2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街
9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。
9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
9月24日(火)⑭画家たちが愛した美しい木組みの家並みと泊まりたかったシュヴァーレンベルク城
9月24日(火)⑮ブロムベルクには古城や伝説、美しい木組みの家並みがある。
9月25日(水)⑯英国王となったハノーファー王家ゆかりの町へ
写真はハノーファー新市庁舎
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
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9月25日(水) 124km、雨上がり曇りのち晴れ、13℃~18℃
起床5:30、朝食(7:35~8:15)昨日と同じ朝食の間、ブロムベルク城を9:00に出発=>B1・(Hamelnハーメルン:給油のみで通過) B217 ・B65・B3・B6 79 km Hannoverハノーファー着、市内観光 11:10~13:35 =>B3・A37・B3・B214 45 km Celleツェレ着14:30、市内観光:主にツェレ宮殿博物館15:00~16:00 =>Hotel Borchersホテル ボルシャースに到着16:55
写真はBlombergブロムベルク=>Hannoverハノーファー=>CelleツェレのMap -
*昨夜は早い就寝だったから起床も早い5:30、朝食7:35~8:15は昨日と同じ朝食の間で頂く。
写真は古城ホテル ブロムベルク城:朝食 -
ホテルのチェックインではEuro110も安い請求書が出てきてビックリ、指摘するとEuro110は凡そ1泊分故、レセプションの小母さんは恐縮しながら感謝していた。
写真は古城ホテル ブロムベルク城:朝の中庭には宿泊客の車が多い。ブルクホテル ブロムベルグ ホテル
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出発前にホテル内を探索。
写真は古城ホテル ブロムベルク城内:古い機具が飾られて -
写真は古城ホテル ブロムベルク城内:ちょっと怖く見えた階段
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写真は古城ホテル ブロムベルク城:リッペ侯家の様々な紋章でしょう
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写真は古城ホテル ブロムベルク城:リッペ侯家の領地の観光地
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写真は古城ホテル ブロムベルク城:本館にあった暖炉の間
ブロムベルク城を9:00に出発した。国道B1をHamelnハーメルンに向かう。寒い日が続き、B217の沿道のマロニエや樫の木、菩提樹も黄色く色づきだしてきたのが分かる。 -
ハーメルンの街中に入り、探していたガソリンスタンドが目に付いた。Westfallen Tankstelleヴェストファーレン給油所(9:56)で、この旅最初の給油Super37.14L@1.409Euro/L=Euro52.33(6,311円)をした。
ここまで凡そ500km走っていたが、満タンになるとさらに722km走行可と、ナビには出ていた。ナビは便利なものだ。
写真はWappen von Hannoverハノーファーの紋章
*ハノーファーの紋章は赤い背景に双塔を持つ銀の城門、開門された城門内に緑のマリアンの花若しくはクローバーの葉が描かれた黄金の楯がある。
塔の間には金色のライオンが立っている。 -
Hannoverハノーファーまでは国道は道も広く、2車線で渋滞もなく進んだ。
大きな都市でもあるから、工場や家が両側に出て来るので標識は70、50、100kmと度々変更になる。
79 km走り、無事に到着した。Altes Rathaus旧市庁舎近くのParkhaus・Markthalleパークハウス・マルクトハーレの4階に駐車(11:05、料金Euro4.5)できた。
<Hannoverハノーファー>
11:10~13:35
http://www.hannover.de/
ハノーファーは駐在時も、定年後の旅でもじっくりと観光に訪れた事が無い。
もっとも一回目(1970年半ばに)の駐在中、会社がHannover Messeハノーファー・メッセ(国際産業技術見本市)に機械の出品していたので、オニギリ・味噌汁などを持って陣中見舞いに行ったことがある。
その帰途、私共家族とご一緒した先輩社員のFさんの奥さまとお子さん方と、先に訪れたLemgoレムゴーという町にあったHotel Stadtpalaisシュタットパレスに1泊し、ハンザ都市であった小さな町の歴史探訪をした覚えがある。
2014年5月、「北方二州を巡る旅」で漸くハノーファーを訪れたが、これもGrosser Garten Herrenhausenヘレンハウゼン王宮庭園を主に訪れただけだった。
それで今回はツェレに向かう途中にあるハノーファーを再訪することにした。
それでも、何となく見てしまったのだが・・・。
写真はHannoverハノーファー:Matthaeus Seutterマテウス・ゼッター1745年作の要塞都市図 -
ハノーファー(かつての名前「Honovereホノーファー」は「Hohes Ufer高い堤」の意味)はLeine ライネ川(全長281km、ヴェーザー川の支流)沿いに発展した都市で、人口538千人(2018年)、ニーダーザクセン州の州都である。
約90km西にBielefeldビーレフェルト、50km東にBraunschweigブラウンシュヴァイク、70km東にWolfsburgヴォルフスブルク、約30km南にHildesheimヒルデスハイムが位置する。
写真は2014年5月、Grosser Garten Herrenhausenヘレンハウゼン王宮庭園の目玉・大噴水 -
イチオシ
この町は14世紀にはハンザ同盟に入って繁栄した。
また、歴史上特筆されることだが、この町は18世紀、大英帝国を象徴する女王Queen Victoriaヴィクトリア女王(1819年~1901年)の出身王朝としても知られている。ハノーファー王朝の英国国王を兼ねた(つまり同君連合)ハノーファー王家ゆかりの町であるのだ。
この町は特に優美なバロック様式のヘレンハウゼン王宮庭園とハノーファー・メッセ(見本市)がよく知られているのだが、上述した様にこの二つは体験している。
写真はハノーファーのAltes Rathaus旧市庁舎
第二次大戦で空襲(英国との関係も深いハノーファーが爆撃されたのはちょっと理解しにくいのだが)を受け、町の3分の2が焼失し、旧市街の90%は壊滅的な罹災を被ったから、歴史的には見るものは少ないかもしれない。
ともあれ、以下のハノーファーの観光名所を訪ねてみた。パークハウスからは直ぐに黒ずんだレンガ色した旧市庁舎が見える。最初はここからだ。
①Altes Rathaus旧市庁舎:
旧市街の入口にもなる黒ずんだレンガ色した旧市庁舎はマルクト広場1にある。
1943年空爆で庁舎の一部は罹災し、戦後再建された。オールドタウンホール 建造物
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最も古い分は1410年、1455年に完成したもので、4階建ての庁舎の上の飾り、切妻作りは他の町でよく見るが、さすがに王家の首都であっただけに大きく、貫禄のある佇まいをしている。そのほか玄関、鍛冶屋通り等が見所。
裏手のケーベリンガー通りに面したファサードは1453~55年に建てられたもので、1490年建築の裁判所が付属した形になった建物で、1964年に再建されている。
Marktbrunnenマルクトの泉(1881年)が裏手にある。
写真はハノーファーのAltes Rathaus旧市庁舎:Marktbrunnenマルクトの泉 -
マルクト広場にはそれを採ったMarktkircheマルクト教会がある。
その教会南側にLutherdenkmalルターの記念像が立つのに気が付いた。
多くの町で見るルターの像はいずれも存在感を示す大きさでだが、ここのルター像も3mほどの大きい。それでもドレスデンなどに比べるとやや小さい感もするが。
写真はハノーファー旧市街:マルクト教会南側に立つルターの記念像 -
1900年当時の古い写真を見ると、3つの像があったようだ。
それも今のものより大きい。
宗教改革者ルター像は3m以上の高さのSockel台座の真ん中に立ち、彼の両側に低い姿勢で、*エリザベート宗教改革公爵夫人が左に、右には*エルンスト1世・告白公が椅子に座っているものだ。
いずれもルターの宗教改革に大いに尽くした者だ。
写真はハノーファー旧市街:ルター像1900年当時の古い写真
今の像はどういう経緯か、ルターだけの像になってしまっている。調べてみると、第二次大戦中(1939年~1945年)の1941年、3つの銅像は兵器製造の目的で溶かされる予定だったと云う。
それを何とかルター像だけはハンブルクに移送し、戦後ハノーファーに戻したそうだ。見た目には昔と今のルター像は違って見える。
マー、どうせなら3つの銅像を纏めて再建しても良かったように思えるが。 -
*Elisabeth von Calenberg-Goettingen 、Herzogin von Braunschweig-Lueneburgエリザベート・カレンベルク・ゲッティンゲン、ブランシュヴァイク・リューネブルク公爵夫人(1510年~1558年)はdie Reformationsfuerstin宗教改革公爵夫人と呼ばれた。
ブランデンブルク選帝侯の娘だったエリザベート1525年、15歳の時、彼女は40歳のHerzog Erich I. von Calenberg-Goettingenカレンベルク・ゲッティンゲン公爵エーリヒ1世の二人目の妻として結婚しました。
エリザベート公爵夫人は学者として神学者であり、多才な作家として、彼女は出版物の中でルターの教えを支持し、公爵夫人としても、ブランシュヴァイク・リューネブルク公国での宗教改革に寄与した。
写真はハノーファー:カレンベルク・ゲッティンゲン公爵エーリヒ1世とエリザベート・カレンベルク・ゲッティンゲン、ブランシュヴァイク・リューネブルク公爵夫人の画像 -
*Herzog Ernst I. zu Braunschweig-Lueneburgブラウンシュヴァイク・リューネブルク公エルンスト1世(1497年~1546年、 der Bekenner告白公と呼ばれた)は初期宗教改革におけるプロテスタント派の指導的諸侯で、宗教改革に大いなる功績をあげた。
写真はハノーファー:ブラウンシュヴァイク・リューネブルク公エルンスト1世の画像はLucas_Cranachルーカス・クラナハの作品(工房) -
②Marktkircheマルクト教会とLutherdenkmalルターの記念像:
14世紀に建てられた煉瓦造りのゴシック様式の教会は塔の高さは97m、長さ61m、幅26mの大きなもので、遠くからも目印になる。
内部で目立つHochaltar大聖壇は翼が開くと、菩提樹で彫られたイエスのPassion受難(生涯)の21場面が見られる。
写真はハノーファー旧市街:Marktkircheマルクト教会の大聖壇マルクト教会 (ハノーファー) 寺院・教会
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第二次大戦の爆撃で辛うじて残った木組みの家屋はわずか40軒だったと云う。
そのうち12軒がKnochenhauserstrasseクノッヘンハウザーシュトラーセ34番地、Kramerstrasseクラマーシュトラーセ 13、23、24番地に、Burgstrasseブルグシュトラーセ 12、23、23a、 25、27番地などに残っているらしい。
尚、残る3軒はAltstadt Holzmarkt旧市街の木材マルクト 2、3、4番地に木組みの家並みがあった。
ハノーファーは1950年代に市内各地に残っていた木組みの家屋を旧市街に移転させたと云うからすごいものだ。そうしてマルクト教会と旧市庁舎を囲む、古きよきハノーファーの旧市街が出来上がったのだと。
写真はハノーファー旧市街:Kramerstrasse クラマーシュトラーセ13番地(左から4軒目)の建物は17世紀の商家・市民の木組みの家 -
イチオシ
③Leibnizhausライプニッツハウス:Holzmarkt木材マルクト
Kramerstrasseクラマーシュトラーセを歴史博物館に向かうと、博物館傍にルネサンス風ファザードをもったLeibnizhausライプニッツ家(1499年に建設)が立っている。
残念ながら、ここも戦災で破壊され、1983年に再建されたものだそうだ。
ハノーファーではおそらく最も有名な人物といえるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは長年にわたりこの家に住んでいた。
写真はハノーファー旧市街:ホルツマルクト・Leibnizhausライプニッツハウス -
ライプニッツハウスは
ライプツィヒ出身の哲学者・数学者・政治家・外交官Gottfried Wilhelm Leibnizゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツに因んで名付けられた。
ハノーファーにおけるルネサンス風市民の家は1499年に建てられたもので、ライプニッツは1698年から1716年に死ぬまでその家に住んでいた。
この家は1943年の第二次世界大戦中にハノーファーへの空襲で破壊されてしまったので、1981年~1983年の間に元のように再現された。
美しいファサードを備えた新しい建物だが、元の地Schmiedestrasseシュミーデシュトラーセ(鍛冶屋通り)10番地でなく現在の地に建てられたと云う。
現在はLeibniz Universitaet Hannoverライプニッツ大学ハノーファー(学生数3万人 )のゲストハウスになっている。
写真はハノーファー旧市街:ホルツマルクト・Leibnizhausライプニッツハウス前の泉 -
Gottfried_Wilhelm_von_Leibnizゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツはドイツの哲学者、数学者である。
ライプツィヒの出身(1646年~1716年)。
ライプニッツは哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあったと云うが、私自身はその事績をよく知らない。
写真はゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの画 -
旧市街のBurgstrasseブルクシュトラーセには、1566年に建てられたハノーファー最古の最も美しい住居が残っている。この建物は複雑な装飾を施したルネサンスのファサードが見られる。
すぐ傍にはハノーファー最古のゴシック様式のクロイツ教会(聖十字架教会1333年築)がある。ここには1537年にルーカス・クラナハが設計した祭壇があり、観光の目玉と聞いたが、教会手前で曲がってしまい行っていない。
写真はハノーファー旧市街:Burgstrasseブルグシュトラーセ23a, 25, 27, 27a, 29, 31, 33 -
写真はハノーファー旧市街:Burgstrasseブルグシュトラーセ23a, 25, 27, 27a, 29, 31, 33
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④Ballhofplatzバールホフプラッツ(広場)と劇場:
写真のように旧市街のバールホフプラッツ(広場)の説明がある。この一帯にはしゃれたレストランや、広場の左手にBallhof-Theaterバールホフ・劇場がある。
バールホフの建物は1649年~1664年の間にHerzog Georg Wilhelmゲオルク・ヴィルヘルム公爵によって建てられた。
写真はハノーファー旧市街:Ballhofplatzバールホフ広場の説明がある。 -
バールホフは今で言うBadmintonバドミントン(羽根突き)ゲームのためのものだったようです。
この絵のように宮廷社会、つまり上流階層に、全天候型のバドミントン練習ができる場を提供していたようだ。
写真はハノーファー旧市街:上流階層のバドミントン練習の様子。 -
その後、ここでコメディアンの最初の公演が行われると、ハノーファー最大のイベントホールとして、展示スペース(動物ショー用)、劇場、コンサートホール、レストランとしても使用されるようになった。
現在、かつての名前であるバールホフは変わらず、ニーダーザクセン州立劇場ハノーファー(オペラと演劇)に属している。
音楽イベントもバールホフの前で開催されると云う。
写真はハノーファー旧市街:Ballhofplatzバールホフ広場 -
写真はハノーファー旧市街:Ballhofplatzバールホフ広場のレストラン
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この町で知られた木組みの家(1646年建築)が、通りの右手奥に見える。
写真はハノーファー旧市街:Knochenhauserstrasseクノッヘンハウザーシュトラーセ・・・旧市街の一角(右手)でパンを購入。 -
イチオシ
旧市街の歩行者天国、クノッヘンハウザーシュトラーセ34番地には、この町で知られた木組みの家(1646年建築、1970年に現在地に移築)がある。
とりわけ前面に張りだしたファサードが美しい。
写真はハノーファー旧市街:クノッヘンハウザーシュトラーセ34番地の木組みの家 -
その木組みの家の一階にCafe Konrad カフェー・コンラットがある。
上の写真では見にくいがこちらは分かりやすい。
ドイツの有名な漫画家Ralf Koenig ラルフ・ケーニヒ(1960年、Soestゾースト生まれ)作品のコーヒーを飲むコンラットの看板は面白く、目立っている。
この店は1996年に開店した。
尚、ケーニヒ作品のKonrad und Paulコンラットとパウルは 1993年の作。
写真はハノーファー旧市街:クノッヘンハウザーシュトラーセ34番地のカフェー・コンラット -
⑤Leine Schlossライネ宮殿(城): ニーダーザクセン州議会本部
マルクト教会からもそう遠くはない場所にあるライネ宮殿(城)は新古典主義の城郭で、建物の南側の正面玄関に6本の円柱が並ぶ見た目は立派な宮殿である。
1962年からニーダーザクセン州のLandtag州議会が入っている。
12世紀にフランシスコ修道院として設立され、1533年に放置されていた。
ライネ宮殿(城)は1637年に当初は木組み建築の建物でしたが、以後何度も拡張、改築、破壊、再建を繰り返し、1837年から1866年までハノーファー王の宮殿(居城)でした。
さらに第二次大戦でも罹災し、1956年から1962年にかけてまた復元されたから、マー災難続きの宮殿(城)だと云える。
写真はハノーファーのLeineschlossライネ宮殿・ニーダーザクセン州議会 -
イチオシ
⑥Rathaus新市庁舎:
2013年に100周年を迎えた、美しい佇まいの市庁舎は広大なMaschpark マッシュ公園(10ha)と旧市街の間に1901~1913年の間に建てられたものだ。
写真は曇り空で見るハノーファーRathaus新市庁舎:Trammplatzトラムプラッツ 2番地市庁舎 (ハノーファー) 現代・近代建築
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写真はハノーファー市庁舎:1898年の絵葉書
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巨大なHaupthalleエントランスホールは30mの高さ、横の長さ30m、奥行き幅21mもあり、中央の丸屋根は高さ100m、庁舎の横の長さ129m、奥行き幅67mだとか、確かに巨大で美しい佇まいなのだが、中身は薄い。
写真はハノーファー市庁舎の拡大 -
見学時間:8~18時 (土日は10時から)
写真はハノーファー市庁舎の俯瞰 -
1689年、1939年、1945年戦争で破壊された後と、今日の4つの姿のハノーファーを模型で見ることができる。
写真はハノーファー市庁舎:堀と城壁に囲まれていた1689年 -
写真はハノーファー市庁舎:戦災によりほとんど破壊された1945年
・・・・・
ハノーファーの旧市街を巡ったが、残念なことに思ったほど木組みの家は少ない。元々少ないから仕方が無いものの、むしろ多くが立派な石造りの建物ばかりが目に入った。
旧市街の一角のパン屋「Back-und Naschwerkバック・ナッシュベルク」で大好きなベルリーナ2個Euro2.6、リンゴパン1個Euro1.4=Euro4を購入し、新市庁舎見物の帰りに州議会前のベンチに座ってパンで空腹を満たした。
購入したお店のパンには蜂たちがたかっていてエッと思うほどだったが、店員は全く気にせず蜂を追う事もしていなかった。
蜂がたかるだけに、食べてみたら確かに美味い(苦笑)。
・・・・・ -
⑦Historisches Museum歴史博物館:
最後にまた、ライネ宮殿(城)からも近いライプニッツハウス傍にある歴史博物館にやって来た。
黄金の馬車を筆頭に、馬車、家具、衣類のコレクションが面白いそうだったから、訪ねてみたら、肝心の黄金の馬車の展示が一時中止中だったので、見学はやめてしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・
さて、ハノーファー王国とイギリスとハノーファーの同君連合について
復習してみたい。
【Koenigreich Hannoverハノーファー王国】
現在のドイツ北部、ニーダーザクセン州に存在した王国。
1692年にErnst August・Kurfuerst von Hannoverハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となってから、1803年にフランスに占領されるまでブラウンシュヴァイク・リューネブルク選帝侯国(Kurfuerstentum Braunschweig・Lueneburg)として、及び1814年のウィーン会議によってドイツ連邦の構成国となってから、1866年に普墺戦争に敗れてプロイセン王国に併合されるまでハノーファー王国として存続した。
以後は1946年までプロイセン王国の一州となっていた。元々はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国(Herzogtum Braunschweig・Lueneburg)の一部であるFuerstentum Calenbergカレンベルク侯領(1432~1803年)で、首都がハノーファーに置かれたため俗にこう呼ばれる。
写真はKing George I英国王ジョージ1世:在位1714年~1727年(ハノーファー選帝侯Georg Ludwigゲオルク・ルートヴィヒ:在位1698年~1727年) -
【イギリスとハノーファーの同君連合開始と、その解消について】
ハノーファー家はドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク・リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であった。
1714年、イギリスのアン女王が逝去すると、異母弟ジェームズ(老僭王)を始めとするカトリック信徒の即位を阻むために制定されていた王位継承法によって、ジェームズ1世の曾孫でアンの又従兄に当たるドイツのハノーファー選帝侯ゲオルクがイギリス王として招かれ、グレートブリテン王兼アイルランド王ジョージ1世となった。
つまりステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制となったのである。
ステュアート朝の断絶を受けて、ドイツ北部の領邦君主の家系であったハノーヴァー家からGeorge Iジョージ1世(独語はGeorg Ludwigゲオルク・ルートヴィヒ)を国王に迎え入れて成立したハノーファー朝(英語:Hanoverian Dynasty)は、1714年から1901年まで続いた。
ハノーヴァー朝は第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーに因みウィンザー家(House of Windsor)と家名を改称した。
但し、ヴィクトリア女王の血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされる。
尚、Hanoverian Dynastyハノーファー王朝は1714年から1901年まで続いたイギリスの王朝で、ハノーファー王国から英国王となったのは以下の3名である。
ゲオルク3世(1814~1820年):イギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)国王ジョージ3世と称した。
ゲオルク4世(1820~1830年):イギリス国王ジョージ4世
ヴィルヘルム(1830~1837年):イギリス国王ウィリアム4世
XXX
英国女王Queen Victoriaヴィクトリア(1819年~1901年)はイギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(在位:1837年~1901年)。
イギリス王室ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘で、3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年6月20日に18歳で英国君主ハノーヴァー朝第6代女王(国王)に即位した。
所が、ハノーファーでは女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。
繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。在位は63年7か月にも及び、歴代イギリス国王の中では現在の女王エリザベス2世に次ぐ長さである。
また、2020年4月現在のイギリス女王であるエリザベス2世の高祖母にあたる。
(Wiki)
参考:≪英国ヴィクトリア女王はドイツ人だった!≫
https://4travel.jp/travelogue/10875676
写真は英国女王Queen Victoriaヴィクトリア -
Koenig Georg V. von Hannoverハノーファー王ゲオルク5世(1819~78年、在位:1851~66年)はイギリス王ジョージ3世(ハノーファー王ゲオルク3世)の孫である。
ヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、最後のハノーファー王となったGeorg Vゲオルク5世はヴィクトリア女王と同年に生まれた。
ハノーファー王ゲオルク5世は1866年に起こった普墺戦争で、オーストリア側についた為に、ハノーファーはプロイセン軍に占領され、同年6月29日にハノーファー軍は降伏した。ゲオルク5世と家族はオーストリアへ亡命し、プロイセン政府は9月にハノーファー王国を正式に併合したが、ゲオルク5世は権利を放棄せず、併合も認めなかった。
亡命地であるオーストリアのグムンデンからヨーロッパの列強にハノーファー問題への介入を要請したが叶わなず、最後のハノーファー王となった。
ゲオルク5世は1878年に死去すると、英国ウィンザー城の礼拝堂に埋葬された。
<マリエンブルグ城の歴史>
マリエンブルグ城はLeineライネ川(全長281km、ヴェーザー川の支流)沿いの海抜135mの山上にあり、空堀を穿つ、中世の見事な城構えを持っている。
実際は19世紀(1857年~1867年の建設)にハノーファー王ゲオルク5世がKoenigin Marie王妃マリーの39歳(1857年)の誕生日祝いに、夏の離宮・狩猟館(後には未亡人の居城)として建設し、プレゼントしたと云う。
ここにはハノーファー南部を見晴らせる丘があったに過ぎませんでしたが、マリー王妃は高台に聳える、ロマンチックな中世風の城を手に入れる事になったのです。
ただ、王妃と王女Marieマリーは1866~67年の1年しかこの城に住んでいない。
ゲオルク5世が普墺戦争で敗れ、王の亡命と共に王妃たちもオーストリアに行き、後は執事が凡そ80年間、居住したそうだ。
現在もマリエンブルグ城はハノーファー家の私有となっている。
写真はSchloss Marienburg an der Leineマリエンブルク城(2014年5月)
・・・城内では1714年に始まるHanoverian Dynastyハノーファー王朝、その時から数えて今年で300年、記念の年を迎えて、英国とハノーファー王家の親密な関係を説明した特別展があった。
ハノーファーはこのように歴史的には重要な町だった。
次のCelleツェレの町は木組みの家並みでたいへん有名だが、同時にハノーファー選帝侯、ハノーファー王家と深い関係を持っている。 -
ハノーファー出発前にDeciusデシウスという本屋で土産に2020年のカレンダー2編(Euro10)購入。13:35パークハウスを出て、Celleツェレに向かう。
45 km距離のCelleツェレには凡そ1時間後14:30に到着。天候は今一つ曇り空が続いたが、ツェレに入ると少し晴れ間が出た。
ホテルには早い事もあるが、とりあえず市内観光の第一も目的であるツェレ宮殿博物館を目指す。
デパートのKarstadtのパークハウス(14:34~16:38駐車料金はEuro4)の2階に駐車し、ツェレ城に向かった。・・・最初の宮殿観光以降は次章にて書く。
写真はCelleツェレの市内観光図・・・番号20あたりが宿泊先のHotel Borchersホテル ボルシャース。ツェレ城 城・宮殿
-
16:38、パークハウスから出て、Hotel Borchersホテル ボルシャースをナビに入れて探した。ホテル前に着いたが、駐車場が分からず、ホテルのレセプションで聞くことになった。
分かりにくかった場所はホテルの裏で、裏道横の看板に気付き、ホテルの裏道から入り、小さな中庭に入った。
Tiefgarage地下駐車場U2(地下2階)の駐車は、レセプションで車がガレージに近づくのをカメラで見ていて、ガレージの扉を開ける。狭い中に車を入れると、U2に向かってエレベーターが降りる。そんな操作で漸く駐車できたが。
奥の丁度良い場所に駐車できてほっとして、トランクを引き出し、地下から直接エレベーターで上がり、ホテル ボルシャース2階の15号室に到着したのは16:55になっていた。
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャース(町の絵葉書の右上にホテルが掲載されているから、ある意味大したもの)・ツェレの絵葉書 -
イチオシ
*9月25日(水)~9月27日(金)Celleツェレ(2泊3日)
<Hotel Borchersホテル ボルシャース>
D-29221 Celle 、Schuhstrasse 52
Tel:+49 (0) 5141 91192-0 、Fax: - 44
http://www.hotelborchers.com/
3星・全19室。2階の15号室DZ・Euro190(166+朝食込み2x2x6)+駐車料12x2合計214。町の旅行案内所で購入した絵葉書6枚を日本あてに郵送してもらう郵便費Euro5.7込みでEuro219.7=26,580円を支払った。
Booking.Comで2泊予約した木組建築のホテルですが、特徴のあるものではなく、モダンな部屋で窓を開けると2階に作った中庭が見え、朝食用レストランに最も近い部屋でした。チェックイン15時、チェックアウト11時。
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャースの正面ホテル ボルシャース ホテル
-
Hotel Borchersホテル ボルシャースはドイツでも有数の最も美しい中世の町、ツェレの歴史のある中心部にある居心地の良い、美しい木組建築のホテルである。
ツェレ独特の木組建築が軒を連ね、カラフルな歩行者地区に囲まれ、中心地から150m、駐車場は裏手の地下駐車場(1日Euro12:予約依頼済み)がある。
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャースの裏手にある駐車場エレベーター入り口 -
徒歩わずか15分先のFuerstenhofフュルステンホフのウェルネスセンターを無料利用できる。又、ホテル フュルステンホフ内のイタリア料理Taverna & Trattoria Palioタベルナ・トラットリア・パリオは北部一のイタリア料理の評判があり、お勧めである。
ハノーファー通りに面し、17世紀のバロック様式の宮廷であったAlthoff Hotel Fuerstenhofアルトホフ ホテル フュルステンホフ(Hannoversche Strasse 55/56)は5星ホテルで、特にグルメレストランEndtenfangエンテンファンはミシュランの1星付きで知られている。エンテンファンには2005年4月25~27日に2泊して、エンテンファンの名物「鴨料理」を楽しんだことがある。
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャース・2階の15号室DZ -
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャース・浴室
-
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャース・2階の15号室DZ
-
<Booking.Comへの評価:7.1 、良い>
旧市街の便利な場所にあり、ツェレらしい木組み建築のホテルは好ましい。
1)旧市街を徒歩で歩ける便利な場所にある木組み建築のホテルなのが良かった。 2階の朝食用レストランの前に小さな中庭があって、良い感じだった。
2)敷地内に有料専用駐車場があるということだったが、確かにあったものの、裏手から入る地下駐車場(Tiefgarageである旨はホテルよりメールで伝達あったが、てっきり簡単に正面から入れるものと思ってしまい、分かりにくく、具体性が無いものだ)と言うべきが、正しいだろう。
それも車ごとリフトで乗降するタイプで初めて使用するには抵抗があった。
・・・・・
写真はCelleツェレ:Hotel Borchersホテル ボルシャースの2階に中庭がある。 -
写真はCelleツェレ:古い写真・ツェレ独特の木組建築のHotel Borchersホテル ボルシャースは中央に見える。
現在の建物と色彩も変わり、道路に並ぶ車が相当古い型なのが興味深い。
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この旅行記へのコメント (2)
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- M-koku1さん 2020/05/01 23:34:47
- イギリスと関係の深いハノーファー家
- jijidarumaさん
実はイギリスに長く住んでいたので ハノーファー家の名前は けっこう頻繁に見かけていました。
アン女王のあたりは 暗い暗い歴史の時代でしたから 映画にもよくなっています。
ジョージ一世が ドイツから来て ドイツ語しか話さなくて イギリスでは馬鹿にされていたような記憶があるのですが(違ったかもしれませんが)、それでも血筋的には今のウィンザー家につながってきたのですから、凄いものですね。
EUを離脱しなくてもよかったんじゃないでしょうか。
もともとはおんなじなんですから。
これはチェックしてみないと確実ではないのですが、実はツェレの絵ハガキに見覚えがあります。もしかしたら同じものを持っているかもしれません。1980年代に買ったので、似てるだけかもしれませんが、なんとなく・・・
山のように引き出しに放り込まれている絵葉書を そろそろ整理しなくちゃいけないですかしら。
写真にとって、捨てるしかないのでしょうね。
いつも通り 楽しませていただきました。
Mより
- jijidarumaさん からの返信 2020/05/02 14:30:52
- Re: イギリスと関係の深いハノーファー家
- M-koku1さん 、
今日は。急に暑くなり、体調管理も大変ですね。
読みにくい、この章にコメントして頂きありがとうございます。
そうでしたね。イギリスに長く住んでおられたようですから、英国の王朝は日々の生活の中に普通に存在し、影響していたことでしょう。
ジョージ一世はドイツ人でドイツ育ちでしたから、英語を流暢に話すほど身近ではなかったのでしょう。
彼の名誉のために付記すると、実際は英語を理解し、読み書きもでき、話せたと云われています。彼は当時の宮廷の必須語であったフランス語を流暢に話し、この時代の教養人には必須であったラテン語も良くできて、イタリア語とオランダ語は少し話せたから、ジョージ一世の語学的才能は十分だったと思います。
3人目のジョージ3世になって始めて英国生まれの王が登場し、英語を話す君主になったそうで、その後はずっとハノーファーのドイツの血が英国王朝に続いていきます。
私にとって一番読まれたのは以下です。もしご興味あれば、
参考:≪英国ヴィクトリア女王はドイツ人だった!≫
https://4travel.jp/travelogue/10875676
ドイツとイギリスの関係はフランスよりも潜在的に強固なように思えます。
第二次大戦でもイギリス空軍の爆撃も人的関係のあった町は攻撃しなかったと聞きます。EU離脱も言われるように、何をしているのかなと思いますよ。
ツェレの絵ハガキはきっと同じでしょう!私も絵葉書はアルバムに貼るか、友人、知人に季節に応じて書いて送るかし、残ったものは後生大事に保管しており、ファイリングまでしています。
先日、セピア色の思い出を4Traに掲載したところ、事務局からある写真が掲載不可、つまり旅行記が下書き状態に戻されました。それで保管していた絵葉書を撮って代りに掲載して、元に戻った事がありました。
古い絵葉書も急に引っ張り出されて驚いたことでしょう。
それではまた、ありがとうございました。
jijidaruma
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