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延泊に延泊を重ね、最終日は彦根から安土城を目指しました。最初は未訪問県訪問の旅で始まった旅でしたが、私のやり残していた歴史を満喫する旅も叶いました。<br /><br />来週土曜日から、また海外を旅します。旅の途中は旅に集中したい為、皆様の訪問は帰国後になります。ご了承ください。

未訪問県訪問の旅の筈が…彦根城、安土城編

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2025/05/01 - 2025/05/01

222位(同エリア1302件中)

旅行記グループ 日本の旅

2

140

さっくん

さっくんさん

延泊に延泊を重ね、最終日は彦根から安土城を目指しました。最初は未訪問県訪問の旅で始まった旅でしたが、私のやり残していた歴史を満喫する旅も叶いました。

来週土曜日から、また海外を旅します。旅の途中は旅に集中したい為、皆様の訪問は帰国後になります。ご了承ください。

旅行の満足度
5.0
  • 再び彦根で朝を迎えました。昨日と全く変わらない朝食を頂きます。もしかしてループしてる?

    再び彦根で朝を迎えました。昨日と全く変わらない朝食を頂きます。もしかしてループしてる?

  • 朝一でホテルから佐和山に朝の挨拶を済ませます。

    朝一でホテルから佐和山に朝の挨拶を済ませます。

  • このまま彦根を去るのも勿体ないので、ちょっと朝の彦根を歩きましょう。松の木の向こうに彦根城の天守閣が覗きました。

    このまま彦根を去るのも勿体ないので、ちょっと朝の彦根を歩きましょう。松の木の向こうに彦根城の天守閣が覗きました。

  • 彦根城、沢口門多門櫓。嗚呼美しい!

    彦根城、沢口門多門櫓。嗚呼美しい!

  •  各地に残る城郭は大きな敷地があるので、学校の敷地に利用されている事が多いですが、彦根城もそうなのでしょうか?数多くの学生さんが自転車に乗りながら城内に消えていきます。羨ましいなぁ、現存12天守閣の彦根城が通学路だなんて!

     各地に残る城郭は大きな敷地があるので、学校の敷地に利用されている事が多いですが、彦根城もそうなのでしょうか?数多くの学生さんが自転車に乗りながら城内に消えていきます。羨ましいなぁ、現存12天守閣の彦根城が通学路だなんて!

  • 道路が直角に曲がっています。往時は枡形門があったのでしょう。

    道路が直角に曲がっています。往時は枡形門があったのでしょう。

  • 沢口門多門櫓を反対側から眺めました。

    沢口門多門櫓を反対側から眺めました。

  • 城の外周をウロウロ。土塁の部分もありました。

    城の外周をウロウロ。土塁の部分もありました。

  • 再び表門橋へ。此処まで来てしまうと、予定は安土城に直行でしたが、彦根城に登城しない訳にはいかないでしょう。意を決して表門橋を渡ります。

    再び表門橋へ。此処まで来てしまうと、予定は安土城に直行でしたが、彦根城に登城しない訳にはいかないでしょう。意を決して表門橋を渡ります。

  • ひこにゃ~ん!ひこにゃんに負けてチケット買ってしまいました。

    ひこにゃ~ん!ひこにゃんに負けてチケット買ってしまいました。

  • 16年ぶり、三度目の登城になります。

    16年ぶり、三度目の登城になります。

  • 天秤櫓が見えて来ました。ぐるりと回り込み、頭上の橋を渡って天守閣を目指します。もし、頭上の橋を落とされたら、石垣を這い上がる他、天守閣に辿り着く術はありません。いや、それ以前に上部の櫓から、そして橋の上から一列に並んだ城方の兵士に弓やら鉄砲を撃たれたら、ひとたまりもありません。

    天秤櫓が見えて来ました。ぐるりと回り込み、頭上の橋を渡って天守閣を目指します。もし、頭上の橋を落とされたら、石垣を這い上がる他、天守閣に辿り着く術はありません。いや、それ以前に上部の櫓から、そして橋の上から一列に並んだ城方の兵士に弓やら鉄砲を撃たれたら、ひとたまりもありません。

  • その形状から天秤櫓と名付けられましたが、よく見ると左右対称ではありません。

    その形状から天秤櫓と名付けられましたが、よく見ると左右対称ではありません。

  • 彦根城は建築物資に窮していた様で、佐和山城を始め、大津城等近隣の城を破却、移築して築き上げられました。天秤櫓は長浜城から移築されたものを改装し築かれたと言われています。<br /><br />先程見上げていた橋の上から、登城してきた道を見下ろしています。此処なら登って来る敵兵を撃ちたい放題です。

    彦根城は建築物資に窮していた様で、佐和山城を始め、大津城等近隣の城を破却、移築して築き上げられました。天秤櫓は長浜城から移築されたものを改装し築かれたと言われています。

    先程見上げていた橋の上から、登城してきた道を見下ろしています。此処なら登って来る敵兵を撃ちたい放題です。

  • 天秤櫓内部にも入城出来ます。流石現存する建築だけあって、内部の木材の色に歴史を感じます。

    天秤櫓内部にも入城出来ます。流石現存する建築だけあって、内部の木材の色に歴史を感じます。

  • 坂道を登り天守閣を目指します。彦根城は梯郭式の縄張りを持つ平山城で、三重三階の複合式望楼型の現存天守閣であり5つある国宝の天守閣のひとつです。

    坂道を登り天守閣を目指します。彦根城は梯郭式の縄張りを持つ平山城で、三重三階の複合式望楼型の現存天守閣であり5つある国宝の天守閣のひとつです。

  • 徳川四天王の一人、井伊直政は関ヶ原の合戦後石田三成の居城であった佐和山城に入場しましたが、佐和山城が中世的な山城であった事、敵将の城だった事から新しく城を築く事を計画しましたが、関ヶ原の戦いで島津軍との戦闘の際に負った鉄砲傷が原因で築城前に死去してしまいました。

    徳川四天王の一人、井伊直政は関ヶ原の合戦後石田三成の居城であった佐和山城に入場しましたが、佐和山城が中世的な山城であった事、敵将の城だった事から新しく城を築く事を計画しましたが、関ヶ原の戦いで島津軍との戦闘の際に負った鉄砲傷が原因で築城前に死去してしまいました。

  • その後直政の意思を継ぎ、天下普請で築かれたのが彦根城で、以後江戸時代が終わる迄井伊家の居城として君臨し、井伊家は徳川譜代大名の中で最大の石高を誇る大名家となりました。

    その後直政の意思を継ぎ、天下普請で築かれたのが彦根城で、以後江戸時代が終わる迄井伊家の居城として君臨し、井伊家は徳川譜代大名の中で最大の石高を誇る大名家となりました。

  • 太鼓門に到着しました。此処を潜ると彦根城本丸、即ち天守閣が其処に聳えます。

    太鼓門に到着しました。此処を潜ると彦根城本丸、即ち天守閣が其処に聳えます。

  • 太古櫓と彦根城天守閣。

    太古櫓と彦根城天守閣。

  • 太鼓門から見下ろした登城口。

    太鼓門から見下ろした登城口。

  • 三重の小振りな天守閣ながら、望楼型の入母屋破風と様々な装飾破風が加わり、壮麗な佇まいを感じます。

    三重の小振りな天守閣ながら、望楼型の入母屋破風と様々な装飾破風が加わり、壮麗な佇まいを感じます。

  • ひこにゃんと一緒に。

    ひこにゃんと一緒に。

  • 彦根城の天守閣は大津城を解体しその建材で建てられました。大津城は関ヶ原の前哨戦、鳥居元忠が伏見城にて必死に西軍を抑えて討ち死にした想いを継いだ東軍京極高次が、西軍の猛将立花宗茂の猛攻を必死で防戦しました。最終的に大津城は落城し、降伏した高次は剃髪して高野山に送られましたが、なんとその日は関ヶ原の合戦が行われた日。即ち立花宗茂以下1万5千は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

    彦根城の天守閣は大津城を解体しその建材で建てられました。大津城は関ヶ原の前哨戦、鳥居元忠が伏見城にて必死に西軍を抑えて討ち死にした想いを継いだ東軍京極高次が、西軍の猛将立花宗茂の猛攻を必死で防戦しました。最終的に大津城は落城し、降伏した高次は剃髪して高野山に送られましたが、なんとその日は関ヶ原の合戦が行われた日。即ち立花宗茂以下1万5千は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

  • 大津城を必死に守り、立花宗茂を釘づけにして関が原に向かわせなかった大功により、高次は無事侍に復帰出来たばかりか若狭一国を与えられました。一方西軍としては主力になり得た猛将と1万5千と言う、奇しくも小早川秀秋と同数の兵数を失った事になります。更には猛将として名高い立花宗茂が1万5千の兵を率い関が原に参戦していたら戦いはどう転んだかは解りません。そんな徳川家を救い、立花宗茂をして釘付けにした城だったから、その縁起を担がれて彦根に移築されたのです。

    大津城を必死に守り、立花宗茂を釘づけにして関が原に向かわせなかった大功により、高次は無事侍に復帰出来たばかりか若狭一国を与えられました。一方西軍としては主力になり得た猛将と1万5千と言う、奇しくも小早川秀秋と同数の兵数を失った事になります。更には猛将として名高い立花宗茂が1万5千の兵を率い関が原に参戦していたら戦いはどう転んだかは解りません。そんな徳川家を救い、立花宗茂をして釘付けにした城だったから、その縁起を担がれて彦根に移築されたのです。

  •  井伊家は天守閣を築くにあたって、東軍にとって縁起の良い大津城に肖って、大津城の建材を利用しました。一方佐和山城は敵方の大将の城。その城に日々見下ろされながら暮らす事は屈辱だった事でしょう。こうして佐和山の城は徹底的に破壊され、その建材は彦根城を支える建材として使用されたのです。

     井伊家は天守閣を築くにあたって、東軍にとって縁起の良い大津城に肖って、大津城の建材を利用しました。一方佐和山城は敵方の大将の城。その城に日々見下ろされながら暮らす事は屈辱だった事でしょう。こうして佐和山の城は徹底的に破壊され、その建材は彦根城を支える建材として使用されたのです。

  • さて、こう話していると西軍は伏見城で足止めを喰らい、更に大津城で釘付けにされ、計画は崩れるわ、立花宗重は関が原に間に合わないわ、散々な体だった様に思いますが、一方東軍も、大谷刑部の調略にまんまと引っ掛かって東軍に参加するべく南下していた前田利長の大軍は金沢に引き返してしまうわ、跡継ぎの秀忠も上田城の真田家に足止めを喰らい、関ヶ原の戦いに遅参してしまうわ、こっちもこっちで散々でした。お互い、関ヶ原の戦いに参加させまい!と、戦いは関ヶ原のずっと以前から始まっていたと言う事です。

    さて、こう話していると西軍は伏見城で足止めを喰らい、更に大津城で釘付けにされ、計画は崩れるわ、立花宗重は関が原に間に合わないわ、散々な体だった様に思いますが、一方東軍も、大谷刑部の調略にまんまと引っ掛かって東軍に参加するべく南下していた前田利長の大軍は金沢に引き返してしまうわ、跡継ぎの秀忠も上田城の真田家に足止めを喰らい、関ヶ原の戦いに遅参してしまうわ、こっちもこっちで散々でした。お互い、関ヶ原の戦いに参加させまい!と、戦いは関ヶ原のずっと以前から始まっていたと言う事です。

  • 鉄道が移動の中心となった現代では、この地方の鉄道の要衝は米原駅であり、名古屋方面、北陸方面そして京都方面と分岐しますが、戦国時代から江戸時代にかけては此処彦根が交通の要衝で在り、此処を抑える事は軍事的にも経済的にも非常に重要な事でした。豊臣時代は此処に石田三成が納めていました。三成が如何に秀吉から信頼を受けていたかが解ります。そして徳川の時代にその重役を任されたのが井伊家と言う事になります。井伊家はその重荷を守り抜き、譜代大名最大の大名として江戸時代を彦根城と共に生き抜きました・。<br /><br />城内に入城しました。現存する天守閣ならではの、歴史と言う長い月日を経て来たからこその黒ずんだ木材の色、感触がたまりません。そして安全基準なんて全く度外視した急角度の階段。

    鉄道が移動の中心となった現代では、この地方の鉄道の要衝は米原駅であり、名古屋方面、北陸方面そして京都方面と分岐しますが、戦国時代から江戸時代にかけては此処彦根が交通の要衝で在り、此処を抑える事は軍事的にも経済的にも非常に重要な事でした。豊臣時代は此処に石田三成が納めていました。三成が如何に秀吉から信頼を受けていたかが解ります。そして徳川の時代にその重役を任されたのが井伊家と言う事になります。井伊家はその重荷を守り抜き、譜代大名最大の大名として江戸時代を彦根城と共に生き抜きました・。

    城内に入城しました。現存する天守閣ならではの、歴史と言う長い月日を経て来たからこその黒ずんだ木材の色、感触がたまりません。そして安全基準なんて全く度外視した急角度の階段。

  • 汚い話で申し訳ない話ですが、城内にはトイレは無いのでしょうか?答はありません。オマルを使用していたらしいです。姫路城には形式上は作られている様ですが使用された痕跡は無いと言います。その理由は感染症の防止の為で、オマルを使用し排泄物を城内に貯めこまない様にしていた様です。兵糧攻めは城に立て籠った敵を飢え死にさせる残酷な手段でしたが、こうした排泄物による精神的なダメージと感染症による衰弱も守り手に取って食料同様切実な課題でした。

    汚い話で申し訳ない話ですが、城内にはトイレは無いのでしょうか?答はありません。オマルを使用していたらしいです。姫路城には形式上は作られている様ですが使用された痕跡は無いと言います。その理由は感染症の防止の為で、オマルを使用し排泄物を城内に貯めこまない様にしていた様です。兵糧攻めは城に立て籠った敵を飢え死にさせる残酷な手段でしたが、こうした排泄物による精神的なダメージと感染症による衰弱も守り手に取って食料同様切実な課題でした。

  • 長い歴史を経て黒ずんだ木々で組まれた城内に佇むと、その張り詰めた雰囲気に背筋が伸びる想いになります。

    長い歴史を経て黒ずんだ木々で組まれた城内に佇むと、その張り詰めた雰囲気に背筋が伸びる想いになります。

  • 落下物防止で致し方ないと思いますが、残念な事に三階の窓には網格子が施されているので撮影には向いていません。しかし城内二階に数か所、網がかけられていない部分があり、そこから遠景を撮影できます。此方は佐和山城方面です。

    落下物防止で致し方ないと思いますが、残念な事に三階の窓には網格子が施されているので撮影には向いていません。しかし城内二階に数か所、網がかけられていない部分があり、そこから遠景を撮影できます。此方は佐和山城方面です。

  • 此方は西方、京都方面です。中央の小高い山は何と言う山でしょうか?

    此方は西方、京都方面です。中央の小高い山は何と言う山でしょうか?

  • そして東側からは琵琶湖を臨む事が出来ます。彦根は第二次大戦後の食糧難を乗り越える為大規模な干拓を経て今の姿になりました。つまり江戸時代の彦根城はまるで周囲を琵琶湖に浮かぶ、湖城の様な性格もあった様です。

    そして東側からは琵琶湖を臨む事が出来ます。彦根は第二次大戦後の食糧難を乗り越える為大規模な干拓を経て今の姿になりました。つまり江戸時代の彦根城はまるで周囲を琵琶湖に浮かぶ、湖城の様な性格もあった様です。

  • 西の丸三重櫓にやってきました。搦め手(浦口方面)の守りのかなめでさると同時に常時の琵琶湖方面の監視の役割を担いました。

    西の丸三重櫓にやってきました。搦め手(浦口方面)の守りのかなめでさると同時に常時の琵琶湖方面の監視の役割を担いました。

  • 内部も拝観できます。

    内部も拝観できます。

  • 琵琶湖方面を眺めました。

    琵琶湖方面を眺めました。

  • そして此処からも佐和山の城が見渡せました。

    そして此処からも佐和山の城が見渡せました。

  • 搦め手から城外に退城します。三成は関ヶ原の合戦に敗れ、彼の城、佐和山城は解体され、彦根城に姿を変えましたが、その彦根城は数々の城が江戸時代の一国一城令、明治時代の廃城令、そして第二次世界大戦を前にして消えていった中、現存するたった12の城の天守閣の一つとして、5つある国宝の天守閣として今も尚、彦根に聳え立ちます。その運命を支えたのは、首を斬られるその瞬間まで、決して諦める事無く、自分を貫いた気骨溢れる石田三成の魂が宿っていたからなのかもしれません。素晴らしい城訪問となりました。(天守閣の建材の多くは大津城から解体移築されたものです。)

    搦め手から城外に退城します。三成は関ヶ原の合戦に敗れ、彼の城、佐和山城は解体され、彦根城に姿を変えましたが、その彦根城は数々の城が江戸時代の一国一城令、明治時代の廃城令、そして第二次世界大戦を前にして消えていった中、現存するたった12の城の天守閣の一つとして、5つある国宝の天守閣として今も尚、彦根に聳え立ちます。その運命を支えたのは、首を斬られるその瞬間まで、決して諦める事無く、自分を貫いた気骨溢れる石田三成の魂が宿っていたからなのかもしれません。素晴らしい城訪問となりました。(天守閣の建材の多くは大津城から解体移築されたものです。)

  • お堀に白鳥さんが休んでいました。

    お堀に白鳥さんが休んでいました。

  • お堀沿いを歩いて、次の見所へ向かいます。<br />…って天守閣から出るとすぐ気を抜いてしまうのが私の欠点。お堀とか石垣とか…見るべきところは何処でもあります。見逃さない様に!城内にはいかなるところに敵…じゃなくて見るべきところが潜んでいるか解りません!

    お堀沿いを歩いて、次の見所へ向かいます。
    …って天守閣から出るとすぐ気を抜いてしまうのが私の欠点。お堀とか石垣とか…見るべきところは何処でもあります。見逃さない様に!城内にはいかなるところに敵…じゃなくて見るべきところが潜んでいるか解りません!

  • 彦根藩4代藩主井伊直興が玄宮園と共に建立した二の丸御殿、槻御殿。現在は庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と呼び分けています。ちょっとネーミングが中華食堂っぽいです(笑)

    彦根藩4代藩主井伊直興が玄宮園と共に建立した二の丸御殿、槻御殿。現在は庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と呼び分けています。ちょっとネーミングが中華食堂っぽいです(笑)

  • 数寄屋建築の建物内に耐震構造を持った茶室、地震の間を始め、数々の部屋がありますが、その中の楽々の間から、楽々園と呼ばれる様になったと言います。戦前は現在の様に干拓されておらず、現在よりずっと景色の眺めが良かった事から楽山樂水の意味から楽々と言う名が着いたと考えられています。

    数寄屋建築の建物内に耐震構造を持った茶室、地震の間を始め、数々の部屋がありますが、その中の楽々の間から、楽々園と呼ばれる様になったと言います。戦前は現在の様に干拓されておらず、現在よりずっと景色の眺めが良かった事から楽山樂水の意味から楽々と言う名が着いたと考えられています。

  • 枯山水の庭園の向こうに楽々園。

    枯山水の庭園の向こうに楽々園。

  • 庭園部分の玄宮園を散策します。岡山城に後楽園、水戸城に後楽園、金沢城に兼六園と日本三大庭園はどれも大名庭園ですが、それと同様彦根城の大名庭園が玄宮園です。日本三大庭園には漏れてしまいましたが、玄宮園からは現存天守閣を眺める事が出来ます。

    庭園部分の玄宮園を散策します。岡山城に後楽園、水戸城に後楽園、金沢城に兼六園と日本三大庭園はどれも大名庭園ですが、それと同様彦根城の大名庭園が玄宮園です。日本三大庭園には漏れてしまいましたが、玄宮園からは現存天守閣を眺める事が出来ます。

  • 玄宮園は先に訪れた楽々園と同様に、江戸時代は槻之御庭と呼ばれていたそうで、井伊直興により造営された池泉回遊式の庭園です。庭園の中央に配置された池の湖畔には八景亭(江戸時代には隣池閣)が建てられ、庭園の絶景を眺められ、現在では抹茶を頂く事が出来ます。

    玄宮園は先に訪れた楽々園と同様に、江戸時代は槻之御庭と呼ばれていたそうで、井伊直興により造営された池泉回遊式の庭園です。庭園の中央に配置された池の湖畔には八景亭(江戸時代には隣池閣)が建てられ、庭園の絶景を眺められ、現在では抹茶を頂く事が出来ます。

  • 池の奥手に八景亭、更にその向こうに彦根城天守閣を臨むこの構図は、やはり玄宮園最大の映える場所だと感じます。16年前も此処から彦根城を眺めていました。今回は逆さ彦根城も眺める事が出来ました。

    池の奥手に八景亭、更にその向こうに彦根城天守閣を臨むこの構図は、やはり玄宮園最大の映える場所だと感じます。16年前も此処から彦根城を眺めていました。今回は逆さ彦根城も眺める事が出来ました。

  • 江戸時代には琵琶湖に囲まれた湖城の性格も兼ね備えていた彦根城でしたから、庭園の池は外堀迄水門を通して出る事が出来、殿様は船に乗って此処から菩提寺である清凉寺や龍潭寺まで御座船で向かったと言われます。今では想像出来ない行程です。

    江戸時代には琵琶湖に囲まれた湖城の性格も兼ね備えていた彦根城でしたから、庭園の池は外堀迄水門を通して出る事が出来、殿様は船に乗って此処から菩提寺である清凉寺や龍潭寺まで御座船で向かったと言われます。今では想像出来ない行程です。

  • 湖に浮かぶ逆さ彦根城。

    湖に浮かぶ逆さ彦根城。

  • 好天に恵まれ、湖面の鏡面反射も美しく、良い庭園巡りが出来ました。

    好天に恵まれ、湖面の鏡面反射も美しく、良い庭園巡りが出来ました。

  • 龍臥橋と彦根城天守閣。

    龍臥橋と彦根城天守閣。

  • 時折顔を覗かせるちょっとシャイな彦根城天守閣をチラ見しながら池泉回遊式庭園を字の如く回遊します。

    時折顔を覗かせるちょっとシャイな彦根城天守閣をチラ見しながら池泉回遊式庭園を字の如く回遊します。

  • 彦根城天守閣は三重三階の小振りな天守閣なので、木々に隠れて中々全貌を臨めません。本当シャイなんだから!

    彦根城天守閣は三重三階の小振りな天守閣なので、木々に隠れて中々全貌を臨めません。本当シャイなんだから!

  • 龍臥橋を渡ります。

    龍臥橋を渡ります。

  • 八景亭に抹茶を頂きに向かいます。彦根城は佐和山の城を中心に改築されたお城です。原型である佐和山の城に暮らした石田三成公は兎角茶のエピソードが多い武将です。佐和山の城は現在とても抹茶を頂ける環境には無いので、是非此処では茶を頂こうと思っていました。

    八景亭に抹茶を頂きに向かいます。彦根城は佐和山の城を中心に改築されたお城です。原型である佐和山の城に暮らした石田三成公は兎角茶のエピソードが多い武将です。佐和山の城は現在とても抹茶を頂ける環境には無いので、是非此処では茶を頂こうと思っていました。

  • 八景亭に到着しました。楽々園にしても玄宮園、そして此処八景亭も、どうして江戸時代の呼称から変更してしまったのでしょう?江戸時代のままで十分響きが良かったと思うのですが…。

    八景亭に到着しました。楽々園にしても玄宮園、そして此処八景亭も、どうして江戸時代の呼称から変更してしまったのでしょう?江戸時代のままで十分響きが良かったと思うのですが…。

  • 此方側からは彦根城が、反対側からは玄宮園が眺められます。さて、どちらに陣取りましょう?

    此方側からは彦根城が、反対側からは玄宮園が眺められます。さて、どちらに陣取りましょう?

  • 此方は江戸時代の彦根城を描いたもの。琵琶湖がすぐ傍に迫り、豊富な水路やお堀に囲まれていた事が良く解ります。

    此方は江戸時代の彦根城を描いたもの。琵琶湖がすぐ傍に迫り、豊富な水路やお堀に囲まれていた事が良く解ります。

  • 素敵な女将さんに特等席を案内し慧頂きました。此処なら両側を眺めながら抹茶を頂く事が叶います。此方はからは、彦根城。

    素敵な女将さんに特等席を案内し慧頂きました。此処なら両側を眺めながら抹茶を頂く事が叶います。此方はからは、彦根城。

  • その反対に玄宮園。素敵な女将さんに私の石田三成愛を受け止めて頂きました。ありがとうございました。

    その反対に玄宮園。素敵な女将さんに私の石田三成愛を受け止めて頂きました。ありがとうございました。

  • 三成公は、何かと茶のエピソードが多い武将に感じます。豊臣秀吉との出逢いも、三杯の茶が始まりました。最初になみなみと注がれた注がれたぬるいお茶、次にほどほどに注がれたちょっと熱いお茶、そして少しだけ注がれた熱々のお茶。相手の気分を察したもてなしの心が秀吉に大うけし取り立てられました。

    三成公は、何かと茶のエピソードが多い武将に感じます。豊臣秀吉との出逢いも、三杯の茶が始まりました。最初になみなみと注がれた注がれたぬるいお茶、次にほどほどに注がれたちょっと熱いお茶、そして少しだけ注がれた熱々のお茶。相手の気分を察したもてなしの心が秀吉に大うけし取り立てられました。

  • 更に豊臣秀吉が開いた茶会での事、親友だった大谷刑部はハンセン病を患い、顔もただれた状態で、茶会に訪れた面々は、病を恐れ、決して大谷刑部の飲んだ茶を飲もうとはしませんでした。しかし親友の三成だけは臆する事無く刑部の後の茶を飲み干したのでした。

    更に豊臣秀吉が開いた茶会での事、親友だった大谷刑部はハンセン病を患い、顔もただれた状態で、茶会に訪れた面々は、病を恐れ、決して大谷刑部の飲んだ茶を飲もうとはしませんでした。しかし親友の三成だけは臆する事無く刑部の後の茶を飲み干したのでした。

  • どちら側にもつける位置にいた大谷刑部がわざわざ負けると解っていた石田三成と運命を共にした、その原点がこの茶会にあったとするのは後日付け加えられたエピソードでしょうが、見た目を伴う病による周りの目線の冷たさは、病を患った者にしか決して解らない残酷なものです。しかも上司が開いた席上でのその恥辱。それさえ一気に飲み干すかの様に茶を飲み干した親友石田三成。人一倍義に篤かった大谷刑部が、死しても三成を守ろうと感じても不思議な事ではないでしょう。<br /><br />抹茶を頂く度に、この物語を思い返します。三成のいた、此処彦根なら猶更の事です。

    どちら側にもつける位置にいた大谷刑部がわざわざ負けると解っていた石田三成と運命を共にした、その原点がこの茶会にあったとするのは後日付け加えられたエピソードでしょうが、見た目を伴う病による周りの目線の冷たさは、病を患った者にしか決して解らない残酷なものです。しかも上司が開いた席上でのその恥辱。それさえ一気に飲み干すかの様に茶を飲み干した親友石田三成。人一倍義に篤かった大谷刑部が、死しても三成を守ろうと感じても不思議な事ではないでしょう。

    抹茶を頂く度に、この物語を思い返します。三成のいた、此処彦根なら猶更の事です。

  • 彦根城を後にして、安土城を目指します。ありがとう彦根城そしてひこにゃん。また、来るね!

    彦根城を後にして、安土城を目指します。ありがとう彦根城そしてひこにゃん。また、来るね!

  • 街中にも至る所にひこにゃんが隠れています。

    街中にも至る所にひこにゃんが隠れています。

  • 二日間お世話になったホテル・エスタシオン彦根さんです。駅から近くて朝食付きでお値ごろの価格。滞在も快適でした。お世話になりました。

    二日間お世話になったホテル・エスタシオン彦根さんです。駅から近くて朝食付きでお値ごろの価格。滞在も快適でした。お世話になりました。

  • 安土に到着しました。様々な城を登城してきましたが、特別感がたまりません。そう、安土城は私が大好きな近世城郭の起源の様な城なのです。この城の登場により、それまでの土塁が中心の戦国期の城から、現在城と言えば誰しもが想像する様な、石垣があってその上に天守閣が聳える様なイメージ通りの城が造られる事となったのです。そして外観や様式に留まらず、城の役割さえガラリと変えた城でもあったのです。早速安土城へ向かいましょう。

    安土に到着しました。様々な城を登城してきましたが、特別感がたまりません。そう、安土城は私が大好きな近世城郭の起源の様な城なのです。この城の登場により、それまでの土塁が中心の戦国期の城から、現在城と言えば誰しもが想像する様な、石垣があってその上に天守閣が聳える様なイメージ通りの城が造られる事となったのです。そして外観や様式に留まらず、城の役割さえガラリと変えた城でもあったのです。早速安土城へ向かいましょう。

  • 信長公が出迎えて食えました。

    信長公が出迎えて食えました。

  • 安土城跡迄ド平坦な農耕地が続きます。彦根と同様に此処もまた戦後の食糧難を解決すべく干拓が行われ農地とされました。それ以前は此処は琵琶湖だったのです。と言う訳で彦根城と同様に安土城もまた、琵琶湖に浮かぶ様な形で建てられた城だったと言う事です。

    安土城跡迄ド平坦な農耕地が続きます。彦根と同様に此処もまた戦後の食糧難を解決すべく干拓が行われ農地とされました。それ以前は此処は琵琶湖だったのです。と言う訳で彦根城と同様に安土城もまた、琵琶湖に浮かぶ様な形で建てられた城だったと言う事です。

  • 漸く安土城跡が見えてきました。安土城、そして信長の館や考古学資料館共に周るのなら駅前でレンタサイクルが便利かと思います。更に観音寺城迄行く人なら必須かと思います。安土城前こそある程度の車通りはありますが、一般的に長閑な地方なのでそれ程自転車に乗りなれていない人でも(←自分の事)リラックスして自転車に乗れると思います。

    漸く安土城跡が見えてきました。安土城、そして信長の館や考古学資料館共に周るのなら駅前でレンタサイクルが便利かと思います。更に観音寺城迄行く人なら必須かと思います。安土城前こそある程度の車通りはありますが、一般的に長閑な地方なのでそれ程自転車に乗りなれていない人でも(←自分の事)リラックスして自転車に乗れると思います。

  • 入城して早々、城好きなら誰しも一度は目にした事があるだろう、威風堂々真っ直ぐに伸びる登城口がありました。全く防御と言う概念を忘れたかの様なその潔さっぷりは、世に太平が訪れた江戸期の近世城郭にさえ無いものです。

    入城して早々、城好きなら誰しも一度は目にした事があるだろう、威風堂々真っ直ぐに伸びる登城口がありました。全く防御と言う概念を忘れたかの様なその潔さっぷりは、世に太平が訪れた江戸期の近世城郭にさえ無いものです。

  • そして登城口のすぐ右手には前田利家の邸宅跡が。未だ利家が傾奇者として名を馳せていた若かりし頃の邸宅です。

    そして登城口のすぐ右手には前田利家の邸宅跡が。未だ利家が傾奇者として名を馳せていた若かりし頃の邸宅です。

  • そして、戦国一の妻と言われたまつも此処で利家を支えていたのでしょう。

    そして、戦国一の妻と言われたまつも此処で利家を支えていたのでしょう。

  • そして、登城道を挟んでその左側には、羽柴秀吉の邸宅跡がありました。と言う事は秀吉の妻おねも此処で暮らしていたと言う事です。と言う事はまつとおねはお隣さん同士だったと言う訳ですね…。

    そして、登城道を挟んでその左側には、羽柴秀吉の邸宅跡がありました。と言う事は秀吉の妻おねも此処で暮らしていたと言う事です。と言う事はまつとおねはお隣さん同士だったと言う訳ですね…。

  •  この3月、能登震災復興を祈念して能登演劇堂で開催された、吉岡里帆さんが前田まつ、連佛美沙子さんが豊臣おねを演じた「まつとおね」を観劇しました。<br /><br /> 劇中でも二人が結婚したての若かりし頃の一幕があり、傾奇者としてモテモテだった利家と結婚したまつに、秀吉に嫁いだおねが<br /><br />「まつはカッコいい旦那さんで羨ましいわ。うちなんて、信長様が猿なんて呼ぶのですよ!」<br /><br /> なんてガールズトークに花を咲かせる微笑ましい一幕もありましたが、実際は彼女達、どんなガールズトークに花を咲かせていたのでしょう?

     この3月、能登震災復興を祈念して能登演劇堂で開催された、吉岡里帆さんが前田まつ、連佛美沙子さんが豊臣おねを演じた「まつとおね」を観劇しました。

     劇中でも二人が結婚したての若かりし頃の一幕があり、傾奇者としてモテモテだった利家と結婚したまつに、秀吉に嫁いだおねが

    「まつはカッコいい旦那さんで羨ましいわ。うちなんて、信長様が猿なんて呼ぶのですよ!」

     なんてガールズトークに花を咲かせる微笑ましい一幕もありましたが、実際は彼女達、どんなガールズトークに花を咲かせていたのでしょう?

  • 勿論能登演劇堂の舞台も素晴らしかったですが、実際の舞台に立つ事によって、再びあの感動の二人の演技が目の前にありありと蘇るかの様に思えて、相乗効果を成して、安土城散策をリアリティを持って楽しむ事が出来ました。

    勿論能登演劇堂の舞台も素晴らしかったですが、実際の舞台に立つ事によって、再びあの感動の二人の演技が目の前にありありと蘇るかの様に思えて、相乗効果を成して、安土城散策をリアリティを持って楽しむ事が出来ました。

  •  安土城の登城口は何故真っすぐなのでしょうか?普通の城は太平の世に建てられた近世城郭であったとしても、城門は直角に曲がる枡形門とされる事も多く、敵兵に侵入された場合を想定して曲りくねるのが常です。<br /><br /> 実はこの登城口は通常では使われない登城口であり、信長は皇族の行幸の為にこの真っすぐな登城口を整備したのでは無いかと推測されています。皇族を出迎える為の演出と共に、自らの権威を誇示する為の道でもあったのでしょう。

     安土城の登城口は何故真っすぐなのでしょうか?普通の城は太平の世に建てられた近世城郭であったとしても、城門は直角に曲がる枡形門とされる事も多く、敵兵に侵入された場合を想定して曲りくねるのが常です。

     実はこの登城口は通常では使われない登城口であり、信長は皇族の行幸の為にこの真っすぐな登城口を整備したのでは無いかと推測されています。皇族を出迎える為の演出と共に、自らの権威を誇示する為の道でもあったのでしょう。

  • 安土城に信長が建てた遠景山摠見寺。現在は元々あった場所とは離れ、徳川家康邸宅跡だったとされるスペースに仮本堂が移されています。臨済宗妙心寺派のお寺になります。不定期に開催される特別拝観時のみ拝観する事が出来ます。

    安土城に信長が建てた遠景山摠見寺。現在は元々あった場所とは離れ、徳川家康邸宅跡だったとされるスペースに仮本堂が移されています。臨済宗妙心寺派のお寺になります。不定期に開催される特別拝観時のみ拝観する事が出来ます。

  • 拝観には抹茶がついてきます。相席になった宇治からお越しになっていた歴史好きさんとの会話も楽しかったです。お世話になりました。

    拝観には抹茶がついてきます。相席になった宇治からお越しになっていた歴史好きさんとの会話も楽しかったです。お世話になりました。

  • 若かりし頃の家康が暮らしただろう跡地で頂く抹茶もまた美味しいお茶でした。ご馳走様でした。

    若かりし頃の家康が暮らしただろう跡地で頂く抹茶もまた美味しいお茶でした。ご馳走様でした。

  • ひとしきり真っすぐと堂々とした道が続いた登城道ですが、家康の邸宅跡を少し登ったところで急激に直角に曲がります。そしてその地点からは、他の城同様定期的に折れ曲がりながら本丸を目指します。核心に近づいたとも言えるでしょう。

    ひとしきり真っすぐと堂々とした道が続いた登城道ですが、家康の邸宅跡を少し登ったところで急激に直角に曲がります。そしてその地点からは、他の城同様定期的に折れ曲がりながら本丸を目指します。核心に近づいたとも言えるでしょう。

  • 再び下方を眺めます。安土城から程近い立地に観音寺城と言う山城が残ります。六角氏の居城でしたが、中世城郭ながら石垣が築かれている事が大きな特徴です。織田信長がこれを模倣、拡大して安土城を築いた事は間違いないでしょう。信長はそれまで部分的な利用に限られていた石垣を、城郭の殆どの部分で採用し、それが以降城造りの定番となっていきました。現在では、お城と言うと石垣をイメージする人が多いと思いますが、戦国期の城は土塁が中心であり、石垣ではありません。石垣が広まったのは此処安土城が総石垣を築いてからであり。安土城が近世城郭の出発点であると言われる所以です。

    再び下方を眺めます。安土城から程近い立地に観音寺城と言う山城が残ります。六角氏の居城でしたが、中世城郭ながら石垣が築かれている事が大きな特徴です。織田信長がこれを模倣、拡大して安土城を築いた事は間違いないでしょう。信長はそれまで部分的な利用に限られていた石垣を、城郭の殆どの部分で採用し、それが以降城造りの定番となっていきました。現在では、お城と言うと石垣をイメージする人が多いと思いますが、戦国期の城は土塁が中心であり、石垣ではありません。石垣が広まったのは此処安土城が総石垣を築いてからであり。安土城が近世城郭の出発点であると言われる所以です。

  • また、安土城は石垣と言う構造に留まらず、城の役割、そして認識も大きく変えた城であると言えます。それまで戦国期の城郭は、戦う為の拠点であり、攻め込まれた時、立て籠もる場所に過ぎませんでした。当然敵に攻め込まれ難い山の上、即ち山城が築かれる事になります。<br /><br /> しかし信長はそれらより低い山の上に城を築き(平山城の概念が誕生)其処に先に説明した通り、防御を無視した真っすぐな登城道を作り、総石組みで城を築き、更にはそれまでに無い、高層建築の天守閣を築きました。それには城郭をただ単にそれまでの戦う為の拠点に留まらず、自らの権威を誇示し、政治を執り行う為の拠点として、城の用途を革新、拡大させたのです。そして安土城が指示した方向性は、見る見るうちに日本全土へ広まっていくのでした。

    また、安土城は石垣と言う構造に留まらず、城の役割、そして認識も大きく変えた城であると言えます。それまで戦国期の城郭は、戦う為の拠点であり、攻め込まれた時、立て籠もる場所に過ぎませんでした。当然敵に攻め込まれ難い山の上、即ち山城が築かれる事になります。

     しかし信長はそれらより低い山の上に城を築き(平山城の概念が誕生)其処に先に説明した通り、防御を無視した真っすぐな登城道を作り、総石組みで城を築き、更にはそれまでに無い、高層建築の天守閣を築きました。それには城郭をただ単にそれまでの戦う為の拠点に留まらず、自らの権威を誇示し、政治を執り行う為の拠点として、城の用途を革新、拡大させたのです。そして安土城が指示した方向性は、見る見るうちに日本全土へ広まっていくのでした。

  • 流石信長、石仏も気にする事無く石垣にしてしまいました。<br /><br /> 更に信長は城郭の革新に留まらず、町全体を革新したと言えます。先程通って来た様に徳川家康、豊臣秀吉、前田利家等家臣を城に住まわせると言う風習もそれまで無かった風習です。更にはそれまで戦国武将は山に城を構えており、城と村落とは分断されていましたが、信長は城の周りに楽市楽座を開き、経済を潤わせ、自らの権威を示す安土城の周囲に街を形成しました。即ち城下町の誕生です。今、日本全国に残る城下町の発祥は、此処安土城がルーツとも言えるのです。<br /><br /> 即ち信長が作った城、安土城は日本の城造りを根本的にから革新したと同時に、日本の街造りさえ一新してしまったと言えるかもしれません。

    流石信長、石仏も気にする事無く石垣にしてしまいました。

     更に信長は城郭の革新に留まらず、町全体を革新したと言えます。先程通って来た様に徳川家康、豊臣秀吉、前田利家等家臣を城に住まわせると言う風習もそれまで無かった風習です。更にはそれまで戦国武将は山に城を構えており、城と村落とは分断されていましたが、信長は城の周りに楽市楽座を開き、経済を潤わせ、自らの権威を示す安土城の周囲に街を形成しました。即ち城下町の誕生です。今、日本全国に残る城下町の発祥は、此処安土城がルーツとも言えるのです。

     即ち信長が作った城、安土城は日本の城造りを根本的にから革新したと同時に、日本の街造りさえ一新してしまったと言えるかもしれません。

  • 総石垣の階段を登っていくと、織田家の家系の者の邸宅跡が残るスペースに出ます。此方は織田信長の長男で信長から家督を継いだ織田信忠の邸宅跡。信長の子供の中でも一番出来の良い長男でしたが、本能寺の変で自刃を遂げました。<br /><br /> 彼の息子が三法師、即ち織田秀信です。織田信孝を担いだ柴田勝家、と三法師を推した豊臣秀吉。秀吉が柴田勝家に勝った事で、三法師は秀吉に従属する形になります。この事から関ヶ原の合戦では西軍につき、岐阜城を守りましたが東軍に攻め込まれ岐阜城は落城。降伏し、高野山に送られましたが、信長が高野山を攻撃した過去から、高野山に入るにも一悶着がありました。そして其処でひっそりと暮らし、齢若干26歳で世を去りました。

    総石垣の階段を登っていくと、織田家の家系の者の邸宅跡が残るスペースに出ます。此方は織田信長の長男で信長から家督を継いだ織田信忠の邸宅跡。信長の子供の中でも一番出来の良い長男でしたが、本能寺の変で自刃を遂げました。

     彼の息子が三法師、即ち織田秀信です。織田信孝を担いだ柴田勝家、と三法師を推した豊臣秀吉。秀吉が柴田勝家に勝った事で、三法師は秀吉に従属する形になります。この事から関ヶ原の合戦では西軍につき、岐阜城を守りましたが東軍に攻め込まれ岐阜城は落城。降伏し、高野山に送られましたが、信長が高野山を攻撃した過去から、高野山に入るにも一悶着がありました。そして其処でひっそりと暮らし、齢若干26歳で世を去りました。

  • 此方は織田信澄の邸宅跡です。織田信長の甥にあたる人物で、信忠とは同年齢の人物です。本能寺の変後、明日光秀の娘婿だった事から、光秀と共に謀反を起こしたと言う嫌疑をかけられてしまい、織田信孝、丹羽長秀に誅されてしまいました。

    此方は織田信澄の邸宅跡です。織田信長の甥にあたる人物で、信忠とは同年齢の人物です。本能寺の変後、明日光秀の娘婿だった事から、光秀と共に謀反を起こしたと言う嫌疑をかけられてしまい、織田信孝、丹羽長秀に誅されてしまいました。

  • そしてその隣に森蘭丸の邸宅跡です。森蘭丸は織田信長の近習の一人であり、本能寺の変では信長を守る為死力を尽くして戦い、そして信長と共に討ち死にしました。彼の邸宅跡を通り越したと言う事は、核心までもう少しでしょう。

    そしてその隣に森蘭丸の邸宅跡です。森蘭丸は織田信長の近習の一人であり、本能寺の変では信長を守る為死力を尽くして戦い、そして信長と共に討ち死にしました。彼の邸宅跡を通り越したと言う事は、核心までもう少しでしょう。

  • 安土城の主要な門のひとつである黒鉄門の跡です。信長は隣の観音寺城の石垣から発想を得たとは思いますが、信長の城の石垣はちょっと、いや全然革新的です。石垣の上に、石に沿う形で建物を建てられる様に石垣を組んだのです。それ以降は当たり前になる技術でしたが、それを始めたのは安土城なのです。<br /><br /> そしてそれを可能にしたのが、穴太衆(あのうしゅう)の存在です。安土桃山時代に活躍した石工の技術者集団で、安土城の他、先に訪れた彦根城、竹田城など様々な石垣造りに貢献しました。そして彼等は現代にも繋がっており、城は愚か寺院などの石垣や歴史的建築の修復作業等に携わっています。

    安土城の主要な門のひとつである黒鉄門の跡です。信長は隣の観音寺城の石垣から発想を得たとは思いますが、信長の城の石垣はちょっと、いや全然革新的です。石垣の上に、石に沿う形で建物を建てられる様に石垣を組んだのです。それ以降は当たり前になる技術でしたが、それを始めたのは安土城なのです。

     そしてそれを可能にしたのが、穴太衆(あのうしゅう)の存在です。安土桃山時代に活躍した石工の技術者集団で、安土城の他、先に訪れた彦根城、竹田城など様々な石垣造りに貢献しました。そして彼等は現代にも繋がっており、城は愚か寺院などの石垣や歴史的建築の修復作業等に携わっています。

  • 流石信長、そして穴太衆。石仏に続き仏足石も石垣にしてしまった様です。東南アジアでは仏様の足跡を信仰対象としているのを多々見かけますが、今日となっては日本ではあまり一般的には見られなくなった様に思います。日本では薬師寺にあるものが現存する最古の足跡らしいのですが、安土城の石垣にされたこの仏足跡も中世の貴重な遺物なのだそうです。

    流石信長、そして穴太衆。石仏に続き仏足石も石垣にしてしまった様です。東南アジアでは仏様の足跡を信仰対象としているのを多々見かけますが、今日となっては日本ではあまり一般的には見られなくなった様に思います。日本では薬師寺にあるものが現存する最古の足跡らしいのですが、安土城の石垣にされたこの仏足跡も中世の貴重な遺物なのだそうです。

  • そして遂に二の丸迄登ってまいりました。

    そして遂に二の丸迄登ってまいりました。

  • 豊臣秀吉が建てた織田信長公の霊廟が残されています。つまり此処に信長公が眠っています。

    豊臣秀吉が建てた織田信長公の霊廟が残されています。つまり此処に信長公が眠っています。

  • 天生十一年一月。三法師に年賀を表す為豊臣秀吉が登城。翌二月信長公ゆかりの二の丸跡に太刀、烏帽子、等の遺愛品を埋葬し本廟としました。

    天生十一年一月。三法師に年賀を表す為豊臣秀吉が登城。翌二月信長公ゆかりの二の丸跡に太刀、烏帽子、等の遺愛品を埋葬し本廟としました。

  • 六月二日の一周忌には織田一族の家臣を集め盛大に法要を行い、現在でも六月二日になると摠見寺にて法要が行われると言います。

    六月二日の一周忌には織田一族の家臣を集め盛大に法要を行い、現在でも六月二日になると摠見寺にて法要が行われると言います。

  • そして、この階段を登れば、安土城の天守閣が建てられていただろう場所です。

    そして、この階段を登れば、安土城の天守閣が建てられていただろう場所です。

  • 今や、天守閣の基礎のみ残ります。いや、此処に辿り着く迄もどれだけの苦労と努力の積み重ねだったのだと思います。此処に巷で推測されている様な華美過ぎる天守閣が聳えていたのでしょうか?<br /><br />目を閉じ、心の中で詠みあげます。<br /><br />人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか

    今や、天守閣の基礎のみ残ります。いや、此処に辿り着く迄もどれだけの苦労と努力の積み重ねだったのだと思います。此処に巷で推測されている様な華美過ぎる天守閣が聳えていたのでしょうか?

    目を閉じ、心の中で詠みあげます。

    人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか

  • 信長公が見ていただろう景色を眺めます。現在は干拓により埋め立てられてしまいましたが、当時の安土城の建つ安土山は、周囲を琵琶湖に三方を覆われていました。まるで琵琶湖に浮かぶかの様な壮観な景色が広がっていた事でしょう。

    信長公が見ていただろう景色を眺めます。現在は干拓により埋め立てられてしまいましたが、当時の安土城の建つ安土山は、周囲を琵琶湖に三方を覆われていました。まるで琵琶湖に浮かぶかの様な壮観な景色が広がっていた事でしょう。

  • 織田信雄4代の供養塔が残されていました。<br /><br /> 信長と共に本能寺で散った長男信忠、そして彼の子、三法師、後の秀信は関ケ原の合戦の前哨戦で西軍として岐阜城を守り、そして落城、降伏し高野山に眠りました。<br /><br /> 時代は遡り、信長の後継者を選ぶ会議となった清須会議、その三法師を信長の後継者として担いだ秀吉に対し柴田勝家は三男の信孝を担ぎ対立。信雄は同年齢である信孝とライバルなので秀吉に加担。結果勝家は破れ、同時に信孝は切腹させられました。<br /><br /> 信長の後継者選びに選ばれる事の無かった残念な次男信雄。三法師は未だ子供、信孝は切腹した事で、やっと自分の番が来たと思い安土城に入った信雄でしたが、秀吉に追い出され秀吉に恨みを持ち、徳川家康を巻き込み小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦います。しかし家康を巻き込んだにも関わらず、単独で秀吉と講和してしまい、結果家康は梯子を外された格好となり、戦術的には勝っていたものの、戦略的に敗北を喫し、以降秀吉に従属せざる得なくなりました。<br /><br /> 関が原では形式上西軍につき(殆ど傍観)、大坂の陣では徳川方に味方する。時代を翻弄したのか?それとも翻弄されたのか?しかしそんな彼の、のらりくらりが結果的には織田三兄弟の中、唯一後世に血を残す事となり、その子孫がプロスケーターとして大活躍する事になるのでした。<br /><br />岐阜城・清州城<br />https://4travel.jp/travelogue/11875218

    織田信雄4代の供養塔が残されていました。

     信長と共に本能寺で散った長男信忠、そして彼の子、三法師、後の秀信は関ケ原の合戦の前哨戦で西軍として岐阜城を守り、そして落城、降伏し高野山に眠りました。

     時代は遡り、信長の後継者を選ぶ会議となった清須会議、その三法師を信長の後継者として担いだ秀吉に対し柴田勝家は三男の信孝を担ぎ対立。信雄は同年齢である信孝とライバルなので秀吉に加担。結果勝家は破れ、同時に信孝は切腹させられました。

     信長の後継者選びに選ばれる事の無かった残念な次男信雄。三法師は未だ子供、信孝は切腹した事で、やっと自分の番が来たと思い安土城に入った信雄でしたが、秀吉に追い出され秀吉に恨みを持ち、徳川家康を巻き込み小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦います。しかし家康を巻き込んだにも関わらず、単独で秀吉と講和してしまい、結果家康は梯子を外された格好となり、戦術的には勝っていたものの、戦略的に敗北を喫し、以降秀吉に従属せざる得なくなりました。

     関が原では形式上西軍につき(殆ど傍観)、大坂の陣では徳川方に味方する。時代を翻弄したのか?それとも翻弄されたのか?しかしそんな彼の、のらりくらりが結果的には織田三兄弟の中、唯一後世に血を残す事となり、その子孫がプロスケーターとして大活躍する事になるのでした。

    岐阜城・清州城
    https://4travel.jp/travelogue/11875218

  • 二の丸から西の方角に延びる通路を伝い下城します。本来こちら側が日常的に使われた登城口なのだそうです。

    二の丸から西の方角に延びる通路を伝い下城します。本来こちら側が日常的に使われた登城口なのだそうです。

  • 途中登城の際拝観した摠見寺が本来建てられていた敷地に出ます。其処からも琵琶湖の美しい姿を眺める事が出来ました。

    途中登城の際拝観した摠見寺が本来建てられていた敷地に出ます。其処からも琵琶湖の美しい姿を眺める事が出来ました。

  • 摠見寺の三重塔です。

    摠見寺の三重塔です。

  • 摠見寺及び安土城の参道を下ります。

    摠見寺及び安土城の参道を下ります。

  • 阿形様が仁王立ちしています。

    阿形様が仁王立ちしています。

  • その対面には吽形様が。二人会わせてヤンマーじゃ無くて、阿吽の像です。

    その対面には吽形様が。二人会わせてヤンマーじゃ無くて、阿吽の像です。

  • 摠見寺の山門を潜って下方から振り返り仰ぎ見ました。

    摠見寺の山門を潜って下方から振り返り仰ぎ見ました。

  • 当時の一般武将達の登城口であった参道を下って下山しました。現在は西口は閉鎖されているので横道を通って、往きに入場した皇室の行幸を想定して造られた参道入り口に戻ります。

    当時の一般武将達の登城口であった参道を下って下山しました。現在は西口は閉鎖されているので横道を通って、往きに入場した皇室の行幸を想定して造られた参道入り口に戻ります。

  • 戻って来たのは豊臣秀吉邸宅跡でした。

    戻って来たのは豊臣秀吉邸宅跡でした。

  • 飛び出し坊や、侍バージョン発見しました!

    飛び出し坊や、侍バージョン発見しました!

  • 安土城訪問を終え、現地で運営されている三つの資料館を訪問しました。滋賀県立安土考古博物館(写真)と安土城天守・信長の館そして安土城郭資料館です。

    安土城訪問を終え、現地で運営されている三つの資料館を訪問しました。滋賀県立安土考古博物館(写真)と安土城天守・信長の館そして安土城郭資料館です。

  • 県立安土考古学資料館と信長の館は入場料が高い分、関が原でも採用されていた様なVRを使用した迫力ある映像で安土城の物語を体感できます。考古学資料館は名前の通り、発掘された物品等の展示が主体で、本格的な資料館です。どちらかと言えばマニアック。本格的に安土城を研究したい方向けだと感じました。

    県立安土考古学資料館と信長の館は入場料が高い分、関が原でも採用されていた様なVRを使用した迫力ある映像で安土城の物語を体感できます。考古学資料館は名前の通り、発掘された物品等の展示が主体で、本格的な資料館です。どちらかと言えばマニアック。本格的に安土城を研究したい方向けだと感じました。

  • 近江牛を使用したうどんを頂きました。近江牛を利用しているだけにお値段は張りますが、万博のボッタクリ蕎麦と比べれば超良心的です。関が原では食いっパグれて松尾山で動けなくなった反省で、こうした地域では食べられる時に食べないと食いっパグれる事を痛感したからでもあります。でも久し振りに関西風の出汁のうどんが食べられて、新鮮な気分になれました。ご馳走様です。

    近江牛を使用したうどんを頂きました。近江牛を利用しているだけにお値段は張りますが、万博のボッタクリ蕎麦と比べれば超良心的です。関が原では食いっパグれて松尾山で動けなくなった反省で、こうした地域では食べられる時に食べないと食いっパグれる事を痛感したからでもあります。でも久し振りに関西風の出汁のうどんが食べられて、新鮮な気分になれました。ご馳走様です。

  • 続いて訪れたのは信長の館です。此方でもVRを体感出来ました。只、主題がどちらも安土城なので、どうしても内容が被ってしまいます。安土と言う小さな街に、三つも資料館があると、何処へ入城しようか迷ってしまいますし、値段も張ってしまいます。主催している会社が違ったり、難しい所はあるでしょうが、なんとかならなかったものでしょうか?以前は共通券らしきものがあった様な記述もありましたが、私は発見できませんでした。

    続いて訪れたのは信長の館です。此方でもVRを体感出来ました。只、主題がどちらも安土城なので、どうしても内容が被ってしまいます。安土と言う小さな街に、三つも資料館があると、何処へ入城しようか迷ってしまいますし、値段も張ってしまいます。主催している会社が違ったり、難しい所はあるでしょうが、なんとかならなかったものでしょうか?以前は共通券らしきものがあった様な記述もありましたが、私は発見できませんでした。

  • 信長の館の殆どのスペースを使い、そして最大の売りとなっているのが、セビリア万博の日本ブースに出展された一分の一のスケール、即ち実物大で再現された安土城の5,6階部分をさらにディティールアップしたものが、そのまま展示されている点です。(大阪万博の日本ブースよりよっぽど良い!)

    信長の館の殆どのスペースを使い、そして最大の売りとなっているのが、セビリア万博の日本ブースに出展された一分の一のスケール、即ち実物大で再現された安土城の5,6階部分をさらにディティールアップしたものが、そのまま展示されている点です。(大阪万博の日本ブースよりよっぽど良い!)

  • それだけと言えばそれだけなのですが、原寸大の迫力はそれだけで圧倒的なものです。嘗め回す様に館内をグルグル周りながら想像上の安土城を観察しました。

    それだけと言えばそれだけなのですが、原寸大の迫力はそれだけで圧倒的なものです。嘗め回す様に館内をグルグル周りながら想像上の安土城を観察しました。

  • 信長の館と考古学博物館は隣接した場所に存在します。マニアックに本格的な資料を求めるのなら考古学博物館、安土城ってどんな天守閣が建っていたの?と言うライトユーザーには信長の館の方が楽しめるでしょう?VRに関しては、どちらも同じ様な内容です。

    信長の館と考古学博物館は隣接した場所に存在します。マニアックに本格的な資料を求めるのなら考古学博物館、安土城ってどんな天守閣が建っていたの?と言うライトユーザーには信長の館の方が楽しめるでしょう?VRに関しては、どちらも同じ様な内容です。

  • 五階、六階はこれを見れば一目瞭然ですが、その下はどうなっていたのでしょう?現在では二つの説が主流になっている様ですが、一つの説によると内部は大きく吹き抜けになっていると言われます。私の見解としては、5,6階の部分もそうですが、吹き抜けがあるとは、とても信じられない様な気もします。

    五階、六階はこれを見れば一目瞭然ですが、その下はどうなっていたのでしょう?現在では二つの説が主流になっている様ですが、一つの説によると内部は大きく吹き抜けになっていると言われます。私の見解としては、5,6階の部分もそうですが、吹き抜けがあるとは、とても信じられない様な気もします。

  • 安土城が画期的であり革新的だった城である事は同意しますが、それらは後の城にも影響を与え、続々とフォロワーが続きました。例えばそれまでの敵との戦闘と防衛が主流だった山城から、戦闘の為だけでは無い、権威を示す為の平山城。そしてその為の高層な天守閣。そして総石垣の城造り、等々です。

    安土城が画期的であり革新的だった城である事は同意しますが、それらは後の城にも影響を与え、続々とフォロワーが続きました。例えばそれまでの敵との戦闘と防衛が主流だった山城から、戦闘の為だけでは無い、権威を示す為の平山城。そしてその為の高層な天守閣。そして総石垣の城造り、等々です。

  • それに対し、内部に吹き抜けがある城など見た事も無ければ、聞いた事もありません。5階部分の八角形の造形も他に例が無いものです。何処か信長と言うネームバリューに引っ引っ張られ過ぎな気もします。夢があって良い事だとは思いますが、さて、実際はどうなのでしょう?

    それに対し、内部に吹き抜けがある城など見た事も無ければ、聞いた事もありません。5階部分の八角形の造形も他に例が無いものです。何処か信長と言うネームバリューに引っ引っ張られ過ぎな気もします。夢があって良い事だとは思いますが、さて、実際はどうなのでしょう?

  • VRで描かれた動画の中には、信長が宣教師に安土城と安土の街を描いた絵を与え、その絵がバチカン迄届けられた歴史が語られましたが、残念な事に歴史の中で紛失し、その行方が解らなくなってしまったと言います。何処かの富豪に売却されてしまったのか?それとも最早存在しないのか?その絵さえ発見出来れば、一気に真実に近づけるのかもしれません。

    VRで描かれた動画の中には、信長が宣教師に安土城と安土の街を描いた絵を与え、その絵がバチカン迄届けられた歴史が語られましたが、残念な事に歴史の中で紛失し、その行方が解らなくなってしまったと言います。何処かの富豪に売却されてしまったのか?それとも最早存在しないのか?その絵さえ発見出来れば、一気に真実に近づけるのかもしれません。

  • 真偽は兎も角、歴史好きなら誰もが一度は見た事があるだろう安土城の現存のモデルであり、実際万博で展示されたものをこの目で見れる事は非常に価値があったと思います。

    真偽は兎も角、歴史好きなら誰もが一度は見た事があるだろう安土城の現存のモデルであり、実際万博で展示されたものをこの目で見れる事は非常に価値があったと思います。

  • 何時の日か、先程見て来たあの山上の天守台に、詳細が判明した安土城天守閣が復元される日が来るのでしょうか?バチカンで失われた信長が贈ったと言われる屏風が発見される日がくるのでしょうか?

    何時の日か、先程見て来たあの山上の天守台に、詳細が判明した安土城天守閣が復元される日が来るのでしょうか?バチカンで失われた信長が贈ったと言われる屏風が発見される日がくるのでしょうか?

  • そして最後に訪れたのは、先の二つの資料館とは大きく離れて、安土駅に隣接して建てられている安土城郭資料館です。先に紹介した資料館よりずっと規模の小さな資料館でVRの体感コーナーもありませんが、その分料金は手頃です。安土城がどんな城だったかが解れば良いと言う、もっとライトなユーザーは此方だけでも十分かもし得ません。

    そして最後に訪れたのは、先の二つの資料館とは大きく離れて、安土駅に隣接して建てられている安土城郭資料館です。先に紹介した資料館よりずっと規模の小さな資料館でVRの体感コーナーもありませんが、その分料金は手頃です。安土城がどんな城だったかが解れば良いと言う、もっとライトなユーザーは此方だけでも十分かもし得ません。

  • 原寸大には遠く及びませんが、それでも模型としては十分大きなスケールの安土城がメインコンテンツです。(二十分の一)その特徴は城が真っ二つになっており、全体の内部構造が解る様になっている事です。

    原寸大には遠く及びませんが、それでも模型としては十分大きなスケールの安土城がメインコンテンツです。(二十分の一)その特徴は城が真っ二つになっており、全体の内部構造が解る様になっている事です。

  • 此方は城の外観正面から。信長の館の赤と金を多用した、まるで中華的な色彩より、ずっと渋い和的な外観となっています。此方の方が現実的な気もしますし、こっちの方が好みです。

    此方は城の外観正面から。信長の館の赤と金を多用した、まるで中華的な色彩より、ずっと渋い和的な外観となっています。此方の方が現実的な気もしますし、こっちの方が好みです。

  • 此方は館内に展示されていた屏風ですが、当時の絵は現存していません。これは織田信長がローマに送ったと言われる屏風の想像画です。

    此方は館内に展示されていた屏風ですが、当時の絵は現存していません。これは織田信長がローマに送ったと言われる屏風の想像画です。

  • 此方が安土城内の断面図です。確かに中央下部が吹き抜けとなっています。未だ高層天守閣が無かった時代、いきなり吹き抜けを持つ建築物が出来るものなのでしょうか?

    此方が安土城内の断面図です。確かに中央下部が吹き抜けとなっています。未だ高層天守閣が無かった時代、いきなり吹き抜けを持つ建築物が出来るものなのでしょうか?

  • 此方はその反対側。吹き抜けには吹き抜けに突き出したベランダ状の構造物も作られ、其処から信長が下方に向かって演説したり、幸若舞を舞ったとも言われます。ちょっと想像力豊か過ぎませんか?夢があって良い事だとは思いますが…。

    此方はその反対側。吹き抜けには吹き抜けに突き出したベランダ状の構造物も作られ、其処から信長が下方に向かって演説したり、幸若舞を舞ったとも言われます。ちょっと想像力豊か過ぎませんか?夢があって良い事だとは思いますが…。

  • 上から眺める事も出来ます。小さな資料館ですが色々展示されており、コスパは良いです。

    上から眺める事も出来ます。小さな資料館ですが色々展示されており、コスパは良いです。

  • 中二階は二か所あって、様々な角度から安土城の模型を眺められます。

    中二階は二か所あって、様々な角度から安土城の模型を眺められます。

  • 関ヶ原を訪れたなら、帰途につく前に是非訪れたい場所が一つありました。家路から逆方向、大嫌いなGWの人混みに、更には大の苦手なインバウンドな人達に酔いつつも、それを圧してやって来たのは京都の伏見です。

    関ヶ原を訪れたなら、帰途につく前に是非訪れたい場所が一つありました。家路から逆方向、大嫌いなGWの人混みに、更には大の苦手なインバウンドな人達に酔いつつも、それを圧してやって来たのは京都の伏見です。

  • やって来たのは伏見桃山城。解る人なら思うかもしれません。現存天守閣の彦根城。革新的な城。安土城を巡って、旅のトリに何故うさん臭い模擬天守閣を訪れるんだ?と。<br /><br /> おっしゃる通り伏見桃山城は模擬天守閣であり、更にはキャッスル・ランドと言うテーマパークの見世物です。史実とは違う場所に建てられているし、その建築も想像上のもの、即ちフェイクです。

    やって来たのは伏見桃山城。解る人なら思うかもしれません。現存天守閣の彦根城。革新的な城。安土城を巡って、旅のトリに何故うさん臭い模擬天守閣を訪れるんだ?と。

     おっしゃる通り伏見桃山城は模擬天守閣であり、更にはキャッスル・ランドと言うテーマパークの見世物です。史実とは違う場所に建てられているし、その建築も想像上のもの、即ちフェイクです。

  •  しかし、良く出来たフェイクであり、純粋に格好良いと感じますし、庶民がイメージする桃山文化を良く捉えていると感じます。<br /><br /> 更に伏見桃山城と敢えて史実の伏見城とは違うネーミングで、フェイクである事を暗に示している事も好感が持てます。本来の天守台にフェイクの模擬天守閣を築き、平然とその名を語るより良心的にさえ感じます。(そう言う城、いっぱいあります。)<br /><br /> しかし私は、その外観を見る為だけにこの城を訪れた訳ではありません。先にも述べましたが、私の旅は見るだけでは無く、その裏に潜む、ストーリーが大切なのです。

     しかし、良く出来たフェイクであり、純粋に格好良いと感じますし、庶民がイメージする桃山文化を良く捉えていると感じます。

     更に伏見桃山城と敢えて史実の伏見城とは違うネーミングで、フェイクである事を暗に示している事も好感が持てます。本来の天守台にフェイクの模擬天守閣を築き、平然とその名を語るより良心的にさえ感じます。(そう言う城、いっぱいあります。)

     しかし私は、その外観を見る為だけにこの城を訪れた訳ではありません。先にも述べましたが、私の旅は見るだけでは無く、その裏に潜む、ストーリーが大切なのです。

  •  私にとって、模擬天守閣は、歴史のイメージを増幅させる装置です。此処で、歴史的に重要な位置にある伏見城に想いを馳せたかったのです。<br /><br /> 豊臣秀吉と言うと大坂城をイメージする方も多いかと思いますが、実際は息子である秀頼と淀君に譲り、秀吉自身は伏見城で采配を振るっていました。

     私にとって、模擬天守閣は、歴史のイメージを増幅させる装置です。此処で、歴史的に重要な位置にある伏見城に想いを馳せたかったのです。

     豊臣秀吉と言うと大坂城をイメージする方も多いかと思いますが、実際は息子である秀頼と淀君に譲り、秀吉自身は伏見城で采配を振るっていました。

  • 秀吉の死後、伏見城に入城したのは徳川家康。そして迎えた関ヶ原の合戦。伏見城はその最大の前哨戦の舞台となるのです。徳川家康は大軍を率いて上杉討伐に出発します。当然留守を守る人物が必要です。しかし、この機を狙って何某かが兵を挙げるかもしれません。しかし残せる兵数は限られています。正に<br /><br />「俺の為に死んでくれ!」<br /><br /> と言うに等しい命令です。その命令を家康は鳥居元忠に命じました。鳥居元忠は家康が人質だった頃からの忠臣と言うよりは竹馬の友とも言える存在でした。そんな存在の彼に、非情な命令を下さなければならなかった家康。そしてその命令を快諾した元忠。その時の両人の心中を察すると胸が潰れそうになります。<br />

    秀吉の死後、伏見城に入城したのは徳川家康。そして迎えた関ヶ原の合戦。伏見城はその最大の前哨戦の舞台となるのです。徳川家康は大軍を率いて上杉討伐に出発します。当然留守を守る人物が必要です。しかし、この機を狙って何某かが兵を挙げるかもしれません。しかし残せる兵数は限られています。正に

    「俺の為に死んでくれ!」

     と言うに等しい命令です。その命令を家康は鳥居元忠に命じました。鳥居元忠は家康が人質だった頃からの忠臣と言うよりは竹馬の友とも言える存在でした。そんな存在の彼に、非情な命令を下さなければならなかった家康。そしてその命令を快諾した元忠。その時の両人の心中を察すると胸が潰れそうになります。

  •  そして画して石田三成が挙兵しました。伏見城に集まった西軍の数4万、対する守る鳥居元忠の兵数僅か1800。一方的な戦いでした。しかし鳥居元忠は死力を尽くし8月26日に始まった戦いを9月8日まで持ち堪えました。そして皆、討ち死にしました。<br /><br /> しかし彼の奮闘、そして討ち死には決して無駄にはなりませんでした。西軍は予定では三河は愚か遠江迄進軍して、徳川勢を待ち受ける魂胆でした。しかし予想以上に伏見城が持ち堪えている間に、徳川勢は岐阜迄進軍してしまったのです。更に彼の遺志を継ぐかの様に、同じく包囲された大津城の京極高次も、死力を尽くし立花宗茂を関が原に遅参させました。<br /><br /> もし鳥居元忠があっけなく敗北していたら、関ヶ原の合戦では無く遠江の合戦となって、どちらが勝つか?歴史も大きく変わっていたかもしれません。

     そして画して石田三成が挙兵しました。伏見城に集まった西軍の数4万、対する守る鳥居元忠の兵数僅か1800。一方的な戦いでした。しかし鳥居元忠は死力を尽くし8月26日に始まった戦いを9月8日まで持ち堪えました。そして皆、討ち死にしました。

     しかし彼の奮闘、そして討ち死には決して無駄にはなりませんでした。西軍は予定では三河は愚か遠江迄進軍して、徳川勢を待ち受ける魂胆でした。しかし予想以上に伏見城が持ち堪えている間に、徳川勢は岐阜迄進軍してしまったのです。更に彼の遺志を継ぐかの様に、同じく包囲された大津城の京極高次も、死力を尽くし立花宗茂を関が原に遅参させました。

     もし鳥居元忠があっけなく敗北していたら、関ヶ原の合戦では無く遠江の合戦となって、どちらが勝つか?歴史も大きく変わっていたかもしれません。

  •  こうして家康は忠臣達の数々の忠義と死に支えられて江戸幕府を開いたと言っても過言では無いでしょう。その家康が義を貴ばなかったとしたら、誰もついてこなかったでしょう。新しい幕府を築くにあたって、最早下剋上の生まれない社会を築かなけらればならない。そんな気持ちがあったからこそ、関が原で例え味方に付いたとしても、戦況を判断してから寝返った様な武将には冷酷な処断を下した一方、武士の交わした約束として、決して大谷刑部の首の在りかを口外しなかった仁右衛門に褒美を与えたのでしょう。

     こうして家康は忠臣達の数々の忠義と死に支えられて江戸幕府を開いたと言っても過言では無いでしょう。その家康が義を貴ばなかったとしたら、誰もついてこなかったでしょう。新しい幕府を築くにあたって、最早下剋上の生まれない社会を築かなけらればならない。そんな気持ちがあったからこそ、関が原で例え味方に付いたとしても、戦況を判断してから寝返った様な武将には冷酷な処断を下した一方、武士の交わした約束として、決して大谷刑部の首の在りかを口外しなかった仁右衛門に褒美を与えたのでしょう。

  •  その想いは武家諸法度に色濃く表れ、やがて武士道として定着していきます。武家が統治する社会は終わりを告げましたが、彼等が貴んだ義の精神は、今も日本人の心の中に今も息づいています。

     その想いは武家諸法度に色濃く表れ、やがて武士道として定着していきます。武家が統治する社会は終わりを告げましたが、彼等が貴んだ義の精神は、今も日本人の心の中に今も息づいています。

  • 佐和山城に始まり関が原、そして伏見城、石田三成、大谷刑部吉継、平塚為広、鳥居元忠、そして徳川家康。戦国を駆け抜けた様々な義を学ぶ事が出来ました。様々な漢達の生き様を学ぶ事が出来ました。素晴らしい体験を出来たと思います。日本の良さを再認識出来ました。

    佐和山城に始まり関が原、そして伏見城、石田三成、大谷刑部吉継、平塚為広、鳥居元忠、そして徳川家康。戦国を駆け抜けた様々な義を学ぶ事が出来ました。様々な漢達の生き様を学ぶ事が出来ました。素晴らしい体験を出来たと思います。日本の良さを再認識出来ました。

  • 今度こそ家路につきます。先程遂に疫病神から連絡が来ました。<br /><br />「油売ってないで、はよ出社せんかい!」<br /><br />「すんません本業が忙し過ぎて…。」<br /><br />御意に御座る。もう旅する体力も使い果たしたし、大人しく出頭しましょう(笑)<br /><br /> 京都駅に降り立てば、まるで異国に紛れ込んだかの様な多国籍の人々に埋め尽くされ、立ち尽くせばまるで洗濯機の中に入ってしまったかの様に人混みの渦に巻き込まれてしまいます。さっさと離脱しましょう。脳内の歴史気分に余計なものが入り込まないうちに…。

    今度こそ家路につきます。先程遂に疫病神から連絡が来ました。

    「油売ってないで、はよ出社せんかい!」

    「すんません本業が忙し過ぎて…。」

    御意に御座る。もう旅する体力も使い果たしたし、大人しく出頭しましょう(笑)

     京都駅に降り立てば、まるで異国に紛れ込んだかの様な多国籍の人々に埋め尽くされ、立ち尽くせばまるで洗濯機の中に入ってしまったかの様に人混みの渦に巻き込まれてしまいます。さっさと離脱しましょう。脳内の歴史気分に余計なものが入り込まないうちに…。

  • 今度こそ新幹線は動いていました。言い訳も無くなりました(笑)グーグルマップの現在地を示す点が驚くべき速さで私を歴史から現実へと引き戻していきます。それは今まで移動していたローカル線とは驚く程の違いです。

    今度こそ新幹線は動いていました。言い訳も無くなりました(笑)グーグルマップの現在地を示す点が驚くべき速さで私を歴史から現実へと引き戻していきます。それは今まで移動していたローカル線とは驚く程の違いです。

  • 折角なので新幹線の出発までの短い時間で思い出の味を買いました。井筒屋の八つ橋、夕子さんです。

    折角なので新幹線の出発までの短い時間で思い出の味を買いました。井筒屋の八つ橋、夕子さんです。

  • 本州に残る未訪問県に足跡を残す予定の旅でした。駆け足でしたが、鳥取、和歌山、三重と周って無事本州全ての県に足跡を残しました。残すは九州三県と四国です。そしてひょんな心変わりから、念願だった佐和山の城、そして関ケ原、途中で安土の三文字を見つけてしまったばっかりに安土城と歴史三昧の旅となりました。良い旅が出来たと思います。次回はもっと計画的にと、どこかのCMが言っています。<br /><br />最期迄ご覧になって下さり、ありがとうございます。

    本州に残る未訪問県に足跡を残す予定の旅でした。駆け足でしたが、鳥取、和歌山、三重と周って無事本州全ての県に足跡を残しました。残すは九州三県と四国です。そしてひょんな心変わりから、念願だった佐和山の城、そして関ケ原、途中で安土の三文字を見つけてしまったばっかりに安土城と歴史三昧の旅となりました。良い旅が出来たと思います。次回はもっと計画的にと、どこかのCMが言っています。

    最期迄ご覧になって下さり、ありがとうございます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 164-165さん 2025/07/13 06:27:43
    城めぐり
    さっくんさん おはようございます。
    彦根城・安土城他内容が豊富で良く調べられているので感心しきりでした。
    城を廻るだけが目的の私と違い、見落としが無い様にじっくりと廻られているのが素晴らしいです。
    初めて知った内容も、知っていたエピソードもあり、楽しく拝見出来ました。

              【164-165】

    さっくん

    さっくんさん からの返信 2025/07/13 08:31:52
    RE: 城めぐり
    おはようございます。暖かいコメント、そしてフォローありがとうございます。いえいえ私は城巡りに関しては大の初心者で、164ー165さんの様な通なお城迄目が行き届かず、超有名物件から巡っているに過ぎません。恥ずかしいばかりです。でも、お城に限らず(お城は特にですが)国内外限らず、其処に歴史的建物があると言う事は、其処に様々な歴史があり、人々の想いが込められている筈なので、そんな先人たちの想いも耳を傾けていたいと思い旅を続けています。これからも宜しくお願いします。


    > さっくんさん おはようございます。
    > 彦根城・安土城他内容が豊富で良く調べられているので感心しきりでした。
    > 城を廻るだけが目的の私と違い、見落としが無い様にじっくりと廻られているのが素晴らしいです。
    > 初めて知った内容も、知っていたエピソードもあり、楽しく拝見出来ました。
    >
    >           【164-165】

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