2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
写真はOsnabrueckオスナブリュック:SA-オスナブリュック城・ゲシュタポケラー
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
<Osnabrueckオスナブリュック>
12:00~16:30
人口16万人(内25千人が学生)を超えるオスナブリュックはハノーファー、ブラウンシュヴァイク、同規模のオルデンブルクに次ぐニーダーザクセン州第4の都市である。また、オスナブリュック地方の中心である。
歴史に富んだ都市の創設には古い交易路が交わる地点に面していたことが寄与し、780年にはカール大帝によって創設されたオスナブリュック司教区の司教座都市でもある。
中世にはオスナブリュックは1412年から1669年まで、ハンザ同盟のヴェストファーレン地域の中心都市であった。
写真はニーダーザクセン州の地図 -
⑤Schlossオスナブリュック城(旧大司教城館)とゲシュタポ
14:35~15:05
バロック様式のオスナブリュック城はErnst August・Kurfuerst von Hannoverハノーファー選帝侯兼オスナブリュック司教のエルンスト・アウグス(1629~1698年)の居城として17世紀後半に築城された。
この城館は第二次世界大戦で外壁に至るまで破壊され、戦後に再建された。現在はオスナブリュック総合大学の本部として利用されている。
写真はオスナブリュック城(旧大司教城館) -
「Welche Rolle spielte Osnabruecker Polizei im NS-Staat.
オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?」
オスナブリュック城にはゲシュタポの活動拠点があり、そこには地下牢があり、かつての活動などの展示があった。
<Gestapokellerゲシュタポケラー(Gestapoゲシュタポは通称である)とは?>
1933年にナチス党が政権を取ると、警察組織の強化と秘密警察部門の拡大化が行われた。第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領したヨーロッパの広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。映画やテレビでその恐ろしい場面を見ているから、組織の何たるかは漠然と知っている。
ゲシュタポの任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における反ナチ派やレジスタンス活動、スパイなどの摘発、ユダヤ人狩りおよび収容所への移送などであった。
1939年10月頃にはゲシュタポ全体の人員は2万名を数えた。
写真はオスナブリュック城・ゲシュタポケラー記念館入口 -
オスナブリュック城に入ると、右手の建物(城の西の翼)の地下にNazisナチスの「Geheime Staatspolizeiゲハイメ・シュターツポリツァイ秘密国家警察(通称Gestapoゲシュタポ)」のオスナブリュックにおける歴史とその活動の展示室が設けられていました。
1995年以来、当地におけるGestapo-Opferゲシュタポの犠牲者を悼む記念碑が建てられ、その後、オスナブリュック大学の支援を受け、秘密警察の活動拠点であり、地下囚人房と拷問部屋の跡を利用し、2001年、「Gedenkstaette Gestapokeller im Osnabruecker Schloss」「オスナブリュック城・ゲシュタポケラー記念館」を開館したものである。
記念館では日曜日のみのオープンで14~17時に常設・特別展示の活動をしている。
写真はオスナブリュック:Gedenkstaette Gestapokeller im Osnabruecker Schloss歴史記念館となっているオスナブリュック城のゲシュタポケラー(左)、近郊のGedenkstaette Augustaschacht Ohrbeck歴史記念館アウグスタシャハト・オーベックに外国人Zwangsarbeiter強制労働者(鉄工場や市内での労働に従事した)用の収容所(右) -
写真はオスナブリュック:近郊のGedenkstaette Augustaschacht Ohrbeck歴史記念館アウグスタシャハト・オーベック・・・外国人Zwangsarbeiter強制労働者(鉄工場や市内での労働に従事した)用の収容所
-
何やら、ドイツ人たちが戦時中の免罪符を得るように、第二次大戦後のドイツはベルリン・ドイツ抵抗運動記念館、Dachauダッハウ強制収容所跡を筆頭に、こうした反ヒトラー活動やナチス犯罪(特にユダヤ人に対する)に関する施設が各地にあります。
写真はオスナブリュック城・ゲシュタポケラー記念館の展示 -
薄暗い部屋に管理者であろう老人が一人座り、幾つかの部屋に様々な資料と写真が展示されたものでした。見学は楽しくないが、日曜日の今日でなければ、見られなかった。
写真はオスナブリュック・ゲシュタポケラー記念館の展示・・・ここにこんな事が書かれていたが。
「Was und Wer war Die Geheime Staatspolizei.」
Nazisナチスの「Geheime Staatspolizeiゲハイメ・シュターツポリツァイ秘密国家警察(通称Gestapoゲシュタポ)」とは何?そして誰だったのか。 -
当時、オスナブリュックのゲシュタポ活動の対象者もしくは犠牲者になった者の総計は凡そ35千人と云われている。
1944年から45年の4月までに無実で地下囚人房に投獄された青年・成人の数は2,000人を超えた。
写真はオスナブリュック・ゲシュタポケラー記念館の展示:
オスナブリュック警察はZwangsarbeiter強制労働者(鉄工場や市内での労働に従事した)用の収容所も建設している。 -
ゲシュタポケラーには地下囚人房と拷問部屋をつくり、ユダヤ人のオスナブリュック市民をBuchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所(テューリンゲン州Ettersbergエッテルスベルク)に送るまでの間、拘留していたそうだ。
輸送は20人から30人毎に二、三度実施されたが、最初の輸送は1938年11月11日で31人のユダヤ人が送られた。
その後、1944年の初めにオスナブリュックのゲシュタポは近郊のAugustaschacht Ohrbeckアウグスタシャハト・オーベックに外国人Zwangsarbeiter強制労働者(鉄工場や市内での労働に従事した)用の収容所を建設し、外国人強制労働者と政治犯だけでなく、迫害が続いていたユダヤ人も収容された。
彼ら外国人強制労働者と政治犯は17ヶ国の出身で、多かったのはオランダ人、その他はソ連、イタリア、ポーランド人であった。
写真はオスナブリュック城・Gedenkstaette-Gestapokeller__Haftzelleゲシュタポケラー記念館の地下囚人房(牢獄) -
オスナブリュックのユダヤ人の数は急速に増加したので、1880年にユダヤ教の会堂に集う会衆は約400人のメンバーで構成され、これはオスナブリュック市人口全体の約1.2%に相当しました。
ユダヤ人の進出が急なことや、その経済力に対するドイツ人たちの違和感も上がりつつあった。
ユダヤ人の教区民の絶対数は1905年に約500人に上った。
この為、新しいシナゴーグ(ユダヤ教の会堂、キリスト教徒の教会と同意味)が1906年9月13日にローランド通り3番地に完工し、400以上の座席を持ち、大きな緑色のガラスドームに加えてオルガンも備えられたものだった。
これはたいへん目立つものだったろうと思われる。
写真はオスナブリュック城・ゲシュタポケラー記念館:囚人たちが使用した靴 -
Sturmabteilungシュトルムアプタイルング突撃隊(とつげきたい)は略号でSAと呼ばれた。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の準軍事組織(1921年創立~1945年廃止、総人員450万人)で、制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemdenブラウンへムデン)」とも呼ばれた。
写真はオスナブリュック:Berliner SA-Maenner beim Anbringen von Plakaten, die zum Boykott juedischer Geschaefte aufrufen, am 1. April 1933.
1933年4月1日、ユダヤ人店舗のボイコットを呼びかけるポスターを掲示するベルリンナチス・SA突撃隊の男性隊員。 -
オスナブリュック出身でユダヤ人迫害で知られたのはエルヴィン・コルクマイヤーで、1938年11月10日の夜、反ユダヤ主義暴動を扇動・指揮したとされている。
エルヴィン・コルクマイヤーは1899年に生まれ、ゲオルク通り時計店を経営していました。彼は1929年にNSDAP国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)に入党し、1931年までSA突撃隊のメンバーであり、SS(親衛隊:1921年 ヒトラーの身辺警護のため結成された)で短期間働いていた。
1934年から1945年の間、コルクマイヤーは旧市街のNSDAPローカルグループリーダーであり、1937年からオスナブリュック市の評議会のメンバーでした。
これらの活動に加えて、コルクマイヤーは他の党当局者や都市の住民と比較してユダヤ人に対してより積極的な迫害で悪名高かった。
ボイコットの呼びかけにもかかわらず、ユダヤ人の店で買物した人々の写真を撮り、店の窓に掲示したと云う。
1935年に移住したユダヤ人は「コルクマイヤーはオスナブリュックで最もナチスらしい人間だった」と後に語ったと云う。
コルクマイヤーは1938年11月10日の夜(反ユダヤ主義暴動)、マルクト広場と後の暴動の両方で民間の服を着て参加していたのを目撃されていた。
第二次大戦末期、進軍したイギリス軍がオスナブリュックに到着する前に、コルクマイヤーは街を離れ、隠れ家に隠れていたと云う。彼がハイルブロンで逮捕されたのは1947年になってからだった。
コルクマイヤーは公判前の拘禁中に自殺を試みたが、これには失敗した。
NSDAP(通称ナチス)の地元グループリーダーとしての裁判で、彼は1948年5月にレックリングハウゼン地方裁判所で懲役2年の判決を受けた。
写真はオスナブリュック・ゲシュタポケラー記念館:Erwin Kolkmeyer (schwarze Uniform) bei einer Parade der SA, Datum unbekannt.
SA突撃隊のパレードでエルヴィン・コルクマイヤー(黒い制服の男)、日付不明。 -
1938年の11月のPogromポグロムの間(Pogromポグロムとはユダヤ人迫害の意味で、こういう言い方は初めて知ったのだが)、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害に呼応するようにオスナブリュックでもマルクト広場に集合した200~300名の突撃隊(SA)のメンバーたちが行動を開始した。
写真はオスナブリュック:SA-Pluenderung-der-Tuchhandlung-Flatauer ,am 10. November 1938.
1938年11月10日、SA突撃隊はオスナブリュックの繊維店「Flatauerフラタウアー」で略奪を行った。 -
写真はオスナブリュック:テキスタイルショップ「サムソン・デイヴィッド」1938年11月10日の様子。
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この時、*HJの少年と*BDMの女の子はまた、夜間の攻撃に参加するように命じられたと云う。
*Hitlerjugendヒトラーユーゲントは
1926年に設けられたドイツのナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。略号はHJ。
1939年には、800万人を擁する集団へと成長した。
ヒトラーユーゲントは戦争の激化で枯渇していた人的資源の代替として利用され、消防・郵便・ラジオなどの分野にユーゲントの隊員が投入された。
1943年以降、戦局が悪化するとユーゲント隊員は兵として動員されたが、十分な装備や訓練を受けない彼らは多くの死傷者を出した。
ヒトラーユーゲントはベルリンの戦いにおいても戦闘に参加し、多くの戦死者を出した。その後、ドイツの降伏により解体消滅した。
*Bund Deutscher Maedelドイツ女子同盟は
1930年から1945年まで存在した、ナチス・ドイツがドイツに住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。略称はBDM。
ドイツの将来を担う良妻賢母の育成である。
ヒトラーユーゲントとは異なり、団員に軍人としての教育は施さなかった。
少年によって構成されたヒトラーユーゲントと対を成す。 -
午前1時、突撃隊は幾つかのグループに分かれ、集団の一派はシナゴーグ(ユダヤ教会)、3~10人の小人数のグループたちはユダヤ人の居住する住宅地域などを次々と襲撃した。
写真はオスナブリュック:SA-zerstoerte-Synagoge. Die ausgebrannte Synagoge in der Osnabruecker Rolandstrasse am 10. November 1938.
SA突撃隊はシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を襲撃し放火した。
1938年11月10日、オスナブリュック市のローランド通りのシナゴーグは焼け落ちてしまった。
<Novemberpogrome 1938ノベンバーポグロム1938年:ユダヤ人迫害>
=「Reichskristallnachtライヒス・クリスタルナハト帝国水晶の夜」
Pogromポグロムとはユダヤ人迫害の意味で、こういう言い方は初めて知ったのだが。
水晶の夜とは1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地(勿論オスナブリュックでも)で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。
ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグ(ユダヤ教会)などが次々と襲撃、放火された。
この暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊(SS)は傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。「水晶の夜」という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたからだという。
事件当時は暴動・迫害の夜を「帝国水晶の夜」と、意味不明の言葉で呼んでいるが、この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるHolocaustホロコースト(大量虐殺)への転換点の一つとなった。この暴動で少なくとも96人のユダヤ人が殺害されている。
しかし、ドイツ警察に逮捕されたのは被害者であるはずの3万人ものユダヤ人で、彼らを収容する為にDachauダッハウ強制収容所(ミュンヘンの北西15km)、Buchenwaldブーヘンヴァルト強制収容所、Sachsenhausenザクセンハウゼン強制収容所(ブランデンブルク州Oranienburgオラニエンブルク)が拡張されることとなった。
ブーヘンヴァルトに1万人、ダッハウに1万1000人、ザクセンハウゼンに5,000人から1万人が送られた。ただこの時に逮捕されたユダヤ人は数週間で釈放された者が多い。 -
<Nacht und Nebel, NN夜と霧とは?>
Hinzertヒンツァート強制収容所跡(ドイツ・フンスリュック山脈のHochwaldホッホバルト)に掲げられたフランスの「夜と霧」の犠牲者を悼む銘版にこの言葉がある。
「夜と霧」は1941年12月7日、アドルフ・ヒトラーにより発せられたErlass命令である。
「夜と霧」というフレーズは、ヒトラーが愛聴にしていたリヒャルト・ワーグナーの作品『Das Rheingoldラインの黄金』の第3場「ニーベルハイム」から直接引用したものである。
ここでは隠れ蓑(頭巾)を被った登場人物のアルベリヒが、?Nacht und Nebel, niemand gleich!“(夜と霧になれ、誰の目にも映らないように!)という呪文を呟く。
「夜と霧」により収監された者はおおむねフランス、ベルギー、オランダ、ノルウェー出身の人物だった。彼らは大抵夜中に捕縛され、尋問のために数百マイル離れた監獄に速やかに連れて行かれ、仮に彼らが生存していた場合は、最終的にはNatzweilerナッツヴァイラー(現仏・アルザス地方)か、Gross-Rosenグロース・ローゼン(現ポーランド・シュレジェン地方)のような強制収容所に連行された。
1944年4月30日までに少なくとも6,639名が「夜と霧」の命令により拘束され、そのうち340名は処刑された。1955年の映画「夜と霧」は強制収容所が強制労働と死の収容所のシステムに変化しつつあった時期という面を例示する為に、この名前が用いられている。
写真はオスナブリュック:KZ-Hinzert-Plakette-Nacht-und-NebelHinzertヒンツァート強制収容所跡の記念碑 -
<躓きの石>
2006年12月にオスナブリュック市議会は、ケルンの芸術家グンター・デムニヒのアイデアである「躓きの石」を設けることを決定した。
これはナチス国家社会主義独裁制の犠牲者をしのび、その当時の住居や職場に名前を刻んだ小さなプレートを埋め込むものである。
このプロジェクトは2007年11月から2013年3月まで行われ、192基の躓きの石が設けられた
写真はオスナブリュック:躓きの石 -
写真はオスナブリュック:ヒトラーの風刺画<Kriegsgefangene戦時捕虜>
「ニュルンベルクはヒトラーのイデオロギーの首都」と左上に。
・・・・・ -
オスナブリュック城から、道路の向かい側に渡り、レーデンホーフ(かつての貨幣鋳造所、現在残っているのは左に石造建築の建物、真ん中にパレス、右に階段塔がある)を外観だけ見て、ヘーガー門Wallヴァル(かつての土塁)の名の道路に沿って歩く。
Heger Torヘーガー門(かつての要塞都市の防衛施設)をくぐって旧市街に入る。
写真はオスナブリュック:Heger Torヘーガー門(かつての要塞都市の防衛施設) -
この辺りから木組みの家並みが見られる。
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区の建物から下を眺める人もいる。
ドイツ人は日長、漫然と見ている事が好きだ。 -
特にFachwerk im Heger-Tor-Viertelヘーガー門地区の経済的に恵まれている様子が見える洒落た木組み建築が多い。
こちらはワイン酒場のWeinkruegeヴァインクリューゲ(ワインの酒壺の意味)は1767年に建てられたものだがきれいに改装されている。
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区のワイン酒場のヴァインクリューゲ、 Marienstrasse、 -
イチオシ
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある代表的な木組みの家、ワイン酒場のWeinkruegeヴァインクリューゲ(ワインの酒壺の意味)の正面
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写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区の木組みの家
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イチオシ
ワイン屋のFachwerk_Haus Willmannハウス・ヴィルマンは1586年に建てられたもので、見事なものだ。
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Willmannヴィルマン、 Krahnstrasse 7、 -
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Willmannヴィルマンの上部
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写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Willmannヴィルマンの中ほど部分
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写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Willmannヴィルマン
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イチオシ
またStudio52というモダンな洋服屋さんも木組み建築の家で、1856年築、 Krahnstrasse 5にある
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Studio52というモダンな洋服屋さんの全体 -
写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家Studio52というモダンな洋服屋さんの上部、描かれた絵がなかなか!
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写真はオスナブリュック:ヘーガー門地区にある木組み建築の家・・・こちらの一階はバーのような感じだが。
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勿論、木組みの家では創業325年を迎えた古い木組み建築のホテル ヴァルハラ(16:30に戻った)が一番目立つ。
夕食は19時に予約済みで、よく歩いた半日、さすがに疲れて18時まで休憩にした。
写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ・部屋は正面2階の右端ロマンティック ホテル ヴァルハラ ホテル
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*9月22日(日)~9月23日(月)Osnabrueckオスナブリュック(1泊2日)
<Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ>
D-49074 Osnabrueck 、Bierstrasse 24
Tel:+49(0)541 3491-0 、Fax:- 144
https://www.hotel-walhalla.de/
4星・全69室、2階のNo.111号室は通りに面した角部屋で窓からのぞくと、一方はホテル正面のレストラン入口を見下し、もう一方の窓からは隣の市庁舎の壁が見えた。
料金はEuro114+駐車料14=128(朝食込み:15,534円)ですが、町一番の美しい木組みの建物で、モダンな浴室、上質な家具備品、ミニバーが備わる機能的な施設、マルクト広場に近接する所にある事からも、室料金は値段的にたいへん安いと思う。
写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ・Portal玄関の装飾 -
写真はオスナブリュック:Romantik_Hotel_Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラの外看板
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写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラの「Der Teufel auf heissen Kohlen熱した石炭上の悪魔」
面白い、奇妙な壁画はGrossmutter祖母と一緒に熱した石炭上にある料理用のなべ(やかん)の上に座っているのはTeufel悪魔です。
何やら伝説でもあるのかと調べてみたが、皆目わからず。
おそらく1530年に建てられた前の建物は1613年の火災で焼失されたか、若しくは建設業者によって取り壊されたとの文章があり、推測ながら防火の戒めを表現したもの、あるいは不幸・悪魔の到来阻止といった意味でもあるのだろう。 -
写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラのレストラン
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写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラの中庭
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写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラの横丁・・・この先にホテルの入口と屋内駐車場がある。この道は一方通行で、駐車場から出るとそのままこの道を通り、右折し、街に入る。
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写真はオスナブリュック:Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ古い絵葉書
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<(夕食):レストランWalhallaヴァルハラ>
18:00~19:30
ドイツの郷土料理をメインするレストラン(一部にフレンチ料理も)で中々雰囲気の良いレストランである。
Restaurant-ranglistenレストラン・ランクリステンの評価全独1356位、ミシュランBib・13点、Schlemmer Atlasシュレマー・アトラス2スプーン・13点だが、それ以上に美味しいと思った。ワインなど100種以上の常備だと云う。
また笑顔のスタッフが気の利く方で、家内から「もう多くを食べられない」という申し出にたいへん好ましい対応をしてくれた。この事はたいへん嬉しく満足した。
写真はオスナブリュック:創業325年を迎えた古い木組み建築のRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラのホテル入口 -
さて、注文ですが、
飲み物は赤い星の紋章で知られるGerolsteinerゲロルシュタイナーのガス無し0.75L・Euro6.5、食前酒はいつものシェリー酒(辛口)5clX2@Euro4.5=9、ワインは1本を飲むのは無理と思い、グラスワインにした。
メニューにあったラインガウの*Danielダニエルの白を選んだ。飲んだダニエルの白は0.2lX2@7.5=15はそこそこの値だが、それなりにすっきりと美味しい。 飲み代の合計Euro30.5。
*銘醸地ラインガウの中心にあり、代々受け継いできたWeingut D A N I E Lダニエル醸造所は葡萄畑13 ha、その 60 % がWeisswein 白ワイン、40 % Rotwein赤ワインと云う。
写真はオスナブリュック:ロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン -
料理は4品だが、①②を二人で分けて、③④は二人とも一品を食べた。
実はこのクラスのレストランでそうした事はやったことが無く、初めてだった。とにかく私共もかつての食欲は無く、歳をとったのだ。
①前菜にはLachsforelleニジマスの切り身にワサビ、赤ビーツ、ヨーグルト、コリアンダー添え、Euro12.5、
②スープはこの時期の旬、カボチャのスープです。ココナッツミルク、小エビのフライ入りで、手間がかかっている様子です。Euro8.5、
③メインは牛のフィレ肉にパースニップ(別名シロニンジン)、ブロッコリー添え、トリュフソースかけ。Euro27.5X2=55、
④デザートはカラメル・アナナス(パイナップル)を中心に、ベークドチョコレート、ココナッツアイス、ラズベリー添えでした。Euro11.5X2=23、 料理の合計はEuro99。
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:赤い星の紋章で知られる水Gerolsteinerゲロルシュタイナーガス無し0.75Lを注文 -
レストランは日曜日とあって、泊り客も外からの家族のお客さんも多く、盛況でした。
その空気が影響したのか、私は暑くて背広を脱いでしまった。
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:シェリー酒(辛口)でスタート。 -
食事はパンとバターの登場でスタートです。
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:パンとバター -
イチオシ
①前菜にはLachsforelleニジマスの切り身にワサビ、赤ビーツ、ヨーグルト、コリアンダー添え、Euro12.5
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:前菜 -
②スープはこの時期の旬、カボチャのスープです。ココナッツミルク、小エビのフライ入りで、手間がかかっている様子です。Euro8.5
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:スープ -
イチオシ
③メインは牛のフィレ肉にパースニップ(別名シロニンジン)、ブロッコリー添え、トリュフソースかけ。Euro27.5X2=55
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:メイン -
全体に色使いも美しく、量もほど良く、美味しい夕食は良い気分で終了したのです。
Booking.Comへの評価に書いたようにレストランの料理も美味しく、雰囲気があり、且つスタッフが気の利く方で その対応に満足した。
この日の夕食代はEuro134.5=16.344円(チップEuro5を含む)となりました。
銘醸地ラインガウの白で乾杯!
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:ラインガウの*Danielダニエルの白 -
④デザートはカラメル・アナナス(パイナップル)を中心に、ベークドチョコレート、ココナッツアイス、ラズベリー添えでした。Euro11.5X2=23、
料理の合計はEuro99。
写真はロマンチック ホテル ヴァルハラのメインレストラン:デザート
・・・・・
本日は午後になると更に暑くなった。先日のTVの天気予報でも25、6℃に気温が上がると言っていたが、レンタカーの温度を見ていないから体感でそのくらいにいったと思う。
暑い日は更に疲れる。部屋に戻ってから家内は22時頃まで腰伸ばし運動をする。
明日は本格的な木組み建築のMindenミンデン、Rintelnリンテルン、Lemgoレムゴーと旧市街の街並みを幾つか見るので、これも楽しいが疲れる事だろう。
明日の準備をして、23時に就寝。 -
おまけ:
オスナブリュック名物の一つにSpringbroetchenシュプリングブレッチェンというものがある。
焼き菓子のひび割れた (aufspringen)表面からその名が付けられた。これはオスナブリュック地域特産の小さなパンで、この地域でのみ提供されている。
ひび割れた表面は、仕上げの生地に対する叩き方の違いによって生まれる。
写真はオスナブリュック名物:Springbroetchenシュプリングブレッチェン -
オスナブリュック名物の一つにGruenkohlグリュンコール(ケール)がある。
毎年11月から2月がオスナブリュックのグリュンコールの季節で伝統的な冬の食材である。かつては貧しい人々を支える料理であったが、現在では、特に肉の付け合わせとして美味な食材である。
コールには特別なスパイスが用いられ、人気のコールヴルストに添えられる。グリュンコールはオスナブリュック地域では通常、カッセラー、コールヴルスト、ピンケル、新鮮な太い焼きソーセージ、油で炒めたジャガイモとともに供される。
写真はオスナブリュック名物:Gruenkohlグリュンコール(ケール)
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2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道を行く。
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市...
2019/09/18~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
2019/09/18~
ブレーメン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光
2019/09/18~
ブレーマーハーフェン
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果た...
2019/09/18~
ニーダーザクセン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市...
2019/09/18~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城...
2019/09/18~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
2019/09/18~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシ...
2019/09/18~
ノルトライン・ヴェストファーレン州
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ
2019/09/18~
ハノーバー
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉...
2019/09/18~
ツェレ
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑱ツェレの旧市庁舎、市教会の侯爵家の霊廟、ボーマン博物館...
2019/09/18~
ツェレ
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑲ツェレの美しい木組み建築の家並みに満足満足!
2019/09/18~
ツェレ
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:⑳女流詩人ロスヴィータ のガンデルスハイム、美しい木組み...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:21ハン・ミュンデンは木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」に泊ま...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:22ハン・ミュンデンのお気に入りはヴェーザー記念碑
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:23メルヘン街道の代表はいばら姫とラプンツェル(髪長姫)...
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:24ヘッセン方伯妃エリザベートが余生を過ごしたささやかな...
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:25カッセルの壮大な「水の芸術」大噴水ショーを鑑賞してみ...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:26グリム童話の町、古城ホテルのあるシュパンゲンベルクを...
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:27最後の古城ホテル ゲーデルン城は町の経営、初めての宿...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:28ゲルンハウゼン・魔女の塔から醜い像があたりをにらんで...
2019/09/18~
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2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:29ドイツ最後の町はデュッセルドルフの隣町ラーティンゲン...
2019/09/18~
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ロマンティック ホテル ヴァルハラ
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