2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)?10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月3日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街
9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。
9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
9月24日(火)⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシュヴァーレンベルク城
9月24日(火)⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある。
9月25日(水)⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ
9月25日(水)⑰ツェレに英国王ジョージ1世の王妃ドロテアが32年間幽閉された話が残る。
9月26日(木)⑱ツェレの旧市庁舎、市教会の侯爵家の霊廟、ボーマン博物館を見る。
9月26日(木)⑲ツェレの美しい木組み建築の家並みに満足満足!
9月27日(金)⑳女流詩人ロスヴィータ のガンデルスハイム、美しい木組みの家並みのアインベック。
9月27日(金)21ハン・ミュンデンは木組みのホテル「鉄ヒゲ博士」に泊まる。
9月28日(土)22ハン・ミュンデンのお気に入りはヴェーザー記念碑
9月28日(土)23メルヘン街道の代表はいばら姫とラプンツェル(髪長姫)の古城でしょう。
9月29日(日)24ヘッセン方伯妃エリザベートが余生を過ごしたささやかな別荘は美しい宮殿に変っていた。
9月29日(日)25カッセルの壮大な「水の芸術」大噴水ショーを鑑賞してみませんか!
9月30日(月)26グリム童話の町、古城ホテルのあるシュパンゲンベルクを20年ぶりに再訪した。
9月30日(月)27最後の古城ホテル ゲーデルン城は町の経営、初めての宿泊である。
10月1日(火)28ゲルンハウゼン・魔女の塔から醜い像があたりをにらんでいる。
写真はゲルンハウゼン・魔女の塔(かつては醜い塔と呼ばれた)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
10月01日(火) 308km 、曇り時々強い雨、12℃~16℃
起床6:45、朝食9:00~9:30、Schloss Gedernゲーデルン城10:00出発 =>L3193・B276・A66・L3333 42 km Gelnhausenゲルンハウゼン11:10~13:20 =>L3202・A66・A45 143km Siegerland S/Aジーガーラントの休憩所 15:00~15:30 =>A45(Freudenbergフロイデンベルク)=>A45・A4・A3・A44・L239 123km Duesseldorfデュッセルドルフ・Ratingenラーティンゲン・Best Western Hotel Breitbachベスト ウエスタン ホテル ブライトバッハに17:20到着。
写真はゲーデルン城:朝食で利用したレストラン隣の部屋は円天井の間といった雰囲気です。 -
*起床は6:45、ホテルのレセプション傍に朝食のレストランがあった。
思った以上に数組の宿泊客がいた朝食も9:00~9:30といつも通りに食べ、Schloss Gedernゲーデルン城を10:00出発した。
写真はゲーデルン城の朝食 -
写真はゲーデルン城:結婚式用(届け所)、コンサートなど催し用会場
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写真はゲーデルン城:背の高い甲冑
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写真はゲーデルン城:寝室に至る階段
-
今日はGelnhausenゲルンハウゼンを初めて訪問する。
本日でこの旅の観光は終了という事になるが、走行距離は本日が最長の300km越えを予定している。
写真はゲルンハウゼンのMap -
写真はWappen_Gelnhausenゲルンハウゼンの紋章
判明している最も古いバージョンは 15世紀に遡る。それは現在の紋章を描いた盾であり、鷲は1248年頃に現れる。当時の紋章は、市門の中に帝国の鷲が描かれていた。門の上には皇帝とその妃が描かれていた。
16世紀に紋章内に小さな盾が加えられた。この内盾には15世紀のオリジナルの紋章が描かれていた。18世紀から19世紀には、この意匠は何度もヴァリエーションが加えられた。盾を持った鷲(単頭の場合も、双頭の場合もある)、盾を持たない鷲、あるいは盾だけのものといった具合である。
紋章の現在のバージョンは1964年に制作されたが、16世紀の紋章をベースにしている。 -
<Gelnhausenゲルンハウゼン>
11:10~13:20
ゲルンハウゼンはヘッセン州南東部のマイン・キンツィヒ郡の郡庁所在都市である。人口23千人の町はフランクフルト・アム・マインとフルダとのほぼ中間に位置している。
写真はゲルンハウゼン旧市街:観光図 -
イチオシ
初めて訪れるゲルンハウゼンは以前から知っていたが、いつも通過してしまう町だった。
この古い帝国都市は楕円形した、木組みの家並みも美しい旧市街を保ち、ウンターマルクトおよびObermarktオーバーマルクトに町の中心がある。
特に5つの現存する楼門(Inneres Holztorインネレス・ホルツ門1220年、Ziegeltorレンガ門、Schifftor船の門、Haintorハインの門、Haitzer Torハイツァー門)は古い城塞都市という中世の姿を留めている。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・オーバーマルクト広場のゲルンハウゼンの市庁舎・木組みの家並み -
町の歴史:
12世紀前半に、それ以前からこの地に定住していたReginbodonenレギンボードン家の分家がゲルンハウゼンの名を名乗るようになった。
ゲルンハウゼンの創設は1170年にKaiser Friedrich I. genannt Barbarossa皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ赤髭王の名で、ドイツ人に人気が高い王)によってなされた。
現在、「Barbarossastadtバルバロッサシュタット」(赤髭王・バルバロッサの町)という言い方をする。(尚、テューリンゲン州のAltenburgアルテンブルクも(バルバロッサの町)を名乗っているそうだ)
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト広場周辺・右手に巡礼教会聖ペーターと木組みの家並み -
この町の最盛期は短く、1349年に皇帝Karl IV.カール4世がこの町を借金の担保にした事と、新旧キリスト教徒の三十年戦争(1618年~48年)といったことが、周辺地域における、この町の重要性を喪失させてしまった。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト広場周辺・木組みの家並み -
旧市街はObermarktオーバーマルクトに市庁舎があるので、ここに駐車(一時間無料)して周辺を散策して見た。
木組みの家が周辺(Schmidtgasse鍛冶屋横丁、Am Rainライン横丁)に見られ、カトリックの巡礼教会St.Peter聖ペーター(13世紀)、プロテスタントのMarienkirche聖母マリア教会(12世紀)が尖塔を高々とのぞかせている。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト広場周辺・木組みの家並み -
写真はゲルンハウゼン旧市街:市庁舎前のガス燈に火入れする人の像と木組みの家並み
-
オーバーマルクトから右に行くと、Haitzer Torハイツァー門が東の境界に立っている。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・木組みの家の洒落た玄関扉 -
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・木組みの家並み
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写真はゲルンハウゼン旧市街:Haitzer Torハイツァー門が東の境界に立っている。
-
ハイツァー門まで行って戻って来ると、20数名の日本人女性たちが聖母マリア教会あたりから、ぞろぞろと出て来た。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・良い雰囲気の店がある。 -
こんな所と言っては妙だが、20数名の日本人女性たちに会うのは珍しい。
一緒にやって来たガイドさん(私共の友人に良く似ていた!)が目立つ。
彼女たちは聖母マリア教会を見物し、その後、教会前の通りでライプツィヒとフランクフルトを結ぶ荷馬車の交易路の説明を受けていた。
フランクフルトや近郊の駐在員の奥様方の歴史探訪の様子で、ガイドさんから私共に「これから巡礼教会聖ペーターに参りますが、宜しかったらご一緒に行きませんか?」と親切なお申し出を頂いた。
彼女は歴史に詳しそうだから、聞いてみたかったが、「残念ですが、これから魔女の塔に行くので・・・」と断ってしまった。後々、この塔の事で聞きたいことができたから、御一緒すればよかった。
多分、フランクフルト日本人会主催の歴史探訪なのでしょう。
かつてデュッセルドルフ日本人会も似たような事を催していたが、会主催の「キツネ狩り」(南ヴェストファーレン地方Sauerlandザウアーラントで催された)を見に参加したことが一度ある。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・友人に似たガイドさんがライプツィヒとフランクフルトを結ぶ荷馬車の交易路の説明。 -
イチオシ
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・ライプツィヒとフランクフルト(約300km)を結ぶ荷馬車の交易路図。
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写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・ライプツィヒとフランクフルトを結ぶ荷馬車図。
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写真はゲルンハウゼン旧市街:Schmidtgasseシュミードガッセ鍛冶屋横丁・木組みの家並み
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イチオシ
写真はゲルンハウゼン旧市街:Untermarktウンターマルクト・木組みの家並み
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写真はゲルンハウゼン旧市街:ウンターマルクト・木組みの家並み
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写真はゲルンハウゼン旧市街:Untermarktウンターマルクト・発明家*ヨハン・ライスの胸像
*Johann Philipp Reisヨハン・フィリップ・ライス(1834年 - 1874年):
電話の発明者。独学で科学者・発明家となったゲルンハウゼン生まれのドイツ人である。ゲルンハウゼンのウンターマルクト広場にフィリップ・ライス記念碑が立っている。
1861年、今日ではライスフォンと呼ばれる最初期の電話を作り上げた。この装置を最初にテレフォンと名付けた人物で、ローラースケートとインラインスケートも発明したが、既にそれらは発明されていた。 -
写真はゲルンハウゼン:1984年の ヨハン・ライス生誕150周年記念切手
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<Hexenturm魔女の塔と醜い人形像>
12:10~12:30
魔女の塔はAm Fratzensteinアム・フラッツェンシュタイン(醜い塔(岩))横丁のそばにある。
魔女の塔の名前は初め「Fratzensteinフラッツェンシュタイン(醜い塔)」と呼ばれていた。
この塔は15世紀中頃の要塞都市の原型のまま保存されている砲塔であった。
写真はゲルンハウゼン旧市街:現在閉鎖中の魔女の塔 -
この塔は*フス戦争時代の1447年から1478年の間に、フス派の中でも特に過激な集団タボル派の攻撃に備えて建設された。
当時としては塔の高さ 24 m、直径 9 m、壁の厚み2.8mと驚くべき頑丈さである。砲射撃用の通路付きの市城壁、塔上に尖塔があり、塔の回遊路にある階段で屋上屋根から塔内に入った。
その後、4mの高さに塔内の入口を作り、小さな木の階段で上り下りした。
砲塔の地下は火薬庫に使用されていたが、後に囚人用の牢になった。
*フス戦争は15世紀(1419年~1439年)に中央ヨーロッパで起こった宗教戦争の一つである。
ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)であったボヘミアとポーランドを中心とする信者と、それを異端としたカトリック・神聖ローマ帝国の間で戦われ、カトリックが最終的に勝利した。
写真はゲルンハウゼン旧市街:Hexenturm-ehem-Fratzenstein19世紀末頃の魔女の塔、かつて醜い塔と呼ばれた。 -
現在の魔女の塔の名は「魔女狩り」の際に魔女と見なされた者が、塔内の牢に収容されていたことに由来する。
ゲルンハウゼンでは1584年から1633年の間に少なくとも 54人(主に女性)が拷問にかけられ、魔女として断罪、処刑された歴史があると云う。
庭先にはEva Gesine Wegenerエヴァ・ゲジーヌ・ウェゲナーにより、魔女狩りの犠牲者の慰霊のため製作された(1986年)彫像「Die Rufende叫ぶ人」 がある。
写真はゲルンハウゼン旧市街:魔女の塔・彫像「Die Rufende叫ぶ人」 -
現在は塔の改装計画の為、塔内やそれを囲む庭に入ることができないが、塔内の上階にはかつての魔女狩りの歴史が展示されているそうだ。
尚、オーバーマルクトからSchmidtgasse鍛冶屋横丁を下った際に魔女の塔を行き過ぎた為、通行中のお爺さんに場所を聞いた。
足が不自由な方だったが、わざわざアム・フラッツェンシュタインまで御一緒してくれた。
嬉しいことにいろいろと塔に関する話をしてくれた。特に外壁の4分の3の高さにある小さな醜い人形像(次の写真)を指して、その伝承を教えてくれた。
その姿も見ながら聞いたお爺さんの話を完璧に理解したわけでもないから、帰国して町の資料を調べてみた。だが、これに言及するものは殆どなく、フォト検索しても魔女の塔だけで、人形像の拡大版は無かった。
偶々、町のHPにあった説明の中で見付けたのが以下のもの(意訳)だ。
【魔女の塔の外壁の4分の3の高さにある小さな、顔の造作も崩れてしまった、醜い人形像はしゃがむ、若しくは座っている姿と思われる。
この塔を撮影した*Ludwig Theodor Alexander Bickellルートヴィヒ・テオドール・アレクサンダー・ビッケルは「醜い人形像は塔の建設を巡り城主と争った事から、城主に向かい合うものとして、いわゆるNeidfratzeナイトフラッツェ(Neid=妬み・羨望、Fratze=醜い人・馬鹿の意味)を表した像だ」と言っている。
*ルートヴィヒ・テオドール・アレクサンダー・ビッケル(1838年~1901年)はドイツの弁護士、写真家、保存主義者でした。彼は19世紀の後半にヘッセン州の多数の建物や文化モニュメントを撮影し、民俗学の為に蒐集した人物。
しかし、ゲルンハウゼンの町の考えではこの解釈は真実ではないと言う。
そうであれば抗議の意味で、人形像は城に直接向かって取り付けられるはずだ。しかし、そうではなくて、人形像は西を見ている】
と説明にあったが、それ以上の言及はない。さてどんなものだろうか!
・・・
写真はゲルンハウゼン旧市街:魔女の塔(現在閉鎖中)、中央右上に小さな、醜い像が見える。 -
イチオシ
お爺さんから聞いた話は違っていて、
【プロテスタント派側のザクセン兵が、ゲルンハウゼンの町を攻めてきた時(30年戦争の頃と思われる)、この塔の醜い像は夜な夜な敵軍の陣中に飛び、陣中を混乱させ、悩ませた】と。
お爺さんの言葉がNachtkopfナハトコップ(夜の首)と聞こえたので、敵陣営に飛び行って首を取ったなどの活躍をしたのだと勝手に推測していたが、発音はいわゆるNeidfratzeナイトフラッツェ「醜い人」に似ている。
Nachtkopfナハトコップが、正しくはNeidfratzeナイトフラッツェだったのか?何やら理解違いをしたようだが、
≪伝承話≫としてはお爺さんの話が面白い。
写真はゲルンハウゼン旧市街:魔女の塔に見られる小さな、醜い像(拡大)・・・これは何なのだ!?
-
写真はフス戦争:Kaiser Sigismund皇帝ジギスムント (神聖ローマ皇帝・ハンガリー王)の戦い
<フス派に対する十字軍>
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度も「フス派に対する十字軍」を組織したが、ことごとく打ち破られた(1426年6月16日Schlacht bei Aussigアウシヒの戦い、1427年8月4日Schlacht bei Tachauタチョフの戦い)。
この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌いだすとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。
1427年のタチョフの戦いから後、4年間は十字軍が組織されなかった。
1431年に行われた対フス派十字軍ではSchlacht bei Tausタウスの戦いに、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。
1439年、フス派の略奪行為に手を焼いていたポーランド王国(新国王が十字軍派についた)はついに本格的な一斉取り締まりに乗り出し、1439年5月3日Schlacht bei Grotnikiグロトニキの戦いでポーランドにおけるフス派を壊滅させた。
これによってフス戦争はカトリックの勝利で、すべて終わった。 -
写真はゲルンハウゼン旧市街:木の階段で上り下りした魔女の塔・現在閉鎖中
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写真はゲルンハウゼン旧市街:聖母マリア教会の尖塔がバックに見えるウンターマルクト・木組みの家並みの様子
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ウンターマルクトからオーバーマルクトに帰ってくると、丁度ガイドが終了した奥様方の数人に再び出会った。
「駐在員生活を楽しんでください」と申上げておいた。
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクトで Dirndl ディルンドル(民族衣装)を見る。 -
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクトで Dirndl ディルンドル(民族衣装)を見る。
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写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクトで Dirndl ディルンドル(民族衣装)を見る。
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イチオシ
写真はゲルンハウゼン旧市街:オーバーマルクト・ワインの飲屋の看板も楽しい。
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12:50、車でオーバーマルクトから再びSchmidtgasse鍛冶屋横丁を下り、Ziegelturmレンガ門通りをぐるりと回り、Burgmuehle城の水車通りからKinzigキンツィヒ川を渡るとHaintorハインの門がある。
右にKaiserpfalzカイザープファルツ(皇帝の宮殿)、左に駐車場があった(30分の駐車料金Euro0.5)。
Kaiserpfalzカイザープファルツにかつての神聖ローマ皇帝の宮殿がある。
写真はReichstag_zu_Gelnhausenゲルンハウゼン帝国議会の800年記念切手(1180年~1980年) -
<Kaiserpfalzカイザープファルツ神聖ローマ皇帝の宮殿>
13:00~13:20
さて、丁度13時で数人の観光客が来たにも拘わらず一向に窓口が開かない。
その内に観光客の家族ずれのお父さんが扉をたたく。
中から年配の小母さんが出てきて曰く「同僚が昼食に出たまま帰ってこないので、それまで待ってください。私も交代で食事に行けずに困っている」との事。
あきれて帰ってきたが、観光客に入場券を買わせて中に入れても、この施設は建物があるだけで自由見学だから、監視はともかくも問題がないのではと思った。
休憩時間の案内もHPになかったから、ちょっと理解できない事だった。
因みに、3月~10月の時期は火~日の10時から17時、入場券はEuro3.5X2=7である。
写真はゲルンハウゼンのKaiserpfalzカイザープファルツ:チケット売り場傍にバルバロッサの銅版がある -
カイザープファルツ(神聖ローマ皇帝の宮殿=「バルバロッサの城」とも呼ばれる)は町の創設(1170年)直後に、ゲルンハウゼン南東のKinzigキンツィヒ川(全長82km、マイン川の支流)の中州に作られた。
ここはおそらく12世紀前半のレギンボーデン家の古い城があった場所である。「バルバロッサの城」はフリードリヒ1世の小宮殿の一つで、神聖ローマ皇帝の宮殿という機能に加え、宮殿周辺の王領の管理事務所としても利用された。
この宮殿はゲルンハウゼンの創設(1170年)の10年後に重要な帝国会議の会場となった。
(先の写真は、帝国議会開会の800年記念切手(1180年~1980年)である)
この皇帝宮殿はシュタウフェン朝の最も保存状態の良い宮殿建築である。
その石工の仕事は当時としては卓越したもので、宮殿の基礎には約12,000本の木が打ち込まれている。
・・・・・
写真はゲルンハウゼンのKaiserpfalzカイザープファルツ:神聖ローマ皇帝の宮殿跡正面入口 -
写真はゲルンハウゼンのKaiserpfalzカイザープファルツ:神聖ローマ皇帝の宮殿跡内部
・・・・・・・・・・・・
ゲルンハウゼンを13:20に出発し、直ぐにアウトバーンA66に乗る。
Hanauハーナウの手前でA45に変わり、北上して北西に向う。
デュッセルドルを通過し、近郊のRatingenラーティンゲンが最終地だ。
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旅行記グループ 2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道を行く。
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