川忠興の七名です。(諸説あり)朝鮮に出兵した武断派(尾張衆)の面々は石田三成を筆頭とした文治派の裁定に不服を持ち軋轢は深刻化しました。前田利家が存命時こそ、危ういバランスは保たれていたものの、利家の没後、先述の七将が文治派の筆頭、石田三成を襲撃したとされる事件を七将襲撃事件と呼びます。これにより石田三成は失脚、佐和山に蟄居する羽目になりました。(すぐに復帰はしましたが…。)<br /><br /> この事件により豊臣政権内の武断派と文治派の分断は表面化、深刻化し、その分断された武断派はそっくり、家康に取り込まれる事となります・(全員関ケ原では東軍に属している。)当時の家康を制御出来る立場にあった前田利家は既に亡くなり、目の上のたん瘤だった石田三成は失脚。即ちこの事件で一番美味しい思いをしたのは徳川家康。これ以降徳川家康のやりたい放題を止める者はいなくなります。…蟄居させられた只一人除いて…。そして…関が原へ繋がっていくのです。<br /><br /> 私は石田三成の世間一般の評価が横柄者だとか、嫌われ者と定着してしまったのは、この事件がきっかけだった様に思います。<br /><br /> 現場方と管理方が反りが合わないのは古今東西変わりませんが、戦国時代のしかも異国で苦労を重ねただろう、現場方は、さぞや評価を求めた事でしょう。<br /><br /> しかし石田三成の立場からすれば、一国の主は天に召され、何の利益も無い、しかも異国の戦いは、早急に畳まなければ、政権を保つ事は叶わない。心を鬼としてもおいそれ高い評価は出来なかったでしょう。<br /><br /> そんな損な役割をさえ真っ向から取り組んだ故、招いてしまった災いであり、悪名なのだと思います。<br /><br /> そして、こうした不平を抱えた武断派七将は揃いも揃って家康にまんまと取り込まれ、東軍に参加し、ゆくゆくは恩を受けた豊臣に弓を向ける結果になるのです。

    細川忠興の陣所。もしかすると本人より妻である明智光秀の三女細川ガラシャの方が有名かもしれません。彼女もまた関ヶ原の合戦が産んだ悲劇のヒロインでした。細川忠興は織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と時の権力者を巧みに乗り継ぎながら戦国の世を生き抜いて江戸時代も肥後の国を与えられています。

     石田三成とはもともと仲が良くなかったと見え、石田三成、七将襲撃事件のうちの一人に加わっています。

     七将襲撃事件の七将は加藤清正、加藤嘉明、福島正則、浅野幸長、池田輝政、黒田長政、細川忠興の七名です。(諸説あり)朝鮮に出兵した武断派(尾張衆)の面々は石田三成を筆頭とした文治派の裁定に不服を持ち軋轢は深刻化しました。前田利家が存命時こそ、危ういバランスは保たれていたものの、利家の没後、先述の七将が文治派の筆頭、石田三成を襲撃したとされる事件を七将襲撃事件と呼びます。これにより石田三成は失脚、佐和山に蟄居する羽目になりました。(すぐに復帰はしましたが…。)

     この事件により豊臣政権内の武断派と文治派の分断は表面化、深刻化し、その分断された武断派はそっくり、家康に取り込まれる事となります・(全員関ケ原では東軍に属している。)当時の家康を制御出来る立場にあった前田利家は既に亡くなり、目の上のたん瘤だった石田三成は失脚。即ちこの事件で一番美味しい思いをしたのは徳川家康。これ以降徳川家康のやりたい放題を止める者はいなくなります。…蟄居させられた只一人除いて…。そして…関が原へ繋がっていくのです。

     私は石田三成の世間一般の評価が横柄者だとか、嫌われ者と定着してしまったのは、この事件がきっかけだった様に思います。

     現場方と管理方が反りが合わないのは古今東西変わりませんが、戦国時代のしかも異国で苦労を重ねただろう、現場方は、さぞや評価を求めた事でしょう。

     しかし石田三成の立場からすれば、一国の主は天に召され、何の利益も無い、しかも異国の戦いは、早急に畳まなければ、政権を保つ事は叶わない。心を鬼としてもおいそれ高い評価は出来なかったでしょう。

     そんな損な役割をさえ真っ向から取り組んだ故、招いてしまった災いであり、悪名なのだと思います。

     そして、こうした不平を抱えた武断派七将は揃いも揃って家康にまんまと取り込まれ、東軍に参加し、ゆくゆくは恩を受けた豊臣に弓を向ける結果になるのです。

  •  これは一次資料にも二次資料にも無い、ネットで検索しても出て来ない、只の私の推測に過ぎませんが、私は秀吉の朝鮮出兵、それをそそのかした人物は家康じゃ無かったかと思うのです。<br /><br />秀吉晩年、秀吉に一番発言権、影響力があったのは家康でしょう。そして晩年、秀吉は判断力は著しく低下していました。家康は秀頼の事を託されていましたし、操り易い立場にいました。<br /><br /> 朝鮮出兵、明国そして東南アジアを制圧すると言う発想は、実は織田信長の発想だったと言われます。晩年の秀吉は秀頼の安否に一番気を取られていたかに思います。そんな秀吉に、信長の意志を引き継いでみては?と家康は言葉巧みに扇動したのかもしれません。<br /><br /> 江戸幕府を開いた家康は、大名に参勤交代を強いたり、城建築を手伝わせたり、あの手この手で金を使わせ、大名の経済力を削ごうとしました。<br /><br /> 朝鮮への出兵は正に豊臣恩顧の大名の経済力を纏めて削ぐ事が出来、しかも兵力を削ぐ事が出来るでしょう。これから豊臣に弓を引こうとしている家康にとって、これ程有効な手段は無いでしょう。しかも家康は朝鮮に出兵していないのです。<br /><br /> 戦功を立てれば恩賞が手に入る武断派は奮い立ったかもしれませんが、国の運営を任された文治派にとっては、たまったものではありません。当然の如く、両者には軋轢が生じます。そして先に挙げた七将襲撃事件が起こるのです。此処まで家康が読んでいたかは解りませんがそれさえ家康にとっては好機となりました。<br /><br /> 家康は兵を動かす事も無く、豊臣恩顧の武将達の兵力と経済力を削いだばかりか、豊臣政権を分断し、更に武断派を自分の味方に取り込み石田三成を失脚させました。朝鮮出兵は、家康の為にしかならなかった戦いの様な気がしてなりません。<br /><br /> 果たしてそれは、只の結果論なのでしょうか?それとも…。歴史の妄想が止みません。<br />

     これは一次資料にも二次資料にも無い、ネットで検索しても出て来ない、只の私の推測に過ぎませんが、私は秀吉の朝鮮出兵、それをそそのかした人物は家康じゃ無かったかと思うのです。

    秀吉晩年、秀吉に一番発言権、影響力があったのは家康でしょう。そして晩年、秀吉は判断力は著しく低下していました。家康は秀頼の事を託されていましたし、操り易い立場にいました。

     朝鮮出兵、明国そして東南アジアを制圧すると言う発想は、実は織田信長の発想だったと言われます。晩年の秀吉は秀頼の安否に一番気を取られていたかに思います。そんな秀吉に、信長の意志を引き継いでみては?と家康は言葉巧みに扇動したのかもしれません。

     江戸幕府を開いた家康は、大名に参勤交代を強いたり、城建築を手伝わせたり、あの手この手で金を使わせ、大名の経済力を削ごうとしました。

     朝鮮への出兵は正に豊臣恩顧の大名の経済力を纏めて削ぐ事が出来、しかも兵力を削ぐ事が出来るでしょう。これから豊臣に弓を引こうとしている家康にとって、これ程有効な手段は無いでしょう。しかも家康は朝鮮に出兵していないのです。

     戦功を立てれば恩賞が手に入る武断派は奮い立ったかもしれませんが、国の運営を任された文治派にとっては、たまったものではありません。当然の如く、両者には軋轢が生じます。そして先に挙げた七将襲撃事件が起こるのです。此処まで家康が読んでいたかは解りませんがそれさえ家康にとっては好機となりました。

     家康は兵を動かす事も無く、豊臣恩顧の武将達の兵力と経済力を削いだばかりか、豊臣政権を分断し、更に武断派を自分の味方に取り込み石田三成を失脚させました。朝鮮出兵は、家康の為にしかならなかった戦いの様な気がしてなりません。

     果たしてそれは、只の結果論なのでしょうか?それとも…。歴史の妄想が止みません。

  • お!旗がたなびいています。関ヶ原の各見所では、其処に因んだ武将の旗がたなびいています。歴史好きで、それぞれの軍旗を知っている人なら、解説版に辿り着く前に其処がどの武将の所縁の地か一目瞭然でしょう。

    お!旗がたなびいています。関ヶ原の各見所では、其処に因んだ武将の旗がたなびいています。歴史好きで、それぞれの軍旗を知っている人なら、解説版に辿り着く前に其処がどの武将の所縁の地か一目瞭然でしょう。

  • 岡山烽火場は東軍の狼煙をあげる場として、また黒田長政と竹中重門の陣跡となった場所です。黒田長政の父は豊臣秀吉の策士として活躍した黒田官兵衛です。一方竹中重門の父は同じく豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛です。皮肉な事に秀吉を支えた名軍師の子供達がタッグを組んで東軍に与していたのです。

    岡山烽火場は東軍の狼煙をあげる場として、また黒田長政と竹中重門の陣跡となった場所です。黒田長政の父は豊臣秀吉の策士として活躍した黒田官兵衛です。一方竹中重門の父は同じく豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛です。皮肉な事に秀吉を支えた名軍師の子供達がタッグを組んで東軍に与していたのです。

  • 岡山烽火場からは関が原を一望できます。正に狼煙の場として最適な立地です。

    岡山烽火場からは関が原を一望できます。正に狼煙の場として最適な立地です。

  • 関ケ原の散策はインスタ映えする様な物件は何もありません。只の戦場跡なので天守閣は愚か城跡さえありません。(松尾山には城跡が残ります。)しかしそれで良いのです。いや下手な事は加えない方が良い。こうして碑と旗だけで、歴史好きにとっては想像力が爆発しそうです。旅は目で見える者が全てではありません。外観の綺麗、凄いの感動は、その瞬間の感動に過ぎません。それよりその地、その建物に秘められたストーリー、それこそが私の旅にとって重要なのです。こうして武将達の陣跡を辿るだけで、彼等の想いが脳内に入り込んでくる様な気がして、胸がいっぱいになります。

    関ケ原の散策はインスタ映えする様な物件は何もありません。只の戦場跡なので天守閣は愚か城跡さえありません。(松尾山には城跡が残ります。)しかしそれで良いのです。いや下手な事は加えない方が良い。こうして碑と旗だけで、歴史好きにとっては想像力が爆発しそうです。旅は目で見える者が全てではありません。外観の綺麗、凄いの感動は、その瞬間の感動に過ぎません。それよりその地、その建物に秘められたストーリー、それこそが私の旅にとって重要なのです。こうして武将達の陣跡を辿るだけで、彼等の想いが脳内に入り込んでくる様な気がして、胸がいっぱいになります。

  •  歴史散策は勿論その環境も最高なのが、関が原散策の楽しいところ、多くの観光客が訪れ、迷惑しているだろうに、関ヶ原の人々も素敵な人が多く、さわやかに挨拶を交わしてくれました。ありがたいです。

     歴史散策は勿論その環境も最高なのが、関が原散策の楽しいところ、多くの観光客が訪れ、迷惑しているだろうに、関ヶ原の人々も素敵な人が多く、さわやかに挨拶を交わしてくれました。ありがたいです。

  • こうした人里離れた道を歩けるのは貴重です。折角歴史的建築を訪れ、タイムスリップを楽しんだとしても、其処から離れ喧騒に塗れた現代の街を歩いていると、次の歴史スポットに辿り着く迄に現代へと引き戻されてしまいます。此処でなら関ヶ原の時代のまま、次のスポット迄辿り着ける事でしょう。

    こうした人里離れた道を歩けるのは貴重です。折角歴史的建築を訪れ、タイムスリップを楽しんだとしても、其処から離れ喧騒に塗れた現代の街を歩いていると、次の歴史スポットに辿り着く迄に現代へと引き戻されてしまいます。此処でなら関ヶ原の時代のまま、次のスポット迄辿り着ける事でしょう。

  • 美しい風景にうつつを抜かしていましたが、ふと気づいてしまいました。黒田、竹中軍は戦況が膠着すると、地元民で地理に詳しい竹中重門が裏道を抜けて石田軍の横腹に銃撃を加え、それにより島左近が負傷、西軍の動きが大きく動揺したとあります。地図を見て確認しましたが、もしかすると今歩いている道こそ、黒田、竹中連合軍が石田軍の横腹を突きに出向いた裏道なのでは無いでしょうか?

    美しい風景にうつつを抜かしていましたが、ふと気づいてしまいました。黒田、竹中軍は戦況が膠着すると、地元民で地理に詳しい竹中重門が裏道を抜けて石田軍の横腹に銃撃を加え、それにより島左近が負傷、西軍の動きが大きく動揺したとあります。地図を見て確認しましたが、もしかすると今歩いている道こそ、黒田、竹中連合軍が石田軍の横腹を突きに出向いた裏道なのでは無いでしょうか?

  • 今となっては清々しい程の竹林に囲まれた小径が続いています。嗚呼竹よ、黒田や竹中の兵が此処を通りはしなかったかい?

    今となっては清々しい程の竹林に囲まれた小径が続いています。嗚呼竹よ、黒田や竹中の兵が此処を通りはしなかったかい?

  • そして到着したのが関が原合戦決戦地です。小早川秀秋の裏切りから始まった裏切りの連鎖。そして大谷隊が総崩れし大谷吉継が自刃すると、西軍も立て続けに総崩れとなり戦いの趨勢はたった6時間で決まりました。東軍の諸郡は石田三成の首を狙い石田陣に突入します。その決定的な場となったのが此処なのでしょう。

    そして到着したのが関が原合戦決戦地です。小早川秀秋の裏切りから始まった裏切りの連鎖。そして大谷隊が総崩れし大谷吉継が自刃すると、西軍も立て続けに総崩れとなり戦いの趨勢はたった6時間で決まりました。東軍の諸郡は石田三成の首を狙い石田陣に突入します。その決定的な場となったのが此処なのでしょう。

  • 見上げれば石田三成公の陣地が目の前でした。

    見上げれば石田三成公の陣地が目の前でした。

  • 東軍、西軍、両者様々な想いがぶつかり合った関ヶ原の合戦が、此処で終焉を迎えたと思うと心にジーンとくるものがあります。それにしても壇ノ浦の合戦、関ヶ原の合戦と、日本を二分して雌雄を決した戦いが、そのどちらもが裏切りにより大きく戦況が変わったと言うのも歴史の皮肉の様な気もします。

    東軍、西軍、両者様々な想いがぶつかり合った関ヶ原の合戦が、此処で終焉を迎えたと思うと心にジーンとくるものがあります。それにしても壇ノ浦の合戦、関ヶ原の合戦と、日本を二分して雌雄を決した戦いが、そのどちらもが裏切りにより大きく戦況が変わったと言うのも歴史の皮肉の様な気もします。

  • 笹尾山交流館に立ち寄りました。関ヶ原の合戦に参加した各武将の甲冑を着る事が出来る様です。

    笹尾山交流館に立ち寄りました。関ヶ原の合戦に参加した各武将の甲冑を着る事が出来る様です。

  • そして、じゃ~ん!島左近殿の陣跡です。三成公に過ぎたるものが二つある。佐和山の城と島左近。そう呼ばれた程の名君です。三成公が4万石だった時に2万石を与えて雇ったと言われています。流石私利私欲の無い三成公です。貴方、給料の半分支払ってメイド雇う人何処にいます?メイドと武将は違うって?失礼しました。

    そして、じゃ~ん!島左近殿の陣跡です。三成公に過ぎたるものが二つある。佐和山の城と島左近。そう呼ばれた程の名君です。三成公が4万石だった時に2万石を与えて雇ったと言われています。流石私利私欲の無い三成公です。貴方、給料の半分支払ってメイド雇う人何処にいます?メイドと武将は違うって?失礼しました。

  • 馬防策が再現されています。島左近は禄高の半分で雇いあげられた恩を返すかの如く奮闘します。しかし幾つか説はあるものの銃撃が命中し落命した可能性が高いとされています。

    馬防策が再現されています。島左近は禄高の半分で雇いあげられた恩を返すかの如く奮闘します。しかし幾つか説はあるものの銃撃が命中し落命した可能性が高いとされています。

  • 大一大万大吉の旗が青空にはためきます。<br />「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば、天下は太平になる」<br />真に三成らしい素敵な言葉です。

    大一大万大吉の旗が青空にはためきます。
    「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば、天下は太平になる」
    真に三成らしい素敵な言葉です。

  • そして、遂に、遂に、石田三成公の陣地にやって来ました!<br />感無量です!400年前、彼が見ていた同じ景色が目前に広がっています。<br /><br /> 三成公は負けたとは言え、良く頑張ったと思います。豊臣政権を今の大企業に例えれば、三成は新気鋭の清廉潔癖な係長程度なもの。その役柄で秀吉社長が亡くなった事を良い事に、重役の家康がルール無視のやりたい放題にNOを突き付けたのです。<br /><br /> しかし約束した筈の毛利部長も、島津課長も自己保身でダンマリを組め込み、コネ入社の甥っ子は家康重役に寝返る始末。当時三成19万石、家康255万石、即ち今で言えばたった19万円の給料の係長が255万貰っている重役と全く信頼出来ない部長や課長を引き連れて、互角に戦ったのです。やっぱスゲーよ!三成!<br /><br /> 冗談は兎も角、歴史に「たられば」は禁物だとしても、どうしても「たられば」を考えたくなる程接戦だったのが関ヶ原の合戦だと思います。<br /><br />もし、毛利、島津、小早川が西軍として動いていたら?<br />もし西軍の目論見通り、伏見、大津城の戦いが進んでいたら?<br />もし立花宗茂が参戦出来ていたら?<br />もし前田利長が引き返さなかったら?<br />もし徳川秀忠が先鋒を務める事が出来たなら?<br /><br />考えたらキリがありませんが、たったひとでも事実が変わっていたのなら、戦況は大きく変わっていたに違いありません。それだけ両者薄氷を踏む思いの戦いであったと思います。

    そして、遂に、遂に、石田三成公の陣地にやって来ました!
    感無量です!400年前、彼が見ていた同じ景色が目前に広がっています。

     三成公は負けたとは言え、良く頑張ったと思います。豊臣政権を今の大企業に例えれば、三成は新気鋭の清廉潔癖な係長程度なもの。その役柄で秀吉社長が亡くなった事を良い事に、重役の家康がルール無視のやりたい放題にNOを突き付けたのです。

     しかし約束した筈の毛利部長も、島津課長も自己保身でダンマリを組め込み、コネ入社の甥っ子は家康重役に寝返る始末。当時三成19万石、家康255万石、即ち今で言えばたった19万円の給料の係長が255万貰っている重役と全く信頼出来ない部長や課長を引き連れて、互角に戦ったのです。やっぱスゲーよ!三成!

     冗談は兎も角、歴史に「たられば」は禁物だとしても、どうしても「たられば」を考えたくなる程接戦だったのが関ヶ原の合戦だと思います。

    もし、毛利、島津、小早川が西軍として動いていたら?
    もし西軍の目論見通り、伏見、大津城の戦いが進んでいたら?
    もし立花宗茂が参戦出来ていたら?
    もし前田利長が引き返さなかったら?
    もし徳川秀忠が先鋒を務める事が出来たなら?

    考えたらキリがありませんが、たったひとでも事実が変わっていたのなら、戦況は大きく変わっていたに違いありません。それだけ両者薄氷を踏む思いの戦いであったと思います。

  • これが石田三成公が眺めていた風景。三成公は歯噛みしていたに違いありません。動かない松尾山の小早川、微動だにしない南宮山の毛利、陣を動かさない島津。三成公の最大の失敗は、自分のレベルで他人を見てしまった事に尽きると思います。確かに大谷刑部、直江兼続、彼の周りには彼と同様、高い志を持った義に生きる友人が集まりました。彼は恩を受けた豊臣への忠義を説けば人は集まると思ってしまったのだと思います。<br /><br /> しかし戦国の世で三成達は少数派、裏切りは朝飯前の乱れた社会、皆、自分の事しか考える事が出来ない、自分の不利になっても忠義を通すなんて思考を持ち合わせない、いやそんな思考に至る脳を持ち合わせていない、その程度の武将に義を説いても無駄だったのです。<br /><br />あ~、もう我慢なりません!言わせてください!<br />小早川に毛利に島津、てめ~ら武力はあったかもしれねぇが、人としては只のヘタレだよ!!<br /><br /> その点家康はその程度の武将の操り方に長けていました。どう操って、使い捨てにするか熟知していました。(現に誰とは言わないですが、散々功を立てさせた後に改易させています。)それが勝敗を分けたのだと思います。

    これが石田三成公が眺めていた風景。三成公は歯噛みしていたに違いありません。動かない松尾山の小早川、微動だにしない南宮山の毛利、陣を動かさない島津。三成公の最大の失敗は、自分のレベルで他人を見てしまった事に尽きると思います。確かに大谷刑部、直江兼続、彼の周りには彼と同様、高い志を持った義に生きる友人が集まりました。彼は恩を受けた豊臣への忠義を説けば人は集まると思ってしまったのだと思います。

     しかし戦国の世で三成達は少数派、裏切りは朝飯前の乱れた社会、皆、自分の事しか考える事が出来ない、自分の不利になっても忠義を通すなんて思考を持ち合わせない、いやそんな思考に至る脳を持ち合わせていない、その程度の武将に義を説いても無駄だったのです。

    あ~、もう我慢なりません!言わせてください!
    小早川に毛利に島津、てめ~ら武力はあったかもしれねぇが、人としては只のヘタレだよ!!

     その点家康はその程度の武将の操り方に長けていました。どう操って、使い捨てにするか熟知していました。(現に誰とは言わないですが、散々功を立てさせた後に改易させています。)それが勝敗を分けたのだと思います。

  • 彼はもう戦況が立て直せない事を知ると自刃する事無く伊吹山へ逃亡します。それは彼が未だ諦めていなかったからです。しかし地元の人々に愛されていた彼は地元の人々に匿われました。しかしそんな地元の人々に害が及ぶ事を恐れた彼は、親切になった人々の為に自首しました。

    彼はもう戦況が立て直せない事を知ると自刃する事無く伊吹山へ逃亡します。それは彼が未だ諦めていなかったからです。しかし地元の人々に愛されていた彼は地元の人々に匿われました。しかしそんな地元の人々に害が及ぶ事を恐れた彼は、親切になった人々の為に自首しました。

  • 処刑される直前、徳川の手下達に口汚く罵られても三成公は毅然とした態度を変える事はありませんでした。彼が水を所望すると、手下は柿を彼に投げました。三成公は<br /><br />「柿は胆に毒だから。」<br /><br />と断ると手下は<br /><br />「これから処刑される人間が健康を考えてどうする?」<br /><br />と罵ると三成公はこう返しました。<br /><br />「大義を想う者は、首を斬られるその瞬間まで、決して諦めぬものだ。」<br /><br />その最期を知った家康は<br /><br />「流石に大将の道を知る者だ。」と語ったと言います。

    処刑される直前、徳川の手下達に口汚く罵られても三成公は毅然とした態度を変える事はありませんでした。彼が水を所望すると、手下は柿を彼に投げました。三成公は

    「柿は胆に毒だから。」

    と断ると手下は

    「これから処刑される人間が健康を考えてどうする?」

    と罵ると三成公はこう返しました。

    「大義を想う者は、首を斬られるその瞬間まで、決して諦めぬものだ。」

    その最期を知った家康は

    「流石に大将の道を知る者だ。」と語ったと言います。

  • 筑摩江や、芦間に灯す篝火と、共に消えゆく我が身なりけり<br /><br />石田三成公の辞世の句です。<br /><br />彼の人生は終わりましたが、彼の子孫の多くは処分される事無く黙認され、彼の恩を受けた遠い弘前の津軽藩に匿われ、津軽藩にて活躍していく事になります。更に次女の血統は三代将軍家光の側室となって、徳川家にも血を残す事になりました。

    筑摩江や、芦間に灯す篝火と、共に消えゆく我が身なりけり

    石田三成公の辞世の句です。

    彼の人生は終わりましたが、彼の子孫の多くは処分される事無く黙認され、彼の恩を受けた遠い弘前の津軽藩に匿われ、津軽藩にて活躍していく事になります。更に次女の血統は三代将軍家光の側室となって、徳川家にも血を残す事になりました。

  • 人に嫌われる様な仕事でも、躊躇する事無く役割を果たし、私利私欲無く、義に篤く、気骨に溢れ、自分の意思は曲げる事が無い。彼に学びたい、肖りたいところは数多くあります。そして彼の生き様は徳川時代に成立した武士道そのものにさえ感じます。彼は破れ処刑されましたが、彼の残した生き様は武士道の精神として語り継がれ、今尚日本人の心にあると思います。合掌!

    人に嫌われる様な仕事でも、躊躇する事無く役割を果たし、私利私欲無く、義に篤く、気骨に溢れ、自分の意思は曲げる事が無い。彼に学びたい、肖りたいところは数多くあります。そして彼の生き様は徳川時代に成立した武士道そのものにさえ感じます。彼は破れ処刑されましたが、彼の残した生き様は武士道の精神として語り継がれ、今尚日本人の心にあると思います。合掌!

  • 島津義弘陣跡に到達しました。東軍に組しようと思いつつも不本意ながら西軍に組する事となった島津隊。しかし開戦後は敵味方関係無く、攻めかかって来たものを打ち払うのみで戦いには参加せず、三成自身が参戦を乞う場面もあったそうですが、これにも応じず。<br /><br />結局西軍の敗北が決定し、形式的には西軍に組していた島津隊も撤退せざる得ない状況に。義弘は切腹を覚悟するが、甥である豊久に諫められ奮起、敵に背を見せん!とばかりに敵陣の中央突破を行い奇跡的な退陣を遂げました。その際追撃した井伊直政に致命傷を与えています。しかしその代償も大きく、弱気になった義弘を奮起させた豊久は義弘の身代わりとなって討ち死にしたのでありました。<br /><br /> 兎角島津の退き口として、義弘の武勇ばかり語られる事が多いですが、私的には実力があるのに日和見を続けた彼の姿勢はとても褒められませんし、合戦終了後の彼の姿勢は只のヘタレで、寧ろ弱気になった義弘を鼓舞し、自らの命を投げうって、その代わり島津の撤退と名声を守り抜いた豊久こそ評価されるべきだと思います。

    島津義弘陣跡に到達しました。東軍に組しようと思いつつも不本意ながら西軍に組する事となった島津隊。しかし開戦後は敵味方関係無く、攻めかかって来たものを打ち払うのみで戦いには参加せず、三成自身が参戦を乞う場面もあったそうですが、これにも応じず。

    結局西軍の敗北が決定し、形式的には西軍に組していた島津隊も撤退せざる得ない状況に。義弘は切腹を覚悟するが、甥である豊久に諫められ奮起、敵に背を見せん!とばかりに敵陣の中央突破を行い奇跡的な退陣を遂げました。その際追撃した井伊直政に致命傷を与えています。しかしその代償も大きく、弱気になった義弘を奮起させた豊久は義弘の身代わりとなって討ち死にしたのでありました。

     兎角島津の退き口として、義弘の武勇ばかり語られる事が多いですが、私的には実力があるのに日和見を続けた彼の姿勢はとても褒められませんし、合戦終了後の彼の姿勢は只のヘタレで、寧ろ弱気になった義弘を鼓舞し、自らの命を投げうって、その代わり島津の撤退と名声を守り抜いた豊久こそ評価されるべきだと思います。

  • さらに南に歩みを進めると関ヶ原の戦いの開戦地に到達しました。此処で冒頭に井伊直政の陣で紹介した事件が起こったのです。先鋒を任じられていた福島正則を出し抜いて、井伊直政、松平忠吉隊が抜け駆けして宇喜多隊に発砲、それに怒った福島正則も遅れマジ!と宇喜多隊に発砲し関ヶ原の合戦が始まりました。

    さらに南に歩みを進めると関ヶ原の戦いの開戦地に到達しました。此処で冒頭に井伊直政の陣で紹介した事件が起こったのです。先鋒を任じられていた福島正則を出し抜いて、井伊直政、松平忠吉隊が抜け駆けして宇喜多隊に発砲、それに怒った福島正則も遅れマジ!と宇喜多隊に発砲し関ヶ原の合戦が始まりました。

  • キリシタン大名として有名な小西行長の陣跡です。合戦開始を確認し、北天満山から狼煙を挙げて西軍に開戦を知らせたと言います。小西行長は加藤清正と共に肥後を統治していましたが、お隣さん同士は常にライバル同士、仲は良くなかったと言います。二人は共に朝鮮に出兵したものの、其処でも色々確執はあった様です。その詳細は遠藤周作氏の「鉄の首枷」に詳しいです。(遠藤周作氏はキリシタンなので小西行長目線で歴史を書くのは致し方無い事でしょう。)<br /><br /> 小西行長は戦後石田三成と共に処刑されましたが、彼の残した軍勢がその後天草の乱で大暴れする事になります。天草の乱が農民の一揆に関わらず、あれだけの戦闘を行えたのは、小西行長の残党を始めとした、戦いのプロが多く紛れていたからであり、決して一般市民だけが蜂起したものではありません。

    キリシタン大名として有名な小西行長の陣跡です。合戦開始を確認し、北天満山から狼煙を挙げて西軍に開戦を知らせたと言います。小西行長は加藤清正と共に肥後を統治していましたが、お隣さん同士は常にライバル同士、仲は良くなかったと言います。二人は共に朝鮮に出兵したものの、其処でも色々確執はあった様です。その詳細は遠藤周作氏の「鉄の首枷」に詳しいです。(遠藤周作氏はキリシタンなので小西行長目線で歴史を書くのは致し方無い事でしょう。)

     小西行長は戦後石田三成と共に処刑されましたが、彼の残した軍勢がその後天草の乱で大暴れする事になります。天草の乱が農民の一揆に関わらず、あれだけの戦闘を行えたのは、小西行長の残党を始めとした、戦いのプロが多く紛れていたからであり、決して一般市民だけが蜂起したものではありません。

  • 遠くに、島左近と三成公の陣地を確認できます。関ヶ原の陣跡巡りは、正しく大人の追跡ハイキング。陣跡が示されたマップを頼りに、一つ一つ巡れば、各々の武将の想いさえ感じ取れる様な気持ちになれます。楽しくて仕方ありません。関が原と言う実際の舞台に立っただけで、歩いただけで、もう頭の中で様々なドラマが展開し、歩いているだけで大河ドラマ何本分も見ている様な気持ちになれます。

    遠くに、島左近と三成公の陣地を確認できます。関ヶ原の陣跡巡りは、正しく大人の追跡ハイキング。陣跡が示されたマップを頼りに、一つ一つ巡れば、各々の武将の想いさえ感じ取れる様な気持ちになれます。楽しくて仕方ありません。関が原と言う実際の舞台に立っただけで、歩いただけで、もう頭の中で様々なドラマが展開し、歩いているだけで大河ドラマ何本分も見ている様な気持ちになれます。

  • 見渡す限りの大平原、向こうに見えるなだらかな山々。こんな長閑なところで、日本を東西に分けた、血みどろの決戦が行われたとは今となっては信じられない事です。<br /><br /> さて、この三月に私は能登で「まつとおね」と言う演劇を鑑賞しました。其処で戦国時代は裏で女性達も戦っていたと再認識させられたのですが、関が原も裏で淀君とおね(北政所)の戦いだったとも言われます。勿論正室と世継ぎを産んだ側室と言う女同士の戦いもあった筈ですが、二人の違いは出身にもあります。淀君が近江でおねが尾張です。関ヶ原の合戦で東西に分かれた諸将を見ると確かに尾張出身者の殆どが東軍に属し、近江出身の殆どが西軍に属しています。更には東軍には所謂武武辺ものが多く、一方西軍には官僚肌の人物が集まり、職種も明確に分けられます。<br /><br /> これには理由があります。豊臣秀吉が未だ織田の配下の駆け出しの尾張にいた頃、戦いに明け暮れた日々では、戦いに必要な武辺ものが多く必要になります。しかし彼が近江の長浜の一国を与えらえると、国を運営するには官僚型の人材が必要になります。だから尾張で集めた武辺ものと近江で採用した官僚、其処に尾張で娶った正室と、近江で手にした側室が加わり、豊臣政権内で地域により性格の異なるグループが生まれる事になりました。豊臣政権の二人のファーストレディ。近江出身の者達は当然淀君の下に集まったでしょうし、尾張衆はおねの下に集まった事でしょう。<br /><br /> しかし、性格も出身も違う、その二つのグループが、朝鮮出兵を機会に明確にぶつかり合う事になり、尾張衆の武辺もの七将が近江衆の石田三成を襲撃する事件を起こしてしまいます。そんな豊臣政権内の分裂を好機とばかりに尾張衆の心を鷲掴みにして一気に自分の陣営に取り込んでしまったのが徳川家康でありましたが、その事前準備として尾張衆のヒロインであるおね(北政所)にかなり取り込んでいたと言う話もあります。<br /><br /> 勿論それは結果論であり、戦いを主導したのは間違いなく石田三成であり、徳川家康であったと私は考えています。淀君、そしておねは関が原の合戦に何処迄関わっていたのでしょうか?合戦をどう眺めていたのでしょうか?淀君と北政所、二人の視点から関ヶ原の合戦を妄想してみるのも楽しいかもしれません。

    見渡す限りの大平原、向こうに見えるなだらかな山々。こんな長閑なところで、日本を東西に分けた、血みどろの決戦が行われたとは今となっては信じられない事です。

     さて、この三月に私は能登で「まつとおね」と言う演劇を鑑賞しました。其処で戦国時代は裏で女性達も戦っていたと再認識させられたのですが、関が原も裏で淀君とおね(北政所)の戦いだったとも言われます。勿論正室と世継ぎを産んだ側室と言う女同士の戦いもあった筈ですが、二人の違いは出身にもあります。淀君が近江でおねが尾張です。関ヶ原の合戦で東西に分かれた諸将を見ると確かに尾張出身者の殆どが東軍に属し、近江出身の殆どが西軍に属しています。更には東軍には所謂武武辺ものが多く、一方西軍には官僚肌の人物が集まり、職種も明確に分けられます。

     これには理由があります。豊臣秀吉が未だ織田の配下の駆け出しの尾張にいた頃、戦いに明け暮れた日々では、戦いに必要な武辺ものが多く必要になります。しかし彼が近江の長浜の一国を与えらえると、国を運営するには官僚型の人材が必要になります。だから尾張で集めた武辺ものと近江で採用した官僚、其処に尾張で娶った正室と、近江で手にした側室が加わり、豊臣政権内で地域により性格の異なるグループが生まれる事になりました。豊臣政権の二人のファーストレディ。近江出身の者達は当然淀君の下に集まったでしょうし、尾張衆はおねの下に集まった事でしょう。

     しかし、性格も出身も違う、その二つのグループが、朝鮮出兵を機会に明確にぶつかり合う事になり、尾張衆の武辺もの七将が近江衆の石田三成を襲撃する事件を起こしてしまいます。そんな豊臣政権内の分裂を好機とばかりに尾張衆の心を鷲掴みにして一気に自分の陣営に取り込んでしまったのが徳川家康でありましたが、その事前準備として尾張衆のヒロインであるおね(北政所)にかなり取り込んでいたと言う話もあります。

     勿論それは結果論であり、戦いを主導したのは間違いなく石田三成であり、徳川家康であったと私は考えています。淀君、そしておねは関が原の合戦に何処迄関わっていたのでしょうか?合戦をどう眺めていたのでしょうか?淀君と北政所、二人の視点から関ヶ原の合戦を妄想してみるのも楽しいかもしれません。

  • 途中南天満山に入る地点からダムを渡り大谷刑部関連の史跡を巡る地点迄、道は山道に変わり暫く続きます。自動車や自転車は入れません。何処かの出口付近に停めて、徒歩とは違うルート構築が必要です。

    途中南天満山に入る地点からダムを渡り大谷刑部関連の史跡を巡る地点迄、道は山道に変わり暫く続きます。自動車や自転車は入れません。何処かの出口付近に停めて、徒歩とは違うルート構築が必要です。

  • 南天満山の宇喜多秀家の陣跡に到着しました。若いながら豊臣秀吉に重用され、五大老の一角に据えられました。西軍では最大の兵数を誇った主力部隊でもありました。しかしながらその全容は、合戦以前に巻き起こったお家騒動により全く統率の取れていない状態でもあった様です。そんなこんなで開戦当初こそ兵数で東軍を圧倒しますが、時と共に統率の無さの欠点が顕著になり、押され始める事となりました。戦後は八丈島に流され其処で84歳まで生きました。

    南天満山の宇喜多秀家の陣跡に到着しました。若いながら豊臣秀吉に重用され、五大老の一角に据えられました。西軍では最大の兵数を誇った主力部隊でもありました。しかしながらその全容は、合戦以前に巻き起こったお家騒動により全く統率の取れていない状態でもあった様です。そんなこんなで開戦当初こそ兵数で東軍を圧倒しますが、時と共に統率の無さの欠点が顕著になり、押され始める事となりました。戦後は八丈島に流され其処で84歳まで生きました。

  • 南天満山を下り、ダムを渡ります。心洗われる様な光景が広がります。

    南天満山を下り、ダムを渡ります。心洗われる様な光景が広がります。

  • ダムの水が流れ落ちる方角です。

    ダムの水が流れ落ちる方角です。

  •  平塚為広の碑にやってきました。平塚為広は豊臣古参の武将で大谷刑部吉継の大親友でした。石田三成の親友で、負けると解っていながら三成と運命を共にした大谷刑部、彼と共に平塚もまた、石田三成を諫めた様ですが、聞き入れられないと知ると、彼もまた親友と運命を共にする決意を決めます。<br /><br /> 残念ながら大谷刑部はハンセン病を患い、視力も失っており、輿に乗りながらの参戦でした。そんな親友を支える為、彼は大谷軍の先鋒を務め、大谷刑部の分も奮戦しました。

     平塚為広の碑にやってきました。平塚為広は豊臣古参の武将で大谷刑部吉継の大親友でした。石田三成の親友で、負けると解っていながら三成と運命を共にした大谷刑部、彼と共に平塚もまた、石田三成を諫めた様ですが、聞き入れられないと知ると、彼もまた親友と運命を共にする決意を決めます。

     残念ながら大谷刑部はハンセン病を患い、視力も失っており、輿に乗りながらの参戦でした。そんな親友を支える為、彼は大谷軍の先鋒を務め、大谷刑部の分も奮戦しました。

  • そして裏切った小早川秀秋の軍、更には連続して裏切った軍勢を少数の味方と共に必死に守り抜こうと奮戦します。やがて最期を感じた為広は親友に向けて辞世の句を詠みます。<br /><br />「名の為に捨つる命は惜しからじ、終に留まらぬ浮世と思えば。」<br /><br /> に対し吉継は<br /><br />「契りあらば、六つの巷に暫し待て、遅れ先立つ事はありとも。」<br /><br /> と、返歌を詠み、使者に渡したと言います。しかし、その頃為広は見事な討ち死にをした後だった事でしょう。しかし、心配するに及びません。彼等はきっと六つの巷で落ち合って、二人で三途の川を渡った事でしょうから。

    そして裏切った小早川秀秋の軍、更には連続して裏切った軍勢を少数の味方と共に必死に守り抜こうと奮戦します。やがて最期を感じた為広は親友に向けて辞世の句を詠みます。

    「名の為に捨つる命は惜しからじ、終に留まらぬ浮世と思えば。」

     に対し吉継は

    「契りあらば、六つの巷に暫し待て、遅れ先立つ事はありとも。」

     と、返歌を詠み、使者に渡したと言います。しかし、その頃為広は見事な討ち死にをした後だった事でしょう。しかし、心配するに及びません。彼等はきっと六つの巷で落ち合って、二人で三途の川を渡った事でしょうから。

  • ダメです。もう涙ボロボロ流しながら歩いています。三成公はなんて親友想いの友人達に支えられていたのでしょう。

    ダメです。もう涙ボロボロ流しながら歩いています。三成公はなんて親友想いの友人達に支えられていたのでしょう。

  • そして大谷刑部と彼の近習湯浅五助の墓地です。ハンセン病を患っていた大谷刑部、彼の招かれた茶会の席、参加した大名は決して刑部の後の茶を飲もうとしませんでした。そんな中全く気にする事無く茶を飲み干した石田三成。そんな友情から、負けると解っていながら石田三成と運命を共にする決意を決めた大谷刑部。400年の時を経て、人として捨ててはいけない大切なものを伝えてくれます。

    そして大谷刑部と彼の近習湯浅五助の墓地です。ハンセン病を患っていた大谷刑部、彼の招かれた茶会の席、参加した大名は決して刑部の後の茶を飲もうとしませんでした。そんな中全く気にする事無く茶を飲み干した石田三成。そんな友情から、負けると解っていながら石田三成と運命を共にする決意を決めた大谷刑部。400年の時を経て、人として捨ててはいけない大切なものを伝えてくれます。

  • 吉継の陣跡から松尾山を睨みつけました。大谷刑部は智勇兼ね備えた武将です。小早川秀秋の謀反にもいち早く察知していたと言います。だからこそいち早く陣取りを行い、その場所は正に小早川軍が陣取った松尾山を睨みつけるかの様な立地にあります。もし裏切ったとしても、必ず石田の陣には向かわせないぞ!との意気込みが伝わってくる布陣です。事実攻め込んでくる小早川勢を数度松尾山に引き返させる程奮闘したと伝わります。

    吉継の陣跡から松尾山を睨みつけました。大谷刑部は智勇兼ね備えた武将です。小早川秀秋の謀反にもいち早く察知していたと言います。だからこそいち早く陣取りを行い、その場所は正に小早川軍が陣取った松尾山を睨みつけるかの様な立地にあります。もし裏切ったとしても、必ず石田の陣には向かわせないぞ!との意気込みが伝わってくる布陣です。事実攻め込んでくる小早川勢を数度松尾山に引き返させる程奮闘したと伝わります。

  • 大谷刑部の陣跡です。最期を見極めた吉継は此処で切腹します。しかし最期にひとつだけ願いがありました。彼はハンセン病を患い顔は崩れていました。そんな崩れた顔を、首級狩りに遭い、晒し物にされるのだけは避けたいと介錯を務めた湯浅五助に隠す様に託したのでした。

    大谷刑部の陣跡です。最期を見極めた吉継は此処で切腹します。しかし最期にひとつだけ願いがありました。彼はハンセン病を患い顔は崩れていました。そんな崩れた顔を、首級狩りに遭い、晒し物にされるのだけは避けたいと介錯を務めた湯浅五助に隠す様に託したのでした。

  • しかしながら五助は隠し場所を探す為逃亡中、敵方の藤堂高虎の家臣、藤堂仁右衛門に出くわしてしまいました。そこで五助は訳を話し自分の首を差し出す代わりに吉継の首を見逃して欲しいと仁右衛門に伝えました。<br /><br />仁右衛門は藤堂高虎と共に徳川家康に謁見し湯浅五助の首級を差し出し褒められます。そして吉継の首のありかを聞き出されました。しかし仁右衛門は、<br /><br />「吉継の首のありかは知っているが、武士として五助との約束を破る訳にはいきませんのでお伝え出来ません。」<br /><br />と答えたそうな。そんな振る舞いに家康も<br /><br />「その志、決して忘るるでないぞ。」<br /><br />と褒美をつかわせたと言います。

    しかしながら五助は隠し場所を探す為逃亡中、敵方の藤堂高虎の家臣、藤堂仁右衛門に出くわしてしまいました。そこで五助は訳を話し自分の首を差し出す代わりに吉継の首を見逃して欲しいと仁右衛門に伝えました。

    仁右衛門は藤堂高虎と共に徳川家康に謁見し湯浅五助の首級を差し出し褒められます。そして吉継の首のありかを聞き出されました。しかし仁右衛門は、

    「吉継の首のありかは知っているが、武士として五助との約束を破る訳にはいきませんのでお伝え出来ません。」

    と答えたそうな。そんな振る舞いに家康も

    「その志、決して忘るるでないぞ。」

    と褒美をつかわせたと言います。

  • 介錯を務め、自らの首を差し出して迄主君の首を守った五助も立派ですし、敵の重要人物の首を差し出せば大恩賞確実であったにも拘らず、決して約束を違えなかった仁右衛門も立派でした。そして、敵の重要人物の生死確認は当時の重要事項だったにも拘らず、それを認め、更に恩賞を与えた家康もまた立派だったと思います。全員100点満点です!もう涙が止まりません。<br /><br /> 私は清廉潔癖な石田三成が大好きなので、その正反対であるかの様な政治家気質の家康は嫌いなタイプの筆頭の筈です。でも家康を嫌いになりきれない自分もいます。<br /><br /> 大谷刑部、平塚為広そして湯浅五助。関ヶ原で一番美しくも哀しい、人として忘れたくない、いや、決して失ってはいけない事を教えてくれる地域を歩きました。私の最大のおすすめスポットです。では、打って変わって、裏切り者ゾーンに突入します。

    介錯を務め、自らの首を差し出して迄主君の首を守った五助も立派ですし、敵の重要人物の首を差し出せば大恩賞確実であったにも拘らず、決して約束を違えなかった仁右衛門も立派でした。そして、敵の重要人物の生死確認は当時の重要事項だったにも拘らず、それを認め、更に恩賞を与えた家康もまた立派だったと思います。全員100点満点です!もう涙が止まりません。

     私は清廉潔癖な石田三成が大好きなので、その正反対であるかの様な政治家気質の家康は嫌いなタイプの筆頭の筈です。でも家康を嫌いになりきれない自分もいます。

     大谷刑部、平塚為広そして湯浅五助。関ヶ原で一番美しくも哀しい、人として忘れたくない、いや、決して失ってはいけない事を教えてくれる地域を歩きました。私の最大のおすすめスポットです。では、打って変わって、裏切り者ゾーンに突入します。

  • 山を下りJR線の踏切を渡ります。関が原は一般駅に平原を歩きますが、宇喜多秀家の陣跡のある南天満山から大谷刑部関連の史跡は鬱蒼と木々が茂る軽い山道が続きました。涙脆いのでそんな山道で助かりました。

    山を下りJR線の踏切を渡ります。関が原は一般駅に平原を歩きますが、宇喜多秀家の陣跡のある南天満山から大谷刑部関連の史跡は鬱蒼と木々が茂る軽い山道が続きました。涙脆いのでそんな山道で助かりました。

  • JR線が通り過ぎていきます。そう言えば関が原周辺は、鉄道にとっても難所で在り、新幹線が良く止まっていた過去がありました。

    JR線が通り過ぎていきます。そう言えば関が原周辺は、鉄道にとっても難所で在り、新幹線が良く止まっていた過去がありました。

  • 此方は脇坂安治の陣跡、脇坂安治は賤ケ岳七本槍の一人。つまり流れ的に東軍に組して然りでしょう。関ヶ原の合戦では流れ的に小早川秀秋の裏切りに同調する様なタイミングで東軍に寝返りましたが、事前に東軍に寝返る事は家康に報告済みだったと言われます。<br /><br />「何かあったら先ず一方!」とは現代でも現場で良く言われる事ではありますが、戦国時代も同様だった様です。小早川秀秋の裏切りに連鎖して、事前に報告していた脇坂安治を始め、近くに布陣していた朽木元綱、小川裕忠、赤座直保も連鎖して裏切ります。この事により大谷刑部隊は壊滅、関ヶ原の合戦の雌雄は決まった訳ですから、彼等は表彰者かと思えば、運命は全く違ったものでした。<br /><br /> 事前報告した脇坂安治は所領安堵されたものの、事前に報告せず日和見を決めつけ勝者に後乗りした格好の三人は減俸されたり、改易されたり、散々な末路だったのです。

    此方は脇坂安治の陣跡、脇坂安治は賤ケ岳七本槍の一人。つまり流れ的に東軍に組して然りでしょう。関ヶ原の合戦では流れ的に小早川秀秋の裏切りに同調する様なタイミングで東軍に寝返りましたが、事前に東軍に寝返る事は家康に報告済みだったと言われます。

    「何かあったら先ず一方!」とは現代でも現場で良く言われる事ではありますが、戦国時代も同様だった様です。小早川秀秋の裏切りに連鎖して、事前に報告していた脇坂安治を始め、近くに布陣していた朽木元綱、小川裕忠、赤座直保も連鎖して裏切ります。この事により大谷刑部隊は壊滅、関ヶ原の合戦の雌雄は決まった訳ですから、彼等は表彰者かと思えば、運命は全く違ったものでした。

     事前報告した脇坂安治は所領安堵されたものの、事前に報告せず日和見を決めつけ勝者に後乗りした格好の三人は減俸されたり、改易されたり、散々な末路だったのです。

  • さて、関が原一の問題児、小早川秀秋の陣に向かいます。流石問題児、彼の陣は山の上です。今朝、佐和山城に登りました。関ヶ原の街をグルリと歩き続けてきました。もう私の足腰は限界に来ています。それなのに再び登山は拷問です。

    さて、関が原一の問題児、小早川秀秋の陣に向かいます。流石問題児、彼の陣は山の上です。今朝、佐和山城に登りました。関ヶ原の街をグルリと歩き続けてきました。もう私の足腰は限界に来ています。それなのに再び登山は拷問です。

  • 麓にご親切に杖が貸し出されていました。ご好意に感謝して使わせて頂きます。早速登山を開始しましょう。最初こそ佐和山の城より随分整備されていて、道幅も広く快適な登山となりました。

    麓にご親切に杖が貸し出されていました。ご好意に感謝して使わせて頂きます。早速登山を開始しましょう。最初こそ佐和山の城より随分整備されていて、道幅も広く快適な登山となりました。

  • でも、やっぱり最後は徐々に急になっていき、一段が高い階段が続きます。遂に途中休憩を取ってしまう始末、一度休んでしまうと急激に体が重くなります。負けてたまるか!

    でも、やっぱり最後は徐々に急になっていき、一段が高い階段が続きます。遂に途中休憩を取ってしまう始末、一度休んでしまうと急激に体が重くなります。負けてたまるか!

  • 漸く山頂に辿り着きました。どうやら昔は城だった様で、土塁や曲輪跡も残されています。私は眼力が無いですが、好きな人には夢中になれる城跡だと思います。私にはもう余力も時間も残されていないので目に入る部分だけに留めておきます。少なくとも小早川秀秋の陣跡はそれ以前からの城跡の本丸跡でした。

    漸く山頂に辿り着きました。どうやら昔は城だった様で、土塁や曲輪跡も残されています。私は眼力が無いですが、好きな人には夢中になれる城跡だと思います。私にはもう余力も時間も残されていないので目に入る部分だけに留めておきます。少なくとも小早川秀秋の陣跡はそれ以前からの城跡の本丸跡でした。

  • 小早川秀秋の陣跡です。ある意味関ヶ原の合戦の勝敗を握っていた人物。小早川秀秋は豊臣秀吉が甥である関係から1万5千と言う関ヶ原の戦いに参加した武将の中でもトップクラスの兵数を保有していました。ですから両軍から声がかかっていました。勿論血族ですから豊臣方にも恩顧があるけれど、徳川家康にも恩はある。<br /><br /> に対して彼は若干19歳。こんな大事を前にして答を出せるには若過ぎます。純情過ぎます。時に人は有り余るものを持つと言う事は不幸な事に思います。余計な力を持ってしまったばっかりに、周りはその力を得んとして、心にも無い事を言い。言い寄ります。<br /><br /> 決して自分の実力を求めて近づいてきたのでは無い。自分の持っている兵力が欲しいだけだ。そんな事は19歳でも十分解っていた事でしょう。それを想うと胸が締め付けられそうになります。

    小早川秀秋の陣跡です。ある意味関ヶ原の合戦の勝敗を握っていた人物。小早川秀秋は豊臣秀吉が甥である関係から1万5千と言う関ヶ原の戦いに参加した武将の中でもトップクラスの兵数を保有していました。ですから両軍から声がかかっていました。勿論血族ですから豊臣方にも恩顧があるけれど、徳川家康にも恩はある。

     に対して彼は若干19歳。こんな大事を前にして答を出せるには若過ぎます。純情過ぎます。時に人は有り余るものを持つと言う事は不幸な事に思います。余計な力を持ってしまったばっかりに、周りはその力を得んとして、心にも無い事を言い。言い寄ります。

     決して自分の実力を求めて近づいてきたのでは無い。自分の持っている兵力が欲しいだけだ。そんな事は19歳でも十分解っていた事でしょう。それを想うと胸が締め付けられそうになります。

  • 松尾山から三成公の陣地を眺めます。三成公も唇を噛みながら、動かない松尾山を睨んでいた事と思います。正義感が強い彼は、秀吉公の甥っ子なのに何故動かない…。と感じていたに違いありません。

    松尾山から三成公の陣地を眺めます。三成公も唇を噛みながら、動かない松尾山を睨んでいた事と思います。正義感が強い彼は、秀吉公の甥っ子なのに何故動かない…。と感じていたに違いありません。

  • 松尾山からは三成公の陣地ならず関が原一帯が一望できます。痺れを切らした家康が松尾山に向けて大砲を撃ったと言う逸話がありますが、この山に登ってその逸話が嘘っぱちだと確信しました。当時の大砲の技術では到底松尾山迄は届かないでしょう。

    松尾山からは三成公の陣地ならず関が原一帯が一望できます。痺れを切らした家康が松尾山に向けて大砲を撃ったと言う逸話がありますが、この山に登ってその逸話が嘘っぱちだと確信しました。当時の大砲の技術では到底松尾山迄は届かないでしょう。

  • しかし家康の大群が大移動を始めたらどうでしょう?この山からもクッキリと見える事でしょう。そしてその時秀秋は出川哲郎どころじゃなかったでしょう。ヤバいよ、ヤバいよ!もう死んでしまった叔父の事等どうでも良くなってしまった事でしょう。大群で前進してくる怒れる恩人の方がよっぽど怖かった筈です。これが古参の武将なら、もっと粋な判断が出来たかもしれませんが、彼は未だ19歳。恐れに追われる様に東軍に組する決断を下してしまったのでしょう。<br /><br />そして自分の下した判断の重さに彼は苦しむ事になります。褒められたにしても、裏切り者と罵られたにしても、そのどちらの言葉も彼の心を切り刻んだ事でしょう。彼は心を患い(アルコール依存症とも言われる)弱冠22歳でこの世を去る事になり、400年経た今も尚、裏切り者のレッテルは拭えていません。

    しかし家康の大群が大移動を始めたらどうでしょう?この山からもクッキリと見える事でしょう。そしてその時秀秋は出川哲郎どころじゃなかったでしょう。ヤバいよ、ヤバいよ!もう死んでしまった叔父の事等どうでも良くなってしまった事でしょう。大群で前進してくる怒れる恩人の方がよっぽど怖かった筈です。これが古参の武将なら、もっと粋な判断が出来たかもしれませんが、彼は未だ19歳。恐れに追われる様に東軍に組する決断を下してしまったのでしょう。

    そして自分の下した判断の重さに彼は苦しむ事になります。褒められたにしても、裏切り者と罵られたにしても、そのどちらの言葉も彼の心を切り刻んだ事でしょう。彼は心を患い(アルコール依存症とも言われる)弱冠22歳でこの世を去る事になり、400年経た今も尚、裏切り者のレッテルは拭えていません。

  • 天守付近には昔の城跡が残り、説明も詳しいです。<br /><br />そしてこの山頂で悩みに悩んだ小早川秀秋同様、この山で自分の去就を悩む冴えない男がいました。即ち私です。昨日草津から彦根に向かう車内で、途中安土と言う駅を通過した事を思い出しました。安土にはきっと安土城跡があるのでしょう。再び持病が発症してしまいました。…いってみたい!そんなおり、彦根の姉御から私の安否を気遣うメールがきました。その文中に<br /><br />「今、新幹線止まってる。」(弘前の時もそうだった…私は新幹線に嫌われてる?)<br /><br /> その文面に私の決意は決まりました。<br /><br />「目指すは自宅に有らず!安土城に出陣じゃぁ~!」

    天守付近には昔の城跡が残り、説明も詳しいです。

    そしてこの山頂で悩みに悩んだ小早川秀秋同様、この山で自分の去就を悩む冴えない男がいました。即ち私です。昨日草津から彦根に向かう車内で、途中安土と言う駅を通過した事を思い出しました。安土にはきっと安土城跡があるのでしょう。再び持病が発症してしまいました。…いってみたい!そんなおり、彦根の姉御から私の安否を気遣うメールがきました。その文中に

    「今、新幹線止まってる。」(弘前の時もそうだった…私は新幹線に嫌われてる?)

     その文面に私の決意は決まりました。

    「目指すは自宅に有らず!安土城に出陣じゃぁ~!」

  • 下山途中に遂に私はヘタってしまいました。思えば昼飯さえ食べていない…。夢中になると食べる事さえ忘れてしまう…私の悪い癖です。もう力が出ません。…と思った時に鞄の中に初日に買った因幡の白うさぎの銘菓が残っている事に気付きました。抹茶の甘い餡が胃袋に染み渡ります。俄然パワーが漲りました。ありがとう!因幡の白うさぎ!

    下山途中に遂に私はヘタってしまいました。思えば昼飯さえ食べていない…。夢中になると食べる事さえ忘れてしまう…私の悪い癖です。もう力が出ません。…と思った時に鞄の中に初日に買った因幡の白うさぎの銘菓が残っている事に気付きました。抹茶の甘い餡が胃袋に染み渡ります。俄然パワーが漲りました。ありがとう!因幡の白うさぎ!

  • また、きてね!って心遣いが素敵です。完璧に城跡見切れていないし、また来る必要がありますね!<br /><br /> さて、小早川秀秋の決断により関ヶ原の合戦は6時間と言う、こうした大規模の戦いに置いて驚くべき速さで終結へと向かった訳ですが、私は徳川家康の狙いがあったからだと考えています。(だから家康はリスクもあった本陣の大前進を行った。→結果狙いは的中、小早川が動く。)その理由は関ヶ原の合戦は関が原だけで戦われていた訳では無いからです。<br /><br /> 西は遠く九州では、黒田官兵衛や加藤清正が島津軍と、東では伊達勢が、戦闘直前で引き返す形となった上杉勢と交戦していました。黒田官兵衛や伊達政宗は、東軍には属していましたが、火事場泥棒的な二心も抱いていたと囁かれています。例えそうでなかったにしろ、一旦戦闘が始まってしまうと、それを制御し統制する事は現在のウクライナ紛争を見ても容易では無い事は明白です。<br /><br /> 迂闊に戦闘を長引かせる事は、上杉討伐を目的としている兵を関ヶ原の合戦に流用している形となっている東軍の士気の低下させる恐れがあるばかりか、そうした地方で二心を持ち戦う諸将が暴走し制御不能になってしまう恐れもあります。そうなってしまっては、新しい国造りは愚か、纏まりかけた世を、一気に戦国の世に舞い戻らせてしまう結果に繋がりかねません。<br /><br /> 西軍は1800の兵数で守る伏見城を4万の兵で囲みながら、落城させるのに二週間もかかっています。西軍が大軍で守る大垣城で、攻城戦となったら数か月を要してしまうかもしれません。しかし家康にはそんな時間は残されていなかったと思います。そして家康は賭けに出て、そして桃配山を目指したのだと思います。そして目論見通り石田三成は動きました。<br /><br /> こうして誰もが驚く速さで戦争が終結した事で、東西の野望を抱いて戦っていた武将達は戦いの火蓋を切った瞬間に梯子を外される結果となり、まるで一喝されたかの様に、振り上げた剣を下ろすしかなかったのだと思います。こうして合戦後の日本の平和は保たれる結果となったのです。<br /><br /> 徳川家康は、石田三成率いる西軍だけでは無く、時間とも戦っていたと言えるでしょう。

    また、きてね!って心遣いが素敵です。完璧に城跡見切れていないし、また来る必要がありますね!

     さて、小早川秀秋の決断により関ヶ原の合戦は6時間と言う、こうした大規模の戦いに置いて驚くべき速さで終結へと向かった訳ですが、私は徳川家康の狙いがあったからだと考えています。(だから家康はリスクもあった本陣の大前進を行った。→結果狙いは的中、小早川が動く。)その理由は関ヶ原の合戦は関が原だけで戦われていた訳では無いからです。

     西は遠く九州では、黒田官兵衛や加藤清正が島津軍と、東では伊達勢が、戦闘直前で引き返す形となった上杉勢と交戦していました。黒田官兵衛や伊達政宗は、東軍には属していましたが、火事場泥棒的な二心も抱いていたと囁かれています。例えそうでなかったにしろ、一旦戦闘が始まってしまうと、それを制御し統制する事は現在のウクライナ紛争を見ても容易では無い事は明白です。

     迂闊に戦闘を長引かせる事は、上杉討伐を目的としている兵を関ヶ原の合戦に流用している形となっている東軍の士気の低下させる恐れがあるばかりか、そうした地方で二心を持ち戦う諸将が暴走し制御不能になってしまう恐れもあります。そうなってしまっては、新しい国造りは愚か、纏まりかけた世を、一気に戦国の世に舞い戻らせてしまう結果に繋がりかねません。

     西軍は1800の兵数で守る伏見城を4万の兵で囲みながら、落城させるのに二週間もかかっています。西軍が大軍で守る大垣城で、攻城戦となったら数か月を要してしまうかもしれません。しかし家康にはそんな時間は残されていなかったと思います。そして家康は賭けに出て、そして桃配山を目指したのだと思います。そして目論見通り石田三成は動きました。

     こうして誰もが驚く速さで戦争が終結した事で、東西の野望を抱いて戦っていた武将達は戦いの火蓋を切った瞬間に梯子を外される結果となり、まるで一喝されたかの様に、振り上げた剣を下ろすしかなかったのだと思います。こうして合戦後の日本の平和は保たれる結果となったのです。

     徳川家康は、石田三成率いる西軍だけでは無く、時間とも戦っていたと言えるでしょう。

  • 月見宮大杉です。この杉は関が原合戦屏風にも描かれている大杉です。樹齢は推定800年と言われています。この杉は当時関ヶ原の合戦を見下ろしていたと思うと感動を覚えます。杉さん、お杉さん、どうか、語っては頂けませんか?

    月見宮大杉です。この杉は関が原合戦屏風にも描かれている大杉です。樹齢は推定800年と言われています。この杉は当時関ヶ原の合戦を見下ろしていたと思うと感動を覚えます。杉さん、お杉さん、どうか、語っては頂けませんか?

  • そんな大杉の袂に福島正則の陣跡があります。加藤清正と共に賤ケ岳の七本槍の一人として豊臣秀吉に仕えてきた豊臣家の忠臣です。大の武辺もので朝鮮の役でも清正と共に大活躍しますが、石田三成の裁定に激怒。七将襲撃事件を起こし、以来徳川家康に傾倒してしまいます。結果一番大切にしていた豊臣家への忠心、秀吉の世継ぎ秀頼の保護さえ出来ずに、後悔の晩年を送るばかりか、改易の憂き目に遭い失意のままこの世を去ります。<br /><br /> 一時の感情に揺すぶられ、一番大切なものを見失ってしまいました。同じ立場と言える加藤清正が東軍に組しながら、なんとか秀頼公を安堵出来ないか模索していたのに対し、正則は愚痴が多かったので、余計そうしたイメージが強くなります。<br />ある日、正則は清正に外様大名としての城造りの酷使等に対して愚痴ったと言います。すると清正は<br /><br />「そんな事言うなら、国に帰って謀反の準備をしろ!」<br /><br />と窘められたと言います。

    そんな大杉の袂に福島正則の陣跡があります。加藤清正と共に賤ケ岳の七本槍の一人として豊臣秀吉に仕えてきた豊臣家の忠臣です。大の武辺もので朝鮮の役でも清正と共に大活躍しますが、石田三成の裁定に激怒。七将襲撃事件を起こし、以来徳川家康に傾倒してしまいます。結果一番大切にしていた豊臣家への忠心、秀吉の世継ぎ秀頼の保護さえ出来ずに、後悔の晩年を送るばかりか、改易の憂き目に遭い失意のままこの世を去ります。

     一時の感情に揺すぶられ、一番大切なものを見失ってしまいました。同じ立場と言える加藤清正が東軍に組しながら、なんとか秀頼公を安堵出来ないか模索していたのに対し、正則は愚痴が多かったので、余計そうしたイメージが強くなります。
    ある日、正則は清正に外様大名としての城造りの酷使等に対して愚痴ったと言います。すると清正は

    「そんな事言うなら、国に帰って謀反の準備をしろ!」

    と窘められたと言います。

  • 続いて藤堂高虎と京極高知の陣跡です。なんと高校の敷地内にあります。この時点で5時を回っていたので、見れないかと思いましたが開放されていました。ありがとうございます。<br /><br /> 藤堂高虎は小早川秀秋や脇坂安治を始め次々と東軍に寝返った武将達に調略をしかけた人物と言います。また城造りにも長け家康には重用された武将です。一方京極高知も奮戦し、加増を受けてます。更に兄の京極高次は西軍の猛将立花宗茂を大津城で足止めさせ関ヶ原の合戦に参戦させない大功を立てました。因みに京極高次は浅野三姉妹の次女初(姉は淀君、妹は徳川秀忠の妻、江)の夫でもあります。

    続いて藤堂高虎と京極高知の陣跡です。なんと高校の敷地内にあります。この時点で5時を回っていたので、見れないかと思いましたが開放されていました。ありがとうございます。

     藤堂高虎は小早川秀秋や脇坂安治を始め次々と東軍に寝返った武将達に調略をしかけた人物と言います。また城造りにも長け家康には重用された武将です。一方京極高知も奮戦し、加増を受けてます。更に兄の京極高次は西軍の猛将立花宗茂を大津城で足止めさせ関ヶ原の合戦に参戦させない大功を立てました。因みに京極高次は浅野三姉妹の次女初(姉は淀君、妹は徳川秀忠の妻、江)の夫でもあります。

  • 西首塚にやって来ました。出発直後に参拝した東首塚と共に、関が原に散った多くの将兵達を弔った碑です。千手観音と馬頭観音が安置されていました。

    西首塚にやって来ました。出発直後に参拝した東首塚と共に、関が原に散った多くの将兵達を弔った碑です。千手観音と馬頭観音が安置されていました。

  • 本多忠勝の陣跡にやってきました。此処周囲は自然の多い関が原にあっても、駅から近い事もあり住宅地となっている場所です。一般民家に挟まれてひっそりと残っていました。井伊直政と共に徳川四天王を支える一人、蜻蛉きりは余りにも有名です。

    本多忠勝の陣跡にやってきました。此処周囲は自然の多い関が原にあっても、駅から近い事もあり住宅地となっている場所です。一般民家に挟まれてひっそりと残っていました。井伊直政と共に徳川四天王を支える一人、蜻蛉きりは余りにも有名です。

  • 関ケ原宿の碑がありました。日本橋から続く東海道、そこから続く中山道の宿場関ヶ原の宿です。

    関ケ原宿の碑がありました。日本橋から続く東海道、そこから続く中山道の宿場関ヶ原の宿です。

  • 旧中山道の松並木に陽が沈みます。もう体はボロボロです。頭は考え過ぎてグラグラです。でも、もう少し、もう少しです。

    旧中山道の松並木に陽が沈みます。もう体はボロボロです。頭は考え過ぎてグラグラです。でも、もう少し、もう少しです。

  • 山内一豊の陣跡です。山内一豊と言えば「功名が辻」の主人公です。関が原合戦中家康の陣より東に陣取っています。つまり徳川家康の最初の陣より後方です。いったいどう言う事でしょう?<br /><br /> 此処から合戦が行われた場所の逆方向、即ち東側の南宮山には毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家等総数約2万5千の大部隊が着陣していたのです。<br /><br /> 家康はこれに対し池田輝政、山内一豊等の部隊を後詰とはして配置したのでこの様な布陣となりました。しかし、これらの2万5千にも及ぶ南宮山の兵力に一挙に背後を突かれてはひとたまりもありません。勿論家康はそんな事百も承知です。南宮山の一番麓に陣取った吉川広家を調略していたのです。この時既に家康と広家は戦後処理を進めていたとも言われます。<br /><br /> 一方広家の部隊より山上の部隊は苛々していた事でしょう。笹尾山から総攻撃の狼煙が上がったにも関わらず、吉川軍は微動だにしません。西軍に属している以上敗北してしまえば、どんなお咎めが待っているか解りません。中でも、前哨戦に手柄を立て、毛利勢の中でも好戦的だった毛利秀元は歯噛みしていた事でしょう。(実際遺恨は残したと言います。)しかし吉川広家は南宮山の麓に、字の如く山の様に動く事無く、南宮山部隊は全く機能しないまま、関ヶ原の合戦は終わりました。<br /><br /> 当初三成は、南宮山の毛利、松尾山の小早川を両翼に鶴翼の陣にて東軍を関ヶ原に袋の鼠にする算段でした。しかし、毛利を支えるべき両川、即ち吉川と小早川が機能不全を起こした事で、鶴翼の陣の両翼は失われてしまったのです。<br /><br /> そんな南宮山にも訪れたかったのですが、生憎関ヶ原で手に入れたパンフレットには圏外。(南宮山の最寄り駅はJR垂井駅です。)そして何より時間も体力も残されておらず、私もまた、両翼を奪われたヒヨコの様な状態です。無念ですが、これにて退陣しようかと思います。

    山内一豊の陣跡です。山内一豊と言えば「功名が辻」の主人公です。関が原合戦中家康の陣より東に陣取っています。つまり徳川家康の最初の陣より後方です。いったいどう言う事でしょう?

     此処から合戦が行われた場所の逆方向、即ち東側の南宮山には毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家等総数約2万5千の大部隊が着陣していたのです。

     家康はこれに対し池田輝政、山内一豊等の部隊を後詰とはして配置したのでこの様な布陣となりました。しかし、これらの2万5千にも及ぶ南宮山の兵力に一挙に背後を突かれてはひとたまりもありません。勿論家康はそんな事百も承知です。南宮山の一番麓に陣取った吉川広家を調略していたのです。この時既に家康と広家は戦後処理を進めていたとも言われます。

     一方広家の部隊より山上の部隊は苛々していた事でしょう。笹尾山から総攻撃の狼煙が上がったにも関わらず、吉川軍は微動だにしません。西軍に属している以上敗北してしまえば、どんなお咎めが待っているか解りません。中でも、前哨戦に手柄を立て、毛利勢の中でも好戦的だった毛利秀元は歯噛みしていた事でしょう。(実際遺恨は残したと言います。)しかし吉川広家は南宮山の麓に、字の如く山の様に動く事無く、南宮山部隊は全く機能しないまま、関ヶ原の合戦は終わりました。

     当初三成は、南宮山の毛利、松尾山の小早川を両翼に鶴翼の陣にて東軍を関ヶ原に袋の鼠にする算段でした。しかし、毛利を支えるべき両川、即ち吉川と小早川が機能不全を起こした事で、鶴翼の陣の両翼は失われてしまったのです。

     そんな南宮山にも訪れたかったのですが、生憎関ヶ原で手に入れたパンフレットには圏外。(南宮山の最寄り駅はJR垂井駅です。)そして何より時間も体力も残されておらず、私もまた、両翼を奪われたヒヨコの様な状態です。無念ですが、これにて退陣しようかと思います。

  • そして関ケ原散策、最後に訪れたのは徳川家康最初の陣地です。即ち桃配山と言う事になります。こう見て見ると開戦地から遠く東に離れた地であると言えます。背後に陣取った南宮山の毛利系勢力の動向を探る必要性もあったでしょうが、戦いは手駒達に任せ、家康は此処で存在感を示すだけのつもりだったのかもしれません。

    そして関ケ原散策、最後に訪れたのは徳川家康最初の陣地です。即ち桃配山と言う事になります。こう見て見ると開戦地から遠く東に離れた地であると言えます。背後に陣取った南宮山の毛利系勢力の動向を探る必要性もあったでしょうが、戦いは手駒達に任せ、家康は此処で存在感を示すだけのつもりだったのかもしれません。

  • 桃配山から、遠く関が原を遠望します。家康の目論見とは裏腹に、序盤は西軍有利、そして膠着状態に陥りました。動くべく小早川が動かない。痺れを切らした家康は意を決して、旅の出発点となった古戦場記念館付近まで一気に大軍を移動させます。それに焦った小早川が動き、まさしく戦況が動く事になりました。<br /><br /> 大将が動くと言う事は大きなリスクもありますが、戦いを鼓舞すると言う大きなリターンもありました。現場のモチベーションを上げる事は、現代戦なら兎も角、当時は大きな意味を持ったのです。大坂の陣は幸村が幾度も秀頼の出陣を乞いましたが淀君がそれを決して許しませんでした。流石家康の勝負師としての采配が光ったところに思います。

    桃配山から、遠く関が原を遠望します。家康の目論見とは裏腹に、序盤は西軍有利、そして膠着状態に陥りました。動くべく小早川が動かない。痺れを切らした家康は意を決して、旅の出発点となった古戦場記念館付近まで一気に大軍を移動させます。それに焦った小早川が動き、まさしく戦況が動く事になりました。

     大将が動くと言う事は大きなリスクもありますが、戦いを鼓舞すると言う大きなリターンもありました。現場のモチベーションを上げる事は、現代戦なら兎も角、当時は大きな意味を持ったのです。大坂の陣は幸村が幾度も秀頼の出陣を乞いましたが淀君がそれを決して許しませんでした。流石家康の勝負師としての采配が光ったところに思います。

  •  私が好きな武将は石田三成です。清廉潔癖で私利私欲が無く、義に篤い。そんな彼が好きだから、狸親父として知られ、大の政治家タイプの家康は、本来嫌いなタイプです。でも私は家康を嫌いにはなり切れません。<br /><br /> 彼も義を大切にし、不義を嫌うエピソードが多いです。例えば先に記した様に、報告も無しに戦況を見て裏切りを行った武将には味方についたとしても冷遇した件とか、敵将である首実験を前に、武将同士の約束を違う事は出来ないと決して大谷吉継の首のありかを喋ろうとしなかった仁右衛門に褒美を与えたり。例を挙げたらきりがありません。

     私が好きな武将は石田三成です。清廉潔癖で私利私欲が無く、義に篤い。そんな彼が好きだから、狸親父として知られ、大の政治家タイプの家康は、本来嫌いなタイプです。でも私は家康を嫌いにはなり切れません。

     彼も義を大切にし、不義を嫌うエピソードが多いです。例えば先に記した様に、報告も無しに戦況を見て裏切りを行った武将には味方についたとしても冷遇した件とか、敵将である首実験を前に、武将同士の約束を違う事は出来ないと決して大谷吉継の首のありかを喋ろうとしなかった仁右衛門に褒美を与えたり。例を挙げたらきりがありません。

  • 勿論家康はこれから開くべく幕府の為に、裏切りなんて朝飯前と言う戦国期の常識を覆す必要があったのは確かでしょう。そしてそんな家康が求めた、これからの見本となる武将、それが石田三成だったと思うのです。そんな三成は成敗せずにはいられませんでしたが、家康は彼の子孫を見逃したのも、そんな彼の義心が動いたからではないでしょうか?上辺で徳川に靡いた大名が続々と改易される中、三成の子孫は三代将軍家光の側室にさえなっています。そして武家諸法度が制定され、武士道が生まれます。その武士道の見本に、私は石田三成がいると思うのです。

    勿論家康はこれから開くべく幕府の為に、裏切りなんて朝飯前と言う戦国期の常識を覆す必要があったのは確かでしょう。そしてそんな家康が求めた、これからの見本となる武将、それが石田三成だったと思うのです。そんな三成は成敗せずにはいられませんでしたが、家康は彼の子孫を見逃したのも、そんな彼の義心が動いたからではないでしょうか?上辺で徳川に靡いた大名が続々と改易される中、三成の子孫は三代将軍家光の側室にさえなっています。そして武家諸法度が制定され、武士道が生まれます。その武士道の見本に、私は石田三成がいると思うのです。

  • 徳川家康。彼もまた義を貴んだ漢だったと思います。そして関ケ原の合戦も勝つべくして勝ったと思います。石田三成は只義を以て戦いに挑みました。しかし、勝ったとて彼は官僚に過ぎず、政治家ではありません。その先のビジョンは持ち合わせてはいませんでした。対して家康は確かなヴィジョンを持っていました。勝利した後の確かな絵を描けていました。そして彼はその絵を描き切りました。その絵には三成の残した義がしっかりと描かれ、今も尚日本人の心の中に生きています。

    徳川家康。彼もまた義を貴んだ漢だったと思います。そして関ケ原の合戦も勝つべくして勝ったと思います。石田三成は只義を以て戦いに挑みました。しかし、勝ったとて彼は官僚に過ぎず、政治家ではありません。その先のビジョンは持ち合わせてはいませんでした。対して家康は確かなヴィジョンを持っていました。勝利した後の確かな絵を描けていました。そして彼はその絵を描き切りました。その絵には三成の残した義がしっかりと描かれ、今も尚日本人の心の中に生きています。

  • 関ケ原、数々の武将が此処で戦い、流した血は、決して無駄にはなっていません。義の心として、今も尚日本人の血となり、流れ続ける事でしょう。未来永劫に!<br /><br />現在18時40分、記念館のVRが終了したのが11時40分。約6時間、関が原を歩き倒しました。奇しくも関ヶ原の戦いが行われた時間とほぼ一緒の時間です。もう体力が一片たりとも残っていません。とても東京までは戻れません。

    関ケ原、数々の武将が此処で戦い、流した血は、決して無駄にはなっていません。義の心として、今も尚日本人の血となり、流れ続ける事でしょう。未来永劫に!

    現在18時40分、記念館のVRが終了したのが11時40分。約6時間、関が原を歩き倒しました。奇しくも関ヶ原の戦いが行われた時間とほぼ一緒の時間です。もう体力が一片たりとも残っていません。とても東京までは戻れません。

  • そんな訳で彦根に出戻ってしまいました。明日はもう1日延泊して安土に向かいたく思います。<br /><br />最後に本日巡った陣跡の主なものを地図に記しました。関ヶ原と大きく書かれた部分から北上し、石田三成陣跡から南下。松尾山立ち寄り、桃配山を目指しました。陣跡の位置関係の参考になれば幸いです。<br /><br />因みに、岡山烽火場から決戦地に抜ける道(岡山烽火場、決戦地単体にはアプローチ化)、また南天満山から大谷刑部、平塚為広等の陣跡群は徒歩のみのコースです。自転車は入れないので注意です。また松尾山も登山なので自転車は麓に置いて登る事になります。<br /><br />最後迄ご覧になって下さり、ありがとうございます。

    そんな訳で彦根に出戻ってしまいました。明日はもう1日延泊して安土に向かいたく思います。

    最後に本日巡った陣跡の主なものを地図に記しました。関ヶ原と大きく書かれた部分から北上し、石田三成陣跡から南下。松尾山立ち寄り、桃配山を目指しました。陣跡の位置関係の参考になれば幸いです。

    因みに、岡山烽火場から決戦地に抜ける道(岡山烽火場、決戦地単体にはアプローチ化)、また南天満山から大谷刑部、平塚為広等の陣跡群は徒歩のみのコースです。自転車は入れないので注意です。また松尾山も登山なので自転車は麓に置いて登る事になります。

    最後迄ご覧になって下さり、ありがとうございます。

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