2019/09/18 - 2019/10/03
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<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
<メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
10月03日 (木) メルヘン街道と木組み建築街道の旅・帰国の御挨拶
9月18日(水)①5年ぶりのブレーメンにクタクタで到着。
9月19日(木)②友人夫妻と行くブレーマーハーフェン観光。
9月19日(木)③ブレーメンの名物店“猫のカフェ”で夕食。
9月20日(金)④オルデンブルク大公家の夏の別荘ラシュテーデ城を訪ねる。
9月20日(金)⑤オルデンブルク大公家の居城は時代が変わって今は博物館
9月21日(土)⑥クロッペンブルク博物館村に見事な大農家がある。
9月21日(土)⑦ローマ軍団とゲルマンの古戦場”トイトブルクの森”
9月22日(日)⑧平和条約締結の町オスナブリュックは歴史が一杯。
9月22日(日)⑨オスナブリュックの石造建築や面白い立像のある泉。
9月22日(日)⑩オスナブリュック警察はナチス国家でどのような役割を果たしたのか?
9月23日(月)⑪美しい木組みの家並みが見られるミンデンとリンテルン旧市街
9月23日(月)⑫石造破風や木組みの家並み豊かなレムゴー、この旅初の古城ホテル ブロムベルク城に2泊。
9月24日(火)⑬実に壮麗なリッペ侯国のデトモルト宮殿を訪ねる。
写真はリッペ侯国のデトモルト宮殿
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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9月24日(火) 61km 、朝方霧・曇りのち晴れ、13℃~17℃(ブロムベルク近郊の観光)
起床6:10、朝食8:00~8:30、Blombergブロムベルクのホテルを出発9:30 =>B1・B239 20 km Detmoldデトモルト10:00~13:40
*起床6:10、朝方は少し霧も出た。朝食(8:00~8:30)は一の丸と本館の間に庭側に大きなガラス張りで陽光を入れた明るい朝食の間で頂く。
写真は古城ホテル ブロンベルク城・朝食の間 -
写真は古城ホテル ブロンベルク城・朝食の間
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・一の丸(ホテル棟)の庭
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・朝食の間の上を見上げると。
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・一の丸(ホテル棟)の裏手にも駐車場が。
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・一の丸(ホテル棟)
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・一の丸(ホテル棟)
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殆ど昨日は城内を見ていなかったので、誰もいないレストランなど城内見学をした。
写真は古城ホテル ブロンベルク城:暖炉のあるレストラン・昨夜の席。 -
写真は暖炉のあるレストラン・昨夜の席の左手。
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写真は暖炉のあるレストラン・昨夜の席の反対側の暖炉。
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イチオシ
写真は暖炉のあるレストラン・昨夜の席の左手奥にある席は外が見渡せる。次回はここに座って食べよう。
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・本館の左の宿泊棟
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念願の古城ホテル ブロンベルク城に2泊した。今日は近郊を巡る計画だ。
写真は古城ホテル ブロンベルク城・本館のレセプションは右に入口がある。ブルクホテル ブロムベルグ ホテル
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・本館の横にあるレストラン棟
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写真は古城ホテル ブロンベルク城・本館には張り出し窓がある。
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ブロムベルクの古城ホテルを出発したのは9:30で、20 kmのDetmoldデトモルトは国道を走る道で10時に着いた。
写真は古城ホテル ブロムベルク城・狭い城門を抜けて外に。 -
今日の観光予定もたくさんあるが、特にデトモルト宮殿やシュヴァーレンベルク城はまだ一度も見た事が無く、楽しみである。
写真はDetmoldデトモルト:Schloss_Detmoldデトモルト宮殿の俯瞰
中央にリッペ侯国デトモルト宮殿、その右上は劇場、右下に市庁舎、マルクト広場 -
<Detmoldデトモルト>
10:00~13:40 パークハウスの駐車料金はEuro4.5
デトモルトはノルトライン・ヴェストファーレン州リッペ郡(オストヴェストファーレン・リッペ地方)の人口約 73千人の町である。
Bielefeldビーレフェルトの東に30km、ハノーファーから南西に100kmの距離にある。
写真はDetmoldデトモルト:Schloss-detmoldデトモルト宮殿の古い絵・・かつての水城を見せている。 -
1468年から1918年までリッペ家、リッペ伯およびリッペ侯爵領の宮廷都市であり続けた。今は大学都市でもある。
写真はDetmoldデトモルト:Stadtplan1660年デトモルトの市街地図・・・左上に宮殿が見え、要塞都市の様子を示している。 -
イチオシ
<Fuerstliches Residenzschloss Detmoldリッペ侯国デトモルト宮殿>
11:00~12:00
D-32756 Detmold、Schlosspl.1、
http://www.schloss-detmold.de/
「Fuerstentum Lippeリッペ侯国のデトモルト居城」とも呼ばれるデトモルト城は旧市街の北西部にあり、城館広場と周辺の水堀を合わせると、市街中核部の 1/4 を占めると云う広大なものだ。
やはり町一番の観光スポットだけに、ガイド時間になると20人ほどの観光客が集合した。入場券は1名Euro6X2=12、それにカメラ使用を申告し代金Euro5を払う。ガイドは11時から12時までの1時間で、年輩の女性の丁寧な案内で始まった。
写真はリッペ侯国のデトモルト宮殿:正面 -
宮殿前で写真を撮っていた方、偶々プロらしき人がいて、二人を撮ってもらったのだが・・・。
ここはガイド案内で見物となる。
(4月~10月の開館時間は月~日10時から17時、但し、月~木は13時から14時の食事休みがある。ガイド付きは10時から1時間ごとに17時まで45分間、大人1名Euro6)
写真はデトモルト宮殿:正面をバックに。 -
デトモルト宮殿広場の記念碑が目に入った時、彼女は何者?と思ったものです。
彼女の名はPauline Christine Wilhelmine zur Lippeパウリーネ・クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・リッペ(Prinzessin von Anhalt-Bernburgアンハルト・ベルンブルク侯国の王女・・・ベルンブルクはマグデブルクの南40kmに位置する)と言い、Fuerst Leopold Iレオポルト1世との結婚により1796年からリッペ侯妃となる。
写真はデトモルト宮殿広場のパウリーネリッペ侯妃の記念碑 -
この城館は中世の塔を中心に、1550年から1557年に建造されたルネサンス様式のファサードを持つ 4つの翼棟が接続している。
城館の中庭には4つの階段塔と紋章石(階段塔の間、ファザードの中央)が掲げられた古典主義様式のアーチ回廊がある。
写真はデトモルト宮殿:城館の中庭には4つの階段塔の二つ・・・こちらはガイド案内が始まり、右手の階段塔を登る。2階中央の窓は帰り際に額縁風に撮った宮殿反対側を撮った場所。 -
<デトモルト宮殿の歴史>
8世紀もしくは9世紀あたりにパーダーボルンの司教によってこの土地は開かれた。
1200年頃、BernhardⅢベルンハルト3世によってデトモルトの町が形成されようとしていたが、1263年にはこの地は放棄される。城の塔の西の部分は14世紀ごろ(1366年にSimonⅢジーモン3世がデトモルトに住むようになったことから推測される)に築かれる。
1447年、デトモルト城はケルン大司教のボヘミアの傭兵による略奪に遭う。城は壁を高く、また厚くすることで要塞となり、ここにリッペ家のベルンハルト7世が住むようになる。
1550年ベルンハルト8世は城をルネサンス様式に建て替えた。
ベルンハルト8世はパーダーボルンのSchloss Neuhausノイハウス城(2014年5月21日に訪れた城で、反ヒトラーで知られるシュタウフェンベルク大佐に協力したゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟はこの地に縁があり、兄弟の碑があった)を建てながら、さらに4つの城を手がけ、そのノウハウをこの城につぎ込んだ。
この城館は中世の塔を中心に、1550年から1557年に建造されたルネサンス様式のファサードを持つ 4つの翼棟が接続している。城館の中庭には4つの階段塔と紋章石が掲げられた古典主義様式のアーチ回廊がある。
8枚の大きなタペストリー、ヴェネツィアン・グラスのシャンデリア、狩猟道具のコレクションを収めた王の部屋を含む西翼は17世紀に建設された。
写真はデトモルト宮殿:城館の中庭には4つの階段塔の残る二つ・・・ガイドさんと入って来た入口を見返る。 -
1715年にはFriedrich Adolf zur Lippe-Detmoldアドルフ・フリードリヒ伯が城をバロック様式の宮殿に改装した。
城館広場は長く延びた翼棟と隅櫓で囲まれており、馬車置き場、厩舎、馬場として利用された。
城館前の噴水のある泉は1898年に建造されている。かつての馬場は1950年代に市立ホールに建て替えられた。
写真はデトモルト宮殿:城館の中庭にある紋章石(階段塔の間、ファザードの中央)
<Fuerstentum Lippeリッペ侯国>
リッペ侯国はドイツの領邦国家。リッペ侯国となる領邦の元祖はリッペ領主 (Herren zur Lippe)のベルンハルト1世(1123年~1158年)である。
SimonVジーモン5世 (1511年~ 1536年)が1536年にGrafen zur Lippeリッペ伯爵に昇格。Grafen zur Lippe-Detmoldリッペ・デトモルト伯にはジーモン6世が1613年から。
1789年にレオポルト1世の時にFuersten zur Lippe-Detmoldリッペ・デトモルト侯国に昇格し、1870年、侯国はドイツ帝国の構成国になる。
1905年にレオポルト4世の時にFuerst von Lippeリッペ侯国となった。
1918年にナチスの「Drittes Reich第三帝国」下でリッペ侯国は廃止され、レオポルト4世はリッペ侯国の最後の統治者(在位1905年~1918年)となった。 -
【Fuerstliches Residenzschloss Detmoldリッペ侯デトモルト宮殿の見学メモ】
①Roter Salon赤のサロン
北東の階段塔を上がった2階にある、素敵な赤のサロンは現在、市民の結婚式に使用することができるらしいから時代の変遷を感じさせるものだ。
赤のサロンは1882年に2つの古い部屋を纏めたもので、謁見の間としても使用された。1710年頃に制作された見事なスタッコ(化粧しっくい)が天井を飾っている。
壁の各所にはリッペ侯家族の肖像画(Leopold IVレオポルト4世・・・リッペ侯家最後の統治者を中心に最初の妻Berthaベルタ妃(左手)、再婚したAnnaアンナ妃(右手に)が架けられ、最後の支配者を懐かしむように見える。
写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・レオポルト4世を中心にした肖像画 -
最後のリッペ侯レオポルト4世(1871年~1949年)はドイツ革命中の1918年11月12日、リッペ侯国人民・兵士評議会の圧力により、退位を余儀なくされた。
写真はデトモルト宮殿:リッペ侯家最後の統治者Leopold IVレオポルト4世の最初の妻Bertha von Hessen-Philippsthal (1871-1919年)ベルタ・ヘッセン・フィリップスタール妃(1874年)・・・ヘッセン・カッセル方伯の分家の一つ -
写真はデトモルト宮殿:Leopold III. zur Lippeレオポルト3世
1875年夏、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が「トイトブルクの森のヘルマン記念碑」の除幕式を執り行ったが、レオポルト3世は記念碑の建立を推進した人物の1人だった。 -
天井には2つのイタリア・VeneziaヴェネツィアのMuranoムラーノ・ガラスのシャンデリアが輝き、
写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロンを飾るムラーノ・ガラスのシャンデリア -
古代のローマ神話上の人物(酒の神Bacchusバッカス、愛と美の女神Venusヴィーナス、太陽神Apolloアポロなど)を描いた絵画(宮廷画家Hans Hinrich Rundtハンス・ヒンリッヒ・ルント作)も見られる。
写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・ローマ神話上の人物 -
室内にはオランダ・デルフト焼きの暖炉や燭台、特に素晴らしいのが磁器に描かれた小さなメダリオン(肖像画などをレリーフした円形)が丸く並ぶフランスの小さな観賞用テーブルである。
写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・オランダ・デルフト焼きの暖炉 -
写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・燭台や陶磁器類
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写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・燭台
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写真はデトモルト宮殿:Roter Salon赤のサロン・磁器に描かれた小さなメダリオン(肖像画などをレリーフした円形)
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イチオシ
②Ahnensaal祖先の大広間
デトモルト宮殿で最大の祖先の大広間はGraf Friedrich Adolfフリードリヒ・アドルフ伯によって18世紀に建設された。その後、1882年にミュンヘンの建築家Lorenz Gedonローレンツ・ゲドンにより新たにルネッサンス様式で改装された。
シャンデリアは最初から電灯用に設置されていたが、当時は夕方には別の発電所を動かさなければならなかった程度のものだったと云う。
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間と代々の肖像画 -
高さ5m、幅2.50mの暖炉は上部にスイス・インスブルックの「Goldenen Dachls金色の小屋根」の模したレプリカが載っているのも珍しい。
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・金色の小屋根がある暖炉 -
此処の特徴的なのは壁に代々のリッペ領主(貴族)・伯爵・リッペ侯爵と領主夫人・伯妃・侯妃の肖像画が見事な形で掲示されていることだ。
このような形で完ぺきに作られ、残されているのを見たのは初めてである。
これを見るだけで、宮殿を訪れた価値があると思った。
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間にある肖像画 -
肖像画はWoldemar zur Lippeウォルデマール(1895年死去)と Sophie von Baden妻ゾフィー・バーデンで終わっているが、前述したように最後のリッペ侯Leopold IVレオポルト4世の肖像画は侯妃と共に赤のサロンにある。
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画 -
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画
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写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間拡大・リッペ領主と妃の肖像画
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写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画
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イチオシ
代々のリッペ領主と妃の肖像画:(中央上下)レオポルト3世とエリザベート妃、(右上下)ウォルデマール侯とゾフィー妃
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画 -
イチオシ
代々のリッペ領主と妃の肖像画:(右上下)レオポルト1世とパウリーネ妃、
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画 -
写真はデトモルト宮殿:Ahnensaal祖先の大広間・リッペ領主と妃の肖像画
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③Elisabethsaalエリザベートの広間
Fuerstin Elisabethリッペ侯妃エリザベート(Leopold III.zur Lippeリッペ侯レオポルト3世・在位1851年~1875年の妻)に因んで名付けられた後期バロック様式の客室である。
後期バロック様式(18世紀頃)部屋ではあるが、Elisabeth von Schwarzburg・Rudolstadtエリザベート・シュヴァルツブルク・ルードルシュタットの広間は1905年になって初めて完成したものである。
この部屋にあるエリザベート侯妃(1833年~1896年)の大きな肖像画(1853年)は有名なバイエルンの宮廷画家Joseph Karl Stielerジョセフ・カール・スティーラー(1781年~1851年)によって描かれたもので、彼はこの部屋で他の家族の肖像画もいくつか描いたと云う。
写真はデトモルト宮殿:リッペ侯妃エリザベートの大きな肖像画
美形であった侯妃エリザベートは立派な絵によって、後世に残り、部屋の名を与えられましたが、その事績については調べてもよく分かりませんでした。 -
また、エリザベート侯妃の肖像画の向かいには、Karl Christian Kehrerカール・クリスチャン・ケーラーが1790年頃に描いたFuerstin Paulineリッペ侯妃パウリーネ(1769年~1820年、Fuerst Leopold Iレオポルト1世の妻)の肖像画が飾られている。
写真は写真はデトモルト宮殿:Pauline_zur_Lippeリッペ侯妃パウリーネ
エリザベート侯妃に比べて、リッペ侯妃パウリーネは多くの事績が残り、とりわけ幼い息子の摂政として、20年近くの間、リッペ侯国を支えた治世を行っている。リッペ侯国の歴史の中で幸せな一時代と考えられていると云う。
二人の絵を同室に掲げた意図は分かりませんが、背景を知ると面白い。 -
<リッペ侯妃パウリーネの事績について>
既述したように最初、デトモルト宮殿広場の記念碑が目に入った時、彼女は何者?と思ったものです。
彼女の名はPauline Christine Wilhelmine zur Lippeパウリーネ・クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ・リッペ(Prinzessin von Anhalt-Bernburgアンハルト・ベルンブルク侯国の王女・・・ベルンブルクはマグデブルクの南40kmに位置する)と言い、Fuerst Leopold Iレオポルト1世との結婚により1796年からリッペ侯妃となる。
1802年4月4日、夫レオポルド1世が亡くなった時、息子のPaul Alexander Leopold II.パウル・アレクサンダー・レオポルト2世がまだ6歳であったので、侯妃パウリーネは摂政として、侯国の治世を行った。
彼女の治世は亡くなる1820年まで20年近く続き、リッペ侯国の歴史の中で幸せな一時代と考えられている。
ナポレオン時代、このリッペ侯妃パウリーネは政治家を通じてリッペ侯国の独立を救った。さらにドイツで最初のKindergarten幼稚園を創設(1802年)するなど、様々な社会政策を実行に移した。
これらの事績で侯妃パウリーネの事は人々の記憶に残り、デトモルト宮殿広場やBad Meinbergバート・マインベルクに記念碑や記念像が建てられている。
啓蒙主義の時代(17世紀後半から18世紀)のリッペの学制は模範的な基礎学校制度として広く知られていた。リッペ侯妃パウリーネは優秀な協力者の助力を得て、一般的な市民教育の向上および困窮者、病人、孤児、老人たちの生活環境改善に努めた。
彼女の主導下で、デトモルトに養護施設、孤児院、病院、失業者のための授産所といった一連の教育的社会施設が設けられた。
1802年、デトモルトにドイツ初の幼稚園が創られた。この幼稚園は1856年に「パウリーネンアンシュタルト」の名を与えられ、現在も存続している。
また、パウリーネ侯妃は1908年、 デトモルトの町に26基のオイルランプを用いた街灯を設置した。
・・・・・
写真はデトモルト宮殿:Bad Meinbergバート・マインベルクの記念像リッペ侯妃パウリーネ -
写真はデトモルト宮殿:美しい模様の机
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ロイヤルプロイセン磁器窯KPMベルリン制作の大きな鏡は1912年の火災の後にLeopold IV.レオポルド4世が再建したHoftheater宮廷劇場用のものでしたが、1919年までに完成しなかったので、大鏡はデトモルト宮殿に置かれたと云われている。
写真はデトモルト宮殿:華やかな磁器 -
エリザベートの広間は華やかな磁器の愛好家にとっては嬉しい広間で、様々な名窯の作品が見られる。
写真はデトモルト宮殿:華やかな磁器 -
④Empirezimmerナポレオン帝国様式の間
この部屋は夫のレオポルド1世(1767年~1802年)のために、侯妃パウリーネによってナポレオン帝国様式で装飾されている。
右上にリッペ侯国レオポルド1世と侯妃パウリーネ一家の肖像画が見られる。
写真はデトモルト宮殿:ナポレオン帝国様式で装飾された部屋 -
右下にKlavichordクラヴィコード(長方形の箱形の鍵盤楽器)が見られる。
折りたたみ可能なKlavichordクラヴィコード(当時、貴族階級に好まれたもので、長方形の箱形の鍵盤楽器をテーブルや専用の台などの上に置いて用いる)が置かれていて、開くと小さな劇場のステージとなる。
ここには侯妃パウリーネがフランスのナポレオン皇帝の妻Josephineジョセフィーヌ皇后から贈られたパリ製のティーセットと一緒に、テーブル型ショーケースが置かれている。ナポレオン時代に侯妃パウリーネがどう活動したのかが分かるような品があり、部屋の名の意味も理解できた。
写真はデトモルト宮殿:ナポレオン帝国様式で装飾された部屋 -
写真は参考に:折りたたみ可能なKlavichordクラヴィコード(長方形の箱形の鍵盤楽器)
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隣接する寝室にはベッドがあり、150年前のベッドは如何に短かったか、そして当時の人々がどれほど小さかったかに驚嘆する。
写真はデトモルト宮殿:隣接する寝室 -
⑤Kleines Gobelinzimmerゴブラン織り(タペストリー)が飾られた小部屋
カイザーの浴室Badezimmer(Kaiserbad)の入口とゴブラン織り(タペストリー)が飾られた小部屋に二つの大きなゴブラン織り(タペストリー)が壁を覆っている。
このゴブラン織りは1707年にAlexander Baertアレクサンダー・バートのアムステルダム工場で作られたもので、フランドルの画家Rubensルーベンスが描いたDecius Musデキウス・ムス(紀元前340年のローマ帝国執政官)の歴史絵画を基にした場面である。
写真はデトモルト宮殿:ゴブラン織りが飾られた小部屋 -
⑥Jagdzimmerリッペ侯の狩りの間
リッペ侯の狩りの間は西翼の端にある部屋で、17~19世紀の様々な狩猟の獲物と狩猟用の武器コレクションが展示されていた。
写真はデトモルト宮殿:リッペ侯の狩りの間 -
部屋の油絵は1945年に放火の火事で罹災されたデトモルトのJagdschloss Lopshorn旧狩猟の館ロプスホルンを描いたもので、トイトブルクの森の南斜面にあるAugustdorfアウグストドルフの東に位置した狩猟の館ロプスホルンはリッペ侯が夏の別荘としてしばしば使用されたと云う。
写真はデトモルト宮殿:リッペ侯の狩りの間 -
1945年6月11日、ロプスホルンは放火によって罹災し、館跡は時間の経過とともに荒廃し、今日では以前の様子はほとんど見られない。
写真はリッペ侯が夏の別荘としてしばしば使用されたJagdschloss Lopshorn旧狩猟の館ロプスホルン -
近くにはSenner Pferdeゼンネの馬が飼育されていた牧場があるそうです。
写真はSenner Pferdeゼンネの馬 -
⑦Kleiner und grosser Koenigssaal大小の王の広間
この部屋は1711年にFriedrich I. von Preussenプロイセン王フリードリヒ1世がデトモルト宮殿を訪れて以来、王の間という名を付けたそうだ。
写真はデトモルト宮殿:Koenigssaal王の広間を飾るゴブラン織り -
イチオシ
大小両方の広間は1710年頃にGraf Friedrich Adolfフリードリヒ・アドルフ伯爵によって造られた。二つの広間は謁見の間として、あるいは祝典の間に使用された。
後にリッペ侯が他国を訪問中には一番の格のある客室として利用された。
プロイセン王フリードリヒ1世のほか、Kaiser Wilhelm I.ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、Kaiser Wilhelm II.ヴィルヘルム2世、Koenig Friedrich August II. von Sachsenザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世といった名だたる方々が滞在したそうです。
写真はデトモルト宮殿:Koenigssaal王の広間を飾るゴブラン織り -
イチオシ
ここと隣接する部屋には8つのゴブラン織りが見られる。
フランス王ルイ14世の宮廷画家Charles Le Brun シャルル・ル・ブラン(1619年~1690年:17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えたと云う)が描いたアレクサンダー大王の事績に関する一連の絵画のゴブラン織りです。
これらはJohann Franziskus van den Heckeヨハン・フランツィスク・ファン・デン・ヘッケのブリュッセル工場で1675年頃に織られた。
これらの壁掛けはこの時代で最も美しく、最も良く保存されたシリーズの一つです。大きい王の広間にある壁掛けは「アレクサンダー大王のバビロンの勝利」を描いたもので、縦405cmx横746cm と最大の壁掛けと云える。
写真はデトモルト宮殿:壁掛けは「アレクサンダー大王のバビロンの勝利」 -
その他、バロックのSpieltischenゲームテーブルとSpiegelkonsoleミラーコンソールには大きな中国の花瓶がある。
写真はデトモルト宮殿:バロックのSpieltischenゲームテーブル -
写真はデトモルト宮殿:Spiegelkonsoleミラーコンソールには大きな中国の花瓶
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⑧Fahnenzimmer旗の間(フラッグルーム)
この部屋には1651年の最も古いリッペの旗が立っている。因みに部屋の名前は19世紀にリッペの旗の保管をしていたことに起因すると云う。
フランスのロココ風ゴブラン織りのほかに、Perserkoenig Dariusペルシャ王ダリウスに対するSchlacht bei Arbelaアルベラの戦いでアレクサンダー大王が勝利した場面の壁掛けもあります。
写真はデトモルト宮殿:右に最も古いリッペの旗、左にアレクサンダー大王のアルベラの戦いを描いたゴブラン織り -
部屋の左に写真の左手、暖炉の上の肖像画は、デトモルト宮殿をバックに若い頃のGraf Simon Henrichジーモン・ヘンリッヒ伯爵(1649年~1697年)を描いています。
私の写真の目線はそれより右を写してしまったけど、一応説明を入れ、写真を借用して取り換えた。
写真はデトモルト宮殿:旗の間(フラッグルーム)・暖炉の上の肖像画 -
写真はデトモルト宮殿:中庭を見下し、額縁風に撮った宮殿反対側
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写真はデトモルト宮殿:古マイセン磁器
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⑨Saalgang広間の通路(廊下)
広間を行き来する通路(廊下)には1730年の豪華なボヘミアンガラスのシャンデリアや、リッペ侯家の人達の肖像画、19世紀初頭のJoshua Seddonジョシュア・セドンによる豊かな装飾が施されたイギリス時計があります。
Wandvitrinen壁の表示ケースには古マイセン磁器と、kunstvoll geschnittene Glaspokale芸術性豊かなカットガラスのカップを見ることができます。華やかなKristall-Kronleuchterクリスタルシャンデリアは18世紀初頭のボヘミアの作品です。
写真はSaalgang広間の通路(廊下) -
中庭側、ナポレオン帝国様式の間の隣に、有名な歴史上の人物が数多く見られる廊下がある。
ロシアのZar Peter der Grosseピョートル大帝1世(ピョートル1世は初代ロシア皇帝で、大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝と称される)は当時のリッペ伯フリードリヒ・アドルフ(1667年~1718年)と数回会ったと云う。
このロシアの支配者はデトモルト宮殿のHoftheater宮廷劇場で数年間働いたAlbert Lortzingアルベルト・ロルツィング(1801年~1851年、ドイツ人作曲家)作曲のOperオペラ「Zar und Zimmermannツァーリ・ウント・ツィンマーマン(ロシア皇帝と船大工:1837年12月22日ライプツィヒにて初演)」のモデルでした。
このオペラはピョートル大帝がロシア経済の発展を意図し、第一級の知識や技術を獲得するために、職人に身をやつしてドイツやオランダ、イギリスを渡り歩いたという逸話に基づいている。今なおドイツ圏では強い人気を誇る作品だとか。
写真はデトモルト宮殿:ロシアのZar Peter der Grosseピョートル大帝1世の1838年の肖像画 -
イチオシ
写真はデトモルト宮殿:堀で見た
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写真はデトモルト宮殿:周囲は水堀
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<旧市街と木組みの家並み>
12:20~12:50
歴史的旧市街は直径約 550 m の円形でとなっており、その中心がマルクト広場である。
旧市街の南と東はBruchmauerブルーフマウアー通り、Augustアウグスト通り、Adolfアドルフ通り、Karlカール通りをその境界としており、旧市壁の断片の遺構を今も見ることができる。旧市街の北と西はRosentalローゼンタールとAmeideアマイデである。
写真はデトモルト旧市街:市庁舎とマルクト広場
①Rathaus市庁舎:
町の中心はマルクト広場であり、その北面がマルクト広場に向いている市庁舎でもある。この建物は1828年から1630年に建設された古典主義建築で、あまり見たことが無い特徴をしている。建物の中央が砂岩製の古代ギリシャのドーリア式柱廊をもっていることであり、2連の外階段(この下にトイレが常備されていた)がある事だ。
3階建ての庁舎の色彩自体はくすんでしまった朱色、広場に屋台が並ぶ時間だったせいで、パッとしない印象だった。
伝統的な市は毎週3回(火、木、土)にマルクト広場で開かれる。インフォーメーションもあり、ここで絵葉書5枚@0.5=Euro2.5を買った。 -
②Marktkircheマルクト教会:
救世主教会とも称するマルクト教会は後期ゴシック様式の教会建築である。
この教会は1547年に大火で壊滅したが、後に市の中心部に再建された。教会塔の建設に着手し、完成したのは1564年であった。
1596年頃に 2人の塔守が置かれた。塔守は火事番として塔に住んだと云う。
③Donopbrunnenドノープの泉:
Donopドノープ家の寄進で1902年に作られたものだが、Berlebeckeベルレベッケ川(デトモルトを流れる12 km、Wereベレに合流=>Weserヴェーザー川の支流)をニンフ(ニュンペー:妖精・精霊)として表現したものである。
ニンフは庭園や牧場に花を咲かせ、家畜を見張り、狩りの獲物を提供し、守護する泉の水を飲む者に予言の力を授け、病を治すなど、恩寵を与える神として崇拝の対象となった。
教会をバックに撮った写真は逆光で銅像の顔がよく見えない。
花かんむりを付けたニンフ、小鹿や子羊などの小動物をニンフの周辺にはべらした姿のようだが、失敗だった。
写真はデトモルト旧市街:マルクト教会とドノープの泉 -
旧市街内には約 350 棟の歴史的建造物があり、その一部は良好な保存状態にある。
特に木組みの家並みはLangenランゲン通り、Krummeクルンメ通り、Meierマイアー通りに多く遺されている。
だが、宮殿見物で時間を費やし、とても旧市街中の建物を見て回れなかった。
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:アドルフ通りの小さな横丁 -
④Fachwerkehaeuser木組みの家並み・Adolfstrasseアドルフ通り=>Meierstrasseマイアー通り=>Krummeクルンメ通り=>Langenランゲン通り:
木組みの家並みを見ようと、最初にアドルフ通りの小さな横丁に行ってみた。市城壁傍に17世紀後半頃建てられたという木組みの家が8軒、長屋のように繋がって並んでいたが、特に興味をかきたてるものではなかった。
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:アドルフ通りの小さな横丁を逆方向から撮る。 -
インフォーメーションでもらった町の小冊子にはアドルフ通りとクルンメ通り(16~17世紀)木組みの家並みの絵があったが、街歩きしても一部にヴェーザールネサンス様式の複雑な木組み建築(クルンメ通り40、42番地)があったが、小冊子から察するに思うほどの木組みの家並みはないようだ。
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み: -
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:
-
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:
-
<(お茶):マルクト広場傍ランゲン通りのパン屋で>
12:50~13:20
HeissgetraenkeココアEuro2X2=4、Apfel-Creme-PlunderアップルクリームパイEuro1.1、Berlinerベルリーナ・パン Euro0.7で
合計Euro6、安くてありがたい。
軽食とトイレタイムに入ったパン屋さんは様々なパン類と飲み物がある。
汗をかきながら、ココアを飲んでいると、隣に座っていた66歳のドイツ人の奥さんが、突然私共に「ご旅行ですか?」と声をかけてきた。
親し気に「私の息子(地質学者)が日本の京都大学で勉強を続けている。お嫁さんは日本人で男の孫(2~3歳)がいる」と、ご家族の写真もスマホで見せてもらった。道理で私共の日本語が彼女の耳に入ったはずだ。
来年10月には金婚式というので、私共は今月金婚式を迎えたとか、古城ホテル ブロムベルク城に2泊していると言うと、「あそこも一時赤字で大変だったけど、今は良好のようだ」と、かつて会計・税務の仕事であのホテルを担当した事があるそうでした。今もあの町に住んでいるのだと言うので、話も盛り上がった。
11月には息子さん一家に会いに訪日予定だと言っていた。残念ながら、まだ先に進まねばならないからと、名前もお互いに名乗らずに御別れしたが、日本人のお嫁さんがとても気に入られている様子にホッとしたものだ。
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み: -
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:
-
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:Krumme Strasseクルンメシュトラーセ通り 40番地、42番地のヴェーザールネサンス様式の複雑な木組み建築
-
参考:LWL-Freilichtmuseum Detmoldヴェストファーレン野外博物館
ヴェストファーレン野外博物館は、90 ha の敷地に約 100棟の歴史的建造物が建つ、この種のものとしてはドイツ最大の博物館である。この野外博物館は、かつて侯爵の動物園だった場所に 1966年に開園し、毎年 4月1日から 10月30日までの開園期間中に年間平均 25万人が訪れる。建物は、オリジナルに忠実に再建された歴史的な建物、たとえば農家、手工業者の家、旅館、村の学校などであり、完全に時代考証された調度品や典型的な庭を備えている。
尚、野外博物館については、先にニーダーザクセン州の代表的なMuseumsdorf Cloppenburg博物館村(野外博物館)を見てきた。
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み: -
イチオシ
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:
-
写真はデトモルト旧市街の木組みの家並み:Langenランゲン通り32番地
・・・・・・・・・
次の町は24 km先になる Schiederシーダー・Schwalenbergシュヴァーレンベルクだが、ここでは第一番に町の上、丘の上に立っているBurg Schwalenbergシュヴァーレンベルク城に行ってみたかった。
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