
2019/09/18 - 2019/10/03
6位(同エリア219件中)
jijidarumaさん
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- 旅行記381冊
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- フォロワー73人
<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月21日(土) 135km 、快晴・12℃~20℃
Cloppenburgクロッペンブルク(Museumsdorf野外博物館)12:40発=>B72・A1(50km走った所で、オートバイと車など4台の事故で渋滞するも解消早し)・B218・ L76 69 km Bramscheブラームシェ・Bramsche-Kalkrieseブラームシェ・カルクリーゼ(トイトブルクの戦い)13:45~15:50 =>B218・B65 ( Bad Essenバート・エッセン経由)=> K424・K410 21 km Altes Berghausアルテス ベルクハウス到着16:30。
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
写真はローマ人のマスク(カルクリーゼで発掘された鉄仮面をなぞった)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
クロッペンブルクの野外博物館を12:40に出発する。
本来の予定からちょうど1時間遅れになっている。
国道B72からアウトバーンA1に入り50km走った所で、オートバイと車など4台の事故に出遭う。オートバイの運転手は何処かを打ったようで、出血はないがぐったりと道路に横たわっていた。
救急車や警察を待つ関係者、それを横に見ながらゆっくり行く。
渋滞も直ぐに解消したのでホッとしたが、アウトバーンでの事故はとりわけ怖い。
写真は訪れる時間が無かったBurg Cloppenburgクロッペンブルク城・・・現在は地区裁判所等に利用されている。 -
アウトバーンを降りて国道B218を行くと69 kmで、Bramsche-Kalkrieseブラームシェ・カルクリーゼ(トイトブルクの戦い)博物館に13:45に至る。
写真はブラームシェ・カルクリーゼ(トイトブルクの戦い)博物館とオスナブリュックの関係地図・・・赤丸印のX点は多分ここで戦闘が行われた地点だという -
Bramsche‐Kalkrieseブラームシェ・カルクリーゼはニーダーザクセン州のオスナブリュックの北約 15 km、オスナブリュッカー地方のDie Haseハーゼ川(長さ170km、北海に注ぐEmsエムス川の支流)沿いに位置し、Mittellandkanalミッテルラント運河(全長325km)に直接面している。
写真はBramsche‐Kalkriese-ブラームシェ・カルクリーゼとPorta_Westfalicaポルタ・ヴェストファーリカ間、ミッテルラント運河に沿ったゲルマンの英雄ヘルマン(=アルミニウス)の道100kmの行程図・・・左川沿いの赤丸印は発掘場所
尚、2008年にポルタ・ヴェストファーリカのバルクハウゼン区からローマ時代の石臼、硬貨、鉛鑞(はんだ)、衣服のバックルの一部が発掘された。
これらは紀元1世紀のものとされた。
この事から、ポルタ・ヴェストファーリカのローマ陣地は、ローマ軍団の指揮官ウァルスがトイトブルクの戦いに向かった夏の陣地であったと推定されている。
つまり、左にローマ軍団は行軍し、両軍は発掘された地域で激突したと。 -
私共は「トイトブルクの森の戦い」はゲルマン(ドイツ)の英雄・指揮官 Hermannヘルマンの名前で知っている。かつてDetmoldデトモルト:Hermannsdenkmalヘルマンデンクマル(英雄ヘルマンの記念碑)を訪れたことがある。
それで「トイトブルクの森の戦い」というより、ローマ軍団総司令官の名Varusウァルスを取って「Varusschlachtウァルスの戦い」と看板に出でいるのは不思議なのだが。
写真はMuseum_Kalkrieseカルクリーゼ博物館:オスナブリュック地方にある「Varusschlachtウァルスの戦い」の看板はローマ軍団の将の名を採っている。
(よく分からないが、元来の「Teutoburg トイトブルクの森の戦い」で知られたDetmoldデトモルト近郊にあるHermannsdenkmalヘルマンデンクマル(英雄ヘルマン記念碑)に遠慮したのだろう) -
写真はTeutoburg トイトブルクの森に戦い・Der_Triumph_Hermanns_(Tischbein)_-_Bad_Pyrmont・・・「ヘルマンの勝利」を描いた作品(ゲーテの友人でもあったJohann Heinrich Wilhelm Tischbeinヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバインの作)・・・ドイツ人の民族主義・ドイツ統一運動の影響が強い
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<Museum und Park Kalkrieseカルクリーゼ博物館・公園>
13:45~15:50
D-49565 Bramsche-Kalkriese 、Venner Strasse 69
VARUSSCHLACHT im Osnabruecker Land gGmbH
Tel. 49 (0) 54 68 / 92 04 0
http://www.kalkriese-varusschlacht.de/
2002年から開館。開館時間は火~日の10時から17時、ガイド付きは土14時半、日・祭日の11時、14時半。入場料は内容の割にEuro9.5X2=19と高い。
広い無料駐車場は博物館前にある。
写真はMuseum_Kalkrieseカルクリーゼ博物館:公園マップ -
<Bramsche‐Kalkrieseブラームシェ・カルクリーゼ>
(トイトブルクの森の戦い観光)
観光ポイントは2つある。
①博物館内にあるローマ軍団についての展示で、ゲルマン関係は少ないのも「Varusschlachtウァルスの戦い」と言っているからだろう。
②カルクリーゼの*トイトブルクの戦いの古戦場を見下す高い建物(40m展望台)とその内部の展示です。こちらは後で行く。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の兵揃い(Zinn錫製のミニチュア) -
思った通り、古いローマ軍団とゲルマン人の戦いがテーマになると、展示も苦心した様子である。
なんせ西暦9年(2000年も前の時代だ!)、ローマ帝国軍とゲルマン(ドイツ)人がこの地で激突し、ゲルマン側が大勝利したいう遺跡だが、発掘品が出たといえ、戦史が詳細にあるわけでもなさそうだから。
映像や軍団のミニチュアなどで見やすくしているものの今一つの感がある。
ドイツを巡ると、ローマ軍団がドイツに残した跡を大事にしているケースも多く、そうしたケースも何度か見たので、今日はなんとなく見て回ってしまった。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の編成 -
報道(2006年11月ハンブルク新聞)によると、「オスナブリュック地区と景観協会カルクリーゼは約2,800万Euroの大金を投下し、この地を“ドイツの歴史の中心地”として大いに進展させたいと考えている。
しかし、先の考古学的発掘調査結果はあくまで“ウァルスの戦いの名残”であり、当該地方の観光振興の利益推進の旗印の下に、客観的な議論が尽くされずに多額の投資が行われる事に批判がある」と伝えている。(Wiki)
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の旗印 -
<In Miniatur >> kleine Roemer ganz gross in Szene>
「ミニチュアのRoms Legionenローマ軍団(錫人形)兵士で形成する、小さなローマはとても大きな場面に変わる」とカルクリーゼ博物館の冊子にある。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士 -
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士たちは戦闘訓練に明け暮れた。
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写真はカルクリーゼ博物館・武技の訓練用柱
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写真はカルクリーゼ博物館・初めて見たローマ軍団(錫人形)兵士の守備隊形(矢防ぎか!)
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イチオシ
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士の守備隊形(矢防ぎか!)
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士
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イチオシ
ウァルスの軍は3個正規軍団(第17軍団、第18軍団、第19軍団)と、アウクシリア(補助兵)6個大隊、同盟軍騎兵3個大隊から構成されていた。
1軍団には計算上は6,000名の軍団兵がいたとされる。
因みにローマ軍団の兵士は20kgのMarschgepeack行軍用背嚢(はいのう)を背負って移動した。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士 -
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団(錫人形)兵士
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団兵士の軍装
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の将・兵士の軍装
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団のミニチュア砦
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写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団のミニチュア 投石機
Roemische_Schleuderbleieローマ軍団が使用したと思われるスリングショット用の投石弾がカルクリーゼで発掘された。 -
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の宿営地
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イチオシ
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の宿営地
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*ゲルマン(ドイツ)侵攻のRoms Legionenローマ軍団の総司令官はプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスであった。彼は由緒正しい家柄の貴族であり、西暦7年にゲルマニア総督(ゲルマニア・スペリオルの領域を治下に置いた。
その領域は現在のスイス西部、フランスのジュラやアルザス地域、及びドイツ南西部にあたる。州都はマインツに置かれた)に就任した。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の宿営地 -
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団の行軍に沼地を渡る工夫(木材を敷きしめた)も見られる。
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<Teutoburg トイトブルクの森の戦い>
紀元9年、ローマ軍が分け入った「トイトブルクの森」は、道も細く、辺りは沼沢地であった。
さらに、天候は激しい嵐となっており、行軍するローマ軍の隊形は乱れ、組織的な行動ができなくなっていた。ヘルマンはローマ軍との正面衝突を避けて、軍を森の中に兵を潜めると共にローマ軍へのゲリラ戦を仕掛けた。
このような待ち伏せ攻撃は連日、繰り返し行われた。それでもローマ軍は一歩も引かなかったが、雨とともに続く襲撃によって一方的に殺戮され、およそ2万人のローマ軍兵士が死亡、敵将ウァルスは自決した。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団がゲルマン人の奇襲を受けた森の戦いシーン -
イチオシ
トイトブルクで戦った際のローマ軍団は総数20,000~25,000名、対するゲルマン部族軍が10,000~18,000名と云われている。
戦いの結果はローマ軍団の戦死が23,000名、ゲルマン軍は推定ながら7,000名でゲルマン部族の大勝利に終わった。
写真はカルクリーゼ博物館・ローマ軍団がゲルマン人の奇襲を受けた森の戦いシーン -
カルクリーゼ遺跡:
1987年、Bramsche-Kalkrieseブラームシェ・カルクリーゼで、イギリスのアマチュア考古学者Tony Clunnトニー・クランにより偶然にローマ銀貨160枚が発掘された。
これをきっかけに考古学的発掘調査が始まり、カルクリーゼが両軍の戦闘の場所であったことが判明した。カルクリーゼの発掘地は数km に及んでいる。
「カルクリーゼ」とは地質学的には露出した大きな石灰岩を指すのだが、このカルクリーゼやカルクリーザー・ベルクに因んで名付けられた地区はブラームシェで最も有名な地区になった。発掘の出土品やそのレプリカがカルクリーゼ博物館・公園(2002年開館)に展示されている。
尚、現在はトイトブルクの森の場所はデトモルトから約50km西に離れたカルクリーゼと確定している。
地図では両方の地にTeutoburger Waldトイトブルクの森の文字が見える。
2009年、戦闘2000周年祭!!!を迎えたドイツでは戦場跡で記念式典が行われたそうです。
写真はカルクリーゼ博物館・EU全27国家の”Friedenszeichen“「ピースサイン」2009年・戦闘2000周年祭に建てられた。 -
まずは7階建ての建物の最上階に上り、四方をの眺望を眺め、徐々に下の階に移動した。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物 -
この敗北を聞いた皇帝アウグストゥスは、「ウァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだといわれている。
当時のローマ軍は国境線防衛に必要な数以上の常備軍を備えておらず、ウァルスの敗北はライン方面の軍団が消滅したことを意味した。
このためウァルスの軍団の後背地にあたるガリアはゲルマン人侵攻の恐怖に包まれたといわれ、アウグストゥスは暴動が起こらないように戒厳令を実施した上で、各属州総督の任期を延長した。
写真はカルクリーゼ博物館・40mの展望台から見るトイトブルクの景観 -
この結果、アウグストゥスの構想であったエルベ川をリーメスとする計画は頓挫した。ライン川をリーメスとし、それ以東のゲルマニアへと領土を拡大しようとする意図も失われた。
(Limesリーメスはローマ帝国時代の防砦(軍団を置いた)システムであり、ローマ帝国領の境界線を示すものでもあった。現在もこのリーメス遺跡はドイツに残り、世界遺産になっている)
尚、この境界はロマンス語とゲルマン語の分岐点となり、後にはフランスとドイツの国境ともなった。
この戦いにおけるゲルマン民族の勝利は、19世紀にドイツ民族主義の誇りとして象徴的に使われた。 (Wikから抜粋・加筆)
写真はカルクリーゼ博物館・40mの展望台から見るトイトブルクの景観 -
写真はカルクリーゼ博物館・40mの展望台から見るトイトブルクの景観(先ほどまでいた博物館は中央右の建物)
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Detmoldデトモルト:Hermannsdenkmalヘルマンデンクマル記念碑の様々・・・1893年Antisemitユダヤ人排斥者の催しプログラム、19世紀のヘルマンの絵葉書、トイトブルクの戦いの1900年祭(1909年)、第一世界大戦時のヘルマンデンクマル記念碑、
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物にはドイツの統一への歴史絵巻の展示がある。 -
Teutoburg トイトブルクの森の戦い・Hermannsdenkmalヘルマン記念碑像戸ナチス政権、ヒトラー勝利。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物にはドイツの統一への歴史絵巻の展示がある。 -
Arminiusアルミニウス、つまりゲルマンの英雄ヘルマンの絵。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物にはドイツの統一への歴史絵巻の展示がある。 -
ヘルマンの戦いの絵と宗教改革者ルター。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物にはドイツの統一への歴史絵巻の展示がある。 -
ヘルマンの戦いの絵と宗教改革者ルターを少し拡大して。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物にはドイツの統一への歴史絵巻の展示がある。 -
イチオシ
展示の入口にローマ人のマスク(カルクリーゼで発掘された鉄仮面)もある。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物 -
写真はカルクリーゼ博物館・・ローマ軍団の遺産
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紀元前12~9年ゲルマニア(ドイツ)遠征をおこなった大ドルスス(Drusus maior, 紀元前38年1月14日 - 紀元前9年)はユリウス・クラウディウス朝の家系に属する古代ローマ帝国の元首政期の軍人、政治家でしたが、その事績を表示した画面。
彼の死後もドルススは軍団内では英雄として崇められ、元老院からゲルマン族を征服したという「ゲルマニクス」という称号が贈られた。
写真はカルクリーゼ博物館・トイトブルクの戦いの古戦場に立つ建物 -
番外編:≪トイトブルクの森の戦い・・・新たに確定されたローマ軍団とゲルマン民族の古戦場≫
2019/09/18 - 2019/10/03 (2019/10/05投稿)
https://4travel.jp/travelogue/11515549
写真はHermannsdenkmal_Grotenburg im Teutoburger Waldトイトブルクの森のグローテンブルクに立つヘルマンデンクマル記念碑 -
2005.4.21~5.05.北ドイツ周遊:4.28.
ドイツ人の心の故郷というべき“Teutoburger Waldトイトブルグの森”は、東ヴェストファーレンの緑の背骨にあたり、デュッセルドルフを州都とするノルトライン・ヴェストファーレン州の北部にあたる。
北のミンデンと南のザウアーランド、西のミュンスターラントと東のヴェーザー川の間に位置していて、景色、文化、歴史の点で魅力ある地域です。
写真はDetmoldデトモルト:Hermannsdenkmalヘルマンデンクマル:絵葉書 -
<ヘルマン記念碑>
「トイトブルクの森」の場所に関する唯一の情報源は長らくローマの歴史家タキトゥスの著作『ゲルマニア』にある「Teutoburgiensisテウトブルギエンシスの隘路で」という記述のみであった。
1871年にドイツ帝国が成立し、当時のドイツ民族主義のシンボルとして、有志から集められた莫大な資金を投じて、ゲルマン(ドイツ)の英雄・指揮官 Hermannヘルマン(ラテン語=Arminiusアルミニウスとも呼ぶ)のHermannsdenkmalヘルマン記念碑が1875年に建てられた。
当時は長い間、何処で両軍の戦闘が行われたのかは不明だったので、トイトブルクの森の場所が確定されず、ヘルマンの出身ゲルマン部族のケルスキ族の本拠があったとされる、オストヴェストファーレン・リッペ地方Detmoldデトモルト(450年の間、リッペ侯国の宮廷都市であった。現在は大学都市)郊外に、ゲルマンの勝利を記念した、巨大な記念像が設置された経緯がある。
写真はDetmoldデトモルト:Hermannsdenkmalヘルマンデンクマル・ドイツのシンボルであるGermaniaゲルマニア(女神)・・・トイトブルクの戦いの1900年祭(1909年)当時のもの
【“Deutsche Einigkeit、Meine Staerke;Meine Staerke、Deutschlands Macht:ドイツの統一は我が強さ、我が強さはドイツの力”】の文字が左上に見える。 -
紀元後9年、ゲルマン民族の存亡をかけた戦いはウァルスの戦い(Varusschlacht)と称され、ローマの3軍団を全滅させたゲルマンの英雄は、ヘルマンと言い、まだ30代の若さでした。
この戦いの勝利はライン川右側のローマ人による支配を終わらせました。
へルマンの記念碑は高さ30mの釣鐘形をした台座の上に、青銅のヘルマン像(20mの身長)が立っている。下から見上げると、威風堂々とした姿で、トイトブルグの森を睥睨しています。台座の上部は展望台になっていて、二人で螺旋階段を登ってみました。
そこからは、春の訪れを見せている眼下一帯の田園風景やトイトブルグの森が美しい広がりを見せている。
この像は1838~1875年にドイツ人の建築家バンデルにより作られ、私財をつぎ込んで完成させたものと言われている。
1840年代からドイツに吹き荒れたナショナリズムが如何に勢いのあったものだったか、想像できます。
ナポレオン戦争に勝ち、1871年皇帝ヴィルヘルム1世によるドイツ帝国(ドイツ国民の神聖ローマ帝国を第一帝国とすると、これは第二帝国となる。そして、よく言われるヒトラーの第三帝国に繋がります)が成立して、ドイツが統一された事へのドイツ民族の思い入れを、この像に見ることが出来る。
ヘルマンの像は翼のついた兜をかぶり、左手に盾、右に7mの剣を持って、その剣を天に高々とかかげている。
写真はTeutoburg トイトブルクの森の戦い・トイトブルク森の戦いで奮戦するヘルマン(=アルミニウス、中央馬上の赤いマントの男)の絵 -
<(お茶):Gasthaus Varusschlachtガストハウス・ウァルスの戦い>
15:00~15:30
D-49565Bramsche 、Vennerstarasse 69
https://www.kalkriese-varusschlacht.de/angebot/gasthaus/
カルクリーゼ博物館に隣接したホテル・レストランがあり、空腹と歩き疲れたので、夕食までの間に軽い食事をとった。
暖かいココアEuro3.3X2=6.6、ローマ軍団の兵士が食べた?肉汁(スープの中に肉玉があった)Euro5.9、3Kugel(3個入り)ミックスアイスEuro4.9にチップでEuro20(2,500円)でした。
妙な組み合わせだが、最後はアイスが食べたくなった。
写真はカルクリーゼ博物館・スープ、アイス、カカオの注文品 -
カルクリーゼ博物館を15時半出て、B218をさらに東にBad Essenバート・エッセンに向かう。途中、Nettoネットーというスーパーマーケットが目に入り、いつものVioガス無し10本購入した(Euro10.08)。車に積み込んで一安心。
バート・エッセンから山中に登って行き、21 kmでAltes Berghausアルテス ベルクハウスの看板を見つけた。分かりやすく、ホテル前の無料駐車場に到着したのは16:30です。
近くに保養と病院を兼ねたような建物があり、患者と介護人が散歩していたから、この一帯の様子が分かった。
早速チェックインすると、足が悪いのか、片足を引きずるホテルオーナーと思われる老人が笑顔で迎えた。
尚、バート・エッセンの町(木組みの家並み街道に属す)から北2kmに“オスナブリュック地方の真珠”と称されるSchloss Huennefeldヒュンネフェルト城がある。古城ホテルの2部屋があると云うので予約にトライしたが返事が遅かった為、断念した。
アルテス ベルクハウスから7kmの距離にあるので、宿泊した翌日、午前10時半頃に訪ねた。城門は未だ閉まっていたので、見学も諦めたのだが。
写真はBad Essenの地図・・・中央が町の中心、左上にヒュンネフェルト城、ホテルのアルテス ベルクハウスは左下の赤丸のあたり。 -
*9月21日(土)~9月22日(日)Bad Essen バート・エッセン(1泊2日)
<Altes Berghausアルテス ベルクハウス>
D-49152 Bad Essen 、Empterweg2
Tel:+49(0)5472-1474 、Fax:- 958739
https://altesberghaus.de/
?星・全17室、1階No.2号室DZ Euro70+朝食5x2=80(朝食込み)=9,756円、現金払い(Booking.Com)の1泊予約であったが、夕食を食べた代金も一緒に払った所為か、Visaで支払いができた。
チェックイン14時半、チェックアウト10時。
写真は山岳地帯にある木組みのホテル アルテス ベルクハウス -
写真は山岳地帯にある木組みのホテル アルテス ベルクハウス・テラスレストラン
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写真はわざわざ他地域から移築したのだとホテル オーナーが言っていた。
倉庫のような建物は独特の屋根も感じが良い。 -
オスナブリュックの東25kmの山岳地帯にある伝統の木組み建築のガストハウスで、ホテル内も歴史を感じさせる家具、食器、動かぬ!柱時計などがたくさんあって興味深かった。
写真は山岳地帯にある木組みのホテル アルテス ベルクハウスのレストラン棟 -
イチオシ
レストラン棟右手の通路を行くと2階建ての宿泊棟があり、表庭園側に面した一番奥の部屋が2号室でした。ただ、日が陰ると、初秋の山岳地帯にあるだけに室内は寒くなり、暖房が欲しくなった。
TVも不調で映らず、室内も改修要の箇所も見られた。安いホテルだけに仕方がないのだが。
お客は6人ぐらいで、経営も大変だろうとちょっと同情した。
敷地内に事前予約不要の専用駐車場あり。
レストランの郷土料理は美味し。
写真は山岳地帯にある木組みのホテル アルテス ベルクハウス・宿泊棟 -
写真はアルテス ベルクハウスの1階No.2号室DZ
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<Booking.Comへの評価>
5.2、普通
木組みの家のホテルに宿泊出来たのは良かった。
1)山の中にある伝統の木組み建築のガストハウスが好ましい。
2)現金払いのみと聞いていたが、クレジット決済もできた。 但し、若干の手数料上乗せで支払ったが。
写真は1階No.2号室DZ -
写真は1階No.2号室DZ
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写真は1階No.2号室DZ・・・窓の外は森だ。
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写真はホテル アルテス ベルクハウスのレストラン・・・大きいだけに催しに使用しているのだろう。
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ホテルのオーナーは夕食と翌日の朝食時間の希望を聞いてきた。
明日は日曜日なので、出来れば遅めという事で、朝食は9時にした。
その分、夕食も早めにして18時にレストランへ出かけた。
写真はホテル アルテス ベルクハウスの朝食用レストラン。 -
<(夕食):Altes Berghausアルテス ベルクハウス>
18:00~19:30
食事は私共2人だけかと思っていたら、後から数人夕食に来たので、こちらも気分も良い。さて中年の女性がメニューを持って、心配げに席に着て注文を聞く。日本人(東洋人)と声を交わす機会も少ないのだろう。
まず地ビールを注文すると、安心の顔になった。
夕食代はチップEuro3.4を加えて合計Euro50=6,098円
写真はホテル アルテス ベルクハウスのメインレストラン:地ビールで乾杯 -
飲み物は最初に地ビールPott’s Landbier von Fass 0.2lX2XEuro1.8=3.6 、後でGlas Wein(白)0.2LX2XEuro4.5=9を飲んだ。
写真はホテルのメインレストラン:つなぎにシェフ(オーナーの奥さん・・・とても愛想の良い方でした)から御挨拶 -
二人ともスープは秋の必須品・自家製カボチャのスープで、Moehrenメーレン(人参)とショウガ、バケット入り。
写真はホテルのメインレストラン:自家製カボチャのスープ、いつもながら美味しい。 -
家内のメインはローストポークに地ビールソースかけ、ローストポテトとサラダ添え(Euro12.5)。
写真はホテルのメインレストラン:家内用は量も半端でない野菜サラダ -
家内の分を一寸分けてもらって味見もした。こちらの方が私の好みだったようだ。
写真はホテルのメインレストラン:家内のメインはローストポークに地ビールソースかけ、 -
イチオシ
私のメインは「Forstmeistertoastフォルストマイスター(森林監督官)トースト」の名前、森の恵みという感じ、豚肉の背肉ステーキ、かき卵に新鮮なアンズダケ載せ、サラダ、トースト添え(Euro14.5)。
写真はホテルのメインレストラン:豚肉の背肉ステーキにかき卵に新鮮なアンズダケ載せ -
いずれも予想以上に良く手の込んだ料理で美味しかったが、ドイツの郷土料理らしい量があって、二人とも全部は食べきれず。
厨房から親し気に手を振っていた奥様シェフに申し訳なかった。
写真はホテルのメインレストラン:白ワインで締めたが疲れた顔だ。
*明日はOsnabrueckオスナブリュックである。
何で今まで訪れる事が無かったのが不思議で、今回初めての訪れとなる。
カール大帝によって創設されたオスナブリュック司教区の司教座都市であり、ハンザ同盟のヴェストファーレン地域の中心都市であった。
オスナブリュックの町は1泊ではもったいない町だった。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2020/02/08 06:52:11
- 豊富な資料 詳しい解説
- jjijidarumaさん おはようございます。
精力的に旅行記アップ、いつものことながら感心しています。
博物館のミニチュアによる、兵士の戦いの様子が手に取るようにわかりました。
加えてjjijidarumaさんの解説が素晴らしく、歴史小説を読んでいる気分です。
漠然と戦闘シーンを想像していましたが、具体的に見ることができました、映画だけでは情報が偏りますね。
今後もよろしくお願いします。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2020/02/08 14:40:37
- Re: 豊富な資料 詳しい解説
- pedaruさん、
今日は。いつもありがとうございます。
旅行記の完了が12月半ばまでかかり、こちらの掲載が遅れました。
旅の記録となると、あれもこれもと書き込みますが、はて?何の事と
思う事もやはり多いですね。日本に帰国してから、この疑問を
調べるのも面白いのですが・・・。
年齢と共に、足腰の衰えは否定できず、この日は前半の
クロッペンブルクの博物館村で体力を使いまして、ローマ軍団の
見物も少々集中度に欠けたようです。
それでも二つの「トイトブルクの森」を見て、ドイツ人が意外に
侵略者であったローマ帝国に親しみ、敬意を持っているのが
何となく理解できたのは私にとって良かったと思います。
それにしても展望台から見るトイトブルクの森は広大で、森の民
ゲルマン(ドイツ)人の声をちょっと聞いたような気がしました。
コメントありがとうございました。
jijidaruma
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