2025/03/26 - 2025/03/26
337位(同エリア1547件中)
さっくんさん
前回の旅のちょっと前、実はもうひとつ旅をしていました。(北陸と言う地域で纏めておきたかったので富山の旅を先にアップしました。)春先の天候不順で翌日の仕事がポシャった事から、暇を持て余した事とうっぷん晴らしにスマホを弄って旅を妄想していたら、弘前往きの深夜バスが後一席残っているのを発見してしまい、発作的にポチっとしてしまいました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
何で立て続けに旅をする?いや、急に仕事がコケちゃって、明日やる事が無くなって、それなら旅でも行こうかと…。急遽深夜バスをポチっとな。でもこの急なる思い付きが、とんでもない結果を引き起こすとは、この時何も考えずに、深夜バスに乗り込む私でした。
-
佐野ドライブインで初の休憩。一つの席毎にカーテンが用意されているプライバシー重視なバスでした。プライバシー重視は良いのですが、周りが何も見えなくなるので護送車に乗っている気分です。その後はプライバシー効果のせいか弘前迄爆睡していました。
-
弘前に無事到着しました。先ずは腹ごしらえ。津軽そばです。(駅そばですが)
-
それにしても寒いです。雪が残ってますし。此処が青森と言う事を実感します。て言うか小雨降ってるじゃないですが!私はとんだ馬鹿野郎で、慌てて旅を決めたものだから、天気予報はチェックしたのですが、地元の天気予報しか見ていなかったのです。これが、この後致命的ミスに繋がるなんて、当然この頃解っちゃいません。ただ単に天気予報嘘バッカ!とか悪態ついてました(笑)
-
先ずはお目当ての弘前城を目指します。綺麗に整備された道路が続いています。
-
母と娘さんの銅像がありました。母娘にしては微妙な距離があります。背景となってる借景は、なんと塾です。塾を勧められて尻込みする母娘の銅像でしょうか?ええ、私も騙されて塾に行かされて発狂しました。なんで学校終わって、また勉強せにゃあかんねん!って(笑)
-
お堀に到着しました。弘前城は敷地はかなり広大に残されており、現在では公園などに利用されています。
-
やったぁ、偶然にも大手門、即ち正門です。(金沢城では立地的に大手門が裏門的扱いでしたが…。)
え?字が違いますって?そうです。昔本来は追手門だったのです。近代になって大手門に変化しました。 -
弘前城は梯郭式の縄張りを持つ平山城で津軽氏の居城として、小さな藩でありながら江戸幕府創建から明治時代になるまで生き延びました。弘前城の城主、津軽氏は戦国武将としてとてもマイナーだと思います。ゲーム、信長の野望でも、津軽氏を選んだら、苦労する事間違いなしです。しかし石田三成と聞いたらどうですか?多くの人が知っているのではないでしょうか?津軽藩は関ヶ原の合戦で敗れた石田三成の子孫が暮らし、そして活躍した場所なのです。
-
敗将は一族郎党皆殺しが当然だった戦国の世で、石田三成の子孫は除名されたばかりか、次女の血筋は三代将軍家光の側室となり、長女千代姫を産みました。彼女は尾張徳川家に嫁ぎ、その血筋は九条家、二条家を経て貞明皇后から昭和天皇へ。即ち現在の天皇にも石田三成の血が流れているのです。
内堀を挟んで左右に二つの櫓が現存します。右側が辰巳櫓(この写真)、左が未申櫓。(次の写真)名前は和風の方角を意味します。辰巳の方角と未申の方角です。 -
では何故家康は石田三成の子孫を見逃していたのでしょうか?家康は武士として三成を非常に買っていた。こんな部下が欲しいと思っていた様に感じます。義に生きる人間で裏切る事を知らない、私利私欲が無い。嫌われ役を買ってでも、自他共にルールに厳しい官僚肌の人間。
戦国の世に終止符を打ち、安定した社会を目指した家康にとって、三成は理想の部下像だったと思います。家康が創案し、家光が発布した武家諸法度はまるで、三成の様な武士になれ!と書いているかにさえ感じます。 -
南内門を潜ります。
一方、秀頼に忠義を唱えながらも、三成憎しの一心から東軍に靡いた加藤清正や福島正則。関ヶ原の合戦で当初から東軍につく事を明示せず、戦いの状況を見てから東軍に寝返った武将達。彼等の末路は悲惨なものでした。徳川家は、寝返った者達は利用するだけ利用して、その後彼等の家を取り潰しました。三成の子孫とは大違いです。
世間の三成の人物像は嫌われ者の一択かもしれません。でも彼は武将と言うより官僚です。官僚とは嫌われ者です。世間に嫌われてもやらねばならない仕事はあります。頭が固くて融通が効かないですって?融通ばかりの官僚がいたなら、その国は傾きます。嫌われ様が、貶され様が、やらねばならない事は自分がやる。真面目に一生懸命働いたからこそ、余計嫌われ者になってしまった。それが三成と言う男じゃないでしょうか? -
二の丸側から辰巳櫓を眺めました。雪害で二階の屋根が破損しています。雪国のメンテナンスは大変です。
三成が本当に嫌われ者だったとしたら、関ヶ原の合戦で誰も集まらなかったのではないでしょうか?そして三成の友人は、直江兼続、大谷刑部吉継等類は友を呼び、皆義の人として有名な人物ばかりです。家康は三成に一目置いていたのは確かだと思いますが、三成は家康の実力を知ってはいても、とても好きだったとは思いません。寧ろ嫌っていた筈です。
そして此処弘前城の城主津軽家は豊臣時代、三成から親切を受けており、関ヶ原の合戦で三成が敗れると、三成の子孫、三成の次男重成と息女振姫を庇護。その後重成は杉山源吾と名乗り、津軽藩で活躍しました。
そして振姫は二代藩主信枚の側室となり、三代目信義を産む事になりました。因みに先述した信枚は家康の養女と、三成の娘、関ヶ原の勝者と敗者の娘を妻に娶った男です。喧嘩にならんかったのかなぁ…。 -
二の丸側から眺めた未申櫓。
親友だった直江兼続、関が原で命を賭して戦った大谷刑部、そして関ヶ原の敗者を匿うと言うリスキーな行為を侵して迄三成の子孫を匿った津軽家。そしてそれを黙認した幕府。こう考えると三成は嫌われてるどころか、良い友人に恵まれ、大切にされてるとさえ思います。それは翻って三成の人徳でもあると思います。 -
さて、この朱塗りの橋を渡れば本丸です。此処で昔弘前城を訪れた人がいたら、脳裏に?が浮かぶかもしれません。う~ん、なんか違う!
そう思った貴方、良い記憶力しています。先の旅で、一度倒壊しているのに現存天守閣とされる丸岡城を紹介しましたが、此処津軽城も現在曰くがついているのです。なんと場所が移動してしまった、お引越し最中の現存天守閣なのです。 -
いったいどう言う事?と脳裏に?が浮かぶと思います。実は地質調査により、過去の地震等で天守閣の下の石垣に歪みが発生している事が判明。このまま放置すると、何らかの原因で石垣が崩れると、天守閣も巻き込まれてしまう可能性があるとの事で、超巨大ジャッキを使用して、工事の期間中本丸中央部に城毎お引越ししているのです。
本来は本丸の隅の角っこに建ってる筈の天守閣が、本丸の中央部に移動しています。弘前城は桜祭りで有名です。全国のお城ファンや花見ファンが集結するでしょうが、移動前と移動後では撮影ポイントが大きく変わる事と思います。元より三階建てのこじんまりした天守閣なので、中央部に引っ越ししてしまうとお堀からは頭くらいしか拝めません。お堀と堀にしなだれる満開の桜、それにかかる朱塗りの橋の向こうの石垣の上に純白の天守閣。なぁんて構図は有名ですが、天守閣が本丸の中央部に引っ越ししている間はお預けになりそうです。 -
雪解けも始まり、懸命の石垣の復旧作業が続いています。
-
イチオシ
天守閣に到達しました。現在引っ越し中の現存天守閣です。層塔型三重三階の独立天守閣です。
-
天守閣には大きく分けて二つの様式があります。望楼型と呼ばれるものと、層塔型と呼ばれる様式です。
-
望楼型と呼ばれる天守閣は古式の天守閣です。1~2階建ての大きな入母屋造の家屋の屋根に1~3階建ての見張り棟を乗っけた様式です。入母屋造りの大きな破風が「お城!」ってイメージと重厚さを醸し出します。姫路城や松江城が典型的な望楼型城郭です。
これに対し、層塔型天守閣は新しい様式の天守閣です。藤堂高虎が編み出したとも言われます。層塔型は同じ形の建物を、上階にいく程小さくしつつ積み上げていく構造です。五重塔を横に広げた様な形です。構造がシンプルな為、工期を短く、工費を安くする事が出来た為、戦国後期から江戸期に普及しました。例としては名古屋城、島原城で弘前城もこれにあたります。 -
但し、層塔型天守は破風が無い為、のっぺりとした表情になり、それを嫌ったのか、装飾としての破風を追加する城も数多くあります。弘前城は不思議な事に、城の四面ある内、二面には装飾の破風が付け加えられ、残る二面には装飾の無い層塔型天守本来の姿になっています。貴方はどちらが好みでしょうか?(写真は装飾破風無し側)
-
多分、アンケートを取れば圧倒的に破風を持った城が人気だと思います。と言うわけで層塔型天守と望楼型天守なら望楼型に軍配があがると思います。(あくまで見た目)でも、そんな人気が城の再建を歪ませてしまった例があります。今ではそんな愚かな事は出来ませんが、コンプライアンスなんて言葉が無かった昔は、観光誘致目的で、ありもしない城が全国中に建てられる事になりました。
-
そんな中で、折角ある程度文献が残されている城にも関わらず、その城は層塔型で破風を持たなかったが故に、これじゃ人気が出ない!と史実上在りもしなかった破風が加えられ再建されてしまった城さえあります。歴史に対する冒涜です。(その城の名誉の為に伏せますが、調べればすぐ判明します。)
-
石田三成が関ヶ原の決戦前に詰めていた大垣城。この城は残念ながらアメリカに焼き払われてしまいましたが、第二次世界大戦迄は生き延びていたので詳細なデータがあった事で、外観復元が叶いました。しかし、お城ブームが巻き起こった事で、お城の再建ブームが巻き起こり、遥か戦国時代に焼け落ちて、まともな姿さえ解らない城から、本当は天守閣の無かった筈の城迄、ニョキニョキと在らぬ筈の天守閣が林立する事になりました。
そんな中、どんな城を建てればウケるだろう?まさか姫路城に真似ちゃいくら何でもやり過ぎっすよねぇ…なんて会話があったかどうかは知らないとして、大垣城が何故か白羽の矢が立ってしまった様で、大垣城をモデルとした量産型模擬天守が林立する事に…。これも城の名誉の為名前は伏せますが、是非探してみてください。 -
さて、色々な天守閣を述べてしまったので、此処で纏めます。
1現存天守閣。字の如く、建築当時から今も変わらぬ姿を残す天守閣です。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城。
2木造復元天守。第二次大戦等比較的新しい時代に倒壊、若しくは焼失した為、詳細なデータが残り、外観且つ内部も木造で復元出来た天守閣。現在5つの木造現存天守閣があります。宮城白石城、白河小峰城、新発田城、掛川城、大洲城
3外観復元天守閣。2と同じ条件ですが、内部はコンクリート造で外観のみ完全復元されたもの。名古屋城、大垣城、広島城等
4復興天守閣。天守閣の位置、時代考証的に正しいが、古い時代のデータにより、詳細は不明なものを含む天守閣。小田原城、大坂城、岡崎城等
5模擬天守。ほぼ推測により建てられた天守閣。元の位置とは違ったり、時代考証的におかしい点があるもの、本来天守閣の無い城に建てられた天守閣等、信憑性の乏しい天守閣。岐阜城、富山城、清州城等 -
この様に天守閣とは言え、その復元の方法により多くの分類があります。現在では規制が厳しくなり、模擬天守に至ってはもう作る事は出来なくなりました。勿論それは好ましい事ですが、だからと言って既存の模擬天守を批判しようとする主旨はありません。例え模擬天守閣であるとはしても、地元の人々に愛されていれば、それは意味を為していますし、其処から歴史好きへと繋がってくれれば、意義があると思います。歴史博物館としての意義もあるでしょう。只、何処迄が史実で、何処からが推測で築かれたかを、ホームページやパンフレットに記載して欲しいと願います。正確な歴史の攻勢への伝達と誤認識の防止は必要な対策だと思います。
-
おいおい、此処まで来て城内には入らなかったのか?とツッコミが入るかもしれません。書き損じましたが、なんと三月末迄は天守閣は冬季閉鎖中だったのです。毎度の事ですが本当に私はリサーチ不足の極みです。
札幌に住んでいた事もあるので、ちょっと考えれば解る筈なのに、雪国の3月はは決して春じゃありません。東京で緩い生活を送っているうちにすっかり忘れていました。後一週間我慢すべきでした。そして雪解けのシーズンは道がぬかるみ、歩きづらくもあります。
-
藤田記念庭園を訪れました。冠木門の向こうに洋館が建つ、何とも不思議な庭園です。歴史的な城の近くには大名庭園があるのが恒例ですが、どうやらこの庭園は違う様です。
-
日本商工会議所会頭を務めた藤田謙一氏の別邸なのだそうです。更に弘前は東奥義塾が英語教育の為外国人教師を多く招聘したり、ヨーロッパを模範とした旧陸軍の第八師団司令部が置かれた事で洋風建築が数多く建てられた街なのだそうです。
-
しかし、洋館の周囲はどう見ても和風の庭園なので何処かアンバランスを感じます。
-
庭園は高低差のある広大な敷地を有するのですが、やはり三月の弘前はまだ冬。冬季は低地部の池泉回遊式庭園部は閉鎖中でした。洋館はお洒落なカフェになっている様で、女性陣に大人気の様で、次々と女性達が洋館に吸い込まれていきました。私は洋館と聞くとゾンビしか思い浮かばないので遠慮しておきましょう。(バイオハザード)
-
そんな自分も心配は無用です。和洋折衷の庭園ですから、和館もあります。其処では庭園を眺めながら抹茶を頂く事も出来ます。
-
では、早速抹茶を頂きに参りましょう。
-
此方が庭園を眺めながら抹茶を嗜める館です。津軽のリンゴのイメージがピッタリな可愛らしいお姉さんが対応してくれました。
-
美しい和室です。時代なのか、若い女性は皆洋館に行ってしまう様で、此方は私一人のみ。「昨日は暖かったんですけど…。とお姉さんがストーブをつけてくれました。
-
私が抹茶を頂きたくなったには訳があります。思わぬところで名前が登場した石田三成公。私の一番好きな戦国武将。糞真面目で不器用で人付き合いが苦手…って自分を投影してしまうのです。(私は三成公の万倍劣化版ですが…。)
そんな三成公の子息が暮らした此処弘前で、三成公の茶会でのエピソードを思い出したからです。三成は秀吉との出逢いとなった三杯の茶の気配りエピソードも有名ですが、此処では大谷刑部との友情譚を想い起しました。 -
彼の親友に大谷刑部吉継がいました。優秀な武将でしたが、残念な事にハンセン病を患っていました。関ヶ原の合戦時は視力を失っていたとも、馬に乗れず籠に乗って采配を取っていたとも言われます。
そんな三成と大谷刑部が参加した茶会での事、茶の入ったお椀に、刑部の顔の膿が落ちてしまいました。周囲の茶会の参加者は飲む振りだけして器を回します。そんな中、三成は茶を飲み干しました。
病の辛さは患った者にしか到底理解出来ない事、外見に出てしまうものなら猶更の事。言葉に出さずとも表情や行動で、どれだけ刑部が傷ついた事か。しかしだからこそ親友の行動にどれだけ救われた事か。 -
イチオシ
歴戦の勇である大谷刑部は石田三成が挙兵しても勝ち目が無い事は解っていたと言います。刑部は散々三成を諫めましたが、石頭の三成が答を変えない事も十分理解していたでしょう。刑部は負けると解りつつ、親友を守る為西軍として関が原を戦いました。奮戦する中、次々と裏切りに逢い、刑部が散るのと同時に、関ヶ原の戦いの決着は尽きました。
親友の膿の入った茶を飲み干せる、三成の様な漢になりたいな。たかがいっぱいの茶、されどその一杯が人の運命を変える事もあるのです。美味しい茶を頂きました。 -
弘前は城下町なので、嘗て城を中心に街が拡がっていたので、見所も同様に城を中心に広がります。だから見所を左に右にと向かう度に城内を通る事になります。此方は東内門です。
-
此方は弘前城二の丸に現存する三つの櫓の最期の一つ、丑寅櫓です。城内の広大な敷地の一部は数校の学校用地として利用されているので、午後になると帰宅する学生さんが城内を歩いて帰宅する姿が見られます。羨ましいです。
-
津軽藩ねぶた村を訪れました。ねぶたの展示や太鼓や津軽三味線の実演、郷土料理やお土産屋さんがあります。
-
未だ冬季の平日でしかも小雨、観光客も疎らなのですが、何処から沸いてくるのでしょう?此処だけは団体さんも含め大盛況でした。
-
メインとなる有料のねぶた展示スペースに入場しました。入るとその時入場したのは私一人だったにも関わらず、マンツーマンでねぶたについてのあれこれを解りやすく紹介してくれました。
-
ねぶたは青森県西部を中心に幅広く行われている祭で、その中心となるのは青森、五所川原、そして弘前が三大都市となり、それぞれねぶたの形状も違えば掛け声も変わります。弘前のものは写真の様に扇の形が主流です。
-
その他特徴としてはねぶたの絵柄が表と裏では特徴が異なる事が挙げられます。表には勇ましい激しい絵柄が描かれますが、裏では大人しい、優しい絵柄が描かれます。迎える時は意気揚々、見送る時は過ぎ去る夏を惜しむかの様に。ひと夏の祭りに賭ける人々の心情を表しているかの様です。ねぶたを見学の際は、裏側もしっかり鑑賞してください。
-
昔はねぶたを引く町内会同士が、どちらが引くか、通すかで揉め事になり死傷者が出た事さえあったと言います。また、相手を挑発したり、呪ったりする為に、幽霊を描いたねぶたさえあったと言います。勿論現在はそんな事はありません。
-
ねぶたの起源については色々な説がありますが、最初は大きく形式が変わっていたと言います。燈篭流しの様なスタイルだったと言われますが、死者を弔う意味は無く、暑い盛りの農作業の疲れなどから起こる、眠気を覚ます為に、眠気を燈篭と共に流す為の祭事だった。この地方の「眠い」の発音がさらに訛って「ねぶた」になったと言う説です。
-
他には津軽藩の藩主、津軽為信が京都滞在中に大燈篭を披露した事が評判となり、地元の弘前でも行われる様になったとの説もあります。更には時代は遥かに下って、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、敵をおびき出す為燈篭を流した事に由来するとも言われます。
-
ねぶたは明治時代になると巨大化が始まり、観光ブームがそれに拍車をかけて、年々大きくなったと言われます。多くの町民が綱を引いて街を練り歩きますが、花形は出汁のてっぺんに乗り、指揮をとる人達。掛け声をかけあいながら、巧みに信号機や電線、看板を避けながらねぶたを操ります。意外な事にねぶたの絵柄は、三国志や水滸伝等の中国史の有名人物が多いそうです。
-
見下ろせば後続のねぶた解説と太鼓の演奏が始まりました。太鼓のバチは鞭の様に細く、しなやかなものを使い、全体を打ち付けます。私も実際叩かせて頂きましたが、力を入れずも思った以上の音がしました。これが何重にもなって響き渡るのですから祭りの時はさぞかし大迫力でしょう。
-
イチオシ
すみません。これ迄「ねぶた」と濁点で表記してしまいましたが、それは青森等北津軽や下北半島での表記法であり、弘前を中心とした津軽地方では「ねぷた」と半濁点で表現するのが正解の様です。大変失礼いたしました。先程叩かせてもらった銅鑼が一斉に打ち鳴らされる中、これらのねぷたが練り歩く姿を是非見て見たくなりました。この絵柄、躍動感溢れていて大好きです。
-
子供達が持つ、可愛らしい金魚ねぷたも沢山陳列されている他、お土産にもなっていました。
-
津軽三味線の実演を楽しみました。激しく迫力のある演奏でした。今では考えられない事ですが、津軽では三味線は、物乞いのお金を得る手段だったのだそうです。ですから三味線を持つと言う事は、物乞いに堕ちると言う事でもあり、三味線を持っていると人々から、蔑みの視線を向けられたのだそうです。
それを聞いて、私はフラメンコを思い出しました。フラメンコのオレ!の掛け声はアッラーが訛ったもの。レコンキスタで追い払われたムスリムが北アフリカを経由して持ち込んだ舞踏と、ロマの舞踏が合わさり生まれた舞踏だとされています。マイノリティとしての悲しみや憤りを表現した本場のフラメンコは、想像以上に激しいものでした。津軽三味線も、そうした時期の演者さんの悲しみや憤りが籠められているので激しい旋律なのかもしれません。 -
ちょっと奮発して弘前の郷土料理を頂きました。細かく刻んだ野菜たっぷりの「けの汁」は粥の汁が訛ったものと考えられており、米が貴重な時代、細かく刻んだ野菜を米に見立てていたのだそうです。同じく寒冷地で米が貴重だった甲斐でも、米が貴重だったので、うどんとたっぷりの野菜の「ほうとう」を食べる習慣がありました。現在も米の高騰が続くので、「けの汁」を飲まなくてはいけなくなるかもしれません。(でも野菜だって負けずに高い!)
一番美味しかったのは、「貝焼き味噌」です。ホタテの貝殻にホタテや味噌、出汁に野菜を加え、卵でとじます。ご飯にかけて食べるとマジで上手い! -
弘前市仲町伝統的建造物群保存地区を訪れました。江戸時代侍町であった面影を残す地域です。現在では殆ど門扉だけ伝統的なもので、家屋は新しいものが殆どですが、そのうち数件は江戸時代からのものであり、見学する事が出来ます。残念ながら冬季だったので日替わりで一軒のみ見学可能でした。
-
本日オープンしている唯一の武家屋敷、旧笹森家住宅にお邪魔しました。中級と言うより下級武士の家だったそうなので、外観はちょっとみすぼらしいです。しかし東京のアパートに暮らしている私から見れば、十分立派な家屋です。下級でもこれだけの一軒家に暮らせるのは凄い!
-
近年まで実際人が暮らしていた家屋が市に譲渡され、それに手を加えて整備されたものだそうです。
-
と言うわけで、飾られた甲冑も、雰囲気を盛り上げる為のものです。
-
家屋には管理人さんがいるのですが、真面目なのか、シャイなのか、凄く丁寧に説明してくれるのですが、それが終わって下がっていったので、私が写真を撮り始めると、忘れてた!って感じで再び現れてお話を再開します。それも各部屋で同じ展開(笑)
勿論全然嫌な気はしません。とても人柄の良い人で頑張っているのが伝わってきます。おかげで弘前について様々教えて頂けました。最後には門まで見送って下さり、其処でもまたちょっと長話。最後迄ありがとうございました。
-
亀甲門(北門)を潜って次の見所へと向かいます。北門は弘前城の中で最古の様式で建てられており、築城当時は此方が正門扱いだったそうです。亀甲は北を守る四神獣のひとつ、玄武からとられたものです。
-
あれ、これはどの櫓でしたっけ?辰巳?未申?それとも丑寅?
-
金剛山、景勝院を訪れました。真言宗智山派の寺院です。
-
近世では津軽藩領内の寺社を統括する立場にあった重要な寺院です。
-
重厚感溢れる山門を潜ります。
-
イチオシ
重要文化財に指定されている五重塔としては日本最北に位地する五重塔です。
-
さて、明日は仕事なので、この寺院を最後にそろそろ帰らなければとスマホを開き、帰りの新幹線を検索すれば、なんていう事でしょう!東京以北の新幹線は強風により全て運休しているではあ~りませんか!昔なら特急とか急行とか選択肢があったかもしれませんが、新幹線が登場して以来、早い移動は新幹線一択の時代になりました。て事はダメじゃん。
早速会社に電話します。これこれしかじかで…。スカポンタ~ン!って事で何とか理解して貰いました。いやそれより何よりどうやって帰りましょう?ホテルに泊まるのは癪に障ります。でも、弘前からの今夜の深夜バスは満車。そりゃそうです。皆考える事は一緒です。じゃあ盛岡は?やっぱり盛岡も一緒でした。 -
それなら仙台は?仙台なら複数便出ている筈です。なんとたった1席開いていました。慌てて予約します。で、最後の最期で「性別が違うので席を確保出来ません。」はぁ?そう言う時代なのですね。じゃあこっちも今風に、「心は女ですぅ!」って言ってやろうかしら?
そんな挫折を数社繰り返しながら、漸く再びたった1席見つけました!祈る様な気持ちでポチっとな!グッジョブ!
でも、って事は今からなんとか発車の時間まで仙台に辿り着けるかの勝負となります。東北の距離感解りませんが、走るのみです!旅らしくなってきました。旅はこうでなくちゃ!楽しくなってきました♪ -
盛岡に到着しました。走るぅ、走るぅ、俺達♪(一人旅だけど…)運の良い事に結構ナイスタイミングで仙台便がありました。JRが動いていないので超混雑してるけど。
-
仙台に到着です!後は私がポカしなければ帰れます。時間も余裕があります。では夕食を食べに行きましょう!仙台と言えばタン焼きです。私でも知ってます!
-
あった!ありましたぁ!
いや、それはタン焼きちゃうて、たこ焼きじゃあ~りませんか!
ダメですよ。仙台行って、名物のたこ焼き食べてきましたぁ、なぁんて言っちゃ。
たこ焼き大好きなんですが…。今晩は我慢、タン焼きです。 -
で、やっぱ何処も並び状態で苦戦に苦戦しましたが、ラストオーダーに滑り込みセーフでした。
-
未だちょっと時間が余ったので、地下鉄に乗って青葉城に来てしまいました。伊達政宗が築いた連郭式平山城です。
-
ライトアップで石垣が浮かび上がります。建設当時は上杉氏との戦闘を考慮し、時代は江戸に入っていたものの、戦闘に備えた城の性格が強かったそうです。
-
イチオシ
煌びやかな仙台の夜景が見えてきました。この石垣を登れば本丸です。
-
本丸に入れば伊達政宗公が仙台の夜景を楽しんでおりました。カップルの皆様も楽しんでおられます。独りきりなのは、私一人きりです。う~ん、なんで私は仙台で夜景を眺めているのでしょう?
-
独眼竜政宗、幼い頃疱瘡で片目を失い、母に嫌われ、辛い幼少期を過ごしました。私は両目はありますが、母とは終始犬猿の仲だったので、政宗もまた共感する武将の一人です。似ても焼いても食えない奴感たっぷりな後半生も格好良いですね。
-
スペインに使節を送った政宗公。一説によればスペインの力を借りて幕府転覆を図っていたとかも囁かれていますが、彼は此処からどんな世界を見ていたのでしょう?どんな絵を描いていたのでしょう?
-
安達太良迄戻って来ました。あと一息です。
-
勢いに任せて出かけてしまったばっかりに、未だ冬季で、所々休業中ではありましたし、新幹線全面運休に巻き込まれ、翌日の仕事にも影響を与えてしまいました。久しぶりに日本を旅すると、この有様です。
-
それでもやっぱり旅は楽しいし、歴史は面白い。嗚呼また憂鬱な現実に戻ってしまった早朝の新宿。
最後迄ご覧になって下さり、ありがとうございました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
日本の旅
-
前の旅行記
「まつとおね」から頂いたものを世界中に伝えたい!(観劇に感激編)
2025/03/23~
和倉温泉
-
次の旅行記
雨晴海岸にて自分への誕生祝と今年の運試し 北陸の旅 完結編
2025/04/05~
氷見
-
松本城
2009/08/06~
松本
-
江戸城
2009/08/09~
東京駅・大手町・日本橋
-
会津
2009/08/28~
会津若松
-
彦根城から浜松城
2009/08/29~
滋賀
-
名古屋城から浜松城
2009/08/30~
名古屋
-
長野
2010/08/20~
長野・篠ノ井
-
甲斐
2010/09/05~
甲府・湯村
-
鶴見川
2011/08/08~
神奈川
-
高尾
2013/09/01~
高尾・八王子
-
「まつとおね」から頂いたものを世界中に伝えたい!(事前準備編その1福井丸岡城)
2025/03/22~
永平寺・丸岡
-
「まつとおね」から頂いたものを世界中に伝えたい!(事前準備編2金沢)
2025/03/22~
金沢
-
「まつとおね」から頂いたものを世界中に伝えたい!(観劇に感激編)
2025/03/23~
和倉温泉
-
現存12天守閣巡り8城目、弘前城
2025/03/26~
弘前
-
雨晴海岸にて自分への誕生祝と今年の運試し 北陸の旅 完結編
2025/04/05~
氷見
-
未訪問県、訪問の旅の筈が…鳥取編
2025/04/28~
鳥取市
-
未訪問県訪問の旅の筈が…和歌山城、伊賀上野城編
2025/04/29~
和歌山市
-
未訪問県訪問の旅の筈が…佐和山城そして関ケ原編
2025/04/30~
彦根
-
未訪問県訪問の旅の筈が…彦根城、安土城編
2025/05/01~
近江八幡・安土
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
弘前(青森) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 日本の旅
0
80