2009/08/29 - 2009/08/30
5304位(同エリア10833件中)
さっくんさん
先日までまたもや国内を突発的に旅していました。未だ旅行記を書き上げられていないので、過去旅から大きくリンクしてくる旅を紹介したく思います。この旅に出かけた09年は現在と同じく発作的に憑りつかれた様に国内を旅していました。現在程休日に恵まれない職場だったので、いつも弾丸で旅していました。その弾丸の精神は中々消えない様で、生まれ持っての性格も手伝うのか、いつだって私は追われる様に旅しています。それにしてもこの旅程は自分で振り返っても忙し過ぎだと思います。現在では歳も取って、急ぐのは心だけで、体がついてきません(笑)。その分以前は見えなかったものが見えていたら良いのですが…。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
彦根にやってきました。深夜バスを使うと、到着時間が早過ぎるのが玉に瑕です。
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ひこにゃんが出迎えてくれました。
「ひこにゃ~ん!」 -
彦根城の城壁です。でも開城迄はまだまだです。
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琵琶湖の畔で黄昏ます。久しぶりに見る琵琶湖。湖畔に来るのは初めてです。大きいです。対岸が見えません。まるで海です。日本の湖っぽくない大きさです。
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やっと開城時間が近づきました。彦根城に向かいましょう。彦根城は現存する12の天守閣の一つであり国宝でもあります。
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彦根城は現存する12の園主核を持つ城の一つで更に5つある国宝の天守閣のひとつです。
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大堀切から天秤櫓を仰ぎ見ました。
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天秤櫓は大手門と表門からの道が合流する要の位置に建つ門で、二つの登城道を抑える為両隅にそれぞれ櫓が建てられ防御を固め、その中央に門があります。その恰好が天秤に似ている事から、この名がつけられました。
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此処を潜れば本丸。天守を前に最後の門となる太鼓門櫓を潜ります。
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彦根城は連郭式平山城d天守閣は複合式望楼型三重三階の現存天守閣です。城主は井伊家。徳川四天王の一人、井伊直政の死後、井伊家の居城として建てられました。井伊家は多くの大老を産み、徳川四天王の中でも一番出生した一族となりました。
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徳川四天王の一人井伊直政は、関ヶ原の合戦後、島津隊の放った鉄砲傷が原因で亡くなります。彼は合戦後、西方の重要拠点だった彦根に任じられましたが、敵方の石田三成の居城、佐和山城に入る事を嫌っていました。彼の死後、彼の意志を尊重し、佐和山城を始めとした周囲の城の建材を集め、彦根城が建てられました。、
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つまり、この城を構成している建材の多くは、石田三成公の佐和山城のもの。嗚呼私はなんて馬鹿なのでしょう。私は戦国時代で一番好きな武将は石田三成公です。そんな私が彦根に来て、彦にゃんと国宝の現存天守に浮気して、佐和山城址に行き忘れています。何と言う失態。三成公に申し開きできません。推し失格です!
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石田三成公…切れ者で、ルールに厳しく、頭が固く、義を重んじ、一度腹に決めたら決して曲げない。それ故コミュ障で人付き合いが苦手な嫌われ者…なんか自分と重ねてしまうのです。(私は三成公の百倍劣化版ですが…)
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石田三成公の旗印 大一大万大吉は「一人が万民の為に、万民は一人の為に尽くせば、天下の人々は幸福になれる。」と言う意味です。事実三成公は佐和山の人に尽くし、愛されていたと言います。関ヶ原の合戦の後、佐和山城を調べると、金銀財宝は殆ど無く、彼は自腹を肥やす事無かったと言います。
彼の旗印は英語で言えば「One for all、All for one」となります。フランスの小説「三銃士」で有名になった言葉ですが、三銃士が書かれたのは1844年の事。それよりも200年も前に三成公はそれをモットーにしていたのです。 -
官僚としては優秀だけど、コミュ障故政治家としての才は無い、そんなところも私は好きです。彼は何より義を大基に思考する人物なので、そもそも政治とは水と油、そんな彼は徳川家康の行動はとても容認出来るものでは無かった筈です。しかし、一方家康にとって三成は、部下として一番欲しい人物であったと思います。
義を貴び、ルールに厳格、私利私欲で動かない。確かにこんな人物が自分の下にいたなら、心強いに違いありません。 -
彦根城の大名庭園、玄宮園から彦根城を眺めました。
結局石田三成は家康を許せず挙兵。家康に敗れます。家康は三成を処刑せざる得ません。処刑寸前、三成は水を求めますが
「水は無いから柿を食え!」
と罵りました。すると三成は
「柿は痰の毒になる。」
と言って拒絶します。(三成らしい…)すると見張りが
「これから首を斬られる者が毒を気にしてどうする?」
と嘲笑しました。すると三成は
「大義ある者は、首を刎ねられるその瞬間まで命を大切にするものだ。」
と答えたと言います。刺さります。本当に刺さります。この言葉。最後まで己の志を決して曲げる事の無い、三成らしい言葉です。肝に銘じます。
家康は「三成は流石大将の道を知るものだ。」と述べたそうです。 -
家康は、関ヶ原の合戦で裏切って東軍に参加した武将は元より、豊臣恩顧の武将でありながら家康に加担した加藤清正や福島正則等に冷淡でした。一度裏切った人間は、必ず二度裏切ります。彼等の家の末路は悲惨なものでした。
一方石田三成こそ処刑されたものの、彼の子孫は除名されました。敵方の大将の家系が除名される事は、豊臣氏は根絶やしにされましたし、この時代珍しい事です。 -
更に除名された三成の子孫は津軽氏により大切に守られました。津軽氏は三成に恩を感じており、その義を守り三成の子孫を守り通しました。類は友を呼ぶと言いますが、三成の友人には直江兼続や大谷刑部等、義の人として著名な武将が多いですが、津軽氏もまた義の人だったのでしょう。そして津軽氏に育てられた三成の子息は出世を遂げますが、中でも次女の家系からは、なんと徳川三代将軍の側室になった女性さえいるのです。
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そして二代将軍秀忠の命と言う形で家康が発布した武家諸法度。義の人であり、私利私欲が無く、ルールに順守する三成の人生が書かれているかの様に感じたのは、私の気のせいでしょうか?
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長浜城を訪れました。豊臣秀吉が築城した城で、現在では独立式望楼型の天守閣として再建された模擬天守となっています。
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羽柴秀吉が浅井長政攻めの功として織田信長から浅井氏の旧領を拝領。当時今浜と呼ばれていた街を、織田信長から一文字拝領し長浜に改名しました。城も街も秀吉が築いたと言っても良いでしょう。秀吉出世の基点となた城であり街であったと言っても良いでしょう。
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秀吉は、天下統一を果たした後より、それ以前の方が魅力的なエピソードが多いと思います。でも、世界を見渡しても人ってそんなものかもしれません。世の中、権力を手に入れた瞬間、豹変してしまう人ばっかり…。三成の詰めの垢を煎じて飲ましてやりたい…。
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長浜城から琵琶湖を眺めました。琵琶湖の周囲は私の大好きな時代の歴史が詰まっています。引っ越し出来るなら引っ越してしまいたい程です。
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三杯の茶の逸話をモチーフとした銅像がありました。
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長浜の街も、風情を感じます。
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大垣に移動します。関が原周辺を走行中。次回は下車して戦跡をじっくり散策したいです。
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大垣城を訪れました。関ヶ原の合戦時、本来石田三成が拠点としていた城です。何故石田三成は家康の苦手としていた攻城戦に持ち込む事無く、家康の得意とする関ヶ原の野戦に出向いたのでしょう?様々な歴史家の見方があって興味深いです。
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一般的には家康が西に進路を進め、三成の居城佐和山城を目指すかに見られたので、家康の西進を防ぐ為、城を出てしまったとの説です。自分の得意な野戦に誘い出す。ここら辺でも家康の駆け引きがあったのでしょう。一枚上手だったのだと思います。
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大垣城の天守閣です。シャイなんでしょうか?木々に囲まれ中々全貌を撮るのが難しかったです。
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大垣城は連郭輪郭複合式平城で複合式層塔型の外観復元天守閣です。(アメリカ軍の空襲で焼失)
因みに大垣城の外観復元天守は、模擬天守のモデルとして利用され、郡上八幡城や墨俣城の模擬天守はほぼほぼ大垣城と同じ形で建てられています。 -
天守閣から大垣市内を眺めました。木々が天守閣近くまで生い茂っているので、天守閣の外観も中々写し辛かったけれど、眺めも邪魔してしまっています。でもだからと言って木を切るのはちょっ筋が違うとも思います。
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城内にも石田三成公の銅像が建てられていました。大一大万大吉、やはり地元では三成公は今も愛されている様です。とっつきにくくて嫌われ者、でも、私利私欲無く、ルールには自他共に厳しく、義に生きる。現代のトップも、三成の様な人物を評価し、国を導いて貰わねば、国は良くならないのではと思います。
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清州城に訪れました。望楼型三重四階に、推測で再建された模擬天守閣です。
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清州城は模擬天守ですが、模擬でも造りたくなる気が解る程、重要な歴史的に有名な出来事が起こった城です。
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織田信長が桶狭間の戦いに出たのも此処清州城。と言う事は信長が幸若の舞を舞い、人間五十年~と詠ったのも此処だと言う事です。家康との軍事同盟(清州同盟)も勿論此処、信長が本能寺にて討たれ、その後を話し合われた清須会議もこの城で行われました。
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清州城天守閣から清州の街を眺めます。新幹線が通り過ぎていきました。
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遠くに眺められる高層ビルは名古屋のものでしょうか?
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戦国時代まで、この地方の交通の要衝として栄えた清州でしたが、江戸時代になると1609年k徳川家康の指示で清州から名古屋へ遷府が命じられ、城下町毎移転させられ清州城は廃城となりました。
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続いて訪れたのは犬山城です。現存する12天守閣の内のひとつ。5つの国宝の天守閣のひとつです。
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複合式望楼型三層四階の天守閣が残り、現存する天守閣としては最古の天守閣となります。
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現存する天守閣に入ると、武骨な印象を受けますが、犬山城は何処と無く寺院の様な落ち着いた風情を感じました。
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天守閣から木曽川を見下ろしました。
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なんかドナウ川を思い出しました。緩やかなラインが美しいです。
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犬山城の縄張りは連郭式です。連郭式は団子さん兄弟の様に、本丸から二の丸、三の丸と一直線に繋がっている縄張りです。犬山城は平山城で三方を崖に囲まれているので、防御が必要無いので、一方だけしか縄張りを張る必要がありません。であるから連郭式と言うわけです。
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当時のインフラとしての重要な川の畔の小高い丘の頂上。当時として再興の立地に建つ城と言えるでしょう。今日としては眺めも最高。なんとこの城、国宝であるにも関わらず、最近まで個人所有の城だったとか。
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他の現存天守閣と趣きが違うのは最上階の窓の形や、唐破風(最上階直下の弓なりに湾曲した破風)が設けられているからだと思います。
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犬山城の正面です。美しい城です。さて、城の正面から見て右側、ピョコンと突き出た櫓。色々な城でこれと似た様な櫓見た事はありませんか?つけ櫓と呼ぶのですが、正面から入り口に侵入しようとする敵を、横から弓なり銃なりで撃ち下ろす為につけられた櫓なのです。
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岐阜城公園の3重の塔。
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岐阜城を訪れました。岐阜城には幼い頃に親に連れられてきました。城好きだった私の為に親が旅程に加えてくれたのだと思います。私の大好きだった信長公の居城と言う事もあり、私は大興奮で城を散策しました。
再訪が叶い、懐かしい思いで登城しましたが、一方ちょっと騙された思いも抱えての登城でもありました。 -
何故かと言えば、岐阜城が模擬天守だと解ったからです。模擬天守とは元々天守が無かった城に天守閣を模した建造物を建てたり、天守閣が元からあったとしても、別の場所や様式が異なる形式で建てられた天守閣を指します。
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もし私が当時大人であれば、それが解った上で城の散策を楽しんだでしょう。プロレスと同じです。今回の旅でも同じ事です。プロレスに筋書きがあったとしても、血や汗は本物です。と同じ様に、例え模擬天守であろうと、そこから真実の歴史に興味を持てれば、模擬天守と言えど、意味があります。でも当時子供であり、それが本物として大興奮した私は、それが模擬天守と知った時、裏切られたと感じてしまったのです。
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現在ホームページを閲覧すると、再建された事は明記されていますが、模擬天守とは書かれていません。勿論実際城に訪れれば、それが再建された事は大人なら十分理解出来ますし、歴史に詳しい人は模擬天守である事を軽く見破れると思います。しかし歴史に余り詳しくない人や、子供達、外国人は再建されたものとは思っても、歴史上もこれと同じ城が建っていたと勘違いしてしまう筈です。これでは嘘を教えている様なものだと思います。地域のシンボルと言うのは理解します。が、歴史との信憑性はホームページやパンフレットに明記して欲しいと思います。
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此処で再建の仕方に依る分別法を纏めておきたいと思います。
現存する天守閣は姫路城お始め全国で12棟しか残されていません。
復元天守閣。史実に基づいて再建された天守閣。名古屋城や岡山城がこれにあたります。
復興天守。天守閣の位置や規模はほぼ史実通りですが、細部は推測に依り建てられたもの。戦後観光用に建てられた多くがこれにあたります。小田原城や福山城等。
模擬天守。元々天守が無かったり、不明だった城に、天守閣を作った、又は全く異なる場所に建てられた、築城年代とはかけ離れた様式で建てられた等、史実と大きく相違がある形で建てられた天守閣を指します。この旅でも訪れる岐阜城、清州城、浜松城が挙げられます。 -
それはさておき、岐阜城から暮れ行く空を眺めます。織田信長もきっと同じ景色を眺めたのでしょう。天下布武の想いを抱きながら。
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長良川が緩いカーブを描いています。今夜も鵜飼は行われるのでしょうか?ガキの頃、親に連れられ鵜飼を見物に行った時はガキなもので
「母ちゃん鳥の吐いたもの食うの?」
なんて馬鹿な文句を言って怒られたものですが、やっと風流と言うものが解って来た年頃になりました。鵜飲みはいけませんが、鵜飼は風流です。 -
暮れゆく岐阜城を見上げます。模擬天守閣とは言え、格好良いものは、やっぱ格好良い!信長公の城だった事は紛れも無い事実です!
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滋賀県から岐阜県まで幾つかの城を巡りながら旅をしました。今夜は名古屋で一泊します。戦国時代で言うなら近江で始まり尾張に泊まります。
さて豊臣政権を二分する戦いとなった関ヶ原の合戦は、近江と尾張の戦いと言っても良いでしょう。そしてそれはもう一つの性格を持ち合わせています。官僚型の武将と武辺ものの武将との戦いと言う性格です。いや、私は決して滋賀県の人は英才で、名古屋の人はドキュンばかりだと言いたい訳ではありません。これには理由があります。
秀吉がまだ織田信長の下で駆け出しの頃、手柄を立てる為に各地を転戦していた時代、だから最初は地元の尾張で武辺ものを集めました。しかし長浜に一国を持つようになれば、武辺ものだけでは国は運営出来ません。なので長浜を中心にく官僚型の武将を集めたのです。
しかしやがて武将としての役割の違い、出身地の違い、そして正室と側室も絡まって、豊臣政権は二つに分断してしまう事になります。それをまんまと利用したのが徳川家康です。
二日目はそんな家康に因んだ城を巡る予定です。 -
電飾のトンネルが綺麗でした。独り身には寂しさを助長する彩です。日本の旅は、余りにも全てが快適に、完璧に、進んでしまいます。勿論それは素晴らしい事で、有難い事なのですが、初めて訪れた右も左も解らない国で、困り果てる故、現地の人との手助けを求め、親切を受け、一人旅の寂しさ等感じる暇も無いのですが、これだけ言葉を発する事無く旅が進んでしまえると、逆に孤独を感じる時間が増えてしまいます。私、何やってるのだろう?
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政治家のオバチャンが大奮闘していました。
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名古屋で一泊しました。完璧に整った清潔な機能的なビジネスホテルに独り眠る…。私が唐突に毎週のように日本を旅し、ある時パッタリと行かなくなってしまった。勿論環境の変化とか様々な理由は挙げられますが、その大きな理由の一つに、完璧な故に孤独を感じる時間も多い日本の旅に、「俺、何やってるんだろう?」と思ってしまった事もあると思いました。今は充電中。きっとまたその時が来たら、狂った様に旅するかもしれません。
最期迄ご覧になって下さりありがとうございます。
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