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光と影の地 足尾 近代化産業遺産を訪ねての再訪 古河掛水倶楽部<br />https://4travel.jp/travelogue/11669485<br />続きの後半旅行記になります。<br /><br />足尾の近代化産業遺産 2月にチェックした以外を見るために再訪しました。<br />午後からは本山駅辺り~舟石峠~銀山平~小滝~庚申川ダム~通洞選鉱所跡を廻りました。<br />備前楯山を ぐるっと一周するこのルートには数々の産業遺産がありました。<br /><br />2020年2月 前回の足尾訪問<br />雪のチラつく足尾へ 銅山観光と自主的プチ産業遺産見学<br />https://4travel.jp/travelogue/11616510<br />(産業遺産の説明は日光市発行のガイドマップなどを参考にしました。)<br />

光と影の地 足尾 近代化産業遺産を訪ねての再訪 朽ちてゆく産業遺産たち

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2020/11/08 - 2020/11/08

26位(同エリア119件中)

旅行記グループ 建物見物栃木県1

2

41

まりも母

まりも母さん

光と影の地 足尾 近代化産業遺産を訪ねての再訪 古河掛水倶楽部
https://4travel.jp/travelogue/11669485
続きの後半旅行記になります。

足尾の近代化産業遺産 2月にチェックした以外を見るために再訪しました。
午後からは本山駅辺り~舟石峠~銀山平~小滝~庚申川ダム~通洞選鉱所跡を廻りました。
備前楯山を ぐるっと一周するこのルートには数々の産業遺産がありました。

2020年2月 前回の足尾訪問
雪のチラつく足尾へ 銅山観光と自主的プチ産業遺産見学
https://4travel.jp/travelogue/11616510
(産業遺産の説明は日光市発行のガイドマップなどを参考にしました。)

旅行の満足度
4.0
観光
3.5
同行者
カップル・夫婦
交通手段
自家用車

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  • 足尾銅山の産業遺産と言えば 「本山製錬所」の景色が一番有名だと思います。<br />そちらは前回2月の旅行記に記載しています。<br />今日は そこはスルーして、前回進んでいない道を先へ進みます。<br />詳しく掲載するならば 本山抗口 鷹の巣抗の説明版などもあったのです。<br />が、狭い山道に後ろから軽トラックが来ていて止まることが出来ず横目で見ただけ、となってしまいました。<br />本当に見られる物全てを と 思ったら徒歩で廻らないと見落とす場所も多そうです。<br /><br />車を進め「舟石峠駐車場」まで来ました。<br />ここから備前楯山登山をする方が居るようで、紅葉登山なのか思いのほか多くの車が停まっていました。<br />

    足尾銅山の産業遺産と言えば 「本山製錬所」の景色が一番有名だと思います。
    そちらは前回2月の旅行記に記載しています。
    今日は そこはスルーして、前回進んでいない道を先へ進みます。
    詳しく掲載するならば 本山抗口 鷹の巣抗の説明版などもあったのです。
    が、狭い山道に後ろから軽トラックが来ていて止まることが出来ず横目で見ただけ、となってしまいました。
    本当に見られる物全てを と 思ったら徒歩で廻らないと見落とす場所も多そうです。

    車を進め「舟石峠駐車場」まで来ました。
    ここから備前楯山登山をする方が居るようで、紅葉登山なのか思いのほか多くの車が停まっていました。

  • 本山から銀山平までの道は 舗装はされていますが狭い所も多かったです。<br />銀山平は紅葉狩りのポイントでもあるので ちょいちょい来られている人も居ました。<br /><br />この銀山平 本当に銀が採掘された事もあったそうです。<br />解説板には<br />>小滝抗の発展とともに明治35年(1902)「小滝索道」が敷かれ廃石が運ばれて平地が出来たので<br />「銀山平」とした。<br />更に明治37年「根利索道」38年「京子内索道」の停車場を設け、東洋一を誇る大製材所を開設し<br />足尾銅山の用材の一大基地として、最盛期は200人程が従事した。<br />明治42年頃(1909)には140戸の社宅も有したが、昭和14年(1939)に製材所も索道も廃止、総ての施設が撤収され静かな平地のみが残った。(索道 貨物専用のリフトのような施設)<br />

    本山から銀山平までの道は 舗装はされていますが狭い所も多かったです。
    銀山平は紅葉狩りのポイントでもあるので ちょいちょい来られている人も居ました。

    この銀山平 本当に銀が採掘された事もあったそうです。
    解説板には
    >小滝抗の発展とともに明治35年(1902)「小滝索道」が敷かれ廃石が運ばれて平地が出来たので
    「銀山平」とした。
    更に明治37年「根利索道」38年「京子内索道」の停車場を設け、東洋一を誇る大製材所を開設し
    足尾銅山の用材の一大基地として、最盛期は200人程が従事した。
    明治42年頃(1909)には140戸の社宅も有したが、昭和14年(1939)に製材所も索道も廃止、総ての施設が撤収され静かな平地のみが残った。(索道 貨物専用のリフトのような施設)

  • 今は当時の建造物が全く残ってない事 公園としてキャンプ場とバンガロー、<br />国民宿舎かじか荘のある レジャー施設となっているのです。<br />足尾の山は紅葉真っ盛りで、公園内のもみじも周りの山も美しく色づいていました。<br />

    今は当時の建造物が全く残ってない事 公園としてキャンプ場とバンガロー、
    国民宿舎かじか荘のある レジャー施設となっているのです。
    足尾の山は紅葉真っ盛りで、公園内のもみじも周りの山も美しく色づいていました。

  • こんな景色を眺めながら、私たちもコンビニで買ってきたお昼をここで食べました。<br />この地にかつて140戸もの社宅があった形跡はなく <br />ただ 山の中に平らな広い場所があることが不思議な感じです。<br />

    こんな景色を眺めながら、私たちもコンビニで買ってきたお昼をここで食べました。
    この地にかつて140戸もの社宅があった形跡はなく
    ただ 山の中に平らな広い場所があることが不思議な感じです。

  • 道路脇ちょっと高い場所にあるのは「中国人殉難烈士慰霊碑」<br />第二次世界大戦中の昭和19年(1944) 257名の中国人が強制連行されて栄養失調などで109名の方が殉難されたそう。<br />この慰霊碑は 昭和48年(1973)の閉山の年に建てられたそうです。<br />

    道路脇ちょっと高い場所にあるのは「中国人殉難烈士慰霊碑」
    第二次世界大戦中の昭和19年(1944) 257名の中国人が強制連行されて栄養失調などで109名の方が殉難されたそう。
    この慰霊碑は 昭和48年(1973)の閉山の年に建てられたそうです。

  • 銀山平を出て小滝抗方面へ。本山からの道に比べると幅も広くずっと良い道になりました。<br />道路の脇には石垣が続き きっと社宅などが沢山あったのだろうな、と思われます。<br />

    銀山平を出て小滝抗方面へ。本山からの道に比べると幅も広くずっと良い道になりました。
    道路の脇には石垣が続き きっと社宅などが沢山あったのだろうな、と思われます。

  • 庚申川沿いに進む道を行くと たまに開けた場所から岩山と紅葉景色も。

    庚申川沿いに進む道を行くと たまに開けた場所から岩山と紅葉景色も。

  • 道路の脇に目立つ鉄橋が現れました。<br />「旧小滝橋」大正15年(1940)架設<br />明治24(1891)に町内幹線道路から敷設が始まった軽便馬車鉄道が廃止され<br />坑内への銅山便道(ガソリンカーの軌道)為に作られた鉄橋です。<br />

    道路の脇に目立つ鉄橋が現れました。
    「旧小滝橋」大正15年(1940)架設
    明治24(1891)に町内幹線道路から敷設が始まった軽便馬車鉄道が廃止され
    坑内への銅山便道(ガソリンカーの軌道)為に作られた鉄橋です。

  • その鉄橋の先には坑道入り口が。<br />「小滝抗跡」<br />>江戸時代からあった 小滝旧抗を利用して明治18年(1885)開抗。<br />明治26年(1893)に本山抗と貫通し(間かく3005m)続いて通洞抗とも立抗で連絡するようになり<br />備前楯山に向かって三抗から採鉱がすすめられます。<br />当時下駄つくり小屋が一軒しかなかったこの地に 小滝抗を中心に銅山の施設と集落が出現し<br />大正年間には人口1万人となりました。<br />昭和29年(1954)銅山の経営合理化により 小滝抗が廃止 銅山施設が撤去されました。<br />

    その鉄橋の先には坑道入り口が。
    「小滝抗跡」
    >江戸時代からあった 小滝旧抗を利用して明治18年(1885)開抗。
    明治26年(1893)に本山抗と貫通し(間かく3005m)続いて通洞抗とも立抗で連絡するようになり
    備前楯山に向かって三抗から採鉱がすすめられます。
    当時下駄つくり小屋が一軒しかなかったこの地に 小滝抗を中心に銅山の施設と集落が出現し
    大正年間には人口1万人となりました。
    昭和29年(1954)銅山の経営合理化により 小滝抗が廃止 銅山施設が撤去されました。

  • 小滝抗の反対側の岸壁にはこんなものが。<br />「旧小滝火薬庫跡」<br />>足尾銅山では明治14年(1881)頃から火薬を使って採鉱していた。<br />この火薬庫は明治40年頃(1907)まで使用していたものと思われる。<br />

    小滝抗の反対側の岸壁にはこんなものが。
    「旧小滝火薬庫跡」
    >足尾銅山では明治14年(1881)頃から火薬を使って採鉱していた。
    この火薬庫は明治40年頃(1907)まで使用していたものと思われる。

  • 道路脇ガードレールの奥に説明版も見えたので、歩いて近づいてみました。<br />しかし、この穴ぼこの上部 岩がせり出していて、しかも崩落の跡らしき人の頭大の岩が下にゴロゴロしているのです。<br />気軽に見に行こうと近づくと いきなり上から岩が落ちてくる可能性も高いと思われ <br />かなり危険です。気づいて直ぐに戻りました。<br />

    道路脇ガードレールの奥に説明版も見えたので、歩いて近づいてみました。
    しかし、この穴ぼこの上部 岩がせり出していて、しかも崩落の跡らしき人の頭大の岩が下にゴロゴロしているのです。
    気軽に見に行こうと近づくと いきなり上から岩が落ちてくる可能性も高いと思われ
    かなり危険です。気づいて直ぐに戻りました。

  • 車に戻り進みます。次に見えたのは<br />「小滝浴場跡」<br />抗夫さんたちの大浴場のあった場所ですね。<br />円形の建造物は 半ば埋もれた状態です。ここが浴槽跡のようです。<br /><br />現在の様子は落ち葉や泥でかなり埋まりつつありよく判らないのですが、<br />古い写真を見ると<br />二重になった楕円形のお風呂は、内側に仕切りのある上がり湯があり<br />外側でざっと汚れを落としてから、中のお風呂に入る、という使い方だったようです。<br />軍艦島の抗夫のお風呂は、まず服のまま海水を沸かしたお風呂に入って、その後真水の風呂に入る、というやはり二段構えの入浴方法でしたね。<br />坑内での汚れは半端なかったのでしょう。<br />

    車に戻り進みます。次に見えたのは
    「小滝浴場跡」
    抗夫さんたちの大浴場のあった場所ですね。
    円形の建造物は 半ば埋もれた状態です。ここが浴槽跡のようです。

    現在の様子は落ち葉や泥でかなり埋まりつつありよく判らないのですが、
    古い写真を見ると
    二重になった楕円形のお風呂は、内側に仕切りのある上がり湯があり
    外側でざっと汚れを落としてから、中のお風呂に入る、という使い方だったようです。
    軍艦島の抗夫のお風呂は、まず服のまま海水を沸かしたお風呂に入って、その後真水の風呂に入る、というやはり二段構えの入浴方法でしたね。
    坑内での汚れは半端なかったのでしょう。

  • 近くにはコンクリートの塀のようなものも残っていました。<br />グーグルマップだと「防音壁」と出てきます。<br />調べてみると 坑内に空気を送るコンプレッサー室の防音壁だったもののよう。<br />送られる空気は削岩機用の圧縮空気だったそうです。<br />

    近くにはコンクリートの塀のようなものも残っていました。
    グーグルマップだと「防音壁」と出てきます。
    調べてみると 坑内に空気を送るコンプレッサー室の防音壁だったもののよう。
    送られる空気は削岩機用の圧縮空気だったそうです。

  • もう少し進むと道路の左右が開けてきました。<br />山側には石垣が続き 川の方は公園にように平らな草地が続いています。<br />「小滝」の中心地あたりです。<br /><br />「小滝製錬所・選鉱所跡」<br />製錬所は明治30年(1897)廃止 選鉱所は大正9年(1920)廃止 と看板がありました。<br />建物は全て撤去され、今は 石垣の擁壁がずっと続いているだけ。<br />

    もう少し進むと道路の左右が開けてきました。
    山側には石垣が続き 川の方は公園にように平らな草地が続いています。
    「小滝」の中心地あたりです。

    「小滝製錬所・選鉱所跡」
    製錬所は明治30年(1897)廃止 選鉱所は大正9年(1920)廃止 と看板がありました。
    建物は全て撤去され、今は 石垣の擁壁がずっと続いているだけ。

  • 製錬所や選鉱所の建物の一部だったものだろうと思います。<br />煉瓦積みが残っている場所も。<br />足尾銅山関連の煉瓦建物は 以前見学した 下野煉化製造(野木煉瓦窯)で焼かれた煉瓦が使われているそうです。<br />

    製錬所や選鉱所の建物の一部だったものだろうと思います。
    煉瓦積みが残っている場所も。
    足尾銅山関連の煉瓦建物は 以前見学した 下野煉化製造(野木煉瓦窯)で焼かれた煉瓦が使われているそうです。

  • たまにこうした昔の写真が「足尾まちなか写真館」として展示されています。<br />小滝選鉱所の在りし日の様子。<br />明治18年(1885)に旧坑跡の開発後 すぐに富鉱を発見した為 選鉱所と製錬所を設け一気に栄えた小滝中心部。<br />大正5年(1916)が最盛期で一万人の人口 数件の料理屋に芸妓屋まであったそうです。<br />

    たまにこうした昔の写真が「足尾まちなか写真館」として展示されています。
    小滝選鉱所の在りし日の様子。
    明治18年(1885)に旧坑跡の開発後 すぐに富鉱を発見した為 選鉱所と製錬所を設け一気に栄えた小滝中心部。
    大正5年(1916)が最盛期で一万人の人口 数件の料理屋に芸妓屋まであったそうです。

  • 川向うの斜面を見ると 木々の中 高い場所まで石垣が積まれているのが見えます。<br />段々になった斜面に沢山の建物があったのですね。<br />

    川向うの斜面を見ると 木々の中 高い場所まで石垣が積まれているのが見えます。
    段々になった斜面に沢山の建物があったのですね。

  • 古い写真だとこんな様子。<br />最盛期 大正初期の写真でしょうか?<br />

    古い写真だとこんな様子。
    最盛期 大正初期の写真でしょうか?

  • 近代化産業遺産マップなどの資料に掲載の無い遺構も多くあります。<br />導水管らしきものが残っています。<br /><br />また、マップで存在は知っていましたが、場所が判らずスルーしてしまった<br />「朝鮮人供養塔」もあったはずです。<br />昭和15年(1940)頃から朝鮮人や中国人の労働者が銅山の労働に従事したそう。<br />じっくり探せば まだまだ色々あるようでした。<br />

    近代化産業遺産マップなどの資料に掲載の無い遺構も多くあります。
    導水管らしきものが残っています。

    また、マップで存在は知っていましたが、場所が判らずスルーしてしまった
    「朝鮮人供養塔」もあったはずです。
    昭和15年(1940)頃から朝鮮人や中国人の労働者が銅山の労働に従事したそう。
    じっくり探せば まだまだ色々あるようでした。

  • 県道293号線 庚申山公園線は 銀山平までの道は 今はとても車で走りやすい道となっています。<br />新しい橋に架け替えられている所も。<br />そんな新しい橋の隣に古い橋が残っていました。<br />古足尾橋のあたり。<br />

    県道293号線 庚申山公園線は 銀山平までの道は 今はとても車で走りやすい道となっています。
    新しい橋に架け替えられている所も。
    そんな新しい橋の隣に古い橋が残っていました。
    古足尾橋のあたり。

  • コンクリート製の低めの欄干がある橋<br />大正から昭和初期製といった意匠に思われます。<br />徒歩なら渡る事ができました。<br />

    コンクリート製の低めの欄干がある橋
    大正から昭和初期製といった意匠に思われます。
    徒歩なら渡る事ができました。

  • 下を覗くと結構な谷になっていました。<br />長い梯子もあり、近くにある庚申ダム関係の施設でしょうか?<br />

    下を覗くと結構な谷になっていました。
    長い梯子もあり、近くにある庚申ダム関係の施設でしょうか?

  • レトロな意匠の橋から見える庚申山方面。<br />紅葉はピークの色づきです。<br />

    レトロな意匠の橋から見える庚申山方面。
    紅葉はピークの色づきです。

  • 古い橋の手前。昔のガードレールですね。<br />かつては道路端がここだったのでしょう。<br />この辺りにも畑尾という集落がありました。<br />

    古い橋の手前。昔のガードレールですね。
    かつては道路端がここだったのでしょう。
    この辺りにも畑尾という集落がありました。

  • 「庚申ダム 」このダムは発電用の昭和60年(1985)完成の新しいもので、銅山との関係はありません。<br />国道122号に戻り 通洞方面に進みます。<br />

    「庚申ダム 」このダムは発電用の昭和60年(1985)完成の新しいもので、銅山との関係はありません。
    国道122号に戻り 通洞方面に進みます。

  • 渡良瀬川にかかる橋からの眺めです。<br />橋の向こうに 銅山関連の色々な施設が見えます。<br />

    渡良瀬川にかかる橋からの眺めです。
    橋の向こうに 銅山関連の色々な施設が見えます。

  • 山の中腹に見える高いコンクリート製の塔状の建造物が見えました。<br />ダンナのカメラで撮ってもらいます。<br />これは<br />「有越鉄索道塔」<br />>索道(鉄索)は、物資や廃石 廃泥の運搬に用いられた輸送用のロープウェイです。<br />有越鉄索道は、通洞選鉱所から廃泥を堆積場に運搬するための索道支柱として<br />昭和14年(1939)に建てられました。<br />昭和35年(1960)トラック輸送に変わったことにより使命を終えました。<br />

    山の中腹に見える高いコンクリート製の塔状の建造物が見えました。
    ダンナのカメラで撮ってもらいます。
    これは
    「有越鉄索道塔」
    >索道(鉄索)は、物資や廃石 廃泥の運搬に用いられた輸送用のロープウェイです。
    有越鉄索道は、通洞選鉱所から廃泥を堆積場に運搬するための索道支柱として
    昭和14年(1939)に建てられました。
    昭和35年(1960)トラック輸送に変わったことにより使命を終えました。

  • 錆の目立つ大きな建物も見えます。<br />「通洞選鉱所」<br />>選鉱所は、坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていました。<br />本山、小滝、通洞の主要抗口にはそれぞれ選鉱所がありましたが、<br />大正10年(1921)までに通洞選鉱所に集約されました。<br />分離された精鉱は本山製錬所へ送られました。<br />

    錆の目立つ大きな建物も見えます。
    「通洞選鉱所」
    >選鉱所は、坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていました。
    本山、小滝、通洞の主要抗口にはそれぞれ選鉱所がありましたが、
    大正10年(1921)までに通洞選鉱所に集約されました。
    分離された精鉱は本山製錬所へ送られました。

  • 橋を渡る為に進むと見えてきたのは<br />「通洞変電所」<br />>明治末期以降 細尾発電所からの送電が主流になり、各地に変圧所や変電所が建設されました。<br />通洞変電所は大正中期以降、足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を果たしました。<br />現在も変電所として使用されています。<br />

    橋を渡る為に進むと見えてきたのは
    「通洞変電所」
    >明治末期以降 細尾発電所からの送電が主流になり、各地に変圧所や変電所が建設されました。
    通洞変電所は大正中期以降、足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を果たしました。
    現在も変電所として使用されています。

  • 橋を渡り 「銅街道」を東方面に進みます。<br />変電所の建物を先ほどの裏側から見ます。<br />コンクリートは汚れ 廃墟感いっぱいですが・・・これ、本当に稼働しているのでしょうか?<br />

    橋を渡り 「銅街道」を東方面に進みます。
    変電所の建物を先ほどの裏側から見ます。
    コンクリートは汚れ 廃墟感いっぱいですが・・・これ、本当に稼働しているのでしょうか?

  • 隣の低い方の建物です。<br />道路より一段下がった場所にあるので、窓ガラスからなんとなく中が見えます。<br />が、なにか機械らしきものがあるのが判る位で、良く見えませんでした。<br />まさか、現在も使用中だとは思わず、何かが動いているような気配は感じられませんでしたねぇ。<br />

    隣の低い方の建物です。
    道路より一段下がった場所にあるので、窓ガラスからなんとなく中が見えます。
    が、なにか機械らしきものがあるのが判る位で、良く見えませんでした。
    まさか、現在も使用中だとは思わず、何かが動いているような気配は感じられませんでしたねぇ。

  • 変電所の建物から振り返ると わたらせ渓谷鉄道の線路下をくぐった向こうに<br />「通洞選鉱所」の門が見えます。<br />閉ざされた門の所まで行って 中を覗きます。<br />大きな円筒形のコンクリートの施設が目の前に。<br />

    変電所の建物から振り返ると わたらせ渓谷鉄道の線路下をくぐった向こうに
    「通洞選鉱所」の門が見えます。
    閉ざされた門の所まで行って 中を覗きます。
    大きな円筒形のコンクリートの施設が目の前に。

  • 選鉱の過程と廃石や廃泥がどのように運ばれていったのかは<br />素人にはさっぱり判りませんが、<br />>最新鋭の設備が配備され国内外でも高く評価された<br />という設備の数々は、そのまま残されているようです。<br />

    選鉱の過程と廃石や廃泥がどのように運ばれていったのかは
    素人にはさっぱり判りませんが、
    >最新鋭の設備が配備され国内外でも高く評価された
    という設備の数々は、そのまま残されているようです。

  • 「銅街道」に戻り 変電所の建物の先へ進みます。<br />並びにあったのは<br />「通洞動力所」<br />動力所は削岩機の動力源となる圧縮空気を作っていました。<br />中にはコンプレッサーが置かれていたはずです。<br />しかし 建物は既に崩壊寸前。<br />煉瓦積みのかつては美しい建物であったであろうその姿は<br />日々朽ちていくだけとなっていました。<br />

    「銅街道」に戻り 変電所の建物の先へ進みます。
    並びにあったのは
    「通洞動力所」
    動力所は削岩機の動力源となる圧縮空気を作っていました。
    中にはコンプレッサーが置かれていたはずです。
    しかし 建物は既に崩壊寸前。
    煉瓦積みのかつては美しい建物であったであろうその姿は
    日々朽ちていくだけとなっていました。

  • アーチ型の多分 窓の上部には 白いキーストーン風の飾りがあり、角にも白い石が。<br />午前中に見た 古河掛水倶楽部敷地内 掛水煉瓦倉庫とよく似た 煉瓦建造物です。<br />かつては美しい建物だった事でしょう。

    アーチ型の多分 窓の上部には 白いキーストーン風の飾りがあり、角にも白い石が。
    午前中に見た 古河掛水倶楽部敷地内 掛水煉瓦倉庫とよく似た 煉瓦建造物です。
    かつては美しい建物だった事でしょう。

  • 強固な煉瓦積み部分は残っているものの<br />木造部分は崩れ落ち 金属製の赤い屋根もはがれ 壊れる寸前です。<br />

    強固な煉瓦積み部分は残っているものの
    木造部分は崩れ落ち 金属製の赤い屋根もはがれ 壊れる寸前です。

  • 並びにいくつかある建物のうち 木造のものは既に崩壊してしまって、元の形も判らない程。<br />後は、朽ちていくだけの状態です。<br />

    並びにいくつかある建物のうち 木造のものは既に崩壊してしまって、元の形も判らない程。
    後は、朽ちていくだけの状態です。

  • 左に見えるコンクリートの建物は<br />前回 2月に銅山観光の施設内から眺めた<br />「新梨子油力発電所」の建物。<br />コンクリートの建物は形こそ残っていますが、木造のものは無残な状態です。<br />

    左に見えるコンクリートの建物は
    前回 2月に銅山観光の施設内から眺めた
    「新梨子油力発電所」の建物。
    コンクリートの建物は形こそ残っていますが、木造のものは無残な状態です。

  • 「新梨子油力発電所」<br />大正5年(1916) 完成 昭和29年(1954)廃止<br />冬場の水枯れ時等の非常用電力供給施設としての重油燃料の発電所<br /><br />壁面には「保安」の文字が。<br />大正元年に 日本初の産業安全運動として「安全専一」が導入されています。<br />工事現場や工場で見かける「安全第一」 セーフティーファーストの考えは<br />足尾の「安全専一」が前身であり、日本最初であったのです。<br />

    「新梨子油力発電所」
    大正5年(1916) 完成 昭和29年(1954)廃止
    冬場の水枯れ時等の非常用電力供給施設としての重油燃料の発電所

    壁面には「保安」の文字が。
    大正元年に 日本初の産業安全運動として「安全専一」が導入されています。
    工事現場や工場で見かける「安全第一」 セーフティーファーストの考えは
    足尾の「安全専一」が前身であり、日本最初であったのです。

  • コンクリート製の建物は 形は残っているものの<br />細部を良く見ればコンクリートが崩れ、中の鉄筋が露出している所も。<br /><br />実は 足尾銅山は「日本の近代化・産業化と公害対策の起点」として<br />世界遺産登録を目指しているのです。<br />確かに 最新の技術で 東洋一の生産量まで成長した一方 発生させた大規模な公害とその対策は<br />20世紀の光と影の縮図とも言えます。<br />忘れてはいけない歴史とその遺産が数多く残る貴重な場所でもあるのに<br />ここまで荒れている現状・・・。<br />こんなんで良いのでしょうか??いや、良い訳無いとは思うのですけどね・・・。<br />保存はかなり難しいのだろうと言うのも判りますが・・・。<br />

    コンクリート製の建物は 形は残っているものの
    細部を良く見ればコンクリートが崩れ、中の鉄筋が露出している所も。

    実は 足尾銅山は「日本の近代化・産業化と公害対策の起点」として
    世界遺産登録を目指しているのです。
    確かに 最新の技術で 東洋一の生産量まで成長した一方 発生させた大規模な公害とその対策は
    20世紀の光と影の縮図とも言えます。
    忘れてはいけない歴史とその遺産が数多く残る貴重な場所でもあるのに
    ここまで荒れている現状・・・。
    こんなんで良いのでしょうか??いや、良い訳無いとは思うのですけどね・・・。
    保存はかなり難しいのだろうと言うのも判りますが・・・。

  • 発電所の建物を東側から。<br />建物の壁に黒い部分があります。<br />これは、戦時中 空襲を避けるためにコールタールで迷彩柄が施された 名残りなのだそう。<br />それも時間経過と共に薄れつつあります。<br /><br />2月に続いて2度目の足尾銅山関連の近代化産業遺産めぐり<br />庚申山麓をぐるっと廻ってみて 数多くの遺構・遺産があることが判りました。<br />今日見逃した 本山抗口、浄水場等もありますし<br />歴史を考えれば 足尾鉱毒事件関連の施設も見ておいた方が良いのかもと思いました。<br />(渡良瀬遊水地内の旧谷中村跡は何度か行っております)<br /><br />紅葉真っ盛りの足尾 美しい紅葉景色は自然環境が再生されてきたからこその景色。<br />その場所に 朽ちていく産業遺産 かつての栄華を感じる掛水倶楽部 <br />色々考えさせられる景色がある 静かな足尾の街でした。<br />

    発電所の建物を東側から。
    建物の壁に黒い部分があります。
    これは、戦時中 空襲を避けるためにコールタールで迷彩柄が施された 名残りなのだそう。
    それも時間経過と共に薄れつつあります。

    2月に続いて2度目の足尾銅山関連の近代化産業遺産めぐり
    庚申山麓をぐるっと廻ってみて 数多くの遺構・遺産があることが判りました。
    今日見逃した 本山抗口、浄水場等もありますし
    歴史を考えれば 足尾鉱毒事件関連の施設も見ておいた方が良いのかもと思いました。
    (渡良瀬遊水地内の旧谷中村跡は何度か行っております)

    紅葉真っ盛りの足尾 美しい紅葉景色は自然環境が再生されてきたからこその景色。
    その場所に 朽ちていく産業遺産 かつての栄華を感じる掛水倶楽部
    色々考えさせられる景色がある 静かな足尾の街でした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 墨水さん 2021/06/21 22:51:29
    権利。
    まりも母さん、今晩は。
    保存のために存在してるのでは無く、権利の為に存在してます。
    足尾銅山は、操業を終了したのでは無く、停止中です。(笑)
    操業を終了した場合は、施設を撤去する必要が有ります。
    固定資産税が発生する為。
    停止中は、何時でも再開できる態勢・・・・・・。
    (現実には、朽ち果ててますが。笑)
    一度、操業を終了し、権利放棄してしまうと、再度鉱山採掘免許を修得するには、条件が厳しくなります。
    現実問題として、再開する場合は、公害が出ないような設備を導入する必要が有ります。(当然)
    之れをゼロから再開させるには、相当の労力が必要となります。
    (要は、手続きが面倒くさいと言うわけです。)
    もちろん、現状の施設群は活用することは出来ませんので、再開の時は、すべて造りなおします。
    権利が有ると無いとでは、天と地違うと言うことです。
    現状会社は操業していないので、収益を上げていない。
    従って、固定資産税は減免処置が執られてます。
    どうして、こう成ったかと言うと、国の方針だからです。
    墨水。

    まりも母

    まりも母さん からの返信 2021/06/22 09:36:05
    Re: 権利。
    墨水さん こんにちわ。

    なるほど、どう見ても「保存」とは思えない現状ですが
    権利の為の キープと言うか放置と言うか そういう状態と言う事なのですね。

    世界遺産登録を目指す、と言うのもやたらに多くて、
    目的は何とか観光に繋げたいのかな?と言う 側面の方を強く感じる事も多かったりしますが
    まぁ色々な利権も関わり 複雑ですね。

    益々 考えさせられる景色、と言えそうです。

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