2019/09/18 - 2019/10/03
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jijidarumaさん
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
写真はドイツ木組み建築街道の道標
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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9月22日(日) 41km、快晴・17℃~23℃
起床7:00、朝食9:00~9:30、ホテル出発10:00、=>K410・ K424 7km バート・エッセン・Schloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城10:25~10:40=>L84・L85・K411・K316 34 km Osnabrueckオスナブリュック11:20到着、Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラに11:40、市内観光12:00~16:30
写真はオスナブリュックの位置図 -
*起床7:00とドイツに来ると早い。朝食は9:00~9:30、私共と男女一人ずつの宿泊客と見た目にも少ない朝食をとる。早めに出発した宿泊客もいた様子だ。
写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウスの宿泊棟 -
朝食はいつものように30分で済ます。普段のホテルとは違い、宿泊客が少ないだけに並ぶ朝食の内容は見た目にも少ないが、私共には十分なものだ。
写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウスの朝食 -
写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:朝食の間に時代物の動かぬ!柱時計。時計は壊れているらしいが、様になっている。
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写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:こちらも時代物の食器棚はなかなか良い感じで、日本に持って帰っても良いくらいだ。
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写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:食器飾り棚
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写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:朝食です。
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写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:自分たちの部屋にも、ちょっと暗い中を行く。
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写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:安くて好ましいドイツのWesterwaldヴェスターヴァルトの焼き物(陶器)があった。
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ホテルオーナーに送られて出発したのは10:00です。
写真はAltes Berghausアルテス ベルクハウス:外周道路より庭園と右手の1階No.2号室を写す。 -
イチオシ
バート・エッセン(人口15.8千人、保養地)はその中心部が「ドイツ木組みの家街道」上にあり、道を走っていても見事な木組みの家が目に入って来る。
写真はドイツ木組み建築街道の道標 -
イチオシ
昨日もそれを感じていたので、車を道路際の駐車場に入れて、二、三の家を写真に撮った。
今日以降でこれに似た家を見なかったから、この瞬間を大事にして良かった。
写真はドイツ木組みの家は好ましい。 -
イチオシ
写真はドイツ木組みの家が好ましいのは、今も居住している家だからだ。
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写真はドイツ木組みの倉庫:鬚文字と模様がきれいだ。
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写真はドイツ木組みの倉庫:鬚文字が読めないが、1795年築は分かる。
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バート・エッセンは小さな保養地であるが、木組みの家並みが残った、好ましい町である。
時間があったら、じっくり街巡りをしたいところだが、オスナブリュックという歴史一杯の町観光が控えていたので先を急いでしまった。
写真はBad Essen:Alte_Dorfstrasse村通り・Bergstrasse山岳通り1900年頃のバート・エッセンを見つけた。 -
山岳地帯から平地に下り、7km行くと長い並木道に至る。
それを奥まで走ると左に駐車場があり、訪ねてみたいSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城で見えてきた。
写真は古城ホテル ヒュンネフェルト城に向かう長い並木道・・・城への道にはこうした長い一本道が多い。 -
写真は訪ねてみたいSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城の俯瞰・・・水城である。中央が本丸、上に一の丸、円型塔などが見える。
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残念ながら、鉄の門は締まり、二匹の犬が門番をしている。
写真は訪ねてみたいSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城 -
年輩の女性が遠くでガルテン(庭園)の整備をしていた。
見学はできないようだったから、私共の後に数人のグループの方が来られたものの、あれっという顔をして、彼らは古城周辺一周の散歩に行ってしまった。
写真は訪ねてみたいSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城 -
<参考:Schloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト>
10:25~10:40
D-49152 Bad Essen
Tel:49-5472-4428 http://www.schloss-huennefeld.de/
この古城ホテルはGarni(B&B)で全3室しかないプチホテルである。
3室は1. Efeuzimmer 2. Weinlaubzimmer 3. Hortensienzimmer と称する。駐車場あり。
HPから希望したのは2. Weinlaubzimmer = Euro65X2X2泊=260(朝食込み・現金払い)。このホテルからの返事が遅かった為、昨夜宿泊したアルテス ベルクハウスを予約してしまった。値段は部屋が立派だったので大きく違ったが。
写真はSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城:外観 -
“オスナブリュック地方の真珠”と称されるヒュンネフェルト城はバート・エッセンの町から北東2kmにあり、オスナブリュックからは北東30kmの距離になる。
従来、Cafe Alte Renteiカフェ・アルテ・レンタイにて、昼間はカフェを経営していたが、その2階に3室を設け、 Bed & Breakfastを2000年5月からオープンした。
527ヘクタールの広大の土地があり、その半分は森林地帯になっていて、現在もBent Freiherr von dem Bussche-Huennefeldベント・ブッシェ・ヒュンネフェルト男爵家の私有であり、一家は本城館に居住している。
写真はSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城:ユニークな円型塔と宿泊棟(右) -
<ヒュンネフェルト城の歴史>
歴史書に初めてその名が出てくるのは1146年の事だが、13世紀には水城があったと云う。
1447年Albert von Bussche-Ippenburgアルバート・ブッシェ・イッペンブルクが城主となった。(近くにSchloss Ippenburg イッペンブルク城もあり、600年前から今に至るまで、ブッシェ・イッペンブルク家の居城。現在は英国風の庭園祭りで知られている)
1710年にはフランス風の城館に変り、1800年にはバロック風庭園が出来上がった。
写真はSchloss Huennefeld古城ホテル ヒュンネフェルト城:宿泊棟の寝室① -
ヒュンネフェルト城を遠望して、今日の観光・宿泊地オスナブリュックに11:20到着し、ホテルを探した。
写真はOsnabrueckオスナブリュック:1633年の城塞都市オスナブリュック古地図 -
写真はWappen_Osnabrueckオスナブリュックの紋章
*オスナブリュック市の紋章は、銀地に6本スポークの静止した黒い車輪が描かれている。
オスナブリュック司教領の意匠としての車輪は、早くも13世紀から印章のデザインとして知られており、歴史とともに様々な様式に改編されてきた。
車輪は神の馬車 の一部を意味しており、時代につれ教会や使徒の徴として用いられた。13世紀の紋章には車輪の他に聖堂の守護聖人として聖ペテロが描かれていたが、後に車輪だけが描かれるようになった。 -
旧市街によくある一方通行の道は入り組んだ場所にあったので、ナビが正しく先導せず、2度レストラン関係の方に聞く。
写真はOsnabrueck:1900年のオスナブリュックの絵はがき -
イチオシ
言われた通りに進むと、Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラの裏手に出た。
このホテルは市庁舎側の入口はレストランの入口にしていて、裏手がホテルの入口となっている。
レセプションもあり、11:40に早目のチェックインをさせて頂いた。
車を敷地内にある屋根付き駐車場に置き、車の鍵をレセプションに預け、荷物もホテルの部屋内に入れてから、市内観光に出た。
写真はHaus Walhalla, 1690 年築、Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラRomantik Hotel Walhalla ホテル
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*9月22日(日)~9月23日(月)Osnabrueckオスナブリュック(1泊2日)
<Romantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ>
D-49074 Osnabrueck 、Bierstrasse 24
Tel:+49(0)541 3491-0 、Fax:- 144
https://www.hotel-walhalla.de/
4星・全69室、2階のNo.111号室は通りに面した角部屋で窓からのぞくと、一方はホテル正面のレストラン入口を見下し、もう一方の窓からは隣の市庁舎の壁が見えた。
料金はEuro114+駐車料14=128(朝食込み:15,534円)ですが、町一番の美しい木組みの建物で、モダンな浴室、上質な家具備品、ミニバーが備わる機能的な施設、マルクト広場に近接する所にある事からも、室料金は値段的にたいへん安いと思う。
Booking.Comで1泊予約した。チェックイン15時、チェックアウト12時。
このホテルは市庁舎側の入口はレストランの入口にしていて、裏手がホテルの入口になる。敷地内に事前予約不要の有料の専用駐車場あり(Euro 14/日)。
各種スパ施設、サマーテラスのあるレストランWalhallaヴァルハラは郷土料理を主とする。
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:2階のNo.111号室 -
ホテルの歴史は1690年にワイン酒房ができ、1820年にはガストホフの営業を始め、宿泊も可能となった。創業325年以上となる、
ドイツ伝統の古い木組み建築のホテルという事で、チベット仏教の高僧Dalai Lamaダライ・ラマや、5人の王侯、9人の大統領、それにWilhelm Lyraヴィルヘルム・ライラ( Der Mai ist gekommen!5月がやって来た!)の作曲家がこのホテルに滞在されたと云う。
ホテルはオスナブリュックの旧市街の中心に位置し、長い商人たちの家並みが続く通りでも最も古い歴史を誇る。オスナブリュック劇場まで250mの距離、オスナブリュック城に徒歩10 分、市街地北部のヘーガー門や聖ペーター聖堂まで徒歩5分と便利だ。
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:2階のNo.111号室 -
歴史的も三十年戦争の終結となったヴェストファーレン条約が締結された市庁舎、聖マリエン教会、シュタットヴァーゲ(市計量所)、レマルク平和センター、マルクト広場と旧市街が広がり、1813年~1814年に建設されたテンゲ邸をはじめとする古典主義様式の建物が多くある。
旧市街にはロココ様式の建物や、ホテル ヴァルハラを含む多くの木組み建築が遺っている。
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:2階のNo.111号室
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Booking.Comへの評価: 7.9 、良い
①伝統の木組み建築のホテルは大いに気に入りました。 旧市街・市庁舎の傍で大変便利な場所にある。 レストランも美味しく、雰囲気があり、且つスタッフが気の利く方で その対応に満足した。
② 4星なのにお水のサービスが無かった。 -
イチオシ
<Osnabrueckオスナブリュック>
12:00~16:30
人口16万人(内25千人が学生)を超えるオスナブリュックはハノーファー、ブラウンシュヴァイク、同規模のオルデンブルクに次ぐニーダーザクセン州第4の都市である。
珍しいことにドイツで唯一の自然公園Natur- und Geopark TERRA.vita(Naturpark Noerdlicher Teutoburger Wald-Wiehengebirgeヴィーエン山地)内にある大都市でもある。
また、オスナブリュック地方の中心である。
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:レストラン側の入口・・・この右手に市庁舎があるという便利な場所だ。
創業325年を迎えた古い木組み建築のホテル、私共の部屋No.111号室は正面2階の右端 -
歴史に富んだ都市の創設には古い交易路が交わる地点に面していたことが寄与し、780年にはカール大帝によって創設されたオスナブリュック司教区の司教座都市でもあった。
中世にはオスナブリュックは1412年から1669年まで、ハンザ同盟のヴェストファーレン地域の中心都市であった。
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:ホテルのPortal玄関の装飾 -
写真はRomantik Hotel Walhallaロマンチック ホテル ヴァルハラ:レストラン側の入口にはロマンチック ホテル のメンバーである表示がある。
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①Friedensstadt平和都市と市庁舎の「Friedenssaal平和の間」:
12:30~13:00
オスナブリュックは約 50 km 離れたMuensterミュンスターとともに1648年のヴェストファーレン条約締結の地(新旧キリスト教徒の戦い、三十年戦争の平和条約)としても知られている。
ミュンスターの平和の間は2016年の10月に訪れていたから、今回はホテル ヴァルハラから直ぐのオスナブリュック市庁舎を訪ねたいと思った。
写真はオスナブリュックのRathaus市庁舎:マルクト広場(三角形のマルクト広場は中世の印象をよく示している)側から見る正面 -
市庁舎の左右に付いた階段を登った入口前から上を見上げると、上部の壁に町の創設者カール大帝の像が重々しくあり、更に左右にもそうそうたる顔ぶれの歴史上の8つの人物像を見ることができる。つまり合計9つの像が壁に鎮座しているのだ。
右から:
Ludwig der Bayerバイエルンのルートヴィヒ(神聖ローマ皇帝・バイエルン公)、
Maximilian I.マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝・マクシミリアン大帝・・・中世最後の騎士と謳われた)、
Arnulfアルヌルフ(西ローマ皇帝・東フランク王)、
Friedrich I. Barbarossaフリードリヒ1世バルバロッサ(神聖ローマ皇帝・赤髭王)、
左へ:
Koenig von Preussen Wilhelm I.ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝・プロイセン王)、
Rudolf von Habsburgルドルフ・フォン・ハプスブルク1世(神聖ローマ皇帝・ドイツ王)、
Friedrich II.フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝・ホーエンシュタウフェン朝)、
Kaiser Sigismund皇帝ジギスムント(神聖ローマ皇帝・ハンガリー王)
の像がある。
*カール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)はフランク王(在位:768年 - 814年)にしてローマ皇帝(在位:800年 - 814年)。
初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。 -
これらの9つの像はドイツ史を飾る皇帝、王たちであり、19世紀*にドイツ皇帝・プロイセン王家から寄贈された。それもあって、しっかり皇帝ヴィルヘルム1世も9体の一つに入っている。
9つの像は「Kaiser-Plastikenカイザーの彫刻群」と言われているそうだ。
*ドイツ統一はホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世をドイツ帝国の皇帝として戴くことで統一が成った(1871年)が、その統一を祝して像が作られたのだろう。
写真はRathaus市庁舎:入口上部に見られるKarl Grosse町の創設者カール大帝の像
写真はRathaus市庁舎:右から1つ目、Ludwig der Bayerバイエルンのルートヴィヒ(神聖ローマ皇帝・バイエルン公)の像
*ルートヴィヒ4世(Ludwig IV. der Bayer, 1282年 - 1347年10月11日)は、ヴィッテルスバッハ家出身の神聖ローマ帝国のローマ王(ドイツ王)(在位:1314年 - 1347年)、ローマ皇帝(在位:1328年 - 1347年)。
上バイエルン公(在位:1294年 - 1347年)、下バイエルン公(在位:1340年 - 1347年)、ホラント伯、エノー伯、ゼーラント伯(在位:1345年 - 1347年)も兼ねていた。 -
写真はRathaus市庁舎:右から2つ目、Maximilian I.マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝・マクシミリアン大帝の像
*マクシミリアン1世(ドイツ語: Maximilian I., 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(1508年 - 1519年)、ローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)、オーストリア大公。
自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝(Maximilian der Grosse)と称される。
また武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、「中世最後の騎士」とも謳われる。 -
写真はRathaus市庁舎:右から3つ目、Arnulfアルヌルフ(西ローマ皇帝・東フランク王)の像
*アルヌルフ(ドイツ語:Arnulf von Kaernten, 850年頃 - 899年12月8日)は東フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:887年 - 899年)、のち西ローマ皇帝を兼ねた(在位:896年 - 899年)。 -
写真はRathaus市庁舎:右から4つ目、Friedrich I. Barbarossaフリードリヒ1世バルバロッサの像
*フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)はローマ王(在位:1152年 - 1190年)及びイタリア王(在位:1155年 - 1190年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1155年 - 1190年)。1178年にブルグント王としても戴冠。ホーエンシュタウフェン朝第2代の王で初代皇帝。 -
写真はRathaus市庁舎:左から4つ目、Koenig von Preussen Wilhelm I.プロイセン王ヴィルヘルム1世の像
*ヴィルヘルム1世(Wilhelm I. 1797年3月22日 - 1888年3月9日)は、第7代プロイセン王(在位:1861年1月2日 - 1888年3月9日)、北ドイツ連邦主席(在任:1867年7月1日 - 1871年1月18日)、初代ドイツ皇帝(在位:1871年1月18日 - 1888年3月9日)。 -
写真はRathaus市庁舎:左から3つ目、Rudolf von Habsburgルドルフ・フォン・ハプスブルク1世
*ルドルフ1世(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、1218年5月1日 - 1291年7月15日)は、ハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主(ローマ王、在位:1273年 - 1291年)。(ハプスブルク伯としては、ルドルフ4世) -
写真はRathaus市庁舎:左から2つ目、Friedrich II.フリードリヒ2世の像
*フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は中世西欧のローマ皇帝(在位:1220年 - 1250年12月13日)。 -
写真はRathaus市庁舎:左から一つ目、Kaiser Sigismund皇帝ジギスムントの像
*ジギスムント(Sigismund, 1368年2月15日 - 1437年12月9日[1])は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝。
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さて、三十年戦争は新教派優勢で終わり、1648年北ドイツのミュンスター及びオスナブリュックで、66ヶ国によりヴェストファリア条約が其々の市庁舎(古くは小さい庁舎で1244年の建設だが、1512年にゴシック様式に改築され、現在の形に至る)で調印された。
この事からオスナブリュックは「Friedensstadt平和都市」を称している。
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:扉のノブグリップ
<参考:30年戦争(1618~48年)とは?>
100年前のマルチン・ルターの宗教改革に始まった、新旧キリスト教徒の対立が17世紀に入るとドイツ国内では争いが先鋭化した。
新旧キリスト教徒の宗教戦争は1618年パプスブルグ家がボヘミア(現チェコ)の新教徒を弾圧した事に端を発する。
<旧教派>のオーストリア/スペイン・パプスブルグ家と<新教派>のフランス・ブルボン王家が政治的・現実的観点から、ドイツ国内の其々に荷担し、更に新教派に当時最強を誇ったスウェーデン王が介入するなど、国際紛争になった。
この戦争は新教派優勢で終わり、1648年北ドイツのMuensterミュンスター・Osnabrueckオスナブリュックで66カ国によりヴェストファリア条約が調印された。 -
この条約はオスナブリュックではプロテスタント勢力の、ミュンスターではカトリック勢力の交渉が行われ、講和文書に署名をした。
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:平和会議の使節や領主たち42人の肖像画が掲げられている -
これはプロテスタントとカトリックの指導者がお互いに顔を合わせることを拒否したため、2つの場所が必要だったと云われている。
後期ゴシック様式の市庁舎内の一室「Friedenssaal平和の間」に平和会議の使節や領主たち42人の肖像画が掲げられている。
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:平和会議の使節や領主たち42人の肖像画が掲げられている -
興味深いことに、三十年戦争の当事者・支配者であった3人の肖像画、Koenigin Christinaスウェーデン女王クリスティーナ(フィランド大公:プロテスタント勢力の主柱)、Koenig Ludwig XIVフランス王ルイ14世(カトリック国でありながらプロテスタント側で参戦)と、Kaiser Ferdinand III.ドイツ皇帝フェルディナント3世(神聖ローマ皇帝:カトリック勢力の中心は皇帝軍)があります。
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:Koenigin Christinaスウェーデン女王クリスティーナ
*クリスティーナ(スウェーデン語: Kristina, 1626年12月8日(グレゴリオ暦12月18日) - 1689年4月19日)は17世紀のヴァーサ朝スウェーデンの女王(在位:1632年 - 1654年)。
後世の歴史家は、クリスティーナを「バロックの女王」と呼んだ。スウェーデン普遍主義に則り、フィンランド大公を兼ねた最後のヴァーサ家のスウェーデン君主である。若くして退位し直後にカトリックに改宗している。 -
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:カトリック国でありながらプロテスタント側で参戦したKoenig Ludwig XIVフランス王ルイ14世
*ルイ14世(仏: Louis XIV、1638年9月5日 - 1715年9月1日)は、ブルボン朝第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)である。
王朝の最盛期を築き、太陽王(Roi-Soleil)と呼ばれた。 -
写真はオスナブリュック市庁舎:Kaiser Ferdinand III.ドイツ皇帝フェルディナント3世(神聖ローマ皇帝:カトリック勢力の中心は皇帝軍)
*フェルディナント3世(Ferdinand III., 1608年7月13日 - 1657年4月2日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1637年 - 1657年)、ハンガリー王(在位:1625年 - 1657年)、ボヘミア王(在位:1627年 - 1646年)。
父の存命中からハンガリー王位、ボヘミア王位を継いでその治世を助けた。三十年戦争継続中の1634年、皇帝軍司令官ヴァレンシュタインが父によって暗殺された後を受けて、皇帝軍の指揮権を委ねられた。
三十年戦争後のフェルディナント3世はヴェストファーレン条約の履行に尽力した。 -
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:この写真の上部に三十年戦争の当事者・支配者であった3人の肖像画、スウェーデン女王クリスティーナ(右)、フランス王ルイ14世(左)と、ドイツ皇帝フェルディナント3世(中央)があります。
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平和の間で見る肖像画は多くて、特に区別して見ることもなく終わるのだが、ミュンスターの平和の間に比べると、全体にプロテスタントらしく、簡素だった。
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:平和会議の使節や領主たち42人の肖像画が掲げられている -
写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:
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写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:
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写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:
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写真はオスナブリュック市庁舎の平和の間:
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写真はオスナブリュック市庁舎:オスナブリュックの模型
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写真はオスナブリュック市庁舎:オスナブリュックの模型
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②旧市街の中心にあるマルクト広場:
旧市街の入口Heger Torヘーガー門(かつての要塞都市の防衛施設)とDom St. Peterペーター聖堂(ホテル ヴァルハラから徒歩5分)との間に旧市街が広がり、市庁舎や聖マリエン教会がある三角形のマルクト広場は中世の印象をよく示している。
1813年~1814年に建設されたテンゲ邸をはじめとする古典主義様式の建物が多くある。
また、旧市街にはロココ様式の建物や宿泊ホテルのヴァルハラ(1690年)を筆頭に多くの木組み建築が遺っている。
1)Stadtwaageシュタットヴァーゲ(市計量所):
市庁舎と聖マリエン教会の間にある建物(1532年)、かつて商人たちは自分たちの扱う商品をここで計測するのが義務だった。
写真はオスナブリュック:左がStadtwaageシュタットヴァーゲ(市計量所)、右がKirche St. Marien聖マリエン教会 -
2)St.Marienkirche聖マリエン教会:
市庁舎見学の後、教会の高さ79 mの塔を見上げて、190段の階段を登る気もなく、教会内に入った。
教会内では13世紀の勝利の十字架、1510年から1515年にオランダのアントワープで製作された主祭壇を見るべきだろう。
写真はオスナブリュック:聖マリエン教会の主祭壇 -
写真はオスナブリュック:聖マリエン教会の聖母子像
・・・・・
次章は旧市街の中心にあるマルクト広場から「石造建築の首都」、Dom St. Peterペーター聖堂とDomhofドームホーフ(聖堂広場)、Schlossオスナブリュック城(旧大司教城館)とゲシュタポのこと、洒落た木組み建築などを見る。
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この旅行記へのコメント (2)
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- Rolleiguyさん 2020/02/14 15:23:35
- オスナブリュック
- jiidarumaさん、こんにちは。
オスナブリュックには一度行きたいと思いながらまだ果たしていません。
市庁舎にあるという皇帝たちの像も見てみたいと思います。
丁度今、塩野七生の「皇帝フリードリッヒII世の生涯」を読んでいますが、作者の
研究と調査を基にした底知れぬほどの知識と、それを作品にまとめ上げる力に驚嘆を禁じ得ません。高校の無味乾燥な西洋史の知識などというものは、価値を論ずることさえむなしくなるほどですが、歴史に興味を持つきっかけにはなるでしょう。
小生の限られた知識ではありますが、jijidarumaさんの写真の場所に行ければ、知識に少しは肉を付けることへの励みになるのではないかとも思い、元気なうちに行って見たいものだと思います。後半も楽しみにしています。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2020/02/14 17:40:48
- Re: オスナブリュック
- Rolleiguyさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
三十年戦争の最後を飾ったヴェストファーレン条約の地を見たいと、初めて訪れたオスナブリュックでしたから、主眼は市庁舎内の平和の間でした。
が、市庁舎壁面を飾る、ドイツ統一を成し遂げた皇帝ヴィルヘルム1世ゆかりの「Kaiser-Plastikenカイザーの彫刻群」にはビックリしました。
よく知らずに行ったので、たいへん印象深いものでした。
9つの像はいずれも生き生きとして、見事なもので、ドイツ史を飾る皇帝、王たちを纏めてみる機会はそうないので良かったです。
マネッセ写本 (Codex Manesse)で描かれた ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)の顔を以前其れで見ていましたが、皇帝フリードリッヒII世はそのハインリヒ6世の息子でした。
フリードリッヒII世はなにやら時代が早く生まれたという評価があるほど英明な君主であったようですね。銅像の顔を見るとそんな様子が見うけられます。
私はドイツ人の好きなフリードリヒ1世バルバロッサの像が好ましく思ったのですよ(笑)。
ではまた次章で。
jijidaruma
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